“自分”を壊せ!
“自分”を変えたいなら
まず、“自分”を壊せ。
何かを失わなければ
何かを手放さなければ
新しい何かに、出会えないから。
◆“自分”を壊せ!◆
単純にきれいだな、と思ったんだ。
窓から風が入るたびにやわらかく揺れる前髪とか。伏せられたまつげが頬に影を落としていたりだとか。投げ出された手が男のひとのものとは思えないくらい白くて細いこととか。
学校で、しかも図書室で、こんなにきれいなひとに遭遇するとは思ってなかった。
目を奪われて、心を奪われて、身動きも取れなくて。私はいとも容易く彼に落ちてしまった。だからこんなところまで来てしまった。
「とりあえずひとりずつ自己紹介していこうか」
超進学校・黒ヶ
担任の視線を痛いほど感じて、しょうがないから立ち上がる。だから嫌なんだよ、出席番号1番は。
「東中から来ました、
小さく頭を下げて静かに座る。担任が「もっと他にないのかー?」なんて突っ込んできたけど、笑って流すことにした。
いちばん初めのひとがいろいろ言ってしまうと後のひとがプレッシャーを感じちゃうから、私はこれぐらいでいいんだ。
『たきがわ、いずみ……』
『せん』
『あ、ごめんなさい起こしちゃって!』
『泉って書いて、せん』
図書室の彼――瀧川泉は私よりひとつ年上で、私より1年先にこの黒ヶ峰学園の生徒になった。
憧れのひとを追いかけて、なんて今どきバカバカしいかもしれないけど、私は彼に会うためにここへ来た。大して頭がいいわけじゃないけど、図書室で勉強するのは昔から好きだったから。
――キイィン。いきなり耳に刺さった嫌な音。スピーカーからみたいだ。突然のことにクラスがざわつく。
『あーあー、テステス』
男の声。明らかに様子が違う。普通の校内放送じゃない。何なの?
『えー、新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます! これを機に、新しい自分を見つけてみませんか?』
新しい、自分? なに言ってんだろこのひと。
『気になるひとは至急、
「えっ、譲司先輩!?」
教壇のまん前、急に立ち上がった男の子。ここでは珍しいことにちょっと制服を着くずしている。おまけに短い髪も軽く立てている。校則的に大丈夫なの?
『待ってるぜ!』
――ブツッ。謎の校内放送が終わると同時に、両手で口を押さえストンと腰を下ろす。確かこのひと、
「……続き行こうか。えーっと、
「はい」
ちょうど教室のまんなか。スッと立ち上がる花村さんとかいう女の子。
肩まで伸びた黒髪がやわらかいウェーブを描いている。たぶんもともとくせっ毛なんだろうな。ここ校則キビシイって有名だし。
辺りを見回しても黒髪のひとしかいない。あのひと――瀧川泉は、少し茶色っぽかったけど。
高校生って、もっと自由なイメージだったのに。これじゃ誰が誰だかわかんないや。
「ねえ、阿部さんも一緒に部活みていかない?」
「ごめん。ちょっと図書室に寄るから」
入学して1週間。友達になったっぽい子にそう返すと、彼女は苦々しく笑った。――ああ、私。空気よめてない。
「そっか。阿部さん、まじめだね」
「いや、その……私ギリギリ入れた感じだから、勉強しなきゃ追いつかなくて」
あ、どうしよう返事に困ってる。そりゃそうだ、こんな言い方じゃ部活みに行く余裕があって羨ましいって聞こえる。
「私たちも阿部さん見習って勉強しなきゃね。また明日」
「う、うん」
どうしよう嫌われちゃった? どうしよう。まだ、始まったばっかなのに。
なんだか悔しくなって下唇を噛みしめた。私には、味方なんていない。小さい頃からそうだった。友達と呼べるほどのひとがいなかった。
『阿部さんはまじめだから』
『勉強で忙しいよね』
下の名前で呼ばれることはほとんどないし、放課後や休日の遊びに誘われることもなかった。いつの間にか私は、勉強を逃げ場にしてしまったのかもしれない。
「今日もいない、か」
ぽつり、独り言をこぼす。図書室の隅っこ、よく日の当たる場所。彼はこういうところが好きだった。
あれから――彼が中学を卒業して以来、私は一度も彼に会えていない。この黒ヶ峰学園に、入学してからも。
彼に会いたくてここまで来たのに。
いつかの彼をまねて、あたたかい机に体を預けた。ブレザー越しでも伝わるひだまりのぬくもり。彼はここで、何を考えながら眠りに就くのだろう。
なんだか目頭が熱くなる。私は、何のために、ここにいるんだろう。
『あー、テステス』
不意に響き渡る、いつかと同じ男の声。思わず体を起こす。
『お知らせです! わが軽音楽部に、新しい仲間が加わりました!』
ていうか軽音楽部だったんだ。
『ほらユキ、来い』
『えー、でもぉ……』
『ごちゃごちゃ言うな!』
そのやりとり丸聞こえだけどいいんだろうか。しかもけっこう強引なひとだな。
『えっと、新入部員の坂井
『新入部員まだまだ募集中です! 俺らと一緒に新しい世界を見てみませんか? 以上、篠之宮譲司でしたー!』
新しい、世界。このひと、前も似たようなこと言ってた。
『新しい自分を見つけてみませんか?』
私も、変われる? まじめな阿部さんじゃない私に、なれる?
