「バイバイ」
何から考えればいいのかわからない。
あの後、瀧川泉が来て。ユキくんと麻林も来て。ただひとり、譲司先輩だけは来なかった。
「吉香、何ぼーっとしてんのよ」
「え? ――あ、うん」
麻林にため息をつかれる。今日も来なかったらどうしよう。そんなことを考えながらふたりについて行く。部室までの時間が、重くて長い。
『何でみんな、泉なんだよ』
譲司先輩は本郷レイラが好きだった。でも本郷レイラは瀧川泉と付き合っていた。
何でふたりは別れた? 何で本郷レイラは軽音楽部を辞めた? なぜ、金髪を隠すの? ……わからない。
「おはよーございまーっす!」
ユキくんの明るい声でようやく気づいた。いつの間にかすぐそこに部室。鍵を開ける麻林のそばに、こっちを見ている譲司先輩。
不思議だった。私と譲司先輩しか、この世界にいないような。ふたりの時間だけが止まってしまったような。
ふたりとも部室に入ったらしく、廊下には私と譲司先輩だけが取り残された。
「ごめん!」
近づいてきた譲司先輩が、勢いよく頭を下げる。
「何で謝るんですか?」
「いやだって……キス、しようとしちゃったし」
「でも未遂ですよね」
「いや、そうだけど」
「気にしないでください」
譲司先輩がぽかんとした顔を向けてくるけど、気にしない。私には他にもっと気になることがある。
「あの歌、本郷レイラさんの歌なんですよね」
「え、あ――うん」
「どんなひとだったんですか?」
前にも聞いたけど。もっとちゃんと知りたいんだ。瀧川泉が好きだったひとのこと。瀧川泉を好きだったひとのこと。いつまでも逃げてられないから。
「まだ残ってると思うんだけど……」
譲司先輩が携帯を取り出して何やら操作している。何を探してるんだろう。
「お、あったあった。ハイ」
軽い感じで携帯を渡される。画面のなかには真っ赤な頭の譲司先輩と、銀色の髪の瀧川泉、そしてふたりの間に長い金髪がまぶしい本郷レイラがいた。
「――きれい」
「でっしょー? 俺もレイラの金髪に一目惚れしてここでバンドやりたいって思ったし。まあ、泉のドラムにも惚れたけどね」
再会したばかりの瀧川泉が言っていたことを思い出す。
『グループ名はglow。意味は燃えるような輝き』
きっと本郷レイラのことだ。だって目がくらむほどにまぶしい。これがホンモノの輝き。私は本郷レイラに、敵わない。
「何してんの?」
いつからそこにいたのだろう。部室の前に瀧川泉がいて、不思議そうな顔でこっちを見ていた。
「いやー泉、困っちゃったよー。吉香ちゃんってば泉の昔の写真、見たい見たい言い出すんだもーん」
パッと携帯を取って、嘘をつきながら瀧川泉に近づいていく譲司先輩。
「そうなの?」
やわらかく笑って私を見てくる。本当のことは言えない。言えそうにない。だから私は、ごまかすように笑った。
家に帰って、部屋に入って、カバンを机に置いて、ベッドに倒れ込んだ。沈む。体も、心も。
瀧川泉が、家まで送ってくれた。あの真っ黒いバイクで。
何も知らなければ、気づかずにいれば、単純に嬉しかったと思う。少なくともこんなに苦しくはなかった、絶対。
でも私は知ってしまった。気づかないふりもできなかった。
『忘れられないひとがいたって、そのひとは過去のひとなんだから。たとえ利用されてでも、今を一緒に過ごせたらそれでいい』
私は麻林みたいになれない。そんなに強くない。
瀧川泉は私の金髪に本郷レイラを見ているんじゃないか、って。同じようにバイクの後ろに乗せたんじゃないか、って。
不安ばっかり押し寄せて。追い詰められて。苦しくて。こんな思いをするなら初めっから好きになんかならなければよかった。なんて、無意味なことばっかり考えて。
どうせ決まってた。初めっから逃げ場なんてなかった。何があったって、どれだけ否定したって、この気持ちは生まれてたんだ。そうわかるからこそ、苦しい。
――ヴー、ヴー。カバンのなかで携帯が震えている。重い体を起こし、なんとか携帯を取り出した。……譲司先輩。
「もしもし」
『あ、吉香ちゃん、今へーき?』
「はい。どうしたんですか?」
『――レイラのこと、なんだけどさ』
ああもう。せっかく切り替えようと思ってたのに。思い出させないでよ。
『気にしなくていいと思う』
前もこんなふうに言ってたっけ。譲司先輩は無責任だ。気になるに決まってるのに、こんなことばっかり。
『泉にとって、吉香ちゃんってけっこう大きい存在なんだと思う』
「……根拠は何ですか」
『前にも言ったじゃん。泉、レイラと別れてから誰とも付き合ってないって』
「聞きましたけど」
『珍しいことなんだよ、泉にとっては』
え――でも、瀧川泉が誰かと付き合ってるとか、そんなの今まで聞いたことがない。私が疎かっただけ?
