忘れられないひと
本郷レイラ。3年。生徒会副会長。軽音楽部の元部員で、元ボーカルで、――瀧川泉の、元恋人。
「はぁ……」
小さくため息を落として机に突っ伏す。今日はまだ始まったばかりだけど、1日分には充分すぎるほどの憂鬱を持ち合わせている。
瀧川泉は、あのひとと別れてから誰とも付き合っていないらしい。
自分の気持ちを自覚したところでこれ。まるで“あんたじゃ釣り合わないよ”ってクギでも刺されてるみたいだ。また少し、瀧川泉が遠くなる。
「やほー吉香ちゃん、落ち込んでるねー」
重い体にのしかかる軽い声。あなたのせいですよね、なんて責任転嫁したくなる。顔を上げればやっぱり、軽やかに微笑む譲司先輩。
あーあ、あんなこと聞かなきゃよかった。
「おはようございます相変わらず悩みがなさそうですね譲司先輩は」
「まあね、今回もトップになっちゃったし。あ、テストの結果で落ち込んでるの?」
「……それもありますけど」
否定できない自分が悲しい。泣きっ面に蜂ってやつだよね。ハハハ。
「あー、レイラのこと? 気にしてるの?」
気にならないわけがない。
『あのときの本郷先輩のようにならないことを祈ってますよ、阿部吉香くん』
生徒会長が意味深なことを言うから、思わず譲司先輩に聞いてしまったのだ。本郷レイラ――副会長のことを。
あんなに美人で、青い瞳がきれいで、ピアノがうまくて、声も天使みたいに透き通ってて。
瀧川泉が好きになるのは、そばにいたいのは、あんなひとだ。私なんかじゃない。
「気にしなくてもいいと思うけどなー。吉香ちゃんけっこういい感じだったじゃん、こないだ」
「譲司先輩が言ったんじゃないですか。あのひとが瀧川泉の忘れられないひとだって」
「ていうかフルネームで呼んでんだ、泉のこと」
「中学んときからの癖で……って、話すり替えないでください!」
「あ、バレた?」
くすくす笑う譲司先輩。どこまでも余裕だなぁ、ムカつくくらい。――それにしても。
「副会長が金髪だったなんて……」
「そんな意外?」
「意外だけど意外じゃないです」
「えー意味わかんないよ吉香ちゃんー」
副会長は、軽音楽部を辞めて少ししてから黒髪のカツラを被るようになったらしい。だからかな。あのとき、副会長の髪がくすんで見えたのは。
結局ニセモノはホンモノに勝てないのだろう。ホンモノの金髪を持つ副会長からすれば、私の髪は紛れもなくニセモノ。きっと敵わない。
「でも、何で隠すんだろう」
「生徒会に入るには邪魔だったんじゃない?」
「でも地毛だから校則違反にはなりませんよね?」
「地毛だって知らないひともいるからねぇ」
うーん。何だろう、しっくり来ない。もっと違う理由で隠しているような気がする。確証はないけど。
「あ、麻林ちゃん。おはよー」
いつの間に来ていたのだろう、花村さんがやわらかい金髪を弾ませ会釈する。
「おはようございます、譲司先輩」
譲司先輩にやわらかい笑みを向け、そのまま教室のまんなかにある自分の席へ向かう。……さらっと無視されたような。
いろんなことがうまく行かないなぁ。空は、こんなに晴れてるのに。
昼休み、ひとり寂しくお弁当を食べながら窓の外を見る。ユキくんが譲司先輩のところで一緒に食べようと誘ってくれたけど断った。今日は、そういう気分になれない。
そういえば。瀧川泉は、いつもどこで食べてるんだろう。譲司先輩とはクラスが違うらしいけど。前に譲司先輩が、誘っても来ないとか言ってたっけ。
じゃあ、どこで。
