※本記事では物語のあらすじ、および核心部に触れています。
アメリカの人気コミック『バットマン』の悪役として、1940年に初めて世に登場したキャラクター、ジョーカー。漫画版だけではなく、TVドラマや映画などの映像化も数多く、これまでジャック・ニコルソン(『バットマン』’89)、ヒース・レジャー(『ダークナイト』’08)などの有名俳優によって演じられてきた。今回、ジョーカー役に挑むのはホアキン・フェニックス。『ザ・マスター』('12)や『her/世界でひとつの彼女』('13)、『インヒアレント・ヴァイス』('14)といった作品で知られる実力派俳優だ。観客に忘れがたいインパクトを残す、圧倒的な存在感は誰しも認めるところだが、過去には引退宣言やミュージシャンへの転向を口にし、実はそれが全てドキュメンタリー映画のための自作自演だったと後に判明するなど、人騒がせな一面もある。監督に、『ハングオーバー!』シリーズ('09〜'13)などのコメティ作品を手がけたトッド・フィリップス。
物語の主人公アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、商店の大売り出しや病院の慰問などに派遣される道化師(ピエロ)として、プロダクションに所属して働く心優しい男性だ。彼はコメディアンを夢見ながら、病気がちの母親(フランセス・コンロイ)と共に貧しい暮らしを耐えていた。母親は、かつて富豪ウェイン家の使用人として働いていた過去があり、困窮にあえぐ現状を訴えた手紙を書いて、かつての勤務先へ送るが、返事は届かない。やがて、不運が重なりピエロの仕事を失ったアーサー。さらには福祉の補助も打ち切られてしまい、親子の細々とした生活はいよいよ追い詰められていく。
現在のアメリカは、どのような問題を抱えているか。なぜ、いま『ジョーカー』が撮られる必要があったのか。次期アメリカ大統領候補として名乗りを上げる上院議員、バーニー・サンダースは、2019年9月24日、自身のSNSでこう発言した。「アメリカおいて、3人の億万長者が、国民の半分が持つ資産を全て合わせたよりも多額の富を有しているなどということが許されるはずがない」*1。ついにアメリカの富の偏在はここにまで行き着いてしまった。2011年、リーマンショックをきっかけに起こった、ウォール街を占拠するオキュパイ運動のスローガンは「99% 対 1%」であったが、もはやその格差は「99.9% 対 0.1%」にまで広がっている。多くの労働者が、安すぎる賃金のために複数の仕事を掛け持ちするほかなく、家賃や医療費が支払えずに破産へ追い詰められている。バーニー・サンダースが指摘する「強欲」(greed)によって、アメリカの人びとの暮らしは疲弊しているのだ*2。
こうした政治状況が『ジョーカー』に与えた影響は大きい。劇中、福祉のセーフティネットのおかげでどうにか病気の薬を手に入れられていた主人公が、無情にも補助を打ち切られる場面は実に痛ましい。あまりにも強欲の度が過ぎる社会への怒り、これではとても生きていけないという切羽詰まった人びとの声が、怒りとして作品に反映されているように思えてならないのだ。バーニー・サンダースは、個人主義の国アメリカが避けてきたメッセージ(大きな政府、福祉や医療の充実、高等教育の無償化など)を堂々と打ち出し、大きな熱狂を呼んでいる。トランプという怪物を打倒するために召喚された、掟破りの候補者。バーニー・サンダースはこう述べる。「超富裕層は覚悟せよ。この国の労働者階級が政治的革命を起こす準備は整っている」*3。本作のクライマックスもまた、人びとが路上で起こす革命を連想させる。
『ジョーカー』にはスーパーヒーローが出てこない。やがてバットマンとしてゴッサム市の平和を守ることになる男ブルース・ウェイン(ダンテ・ペレイラ=オルソン)は、まだ何も知らない少年だ。本作において、ヒーローとヴィランの刺激的な戦いは描かれない。トッド・フィリップス監督は本作を、『カッコーの巣の上で』('75)や『タクシードライバー』('76)、あるいは『キング・オブ・コメディ』('82)といった映画に近い、登場人物の描写を掘り下げる「キャラクター・スタディ系」の作品であると述べている*4。爽快なヒーロー映画ではなく、主人公の鬱屈した精神に寄り添い、ひとりの男性を通じて現代社会のあり方を浮き彫りにする映画が『ジョーカー』だ。アーサーがいかにして、自分を取り巻く厳しい環境のなかで孤立し、行き場を失ったか。彼がどのように善悪の基準を失い、ジョーカーと化したか。娯楽作品とは呼びがたいが、社会の枠から人がこぼれ落ちてしまう瞬間をとらえた物語として、アメリカだけではなく世界中で大きな支持を得るだろう。
物語が進むに連れ、貧困と孤独の悪循環に陥るほかないアーサーだが、彼にも高揚を感じるひとときがある。社会の枠を超え、善悪の一線をまたいだ時、彼は達成感に包まれ、いてもたってもいられず踊り出してしまう。誰に習ったわけでもないであろう、見よう見まねのバレエのような、自己流のふりつけで踊り出す孤独な男の姿はとても優雅で、あまりにも美しい。そして劇中、アーサーが踊るたび、彼の内なる善良さは失われ、しだいにジョーカーへと変貌を遂げていく。ジョーカーのやり方(暴力と扇動)で世界を変えることはできない。そうわかっていても、彼が踊る姿の優雅さには魅了されてしまう。われわれはみな、世界を公平で正しいものにしたいと願っている。では、どのように? そうした問いを観客につきつける『ジョーカー』が、本年度もっとも議論を呼ぶ映画になることは間違いなさそうだ。
*1バーニー・サンダース、9月24日のツイート 原文:There is no justice when three billionaires are able to own more wealth than the bottom half of the entire country.
*2ニューヨーク・タイムズ、7月28日の記事 アメリカにおける「強欲」(greed)の一例として、医薬品の価格が挙げられる。バーニー・サンダースは、インシュリンの価格が不当に釣り上げられている実態を非難した。同じ製薬会社の作る同じインシュリンの販売価格が、アメリカとカナダで10倍異なっており、薬代を捻出できない生活習慣病の患者は国境を渡ってカナダへ行き、安価(アメリカの販売価格の1/10)で購入しているという。インシュリンの入手は生命に関わる問題であり、製薬会社の強欲によってアメリカ国民は命を脅かされているとバーニー・サンダースは述べる。
*3バーニー・サンダース、10月1日のツイート 原文:The billionaire class should be very, very nervous. The working people of this country are ready for a political revolution.
*4映画秘宝2019年11月号(洋泉社)監督インタビュー内記述
『ジョーカー』
公開日:2019年10月4日(金)
劇場:日米同時公開
監督:トッド・フィリップス
出演:ホアキン・フェニックス/ロバート・デ・ニーロ/ザジー・ビーツ/フランセス・コンロイ
配給:ワーナー・ブラザーズ