憧れのひと
「よっしかちゃーん!」
下駄箱の前で立ち尽くしていると突然そんな声が飛んできて、誰かに勢いよく抱きつかれた。そう、あろうことか抱きつかれた。
「おは――うっ!」
「譲司先輩セクハラで訴えますよ!?」
「ただの、ハグ、なのに……っ」
さっきの肘鉄が効いたのか、見事なまでに途切れ途切れだ。譲司先輩の向こうから瀧川泉が顔を出す。
「吉香おはよ」
「おはよう、ございます」
眠たそうに茶色い目を細めて私を見下ろす。相変わらず背ぇ高いな、なんてどうでもいいことを考えてみるけど心臓は落ち着いてくれない。
「なんか吉香ちゃん態度ちがくない?」
「気のせいです」
「……靴、履き替えないの?」
「上履きなくなっちゃいました」
譲司先輩は瀧川泉を振り返ると、なぜか怪しく笑って私からカバンを奪った。
「ハイこれ泉、持ってて」
私と譲司先輩のカバンを持たされた瀧川泉が小さく首をかしげる。かと思えば突然からだが浮き上がった。
「よっし、行くよ吉香ちゃん」
「――は」
これは俗に言うお姫様だっこ?
えっ、ちょ、ちょっと待って。いやいやいや意味わかんない。自分で歩けますからー!
「吉香ちゃんさ、泉のこと好きでしょ」
「えっ!?」
「でもアイツは難しいよー。忘れらんないひといるから」
こんな状況でそんなこと聞かされて、どうしろって言うのよ。それに、これはただの憧れで。――憧れ、で。
『そっちは? 名前』
『……阿部、吉香です』
『ふーん、吉香ね。よろしく』
薄暗い世界に差し込んだ、唯一の光で。
「吉香ちゃん、開けて」
気づけばもう職員室の前で、譲司先輩に言われるがままドアを開けた。そしたらなかにいた先生がすかさず駆け寄ってくる。
「ど、どうされました?」
「スリッパ貸してくんない?」
「ただいま持って参ります」
やっぱり釈然としないけど、状況が状況なので何も言えない。とりあえず早く下ろしてもらおう。
「ハイ、お姫様」
「……どうも」
ようやく譲司先輩から解放された。ほっとしていたら背後から気だるげな声が飛んでくる。
「譲司」
「お、ご苦労さーん」
「うかつにこんなことして、誰かに誤解されたらどうすんの」
「あれれ、泉ちゃん妬いちゃった? やだなー俺はみんなのモンなのに」
なんて言ってカバンを受け取り、さっさと職員室から出て行ってしまう。私もあわててカバンを受け取った。
「ありがとうございました」
「いいけど、気ぃつけなよ。女って怖いから」
女? よくわからないけど、ふたりに置いていかれないよう急ぎ足で歩く。ふたりとも足が長いから早い早い。
目の前にあるのは、ずっと憧れてきた瀧川泉の背中で。追いつこうと頑張っても肩を並べることはできなくて。
なんだか少し、切なかった。
「何でついてくるんですか」
「だって俺、紳士だもん」
なぜか瀧川泉と一緒に行かず、少し遅れて私についてくる譲司先輩。周りの視線が痛いのは単純に私が金髪だからではない。
『女って怖いから』
さっき瀧川泉も言ってた。西の譲司を引き連れて歩く私への嫉妬だろう。
勘弁してほしい。ただでさえこの頭は目立つのに、それ以上に目立つ譲司先輩がそばにいたら目立って目立って仕方ない。
早足で歩いたところで譲司先輩から逃れられないわけだけど、短い足なりに頑張ってみる。
「吉香ちゃん、何ムキになってんの」
「ほっといてください」
何とか譲司先輩と距離をつけて教室にゴール。したのはいいんだけど、なぜか私の席にユキくんがいる。
「おはようユキくん」
「あっ、おおおおはよう!」
「……何?」
席に着こうとするけどユキくんに邪魔される。何だろう。
瀧川泉や譲司先輩に比べたら少し低いけど、私よりうんと背が高いので状況が見えない。
「うわーひでえな、こりゃまた」
いつの間にか追いついていた譲司先輩がひょいと、ユキくんの向こう側を見てつぶやく。……なんとなくわかってきた。
「あーもう、譲司先輩」
ユキくんの向こうから何かを取ってパラパラめくる。案の定それは私の教科書で、黒や赤で乱暴な落書きが施されてあって。
