新企画【オヤジンセイ】笠井信輔〜後編〜「電車好きおしゃべり少年が幸運にもアナウンサーに」
フジテレビュー!!のオープンに伴い、新企画『オヤジンセイ~ちょっと真面目に語らせてもらうぜ~』がスタート。このコーナーは、さまざまな世界で活躍しているダンディーなおじさまに、自身の人生を語ってもらうというもの。
年を重ね、酸いも甘いもかみ分けたオトナだからこそ出せる味がある…そんな人生の機微に触れるひと時をお届けする。
その記念すべき1回目は、9月30日でフジテレビを退社し、フリーアナウンサーとなった笠井信輔が登場。前編では、フジテレビを退社した今の心境や、辞めた理由、今後の活動を聞いた。
後編では、少年時代からアナウンサーになるまで、局アナ時代の思い出など、自身の人生に迫る。
目立ちたがり屋なおしゃべり少年は町の司会者に
子供のころから、とにかくおしゃべり。小学校のお楽しみ会や学芸会では、常に手を挙げて目立つことをやりたがる子でした。先生からは「手を挙げるのは信輔ばかりだな」とあきれられるくらい。学級委員もやりながら、もちろん放送委員会にも入っていました。
小学3年生の時に、地域の青少年育成施設のお祭りで、野外ステージの司会を子供がやることになり、司会をしたんです。これが、僕の司会の最初。それが、すごく評判がよくて(笑)。そこから団地のカラオケ大会や、家で友達とのど自慢大会をやるときは、いつも司会をしていました。
小学4年生の時、市民祭りで子供チームが手作りの桃太郎神輿を作って、みんなで猿やキジの格好をしてかついだんです。その地域の取り組みが、NHKの番組に取り上げられて、スタジオで神輿を披露しました。その時、スタジオでもまた手を挙げて(笑)、アナウンサーのインタビューにも答えたのですが、それが僕のテレビ初出演、初生放送です。
アナウンサーを志すも先生は「お前の頭では無理」
小学校では児童会長、中学では生徒会副会長、生徒会会長をやりました。中学の時には文化祭でクラスの出し物をクイズに決めて、イベントの司会もしていました。
一番盛り上がったのは、高校2年、3年の文化祭。2年の時は『クイズ100人に聞きました』、3年の時は、『ゲーム ホントにホント?』を完コピして、一般の方も参加するというクイズで司会して、これが大ウケで(笑)。教室に人が入りきらないくらいでした。
高校の放送委員会では、僕が初の男性DJに。昼休みに流す15分間の放送で、DJは女性、ディレクターは男性と決まっていたんだけど、2年生の時に頼み込んで、特例でしゃべったらそれがウケて、金曜日に「BIG FRIDAY MUSIC」といいう自分のレギュラーを持つことになったんです。大好きだった山下達郎の曲をかけたりして、曲にまつわるいろんな情報をノリよくしゃべるというスタイルでしたね。
本気でアナウンサーになりたいと思ったのは、この時期です。教師との進路面談で、「僕は、早稲田か慶応大学に行きたい。なぜならテレビ局に入る人が多いから。それで、アナウンサーになりたいです」と宣言したら、「お前の頭では無理だから、(学歴に頼らず)今すぐテレビに出る方法を考えろ」と言われてしまって。でも、浪人してでも大学に行きますと言ったんです。当時は、浪人するのは当たり前で、結局、僕も浪人したんですけどね。
大学時代のアルバイトでは 小島一慶や吉田照美の下で…
そこから1年間、まったく遊ばずに、予備校に通ってひたすら勉強しました。その反動で、早稲田に受かった時には、「これからは遊ぶぞ!」と、大学のスキークラブに入ってからは飲み会などものすごく楽しんでいたんです。
ところが、ゴールデンウィークに小学校時代の担任(「手を挙げるのは信輔ばかりだな」と言っていた先生)のところへ、大学合格の報告をしに行ったら、「信輔、放送研究会はどうした?アナウンサーになりたいなら、放送研究会だろう!」とすごく怒られたんです。
それで、僕もガツンと来てしまって、スキークラブと放送研究会の両方に所属しました。忙しかったのですが、楽しい日々でした。
大きな転機になったのは、大学3年生の時に、TBS『ぴったし カン・カン』のアルバイトに合格したこと。アルバイトとはいえ、全国で開かれる予選会の司会です。当時は、久米宏さんや小島一慶さん、吉田照美さんたちがいて、僕は小島さんと吉田さんについていました。このアルバイトでしゃべりをみっちり仕込まれました。
だから、TBSの偉い方たちからは、とにかくTBSのアナウンサー試験を受けるように言われて、僕自身もその気になっていました。ところが、その年のアナウンサー募集要項が、女性若干名、男性なし!(笑)。内部の方たちもそれを知らなかったらしく、そこでTBSに入るという大きな夢が絶たれたんです。
秘策のおかげか…運良く(?)アナウンサー試験合格
就職活動では、日テレもテレ朝も受けて、最終近くまで残ったけど、どちらも落ちました。通っていたアナウンス学校の先生の厳しい言葉が待っていました。「あなたは現場のウケはすごくいい。でも、幹部からの評判が極めて悪い。もっと真面目にやってください。ノリだけで楽しくおもしろくというのでは通りません」
残っていたフジテレビの試験では、先生の言いつけ通り方針転換して臨んだら、最終面接まで残りました。そのタイミングで、アナウンス学校のOBアナウンサーの方に最終面接はどうすればいいかアドバイスを頂けることに。「笠井くん、最終試験に自分を偽って落ちるのと、自分自身で攻めて落ちるのと、どっちが納得いく?」と聞かれて、「自分を偽って落ちたら、もっと真面目にやれと言った先生を恨むと思います」「そうだろう、最後くらい自分で勝負しなさい」と言われて、また方針転換ですよ(笑)。
