最上位の支配層バラモンは同性愛禁止、基本的に金貸し禁止、窮迫しても武器商人は禁止な 『マヌ法典』。 『バガヴァッド・ギーター』の「肉体は死ぬが魂は死なないから戦争しろ」を共有する支配層=破戒層
Posted on 2019.06.27 Thu 20:08:30 edit
現在の支配層はバラモン教的には戒律違反により支配層の地位から被支配層に堕とされるとわかる。
禁欲せず、執着から離れる修行もせず、
同性愛を支配の道具として悪用し、
銀行業も武器商人もする
現在の支配層が
ギーターの
「肉体は死ぬが魂は死なないから殺しても大丈夫」を実行しているから
この世が地獄になるのは当然。
せめて宗教家のうち支配階級の者ぐらいは
金融にも武器商人にも関わるな。
ギーターの恐ろしい霊肉二元論思想を
マヌ法典などの非殺生戒で歯止めをかけているのに
今の支配層は間違いなく非殺生戒を守らないどころか
積極的に殺生=間引き=人口削減をしている。
食料事情を考えると人口削減は必要だがやり方が悪辣すぎる。
もっと良い方法があるだろ。
キリスト教の起源や
アイルランド(島のケルト)神話を深く知りたい人はウパニシャッドとインド神話を学ぼう。
神智学系がヤソ的に曲解したインド神話ではなく
原典からの翻訳を直接読もうな!
英語版ウィキでDanu (Asura)という項目がある。
ダーナヴァ
=インド神話におけるアスラ神族の一派「ダヌの子供たち」。
特にカシュヤパ仙人とその妻ダヌの100人の子供とその一族。
アイルランド(今は島のケルトはケルトと言わないらしい)神話も
ダヌとダヌの子供(トゥアハ・デ・ダナン)たちの話。
マハーバーラタの敵側が百王子という百人の息子たち。
西ヨーロッパはイラン辺りからのアーリア系
遺伝子の流入が大半である事だ。
逆にロシア等のスラブ系や北欧は違う遺伝子
分布…。
これはアイルランド神話のトゥアハ・デ・ダナン神族
の入植を裏付ける事実となる。
何故ならダナン神族は”女神ダナの息子”という
意味で女神ダナ=ドナウ川の擬人化だと伝えられているからだ。
逆にユダヤ系列のセム系はアフリカ、中東の
外に出ていないことが分かる。
つまりセム人的影響よりもアーリア人的影響力の
方が西ヨーロッパでは強かったのではないかと
思われる。”
”古神道の世界観で有名な日ユ同祖論だが、
個人的には…あり得ないと思っている。”
以上
ぐだトマトさんも昔は高天原は
ヒマラヤにあったのでは⁉︎
と、思い込まされてたぜ!⛩
古代人のDNA解析関係はよく
分からん……^^;
なろう小説のエッセイで「歴史と
DNA」ってシリーズがあるけど、
複雑過ぎてよく理解できなかった……
古代人のDNA、実はそこまで
関心がある訳ではないのよね^^;
アトランティス実在or空想?
みたく夢のあるテーマだとは
思うけど^^
古代人のDNAよりも、インドの
マントラを唱え続けると本当に
スーパーパワーが身に着くのか?
の方が興味あって、昔結構
ハマっていた事がある。
インド系のヨーガとか、中国系の
道教とかもそうだけど、宗教学者
の学術書とかも読むんだけどさ、
いかんせんこの系統は実際に
インドや中国に行って、雪山とかに
篭って本当に修行した人達の
話の方が面白くてね^^
マントラだとアメリカ人で実際に
ヒマラヤの雪山に篭ってひたすら
マントラを唱え続ける修行を
続けたガチの行者が居て、
その人のCDとか全部揃えるほど
だったんだけどさ。
最後、結構若くしてガンで亡くなられ
ちゃって……
ひょっとしてマントラって
結構ビミョ〜じゃね?^^;
って結論になって、以来マントラ
から離れてしまったんだけど……
いやぁ、懐かC〜
でも、その人のCDと本は今でも
全部残して持っているんだけどね^^
密教の真言と違って、その人の
マントラは結構リズミカルで
歌を歌っているみたいで、
日本のお寺の真言暗唱とのギャップ
が結構あって、新鮮だった^^
うるせー!💢
こちとら米軍やGAFAでマインド
フルネスが流行る前からヴィパッ
サナー瞑想を先取りして実践して
たんだよッ‼︎
そりゃあ、流石のぐだトマトさん
だってスーパーパワーの求道に熱心
だった時期ぐらいあるさ🧘♀️
ぐだトマトさんの経験上、
“ピンク色の玉集めて理想の彼女
を引き寄せる”奴は……
……無理に止めはしないけど、
あまり効果の方は期待しない方が
いい、とだけ忠告しておく👎
(遺伝子系はどんどん変わっていくからなあ。
古代人のDNA重視=血統崇拝(妄想)。
そりゃあマントラは気分を高めるBGMを自分で発するものだから
BGM以上のものを期待してはいけないのでは?)
キリスト教の正統派と異端派の起源
バラモン要素が強いと異端寄り
ゾロアスター要素が強いと正統派寄り。
キリスト教のユダヤ教要素は表面であり
根本の発想はインド・イラン系。
新キリスト教の異常なインド・イラン重視の理由の一つは
既存のキリスト教を否定する強力な武器だからだろう。
子×5(ねここねこ)@kitsuchitsuchi
2014年9月23日
キリスト教がユダヤ教派生は嘘。
ユダヤ教とキリスト教の救世主観は全然違う。
ユダヤ教のメシアは現世利益を齎す政治的指導者。
キリスト教のキリストは超越的存在(ミトラと拝火教)。
ユダヤ教は中国と同じく子孫繁栄などの現世利益用。
猫太”エッセネ派ってなんかーユダヤ人っぽくないよ。
お金が嫌いで独身主義とか、
子孫繁栄と現世利益が強いのがユダヤ教やん?”
