届かない声
「でもさ、不利なことには変わりないよね」
う。
「だって文化祭のライブ見たうえで決めるってことでしょ? どれくらい客が入るかとか、具体的な条件じゃないし」
そうですけど。
「要は理事長の独断で決めるってことじゃん。無理でしょ」
……これでも必死だったんですけど!
「まあそう言うなって。吉香ちゃんのおかげでチャンスできたんだから」
そう言って渋い顔の瀧川先輩をなだめる。譲司先輩は、いつもの譲司先輩に戻っていた。あのキラキラは何だったんだろう。気のせい? 目の錯覚?
「曲目どうすんの」
「とりあえずメジャーなのカバーしときたいよね」
「オリジナルは?」
「できれば入れたいけど」
先輩たちだけでポンポン話が進んでいく。よかった。譲司先輩に笑顔が戻って。
『ボーカルがあなたじゃなかったら、私たちに張り合えたのに』
不意に、ヒナさんの冷たい声が蘇る。そうだ。私には歌の才能がない。何かしなきゃ。私に、何ができる?
頭によぎったのは、初めて見たときのレイラさんだった。まだニセモノの黒髪だった頃の。
さらりとピアノを弾きながら、濁りのない澄み切った声で黒ヶ峰の校歌を歌っていた。絶対に、敵わないと思った。
でもピアノだけなら。前に基礎の基礎だけ譲司先輩に教えてもらったし。もしかしたら、敵うかもしれない。
「あの」
思いのほか大きな声が出てしまった。曲目決めに追われていた先輩たちだけでなく、手持ち無沙汰な麻林とユキくんも不思議そうな顔つきで私を見てくる。ああもう、言っちゃえ。
「ピアノ、弾いてもいいですか?」
「それは……文化祭で?」
困り顔の譲司先輩が聞き返してくる。「はい」と答えると、譲司先輩は余計に困ってしまったようで。「うーん」と首をかしげてみせた。
「今回はやめとこうよ。あんまり時間ないし」
――正しい判断なんだと思う。文化祭当日まで1ヶ月くらいしかないし。歌詞を覚えるだけでも大変なのに、初心者がピアノなんてもってのほか。頭ではわかってる。でも、心は。重く冷たい塊が、心のなかに落ちるのを感じた。
ああ、やっぱり。私はレイラさんに敵わない。
「何でさっき急にあんなこと言い出したの?」
帰り道、そう切り出してきたのは麻林だった。男3人はCDショップに寄って曲目を決めるらしい。
「あー……ピアノ?」
やっぱり唐突すぎたのだろうか。麻林が当たり前だと言わんばかりにうなずく。
「何かしたいなって思って」
「なに言ってんの、ボーカルでしょ? 充分してるじゃない」
「まあ、そうなんだけど」
「私なんてマネージャーよ? 鍵の管理くらいしかすることないし」
「そうなんだけどさぁ」
私はただ、足りないところをカバーしたいだけで。……まあ、ごまかすとも言うんだけど。やっぱり私にできることなんて何もないのかな。
方向が違うので、麻林とは途中で別れた。向かいのホームには麻林の後ろ姿。やわらかい黒髪が動くたびに揺れる。
何か言いたい。だって麻林の背中が、切ない色をしているように見えたから。
麻林、そう呼びかけてやめた。ここには私たち以外のひとがたくさんいる。大声を出したら迷惑だ。でも、だけど。何か言わなきゃ。今。
『……何』
受話器越しの声は、少し不機嫌そうだった。当たり前だ。さっき別れたばっかだし、お互い目の前にいるし。
「つらくなったら、私に八つ当たりしていいから」
『は?』
意味がわからないとでも言いたげに思いっきり眉をひそめる。おっとまた唐突すぎちゃった。
「だから、麻林の嫌みにはもう慣れたから」
『失礼ね。そんなの言ったことないわよ』
「返したいの、麻林に」
嬉しかったから。麻林の優しさに、救われたから。だから私にも何か返させてほしい。
『バカ』
「――うん」
『マヌケ』
「おっしゃる通り」
『鈍感』
「すいません」
『何で、気づかないのよ』
麻林の顔が泣きそうに歪む。タイミング悪く電車が来て、麻林の姿は見えなくなった。
『譲司先輩のこと、誤解しないでね』
それでも麻林の声だけはしっかりと耳に届く。
『私、ほんとは振られたの。でも忘れられそうもないから、利用してほしいって言った』
麻林は今どんな顔をしているのだろう。
『本当に利用してたのは、私のほうだったのかもしれないわね』
見えない。見るのが、怖い。乗る予定だった電車が走り去ると、もう麻林の姿はなくなっていた。受話器から聞こえるのは不通音だけ。
何やってんだろう私。励ますどころか、思いっきり傷口に塩を塗ってしまった。
こんな自分に何ができると思ったの。買いかぶり。欲張り。完全、余計なお世話だよ。
私にできることなんて、あってないようなものなんだから。目の前のやるべきことをまじめにやるのが私でしょ?
