「守らせてよ」
なんてバカなんだろうと思う。初めからおかしかったじゃない。わざわざ私に声をかけてくるなんて、何か裏があるに決まってる。
『一緒に行かない?』
でも私、嬉しかったんだ。普通の友達みたいで。友達に、なれたみたいで。
くそう。何で泣きそうになるの。余計みじめじゃん。
「あー、サボってる」
下唇を噛みしめたところで頭上からゆるい声が降ってきて、見上げたら茶色い髪がキラキラしてる瀧川泉がいた。
屋上のいちばん高い場所――階段室の上で、茶色い目をやわらかく細めている。
「瀧川せ、んぱいこそ」
危ない危ない。危うく呼び捨てにするところだった。瀧川泉って。
「来る?」
「えっ――」
「気持ちいいよ」
なんてことないみたいに笑って、優しい瞳で私を映す。近づいても、いいのかな。私なんかが瀧川泉に。許されるなら、近づいてみたい。
「ほら、気持ちいいでしょ」
瀧川泉の言う通りだった。空が近い。風がじかに吹いてくる。周りには空と、瀧川泉しかいない。
「吉香、寝転がったらもっと気持ちいいよ」
なんて言いながらそのまま倒れ込む。不用意にドキドキさせるのはやめてほしい。
ただでさえ他に誰もいなくて、いつもより距離が近くて、心音が騒がしくて仕方ないのに。添い寝なんて無理。絶対。
「屋上って普通、立ち入り禁止なんじゃないんですか?」
だから話を変えてみた。瀧川泉が起き上がり、ポケットから何か取り出す。
「これ、譲司にもらっちゃった」
……鍵。たぶん屋上の。ちょっとちょっと、いいんですかそんなの。権力乱用にも程がある。
「だから開いてたんですね」
なんて瀧川泉に言えるはずがなく――そもそも悪いの譲司先輩だし――中途半端に笑った。
「うん。吉香もいる?」
「いやいいです」
「そう? じゃあここ来たくなったら言いなよ」
いとも簡単だと思う。さっきまでどん底にいたはずなのに、瀧川泉のそばにいるだけで簡単に心が晴れていく。
瀧川泉の言葉が、視線が、笑顔が、あっという間に私を幸せにしてしまう。
『アイツは難しいよー。忘れらんないひといるから』
でもこれは恋じゃない。きっと違う。
この気持ちはただの憧れで、その証拠に私は瀧川泉の彼女になりたいだなんて思ったことがないもの。きっとこの気持ちはただの憧憬、だ。
いつかは来るだろうと思ってた。
朝、下駄箱の前。目に飛び込んできたのは真っ白い紙。たぶんアレ。よくあるアレ。ありきたりなアレ。
とりあえず手に取って開いてみる。……ああ、やっぱり。うんうん。だよね。
「よっしかちゃーん!」
納得してうなずいていたら後ろから譲司先輩に抱きつかれた。このひとほんと何なの。肘鉄だけじゃ足りないの?
「おは――アレ?」
すいっと持っていた紙を奪われる。めんどくさいひとにバレちゃったな。
「なになに、『今日の昼休み、体育館裏に来い』……ラブレター?」
「なわけないじゃないですか」
相手、女の子だし。命令口調だし。ラブレターにしてはお粗末だし、紙だけって。ていうか。
「そろそろ離れてくれません?」
「よし、俺が行こうそうしよう!」
ひとの話きけ!
「うっ……前よりパワーアップしてる……!」
こないだは一応、加減しましたから。身悶える譲司先輩からさっきの紙を取り返した。
『大っ嫌い』
面と向かってこんなことを言えちゃうひとだから、あれで終わりってことはないだろうと思ってたけど。あーあ。今度はなに言われるんだろう。
「吉香ちゃん、俺も一緒に行くから。絶対ひとりで行っちゃダメだよ」
「いいですよ、ひとりで行きます」
むしろ譲司先輩が来たら余計ややこしいことになりそう。こういうのは相手が飽きるまで耐えればいいんだから。……たぶん。
「相手が男だったらどうすんの? 俺も行く」
「いや、女の子だってわかってるんで」
腑に落ちないのか、ツンと唇を尖らせる。いやいやそんな。子どもじゃないんだから。
「ほんと言うとさ、初めっからわかってたんだ。俺らのそばにいたら吉香ちゃん嫌な思いすんの」
ですよね。東の泉と西の譲司ですもんね。仕方ないよね。だからひとりで行かせてください。
「だからせめて、守らせてよ」
――守る? 譲司先輩が、私を?
