“自分”と向き合え!
逃げたって意味がない。
“自分”からは逃れられない。
だから、向き合え。
◆“自分”と向き合え!◆
「バカは風邪ひかないって言うのに、まさか1週間以上寝込むなんて」
おっしゃる通り、ごもっとも。にしても麻林さん、ちょっと冷たくないですか。あんな麻林にはもう会えないのか。
「あの土砂降りで傘ささない時点でバカ決定だけど」
「もー麻林さん、病み上がりの吉香さんいじめちゃダメだよー」
「別に、事実を述べたまででしょ」
「吉香さん気にしないでね。あれで麻林さんけっこう心配してたんだから」
「ちょっと。誤解を招くようなこと言わないでくれる?」
久しぶりの学校、久しぶりの教室。久しぶりに会った麻林とユキくんは相変わらずで、なんだか嬉しかった。
麻林の言う通り私はあの雨でしっかり風邪をひいて、しばらく学校を休んでいた。
熱に浮かされながら見る夢には必ずといっていいほど瀧川泉が出てきて、いろんな意味で苦しくて仕方なかった。
「はい、これ」
「……何?」
「見ればわかるでしょ」
麻林に手渡されたのは数冊のノートだった。いや、ノートだってことは見ればわかるけど。
「テストのときに泣きつかれても困るから」
――ああ、何だ。そっか。麻林はこういう子なんだ。もう。素直になればいいのに。
「ありがとう、麻林」
今まで生きてきたなかでいちばんつらかったあの日、そばにいてくれて。何も聞かずにただ寄り添ってくれて。
仏頂面だった麻林が少し微笑んだように見えて、私まで嬉しくなる。
私は不幸なんかじゃない。
きっと大丈夫。
「お、吉香ちゃん久しぶりー。復活したんだ?」
「はい、何とか」
「無理しないようにね」
麻林が鍵を開けて、久しぶりの部室で、少ししたら譲司先輩が入ってきて、その後ろに瀧川泉がいて。
別れたあと、どういう態度を取るのが普通なんだろう。自然なんだろう。
「あの、たき――」
「譲司。ちょっとアレンジ変えてみたんだけど」
挨拶をしようとしたところで、瀧川泉がカバンから楽譜らしきものを取り出し、譲司先輩に差し出した。
困ってしまった譲司先輩が私と瀧川泉を交互に見る。目礼して促すと伝わったみたいで、瀧川泉から楽譜を受け取った。
「あーうん、いいんじゃない?」
「ちゃんと見てる?」
「うーん……もうちょいドラム効かせたら? せっかく泉うまいんだし」
「でもバラードだしさぁ」
あれですか。
これは避けられてるんですか。
「完っ全に避けられてるね」
「……そんなハッキリ言わないでくださいよ」
帰り道、譲司先輩が送ってくれると言うのでご厚意に甘え中。相変わらず優しいのか意地悪なのかよくわかんないひとだなぁ。
「泉がこういう行動に出るなんて思わなかったからさぁ」
「どうせ嫌われましたよ私は」
「うーん、ていうか泉らしくない」
「えぇ?」
「泉は来る者拒まず去る者追わず、ってタイプだから。わざわざ避けたりするなんて、何か理由があるんじゃない?」
理由? 私を避ける、理由。何だろう。レイラさんのこと聞いたから怒っちゃったのかな。大切な思い出に、土足で踏み込んだから。
理由はどうあれ、避けられているのは事実で。バカみたいに落ち込んでいるのも事実で。
別れたら、付き合う前の関係に戻れるんだと思ってた。普通に挨拶をして、普通に話して、普通に笑い合って。それだけでよかったのに。それ以上なんて望んじゃいけなかったのに。
「吉香ちゃん。週末、俺んち来ない?」
「――え?」
いつの間にかひとりで歩いていたみたいで、振り向いたら少し離れた場所に譲司先輩がいた。
さっきまでふざけてたのに今は真剣な顔が私に向いている。この感じ、前にも見たことがあるような。
瀧川泉と伝説をした日? 海から帰ってきた、あのとき?