一瞬、本郷レイラの顔が脳裏をよぎった。いや、ないない。きっとない。だってふたりはもう別れてるんだから。
じゃあ、教室? うーん、違う気がする。じゃあ学食とか? いやない絶対ない。だって瀧川泉だもん。じゃあ――。
『ここ来たくなったら言いなよ』
ふと、瀧川泉の笑顔を思い出した。屋上の、空にいちばん近い場所。光に満ちた場所。彼がいるような気がした。
お弁当の残りをかき込んで、心音に急かされるまま教室を後にした。今はただ純粋に、瀧川泉に会いたい。
屋上に続く階段を、ひとつずつ飛ばしながら駆け上がる。誰もいないかもしれない。瀧川泉もいないかもしれない。
根拠なんてないけど、よくわからないけど、空のなかで微笑む彼がいるんじゃないかって。
「はぁ、は、……はあ」
大きく深呼吸をして乱れた呼吸を整える。意を決し扉に手をかけると、ギギギと軋むような音がした。
途端、風が吹き抜けてスカートやら髪やらが暴れだす。鍵を閉め忘れた、とかじゃないよね? いるんだよね? 瀧川泉。
祈るような気持ちで足を進める。少しして足元に誰かの影を見つけた。立ち止まって振り返ると、やっぱり。
「久しぶり、吉香」
屋上のいちばん高い場所で、晴れ渡った空をバックに微笑む、瀧川泉。
やわらかい風が吹いて、太陽が彼を照らして、茶色がかった髪と目がキラキラして。その後ろを白い雲がゆっくりと流れて。
この一瞬を目に焼き付けておきたい。そう思うのに、何だか泣きそうになって視界がにじむ。
ああ、こんなにも私は瀧川泉が好きなんだ。そう痛いほどに感じた。
「お久し、ぶりです」
「上がってきなよ」
促されるまま彼のもとへ向かう。これといって用があるわけではない。ただただ、会いたかった。
「座る?」
「……お邪魔します」
瀧川泉をまねて、ふちのほうで足を垂らして座る。やわらかい風が足元を通る。何だか心もとない。
「テストどうだった?」
「それは聞かないでください」
「はは、俺も惨敗組」
勝手に決めつけないでいただきたい。確かに順位はかなり低かったけど、私のなかではあれでも上出来だったんだ。
――でも、まあ。
瀧川泉と一緒なら、いっか。
ちらりと隣を見やる。やわらかい微笑を浮かべ、ぶらぶらと足を遊ばせる彼。今なら、聞けるだろうか。聞いても怒らないだろうか。
「あの、副会長と付き合ってたって本当ですか?」
かなり直球ドまんなかストライクだったと思う。でも瀧川泉はこっちを見ない。何事もなかったようにさっきと同じ。変わらない。
あ、そっか。無視されたんだ。余計すぎるもんね。私には関係ないことだもんね。
「吉香ー」
「……はい」
「付き合おっか」
てっきり怒られると思ってた。でもこっちを見た瀧川泉は、さっきよりもっとやわらかい顔をしていて。
伸びてきた白くて細い手が、私の頭に乗っかって。ポンポンと優しくなでられて。
私は何も言えなくなった。
教室に戻ると、なぜか誰もいなかった。花村さん以外は。あれ、何で――ハッ! 次、移動じゃん!
さっきのアレのせいで完全にボケてる。あわてて自分の机に向かい次の授業の準備をしていると、花村さんが遠ざかる気配。振り返れば、出口に向かう花村さんの後ろ姿。
「あの」
思わず呼び止める。花村さんは足を止めただけで、振り向こうとはしなかった。
「この際なのでハッキリ言っておきますけど、私、譲司先輩のことは何とも思ってませんから」
花村さんが振り向いてやわらかい金髪が揺れる。黒々とした瞳がにらむように私を見つめてくる。……ちょっと言い方、悪かったかな?
