スウェーデン王立アカデミーは14日、ノーベル経済学賞を発表する。経済学の理論は数式が並んだ難しいものと思われがちだが、私たちの生活に身近な内容も少なくない。2019年は最低賃金や働き方改革など旬な話題への経済学の応用も有望な受賞分野とみられる。発表を前に、仕事や暮らしに結びつく経済学を紹介する。
■環境問題にも応用進む
まず近年の受賞をおさらいしてみよう。18年はポール・ローマー氏とウィリアム・ノードハウス氏という2人の米国研究者が栄冠を手にした。
ローマー氏は国や企業が成長するために知識が果たす役割を明らかにした。1970年代までの経済学では、経済成長のスピードを決めるのは労働、資本、技術水準という3つの要素だと考えられてきた。ヒトの数で決まる労働やモノの量で決まる資本がわかりやすい一方、技術水準がどうやって決まるのかはブラックボックスのままだった。そこでローマー氏は企業の生産や研究を通じて生み出される知識やアイデアが技術水準を決めると考えた。「大切なのは知識」という考え方は21世紀にかけて主流となり、IT(情報技術)企業が研究開発(R&D)にたくさんの投資をする動きにつながっていく。
ノードハウス氏が経済成長に対して革新的なアイデアを生み出したのも70年代のことだ。ただし注目したのは環境問題で、ローマー氏の視点とは異なる。ノードハウス氏は活発な経済活動が二酸化炭素(CO2)の排出量などを増やす副作用に注目した。地球温暖化が進めば、異常気象や耕作の不良によって成長そのものも損なわれる。ノードハウス氏は、成長の副作用としてのCO2の増加を「コスト」や「価格」で測る手法を生み出した。それまでも科学者が環境問題に警鐘を鳴らす動きはあったが、同じ「経済」という土俵で地球温暖化を語れるようになったことは、後の国際交渉などに大きな影響を与えた。
17年に経済学賞を受賞した米シカゴ大学のリチャード・セイラー教授の研究も、環境問題と大きく関わっている。たとえば省エネのために節電を呼びかけるとしたら、どんな方法が有効だろうか。「地球環境に優しくしよう」と良心に訴える広告は、残念ながらあまり効果がない。代わりに「あなたの地域では平均的な家庭は20%の節電に取り組んでいます」というビラをもらった家庭は、慌てて節電を始めるようになる。人には周囲に同調しようとする心理的な傾向があるからだ。セイラー氏はこうした人間の心理を経済政策などに応用する行動経済学の手法を確立した。
■最低賃金を上げた影響は?
さて、19年のノーベル経済学賞はどんな分野が注目だろうか。慶応義塾大学の坂井豊貴教授は「労働や教育の分野が有力」と話す。坂井教授は18年にローマー氏とノードハウス氏の受賞をツイッター上で"予言"し、話題となった。今年は「労働や教育の分野に詳しいノーベル賞の選考委員が、1980年代以降の研究に注目するだろう」と読む。
その筆頭が、米カリフォルニア大学バークレー校のデービッド・カード教授である。カード氏で有名なのは、日本でも近年引き上げが進む最低賃金に関する研究だ。
従来の経済学では、政府が最低賃金を引き上げると雇用が減ると考えられていた。企業は労働者の能力に見合った賃金を支払っているため、最低賃金を無理やり上げれば、コストに対して生産性の低い労働者を解雇し、新たに雇うのをやめると考えていたためだ。カード氏らはこの伝統的な考え方に挑んだ。
米国では最低賃金を州ごとに決めるため、引き上げた州と据え置いた州との比較ができる。カード氏らはそれぞれの州のファストフード店に調査し、最低賃金を引き上げた州で実際に雇用が減ったのかを確かめた。93年の論文「Minimum Wages and Employment: A Case Study of the Fast Food Industry in New Jersey and Pennsylvania」によれば、結果は通説に反し、雇用は減っていなかった。最低賃金を引き上げてもなお生産性に見合った水準よりも低いと、企業が雇用を増やせる可能性があることを示した。労働経済学を専門とする北海道大学の安部由起子教授は「データを注意深く分析したときに、経済学の常識にも問題がありうることを明らかにした点が画期的だった」と指摘する。
カード氏らの問題提起を受け、世界中の経済学者が自分の住む地域で最低賃金を引き上げた影響を調べ始めた。その結果、州や地域、さらには労働者の年齢層などにより、最低賃金を引き上げた効果は異なることが分かってきた。日本でも、引き上げが雇用を減らすとする研究がある一方、業種や地域によって影響が異なるという調査結果もある。
■働き方改革への視点
「新たに採用すべきは、安定した成果を期待できる人か、辞めるリスクはあっても大きなリターンを生む可能性がある人か」。今も企業の人事担当者を悩ませる課題にチャレンジしたのは、米スタンフォード大学のエドワード・ラジア教授だ。数年前からノーベル賞の有力候補に挙がっているラジア氏らは、人事や組織の運営に経済学を応用してきた。