「ユキと麻林ちゃんも誘ってさ。どう?」
さっきの表情が嘘みたいにやわらかく笑う。いつもの譲司先輩だ。何だったんだろ、さっきの。
「別にいいですけど」
「じゃあ、ふたりには俺から話しとくから」
「はい」
なんだか腑に落ちないけど、譲司先輩がさっさと歩き出すからあわてて追いかける。
どんなに頑張っても追いつけなくて、譲司先輩の後ろ姿が瀧川泉に重なっていく。
でも譲司先輩は途中で立ち止まって振り向いてくれた。譲司先輩は、瀧川泉じゃない。
「吉香、ちょっと地味すぎるんじゃない?」
「麻林が張り切りすぎなんじゃない?」
「まーまーふたりとも!」
土曜日。譲司先輩の家の最寄り駅で待ち合わせて、ユキくんの案内で譲司先輩の家に向かう。
「幸人くん、どっちの味方なの」
「味方ってそんな大げさな」
「麻林がズレてるよね?」
私と麻林に挟まれてユキくんは困り顔だ。正直どうでもいいけど、こういうくだらないことでも話してなきゃ余計なこと考えちゃうから。
今日は、瀧川泉に会わなくていい。だから瀧川泉のことは、考えなくていい。
「わかってないわね吉香。譲司先輩の家のゴージャスさを」
「え、行ったことあるの?」
「なくてもわかるわ」
「わかってないじゃん」
「……よかった」
いつの間にか立ち止まっていたユキくんがぽつりとつぶやく。振り返ると、やわらかく笑うユキくんがいた。
「吉香さん元気になって。瀧川先輩と別れたときはどうしようかと――!?」
痛みに耐えきれずうずくまるユキくん。麻林が向こうずねを思いっきり蹴り飛ばしたのだ。ヒールで。
「幸人くんにはデリカシーってものがないの!?」
「い、いいよ麻林」
「よくない!」
「ほんと、気ぃ遣わなくていいから!」
ユキくんが心配してくれるのも、麻林が気を遣ってくれるのも嬉しいけど。なんだか心苦しい。
「ふたりとも、心配かけちゃってごめんね。でも大丈夫だから」
「吉香……」
「そもそも付き合ってたのが奇跡みたいなことなんだから。すぐ慣れるから、気にしないで」
きっとすぐ慣れる。瀧川泉の彼女じゃない自分に。瀧川泉に近づけない自分に。だって元に戻るだけだから。この痛みにも、いつかは慣れる。
「迎えに来たんだけど……」
背後から遠慮がちな声が聞こえて、振り向いたら予想通り譲司先輩がいた。わー、さっきの聞かれちゃったかな。
「お邪魔だった?」
「いえ! 行きましょう!」
どこに譲司先輩の家があるのかわからないけど、いたたまれないのでとりあえず歩き出す。今はただ、何も考えたくない。
「わー……ほんっとにゴージャスだ」
「だから言ったでしょ」
目の前の豪邸に驚いていると麻林が得意げに割り込んでくる。いやいや何で麻林が得意げなの。別にいいけど。譲司先輩の家は、軽く城だった。
「お帰りなさいませお坊ちゃま」
「ごめんねー堅苦しくて」
執事さんとメイドさんに作られた花道を当たり前のように歩いていく譲司先輩。その後ろを私はへこへこと頭を下げながらついていく。
わー。これがお金持ちってやつなのか。すげー。
「譲司、お客様か?」
どでかい扉の先には、スーツを着た50代くらいの男のひとが立っていた。メガネの奥の瞳がどこか生徒会長に似ている。
「お戻りになってたんですか」
「ああ、今さっきな」
「部活の後輩です」
「はじめまして。譲司がお世話になってます」
「みんな、父です」
譲司先輩のお父さん――あ、黒ヶ峰の理事長! 身内贔屓の!
「はじめまして」
麻林と声を揃えて頭を下げる。ユキくんに気づいて優しく微笑む理事長。
「幸人くん。久しぶりだね」
「お久しぶりです! お邪魔します!」
「はは、元気があっていいなぁ」
なんか、思ってた感じと違うなぁ。もっと冷たいひとに見えたけど。気のせいだったのかな。
「また出るんですか?」
「ああ。皆さん、ゆっくりしていってくださいね」
「ありがとうございます!」
元気なユキくんにまた理事長が微笑む。身内贔屓するぐらいだからどんなひとかと思ったけど。意外にいいひとっぽいな。
「優しそうなお父さんですね」
「ん? ――まあね」
あれ? 何で詰まるんだろう。あれ? しかもさっきまでずっと敬語だった、よね。
「みんな、部屋に案内するね」
譲司先輩にとっては、優しいお父さんじゃないのかな。
「わー……」
すごいすごいと思ってはいたけど、やっぱり部屋もすごかった。例えるならスイートルーム? 行ったことないけど。私の部屋いったい何個分なんだ。
「テキトーに座ってて。飲み物とか持ってくるから」
譲司先輩がひとり、部屋から出て行く。あれ、また違和感。
「お手伝いさんに持って来させないのかしら」
ああ、それだ。麻林の言葉に、どでかいベッドに飛び込んでいたユキくんが起き上がる。
「譲司先輩、あんまり好きじゃないんだって。そういうの」
――そういうの?
