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エリス 作者:詩亜
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一章




1章





「ねえねえ、聞いた?」



夏休みが終わって一週間、クラスの中でも取り分け情報通(悪く言えばゴシップ好きで口が軽そう)な生徒が、両目をキラキラさせながら、面白そうにこう言った。



「中村が、夏休みに万引きで捕まったんだって!」



発信源の生徒を囲んでいた人の輪から、「えーっ!?」だとか「まじで!」だとか、何にしろ、同様に面白そうな歓声が上がった。 皆、声を潜めているつもりだが、自分の席で次の授業の教科書を机から出していた私にも、それが聞こえた。



「本当だって! 私のお兄ちゃんの友達が働いてる店でさ、化粧品盗んだって。

 しかも沢山で、全部で二万したってさ」


「化粧品て……」


「ブスには似合わないのにね!」



と、生徒の一人がわざと声のボリュームを上げて言う。 必然的に、集まっていた生徒達の視線が、話題の当事者へと向かう。


教室中央の列の、私の席の二つ前の席に座る、黒髪のポニーテール。 高校一年生にしては小柄で、およそ140前半あたりの身長だ。

小さな肩が、僅かに震えているように見えた。



教室のあちこちで、思い思いの休み時間を過ごしていた生徒らも、その姿を見る。 私も見た。


この空気には殺傷力が有りすぎた。 教室のほぼ真ん中に座る彼女は、如何せんクラスメイト達の視線を集めるのが容易い位置に居た。 教室中の人間が彼女を見詰め、彼女はそれに怯えた。



静寂の中、人の輪から一人の少女が進み出た。


少女は金髪で、しかも染めたりブリーチで色を抜いたものではない、天然物の金髪だった。 その髪と、その美貌が日本人離れした異国の雰囲気を醸していた。



「万引きしたって本当?」



気の強そうな、しっかりした声で小柄な生徒に問う。

その声に、小柄な生徒は一瞬体を緊張させて肩を縮こませた。



「化粧品って、何を盗んだの?」


「…………」


「あんたが化粧しても意味無いんだよ、中村」



小柄な生徒――――中村彩香は、近付いてくる金髪少女の存在に怯え、反射的に上半身を仰け反らした。



「なにビビってんだよブス。

 お前ごときがさぁ、顔に化粧してもさぁ、他人からしたらすげぇ迷惑なの。 わかる?」


「顔隠せよ、ブス!」



囃し立てるように、情報通の隣に居た生徒が言う。



「ブース! ブース!」



それは自然に起こった。 手を叩き、中村に向かって皆が叫ぶ。 中村の席の前に仁王立ちをする金髪少女は、誰よりも大きな声で叫んでいた。



「…………っ」



ふと、その少女の大きな双眸が私を捉えた。 私は息が詰まった。



そして、促すようなその目付きに負け、手を叩いて皆と同じように、中村に向かって「ブース! ブース!」と叫んだ。




あとは、坂道を石が転がっていくように、簡単な展開だった。













誰が示しあわせた訳でもなく、ハッキリと通達された訳でもないが、私のクラス内で、中村をイジメの対象にするという事は、翌日には全員に知れ渡っていた。



始めの二週間は可愛いもんだった。


上履きを隠したり教科書を隠したり、廊下で後ろから強く突き飛ばす――――その程度だ。 小学生でも思い付く程度。



主犯格は、先記した金髪少女。

彼女の名前は竹山クレア。 ロシア人と日本人のハーフで、息をのむ程の美人。 だが日本生まれ日本育ちなので、外国語は全くだ。


クレアは驚く程冷淡に、そして残酷に中村を痛め付けていった。


私も、それに加担した。 それは私がクレアが怖かったからだ。 逆らえば自分もイジメに遭うという強迫観念が、他に選択肢を与えてくれなかった。












………………………

………………

………





20××年 9月13日 火曜日 放課後





高校一年生の中村彩香は、1日の授業を終えると、直ぐに図書館へと向かう。 それは彼女の日課であり、義務であった。


彼女の父は厳格な教育方針を持っており、宿題は先ず家には持ち込ませない。 学校でそれを済ませ、帰宅して父に見せる。 もし答えや文章に間違いがあれば、一ページ丸々書き直させられる。 もしそれに反抗したら、鉄拳制裁が待っている。



