極北の博士

生態学を研究する一学生の研究雑記。日記も兼ねています。

科学することの意義を求めてー<私>が科学する

 私は今、修士課程2年です。来年度からは博士課程に進学することになっています。つまり、少なくとも3年間は一人前の研究者として生きていかなければならないわけです(先週、さっそく学振DC1が落ちたとの知らせがあったので、非常に雲行きが怪しい)。修士論文も今から仕上げていかなければならないわけですが、そもそもなんのために研究をしているのか、これからもしていくのか?私の場合、その答えははっきりした輪郭を持っていないということ、これが非常に問題なのです。このブログでは、研究の話もこれからしていこうと思っていますが、そもそも研究する動機はなんなのか。行き詰ったとき、立ち返るべき指針があるのか。それをいくらかまとまった形で考えておきたいと思いました。これは、そもそも科学の研究って何が目的なの?という普遍的な問いとも接続されるかもしれません。また、私の専門は生物学なので、この記事では生物学を重視した科学観が展開されることになります。その偏りについてはご容赦願いたいと思います。

 

 

1. 一般的見解

 一般論としての科学の意義は、色々な形で主張されています。最も当たり障りのない主張は、「人の生活に役立つから」でしょう。コッホが結核菌を発見することにより、不治の病だといわれていた結核の治療への道が開かれました。ゲノム編集をはじめとする遺伝子導入の技術は、作物の品種改良のスパンを劇的に早めています。微生物の生態学的な知見は、浄化槽の改良を促し、安全な飲み水の提供に役立っています。このように人間の生活を豊かにする、という科学の側面は誰でも肯定するでしょう。もう1つのよく言われる科学の意義は、知的な好奇心を満足させるから、だと思います。未知の事柄を探究すること、知識の幅を広げることはそれ自体で人を楽しませる、という科学観です。生物の進化の歴史や人体の驚くべき精巧さは、知れば知るほどさらなる好奇心を駆り立てるものです。知るために知る!これこそ研究者のあるべき姿のように思われます。しかし、私は上記のような科学観に大部分共感をもつのですが、それが重要なことを意図的に無視している点で、不満を覚える。それはいったい「誰が」科学しているのか、ということ。科学はAIが自律的に行うものでもなければ、世間から遠く離れた仙人が行うわけでもない。社会の中でもがき、苦しみ、自分の在り方に悩む血の通った一個人が科学するのです。一般的な科学観が見落としているこの側面について、次に考察を深めてみたいと思います。

 

2. 「死すべき人間」が科学するということ

 

 科学者は研究成果によって生計を立て、探究のもたらす知的興奮によって生かされている人間なのですが、同時に実存的問いを抱える人間でもあります。確かに科学者は、「何が生物の分布を決めているのか」「生物の進化の原動力は何か」と問うことに興奮を覚えるのですが、それよりも根深いところで「私とはなにか」「死後私は無に帰すのか」「人生に価値はないのか」に関心をもつ存在であるわけです。こうした疑問に煩悶を覚える人間、ミゲル・デ・ウナムーノの言葉を借りるならば「血と骨の人間」が科学するということが見逃されてはならない。死すべき人間が敢えて科学するのであり、不死の神々が暇を持て余して科学するのではないからです。一度きり、偶然に与えられた人生で、死に煩悶を覚える人間がなぜ科学するのだろう?哲学でも宗教でもなく。この問いに真剣に向き合わない限り、私が科学するということの意味はぼやけたままでしょう。そして実際に今のところ分かっていないのです。

 中村桂子さんは『科学者が人間であること』のなかで、哲学者である大森荘蔵の思想を参照しっつ、以下のように述べます。近代科学は、世界を物質の運動から捉えようとした。そして、代表的な論者であるガリレオ・ガリレイジョン・ロックらによって、物質は色や感覚、価値を持たないものとされ、そうした働きは個人の「心の中」にあるとされた。こうして、無感覚・無目的・無価値の物質の世界と、それを認識する「こころ」の世界の分断が起きるが、問題は物質の世界こそが真実の世界とされ、「こころ」が創り出す日常の生活世界は仮想であるとみなされ始めたことにある。この無意味な物質世界と豊かなこころの世界のギャップが、現代人を不安にさせている、と。

 

 私も「喜びや悲しみ、意味や目的は実際は物質の働きに他ならない」とか、「全ては脳の作用に過ぎない」「全ては遺伝子の自己複製の副産物に過ぎない」という言明には不安や苛立ちを覚えるときがあります。確かに、物質のふるまいは心理的活動の条件を成しているでしょうが、心理的事実が物質的活動の事実と異なるカテゴリーに位置することは明らかです。そもそも、その明らかな違いがなければ、どうしてそもそも「実際はこころは物質である」という言明が可能でしょうか。中村桂子さんは心理的事実を救い出すことによって、科学者が同時に日常生活を営む人間であることを可能にするのではないか、と考えているようです。しかし、私はこの意見に共感を示すとともに、やはり不満も覚える。彼女は人生の意味と科学の対立を、物質と精神あるいは研究と日常生活という対立として捉えました。これも非常に大事な観点で、今後の私の課題にもなりそうですが、彼女の視点には「なぜか偶然生まれた死すべき人間が」それでも科学する、ということへの切迫した問いが入っていないのです。哲学者の中島義道は、著書『死の練習』で、「死についての問いに感染しない人間が科学をやっていられるのだろう」といった意見を書いていましたが、私はこの問題提起を真剣に受け取らなければならないと思いました。科学者は死を忘却、あるいは軽視することによってしか科学できないのか、それとも死を問いながら科学することが出来るのか、ということを追求したいと思います。