「ありがとうございましたー」
自分でもバカみたいだと思う。でも、手に取ってしまった。あのひとがあんなこと言うから。
「ブリーチ、か」
近所のドラッグストア、ヘアカラーコーナーで、ひときわ輝いていた。
金髪になった自分を想像するだけで怖くなるけど、なんとなくもう後戻りはできないような気がしていた。戻りたく、ないんだ。
「うわあ……」
思っていたよりひどいことになってしまった。風呂上がり、鏡に映る真っ金々。わが頭ながらまぶしすぎる。
家族にバレたらやばい、よね。一応フード付いてる服にしたけど、隠し通せるかな。
「吉香ー、ご飯よー」
わっ、お母さん。
ど、ど、ど、どうしよう。
「吉香ー?」
「今日はいい!」
気づけばそう叫んで、脱衣所から飛び出していた。そのままの勢いで階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込む。
息が上がる。苦しい。秘密が、できてしまった。
フードを外し短い髪の毛に触れる。いつもと少し違う感触。いつもとぜんぜん違う匂い。
私は、変わってしまった。
「何あの金髪!」
「地毛?」
「え、うちの生徒?」
翌朝、黒ヶ峰学園正門前にて。あまりにも視線が痛い。あらゆる角度から突き刺さってくる。こんなに注目されたの初めてだ。
この門をくぐれば、私は入学早々おもいっきり校則を破った問題児になる。
そう、問題児。まじめだけが取り柄の私が。怖い。でも私、変わりたい。
「あっ――」
聞き覚えのある声。あ、同じクラスの。お昼も一緒に食べてる。声かけなきゃ。
「おはよう」
いつも通り上手に笑えたはずなのに。ふっと、顔を背けられてしまった。友達だったはずなのに、私から逃げていく。
こうなるのが怖かった。でもこうなってしまった以上、進むしかない。前に進むしか。
この門を越えて私は、問題児になる。
「起立。礼」
放課後。1日が終わってしまった。クラスメートに無視されること以外は、いたっていつも通りに。
てっきり生徒指導室に連れてかれてさんざん説教されて反省文でも書かされるんだと思ってたのに。何にもなかった。本当にまったく。
黒ヶ峰って意外に校則ゆるいの? ……いやいや、ないない。だって黒ヶ峰だよ?
何ていうか、嵐の前の静けさのようで。
――ピシャッ。乱暴に開けられたドアの音。そちらを見れば、赤い髪の男のひとと目が合った。……え、赤?
「見つけた」
男のひとが微笑みながら近づいてくる。え、どうしよう。こここ怖い。
赤い髪に、ピアスに、思いっきり着崩された制服。なぜかネクタイは見当たらず、その代わり胸元から金色のネックレスが覗いている。
ここは超進学校の黒ヶ峰学園。このひと絶対やばい!