父親とは裏腹に、中村自身は穏やかな性格であった。 争いは嫌い、喧嘩を避ける。 喧嘩になりそうになったら、自分から譲歩して相手におもねる。 そんな性格をしていた。




中村は図書館の窓際の席に座り、別の椅子にカバンを乗せた。 いつもなら、すぐに勉強道具を取り出して宿題と自習に取り組むのだが、ここ最近は少し違った。


机に両肘をつき、窓の外に見える校庭を眺める。 ユニフォームに着替えた陸上部の部員達が、準備運動にトラックをジョギングしていた。 その中に男子の姿は無い。 何故ならば女子校だからだ。 因みに近郊に男子校があり、しばしば合同で学校行事をしている。 女子校の生徒には、よくその男子校の生徒と交際する人も居るが、中村には無縁な話だ。



健康的にトラックを走る姿を眺めながら、中村は深い溜め息を吐いた。 表情は暗い。





一週間前、クラス内でとある噂が囁かれた。

夏休み中、中村が万引きで捕まったという噂である。


中村は万引きをしていない。 しかしその話には、少しばかり覚えがあるのだ。


だが必要以上に口を割れば、それこそ皆の思うつぼだ。 否定すれば嘘吐きのレッテルを貼られて嫌がらせがエスカレートするし、下手に肯定的な事を言えば益々ひどくなる。 つまり、どう反応しても同じなのだ。


ひどく八方塞がりで、孤立無援だった。


父や母に相談しても、きっと「勉強から逃げるための嘘だ」と(特に父が)言って、無理やりにでも登校させるだろうし(母は、父の言いなりだ)、教師は――――教師が一番信用ならない。 生徒にとって一番扱いやすい大人のひとつであり、彼らは大事な時にその場に居ない。 口では君の味方だとほざくが、実際はご機嫌取りで言ってるだけだ。 誰の、とははっきり云わないが、それは一概に世間へのと表現しても過言ではない。




今のうちは、せいぜい物が無くなったり、突き飛ばされたりする程度なので、あまり気に病む程ではない。 胸がチクリと痛むけど。



恐らく、これからも続く。

もしかすると、先にはもっと酷いことが自分を待っているかも知れない。

何時までも、それこそ自分が自殺するまで続けるのかも。






イジメは簡単には無くならない。


反発すれば、イジメられる。 その強迫観念が全員の心の奥を蝕んでいるからだ。


だから、本当は嫌なのに、皆に合わせてイジメに加担する。 自分に矛先が向けられる事を恐れ、マジョリティに加わるのだ。



狙われたくないのなら、狙う側に回れば良い。 それだけだ。



そりゃあ、イジメる側にも罪悪感は生まれるのだろうが、大抵は直ぐに忘れてしまう。

結局イジメの対象は他人で、他人の痛みなんぞ知れたものではないのだ。







「あー、なんで居るのぉ?」



突然、背後から可愛らしさを装った声を掛けられ、思わずビクッとした。


可愛らしいけど、純粋な悪意がある声。 背筋を凍らせる声。 嫌な予感を与える声。



中村は振り返らなかったが、声の主は解っていた。

そして、声の主が背後から自分に近付いてくることも。



「中村さぁん、勉強ですかぁ? 真面目ですねぇ」



バンッ、と白い手が机に叩き付けられるように置かれた。 右から首を傾げてニヤニヤする竹山クレアが、意地悪く中村のポニーテールを左手で弄ぶ。 頭を振ってそれを止めさせると、一変してクレアの表情が無くなった。