”聖霊って不思議な観念ですよね。
お金と現世利益が大好きで欲しかったのは
現実世界の約束の地というユダヤ人の感性じゃないようにみえる”
”オリジナルのユダヤ教は、中国人と全く同じの現世利益的宗教ですから。
この基本がわかれば陰謀論の嘘もわかる。”
”そうですね。大きな聖書神話というストーリーの中に閉じ込めさせて行動させる技術ですね。だから彼らは神話を操る。日油同祖論とユダヤ陰謀論という一見アンビバレントなものも、ひっくり返せば磐石な聖書神話を日本人に吹き込むためのツール。そして聖書を洗脳する。”
改訂版 『マヌ法典』(平凡社〈東洋文庫〉、2013年)
『サンスクリット原典全訳 マヌ法典』中公文庫、1991年の
改訂版である平凡社〈東洋文庫〉2013年のメモ。
サンスクリット原典よりの全訳。
東洋文庫版での再刊にあたって
本書は
渡瀬信之訳 『マヌ法典 - サンスクリット原典全訳』(中公文庫、1991年)の再刊。
訳文および訳注の一部改訂を行ったが
最も重要な点は
ヴェーダ=ダルマの世界における重要観念の一つである罪の清めに関して
これまで一般に用いられてきた贖罪という訳語を改め罪の除去にしたことである。
罪は実体的な汚れとして捉えられ
それは除去されるべきものであった。
すなわち罪を償うという観念は存在しないからである。
※ブラーフマナ=婆羅門(バラモン)
解題
『マヌ法典』
(マーナヴァ・ダルマシャーストラもしくは
マヌ・スムリティ)
はダルマシャーストラと総称される一大文献群の一つ。
ダルマシャーストラ
=ダルマに関する教え。
ダルマシャーストラがいつ頃に初めて編纂されるようになったかは
必ずしも明瞭ではないが、
現存する文献の最初期のものはおよそ紀元前6世紀頃。
時代順に
ダルマスートラ(前6世紀頃から前2世紀頃)
スムリティ(前2世紀頃から後5世紀ないし6世紀)
注釈書(7ないし8世紀以降)
ダルマニバンダ(12世紀以降)
に分類される。
『マヌ法典』は第二期のスムリティの最古を飾り、
およそ紀元前2世紀から紀元後2世紀のあいだに
前代のダルマスートラを引き継いで編纂された。
しかし、形式・内容の完成度および格調の高さから、
ダルマシャーストラ史上に不動の地位を確立し
文字通り後のヒンドゥー教世界の聖典となった。
ダルマの語は
動詞語根「支える、保持する」から作られる
行為者名詞として第一義的に
支えるもの、保持するもの、維持するもの
を意味する。
ダルマは万物のそれぞれに働いてそれぞれを本来の位置に固定する。
万物はダルマにしたがって宇宙の秩序の中に位置づけられる。
ダルマの力の源は宇宙秩序(リタ)。
『マヌ法典』が属するダルマの書
すなわちダルマシャーストラの最初期のものは
ダルマスートラと呼ばれる。
それはおよそ紀元前6世紀前後頃、
当時台頭著しかった禁欲苦行主義に対して
伝統的な社会秩序と生き方の見直し、
強化の必要に迫られた時代において、
ヴェーダに精通し、
伝統世界の旗手を自他ともに任じていたブラーフマナのエリート層によって作成された。
目指したのは前代の伝統世界で形成されつつあった四ヴァルナを中心とする社会体制、
いわゆるヴァルナ体制の確立と強化であった。
最重要基本理念として据えられたのは
四ヴァルナは社会秩序の中で
それぞれのポジションに位置し
創造主の神意によって定められたスヴァダルマ、
すなわちそれぞれに特有の社会機能を分担すべきであるという思想。
ダルマの源泉が
すでに前代のころより宇宙秩序(リタ)から創造主に変わりつつあったが
ダルマスートラにおいてもそれは継承された。
創造主によって定められたブラーフマナのスヴァダルマは
ヴェーダの教授と祭官としての職掌そして贈物を受け取ることであり
クシャトリヤのそれは人民の守護
ヴァイシャのそれは農業・牧畜・商業等の経済活動、
シュードラのそれは上位ヴァルナがそれぞれの機能を円滑に遂行するための奉仕であるとされた。
『マヌ法典』の作者は創造主ブラフマンによる世界創造について語る中で
ダルマは創造主自身によって啓示され
神的なリシたちの手で我々のもとに伝えられたと宣言。
冒頭で太古の神的リシたちは、
世界の創造主ブラフマンの子であるマヌに向かって、
生き方(ダルマ)を説くように懇願する。
マヌはまず世界の創造を語り
話半ばで続きをリシの一人であるブリグに託す。
以後の全篇はブリグによって語られる形式。
p.20から
スヴァヤンブー〔自ら生まれた者〕
このもの(宇宙)は、かつて暗黒からなっていた。
それは認識されず、特徴なく、推測を超え、識別されず、
至るところ眠っているかのようであった。
そのとき、〔それまで〕姿を現わさなかった尊いスヴァヤンブーは、
威力を発揮して、偉大な要素(マハー・ブータ 五物質要素)をはじめとして
このもの(宇宙)を顕現させつつ、暗黒を払いのけて姿を現わした。
感官を超えるものによって捉えられ、
微細で、姿が見えず、永遠で、いっさいの要素から成り立ち、
思慮を超えるその彼は自ら立ち現れた。
彼は自らの身体から種々の生類を創造しようと欲し、
熟慮した後、まず初めに水を創造し、その中に精子(種子)を放った。
それは太陽のように輝く黄金の卵(ヒラニヤガルバ)となった。
そしてその中にいっさいの世界の祖父、ブラフマンが自ら誕生した。
水はナーラーと呼ばれる。実に水はナラの子供であるから。
その初め、水は彼(ブラフマン)の住居(アナヤ)であった。
それゆえに〔ブラフマンは〕「ナーラーヤナ」(水を住居とする者)と呼ばれるのである。
姿が見えず、常住で、有と非有を本質としている原因――
それから生まれたかの者(プルシャ)はこの世でブラフマンと呼ばれている。
尊いかの者は、その〔黄金の〕卵の中にまる一年住んだ後、
自ら、己れの熟慮に従ってその卵を二分した。
かの者は、その両半分によって天と地を造った。
〔そしてその〕中間に空と八方角および水の永遠の住処(海)〔を造った〕。
次いで〔ブラフマンは〕彼自身から有と非有からなるマナス(思考力)を、
そしてマナスから自意識者であり支配者であるアハンカーラ(我欲)を取り出した。
…
これら偉大な威力を持つ七つのプルシャの微細な身体分子からこの世界が生じる。
不滅のものから滅亡するものが〔生じる〕。
これらのうちの後行するものは先行するものの性質を受け継ぐ。
それらはそれぞれの位置に相当するだけの数の性質を有すると言われる。
(七種のプルシャ。また7。
暗黒
→スヴァヤンブー〔自ら生まれた者〕によって五物質要素が顕現し暗黒を払いのける
→スヴァヤンブー〔自ら生まれた者〕は熟慮(=思考)の後、水を創造
→創造した水の中に精子(種子)が放たれる
→精子(種子)が変化し黄金の卵(世界卵)に
→卵からブラフマン(=世界の祖父=水を住居とする者=プルシャ)が誕生
→卵が二分されそれぞれ天地となる
一・五から始まる創造神話なのだが一・五というふられた番号は省略。
原文にはないはずだし省略して良いと判断。
バラモン教の派生であろう
オルフェウス教にも卵神話がある。
”オルフェウス教の神話は複数ある(一部だけ紹介)
オルフェウス教の宇宙誕生譚は一つの決まった定説があるのではなく、いくつもの異なった説がある。
アテナゴラスとダマスキオスの説。
アテナゴラス説だと、
水があらゆるものの始原。水から泥が形成される。水と泥から蛇(ドラコーン)が生まれる。
この蛇はしっかり生えた獅子の頭を持ちそれらの中央に神の顔があり、
ヘラクレスそしてクロノス(時)という名を持つ。
このヘラクレスはとてつもなく大きな卵を産んだ。
卵は産み落としたものの荒々しい力に満たされ摩擦によって二つに分割される。
一番高い部分が最終的にウゥラノス(天空)となり、
下の部分がゲー(大地)となった。
そこからは
(ねここねこ注。そこが何を指すのか。下から出たのか?)
