「もう隠さない」
「私はもう隠さない」
目の前までやってきたレイラさんが、挨拶もせず意志の強い声で言う。青い瞳は凜と、澄みわたっている。
「泉にも、本当の気持ちを話す」
胸が痛んだような気がした。
「おまえは本当にこれでいいんだな?」
気のせいだ。そういうことにしておこう。じゃなきゃダメだ。
「はい」
うまく笑えたと思う。ちゃんと、レイラさんの目を見て。やわらかく笑えたと思う。
「――そうか。それだけ確認したかったんだ。邪魔したな」
颯爽と私を通り過ぎていくレイラさん。目の端に映るは、輝かしい金色の髪。長くて、きれいな髪。
「吉香。ほんとにいいの?」
事情を汲んでくれたらしい麻林が心配そうな顔をする。ごめんね、心配かけて。ありがとう、心配してくれて。
でも、何回聞かれたって答えは同じ。変わらない。変えちゃ、いけない。
「吉香さん、譲司先輩んとこ行くよね?」
昼休み。明るく声をかけてくれたユキくんに、すぐ返事ができなかった。元気づけようとしてくれているのはわかる。そういう優しさは素直に嬉しい。
でも、食欲ないし。うまく笑える自信もないし。また気を遣わせてしまうのかと思うと、申し訳ないことこの上ないし。
「ごめん。私――」
「もう、ほんとに幸人くんは」
適当にごまかして断ろうとしたところで、麻林に遮られた。ユキくんの襟首をつかんで引っ張っていく麻林。
「あとでね、吉香」
「う、うん」
「えー俺なんも変なこと言ってないよー!」
「いいから早く」
引きずられるユキくんと、ずんずん歩く麻林に少しだけ笑みがこぼれる。ああ、笑えるじゃん私。ちゃんと笑えるじゃん。
一度だけ深呼吸して、ひとり教室を後にする。行き先はもう決まっていた。図書室だ。
きっと最後になるだろう。けじめをつけよう。始まりが図書室なら、終わりだって図書室だ。
――ガラガラガラ。ゆっくり、恐る恐る扉を開ける。まだ昼休みも始まったばかりで、ひとは少ない。よかった。
私は、いつもここで瀧川泉を待っていた。待つだけだった。探そうともしなかった。
そのうえ見つけてもらおうだなんてバカみたいな考えで金髪にした。瀧川泉は、見つけてくれなかった。初めから答えは出ていたんだ。
図書室の隅っこ、窓際の席に腰を下ろす。夏の日差しに照りつけられ、熱を持った机にそっと触れてみる。
夏はカーテンを閉めて、自分の周りに日陰を作って、気持ちよさそうに眠るんだ。彼は。――彼が。
目頭が熱くなるのを感じて、あわてて机に突っ伏した。じりじり伝わる熱。ひりひり痛む胸。
これでいいはずなのに。こうなることを望んだのは私なのに。
どうして私は瀧川泉を好きになったんだっけ。瀧川泉じゃなきゃダメだったんだっけ。
知ってることより知らないことのほうが多かったのに。まだまだ知らないこともあるだろうに。
初めて見た瀧川泉の寝顔がきれいだったから? 何の迷いもなく下の名前で呼んでくれたから?
見かけによらずドラムが巧いから? 舞台に立つのが怖かったとき、振り向いていいって言ってくれたから?
麻林の言葉で落ち込んでいたとき、さりげなく慰めてくれたから? 私をからかうときの笑顔が、子どもみたいに無邪気だから?
