糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

10月14日の「今日のダーリン」

・学校にいるときは、いつでも正解を求められる。
 そして、問題があったら、ほとんどの場合正解がある。
 かなり複雑な問題であっても、難解な問題であっても、
 先生が正解を知っていて、そこにたどり着ける。

 そういう練習をたくさんしてきていると、
 世の中のたいていの問題には、
 こう答えたら正解だな、という答えが
 あるような気になりやすい。
 仮に、あなたがなにかの問題について、
 街頭インタビューを受けたとしたら、
 たぶん、「どう答えようかな?」と
 答えるべき正解を探そうとしてしまうだろう。
 ほんとはなにを言ってもいいはずなのにだ。
 放送で使われるかどうかは局が判断することなのだし。
 しかし、まちがった答えを言わないようにと、
 正解を言おうとするのではないだろうか。

 「こういうのがいちばんいい答えです」だとか、
 「これが最も利口そうで正解に近い意見です」だとか、
 ほんとは、そんな試験じゃないはずなのに、
 そんな答案を真剣に探している、みんなが。
 どうしてなのだろうか? 
 たぶん不正解を出す人になりたくないのだ。
 あるいは「わかりません」というのが恥ずかしいのだ。

 しかし、試験問題じゃないのだから、
 世の中には、これが正解と決められるような答えは、
 なかなかあるもんじゃない。
 大人の社会では、こういう立場の人ならこう考えるし、
 別の立場の人なら、当然こう思うだろうし、
 さらにこういう人は、こうしか言いようがない
 …というような状況で、折り合いをつけていくのだ。
 どれだけ他人の立場やこころを想像しようが、
 どこかでは痛みや傷もできかねないこともある。
 「こうすればいいのに」なんて簡単に正解を言えるのは
 答案用紙のなかだけだろう。
 こういう「正解社会」に巻き込まれちゃっているのは、
 むろん、ぼくも含めてのことだ。
 ふ〜〜、なんとかしたいものだなぁと思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
沈黙という答えも、もっとあるように思うのだけれどなぁ。