「双胴の神」(=ファネス、パネス)も出てきた。
ウゥラノスはゲーと交わり合ってクロト、ラケシス、アトロポスという娘たちと、
ヘカトンケイル族
とキュクロプス族(一つ目巨人族。つまりブロンテス=雷鳴、ステロペス=雷光、
アルゲス=閃光)
という息子たちをもうけた。
ウラノスは息子たちによって権力座を追われることを知ると
息子たちを縛り上げタルタロス(奈落)に突き落とした。
そのためゲーは怒りティタン族を産んだ。
ダマスキオスの別伝によれば
初めに水があり、そして素材(ヒューレー)があった。
ヒューレーが凝固することで大地ゲーが形成された。
すなわち水と土を最初に提示している。
水は土をくっつける。
水と土から、しっかり生えた牡牛の頭と獅子の頭を持っていて
中間には神の顔がある蛇(ドラコーン)であり、
両肩には翼があり、「老いを知らぬ時」または「ヘラクレス」と呼ばれた存在が生まれる。
そしてそれと結びついているのが必然(アナンケ)である。
これは本性の点でアドラステイア
(私の注:「逃れられざるもの」)
と同じであり、
非物体的で宇宙全体に腕を伸ばし宇宙の際涯に触れている。
この「時」=蛇は三者からなる子孫を産む。
湿ったアイテル(上層天)、
無限のカオス、
霧のようなエレボス(幽冥)である。
更に時がこれらの中に卵を産んだ。
卵が中に持つのは二つの性質、
男女のそれであり真ん中にはあらゆる種類の種がたくさんある。
そしてこれらに続いて三番目に、非物体的な神がおかれる。
両肩に金の翼があり、
わき腹にしっかりと生えた牡牛の頭をいくつか持ち、
頭部にはあらゆる種類の動物の形に似た巨大な蛇(竜)がいる。
これをプロトゴノス(最初に生まれたもの)として称賛し
万物の組織者そして宇宙全体の組織者たるゼウスと呼んでいる。
ゆえにこれはまた、パーン(全宇宙)とも呼ばれている。
…
・テュシア(thysia)「生贄」は流血を伴う生贄とそのあとの食事を指すのに普通に用いられる。
動詞テューオー
(生贄という好意に用いられる。厳密には動物の焼かれる部分に用いられる)から派生した
テューマという名詞は、生贄の犠牲獣を意味する。
(フィクションの人名で使われそうなので書いておいた)
・オルフェウス教の戒律の一つがソラマメの絶対的禁止。
ソラマメ禁止はピュタゴラス主義とオルフェウス教とエレウシス秘教に共通しており、
ピュタゴラス主義の人々が作り上げた、豆類と生命の起源との象徴的対応に基づいて定着しているもののようである。
「豆は人間の種子にほかならぬ」
…
・自殺の禁止。自殺は殺害である。我々の肉体はディオニュソスに属する。
ストア派の賢者にとっては自殺は自己の神格化を確かなものにする行為。
自殺は、絶対的な力である運命(その裏には有限性がひそんでいるのであるが)と張り合うことができると主張された。
「生を保ち続けるべきか」という質問に対する答えは、
「現状において、生き続けることは生から離れることよりもより自然に即しているか」
(キケロ『善と悪の究極について』)。
(マニ教から殺人禁止を抜くと最悪のカルトになるな。
上位のみ殺人OKで、下位は殺人禁止なら、下剋上で殺されることを抑止できる。現状そのままだ)
…
ムネモシュネは、ヘシオドス以来の伝統によればムーサたちの母であるが、
オルフェウス教においてもひとりの神だ。
冥界の前に位置し死後の運命の入り口に君臨している神だ。
ピュタゴラスの徒が主張した数(正の整数)の知の概念が、
二つの欄に分けられた一覧表で表わされている。
それぞれの欄の頭には、
限り(ペラス)と無限(アペイロン)という断固とした二つの原理がある。
右には奇数、一、明、善。
左には偶数、多、暗、悪。
一が見いだされるので右は善。
左が悪なのは二者関係と偶数性からなる生殖の原理によって示されている。
ピュタゴラス式生活の戒律の一つは、
あらゆる神殿には右手から入って回ることを命じていた。
プラトンいわく、
死後の魂は二つの道が交差していて
そのあいだには裁判官たちが席を占めている場所にやってくるとあり、
正しい人々に対しては右側の天を通って上に向かう道を行くように命じ、
不正な人々には左側の下へ向かう道を行くように命じる。
死者の霊魂を導くヘルメスは冥界の分かれ道で右の道をとって正しい人々の魂を冥界の判官ラダマンテュスのところへ導く。
神話の英雄アエネアスはウェルギリウス作『アエネイス』にて冥界下りをするが、
道案内をしたアポロンの巫女シビュラはこの英雄に必ず取らねばならない道筋について念を押す。
「右は偉大なるディースの城市へと向かう。われらはこちらを進んでエリュシウムへ行く。
左は悪人どもに罰を下し、不敬なタルタラへ送る道だ」。
ディース=ギリシアのハデス。
エリュシウム=ギリシア語のエリュシオン「極楽」。
タルタラ=タルタロス。
ファラオ時代のエジプトでは、広く快適な西の道(右の道)と、
反対の険しく狭い東の道が考えられていた。
ユダヤ教のカバラでは
「向こう側」の教義は全世界の悪魔の悪しき勢力を「左の階層序列」に従って述べる。
ポルフュリオス『ピュタゴラス伝』より、
ピュタゴラスは、
対立する力で、
優れるものを、一、光、右、等、停止、直。
劣るものを、二、闇、左、不等、曲、運動と呼んだ。
アリストテレス『形而上学』より、
ピュタゴラス学徒のうちでもある人々は、
原理を十対ある双欄表に列挙。
限りと無限、
奇と偶、
一と多、
右と左、
男と女、
静と動、
直と曲、
明と暗、
善と悪、
正方形と長方形
がそれである。
(左利きの女が嫌いなのかな?