最後は、社長以下役員がずらっと並んでいる中で、結構ノリよくやってたら、当時の社長がすごく乗ってきて、「君はおもしろいね」と。それで、受かったんです。
“ワイドショー希望”発言が問題に!新人アナの憂うつ
僕は、報道・情報畑一筋でしたが、実は、スポーツアナウンサーとして採用されて、競馬班にいくことが決まっていたらしいんです。ところが、入社したての時、新人アナ4人で出た生放送の番組で、ぶっつけ本番で夢を語れと言われ、僕はワイドショーの司会とかニュースキャスターになりたいという話をしてしまった。そうしたら、それが大問題になってしまったんです。
なぜなら、僕は嘘をついていたから。就職活動でOB訪問をしたときに、ワイドショーをやりたいと言ったら、「それは一番低俗なもので、そこを目指しているなんて言ったら落ちるから、報道・スポーツを目指していると言いなさい」と言われて、ずっとそう言い続けてきたんです。だから、スポーツができると思って採用したのに、突然ワイドショーの話をしたわけで。
それ以来、アナウンス室では問題児扱いですよ。ノリノリの発言もあって、何をやっても真面目にやれと怒られていました。
そんな中、7月の終わりに、「『コミュニケーションカーニバル 夢工場’87』へ行け」と言われました。フジテレビが開催した晴海の夏イベントで、当時社屋があった曙橋から移動も大変だったので、皆行きたがらない。でも僕は好き勝手なことをしゃべることができるので「僕がやります!」と先輩の枠もほぼ僕がやっていました。
結局、1カ月半、イベントに行って、真っ黒になって帰ってきたら、先輩たちから褒められました(笑)。
さらに、9月に入ると、「ワイドショーが好きな希有なアナウンサーがいるらしい」というウワサを聞きつけたプロデューサーから声がかかり、10月からの情報番組『おはよう!ナイスデイ』のリポーターになったんです。
最大のピンチ…激務で歯茎が壊死 カメラの前で出血
『ナイスデイ』では、ノリがよかったし、若くて勢いもあって、無軌道だったから、たくさん現場に出してもらいました。事件リポートは、現場でディレクターに鍛えられましたね。当時はリポーターが何分もカメラの前でしゃべり続ける時代でしたから。
その翌年、『3時のあなた』が春に終わって、『タイム3』という新番組になった時、須田哲夫さん、岩瀬恵子さん、そして僕が司会になったんです。入社2年目で司会に抜擢されて、そこから6年半番組が続きました。
僕はフジテレビが好きすぎて、仕事が好きすぎて、ついつい働いちゃうんですよ。『となりのパパイヤ』という番組では、西城秀樹さんと組んでリポーターをしながら、他の番組も掛け持ちして全国を飛び回っていました。出張が多くて、とにかく忙しかったけど、20代で若かったからガンガン仕事してたんです。
ところがある時、リポートをしていたら、カメラマンが「笠井さん、歯から血が出てる」と。見たら歯茎から血が出て、歯が真っ赤になっていたんです。これは大変だと思って歯医者に行ったら、「あなたの歯茎は壊死している。生きながらにして歯茎が死んでいる人なんていない。どんな働き方をしているのか」と。このままいくと歯が抜けると言われて、仕事をちょっと抑えて治療しました。その時が、一番のピンチでした。
ディレクターと一緒に作る経験が生かされた「自分は運がいい」
今振り返ると、僕のワイドショー人生は、本当に運がよかったのだと思います。あの生放送がなかったら、僕は確実に競馬班に行っていたし、長寿番組『3時のあなた』があのタイミングで終わったから『タイム3』が始まったわけで。
当時のアナウンサーではありえないことですが、僕はディレクターと一緒にスタジオに出すフリップを作っていました。スタッフも同じ年代が多く、まさに皆で番組を制作していた感じです。その経験が『とくダネ!』でのフリップやボード、そしてマルチ(画面)を使ったプレゼンショーにつながったと思っています。
だから、本当に運なんですよね。僕は、運がいい。幸運の持ち主だなと思います。
【笠井信輔、車掌になる】
「もし、アナウンサーにならなかったら? 違った自分になってみてください」という質問に、返ってきた答えは「車掌」。鉄道マニアとしても知られているが、小学1年生から電車通学だったため、電車に乗ることが日常で、それが楽しかったことが始まりだとか。“旅をするなら、車よりも電車”で、今でも急いでいない時は、九州から新幹線で帰ってくることも。そんな筋金入りの電車好きの笠井が、小学生のころに夏休みの自由課題で書いた旅行記は、今自分で見ても驚いてしまうという。
「自分がどういう旅をしたのかを細かく書いているんです。調べた駅名を一つずつ書き、そこに出発時間、到着時間が全部書き込んであるのです。とにかく駅に着いたら、『お母さん、何時?』って聞いて。あのころは時刻表の存在を知らなかったし、母親も自分で時間をつけていくのはいいことだからと、教えなかったそうです」
ところで、多くの男の子は、運転手に憧れるもの。どうして運転手ではなく、車掌なのだろうか。
「当たり前でしょ! アナウンスメントがあるんだから。運転なんかしたら、しゃべれないでしょう(笑)。やっぱり、車掌はしゃべれるから魅力的です。無線マイクを持ったら、もっとサマになったかな」