「何ともって言うか、悪いひとではないと思ってます」
「――何が言いたいの」
「私、瀧川泉が好きなんです。でも瀧川泉には忘れられないひとがいて……そのひとのこと聞こうとしたら、付き合おうって言われて」
自分でも何を話しているんだろうと思う。でもただ今は、誰かに聞いてほしくて。自分ひとりじゃ収まらなくて。
花村さんの整った眉が訝しげに歪む。ほんと、何やってんだろう私。
「もしかして私に相談してる?」
「だってこんなこと、他に話せるひといないし」
「幸人くんに話せばいいでしょ」
「花村さんだったら、どうする?」
心を埋め尽くす大きな不安。私は、どうするべきなんだろう。答えはどこにあるんだろう。
花村さんがふっと目を伏せる。長いまつげが白い頬に影を落として、同性ながらきれいだなと思った。
「私なら、付き合うわ」
予想とは大きく違う答えだった。
「忘れられないひとがいたって、そのひとは過去のひとなんだから。たとえ利用されてでも、今を一緒に過ごせたらそれでいい」
ほんとに譲司先輩のことが好きなんだなぁ、なんて彼女の凜とした横顔を見て思う。
――でも、そっか。そうだよね。
瀧川泉と今を過ごせたら。瀧川泉の今を、共有できたら。それでいいのかもしれない。幸せかもしれない。
「ありがとう、花村さん」
花村さんに聞いてみてよかった。このまま流されていいのか不安だったから。
私は流されない。私は、私の意志で彼のそばにいよう。
「麻林でいい」
いつの間にこっちを見ていたのだろう。花村さんの真っ黒い瞳と目が合う。
「え?」
「他のひとはみんな下の名前で呼んでるから」
早口で、目をそらされて、花村さ――麻林が照れていることはすぐにわかった。
素直じゃないな。なんて、譲司先輩に笑われたことを思い出す。
「じゃあ、私も吉香でいい」
どうやら私はそれほど嫌われているわけではないらしい。麻林の口元が少しだけ、嬉しそうにゆるんだから。
「吉香って変わってるわね。普通あんなことされたら無視するでしょ」
「……だって、わかる気がするから」
麻林がよくわからないといった顔で小さく首をかしげる。そう、わかる気がするんだ。
「麻林は譲司先輩が好きなんでしょ? だから、あんなことしてきた」
責めるつもりはなかったんだけど、麻林がふっと視線を落としてしまう。
「悪かったって、思ってるわよ」
どうしようもなくあたたかい気持ちが心のなかに広がっていく。謝ってる、よね? たぶん。――よかった。
「ほら。悪いひとじゃないと思ってた」
誰かを嫌うのはつらい。誰かに嫌われるのも、つらい。無理に好いてくれなくていいから、これ以上嫌いにならないでほしい。
麻林は少しだけ私と目を合わせると、不意に顔を背けてしまう。
「さっさと行くわよ。遅れちゃう」
それだけ言い残して歩き出す麻林。あわてて追いかけ隣に並ぶ。ほんのり色づいた麻林の頬に、口元がゆるんで仕方なかった。
「おはよーございまーっす!」
軽音楽部の部室に響くユキくんの明るい声。久しぶりの部活。ユキくん、麻林と一緒に行くと、すでに譲司先輩と瀧川泉の姿があった。
……あれ? 鍵は麻林が管理してるんじゃなかったっけ?
そんな疑問も瀧川泉と目が合えば、まして微笑みかけられでもすれば、あっという間にどこか遠くへ飛んでいく。
「ハイ吉香ちゃんはこっちー」
「え!?」
いつの間にかそばまで来ていた譲司先輩に腕をつかまれ、後ろ向きのまま退場。部室のドアが閉まり、瀧川泉は見えなくなった。
「よかったね吉香ちゃん、泉に聞いたよ」
「え!?」
「泉と付き合ってんだって?」
うっ。もう譲司先輩まで話が行ってるんだ……。瀧川泉、ホイホイしゃべんないでよお。
「そんなことより! 何で鍵あいてるんですか!?」
どうでもいいことを無駄な剣幕で問いかけてみる。苦笑気味に笑う譲司先輩。どうか食いついてくれ。
「ちょっと麻林ちゃんに借りてたんだ。曲つくってたから」
「え、曲って――歌のですか?」
「うん、まあね」
いやいやそんなさらっと。簡単につくれるものじゃないだろうに。それとも譲司先輩にとっては簡単なことなの?