ピュタゴラス教団も男女平等ではないな。
女性の体形は曲が強調されているよね。
オルフェウス教は救済には記憶が必要だとする)
・冥界の監視者に告げる合言葉は、
「私は、ゲー(大地)と、星芒輝くウゥラノス(天空)の子だが、私が属するのは、天空の種族である」
ガイアとウラノスの息子と自己紹介することで死者は人間と神々の共通起源を完ぺきに記憶していることを証明する。
…
・オルフェウス教の影響が初期キリスト教にも及んだ。
地下墓地カタコンベには野獣たちが竪琴のたえなる調べのとりこになって、
オルフェウスを取り巻いている図が刻まれる。
影響は間接的なものにとどまった。
聖パウロいわく、
人間の魂はオルフェウス教の意味でもプラトン的意味でも神的なものではないと断言されていたから。
パウロ曰く
魂は神の恩寵の座、神の息吹のすまうところ。
パウロは神的状態を獲得するということ、人格が入れ替わることによる働きは理解したが、神的状態を取り戻すという概念は持っていなかった。
オルフェウス教では自分自身に本来あるものを崇めて神的なものを見つけていった。
十五世紀のフィチーノに代表されるフィレンツェの人文主義ではプラトン神学をキリスト教に統合しようと努力された。
フィチーノは古代神学者たちを列挙し、ヘルメス・トリスメギストスのすぐ次にオルフェウスをあげている。
オルフェウスは新プラトン主義の中心教義を先取りしていた。
(グノーシス系キリスト教にもオルフェウス教の影響がありそう。輪廻思想はオルフェウス経由のバラモン教起源だろう)
(ハリーポッターの第一巻がまんまオルフェウスの冥界下りを模している。
フラッフィー=ケルベロスを音楽で眠らせる。
奥にいるのがヴォルデモート=ハデス=名前を読んではいけない存在。
ハデスの名を言うことは忌避されたからまんま。
冥界の王にして、冥界の裁判所のトップにして、
呪術・富・鉱物・宝石・豊穣・
死者の埋葬・葬礼をつかさどり、
死者に敬意を払わないものを罰するハデス(英語プルート。ラテン語プルトン)のシンボル。
隠れ兜(かぶると姿を消せる皮でできている)、
王笏、玉座、果樹園、冥界の鍵、
豊穣の角(コルンコピア。…両手でかかえるほど大きい)、
糸杉、ミント、白ポプラ、
アスポデロス(不死の花)、水仙、
ザクロ、
メンフクロウ/ミミズク(縁起の悪い鳥でハデスの使者といわれる)、
ケルベロス。
ハデスの名は直接口にするのは縁起が悪いので避けられた
…
ハデスの別名は縁起の悪さを感じさせないポジティブなものが多い。
プルトン(富める者)、アイドネウス(見えざる者)…
ハデスは…生殖能力のない男神だと考えられているが、
本流ではないギリシャ神話(オルフェウス神話)では子供を持っているときがある。
)
(時間の神は重要。数が少ないので覚えやすい。
ズルワーンとクロノスとアイオーン。
ケルトの時間の女神
"Arianrhod" (arian, "silver," rhod, "wheel")
銀の車輪=アリアンロッドはケルト神話に登場する時を司る女神。
”
この過去記事、読み直すとものすごく重要なことが書いてあるな。)
(様々の生物の根源となる生物は後に生まれる生物の要素を持つから
多数の生物の混合体、つまりヌエみたいな存在なのだろう。
シームルグ)
p.24
行為を区別するために正義(ダルマ)と不正義(アダルマ)を分かった。
p.25
”〔かのブラフマンは〕諸世界の繁栄のために、
〔彼の〕口、腕、腿および足から、
〔それぞれに〕ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラを生じさせた。”
(カーストの根拠)
p.26
”私(マヌ)は人類を創造しようと欲して、
至難の苦行を行ない、
まず初めに、十人の人類の主となる偉大なリシを創造した。
〔すなわち〕
マリーチ、アトリ、
アンギラス、プラスティヤ、
プラハ、クラトゥ、
プラチェータス、ヴァシシュタ、
ブリグそしてナーラダである。
一方、偉大な威力を有する彼らは、
他の七人のマヌ、神々、神群および計り知れない威力を持つ偉大なリシたちを創造した。”
(7)
『マヌ法典』
p.31-32
”ブラフマンの夜と昼および一つひとつの紀(ユガ)の長さを
順を追って簡潔に学ぶがよい。
〔神々の〕四千年と言われているそれはクリタ紀である。
それの薄明(サンディヤー)は同じ数の百(四百年)であり、
薄暮(サンディヤー・アンシャ)もまた同種(四百年)である。
薄明と薄暮を伴う他の三つ〔の紀〕においては、
千および百が一つずつ少なくなる。
まず初めに、四紀を合計すると一万二千年となり、
それは「神々の紀」と呼ばれる。”
p.34
”クリタ紀においては正義(ダルマ)と真実(サティヤ)とは四本足を有して完璧であり、
不正(アダルマ)によるいかなる利得も人間に起こらない。
他〔の紀〕において、正義は〔不正による〕利得のために足を一本ずつ奪われ、
正義は泥棒や虚偽やまやかしによって四分の一ずつ消え去る。
クリタ紀においては人々は病に侵されず、すべての目的を成就し、
四百年の寿命を保持する。
トレーター紀以下においては彼らの寿命は四分の一ずつ短縮する。”
(だんだん悪くなるという下降史観がバラモン教。
今の時代の人間の寿命は百年らしい)
p.36
”人間は臍より上にいくほど清浄であると言われている。
それゆえにスヴァヤンブーは、
人の口は最も清浄であると述べた。
ブラーフマナは、身体の最上部より生まれたがゆえに、
最初に生まれたがゆえに、
そしてヴェーダの保持者であるがゆえに、
本来のあり方(ダルマ)に従って、
このいっさいの世界の主である。
スヴァヤンブーは、供物を神々と祖霊に運ぶために、
またこのいっさいの守護のために、
苦行を行なって自らの口から最初に彼(ブラーフマナ)を創造した。”
(一番清浄な部位が口
ナメック星人が口から性行為なしで生まれることの元ネタだろう。
)
p.38
”スヴァヤンブーの息子のマヌは、
賢明にも、ブラーフマナおよび他の〔身分の〕職務・行動(カルマン)を弁別するために、
順序正しく、この教えを編んだ。
学識あるブラーフマナは努力してこれを学ぶべし。
そして弟子たちに正しく教示すべし。
他のいかなる者も〔そのことをしてはなら〕ない。
この教えを学び、
〔そこに〕告げられるなすべき事柄(ヴラタ)を果たすブラーフマナは、
心と言葉と身体から生じる行為の罪によって常に汚されない。
彼は、〔共食の〕列に連なる者(パンクティ)と
前後七代にわたる一族を清める。
そして彼のみがこの全大地に値する。”
(バラモン教だから当然だがバラモンがこの世で最高であり所有者)
p.47
”胎児のための火への献供(受胎式から誕生前までの諸儀式)、
誕生式、結髪式、ムンジャ草の帯の結帯式(入門式)によって、
ドヴィジャの、
精子と子宮によってもたらされる罪(両親から受け継ぐ罪)は除去される。”
(両親から罪を受け継ぐってオルフェウス教の原罪と
オルフェウス教の原罪を取り入れた西方キリスト教の原罪の元ネタだろう。
罪は遺伝するという思想はマジ有害。優生学の基盤。
当時から精子の存在は知られていたの?
精液の間違いでは?
)
p.67
”富、親族、年齢、行為(あるいは職業)、五番目に学問――
これらは尊敬のもとである。〔しかし〕後行するものほど重要である。”
(尊敬できる要素で学問が一位なのが良い。
マヌ法典での尊敬できる要素ランキング
学問>行為(あるいは職業)>年齢>親族>富
でも生まれが悪いと学問ができないので結局先天的要素第一)
結婚
配偶者の選択
p.85
”赤〔毛〕の娘、指が多い娘、病身の娘、無毛の娘、
多毛の娘、おしゃべりな娘、赤〔目〕の娘と結婚してはならない。”
(赤目はアルビノの特徴なののアルビノ除けでもあるのだろう。
アルビノ白人娘は結婚できない。
日光に弱いと病気になりやすいから?
赤毛差別。
妄想アーリア白人主義者が激怒しそうな規定。
Justice@セイギ
@justice590
6月24日
カルナ覚醒モードが完全にスーパーサイヤ人ゴッドに見えるのは俺だけ?
(スーパーアーリア人)
バラモン教のマントラの「オーム」
は仏教(密教)の“真言”って奴なので、
「オーム」がそもそも何なのか?