「自分でできることは自分でしたいんだってさ」
「さすが譲司先輩。しっかりしてるわね」
何だろう、違和感が拭えない。なんていうか、しっかりしてるって言うより。一線を引いてる?
「吉香、ピアノあるわよ」
麻林が指差す先には、真っ白いピアノが置いてあった。大きな窓から日差しが入ってなおさらきれいだ。
「しかもグランドピアノね。白なんて、王子様みたい」
うっとりと微笑む麻林。譲司先輩が弾いてるところ、思い浮かべてるのかな。
「相変わらず好きだねぇ、麻林は」
「……まあね」
少しずつ、少しずつ、心が軽くなっていく。落ち着いていく。
瀧川泉への想いだったり、瀧川泉と話せない寂しさだったり、瀧川泉を忘れなきゃいけない切なさだったり、いろんなものに埋め尽くされていたけど。
瀧川泉じゃない誰かのそばにいるだけで、瀧川泉じゃない誰かと笑い合うだけで、それが当たり前のように思えて。
初めから私の居場所はここだったんじゃないか、って。
「ユキ開けろー!」
「もー。初めっから開けてったらよかったじゃないですか」
「譲司先輩、手伝います」
我先にと駆けていく麻林。それからユキくん、譲司先輩。いつもならここに瀧川泉もいるんだけど。
振り返って、大きくて真っ白いグランドピアノを見やる。舞台の上でレイラさんが弾いてたのは黒だったっけ。
「吉香ちゃん、弾きたいの?」
「わっ!」
びっくりしたー。譲司先輩、いつの間に。
「はは、驚きすぎ」
なんて譲司先輩が笑う。よかった、いつもの譲司先輩だ。さっきお父さんがいたときは、こんなふうに笑わなかったから。
「弾いてみる?」
「あ、でも……どこにドがあるのかわかんないんですよね」
「しょーがないなー。ハイ座って」
促されるままピアノの前に座ると、後ろから譲司先輩の手が伸びてくる。
――ポーン。譲司先輩が白い鍵盤に指を置いて、きれいな音色が響きわたった。
「ここがド。黒鍵の並びで見分けんの」
ピアノが弾けるようになったら、少しはレイラさんに追いつけるだろうか。追いつけただろうか。
月曜日の朝。たまたま階段で瀧川泉と鉢合わせた。下りてきたところを見ると屋上にいたのかもしれない。
私は気づいて立ち止まったけど、瀧川泉は私に目もくれず通り過ぎてしまう。
「待ってください」
このままじゃいけないと思った。どうせなら理由を知りたい、そう思った。
振り向いた先に瀧川泉の背中。一応、立ち止まってくれたみたいだ。
「何で避けたりするんですか?」
瀧川泉は答えない。
「確かに私はもう瀧川先輩の彼女じゃないけど、部活の後輩です。こんなふうに避けられたら、つらいです」
はあ、瀧川泉が大きなため息を落として振り返る。久しぶりに合った視線は冷たくて、突き放されているように感じた。
「じゃあ俺にどうしてほしいの」
「ど、どうって」
「優しくしてほしい? 目の前から消えてほしい?」
「……普通に、してほしいです」
またため息。めげちゃダメだ。ちゃんと言いたいこと、言っとかなきゃ。
「あと、レイラさんに伝えてほしいです。私に話してくれたみたいに」
瀧川泉が笑う。乾いた笑い声。冷たくて、でもどこか悲しそうな、笑顔。
「俺のこと本当に好きなら、泣いてすがってよ。別れたくないって」
心臓を撃ち抜かれた気分だった。私のせいで瀧川泉は悲しんでるの? 瀧川泉が私を避けるのは、私のせい?
「吉香の気持ちがもっと大きかったら、たぶん俺は吉香を選んだよ」
見上げてくる瞳が濡れていて、今にもこぼれ落ちそうで。背を向けた彼を呼び止めることも、追いかけることも、できなかった。
ただ、瀧川泉の残像を見つめることしか。できなかった。