「何だよ、文句あんのか?」



クスクス笑いがこだまする。

見れば、他のクラスメイト達も十人ばかり、その場で二人を囲むように輪を作って立っている。 僅かだが、浮かない顔でひきつった笑みをしているのも居る。



「泥棒。 万引きする程金が無いくせに、なに学校通ってんだよ。 仕事して金稼げよ」


「金貯めて整形しなよ。 そのキモい顔見る側の気持ちになれよブス」



明記しておくが、中村の顔は凡そ不細工というものには分類されない。 中の上あたりかと思われる。 だが、クレアと比べるとはるかに劣るものであるし、クラスメイトからしたら、彼女の顔がブスかどうかはどうでもいい。 ただ貶めたいだけなのだ。



「ち、違う…………」


「ああ?」


「違うっ」



中村は、中村なりに勇気を出してそう言い返した。 だが何の効果も無い事は、絶望よりも早くに理解出来ていた。



「何が違うんだよ」



細い指が乱暴に顎を掴む。 充分に整えた爪が顔に食い込み、頬越しに顎の関節を強く押した。 痛みに呻いた。



「言ってみろよコラ」



先ほどから全く変わらない、可愛らしい声のまま、クレアは中村の顎を掴んで揺さぶる。

その顔はひどく無感情で冷酷で恐ろしく、見てる側には何故かしらの芸術的なものを感じさせた。







「さっきからさぁ、なんで黙ってるの?

 何とか言えよ」



ガクガクと中村の頭を揺らすクレア。 怯えて答える余裕の無い中村は、何とかクレアの指から逃れようと頭を動かすが、接着剤でもつけた様に離れない。 「おい」いきなり声が低くなり、クレアは空いた方の手で中村の額を平手で張り飛ばす様にして押し倒した。



押す力は想像以上に強かった。 椅子ごと後ろに倒れた中村は、後頭部を床にぶつけてしまう。 一瞬気が遠退いた。


遠退いたままで居られたら良かったのに、視界はすぐに回復した。 嫌らしいニヤニヤ笑いを浮かべたクレアと腰巾着達が、戸惑う中村を見下ろしている。



「ほら、やるよ」



冷たく腰巾着達に告げ、クレアは中村のセーラー服の襟首を掴んだ。 そこから彼女のスカーフをほどいて丸めると、口の中へ押し込んだ。


しかしスカーフだけでは口を塞ぐには不足だったので、クレアは中村の体に馬乗りになり、



「残念だな、処女を失う前に脱がされるなんて」



スカートに手を突っ込んだ。 そして乱暴に下着を掴むと、一気に引き下ろした。 僅かに生えていた陰毛も同時に抜かれ、耐え難い激痛が中村の体を貫いた。


腰巾着が口を押さえてるので、悲鳴を上げようにも出来ない。 くぐもった悲鳴が僅かに上がるが、誰も助けに来てくれない。 それもそうだ。 中村は知らないが、今日の図書委員は同じクラスの小嶋菜月なのだ。 当然クレアの友達で、彼女を恐れている。


この状況で助けなど期待するのは、無論馬鹿な事なのだ。



屈辱的であった。 クレアは白い下着を摘まんで、中村の顔の上で揺らすと、口を塞いでいた腰巾着の手が退いた。



「ほらっ」



一気に下着を口に入れられ、さらに何処からか出した(恐らく準備していたのだろう)ガムテープが、更に口を覆う。


両手はクレアの脚と自分の体の間に挟まれ、全く身動き出来ない。 足も二人がかりで押さえ付けられ、言い知れぬ拘束の恐怖を掻き立てた。


一人の女子が、中村の左手を掴む。 クレアは片足をずらして左腕を解放すると、残りの三人がそれを動かないようにガッチリと掴んだ。


小指だけを立たせて、残りは無理矢理握らせた。 なにが起こるのかまだ解らない中村の目の前で、クレアは制服のポケットからペンチを取り出した。



「ジャーン。

 ――――手癖の悪い子には、オシオキしなきゃね?」



必死に頭を動かすが、何の意味も無かった。 涙が頬を伝って耳に入ってくる。


ゆっくりと、ペンチの作用点が小指へと迫っていく。 どう暴れても拘束が解けない。



やめて!おねがい!