「お迎えに上がりました。お姫様」
「……はい?」
「いいから来て!」
強引に手を取られ、どこかへ連れて行かれる。え、ちょっと待って、そう思うのに。振りほどけないのは何でだろう。
目の前で揺れる赤い髪。思い出すのは、あの声。
『新しい自分を見つけてみませんか?』
『新しい世界を見てみませんか?』
さっきの声と同じ。ってことは、このひとがあの篠之宮譲司? 聞いたことがある声だからかな。知ってる感じがするからかな。
怖いのに、怖くない。
初対面なのに、懐かしい。
「おっ、やってんなー」
心臓に響く、重く激しい音。聞いたことがあるようで、ない。こんなにからだ全体で感じたことはない。
「オープーン」
篠之宮譲司によって開かれた扉。その向こうには激しい音を立てるドラムと、私の知らない彼がいた。
「――瀧川、泉」
「あれ、泉のこと知ってんの?」
「同じ中学だったんで」
「ふーん」
私が知ってる瀧川泉は図書室の隅っこが好きで、ひなたぼっこしながらウトウトしてて。気が向いたら私に声をかけてくれる、それこそ猫みたいなひとで。
こんなに激しく、からだ全体を使って、ドラムを叩く瀧川泉は知らない。
「相っ変わらずいいのかましてくれんねー、泉ちゃんは」
篠之宮譲司が瀧川泉に近づいていく。ちゃん付けされたのが不服なのか、瀧川泉が小さく眉根を寄せる。そんな顔もするんだ。
「あっ」
不意にそんな声が聞こえて、さっき走らされた廊下を振り返る。そこにいたのはクラスメートの坂井くん。
坂井くんも走ってきたのか少し髪の毛が崩れている。小さく頭を下げてくるから、私もあわてて会釈を返した。あれ、無視しないんだ。
「おー、ユキ!」
「おーじゃないですよ! 何いきなり阿部さん連れ出してんですか!」
「そっか、おまえも1組だっけ。ていうか阿部さんってんだ?」
「ただでさえ阿部さんみんなに無視されて大変なんですよ!」
何だろう、この感じ。どこかで聞いたことがあるような。……あ、あの放送?
「何、あんた」
必死に記憶を遡っていると、そんな冷たい声が耳に届いた。途端に言い合いをやめるふたり。
「瀧川先輩! 初対面のひとにそんな言い方ないですよ!」
……初対面じゃないけど。忘れられちゃったんだろうな。たまに図書室で会うだけだったし、ほとんど瀧川泉は寝てたから。
「なぁ泉いいだろこの感じ! キランキランしててさ!」
「また金髪?」
「いいじゃん金髪! ていうかボーカルは金髪だろ絶対!」
ボーカル? 金髪?
――もしかして私のこと?
「ちょ、ちょっと待ってください。何の話ですか?」
何とか話に割り込むことができたけど、ふたりはきょとんとした顔で私を見つめてくるだけ。え、私なんか変なこと言った?
「いやね、君にうちの歌姫になってもらおうと思って」
「……はい?」
「これ地毛じゃないっしょ?」
何でもないようにひとの髪を触るから、思わず振り払ってしまう。それでも篠之宮譲司は相変わらず余裕の笑みを浮かべたまま。
「ブリーチしたってことはさ、変わりたいってことなんじゃないの?」
――篠之宮譲司の、言う通りだった。
私、変わりたい。もうまじめな阿部さんは嫌。それ以外に何もない私なんて。
「ねぇ。中学んときの校歌、覚えてる?」
ドラムの前に座ったまま声をかけてくる瀧川泉。あわてて「はい」と答えたら、「歌ってみて」と何てことないように言われる。
そっか、ボーカルだもんね。音痴じゃ話になんないもんね。そう納得して歌いはじめたんだけど、向けられる3人の視線が痛い痛い。
え、やっぱ下手? 全然カラオケとか行かないから、歌には自信がない。
でも変わりたいから、もう阿部さんは嫌だから。
歌い終わっても3人は黙って見つめてくるだけ。せめて何か言ってよ。
「そもそも俺これ知んないんだけど、音程とか合ってんの?」
祈りが通じたのか、篠之宮譲司が瀧川泉にそう尋ねた。そりゃそうか、同じ中学じゃなかったもんね。少しだけ頬をゆるめて、瀧川泉が口を開く。
「ああ、うまいよ。よろしく、吉香」
――覚えてて、くれたんだ。
阿部吉香、15歳。もうまじめな阿部さんはやめた。ここから始まる何かのために。