『これ以上吉香ちゃんに何かしたら、ただじゃおかないから』
この言葉は逆効果だったけど、あのお姫様だっこもさっきのハグも逆効果でしかないけど。譲司先輩が祈るように、まっすぐ私を見つめてくるから。
信じてみようと思った。
信じてみたいと思った。
「あー、なんか緊張するねぇ、こーゆーの」
昼休み、私は約束通り譲司先輩とともに体育館裏を目指していた。
私のなかにある呼び出しイコール体育館裏という公式は、案外まちがっていないらしい。
「慣れてるんじゃないんですか? 西の譲司って呼ばれてたんだったら」
「んー。呼び出されてもすっぽかしてばっかだったから」
「うわーひどい」
「だって見た目だけで好かれても嬉しくないし」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだよ」
ふーん。そもそも好かれたことないからわかんないや。
「花村麻林ちゃん、でいーんだっけ?」
おそらく角を曲がった先に彼女がいるだろう。譲司先輩がふと立ち止まり、軽い口振りで確認してきた。
「はい」
答えた途端、空気が変わったような気がした。目の前にある大きな背中は変わらないのに。
「行くよ、吉香ちゃん」
内容もいつもと変わらないけど、声はうんと低くなった。このあと彼女に何を言われても大丈夫だと思った。大丈夫だと、思えた。
「まーりんちゃん、こんちは!」
腕を組んで私が来るのを待っていた花村さん。譲司先輩の登場にわかりやすいくらい動揺している。
「じょ……篠之宮先輩」
「いーよ譲司で。それよりうちの吉香ちゃんに何か用?」
ギロリ、突き刺すような視線が譲司先輩の肩越しに向けられる。すかさず譲司先輩が背中でかばうように立ちはだかってくれた。ホッ。
「俺が聞いてるんだけど」
泣いてしまうんじゃないかと思った。
きっと花村さんは譲司先輩のことが好きで。誰かを傷つけてしまえるほどに、心の底から嫌ってしまえるほどに。
私が花村さんだったら。譲司先輩が瀧川泉だったら。きっと耐えられない。
「どうして譲司先輩は、阿部さんをスカウトしたんですか?」
泣いているような声だった。譲司先輩の背中で見えないけど。見てしまっていいのかわからないけど。
「金髪だったから」
「――え?」
思わず間抜けな声を出してしまった。譲司先輩がきょとんとした顔で振り返る。花村さんも私と同じように呆然としている。
「あれ、言わなかったっけ?」
「いや聞いてないです」
「ほら俺、ライブんとき赤じゃん。で、泉は銀、ユキは青なわけ。だから吉香ちゃんの金髪が欲しかったんだよねー」
思い出してみる。
確かに入部したとき、金髪金髪うるさかった気がする。あのときは瀧川泉に会えたことが嬉しくて、あんまりちゃんと聞いてなかったけど。
「じゃなきゃ見ず知らずの新入生いきなりスカウトしたりしないって」
そりゃそうだ。ごもっとも。それぐらいの常識はありますよね、いくら譲司先輩でも。
「まあ誰もが振り返る美人、とかならまだしも」
その一言すごく余計ですけど。自分が美人じゃないことくらいわかってますから。どうせ私はお姉ちゃんのイマイチ版ですよ、はいはい。
「だから麻林ちゃん、吉香ちゃんに無駄なヤキモチ妬かなくていーから」
「あ……はい」
何だろうこの肩すかし感。こんな簡単に解決しちゃうの? あっけない。
「そーだ麻林ちゃん、明日の昼休みライブするから来てよ」
「えっ――」
「あ、でもゲリラだから。みんなにはまだ内緒ね?」
なんて言ってお決まりのポーズを取る。何なんだろうこのひと。こんなサクサク。まるで何事もなかったみたいに。
初めから何にもなかったみたいに。
「あー、緊張するなぁ」
ユキくんが誰に言うでもなくつぶやく。昼休み、ライブは目前に迫っていた。
昨日譲司先輩が言っていたとおり、譲司先輩は真っ赤っか、ユキくんは真っ青、瀧川泉は銀色。
実に賑やかな集団だと思う。きっとこの髪でなければ、彼らに近づくことはできなかったのだろう。
「さて、放送室いってこよーっと」
「え、今からですか?」
「だって放送しなきゃひと集まんないじゃん。ゲリラなんだから」
思わず聞き返したら当たり前のように答える。そりゃそうだ。でも今から? 軽やかに舞台から降りる譲司先輩。そのまま赤い頭が遠ざかっていく。
振り返れば、瀧川泉が最後の練習をしているのが見えた。慣れた手つきでリズムを刻んでいる。
初めて見たときの激しい感じとは違う、落ち着いたリズム。動くたびに銀色の髪が揺らめいてきれいだ。叶うならずっと見ていたい。
「吉香さん、練習しなくて大丈夫なの?」
「え、あ、うん」
ユキくんに促され、あわててマイクの前に立つ。気づかれてないよね? 気づかれてたらどうしよう恥ずかしすぎる。
