サイバーエージェント副社長 日高氏、藤田社長を語る

司会者:それではお時間になりましたので、第二部を始めていきたいと思います。日高裕介さんと中田大樹さんです。

(会場拍手)

中田大樹氏(以下、中田):では第二部を進めていきます。さっきは孫さんのナンバー2なので嶋聡さん、めちゃくちゃパワフルな方だったと思うんですけど(笑)。対して、うちのサイバーエージェントのナンバー2の日高に、いろいろ聞いていけたらと思っています。僕から先ほどと同様に日高のことを紹介させていただきながら、その中でもどんどん聞いていきたいなと思ってます。というか日高さん、こういうイベント初めてじゃないですか?

日高裕介氏(以下、日高):そう(笑)。

中田:僕見たことないんですよ。

日高:いや。あんまりお声がかからないんで。

中田:いやいや、声はたぶんかかってると思いますけど。

日高:今回はがんばります。

中田:よろしくお願いいたします。日高がイベントに来るのはレアで、僕もほんと見たことないので。今日はみんなの視点でも聞きたいけど、一社員としていろいろ日高さんに聞いていきたいと思ってるんですけど。

社内で流れた藤田氏退職の噂、直後に「一緒にやろうぜ?」

中田:日高さんは創業メンバーでして、インテリジェンスに最初は入社されて1年くらいで、社長とすぐサイバーエージェントをやるというかたちになったと思います。このへんをご紹介いただきながら、当時を振りかえっていただきたいと思うんですけど、もともと同期で仲よかったんですか? 日高さんと社長。

日高:もともとインテリジェンスの内定者のときに、同じチームで内定者講習みたいな自己紹介ビデオを作るというのを一緒にやって。4~5人で組んだチームが同じだったんですよね。そこで仲良くなったんですよ。

中田:いわゆる友人的な側面もありながら、同期でもあったという感じですよね?

日高:そう。

中田:藤田がサイバーエージェントを創業するときに「日高、一緒にやろうぜ」というかたちで声かかったというか、突然声がかかることになるんですか?

日高:そう。インテリジェンスで1年働いた年末くらいに、社長が東京で、僕は大阪でその時働いていて。東京ですごく活躍をしていて、僕は本当にぜんぜん売れない営業マンみたいな感じだったんですけど。藤田が辞めるみたいな噂がバーっと会社の中で流れて、「独立するよ」「えー!」「1年目で?」みたいな。

「すげえな」みたいな感じで言ってたら、何週間後かぐらいに電話がかかってきて。仲が良かったので、「辞めようと思ってるんだけど」と言って。「一緒にやらない?」って。意味がよくわかってなかったんですけど、「おー」と答えました。ほんとに起業するんだみたいな、そういう印象でしたね。

中田:その時もすぐ意思決定されたんですか? もうじゃあ一緒にやろうっていうふうに。

日高:そう。電話で「じゃあやろう」って感じでしたね。

中田:その当時ってけっこうゼロイチで起業する1年目、2年目の22歳という人がけっこう多かったんですか?

日高:ちらほらいたかなという、今ほどではないけどね、少しいたかなというくらいですね。

「まずは質より量」 起業当初は週110時間労働

中田:なるほど、最終的にやっぱり藤田さんとやろうと思った決め手って、なにがあったんですか?

日高:「なんとなく」としかいいようがないですね(笑)。まずその時は23歳だったので。捨てるものはないし、当時仕事もうまくいってなかったというか、自分でそういう状況を打破するきっかけを探していたということも、たぶんあったであろうし。

なんとなく仲が良い気がするから(笑)。「楽しそうだな」くらいの、ほんとに軽いノリで最初はスタートしたかなという感じでしたね。

中田:なるほど。1998年の3月にうちができるというところで、最初は日高さんと藤田さんだけだったんですか?

日高:あとアルバイト。アルバイトに石川くんというのがいて、その3人。社長と常務とアルバイトという3人だった。

中田:なるほど。ドベンチャーな感じで起ちあがってるんですね。そこから2年で上場ですよね。上場するのは2000年ですよね。

日高:2000年ですね。

中田:それまでは、みんな毎日寝ずにずっと働いている。そんな状況ですか?