――全部、違う。
何かひとつ大きな理由があるわけじゃない。小さな理由が降り積もって、気づいたら後戻りできなくなってただけだ。きっとそう、それだけなんだ。
「はぁ……」
好きだったなぁ、私。瀧川泉が、好きだった。
初めての恋はぎこちなくて、笑っちゃうくらいヘタクソで。涙が出るくらい、切なかった。
「あー、もう期末テストかぁ」
ユキくんが階段を下りながら沈んだ声を出す。放課後、今日からテスト期間ということで部活はない。よかった。瀧川泉に会わなくて済む。
「せっかくみんな揃ったのにね」
続いて麻林も落ち込んだ声を出す。どうやらふたりの落ち込むポイントは違うらしい。
「あれっ、譲司先輩?」
階段を下り終えたユキくんが玄関へ走っていく。遅れて追いかけた先には、軽やかに手を振ってくる譲司先輩。
思いがけず譲司先輩に会えて嬉しかったんだろう。やわらかな金髪を耳にかけながら麻林が話しかける。
「譲司先輩、今日は部活ないんじゃないんですか?」
「うん。吉香ちゃんに用があって」
「え、私ですか?」
何だろう。路上ライブは禁止令が出てるし。いったい何なんだろう。
「こないだの埋め合わせ、してくれるって言ったよね?」
「言いましたけど」
「じゃあ付き合って」
ニカッと笑って私の手首をつかむ。振りほどけなかったのは初めて会ったときの、赤い髪を思い出したから。
譲司先輩が見つけてくれなかったら、二度と瀧川泉に会えなかったかもしれない。会わずに済んだかもしれない。
「バイバーイ!」
急かされるように靴を履き替えて走り出したところで、背中にユキくんの声が飛んできた。
振り返ると、笑顔で手を振ってくるユキくんの隣に、切ない表情の麻林がいた。遠ざかっていく麻林が、目に焼き付いて仕方なかった。
「ちょっ、と……どこまで行くんですか!?」
しばらく走ったと思う。街なかだっていうのにずいぶん走らされたと思う。
さすがに息が切れてきたからそう聞いてみたけど、譲司先輩は答えてくれない。代わりに両手を挙げて――つられて私も右手を挙げて――こう叫んだ。
「ゴオォーッル!」
ただの横断歩道ですけど。周りの視線がすこぶる痛いんですけど。私まで変な目で見られてるんですけど!
「いやー、走ったねー」
何だその清々しい笑顔は。夕方といってもまだまだ暑いのに何のために走らされたんですか私は。
文句のひとつでも言ってやりたいのに息が切れて何も言えない。ただ、汗が路面に落ちるたび、心のどこかがスッキリしていく気がして。あんまり嫌じゃないな、なんて思ったり。
「あー、ノド渇いた。なんか飲もっ」
信号が青になり、私を置いて歩き出す譲司先輩。不意に立ち止まったかと思えば、振り向いてやわらかく笑う。
「吉香ちゃん、早く」
胸が苦しくなった。瀧川泉は一度も振り向いてくれなかった。振り向いて、笑ってくれなかった。私がずっと見ていたのは、瀧川泉の背中だ。
――ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
「はぁー!」
席に着くやいなや勢いよく水を飲み干す。譲司先輩が苦笑してるけど、この際もう気にしない。
「いい飲みっぷりだね」
「今なら3杯ぐらいイケそうです」
「いやいやまあ落ち着いて」
「譲司先輩が走らせるからいけないんですよ」
ほんとは少し、感謝もしてるんだけど。素直にお礼は言えそうにない。あーあ、素直じゃないなぁ私。
きっと譲司先輩は、譲司先輩なりのやり方で励まそうとしてくれたんだろう。
「聞いたんですよね? レイラさんと、瀧川泉のこと」
「……吉香ちゃん、もう少しずるく生きてもいいと思うよ」
ずるく、かぁ。
レイラさんの背中を押さなければ、瀧川泉にちゃんと気持ちを伝えていれば、もしかしたら幸せになれたかもしれない。
でもきっといつか苦しくなる。想い合っていたふたりを、引き裂いてしまったって。いつか絶対。
「そういう譲司先輩だって。レイラさんのために、瀧川泉を殴ったんですよね?」
「え、何で――」
「生徒会長に聞きました。レイラさんが辞めた理由」
視線を落としてしまう譲司先輩。タイミングよく店員さんがやってきて、アイスコーヒーをふたつ置いて去っていった。沈黙。
「週末さぁ、また俺んち来なよ。みんなで勉強会しよっ」
明るい声を出して、いつもみたいに笑って、カランカラン、氷が音を立てて。それ以上、何も言えそうになかった。
翌朝。なんだかいろんな意味で気が重い。最後に見た麻林の切ない顔とか、レイラさんと瀧川泉のこととか、譲司先輩のこととか。