懸命に目で訴えるが、その視線を真っ直ぐに捉えたクレアは静かに微笑んでいる。 これから起こる出来事は何でもないんだよ、現実じゃないよ…………――そう言ってるようだった。




ペンチが小指の爪を挟み、時よ止まれという中村の願い虚しく、一気に爪が剥がされた。








「んんー―――――………っ!!」



中村は口を塞がれたまま、甲高い悲鳴を上げた。 身体の末端とはいえ、勢いよく爪を剥がされれば痛い。 いっそ死にたいくらいに。



いつの間にか拘束が解けていたが、中村は動けなかった。 笑いながら去っていくクレアや腰巾着。 残された中村は床に大の字に倒れたまま、口に詰め物をされたまま泣いた。 口の中の下着に着けていたパンティライナーの匂いが鼻に充満していた。 気持ち悪い。 鼻から身体中の体液全てが噴き出してきそうだった。



















「終わったよ」



クレアは、先程の残虐な行為の実行者とは思えない程明るく、図書館の鍵を閉めたまま扉を睨んでいた小嶋菜月に声をかけた。 振り返った菜月は吐きそうになった。 クレアが掲げるペンチに、血にまみれた小さな爪が挟まっていたからだ。



「これ見て、超キモい。 どっか捨てよ」



と、顔をしかめながらも楽しそうに皆に言う。 クレアは鍵を開けた扉から廊下に出ると、一度振り返って菜月に言った。



「さっさと鍵返してきな。 カラオケ行こうよ」


「……うん」



震える指を隠しながら、菜月は笑顔を作った。















「じゃあ、玄関で待ってるね」



クレアはそう言うと、クラスメイトの右田ハルカと手を繋いで廊下を歩いて行った。 私は図書館の鍵を手にぶら下げたまま、その場にボーッと立ち尽くしていた。クレアが怖い。 中村に酷いことをした後なのに、あんなに純粋な笑顔を作れるなんて。 恐ろしい。 人じゃない。


だけど私は、彼女に従うしか出来ない。 多分、他の子達もそうだろう。 ―――だって彼女に逆らったら、自分まで標的にされるから。



しかし、中村がイジメを苦に自殺したり、転校したらどうなるのだろう。 クレアも諦めるのだろうか。 それとも、また新しくイジメる相手を探すのだろうか。



そもそも何故、クレアは中村をイジメようと考えたのだろうか?


万引きの噂が本当かどうか怪しいのに。 あっさりと信じるなんて、クレアに限ってそれは無い。 というか、彼女はイジメをするような子じゃなかった筈だ。 気が強くて毒舌だし、校則も余裕で無視するような子ではあるけど、イジメに関しては「それは、しちゃいけない事だから駄目」と普段から言っていたのに。 どうしてしまったのか。


それに、確かに中村はクラスで浮いていたけど、クレアにとってイジメたいほど嫌なやつは、中村以外にも沢山居るのに。





「…………」


「あっ!」



突然、中村が背後から幽霊のように私の脇を通った。 驚いて声を上げた。


中村はそれに反応する事も無く、足を引きずりながら廊下に出た。 右手に鞄を、左手に自分の下着を持っている。 左手の小指から出た血液は下着を紅く染め、床に点々と血の跡を残していった。



その背中を抱き締めてあげたい気持ちでいっぱいになったが、私は図書館の鍵を閉めて職員室に走った。








………

………………

………………………







20××年 9月14日 水曜日 朝礼




いつも通り、教室の中央の席には小柄な少女が座っていた。 出席確認の際も、きちんと返事をしていた。



だが私は、彼女の左手の小指に、白い包帯が巻かれているのを知っていた。 何があったのも解っていた。

それは恐らく、教室中に居る人間は全員が理解しており、見て見ぬふりをし続けた。



「よーし、今日も全員出席か」



教壇の上から生徒達を見渡す教師。 年齢は30代前半。 だが雰囲気はもっと若く、喋り方や立ち居振舞いにも洗練された都会の男のそれがあった。 去年この学校に来たばかりの彼は、授業が解りやすく見た目もいい事から、生徒の人気も中々だ。