 

3. <私>が科学する

 死についての問いに煩悶しない科学者は多いようです。生物学者に限って言えば、先ほど紹介した中村桂子さんもそうですが、リチャード・ドーキンスやその論敵グールド、そして日高敏高、本川達雄福岡伸一などの著作には、人生論的エッセーを含め、こうした問いにからめとられた形跡が全くなく、健全そのものなのです。その健全さに反発を覚えるときすらあります(彼らがもし私の意見を聞いたら猛烈な非難を浴びせてくるでしょうが)。だから、生物学者にこういった問題を尋ねるわけにはいかない。いや、こんなことを問うているのはおそらく私くらいだろうから、私自身でなんとか探究していくしかないようです。では、どうすれば死に煩悶する私が敢えて科学できるのか?

 

 死や人生の無意味さについて考えていると、もはや何もする気がおきなくなることは、経験が確証している。となれば、常にそれを考えながら科学する、ということは不可能かもしれない。しかし、間接的にそれを問いつつ科学することはできるのではないか。絶望と不安を絶対視せずに、一歩距離をとって眺めつつ、研究をするということ。それを可能にする方法があるのではないか?まだはっきりと見えてきたわけではないですが、ありそうなのです。それは<私>という視点を、研究活動の出発点であり終着点にするという方法です。

 

 <私>とはなにか(ちなみにこの表記は「山カッコわたし」と読みます)?これは永井均森岡正博の著作を読んでいるのならばおなじみの言葉ですが、「世界で唯一、その体から現実に物が見え、音が聞こえ、殴られると痛むような」身体を指します。そのような存在は世界に一つだけではないでしょうか。今、世界中の人間にランダムに小型隕石が落ちてしまう、ということを考えましょう。ほとんどの身体に隕石が落ちても、何も変化が起きないにもかかわらず、ある一つの身体にそれが落ちた瞬間、すべてが終わってしまうような特殊な身体が存在している。そういった唯一の実例が「科学している」ということ。この視点によって、私という神秘的な存在を脇に置くことなく、その内実が直に問われながら科学することができます。

 

 私は心身に関しては進化的歴史、物質的・生物的・神経的基盤をもっており、それは科学によってつぶさに探究することができる。しかしそのような基盤をもつものは、現在他にも大勢いるし、過去にも大勢いただろう。だがなぜか今、そのような存在の1つが、現実化してしまっている。この理由を問うことはできない。それにはいかなる理由もないからです。しかし、そのような基盤なしには決して現実化は起きなかったであろう。こうした現実化とその基盤の含みあいの上に、私の科学的探究があること。この<私>の神秘ーその開闢の条件を問う科学ーその探究を保証する<私>という循環構造は、どの文節をとっても驚くべき事実です。この驚きを常に確証し続けることができるということーそれは私における科学の意義の1つになる気がしています

 

 以上、簡単にまとめると以下のようになるでしょうか。まず、私が科学するためには、死の煩悶と不条理が完全に忘れ去られた場所にいることはできない。かといって、苦悩し続けることは科学を不可能にする。ほかの科学者はこのような問いを抱えていないから何のヒントももらうことができない。できそうなのは、苦悩から一歩だけ離れた地点で死と科学を同時に問うことだけである。それには、死と絶望というテーマを直接取り上げることはせずに、<私>という視点を導入することが突破口になるかもしれない、ということ。恐怖や倦怠なしに、不条理を考え、同時に科学をするべき、ということ。とりあえずこの方向でしばらくいろいろ考えていこうと思います。

 

 

参考図書一覧

 

科学者が人間であること (岩波新書)

科学者が人間であること (岩波新書)

 

 

 科学が描写する世界と日常生活のギャップについて詳しく論じられています。

 

 

 

 死もたらす無、という一般的理解に時間や自己の分析から挑んでいます。

 

世界の独在論的存在構造: 哲学探究2 (哲学探究 2)

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 世界は、唯一現実に存在する不思議なこれから成立しているー世界のいびつな構造を示す。

 

 

生者と死者をつなぐ: 鎮魂と再生のための哲学

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 どこまでも誠実に、安易に割り切らず、不条理・死・日常生活を問う名著。もともと著者は科学者を目指していたが、人生への懐疑から哲学者になったとのことです。私はそんな勇気がなかった。。。

 

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