「おはよー吉香さん!」
教室に入ってすぐ、ユキくんが私に気づいてくれた。何やら麻林の席で話していたらしい。仲いいなぁ。
「おはようユキくん、麻林」
「……うん」
席に着いたまま麻林は、うつむいてしまって。よくわかっていないらしいユキくんが不思議そうに私と麻林を見比べる。
気まずい。気まず過ぎる。目も合わせてくれないし。もう。譲司先輩のせいだ。
「あれっ、瀧川先輩!」
私の向こうを見て、ユキくんが驚き顔でその名前を呼んだ。
瀧川先輩? いやいや、ここ1年1組だし。瀧川泉がいるわけ――いた。
振り向いた先、ドアのすぐそばに瀧川泉。なんか笑顔だし。手招きしてるし。会いたく、なかったのに。
「吉香」
逃げようと背を向けたところでゆるい声。ああもう。どうせ逃げらんないよ、瀧川泉からは。
「ちょっと来て」
「手短にお願いします先生きちゃうんで」
「相変わらず、まじめだねぇ吉香は」
まじめなんかじゃない。ただ一刻も早く逃げ出したいだけだ。
廊下の突き当たり、行き交うひとたちの視線を痛いほどに感じながら瀧川泉と向き合う。ああ、早く予鈴なんないかなぁ。
「お礼、言っといたほうがいいのかなと思って」
――瀧川泉は、残酷だ。無意識だからこそ余計に。
「気にしないでください。それじゃあ」
「吉香」
いい加減、逃がしてほしい。放してほしい。忘れようとしてるのに。それには時間が必要なのに。
『もう終わったことですよ』
終わってなんかない。私のなかではまだ。私だけは。
「俺、ちゃんと吉香のこと好きだったよ」
何で今さらそんなこと。何で。
振り向けない。こんな顔、瀧川泉には見せられない。嬉しいのと苦しいのと切ないのでぐちゃぐちゃだ。
「確かにレイラのことずっと気にしてたけど、吉香のこと好きだった」
ずっと片思いだと思ってた。付き合えることになっても、ずっと片思いだと。だからずっと不安で言えなかった。大切な言葉を、胸の奥にしまい込んだ。
「だから、自信もって。何かあったら、俺に話して」
小さく深呼吸。大丈夫。きっと大丈夫。すべて消えちゃうわけじゃない。消えないから。
瀧川泉を好きな私も、瀧川泉の彼女だった私も、瀧川泉と過ごした日々も。まだ思い出にはできそうにないけど。すべて越えて、瀧川泉の後輩になるんだ。
「ありがとうございます、瀧川先輩」
振り向いて笑った。
心から、笑った。
「やっぱりすごいですね……」
「吉香ちゃん、2回目なんだから慣れようよ」
「無理です」
土曜日、私たちはまた譲司先輩の家にお邪魔していた。相変わらずのゴージャスさに目がくらむ。
「じゃ、飲み物とか持ってくるから」
「手伝います!」
譲司先輩について出て行く麻林。だだっ広い部屋に残された、私とユキくん。またしてもベッドに飛び込んでいたユキくんが、不意にため息をつく。
「どうしたの? ユキくん」
「あ……やっぱり、麻林さんは譲司先輩が好きなのかなって」
「うん、そうだろうね」
「だよね……」
何だろうこの沈黙。何でそんな切ない顔をするんだろう。何で――もしかして。
「ユキくん、麻林が好きなの?」
弾かれたようにベッドから降りるユキくん。勢い余って壁に激突。なんてわかりやすいんだ。
向こうずねヒールで蹴られてたのに。襟首つかまれて引っ張られてたのに。
「いや、なんかその、気づいたら、そんな感じに」
「そうなんだぁ。そっかそっか」
「あ、あの、言わないで! 絶対!」
勢いよく近づいてくるユキくん。必死だなぁ。……それだけ、好きだってことなのかな。
「うん。約束する」
ほっとしたように笑うユキくん。つられて笑顔になるけど、ユキくんはつらくないのかな。麻林が、譲司先輩を好きで。
「あ、なんか、ふたりとも遅いね!」
ごまかすために言ったんだろうけど、確かに。何かあったんだろうか。ジュースがこぼれたとか。コップが割れたとか。
「私、ちょっと見てくるね!」
なんだか嫌な予感がする。心音に急かされるまま部屋から出ると、階段の先にふたりがいた。
何だ、いるじゃん。ジュースもコップも無事じゃん。
声をかけようと思った。でも、できなかった。麻林が譲司先輩に近づいていくから。ふたりの距離が、なくなったから。
それはキスという行為で。想い合うふたりが、することで。
どうしてだろう。心の奥の奥の見えないところに、チクリと痛みが走って。小さな小さな針が刺さったみたいで。
じんわり広がる痛みに、なんだか少し。泣きそうになった。