その人気の先生だが、中村の暗い表情や左手の包帯を見て、一瞬不穏な何かを感じたらしく少し息を飲んだ。 だが何もしなかった。


隣の列の、中村の一つ後ろの位置に机があるクレアが私を振り返る。 そしてニヤリと笑った。 何も応えたくなかったが、弱い私は同じようにニヤリと笑い返した。

そして前方へ視線を向けたら、先生と目があった。 笑った瞬間を見られていたと思うと、疚しさで胸がチクチクした。



だけど、先生は何も見なかったように顔を背けた。

何もしなかった。








………………………

………………

………







右の手で額を押さえ、職員室の自分のデスクに肘をついた。 胃がキリキリと痛んだ。



生来争い事が苦手で、誰の勘にも障らないよう他人の表情を伺いながら生きてきた彼。 今までそれは上手いこと切り抜けてきたのだが、今回ばかりは難しそうだ。



自分の担当するクラスの空気が、1日にしてガラリと変わっていた。

針のようにチクチクと、そこに居る人間全てを刺激する。 それに慣れてしまえば、刺激すら快感へと変わるのだろう。

だが慣れてはならない。




前々から彼は、自分のクラスの生徒の中で、誰がいじめの標的になりやすいのかをチェックしていた。 それは中村彩香という生徒で、年齢の割には非常に小柄で、それでいて内向的。 協調性も乏しいので友達も居ない。


だが今日まで全くいじめの兆候が見られなかったので、彼は安心しきっていた。






きっかけは何なのかは解らないが、恐らく昨日から、彼女への攻撃が始まった。 残念ながら対応の仕方も解らない。 触れたらいけないような、この身を滅ぼしてしまうような。




どうしたらいい。




腹の底が震えた。

自分は本当に臆病な人間だと思い知らされた。








………

………………

………………………




20××年 9月16日 昼休み




「中村さーん、一緒にご飯たべようよ!」



不自然な程明るい声を掛けられ、中村ははねあがった。 条件反射で膝が笑いだす。 左手の小指の先が熱を発する。



「早く行こう?」



顔を上げると、クレアの美しい笑顔がそこにあった。 何の躊躇いも罪の意識も感じない。 それが恐ろしい。

中村は自分の弁当を出さず、恐怖に当てられて身を固くしていた。 抵抗しているのではない、身体が動かないのだ。



「早く立てよ」



低い声で命令される。 ほぼ無理矢理腕を抱えられ、立ち上がらされる。 足を踏ん張って行かずとする中村だったが、クレアともう一人の女子生徒に両脇を固められ、強引に徒歩を要される。 涙を流す心の余裕も無い。 ただ何をされるのか、それが怖かった。


後ろからニコニコと笑いながら他の女子生徒も数名、ついてきた。 教室に残る他の生徒を見回すと、皆は中村を無視しなかった。 だが止めなかった。 そうなるのは当然だとばかりに、彼女を睨み、嘲笑していた。



中村を蔑むような目付きをしていないのは、クレアの親友である小嶋菜月だけだった。 彼女は中村と同様、クレアを恐れていた。 だから、クレアの言うことに従っているのだ。

その小嶋も、後ろからついて来ている。 困ったような顔をしている。










ニコニコしながら、クレア達が中村を連行した先は体育館の裏の一角、人気が無くそれでいて木々に囲まれて視界も遮る場所だった。 薄暗く、落ち葉が地面に沢山散らばっている。



「ほら、そこに立つんだよ」



クレアは乱暴に中村の背中を押し、体育館の壁を背に立たせた「逃げても無駄だからね」。 中村は自分の喉の筋肉が異様に痙攣するのを感じた。 これじゃ悲鳴なんて上げられない。