「ま、これについては今からなかでみんなに説明するから」
「はあ」
譲司先輩が部室のドアに手をかける。やっと尋問が終わったぁ、なんてホッとしたのもつかの間。頭上からくすくすと笑い声が降ってくる。
「泉とお幸せに」
譲司先輩は意地悪だと思う。何もドアを開ける寸前にそんなこと言わなくてもいいのに。
一度は収まっていた恥ずかしさから来る熱が、またしても急激に上がりはじめる。
開かれたドアの先にいる瀧川泉と目が合う。優しい顔で私を見るから、何だかいたたまれなくなって目をそらした。
「ハイ、みんな座ってー。報告がありまーす」
譲司先輩のゆるい声。促されるまま席に着くと、譲司先輩はコホンとわざとらしく咳払いをした。
「えーっと、今から約2ヶ月後。夏休みにイベントがあります」
「イベント、ですか?」
「高校生ロックコンテスト。通称ロクコン」
聞き返したユキくんに譲司先輩が人差し指を立てて答える。へえ、そんなのあるんだ。
「参加資格は高校生であること。バンド形式であること。あと、オリジナルナンバーをひとつ用意すること」
オリジナルナンバー? ……あ、ここでさっきの話につながるわけか。
「アレンジは泉に頼むとして、途中までだけどつくってみた」
譲司先輩がギターを取り出す。
「ロクコンっていうぐらいだし、他の参加者はバリバリのロック持ってくるだろう。だからあえて逆で行こうと思ってる」
逆? そう思うが早いか、譲司先輩がギターを鳴らしはじめる。優しくて、でもどこか切ないメロディー。
――きっと初めから
出会うべきじゃなかったの
語りかけてくるような、優しい譲司先輩の声。こんな声も出るんだ。
――君の視線はいつも遠くて
君の手はすぐ傍にあるのに
ああ。この歌。
――Love me,love me,love me...
こんなにも想ってるのに
僕の声は届かない
まるで、私みたいだ。
――君もどこかで
誰か想ってLove me...
ほんとはわかってる。瀧川泉の気持ちが私に向いてないこと。わかってる。瀧川泉が、心のどこかであのひとを待ってること。あのひとに、愛されたいと思ってること。
「……吉香ちゃん?」
いつの間に終わっていたのだろう。譲司先輩が困ったような、心配そうな顔つきで私を見てくる。
辺りを見回すと、ユキくんや麻林も似たような顔をしているのがわかった。瀧川泉は驚いているのか動けなくなっている。どうしたんだろう、みんな。その疑問はすぐに解けた。
「吉香ちゃん、何で泣いてるの?」
譲司先輩に指摘されて初めて気づいた。まばたきしたらこぼれ落ちて頬が濡れる。私は、泣いていた。
「あ――えっと、あの……まつげ、入っちゃって」
我ながらヘタクソだと思う。でも他に何にも思い浮かばなくて。私自身そういうことにしておきたくて。でも、涙は止まってくれなくて。
あの曲が優しすぎたから。譲司先輩の声が、優しすぎたから。
「泉」
さっきとは打って変わり低い声を出す譲司先輩。違う。瀧川泉は関係ない。何も言わないで。
そんな願いを込めて譲司先輩を見つめる。だけど譲司先輩は私をちらりと見ただけで、すぐ瀧川泉に視線を戻した。
「吉香ちゃんのこと、本気なのか?」
「――は?」
「気持ちがないんだったら、吉香ちゃん傷つけるだけだぞ」
にらみ合う譲司先輩と瀧川泉。先に目をそらしたのは瀧川泉だった。うつむいて、乾いた笑い声をこぼす。こんな瀧川泉、見たことがない。
「レイラもダメ吉香もダメって……俺は譲司の家来じゃないんだよ」
顔を上げた瀧川泉が、譲司先輩に強い眼差しを向ける。強くて冷たい、眼差しを。
「俺にだって意志があるんだから」
その言葉を最後に出て行ってしまう瀧川泉。違う。私が見たかったのは、こんな瀧川泉じゃない。私が好きなのは、こんな瀧川泉じゃ。
「吉香さん!」
ユキくんの声を背中で聞いて部室から飛び出る。強く拭ったせいで目元がヒリヒリする。
私がそばにいたいのは、幸せそうに笑う瀧川泉だ。
「瀧川先輩!」
慣れない大声を出したせいで喉が痛い。でもそれ以上に。心が、痛い。
瀧川泉は立ち止まってくれたけど、振り向いてはくれなかった。近づこうと踏み出すと、瀧川泉が歩き出す。離れてく、瀧川泉が。
やっぱり届かない。私の足じゃ、私の声じゃ。瀧川泉の心に、届かない。