『ほら、中学んときからバンドやってて。嫌ってくらいモテたらしい』
「でも瀧川泉、自分のファン嫌いだって」
『うん。だからわざと嫌われようとしてたみたい』
言葉が出ない。
だって私が知ってるのは、図書室の隅っこでうたた寝しながら気まぐれに話しかけてくれる瀧川泉だけだ。
『二股三股当たり前、寝たらハイさよならー。あんときの泉はホント最低だったよ』
私は瀧川泉の何を見てたんだろう。何を知ってるつもりだったんだろう。
いつも眠そうだったのは、女の子の相手で忙しかったから? 私に優しくしてくれたのは、ファンじゃないと思ってたから?
『でも、レイラに会って変わったんだ』
私じゃない。今の瀧川泉をつくったのは。私が好きになった瀧川泉を、つくったのは。
他でもない、本郷レイラだ。
「譲司先輩、気にするなって言ったのに」
こんなこと言われたら気にするに決まってる。気になるに決まってる。どこまでも譲司先輩は意地悪だ。
『え、あ、ちょっ……待って。まだ続きあるから』
「もう聞きたくないです」
『聞いて。泉は変わったんだよ。好きでもない女の子と簡単に付き合うような泉じゃない』
譲司先輩が言おうとしていることはわかる。でもそれは憶測でしかなくて、実証も何もなくて。そんな夢みたいな話を簡単に信じるほど、私だってバカじゃない。
「もういいです、譲司先輩。おやすみなさい」
一方的に言い放って電話を切る。はーあ。自己嫌悪。譲司先輩に八つ当たりしてどうすんのよ。
デスクマットのなかの金髪の私を見やる。お姉ちゃんが撮ってくれた写真。新しい自分になれたんだと信じていた。
でも、違う。私は変わってない。変われてなんかない。あの頃の私のまま。弱くて、臆病な私のまま。
「えーっと、2番の歌詞ができたので。聴いてください」
休日、部活が始まってすぐ。またギターをかき鳴らす譲司先輩。今日は泣かないように頑張ろう。そう心に決めて下唇を噛みしめる。
――僕はどこまでも
君を愛してしまった
瀧川泉はどんな気持ちでこの歌を聴いてるんだろう。誰の歌かちゃんとわかってんのかな。
――きっと僕らだけじゃない
叶わない恋に涙するのは
振り向いた先の瀧川泉は目を伏せていて、私の視線には気づいてくれそうにない。
――Love me,love me,love me...
届けたい想いはここに
ねぇ僕の声聞こえてる?
きっと私の声は、瀧川泉に届かない。
――夜はやがて朝日に照らされ
君を優しく
そっと包むよ Love you
瀧川泉が、私を見ることはない。
涙はこらえた。でも心は暗くなるばっかりで。私にはまだ朝が来なくて。ずっと夜のままで。
「うーわー。降ってきそうだな今にも」
夕方になり、それぞれ帰ることになった。真っ先に玄関から出た譲司先輩が空を見上げてつぶやく。
「譲司先輩、カサ持ってきてないんですか?」
ユキくんがビニール傘をぶらつかせながら譲司先輩のもとへ。来るときにでも買ったのかな。
「だって邪魔くさいじゃん」
「えー今日けっこう降るみたいですよ」
「一緒に帰ろうぜ家まで送ってくし!」
「ヤですよ男同士で相合い傘なんて」
「んなちっせえこと気にすんなよ」
「気にします!」
「だからモテねーんだよユキは」
「カサ入れてあげませんよ」
「あー悪い、冗談!」
今なら切り出せるだろうか。言えるだろうか、瀧川泉に。ふたりのやり取りを遠巻きに見ている彼に近づく。私に気づいた彼は、優しく笑ってくれた。
「あの、ちょっといいですか」
「なーに」
「話したいことがあるんですけど」
話したい。話さなければならない。このままじゃ私も、瀧川泉も、前には進めない。
「その話、ここじゃダメなの?」
「できれば、ふたりで」
「……わかった」
気づいているのだろうか、瀧川泉は。私の決意に、気づこうとしてくれているだろうか。
「みんな先、帰ってて。俺ら残ってくから」
瀧川泉がそう言って下駄箱に戻っていく。どうやら校舎のなかで話すらしい。
私も靴を履き替えようと下駄箱に向かうと、不安げな表情の麻林と目が合った。……さっきの、聞こえちゃったかな。
「吉香」
「バイバイ麻林、また明日!」