を知りたい場合は、文献の豊富な
仏教学とかの真言についての研究
とかが書かれている本とかの
方がウパニシャッドよりも分かり
易いかも?^^
(オームって意味は後付けで
色々な音を出してみて
オームがいろいろ良い感じなトランスしやすい音だったとかじゃないの?
赤目か赤目の娘と結婚するなというマヌ法典の規定。
アルビノ白人は赤目だからアルビノ白人除けでもあるだろう。
なぜなら赤と共に指が多い、病身、無毛などの娘と結婚するなとあるから
要は将来的に生存に不利な体な子供が生まれる可能性が高いと
経験的に知られていた特徴なのだろう。
日中活動する生物が日光に弱いのはかなり不利。
黒人アルビノは白人の起源の一つ↓
そういや、犬🐕のヴィハーンと
馬🐎のブハーンの話をちょっと
前にしたけど、
馬🐎のブハーンの方は安い
ウパニシャッドの訳本に
は載ってなかったんだった^^;
値段の高い方のウパニシャッド
か、英訳とかなら著作権なんか
とっくに消滅しているから
海外のネットとかにあると思う。
7時間7時間前
ど〜しても宗教学だとか、
仏教学だとかの専門書を読むのが
メンドイ(実際にお坊さんに
でもならない限りあまり就職の
役にも立たないし^^;)人達に
ヒントだけあげると、
「オーム 唸り声」とかで検索掛ける
と手っ取り早いかも^^
唸り声ってのは犬が噛んできそう
な時の“ガルルル……”みたいな音。
7時間7時間前
ぐだトマトさんは別にプロ宗教学者
とかじゃないのであまりアテに
ならないかもしれないけどね^^;
(調べたらでた記事を本記事の参考資料のところに載せておく。
)
p115-117
”規則に従って神々あるいは祖霊への献供に招かれたブラーフマナが、
たまたまであれ、〔約束事に〕違反するときは、
彼は罪人となり〔次の世において〕豚となる。
…
リシたちから祖霊が生まれ、
祖霊たちから神々と人間が、
そして神々から順に従って
動・不動のいっさいが生まれる。
銀製のあるいは銀飾りの付いた容器で、
信仰をもって彼らに与えられるとき、
水ですら不滅へと導く。”
(バラモン教での豚の扱いは悪い。
一神教での豚の扱いの悪さに影響しているだろう。
もしかして銀による清めはバラモン教が原点?)
p.141
”シュードラに知恵を与えてはならない。
残食、あるいは供物とされたものを〔与えてはなら〕ない。
彼に〔上位三身分に対して定められた〕生き方(ダルマ)を教示してはならない。
また彼に誓戒(ヴラタ)を指示してはならない。”
アナディヤーヤ=勉学が停止される状況。
p.145-146
”死体のある村、シュードラの近く、
泣き声が聞こえるところ、
また群衆の中ではアナディヤーヤである。”
(シュードラにヴェーダを教えてはいけないから)
p.153
”他人に依存するすべては不幸であり、
自らに依存するすべては幸いである。
要するにこれが幸・不幸の定義であると知るべし。”
(ヴェーダを学べる階級への教えなのに注意。
上に立つ者が他人に依存するのはかなりまずい。
依存だから依頼とか適役に頼むという意味ではないだろう。
釈迦の自らを拠り所とせよと同じ意味かも。
幸・不幸はダルマに従うか否かではないの?)
”四・二〇〇
印を持たない者が印を持つ者(学生・苦行者)であるかのように装って生計を得るとき、
その者は印を持つ者たちの罪を背負って畜生の母体に生まれる。”
p.158
(印が何か分からない。まさか×形の印ではあるまい)
p.166
”四・二五七
規則に従って、偉大なリシ、祖霊および神々に対して負債(リナ)を返済し、
いっさいを息子に託し、〔いっさいに対して〕中立を保持して暮らすべし。”
訳注
三つの負債
人間は生得的にリシ、神々および祖霊に対して負債を追っていて、
人生はそれらの負債の弁済のためにあるという考え方が古くからあった。
それらの弁済はリシに対してはヴェーダ学習によって
神々に対しては祭儀によって
そして祖霊に対しては息子を生むことによって果たされるとみなされた。
この思想は家長中心の伝統的・正統的なブラフマニズム世界の根幹をなす。
三つの負債を弁済せずに解脱を求める生き方は強く非難される。
(西方ヤソの原罪思想の源流だろう)
p.173
”五・二二
ブラーフマナは、祭儀のためあるいは扶養者を養うために、、
推奨される鳥獣を殺してよい。
なぜならば昔アガスティヤがそうしたからである。”
訳注
アガスティヤはリシの一人。
マハーバーラタにおいて
動物は祭儀のために創造されたこと
クシャトリヤは狩りで捕らえられた動物の肉を食しても罪を負わないこと
昔、アガスティヤの時代においてすべての鹿が神々と祖霊に捧げられたこと、
それゆえに鹿狩りは非難されないことが語られる。
またヴァシシュタ・ダルマスートラにおいて
アガスティヤは一千年続く祭儀において狩りに出て、
祭儀のための祭餅(プローダーシャ)を、
食するに適した鳥獣の肉で準備したことがヴェーダに述べられていると語られる。
(鹿目まどかの鹿はインド・イラン・ケルト・アルテミス要素。
アルテミスだから弓を使う。
)
”五・一三二
臍より上の腔はすべて清浄である。
下にある腔および身体から排出される廃物(マラ)は不浄である。”
p.189
(腔=体内の中空になった部分。)
王の生き方
”七・六
彼は太陽のように〔人々の〕目と心を燃やすので、地上の誰も彼を凝視することはできない。
…
七・八
王はたとえ子供であっても「人間だ」と言って軽く扱われてはならない。
なぜならば、彼は人間の姿をした偉大な神であるから。”
pp.214-215
(現人神なる天皇を見ると目が潰れるデマののように
古代から各地で共有されているのかも?
天皇の側近や家族や本人の目が潰れていないので嘘だとすぐわかる。
マヌ法典だと凝視はできないなので側近や家族や本人の目が潰れていなくても大丈夫
)
(戦闘既定の後)
”七・九八
以上において、非難されない永遠の戦士のあり方(ヨーダダルマ)が語られた。
クシャトリヤは戦闘において敵を殺す際にはこのあり方から逸脱してはならない。
…
七・一〇二
常に武力を行使し得る状態にしておくべし。
常に武勇を誇示すべし。
常に秘密は隠しておくべし。
常に敵の弱点を追及すべし。”
p.228
(スターウォーズのヨーダの由来ってこれ?)
