白木琢歩
太平洋戦争後、貧困のため米国人夫婦に養子縁組されて5歳で渡米した女性が、66年ぶりに来日した。人種差別や虐待など異国で苦難に直面するたび、優しかった実母の思い出だけを頼りに生き抜いてきた。長い旅の果てにたどり着いた生まれ故郷で、彼女は何を見たのか――。
2日夕方、成田空港第2ターミナル。白髪で小柄なバーバラ・マウントキャッスルさん(71)=米テキサス州フォートワース=が姿を現した。日本の土を踏むのは1953年以来、66年ぶりだ。
バーバラさんは47年、神奈川県横須賀市で生まれた。当時の名前は、「木川洋子」といった。
母の名は「信子」。父親は、日本に駐留していた米軍の兵士と思われるが、はっきりとは分からない。戸籍の父親欄は空欄だ。
5歳になるまで、母の実家があった横須賀市秋谷周辺で育った。
バーバラさんの記憶では、母は米兵がよく出入りする場所で働いていたという。生活は貧しかった。
でも、母親はとても優しかった。
「母と一緒に人形劇を見ながら、水あめを食べたの。母との間には楽しい思い出しかない」
横須賀は明治以降、日本最大の軍港都市として発展した。敗戦後、旧軍施設は占領軍に接収され、多くの米兵が駐留するようになる。市史によると、50年代前半、性産業に従事する日本人女性と米兵との間に生まれた子どもたちが、貧困や社会的偏見など劣悪な状況に置かれ、社会問題になっていた。
生活に困窮していたため、バーバラさんは、日米にルーツを持つ子どもを保護する神奈川県葉山町の児童養護施設「幸保愛児園」に預けられた。
そこで、日本に駐留していた米軍中尉との養子縁組の話が持ち上がる。
53年7月の朝日新聞神奈川版は、この施設から初めての海外養子縁組に「木川洋子」さんが決まったと報じている。
渡米前、母信子さんは何度も訪ねてきた。
「アメリカには行きたくない」。バーバラさんはこう訴え、激しく泣いたという。
「必ず迎えに行くから」
母は、娘を必死になだめた。会ったのはこれが最後となった。
米オレゴン州で始まった新しい暮らしは、苦難に満ちていた。小学校に通い始めたが、英語が全く分からない。つい数年前まで激しく戦った米国と日本。対日感情は悪く「ジャップ」とののしられた。
バーバラさんは養父から性的虐…
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