制服のスカートを掴んで震える中村の前で、クレアは足元に転がっている石を一つ、拾い上げた。



そして無言で投げた。


何も囃し立てることも、中村の恐怖を煽るようなこともせず、クレアはとにかく中村を痛め付けようという目的だけで、投げた。 いじめて楽しもうというよりは、とにかく中村に肉体的な苦痛を与えたいだけの様にも見える。 目付きが他の女子とは明らかに違った。



クレアが投げた石は、少女の細腕で投げたとは思えない程の速度で中村へと飛んでいき、頭に当たった。 中村の脳内でゴツンという音が響き、前頭部に焼ける様な痛みを感じた。 呻きながら、中村はその場にしゃがみこんだ。




――――この場から消えてしまいたい。




ナメクジみたいに、塩を掛けられたら溶ける体になりたい。 そうしたら、自分で頭から塩を被って姿を消せるのに。


彼女は自宅の台所で、未開封の塩の袋を開けて頭の上にぶちまける自分の姿を想像してみた。 不思議と痛みが和らいだ。







しゃがみこんだ中村の元へクレアがスタスタと近付き、彼女の顔を蹴飛ばす。

鼻面に衝撃。 目を開けた頃には、中村は地面に仰向けに倒れていた。


クレアに続いて、見張り役の小嶋菜月以外のその場に居た生徒らが、中村の周りに群がった。 腕を蹴り足を蹴り、腹を踏みつける。 彼女のローファーを脱がして頭を殴る。 頭を踏みつける。




この時、中村の意識は現場に無かった。 確かに身体は痛い。 だけどそれは当たり前――――暴力を受けているから。 そんな事でいちいち反応しても、無意味だわ。



彼女の身体が溶けた後、残るのは床にぶちまけられた塩だけ。 今まで彼女が出会った人々の頭の中からも、彼女に関する記憶が溶けていってしまう。


全て無かった事に。

私が生まれなかった事に。





髪の毛を引っ張られ、無理矢理起こされた。 体育館の外壁に顔を押し付けられる。 コンクリートの冷えた感触に感謝した。 踏まれた頬の熱が誤魔化せる。



クレア達の笑い声が響く。 だけど中村は何一つ面白くなかった。 そしてそれは、離れた場所に立つ小嶋も同じだった。



「…………」



中村をリンチしている現場から目を逸らし、誰か来ないかと見張りをしているフリをしながら、小嶋は早く家に帰る事を考えていた。



壊れた玩具のような笑い声が聴覚を刺激し、彼女のイライラを募らせた。 仮にやめようよと言ったとて、皆は聞いてくれないのだろう。 そして逆らった罰として、標的にされるのだろう。



「うう………っ」



痛め付けられながらも、一つも声を上げなかった中村が、初めてまともに呻いた。 その声に良心が痛んで、小嶋は中村を振り返った。


後ろ髪を掴まれ、地面に顔面を押し付けられている中村の姿があった。 その指が地面に食い込んでいる。



「あのさっ」



それを見て反射的に呼び掛けてしまう。 中村を踏みつけていたクレアが顔を上げ、「何?」明るい声で訊いてきた。



「もうすぐ昼休み終わるから、もう行かなきゃ」


「あっ、本当だ。 もう行こっか」



自分の腕時計を見て、クレアは他の女子らにそう行った。 中村の頭に乗せていた足を上げ、地面にしっかりと下ろし、「ほら、菜月も」射るように小嶋を見て、口元だけ笑顔の形を作った。



それが何を意味するのか、小嶋はすぐに理解した。 一気に冷や汗が全身から吹き出し、生唾が口を潤した。 それをゴクリと飲み下し、彼女はやおら足を踏み出した。


地面に押し付けていた顔を上げた中村の口から、土の塊が吐き出された。 ぐしゃぐしゃになったお下げ頭を揺らしながら、中村は哀れむように小嶋を見上げた。 大丈夫だから、やっていいよと云うように、ゆっくりと目を閉じた。



