2019-10-10

対立の軸は芸術云々とか表現云々じゃなくて階級

今回の表現不自由展をめぐる一連の騒動について、多くの芸術家芸術愛好家から呆れ声が聞こえる。

だが彼らは本質を見逃している。

なぜ人々は展に税金が使われることに批判的なのか。

なぜ人々は表現の自由という尊厳をわざわざ捨て去って(いるように見える)まで芸術家の側に立たないのか。

それはこれが階級問題からだ。

この貧しい国では多くの人々が明日の見えない生活に怯えている。そのような時代にあっては裕福な階級に生まれ育ち長じては芸術に打ち込むような人間に更に金を与えるのは野蛮に映る。この国では貧乏人はこの類の芸術をしない。つまり政府芸術支援により、富める者はより富み、貧しい者はより貧しくなる。それを感じ取る人々は、(たとえ表現の自由が自分たちにも利するものであるとしても)いけすかない芸術家たちを支持することはない。

佐野研二郎パクリ騒動があれほどまでに炎上したのは何故だったか。あれがパクリだったからではなく、彼や彼に近しい人々が「上級国民」と見做されたからだ。

人はその行為のもの同調したり憤るのではなく、その人の属性によって味方についたり敵にまわったりする。一事が万事O・J・シンプソン裁判だ。

学生時代運動部イジメられていたはてなー達がオリンピック税金を投じることに反対するように、田舎者に疎まれて逃げてきたはてなー達が地方税金を投じることに反対するように、貧しい人たちはより富める者たち(芸術家)に税金が投じられることには反対する。それは「芸術がわかっていない」とか、そういう話じゃあないんだよ。

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