立川志らくは「メッタ斬り」しているのか

今回の「ワダアキ考」で取り上げるのは、TBSの新しい朝の顔として新番組『グッとラック!』の司会に就任した立川志らくです。しかし、持ち味とされていた切れ味鋭いコメントがほとんどなく、視聴率も1%台と低迷しています。立川志らくの切れ味鋭いコメントとはなんだったのか、武田砂鉄さんが分析します。

「個性」ではなく「暴力」

神戸市立東須磨小学校で20代の男性教師が4人の教師から繰り返し暴行を受けていた事件について、梅沢富美男が「いじめられたって言ってるけど、あいつも男なんだろ。さっさとやり返せばいいじゃねぇかよ。何で黙ってなきゃいけないんだよ」(TOKYO MX『バラいろダンディ』10日)と発言した。梅沢の、「ブツクサ言わないで一発解決に持ち込んじゃう正直な意見を物怖じせずに言えるオレ」というプレゼンテーションを浴びて久しいが、その粗雑な意見の精度がいつになったら上がるのだろうと、少々の寛容さで待ち構えていたら、一向に改善しない。自分の視野の狭さを恥じらわずに、どんなことが起きても自分の視野に無理やりねじ込む腕力ばかりが増していき、それをテレビ局が「個性」として重宝している。だが、先の発言に見られるように、それは「個性」ではなく、端的に「暴力」である。

自分の経験や立場に引き寄せて、私はこう思いますと断言し、「私はこう思っているんです。そうですか。はぁ、あなたがどう思っているかなんてのは知りませんけどもね。私はこう思っているんですから」と繰り返すのは、議論として、姑息である。たとえば、一番おいしいおにぎりの具について議論する場面で、「私は明太子だと思っています。あなたは鮭ですか。そうですか、でも私は誰がなんと言おうと明太子ですね」で終わらせる人がいたら、ずっと一緒にはいられないと思う。しかし、テレビ番組に鎮座している「正直な意見を物怖じせずに言えると思っている」系の年長者には、こういった人が多い。番組を作る人たちは助かる。なぜって、この人は絶対「明太子」と言い続けると分かっているからだ。すばやく、対決っぽく見せることができる。

メッタ斬らなくてもいいのに

立川志らく率いる朝のワイドショー『グッとラック!』(TBS系)が始まり、2週間ほど見てみたが、改めて、この方が「私は誰がなんと言おうと明太子」的な話者であることを知る。ワイドショーって、自分の意見を柔軟にほぐしながら、周囲と意見を揉み合わせていく場所ではない。そんな時間は用意されていないからだ。これまで出演してきた『ひるおび!』(TBS系)などでは、メインの司会者から「〇〇についてどう思いますか?」と聞かれて、「私はAだと思いますよ。誰が何と言っても私はAですね」と述べてきた。「いや、それはおかしい。Bでしょ」と議論をふっかける時間がないので、その断定が「切れ味鋭い」などと評価されてきた。でもそれって、鋭いのではなく、言い切って終わった、という状態だったにすぎず、実のところ、鋭いor鈍いを判定できる状態ではなかったのである。

新番組のキャッチコピーには、「立川志らくが朝のニュースをメッタ斬り!!」とあるが、2週間見ていると、メッタ斬り感が極めて薄い。そもそも、ニュースって、メッタ斬る必然性はないわけだが、メッタ斬りを期待していた人たちは、思っていたより斬らないなぁ、と感じているはず。でも、先に説明したように、これまで彼が評価されてきた「切れ味鋭い」は、鋭かったのではなく、切って終わった状態が評価されていた、なのだと思う。

自身がメインになると、どうしても、自分の意見を起点にして、コメンテーターや隣り合うアナウンサーが膨らませていくことになる。要するに、切って終われないのだ。私はこう思いますと言った後で、「たしかにそうかも」と賛同されると「切れ味の鋭さ」らしきものが平淡になるし、「いや、私は違うと思います」と反対されると、切って終われなくなる。メッタ斬りとは遠くなる。これまでは、議論のゴール地点に登場していたのに、この番組では、議論のスタート地点から登場するから、ゴールに向かう時には、彼の鋭さがすっかり萎んでいる。