その顔に向かって、小嶋は右足を上げた。











………………………

………………

………








20××年 9月16日 金曜日 22時45分




リビングのソファーに寝そべって、携帯を操作していた。 台所の方で母さんが皿を洗っている、カチャカチャという音がする。


テレビには夜のニュース番組が映されており、今はどこぞの政治家の汚職の話をしている。 日本も末かもな。



「菜月、ソファーで寝ないでね」


「寝ないよー。 お腹いっぱいだから起きてるとしんどいの」


「あんなに食べるからよ」


「だって美味しいんだもん」



私がそう言うと、母さんは嬉しそうに笑った。 自慢じゃないが我が家は非常に円満だ。 母さんが大好き。 父さんは、―――まあ、そこそこ好き。

円満といっても、今まで変に甘やかされて育った訳じゃない。 間違いをおかしたら叱られ、正しい道を教えてもらう。 他人に迷惑を掛けるなと父さんはいつも私に言う。 人を好きになれと。 因みに父さんは医者だ。 今日は夜勤。



『続いてのニュースです』


「母さん、後でアイス食べよう」


「いいわよ。 お母さんチョコにする。 菜月は?」


「私は――――」


『県△△市の歩道橋から、女子中学生が下の高速道路に飛び降りる事件がありました』



全身が凍った。 私は携帯画面を見詰めたまま、テレビから聞こえる女性アナウンサーの声に耳をすませた。



『女子中学生は落下した直後に大型トラックに轢かれ、病院に運ばれた時には、既に死亡していたとのことです。

 また、歩道橋には履いていた靴と遺書のような物が発見されており、自殺の線が濃いようです。


 どう思いますか、先生』



アナウンサーが、隣に座るコメンテーターに話を振る。 コメンテーターの男性は苦々しい表情で、



『最近多いですね、こういう事件。

 これもイジメが原因であるわけですが、やはりきちんと周りの大人が――――』



もう聞いてなかった。 もう十分だ。

起き上がると、私はソファーの前のテーブルからリモコンを手にした。 そして映画を放送しているチャンネルに変え、母さんに「私、バニラがいい」と言った。



「嫌なニュースだったわね」


「うん……」


「あんたは人をイジメたりしちゃだめよ。 もしイジメられたりしたら、ちゃんと教えてね、守るから」


「…………うん」


「イジメられてる人が居たら、助けてあげられるように努力しなさいね」




助けてあげる、か。


口で言うのは簡単だよね。









………

………………

………………………




20××年 9月18日 日曜日




彼氏の谷崎裕一郎と映画を観に行った。 そのあと彼の家に行った。



裕一郎は私の通う女子校の近所にある、男子校の生徒で、一学年上だ。 両校の親睦会で仲良くなり、連絡先を交換して、何回かデートして、付き合うことになった。



「お前、一緒になってイジメてるわけ?」



彼の自室のベッドに腰掛ける私の正面、机の椅子の上で胡座をかいてる裕一郎が、不快そうに訊いた。



「イジメてないよ。 …………いや、でも加担してることにはなるよね」


「そらそうだろ、見張り役も立派な加害者だぞ。 ……気持ちは解るけどね。 竹山クレアってアイツだろ、美人だけどなんか強烈そうな感じの」


「そう、そいつ」


「怖そうだわー、アイツ」



何を想像しているのやら。 裕一郎は不快そうな表情を更にしかめた。



「でも、今までイジメとかするような子じゃなかったの。 それがいきなり、根も葉も無い噂を鵜呑みにしてイジメだしちゃってさ。

 他の子たちも怖がってる」


「いや、きっと元々そういうの好きだったんじゃね? 誰も見てない所でえげつないことしてたと思うよ」


「うーん………」



一昨日のニュースのこともあって、私は罪悪感に苛まれていた。 他県の事件だし、そもそも中村も私も中学生ではないので、あれは中村のことではないけれど。

度が過ぎれば、中村もいずれああなるのかも知れない。 そうすれば私達は加害者、中村を殺したことになる。 直接殺したことにはならないが。