第七章
p.241
"七・一九八
懐柔、贈物、〔敵の結束の〕分断〔の三策〕を同時に
あるいは個別に用いて敵を征服しようと試みるべし。
決して戦闘によって〔征服しようと〕すべきでない。
七・一九九
戦う双方にとって戦闘における勝敗は不確定である。
それゆえに戦闘を回避すべし。
七・二〇〇
前述の三政策が不可能なときは、
敵に勝利を収めるように万全の態勢で戦うべし。
七・二〇一
勝利を収めたら
〔征服地において〕神々と正しい生き方(ダルマ)を遵守しているブラーフマナを敬い、
税の免除を与え、安全を告げるべし。
七・二〇二
彼ら〔被征服者〕のすべての希望を簡潔に確かめた後、
彼らの一族の者をそこに擁立し、
協定を結ぶべし。
七・二〇三
彼らの間で正しい生き方(ダルマ)とみなされている事柄を
〔彼らにとっての〕基準とすべし。
彼(新王)を彼の重臣(プラダーナ)たちとともに宝石をもって敬うべし。"
(兵法書も含まれるマヌ法典。
むやみに戦争するなは孫子と共通。
征服地の統治の方法も書いている。
征服地の最上位階級のバラモンを敬い税を免除し安全を保障するのは
征服地で尊敬されている可能性が高いからだろう。
尊敬されている者を殺すなど酷く扱うと強く抵抗され被害が大きくなる。
バラモン教圏でないならその地で一番強い宗教の上層部に置き換えれば良い。
現地の価値基準を認め征服側の基準を押し付けてはいけないともある。
)
第八章
p.258
”八・八二
「証言において虚偽を述べるときは、百生の間、
否応なくヴァルナ神の縄縛によって堅く縛られる。
それゆえに真実の証言を述べるべし」”
(ヴァルナが法の神だとわかる)
(訴訟の証言の規定)
pp.260-261
”八・一〇二
ブラーフマナで、牛飼い、商人、職人、芸人、
小間使い、金貸しとなっている者はシュードラと同じに扱うべし。”
(宗教家の支配層が銀行業など金貸しをすると証言の信頼度が
最下層レベルに下がる。
)
(凶悪犯罪の規定)
p.296
”八・三四八
ブラーフマナは〔以下の場合は〕武器を取ってよい。
①〔ブラーフマナに定められた〕生き方(ダルマ)が阻止されるとき
②ブラーフマナ身分の間に〔危機的な〕ときによって混乱が引き起こされたとき
八・三四九
③自分を護るとき
④祭儀の報酬のために闘うとき
⑤女およびブラーフマナを護るとき――
〔以上の場合は、自らに定められた〕
正しい生き方(ダルマ)に従って殺すのであるから罪を負わせられない。
八・三五〇
グル、子供、老人あるいは
学識・人物の最も優れたブラーフマナ(バフシュルタ)であれ、
殺意を持って襲いかかる者(アータターイン)は躊躇なく殺してよい。
八・三五一
公然とであれ密かにであれ、
殺意を持って襲いかかる者を殺しても、
殺した者にいかなる落ち度もない。
怒りが怒りに応じたのであるから。”
(バラモンは通常は武器を取って戦ってはならない。
護るための殺しは構わない)
第八章
p.305
”八・四一〇
ヴァイシャには商業、金貸し、農業、家畜の飼育をさせるべし。
シュードラにはブラーフマナ(八・四一三参照)の下僕をさせるべし。
…
八・四一三
シュードラは買い取ったものであろうとなかろうと下僕をさせるべし。
なぜならば彼はスヴァヤンブー(創造主ブラフマン)によって
ブラーフマナの下僕となるために創造されたのであるから(一・九一参照)。”
第九章
p.343
”九・二四五
ヴァルナ神は刑罰の主である。
なぜならば彼は王の懲罰者であるからである。
ヴェーダを究めたブラーフマナはいっさいの世界の主である。”
p.345
由緒正しい人間(アーリヤ)
卑しい者ども(アナーリヤ)
p.349
”九・二九〇
敵意を持つ者によるすべての魔術(アビチャーラ)、
根による魔術(ムーラカルマン)
および種々の呪術(クリティヤー)に対しては二百〔パナ〕の罰金が科せられるべし。”
(具体的内容が知りたい)
p.368
”一〇・六四
もしも、ブラーフマナとシュードラ女との間に生まれた者(ニシャーダ)が、
優れた者(ブラーフマナ)〔の種〕を通じて生まれ続けるならば、
七代目までにおいて、劣等な者(ニシャーダ)は優れた身分(ブラーフマナ)を獲得する。”
(7は聖数の一つ。
メソポタミア神話も7好き。
フワワ(フンババ)ちゃんがらみなど
『ギルガメシュ叙事詩』も7大好き。
フンババ(フワワ)はレバノン杉を守る森の番人。
その命は至高神エンリルによって受け、
太陽神ウトゥにより育てられた巨人。
7つの光輝(畏れのようなもの。「メラム」、「ニ」)で身を守っているのだが
要は光の鎧。
7つの鎧(メラム、ニ)を1枚しか身に付けていないときに戦ったから
ギルガメシュとエンキドゥは勝てたのだろう。
頭を金桶(もしくは皮袋)に入れたのを取り入れたのがもののけ姫。
フンババを倒すために、
ウトゥはギルガメシュに
「獅子の前足と鷲の後足を持った7柱の勇士」を与え、
ギルガメシュ軍は7つの山を越える。
この7好きがインド・ペルシャ地域から伝わったかは不明。
)
訳注
第十章
雑種身分
ダルマ文献の作者たちは
創造主はブラーフマナ以下の四身分に限って
しかもそれぞれに特有の社会機能とともに区別して創造したという理論を確立する。
そのことは必然的に同一身分間での婚姻を規則づけた。
しかしながら実際には
四身分以外の数多くの人間集団が存在するのであり、
彼らダルマ文献の作者とてその事実を無視することはできなかった。
そこでそれらの集団の存在あるいは発生を説明するために
そのような集団は四身分が同一身分間の婚姻という規則を破り
混血を行った結果生まれた人間たちである、という理論を編み出した。
ブラーフマナとシュードラ女との間に生まれたニシャーダは、
娘をブラーフマナと結婚させ続けることによって
七代目までにはブラーフマナの種の力によってブラーフマナになる。
種の力によって世代世代において身分が上昇するという考え方および、
人は子供を通じて生まれ続けるという考え方を参照。
(四身分の窮迫時の生き方での
ブラーフマナの規定)
第十章
pp.373-374
”一〇・八五
しかし生活手段を欠くために
〔創造主によって定められた〕生き方(ダルマ)の完全を断念する者は、
〔以下の〕除外物を除いてヴァイシャの扱う商品を商い、
富を増やしてよい。
…
一〇・八八
水、武器、毒、肉、ソーマ、すべての種類の香料、
牛乳、蜂蜜、ヨーグルト、
…
クシャ草、
一〇・八九
すべての野生動物…
すべての単蹄動物〔を避けるべし〕。”
(困窮していても武器を売るのは禁止。
宗教家が武器商人をするのは固く禁じられている)
p.378
”一〇・一一七
ブラーフマナあるいはクシャトリヤは利益のために投資してはならない
(金貸しをしてはならない)。
しかし正しい生き方(ダルマ)のためであれば、
非常に罪深い者に僅かの利息で貸すのはいっこうに差し支えない。
”
(
商業、金貸しはヴァイシャが通常行う。
クシャトリヤもバラモンも通常は金貸し禁止。
つまり銀行業も禁止
)
p.390
”一一・四四
規定された行為を行なわない者、
非難される行為を行なう者
および感官の対象に執着する者は罪の除去を行なうべし。”
訳注
罪の除去
ダルマ文献で罪を償う観念は見当たらない。
罪は汚れと同一視され
重要なことは実体視されることである。
すなわち罪は汚れとして発生し、