――わかってるよ。わかってるけど、収まってくれないんだ。心の未知の領域が私を急かして。
何かしたい。誰かのために。なんて、大それたことを考えはじめて。私は私のはずなのに、私じゃない私が顔を覗かせて。苦しい。
……来てしまった。
昼休み、逃げるように教室を出て屋上の前までやってきた。あの一面の青空を見れば心が晴れるんじゃないかと思って。
でも、よくよく考えればレイラさんいるかもしれないし。それってすごいお邪魔じゃないかな。そもそも瀧川先輩自体いないかもしれないし。ていうか鍵、開いてんの?
――ガチャ。開いてるし。どうしよう。とりあえず、行ってみる?
「あ、吉香」
見上げると、一面の青空をバックにやわらかく笑う瀧川先輩がいた。
「テスト返ってきた?」
「……瀧川先輩ってSっ気ありますよね」
「だって吉香いじめがいあるんだもん」
わお認めやがった。
「来れば?」
優しいのか優しくないのか。相変わらずよくわからないひとだけど、ひとつだけわかることがある。瀧川先輩は、ここがよく似合う。
「レイラさんはいないんですか?」
「んー、生徒会は忙しいみたいよ。文化祭の準備で」
「そうですか」
少し間を開けて座り、同じようにぶらぶら足を遊ばせる。見上げると、大きな空に包み込まれているように感じた。
「どうしたの」
「……自分が、わかんなくて」
わからない。わかっていたつもりの、自分自身が。心が曇って、よく見えなくて。ヒナさんの言葉が頭を離れなくて。消えてくれなくて。
自信が持てない。私じゃなきゃいけない理由が見つからない。むしろレイラさんのほうが、ずっと必要な存在なんじゃないかって。
私は、必要ないんじゃないかって。そう思った途端、不確かな存在のような気がして。私はここに、いるのか。
「不安なんです。自分がいて、いいのか」
だって私は誰の役にも立ててない。だから誰にも認めてもらえない。私にしかできないことなんて何もない。私がいる、意味がない。
「わかるよ」
優しい声だった。するりと、耳から心に流れ込むような。横顔を盗み見ると、瀧川先輩はやわらかい表情で遠くを見つめていた。
「俺もあった、そんなとき。居場所がなくていつも不安だった」
私の知ってる瀧川先輩は、どこだって居場所に見えた。知ってる、つもりだった。
「心の底から好きだって思えるひとに出会えたら、そのひとが居場所になるよ」
そうだろうか。だって自分の好きなひとが、自分を好きになってくれるとは限らない。傷つくだけかもしれない。そんなの、怖い。
「吉香にはもう、いるでしょ」
「――はい?」
「譲司。好きなんでしょ」
突然、何を言い出すんだろうこのひとは。私が譲司先輩を? ……いや、ないない。
譲司先輩だって、一時期の気の迷いというか。本気で私を好きなわけじゃないと思うし。ていうか、好きじゃないと思うし。あの歌だって、私の歌じゃないに決まってる。
「そんなわけないじゃないですか」
――本当は。認めるのが怖い。あのキラキラの正体に、気づくのが怖い。
「ひとには隠すなって言ったのに、自分は平気で隠すんだ」
「何も、隠してなんか」
「じゃあ何であんな必死だった? 廃部になるかもってとき」
「それは、嫌だったから」
「譲司が落ち込んでるのが?」
気づかせようとしないでほしい。私は譲司先輩を好きじゃないんだから。もう傷つくのは、嫌だから。
「そういう瀧川先輩はどうなんですか? レイラさんと」
「うーん、どうなんだろ」
「順調なんですよね?」
「まあ、俺はそばにいられるだけで幸せだから」
「……完全にのろけじゃないですか」
「いつか吉香にもわかるよ」