溜め息を吐いた私を見て、裕一郎は椅子から立ち上がって私の隣に座った。 大きな手で頭を撫でながら、元気付けるように言った。



「無理してイジメを止めろとは言わないよ。 極力手は出すな。 タイミング見計らって戦線離脱すればいいじゃん」


「ん…………」



裕一郎といい母さんといい、…………簡単に言ってくれるよね。






………

………………

………………………









20××年 9月20日 火曜日





月曜日が敬老の日で、三連休だった。



「あいつの顔、見た?」



一限目が終わってすぐ、クレアは私の席に来ると、中村の背中を指差す。 吹き出したいのを堪えるような顔をしている。



「なに?」



クレアは右手で右目辺りを押さえ、「まぶた、プックリ腫れてるの」声を震わせながら教えてくれた。 朝から女子達が中村に嫌がらせをしていなかったが、どうやらそれを遠くから眺めてニヤニヤしあってたらしい。



「目に雑菌が入ったんだよ、この前のあれで」



右足で中村の顔面を蹴った、あの時かも知れない。 あの時何故か、中村は私が蹴りやすいように顔を上げた。 まるで私の為に犠牲を払ったかのように。 そして私に同情するかのように。



見に行こうと促されたが、私はわざわざ中村の顔を見に前に回り込んで、そして嘲笑することは出来なかった。 トイレ行きたいと嘘を吐いて席を立つ。


クレアは一人で堂々と中村の横をすり抜け、正面からジロジロ眺め、そして周りで見守っていた面々に目配せをした。 甲高い嫌な笑い声が響く教室から、私は逃げ出した。

















二限目終了。



少し長い休み時間に入る。

クレアは早速私に手招きして、中村の元に向かう。 他の女子らも集まる中、私もおそるおそる足を動かす。 人の輪の中心で、席に座る中村と仁王立ちするクレアが向き合っていた。



「ブッッサイクになったねぇ」



小さな笑い声が重なって、とても圧力のあるものとなっていく。



「涙腺から雑菌でも入ったんでしょ。 膿が溜まってるからそんなに腫れるんだよ」



優しいような、冷血なような声は平坦で、クレアは中村を見下ろしたまま言った。 ポケットを探り出す。


それを合図だったかのように、中村の後ろにいた女子三人が、彼女を拘束する。 一人は両腕を、一人は椅子を引いて下半身を、最後の一人は頭を抱えて口を塞いだ。 小賢しいことに、噛みつかれないよう手にタオルを巻いている。


中村は暴れるが、私を含めた全員は黙って見ているだけだった。 気づけば、教室に居る生徒全員が、立ち上がって中村の周りに集まっている。 外からは、なにをしているのか解るまい。







私は中村のすぐ横に居た。 クレアに腕を引っ張られて、半ば無理矢理ここに立たされた。


中村の右目の目蓋は、見事に腫れていた。 目尻側の涙腺が膿んでるのか、そこが一番腫れている。 痛くて、しかし痒いために少々目を擦ったらしく、患部あたりの皮膚が赤紫になっていた。



押さえている三人は、皆運動部に入っていて力が強い。 ひ弱な中村の力では、三人には到底及ぶまい。



必死に暴れる中村の目の前にクレアが出したのは、裁縫用の針だった。



「治してあげる。 それ以上あばれたら眼球串刺しにして引っ張り出すよ」



只の虚仮脅しとは思えない。 中村もそう思ったらしく、ピタリと暴れるのを止めた。


クレアは机に登って膝立ちになると、ガッツリ押さえ込まれた中村の顔に、針を近付けた。 私は恐ろしくなって、きつく目を閉じた。 見なくても、何をするのかは解った。



中村のくぐもった短い悲鳴が聞こえた。 同時に、周りから囃し立てるような歓声が生まれ、悲鳴を押し流していく。



ソッと目を開けた。


中村の目蓋を裏返し、粘膜に覆われた患部に直接針を刺し、すでに抜いたらしい。 他人の力によって無理矢理開けられた目から、流れ出した白い膿が、涙混じりに頬を伝っていく。



膝がガクガク震えていて、立っているのが不思議なくらいだ。











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