朝の通勤途中で、たまに会うおばあさんがいる。
おばあさんと言っても、頭の中に描くイメージは人それぞれだろう。
わたしなら八千草薫さんが浮かんでくるが、人によっては野際陽子さんかもしれないし、樹木希林さんかもしれない。
わたしが会うこのおばあさんは、泉ピン子の特盛みてえな顔をしている。泉ピンピンピン子だ。君のピンピンピン子から僕は君を探し始めるわけないじゃないか。えなり君ならきっとそう言う。
お互いに赤の他人だから、会話を交わすどころか会釈すらしたことがない。
そのおばあさんがゴミを出すために外に出てくる。
そのタイミングでわたしがたまに通りかかる。
会うといってもその程度だ。出来事と呼ぶにはあまりに些細な日常のひとコマに過ぎない。
そんな日常の均衡が崩されたのは、3ヶ月ほど前のことだ。
それはおばあさんの一言から始まった。
「今日は雨、降りますか?」
最初は何を言っているのか聞き取れなかった。
だが、おばあさんがわたしに話しかけてきたであろう事は認識できた。
だからわたしは歩みを止めておばあさんに言った。
「はい?」
「今日は雨、降りますかね?」
いや、降らない。たぶん降らないんだ。天気予報を見てきたから知ってる。だからわたしも傘を持っていなかった。
ただ、あまりに意表を突く問いかけだったので、うまく二の句が繋げなかった。
「雨……ですか?」
「うん。病院に行きたいんだけどね」
決して人通りの少ないとは言えないこの道で、なぜわたしを選んで声をかけてきたのか。
それはきっと、わたしの体中からとめどなく溢れ出るテンダーオーラの為せるワザだったのだろうと推測は出来る。
ではなぜわたしに天気を聞こうと思ったのか。そこが解せない。
あらかじめお断りしておくが、わたしは今までに石原良純に似ていると言われた事は、ただの一度もないのだ。
かつては渡辺二郎に似てるとか。
一時期は世界のナベアツとか言われたり。
最近では小澤征悦にクリソツだと評されている。
わたしは口ヒゲを生やしているので、それ全員ヒゲという共通点だけで似てるとか言ってねえかという疑惑も湧いてきた。
そう思ったので、ヒゲを剃った時の写真を知人に見せたら賀来賢人と言われて「大当たりじゃん!」とホクホクしていたのもつかの間、昨日奥さんにラグビー日本代表の稲垣啓太選手に似てると言われたので賀来賢人のセーブデータが上書き保存されてしまった。
そういうわけで、わたしは良純には似ていない。
似ていないので、見ず知らずのおばあさんに天気を聞かれる理由も解せない。
だが、とにかくこのおばあさんは天気が知りたいだけらしい。
そんなおばあさんの願いを無下にするほど、わたしは無慈悲ではない。
だからこう答えた。
「今日は雨、降らないはずですよ」
おばあさんが笑った。
鬼瓦みたいな笑顔だったけど、それを見てわたしは少し嬉しい気持ちになった。
それからおばあさんは、わたしに会うたびにその日の天気を尋ねてくるようになった。
雨が降っていない時は、雨が降るかどうか。
既に雨が降っている時は、この雨が止むのかどうか。
おばあさんは、わたしが「雨は降らない」「雨は止む」と言えば笑い、「雨は降る」「雨は止まない」と言うと、心の底から困ったような顔をした。
そんな風に困った顔をされると、わたしも困ってしまう。
わたしは良純ではないから、雨を晴れに変える事は出来ないのだ。
あぁ。わたしに『天気の子』のように、雨を晴天にする能力があれば。
そうすればいつもこのおばあさんを笑顔にすることが出来るのに。
わたしは自分の無力さを呪った。
というようなところまで思い詰めてはいないが、そんなような事を何となく思ったのは確かだ。
だが、最近わたしはこのおばあさんに会っていない。
会わなくなってもう1ヶ月は経つだろう。
わたしが家を出る時間は毎日ほぼ同じなので、おばあさん側に何か変化があったと考えざるを得ない。
きっと引っ越してしまったのだろう。
もっと病院に近い場所に部屋を借りたとか。
優しい息子さん夫婦のところに同居することになったとか。
あるいは高額の宝くじが当たってオーストラリアに移住したとか。
きっとそんなところだ。
そうであって欲しい。
頼む。そうであってくれ。
こうしておばあさんとわたしの逢瀬は、あっけなく終わりを告げた。
おばあさんとわたしの間で、天気の話をする以上のコミュニケーションには発展しなかった。
わたしがおばあさんに天気を聞かれたのは、10回もなかったと思う。
でも毎回天気を教えてあげていたのだから、たまにはお菓子や飴ちゃんの一つなどをくれてもバチは当たらなかっただろう。
でもしるこサンドや黒飴とか、おばあさんイズム溢れるスイーツをもらってもリンダ困っちゃうのでそれは別にいい。
ただ、出来ることならもう少しだけ、おばあさんにとっての『天気の子』でいたかった。
そんな事を思いながら、わたしは今日もこの道を通る。
もう会えないであろうおばあさんの姿を探して。
もしかするとわたしは、前前前世から泉ピンピンピン子を探し始めていたのかもしれない。
「そんなわけないじゃないか」
えなり君ならきっとそう言う。