人事担当者も、企業の門戸をたたく人も、それぞれ異なる思惑(インセンティブ)を持っている。雇う側は労働者に辞められたら困るが、雇われる側はより良い条件を求めて辞めることも選択肢に入れる。そして双方は互いの思惑を知らない「情報の非対称性」にも直面している。ラジア氏はこうした異なるインセンティブや情報の非対称性を抱える組織が、どうすればより良い成果を上げられるかを研究した。ちなみに先の問いへの答えは「辞めるときのコストが許容範囲なら、リスクの高い候補者を選ぶべきである」。ほかにもラジア氏は昇進や報酬のあり方など、現在の働き方改革にもつながる議論を展開している。詳しく知りたい人は同氏らによる書籍「人事と組織の経済学/実践編」が参考になるだろう。
■データをいかに扱うか
最低賃金の影響や組織の運営を研究する場合、問題となるのはデータの扱いだ。たとえば最低賃金を上げた後に特定の地域で雇用が減ったからといって、原因は単に景気が悪くなったからかもしれない。
こうした「原因と結果」を決めるデータをどうやってより分けるかを、計量経済学と呼ばれる分野の研究者が考え続けてきた。物理や化学など自然科学の分野では、実験で得たデータによって因果関係を調べることができる。しかし人間が一度きりの意思決定を繰り返す経済学では、実験データの観察は簡単ではない。
そこで米ハーバード大学のドナルド・ルービン名誉教授らが考え出したのが、「因果推論」と呼ばれる手法だ。たとえば企業がある商品のウェブ広告の効果を計測したいとしよう。ウェブ広告を経由して商品を買った消費者が増えたとしても、すべてが広告の効果だったとは言い切れない。単にその商品がウェブ広告を経由した消費者の好みに合っていただけかもしれないからだ。そこでデータのより分けが重要になる。この場合なら、ウェブ広告を経由したグループと、同じような好みを持ちながら経由しなかったグループに分け、両者の売り上げを比較することで初めて広告の純粋な効果を測ることができる。こうして「ウェブ広告」という原因と「売り上げ」という結果を結びつけるためのデータ処理の技術を、因果推論と呼ばれる手法は洗練させてきた。
しかし現実の人や企業の行動には、過去に参考となるデータがない場合も多くある。そこで限られたデータから将来を予測する「構造推定」と呼ばれる手法を、ハーバード大学のアリエル・ペイクス教授らが開拓してきた。たとえば似たような製品を作る企業同士が合併しようとするとき、合併が製品の価格をどれだけ変化させるかを事前に知るためのデータはない。しかし合併しようとする企業の製品や顧客についてのデータを経済学の理論に基づいたモデルに当てはめ、結果を予測することはできる。このモデルに当てはめてシミュレーションする手法は構造推定と呼ばれる。現在では政府による合併の事前審査などにも応用されている。
ルービン氏の因果推論もペイクス氏の構造推定もそれぞれノーベル経済学賞の有力な候補だ。東京大学の渡辺安虎教授は「因果推論や構造推定は、今ではIT企業などのビジネス現場でも用いられる手法となった」と指摘する。
■日本人では金融の清滝氏
ここまで挙げてきた研究者のほとんどが米国の大学に所属しているのをいぶかしく思う読者もいるかもしれない。20世紀の経済学が英語圏を中心に発展した事情もあり、過去81人いる経済学賞の受賞者の過半は米国出身者だ(ノーベル経済学賞 代表的受賞者と出生地)。アジアからはインド出身のアマルティア・セン氏の受賞(1998年)があるだけで、日本人で栄冠を手にした人はいない。
数年前から有力候補に挙がっている日本人に、米プリンストン大学の清滝信宏教授がいる。清滝氏は経済への小さな負のショックが地価や住宅価格の下落を通じて不況を深刻にする金融危機のメカニズムを90年代から研究してきた。97年の論文「Credit Cycles」は多く引用され、世界の中央銀行による危機対応や、金融機関への規制などに応用されてきた。
金融分野では米連邦準備理事会(FRB)元議長のベン・バーナンキ氏も候補に挙がっている。1930年代の世界大恐慌を研究したバーナンキ氏は、不況を深刻にするのは、お金の融通をする金融機関の破綻や取り付け騒ぎであることを突き止めた。83年に論文「Non-Monetary Effects of the Financial Crisis in the Propagation of the Great Depression」を発表した。バーナンキ氏はFRB議長に在任中の08年に世界金融危機を経験した。米金融大手リーマン・ブラザーズの破綻に始まった危機の初期に、バーナンキ氏は速やかに他の大手金融機関に巨額の公的資金を投入し、破綻の連鎖を回避した。
金融機関への救済には批判の声も上がったが、今では危機の広がりを食い止めたという評価が定着している。最先端の経済学の理論を現実に応用した例といえる。
最低賃金から金融危機まで、今年は経済学のどんな分野が受賞するだろうか。私たちの暮らしに当てはめて考えてみるのもいいかもしれない。
(高橋元気)