瀧川泉を、見ていたいだなんて。
こっそりため息を落として、赤い顔を冷まして、あらためて会場を見渡す。こんなに広い場所で歌うんだ。あの副会長のように、ここで歌うんだ。
怖くなってきた。どれくらい集まるんだろう。あんまり集まらなきゃいいな。
どこまで行っても自信がない。金髪にしたところで、私は何ひとつ変われてなんかない。
『あーあー、テステス』
スピーカーから譲司先輩の声。あのときと同じ、声。
『新しい自分を見つけてみませんか?』
『新しい世界を見てみませんか?』
軽音楽部という新しい世界のなかでも、私はずっと私のまま。新しい私なんてどこにも見当たらない。
でも。だけど。
みんなの努力を無駄にしたくない。連休返上で毎日練習したんだ。私なんかがぶち壊しちゃダメ。
私にできることを、まじめに、一生懸命やろう。
「お、けっこう集まってんなー」
「人、人、人、人……」
譲司先輩が幕の隙間から会場を覗いている。余裕の笑みを浮かべながら。その横ではユキくんが手のひらに書いた人という字を飲み込んでいる。
ああ、緊張しすぎて心のなかが苦しい。押し寄せてくる感情に飲み込まれそうだ。
「吉香」
不意に頭上から声をかけられて、見上げたら瀧川泉が優しく目を細めていた。このひとは緊張というものと縁遠い気がする。
「緊張してる?」
「はい。とっても」
瀧川泉は小さく笑うと、何でもないようにポンポン頭をなでてきた。……どうしよう私いま絶対、真っ赤だ。
「気楽に頑張ろ」
気楽と頑張るは両立できないと思う。
でもそんなこと言い返せなくて。そんな余裕どこにもなくて。ただ小さく、うなずくことしかできなかった。
「よっし、新生glow、初ライブだ!」
譲司先輩のかけ声で幕が開く。広がる世界。向けられる、たくさんの眼差し。怖くなってきた。
譲司先輩の挨拶を聞き流しながら瀧川泉を振り返る。やわらかく笑ってくれるから、違う意味でドキドキして仕方ない。
あらためて前を向く。口を開けばあふれ出しそうなたくさんの感情を声に変えて、歌おう。
「それでは聴いてください。東中の校歌」
気づけば拍手のなかにいた。いつの間に終わったんだろう。私ちゃんと歌えたのかな。
瀧川泉を振り返る。手に持っていたスティックで拍手してくれたから、何だか泣きそうになる。
『ううん』
不意に、控えめな咳払いが聞こえた。振り向くと、舞台から下につづく階段の先に――生徒会長の姿があった。
手にはしっかりマイクが握られている。しんと、静まり返る会場。
「勝手なことされちゃ困りますよ、篠之宮くん」
今度はマイクを使わずに話す。まあ静かだし必要ないもんね。
口元は笑っているけど、メガネの奥の瞳は笑っていないような気がした。ユキくんにギターを預け、たんたんと階段を下りていく譲司先輩。
「これはこれは生徒会長の葛目紫月さんじゃありませんかぁ。聴きに来てくれたなんて嬉しいなー」
「君はどこまでも身勝手ですね」
うわー。これが冷戦ってやつなのか。こわー。
「でもさぁ、平和な日常のなかにもちっちゃい事件があったほうが楽しいと俺は思うんだよねえ」
「僕はそうは思わない」
「……失礼しましたぁー」
譲司先輩が舞台に戻ってくる。そうして集まってくれたひとたちに最後の挨拶をする。
私はというと、いまだ階段の先にいる生徒会長を見つめていた。譲司先輩に向けられている視線が冷たい。
「譲司はさ、ずっと学年首席で」
いつの間にかそばに来ていた瀧川泉が小声で話しはじめる。わ、ちょっと待って、近い。
「生徒会長はずっと次席で、まあやることなすこと気に食わないんだろうね」
……なるほど。そういうことか。
不意に生徒会長と目が合った。なんとか笑顔をつくったら、冷たい笑顔が返ってきた。
休みを挟んで月曜日。譲司先輩のおかげか上履きがなくなることも、教科書に落書きされることもなくなっていた。譲司先輩サマサマだ。
「おはよう吉香さん」
「おはよ、ユキくん」
いつも通りユキくんと挨拶を交わし、窓際の席に着く。窓ガラスに目をやると金髪の私。だいぶ見慣れてきたなぁ。
「えっ……!?」
ユキくんの声。他のクラスメートたちも何やら騒がしい。どうしたんだろう。
振り向いた先には立ち上がったユキくんと、彼を通り過ぎてこちらに向かってくる花村さんの姿があった。
相変わらず肩まで伸びた髪はやわらかいウェーブを描いている。ただその髪が、真っ金々だというだけ。
「阿部吉香。これは宣戦布告よ」
どうやらそのようですね。思わず立ち上がった私を、花村さんが腕を組んだまま睨みつけてくる。
「私も軽音楽部に入ったわ。マネージャーとして」
「え――」
「絶対あなたにだけは負けないから」