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 前々回に引き続き、「あいちトリエンナーレ」(以下「あいトリ」と略記します)の問題を取り上げる。

 補助金交付(あるいは不交付)の是非については、前々回の当欄で比較的詳しく論じたので、今回は、別の話をする。

 別の話というよりも、そのものズバリ、最も基本的なとっかかりである「表現の自由」ないしは「アート」そのものについて書くつもりでいる。というのも、「あいトリ」問題は、各方面のメディアが取り上げた最初の瞬間から、ずっと、「表現の自由」それ自体を考えるべき事案であったにもかかわらず、なぜなのか、その最も大切な論点であるはずの「表現の自由」の議論をスルーして、「公金を投入することの是非」や「日韓の間でくすぶる歴史認識の問題」や「皇室への敬意」といった、より揮発性の高い話題にシフトする展開を繰り返してきたからだ。

 ここのところを、まず、正常化しなければならない。

 今回、私がつい2週間前に扱ったばかりのこの話題を、あえてほじくり返す気持ちになったきかっけは、この10月からさる民放局で朝の情報番組のMCを担当することになった立川志らく氏による、以下のツイートだった。

 《グッとラック。表現の不自由展で素直に感じたこと。やっていいことと悪いことがあると子供の頃に親から教育を受けなかったのかなあ。 23:02 - 2019年10月8日》

 このツイートを見て、私は、志らく師匠のおかあさまに思いを馳せずにいられなかった。彼女は、自分の子供に、言ってもかまわないことと言わずに済ませておいた方が良いことの区別を教えなかったのだろうか。

 もっとも、私は、自分のタイムライン上で、直接志らく氏のツイートを見かけたわけではない。というのも、私は、彼にブロックされているからだ。つまり、彼のツイートは、私のタイムライン上には表示されないのだ。

 私が、上に引用したツイートに興味を持ったのは、件のツイートに苦言を呈しているある人のツイートを見たからだ。

 で、当該の志らく氏のツイートのURLをコピーした上で、ブラウザーのシークレットウインドー(←ユーザー情報を公開しない設定でオープンするウインドー)上にそれをペーストして中身を確認した次第だ。

 どうしてこんなに面倒臭い手順を踏んでまで、わざわざ自分をブロックしている人間の投稿を確認したのかというと、今回の「あいトレ」のような事案については、朝のワイドショーで司会を担当している人間の見解がとりわけ大きな意味を持っているはずだと考えたからだ。

 というのも、ワイドショーは、主に脊髄反射でものを考える人々ためのメディアで、そういう人々にとっては、コメンテーターによる素朴な断定や、番組終了間際に司会者が苦笑交じりに漏らす見解が大きな意味を持っているものだからだ。

 そういう意味で、「あいトリ」の評価を左右するのは、諸般に通じたインテリの先生方の持って回った見解や、現代アートに当事者として携わるトンがった見解ではなくて、なによりもまずワイドショーのMCの口から漏れる素朴な感想なのだ。

 ついでに申し上げればだが、「脊髄反射でものを考える人々」というのは、もう少し踏み込んで言えば、「ものを考えない人々」のことだ。ワイドショーは、だから、その「ものを考えない人たち」のために、考えるきっかけを提供するメディアであらねばならないはずなのだ。

 今回の場合でいえば、ワイドショーが「あいトリ」ないしは「表現の不自由展」について、いくつかの考え方のサンプルや、視聴者各自が各々の思考を展開するためのヒントに当たる情報を提供できているのであれば、一応、その役割を果たしていると言える。