メトロポリタン・ミュージアムの正面玄関の真上にあるバーで室内楽に耳を傾けている夢を見ていた。
天井の高い屋内に響き渡る心地のよい人声も、場違いなくらい、安っぽくておいしくないバーのシャンパンの味まで再現されているリアルな夢。
現実と異なるのはMoMAにひとりで行くことはあってもメトロポリタン美術館にひとりで行くことはなくて、いつもモニとふたりだったが、夢のなかでは、ひとりで、なんだか冷たい気持でエントランスホールの群衆を眺めている。
人間に生きる価値などないのは、少しでも洞察力があれば判り切ったことで、それでも人間ひとりひとりの命は地球よりも重いなどと安っぽい科白を述べて、人間個人が生き延びることが絶対的に重要であることにしてあるのは、そうしなければ価値の建設そのものが不可能になって、例えば誰がどう見たって人間よりは品性が高い犬たちのほうを上位に置かなければ話の筋としておかしなことになるからであるに違いない。
人間は近視であることを必要とする。
いちど東京という世にもおおきな町で、ゴールデンリトリーバーは、どうしてどいつもこいつも同じ顔をしているのだろう、と訝っている男に会った事がある。
初めは何を言っているのか判らなかったが、どうやら、この50代の男の人には、黒猫も、ブラックラブラドールも、同じ顔をしているように見えるようでした。
あるいは夏のアトランタで、オリンピックの話をしていて、突然、
なあ、ガメ、なぜ東アジア人はみんな似たような同じ顔なのだろう?とマジメにつぶやいていた人をおぼえている。
蒙古症の人間がおなじ顔の造作になるのとおなじような理屈だろうか。
東アジア人は、ひとりひとりまったく異なる顔をしているし、蒙古症のひとも、みんな違う顔をしている。
前提が誤っている、と述べると、心からびっくりしたような顔で、
差別的に聞こえないために、みなそういうが、きみとぼくとのあいだで、そんな体面にかかずらわった、ほんとうでないことを言わなくてもいいのではないか、と述べていた。
関心は距離の一種で、関心をもてば、近くからものごとを観察することになる。
無関心は、おおきな距離を生みだして、差異を見えなくする。
外銀河系からやってきた人間よりも遙かに知能が高い宇宙人、というような存在を考えると、まず間違いなく全人類がおなじに見えるはずで、名前をおぼえるどころか、ひとりひとりを区別するのに、ひどく苦労することだろう。
判りやすくするために政治の例をだすと、彼という高知能生命体にとっては、左翼も右翼もまるでおなじ主張をしているように見えるに違いない。
「力が社会のどこに偏在するかによって構造が決定される」という政治なるものそのものが、社会を運用する論理として政治よりも高次の理屈をもつ彼の頭脳からは、単純にすぎて、しかも死語に似た、「政治」という単語でひとくくりに出来る理屈にすぎないから、当然、そうなるはずである。
老人はたいてい自分の人生への失望のあまり不機嫌で短気になるものだが、なかには、奇妙なくらい世界に対して寛容な老人がいる。
このひとは死へ自分が近付いていることのほうに関心が強まってしまっているので、生者の世の中から意識が遠くに去って、善人も悪人も、ただ「生きたい」という盲目の意志に囚われた存在に見えて、区別がつかなくなってしまっている。
もう少しすると、善をもたない民族などは単にまだ未開で野蛮な状態にあるのだとしても、真善美を信じて追及してきた文明に対しても「おれとは関係がない」と感じてしかるべきである。
なぜなら、自分が無に還るのだということを知っているだけではなくて、実感しはじめているからで、自分が死にゆくものだという実感ほど、繰り返していうと「人間は死ぬものだ」という知識とは異なって、人間を人間から数百光年の遠くへ引き離してしまう認識はない。
「認識と実感では異なるのではないか」と言う人は、つまり、認識に対して過剰に希望的で、期待しすぎるのであるのかも知れない。
認識が、たかだか実感でしかないことのために人間は歴史を通じて苦しんできて、それがたしかに理性の主体として間違いなく存在しているのだと考えることで人類は人類であることに耐えてきた。
だがそれもほんとうは実感にしかすぎないことは、なんのことはない、自然の方角から人間を見れば、ほとんど自明である。
日本語ではブレーズ・パスカルの「人間は考える葦である」という言葉が随分誇大に評価されているが、人間は一義的には葦なので、ほんとうのことを言えば、その葦が考えたって、考えなくたって、どっちみち、有意な差異はない。
考える葦と考えない葦は、犬を理解できなかった男にとってのゴールデンリトリーバーの顔のように、理性の立場からは異同が判然としない違いがあるにすぎない。
人間がこしらえた全文明は「自分は無価値ではない」と主張する、人間というたかだか言語を持つによって差別化できるかどうかという程度にしか他の生物と差異を持たなかった生物の(非望の)表明にしかすぎない。
どういう因果か、人間はやっと世界が判りはじめる端緒につくらいの時点で知能の低下が始まって、そのあと間もなく死んでしまうくらいの知性の寿命しかもっていないが、その、性能も段取りもいかにも悪い言語は意地悪にも、その人間が立っている地平よりも遙かに高い、いわば解像度が高い意識がこの宇宙のどこかには存在することを感知できる程度の高みには、少数の人間はたどりつける程度には発達している。
だから人間は神をつくった。
神という言語が届かない絶対を仮定することによって言語が到達しうる領域を明示化するという魔術的な方法で宇宙を自己の言語が届く範囲よりも広範囲に説明するという曲芸を編み出した。
だが絶対を仮定した理性は、おなじ理性世界の境界と領域を遠くまで旅することによって、神を仮定せずに宇宙を説明できる地点にたどりついてしまった。
自然言語が、天候の変化によっていっせいに萎れるようにうなだれてくるのは、数学言語が、神を否定しうるところに到達したことに呼応している。
人間は、哀れにも、到頭、自分が生きる価値がない存在である事実と直面するに至った。
シャンバンのハーフボトルを2本空にして、チェロの心にしみとおる響きのなかを、人間の古代文明の光芒を調べに、廻廊をふらふらと歩いていくのは、ニューヨークにいるときの日課だった。
でも、もう、あの言葉の廻廊にもどるわけにはいかない。
神は、もう死んでしまっているのだから。
「絶対」にも、向こう側があるだろうか?
数学や哲学や自然科学について、ほとんど無知である私にも、ガメさんがここに記した内容は実感としてわかるような気がする。
ひょっとして、みんな最初から同じことを知っているんじゃないかと思う。
言語そのものに最初から毒が含まれていて、しなくてもよい諍いごとが起きたり、自分で自分を攻撃する自家中毒みたいなことになったり、言語がなければ発生しない問題が発生してしまったりするのかな?ということも最近よく考えていました。
旧約聖書に載ってる、なんかの実を食べて(リンゴだったっけ?)楽園から追放される話…あの実って言語だったんじゃないか?などと最近はよく思ってました。
そうは言っても、人間に生まれてしまった以上、人間として生きるしかなくて、私も人間より犬のほうが高貴な生き物だと思うけれど、犬になることも出来ないので、いくらかでもマシな生き物になるべく、生きるしかないのかなぁ、と思ってます。
あとね、生きてるのも死んでるのも実は同じことなのではないか、、、という感覚が時々よぎることがある。
よくわからんのだけど。
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