勝手に大きなものを背負うスタイル

9日の放送では、「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督を務めた津田大介と中継をつないだ。「表現の不自由展・その後」が再開されたことをうけた議論をどのように展開していくのかと注視していたら、「時間があれば(会場前で座り込みをした)河村(たかし・名古屋市)市長の横に行きたいくらい反対」と述べ、津田に対し、なぜか「津田さんには、お子さんはいらっしゃいますか?」と聞き、津田が「いないです」と答えると、「お子さんじゃなくて、たとえば自分の親、自分の子ども、それにいろんな理由をつけて、それも表現だといって、大勢の人の前でその写真を、子どもの写真を踏む、親の写真を破く、あるいは子どもの虐待の映像を見せる、これも表現の自由なんだと、そういうことをやりはじめたらば、津田さんはどう思いますか?」とぶつけた。

意味が不明だ。しかし、この手の議論は今回、散々ネットで流布していた。公的な存在である天皇の写真と、誰かの親や子どもの虐待映像を同列に置くことなどできないし、そもそも当該の作品は、そういった「踏む・破く・虐待する」という短絡的な意図で作られたものではない。作者の意図が気に食わないのならば、少なくとも、その意図を引き受けてから反論するべきだが、河村も志らくも、とにかくそれを怠る。河村は、反対する自分の気持ちが「日本人の普通の人の気持ち」と言い、志らくは「本物の表現者ならば表現の不自由なんてこと言わないんじゃないかなあ」(Twitterより)などと述べる。勝手に大きなものを背負うスタイルが、とてもよく似ている。

自分の意見で始まるのだから

その日の議論では、コメンテーターの望月優大から「仮に多数の人が展示に反対したとしても、そういう時にこそ表現の自由や、国家がそこに対してお金を出す・出さない(という判断によって)コントロールを効かせるということの問題が出てくる」と述べていた。そうやって、丁寧な議論を起こそうとする人の意見は聞こうとしない。で、番組終了後に、「表現の不自由展で素直に感じたこと。やっていいことと悪いことがあると子供の頃に親から教育を受けなかったのかなあ」とツイートした志らく。

要するに、この人は、いつだって、自分の意見で終わりたいのだ。今までは、自分の意見で終われたから、それが時に「メッタ斬り」として受け入れられてきた。皆が「おにぎりは鮭ですね」と言っているのに「いや、オレは明太子!」と言うことができた。しかし、今回の番組は「明太子ですよね!」と切り出した後で、「鮭もいいし、梅干しもいいですよね」と返される。すると、そこでは口ごもり、番組終了後に「明太子だよ!」と言うのだ。

自分の意見で終わりたいのならば、自分の意見で始まるような番組に出なければいいのにと思う。そうではなく、自分の意見で始まる番組なのだから、他人の意見を聞いたらどうか。

(イラスト:ハセガワシオリ

「ここでしか書けない」 言葉の在庫を放出した。

往復書簡 無目的な思索の応答

又吉直樹,武田砂鉄
朝日出版社
2019-03-20

この連載について

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ワダアキ考 〜テレビの中のわだかまり〜

武田砂鉄

365日四六時中休むことなく流れ続けているテレビ。あまりにも日常に入り込みすぎて、さも当たり前のようになってしったテレビの世界。でも、ふとした瞬間に感じる違和感、「これって本当に当たり前なんだっけ?」。その違和感を問いただすのが今回ス...もっと読む

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コメント

takedasatetsu 「自分の意見で終わりたいのならば、自分の意見で始まるような番組に出なければいいのにと思う。そうではなく、自分の意見で始まる番組なのだから、他人の意見を聞いたらどうか」と書きました。 https://t.co/xiylNTgkA1 約1時間前 replyretweetfavorite

tgkr 「要するに、この人は、いつだって、自分の意見で終わりたいのだ」…なるほど、腑に落ちました。 約3時間前 replyretweetfavorite

ppaypp >要するに、この人は、いつだって、自分の意見で終わりたいのだ。今までは、自分の意見で終われ… https://t.co/UlDRg7m9lm 約4時間前 replyretweetfavorite