今回の騒動において、展示者側からの配慮がそこまで欠けていたとは私は思わない(とりわけ騒動が起こったあとでは、ボランティアやアーティストたちが、展示再開に向けてさまざまな対話の努力をしていた)。
今回の騒動を加熱させていたのは、芸術の評価軸を採用しない批判、つまり、芸術を芸術として見ようとしない者たちからの批判である。芸術として提示されたものを芸術として見る者たちと、見ない者たち。あいちトリエンナーレがつきつけたのは、この合間を本来埋めるべきであるはずの相互尊重が思いのほか断絶されていた、という点である。
この現実が可視化されたことは、ある意味では良かったのかもしれない。だが憂慮すべき点もある。今回の騒動を機に、学生たちの意見をさまざまな場で聞いてみたところ、少なくない若者たち、とりわけ美大に通うようなアーティスト志望の若者たちが「このような時代に芸術をつくることにどういう意味があるのか」という不安に陥っていたのだ。表現者たちが余計な懸念に囚われ、自由で思い切った表現、観客を信頼した複雑な表現を出しづらくなってしまった今の状況を、私は素直に喜ぶことはできない。
今回のように誤解や悪意ある解釈が広まったとき、作家やキュレーターに自己弁明的対応を求めるのもひとつの手だが、すべての対応を作家側に求めるのはあまり良策ではない。こうした揉め事のさいに作家が下手に発言や声明を出すと、解釈に方向性が出てしまい、豊かな読みが妨げられてしまう。ふだん公の場に姿を見せない作家や、作品の見方をできるだけ開いておきたい作家も、こうした揉め事の中で余計な色を出したくはないだろう。
よって重要なのは、まわりの人々、つまりは一般の鑑賞者のわれわれが、不適切な作品解釈に対してはっきりNOを突きつけることだ。「解釈は自由」とか「芸術は好きに見ていい」とか言っていてはダメなのだ。悪意ある不適切な解釈はしっかりと批判し、丁寧な説明によって誠実につぶしていかねばならない。こうした揉め事のときには、鑑賞者たる我々が、文化を支えていかなければならないのである。
意見の多様性はそれだけでは価値がない。重要なのは、多様な意見から議論や検討が起こり、より豊かで、より強靭な考え方につながることだ。そのためのきっかけを作ることは、現代芸術に求められる役割の一つですらある。反論があれば、論争すればいい。適切な論争は文化の成熟にとって必要なことだ。恐れるべきは、「芸術の自由」というお題目の下に批判を避ける空気がはびこり、ただ声の大きい主張と、根拠不透明な権力行使が跋扈する状態である。