ああ、これがイジメってやつなんだ。上履きに引き続き定番中の定番。うん、もはや見事だな。
「そもそも置き勉してる吉香ちゃんにも非はあるよね」
「置き勉って常識じゃないですか」
「ふーん、意外とまじめじゃないんだ」
意外って何だ意外って。いろんな意味で失礼な。ていうか。なぐさめてくれないんですね。いいけど。いいけど別に。
「よし、カワイソウな吉香ちゃんを俺様が助けてしんぜよう」
俺様ってほんとにいたんですね。しかもこんな身近に。
「去年の我が輩の教科書を差し上げよう。しかもわかりやすい解説つき! 篠之宮譲司というブランド付き! どうよ!?」
キャラ不安定だな、なんて思ったけど。たぶん譲司先輩はなぐさめてくれていて、笑わせようとしてくれていて。
「ありがとう、ございます」
大人しくそのご厚意を受け取ることにした。譲司先輩はやっぱり優しく笑う。
「いーよいーよ。あとは犯人だな」
「え?」
私の教科書を持ったまま教壇に立つ。バンと強く教卓を叩くから、一気にしんと静まり返った。
「犯人に告ぐ」
刑事ドラマか。
「これ以上吉香ちゃんに何かしたら、ただじゃおかないから」
黒と赤に汚された教科書を掲げる。譲司先輩は余裕の笑みを浮かべ、こう続けた。
「野郎でも、レディでも」
譲司先輩はいわゆるカリスマってやつなんだな。自然とひとに注目されて、自然とひとに好かれる。
譲司先輩の優しさが嬉しいのに、なぜか去っていく譲司先輩に何も言えなかった。
まぶしい。譲司先輩は、まぶしい。
「行っちゃったね、譲司先輩」
「――うん」
「変わんないなぁ、譲司先輩」
振り向いた先でおだやかに笑うユキくん。まるで大切なものを思い出すみたいに。
「譲司先輩、中学んときからあんなひとでさ。俺も、助けてもらったんだ」
立って話すような内容じゃない気がするけど、ユキくんがそのままだから私もこのままでいることにした。
「ユキくんも、こんなことあったの?」
「うん。俺、弱いから」
笑顔がちょっと崩れる。思い出してるんだろうな。思い出したくない、深い海の底に沈めておきたい記憶を。
「譲司先輩はかっこいいよ」
小さく笑って自分の席に向かう。きっとユキくんは同じ。私と同じ。譲司先輩が、まぶしいんだ。
「阿部さん、次って移動だよね?」
ぼんやり窓の外を見つめていたから、声をかけられるまで彼女の存在に気づかなかった。彼女――花村
「一緒に行かない?」
教室の空気が一瞬で固まったのがわかった。そりゃそうだ。私はウワサの触らぬ神に祟りなし。
ユキくん以外のクラスメートに声をかけられたのは、金髪にして以来はじめてだった。
どう答えるべきか迷った。花村さんの真意を見抜こうとするけどよくわからない。
だってこんなにやわらかく、きれいに微笑むから。
「早く行こ、遅れちゃうよ」
「え、あ、うん」
よくわからないまま花村さんについていく。ああ私ってば弱い。
先を行く花村さんに置いてかれないように、短い足でせかせか歩く。そしたら突然、花村さんが立ち止まった。
「すごいよねー、いきなり金髪にしちゃうなんて」
温度を感じない、冷たい声。振り向いた花村さんが冷ややかな視線をよこす。
「何で金髪にしたの? 目立ちたかったから?」
決めつけるような、バカにするような言いぐさ。なんかイラッと来る。でもここは冷静に行こう。女同士のケンカほど見苦しいものはない。
「変わりたかったの。目立たないようにって人影に隠れてる自分が嫌で」
「やっぱり目立ちたかったんじゃない」
「違う。私は目立ちたかったんじゃなくて」
「目立てば、譲司先輩が声かけてくれると思った?」
すべてわかってしまった。上履きを隠したのが誰で、教科書に落書きをしたのが誰で、なぜそんなことをしたのか。
「譲司先輩はあなたを気に入ってるみたいね。でも、私は――」
今朝の譲司先輩の言葉が、火に注がれた油だということも。
「大っ嫌い」
花村さんは笑っていた。さっきとはまるで違う、冷え切った笑顔だった。