罪を犯した者に付着して汚染する。
したがって罪の清めとは実体である罪の汚れを取り除くことに他ならない。
決して贖うことではない。
(自力では罪の汚れを取り除くことは不可能だと改悪したのが
西洋ヤソの原罪(神の罰をも受け継いだ)。
東方正教の陥罪は
アダムの陥罪と死とは機械的に受け継ぐが、
その罰は受け継がないので
罪を負って生まれるのではないという、
原罪よりかなり人間に優しい教え。
イリネイ🇯🇵☦️@theotokos1204
4月13日
西方教会と正教会とは、罪についての考え方が違うのです。
正教会は、アダムとエワの陥罪は、人から神の恵みのすべてを奪い取ったとは考えない。
…陥罪の後の人間は、究極的に腐敗し、善を欲することも不可能であるとは言わない。…
神の像は罪によって破損した。しかし、破損し尽くされたのでない。…
人は、神の像を残している故に、罪による制限はあるとしても、自由意思を持ち続けている。
…人は、アダムの陥罪と死とは機械的に受け継ぐが、
その罰を受け継がない。…
多くの西方教会の信徒は、人はどんなことをしても陥罪と無贖罪の状態の内にあり、
原罪によって汚されている故、神を喜ばせることは
不可能であると信じている。…正教会はそのようなことを嫌う。
カリストス・ウェア
The Orthodox Church p227f
より。
正教会での陥罪の影響は、人だけにとどまらず、全被造物、すなわち全宇宙に広がったととらえています。
よって人の救いも、人だけでなく、全被造物の救贖へと繋がると考えます(ローマ8:19-22)。
正教入門シリーズ
正教要理
より引用しました。
正教はカルヴァンのように陥罪によって人間は全く悪なるものになり、
善き望みを持てなくなったとは言わない。正教は、人間は罪を犯してしまう「厳しい必然性」のもとに服していて、
「人間性はそこに落ちてしまった過ちによって征服され、もはや自由を失うまでに到った」と述べるアウグスティヌスには
同意しない。神の像は罪によって歪められたが、
決して破壊されてはいない。
正教は葬儀に際してこう聖歌を歌う。
「我は罪悪の瘡(きず)を負えども、爾が言い難き光栄の像なり」。
私たちは未だに神の像をとどめているので、罪によって限界が生じてしまったにせよ自由意識をまだ持っている。続く
神は「人間から意志の力、すなわち神に従うか従わないかを選ぶ自由な意志を取り上げてはいない」。
神と人との「共働(シネルギア)」の思想に忠実な正教は、
陥罪の結果について、
人間の自由に余地を残さないどんな解釈も拒否する。
正教の神学者はそのほとんどが、アウグスティヌスによって提唱され
いまだにローマ・カトリックによって(やわらげられた形であれ)受け入れ続けられている
「原罪責 original guilt」という考え方を拒絶する。
正教が常に教えるのは、
人間が受け継ぐのは本人の意志に関わりなくアダムによってもたらされた腐敗と可死性であって、
罪責ではないということだ。
正教会入門
ティモシー・ウェア著
より引用しました。
正教会では、人はアダムの陥罪と死とは機械的に受け継ぐが、その「罰」(罪責を負って生まれるのではない)受け継がないと教えている。 人の陥罪の影響は、人だけにとどまらず、全被造物、全宇宙に広がったととらえている。人の救いも、人だけでなく全被造物への救贖へと繋がると考える。ローマ8:19-22
西方教会で発展した「原罪」は、神の罰をも受け継いだと教えています。
まず、罪について説明する前に人間について説明します。
少し長くなりますがお許しください。
正教会では、神は人間をご自分の像と肖と従って創造されました。
神の像とは神に近づくための力や可能性や出発点を意味し、
神の肖とは、その実現や完成を意味しています。
人間は初めから完璧な者として創造されたのではなく成長し進化すべきものとして造られました。
しかし、
アダムとエワの陥罪によって神の肖を失ってしまい、
神の像も破損しました。
破損しましたが消滅せず残存しています。
また神の像は人が理性をもつこと
また、神の像の中には自由意志もあります。神が自由であるように人間も自由です。自由であるから真実の愛をもって愛し合うことができます。神は人間から自由意志を取り上げません。
罪について
アダムとエワの陥罪は、神への不従順、世界を混乱、支離滅裂、矛盾、敵対、断片化、苦悩、死、不安などの力
が支配する場所へと変えました。全宇宙(自然、動物も)。
男女両性の調和は壊され、夫は妻の支配者となりました。
また、陥罪前の自然との間にあった穏やかな関係も傷つけられ、動物たちも人が生きるために死ななければならなくなりました(エデンの園では菜食でした)。
アダムとエワの愛は神に向かい、
彼らの従順は神のみに帰せられるものでしたが、彼らの意志を悪魔の誘惑に委ね、
彼らの愛を神ではなく自己へと献げました。神へのこの反逆と拒否の結果、
人類は神の臨在と生命から切り離されてしまいました。
罪とはギリシャ語でハマルティアと言い的を外すという意味
をもっています。人間があるべき姿を失うこと、なすべきことをせず、
してはならないことをすること(実際の行動においてでなく心の面においても)が罪です。
単に国の法律を破る、道徳上許されないことをするとか、
マナーを守らないなどということ以上のことを指します。悪意をもつこと、プライドを
もち自己中心的になること、神の教えとは全く逆の生き方を続けること、
何よりも神ご自身を無視してしまうことが「罪」です。
罪、悪、悪魔、苦難、死という事項はすべて一つのものと見なされています。
罪とは悪であり、それは悪魔によって人間にもたらされその結果苦難や、死が生じたからです。以上
正教会出版の本を引用して説明しました。
(ん?エデンの園は菜食ってどの記述だ?
肖=神に近づくための力や可能性の実現や完成
が失われた教義で
グノーシス派などを否定。
)
)
p.394
”〈身分を喪失させる罪〉
一一・六八
ブラーフマナに苦痛を与えること、
嗅ぐべきでないものあるいは酒の臭いを嗅ぐこと、
詐欺、
男と交わること――は身分を喪失させる〔罪〕(ジャーティブランシャカラ)と呼ばれる。”
(同性愛禁止)
p.397
”一一・八五
ブラーフマナはまさしくその生まれのゆえに
神々にとってすら神であり、この世界の基準である。
実に、ヴェーダがそうさせているのである。”
(バラモンは現人神。
釈迦は生まれでバラモンになるのではないと言った。
四身分も最初は個人の能力に合わせて割り当てられたものが
年月を経て固定化されたのだろう)
pp.429-430
”一二・一二
この〔生き物の〕本体(アートマン)を作動させる主体を
クシェートラジュニャ(身体を知るもの。すなわち意識)と賢者たちは呼ぶ。
一方、行為を行なう主体はブータートマン(生き物の本体)と呼ばれる。”
p.443
”一二・九四
ヴェーダは、祖霊、神々および人間の永遠の目である。
ヴェーダの教えは人の能力を超え、
認識の範囲を超える。
これは確立されている真実である。
一二・九五
ヴェーダの外に位置する伝承および邪見のすべては、
死後の果報をもたらさない。
それらは暗黒に立脚していると言われているからである。”
(異教の否定。
ヴェーダも目と呼ばれる。
この目とは絶対に正しい判断基準という意味だろう)
(
こんな記述あったっけ?