探るような視線に耐えられなくなって、逃げるように背を向けた。これは、私と瀧川泉の問題だ。
「――あの」
「んー?」
「どこまで行くんですか?」
ずんずん階段を上っていく瀧川泉に、少し遅れを取りながらどうにかついて行く。
「んー」
瀧川泉は答えてくれない。ただただ上っていく。瀧川泉の背中が遠い。どんなに急いでも、隣に並ぶことはできない。瀧川泉の隣にいる資格は、ない。
「はい、到着」
着いた先は屋上だった。いつもの青い空とは違い、どんよりと曇った空。今にも泣き出しそうだ。それでも先を行く瀧川泉は、振り向いてきれいに笑う。
「で、話って?」
どう切り出せばいいんだろう。瀧川泉は、ちゃんと話してくれるだろうか。応えてくれるだろうか。
「本郷レイラさんのこと、なんですけど」
考えたわりにずいぶんと単刀直入になってしまった。瀧川泉が小さくため息をこぼす。
「そんなこと聞いてどうすんの」
「……聞かなきゃ、前に進めないんです」
しばらく瀧川泉と見つめ合う。茶色い瞳は、なんだか少し悲しい色をしているように見える。この空のせいかな。
「レイラの何が聞きたいの」
よかった。話す気になってくれた。ずっとはぐらかされてきたから、また応えてくれないんじゃないかと思ってた。
「えっと、どういうところが好きだったんですか?」
誰も愛してこなかった瀧川泉が、どうして本郷レイラを好きになったのか。どうして変われたのか。
知りたい。――最後に。
「同じリズムで生きてんだなって思った」
「リズム、ですか?」
「うん。レイラは俺を特別扱いしないし、無理に何か話そうとか、そういう気遣いもなかったから」
落ち着かないのか、さまよわせていた両手をポケットに突っ込む。瀧川泉らしくない。それだけ本郷レイラに対する想いが強いのかもしれない。
「今でも、好きですか?」
これで最後だから。ずっと怖くて聞けなかったことを聞いた。答えは、わかってるけど。
「……うん」
ほらね、やっぱり。
「吉香なら好きになれると思ったんだけどなぁ。結局、レイラのこと気にしてる」
私は、本郷レイラに敵わない。
「ごめんね、吉香」
この恋は叶わない。
「バイバイ」
その言葉には“また明日”とか“元気でね”とか、そういう意味が込められているんだと思っていた。
こんなに切ない、苦しい、バイバイは知らない。知りたく、なかった。
瀧川泉と別れ、ひとり校舎を出る。瀧川泉はまだ少し残るらしい。
もう送ってはくれない。あのバイクにも乗せてくれない。だって私はもう彼女じゃないから。
『ふーん、吉香ね。よろしく』
『大丈夫だよ』
『気楽に頑張ろ』
瀧川泉の言葉は、いつも私の心を照らしてくれた。あたたかい光で包んでくれた。
好きだった、瀧川泉が。
ぽつり、ぽつり。頬に落ちる水分。ああ、もう降ってきちゃった。傘ないのに。……まあ、いっか。
ぜんぶぜんぶ流れてしまえ。私の気持ちも、涙も、ぜんぶ。雨に紛れて流れてしまえばいい。
「――吉香」
ずいぶんと遠慮がちな声だったから、初めは空耳だと思った。でも顔を上げると、傘を差した麻林が目の前にいたから。現実なのだと悟る。
「あれ、帰ったんじゃなかったの?」
できるだけ明るい声を出して何とか笑ってみる。でも麻林は整った眉をひそめるだけ。きっと麻林はわかってる。ぜんぶ、わかってる。
「瀧川泉と、別れてきた」
何でもないことのように言って笑った。目を伏せた麻林が静かに近づいてくる。
差し出された青い傘。雨はもう降らない。だけど心は。心のなかの、雨は。
「こういうとき、なんて声かければいいのかわからない。ずっと友達、いなかったから」
なぐさめようとしてくれているのだろうか。友達だと、思ってくれているのだろうか。
「だから、泣き止むまでそばにいてあげる」
きっと初めからこうなることは決まってたんだ。彼のなかの彼女が消えてなくなるなんてこと、初めからありえなかった。
でも、彼の心のなかに少しでもいいから入り込みたくて。彼の一部になりたくて。
いつかこうなることはわかってたけど。どうにもできないことはわかってたけど。
次から次にあふれては落ちる涙が熱くて、そばにいる麻林の体温があったかくて。
初めての痛みを、どう受け止めればいいのかわからなかった。