日高:そうですね。僕自身はずっと会社に泊まっているというか、帰るのがけっこうめんどくさいのがあったりして。会社を立ち上げたのはいいんですけど、広告代理事業を起業3ヶ月後くらいに見つけて、いろんなものをやりながら広告代理事業(をやりはじめた)。ネットの広告は間違いなくくるだろうと、それを一生懸命やっていくんですけど。昼間はアポに行って、たぶん4件、5件行った。アポも行くし電話も取らなきゃいけない。

この電話はアポの間に、公衆電話と携帯……携帯がまだないぐらいかな。その資料を夜に作らなきゃいけない。ミーティングをするとなると、夜中になっちゃうから、帰る時間がめんどくさくて、よく泊まっていて。今はだめですよ。今はだめだけど、その当時はしていて。でも社長は帰ってたんだよ。

最初は家の近くに(オフィスが)あって。今でいうと完全にブラックなんですけど、週110時間労働というのを2人で決めてやってたんですね。経験がないので、まず量(が重要)だと。経験がないし、お客さんの期待に応えなきゃいけない。ネット広告、僕らすごい詳しいみたいな顔してやってるけど、所詮23歳、24歳。始めたばかりだから、ここから経験を積みながら、ネット広告で良い結果を出していくというのが毎日続いた。そういう時期でしたね。

藤田氏と日高氏の役割分担とは

中田:2010年の10月から副社長というかたちで、今もお仕事されてると思うんですけど、藤田さんと日高さんの役割分担ってなにか決めてるんですかね? というのと、どういう役割分担されてるんですか。

日高:役割分担はなくて、社長っていろんなタイプがいると思ってるんですけど、藤田の場合は、やりたいこととか目的とかがものすごくはっきりしてるタイプなんですね。これをやると言ったら絶対やる。それ以外だったら好きにやっていいよみたいな感じで。

これやると言った時の意思はすごいじゃない? テコでも動かない感じがすごいんですよ。例えば孫さんとか、三木谷さんとか、豪快な社長の人みたいなイメージはたぶん藤田にはないと思う。でも、AbemaTVを立ち上げたりとか、そういったときの集中力はすごいんだよ。

それは最初からで。なので、僕自身は1番最初に藤田と会社をやったときに、とにかく大きな会社にしようとしてるな、ということがよくわかった。それで自分のできる役割を一生懸命やろうと。自分も成長してこれをやっていこうと思ったので、とくに役割というのを考えたことはないですよね。

トップの決定を最速で展開できるか

中田:僕も実は会社を設立する時に、友人と2人で立ち上げたんですよ。僕は、結局うまくいかなかったんですけど。僕らはどっちかというと議論していたんですよね。どういう役割でとかやっていたんですけど、これまでのうちの会社の20年間の中で、そういう議論はなかったんですか?

日高:議論とか、よくいろいろ聞かれるんだけど、「社長と揉めたことないんですか?」とか(聞かれるんですけど)、ほぼゼロですね。社長が言いたいことははっきりしていて、その全部が成功するわけじゃない。失敗することもたくさんあるんですけど。たぶんサイバーエージェントの歴史を見てみても、成功していることだけではないんですけど、答えがないものとか、誰もやっていないものをほとんどやってきているので。

あと社長の藤田の性格を、幹部とかよく知っていると思うんだけど、絶対変えないんですよ。自分の意見は(笑)。だから議論は無駄だと思っていて、じゃあやりたいこととかこれをやっていこうとなったときに、組織のよさというのは、そこでトップが決めたことを、どういうスピードで展開できるかだと思うんですね。

これは大事な理由だと思うんですけど。そういう意味では考えたこと・言ったことをまずやってみると。失敗したら違う方法で展開するとか、違うことをやってみるというのが1番早いと思っていたので。答えもないものを議論するのは無駄だなとは常に思っていますね。