そう言って高い空を見上げる。瀧川先輩の横顔は、やわらかく綻んでいた。
同じように空を見上げてみる。瑞々しい青空。おだやかに流れていく雲。ぼかしたはずの心が、何か叫んでいるような気がした。
「あれ、譲司先輩は?」
今日も部室の前に譲司先輩はいなかった。ユキくんが尋ねると、瀧川先輩は「ちょっと遅れるって」と気だるげに答えた。どうしたんだろう。理事長、じゃあなさそうだけど。
「気になる?」
いつの間にか瀧川先輩とふたりになっていた。からかうように聞いてくるから、ちょっとムカついてみたり。
「別に、何とも思ってませんから」
「素直じゃないなー」
前に譲司先輩にもそう言われたっけ。素直に謝れなかったとき、そう笑ってくれたっけ。
「あれ、ふたりとも入んないの?」
不意に瀧川先輩の向こうから、そんな軽い声が飛んできた。瀧川先輩が振り返り、私も身を乗り出して声の主を見ようとした。でも何よりも先に、まばゆい金髪が目に飛び込んできた。
「――レイラ」
譲司先輩の隣にいたのは、瀧川先輩の言葉通りレイラさんだった。何で。文化祭の準備で、忙しいんですよね?
「いや、吉香ちゃんピアノ入れたそうだったからさ」
「ピアノとコーラスを担当することになった。よろしく頼む」
――ああ、そういうこと。
「でもレイラ、忙しいんじゃないの?」
「だからオリジナルだけ入ってもらおうと思って」
「でも生徒会長いい顔しないんじゃない?」
「いや、許可は取ってきたから問題ない」
やっぱり私じゃない。ここに必要なのは、私なんかじゃない。
それからレイラさんは週に一度だけ練習に参加するようになった。その日はオリジナルの練習だけで、なんていうか、当たり前なんだけど。レイラさんは特別、みたいな気がして。
私はただ、目の前のことに取り組んで。レイラさんの長い金髪を、できるだけ見ないようにした。
そして今日ついに、文化祭当日。黒ヶ峰は超がつく進学校なので一日しかやらないらしい。今日、軽音楽部の未来が決まる。
――カサ。朝、いつもとは違い浮き足立つひとたちのなか、私はただひとり下駄箱の前で動けなくなっていた。
『阿部吉香さん。大事なお話があります。どうか一人で来てください。昼の12時半、生徒会室でお待ちしております』
真っ白い紙に書かれていたのは、そんな内容だった。さらさらと流れる達筆な文字。名前は書かれてないけど、誰からの手紙かはわかった。
「おはよー吉香さん!」
急に明るい声が飛んできて、あわててポケットに手紙を突っ込む。振り向いた先には案の定ユキくんがいて、何とか笑顔を返した。
「おはよう、ユキくん」
「吉香さん寝れた? 俺もう緊張しすぎて寝付けなくてさー」
「えー、大丈夫なの?」
「わかんない。午前中ちょっと寝ようかなー」
ライブは午後1時からだ。30分もあれば話ぐらいできるだろう。誰にも言わないほうがいい。みんな、今はそれどころじゃないから。
私だって、私にだって。できることはある。
――コンコン。
「失礼します」
なかには誰ひとりいなかった。当たり前か、生徒会は忙しいもんね。あと5分で約束の時間だ。ちゃんと来てくれるのかな、忙しいのに。
みんなには、忘れ物をしたと嘘をついた。そんなに長い話じゃないと思うし。私は、あのひとが丸ごと悪いひとだとは思えない。
――ガチャリ。背後でそんな音がした。鍵が閉まったような、音が。え、ちょっと……嘘でしょ?
「開けてください」
ドアの向こうにいるあのひとに声をかける。でも彼はびくりともしない。ただドアの前に背を向けて突っ立っている。
磨りガラスから見えるのは、彼の黒々とした髪だけだった。