教えるなはあっても殺せまではなかったような。
シュードラも生き物扱いだから殺すと非殺生戒を破ってしまうし。
ふぎさやか@maomaoshitai
1月5日
ヒンドゥー教が崇拝する聖典群に「ヴェーダ」があります。リグ・ヴェーダなどは有名でしょうか。
『マヌ法典』によるとですね。ヴェーダの教えは奴隷は聞いてはなりません。
もし盗み聞きした場合、殺害して良いとあります。神聖な言葉を奴隷に聞く資格はないからだと。
)
『バガヴァッド・ギーター』
鎧淳(よろい きよし)訳
(中公文庫、1998年/講談社学術文庫、2008年)
・解説
※やたら難しい漢字を使うので私が簡略化した箇所あり。
訳文でも辞書にない単語を使うのを控えてほしい。
『バガヴァッド・ギーター』
すなわち「聖なるものの歌」で
この聖なるものとは
宇宙にあまねく充満する最高不滅の主宰神ヴィシュヌの権化クリシュナのことである。
後代著しくみられる、
黒髪をなびかせ、角笛を手に
恋人ラーダーと戯れる、
美貌の、若き牧童クリシュナへの崇敬愛慕の情は
いまは措く。
ギーターがインド人たちの間で広く愛好されたのは
わけても
このわずか七百頌ほどの短い詩章のうちに生き生きと流れる
ひたむきで
混じり気ない宗教的心情と
これに加え
その説くところ
ときに論調を異にしつつ
それゆえいずれの聴衆にも、
つねに何ごとかを語りかけ、
心に深い感動を喚き起こし
気高い精神的鼓舞を与えずにおかないという事情によると思われる。
サンスクリット語で語られた約十万の詩頌を含む古代インドの大叙事詩が
『マハーバーラタ』。
『マハーバーラタ』中の挿話が
ギーター(インドではおおむね、こう略して呼ばれている)で
大叙事詩『マハーバーラタ』の第六巻、
霊眼を付与された御者サンジァヤが盲目の王ドリタラーシュトラに
今日のデリー北方の地に比定されるクルの野で繰り広げられた、
パーンドゥの五王子と、
クル百人の王子たちの骨肉相食む大会戦の模様を物語るくだりに
組み込まれている。
バラタ国の王位継承権をめぐり
長年の怨恨をこの一戦に決せんと
パーンドゥ、クル両王家の王子たちは互いに軍勢を催し
正義の地、クルの野に参集する。
戦機いまや熟し、戦端まさに開かれんとするとき
ひとり両軍勢のただ中に戦車を進めたパーンドゥの王子アルジュナは
敵陣中に、親戚、縁者、師友らの姿を認め
同族相争うの大罪なるを知って、
その殺戮をたじろぎ
遂に弓矢抛(なげう)ち
「われ戦わじ」と言い放つ。
ここに戦車の御者として
アルジュナに付き随っているクリシュナは
アルジュナに戦うは武人生得の義務であると諭し
戦の園で討たれるのはただ肉体に過ぎず
肉体のうちなる霊魂は討たれず不死不滅であると教え
憂いに沈み意気阻喪したアルジュナを励まし
かれに武人としての本務の遂行を迫る。
以上の点が
詩章の第一章から
「全十八章中、最も美しく、崇高な」第二章で述べられる。
(
バガヴァッド・ギーターは全18章
18w
アルジュナ
「大切な人々を殺すのは嫌」
クリシュナ
「死ぬのは肉体だけ。霊魂は死なない。
クシャトリヤの義務を果たせ」
邪悪。
ギーターが広まった理由の一つが支配層に都合が良いから。
バラモン教の肉体は魂の器に過ぎないという
霊肉二元論思想と
それを取り入れた思想は
都合が悪い者を殺すのに都合が良い。
放射性物質で死なない機械の体の推進にも都合が良い。
哲学は死の練習というプラトン哲学の源流もバラモン教。
ピュタゴラスから引き継いだのだろう。
↓オルフェウス教の元ネタがバラモン教。
猫太
”
なかだち(夏バテ)
@madaraiguana
2018年9月16日
↓「トラキア人。人が生まれると悲しみの歌を唄い人が亡くなると喜びの歌を唄った。肉体は魂のひつぎであり死ぬと魂が解放され自由になるのだと考えられ ていた。」
“トラキア人は、プラトンやピュタゴラスが言うように肉体を魂の墓場だと考える思想を持っていた。みんあ知らんけど、トラキアのオルペウス教の影響を受けた ピュタゴラスのギリシア哲学に対する影響はパネエものがあってね、ソークラテースが死ぬのウキウキしてた話もピュタゴラス派と対談の中だよ!”
”)
次いで場面は
教説を説く本来の部分
クリシュナとアルジュナ間の哲学的な対話へと展開する。
篤信のインド教徒たちは
ギーターが伝承上
われわれの生存するこの最悪の世期カリ・ユガの始まる
西暦紀元前3102年、
この世を去ったとされるクリシュナの教えを忠実に伝えている、と信じている。
しかし、詩頌中の用語や文体、
さらに思想史上の特徴などから見て
ギーターは少なくともその元となる部分が
西暦紀元前3から
紀元2世紀頃の間に成立し
その後、時代を追うごとに
付加・竄入(ざんにゅう)や
部分的修正、さらには省略、縮小などを経て今日に至った、
として大過ないであろう。
いずれにしても
西暦8世紀頃、インドの地で活躍したとされ
ギーターへの注が帰せられているヴェーダーンタ派の巨匠シァンカラの時代に
ギーターが今日われわれの手にすると、
ほぼ変わらない形を取っていたことは明らかである。
ギーターは論旨がつねに一貫しているとは限らない。
宇宙の最高霊たる聖なる神バガヴァッドは
質料、形相、動力等、あらゆる意味で一切の原因とされる。
すなわち、神は、自らの私利私欲なき意欲活動により
あるいはその神通自在な幻力により
自らの本性の一部をもって
物質世界、さらにまた
個々の存在の中核なる個霊として展開し
この一切に遍満しつつ、
万物の中に存する。
(汎神論。
ギーターはアルジュナとクリシュナが主人公で
クリシュナはヴィシュヌの化身だから
ヴィシュヌが最高神の派閥)
神はあらゆる個々の霊魂の本源なる霊的実在として
一切万物の形相因であるばかりか
またその劣位の本性たる非霊魂的な本源物質によって
一切万物の物質的かつ動力的基礎でもある。
しかも同時に最高神はこの双方を越え
これを主宰する最高の人格神として高く聳え立つ。
「この全世界は、形姿あらわならざるわれにより、
(あまねく)充満……せらる。
一切衆生はわれにあり。
されど、われ、かれらがうちに存するにあらず」
(9・4)
「……われこの全世界を、わが一分もて支えつつ存すれば」
(10・42)
かかるものとして
それはヴィシュヌと観念され
地上には、権化、とりわけクリシュナとして出現した。
権化は単なる化身ではない。
万物の最高主たる神自らが世の正秩序を護り
これを確立するため
人間または獣の肉体を借りてこの世に出現することである。
インド宗教史、とりわけヴィシュヌ教の歴史の上で
後々まで、はなはだ重要な役割を演ずることになった権化説の基礎が
ここで初めて明瞭に表現されたのである。
ギーターではこのように
最高神の、宇宙における遍満と内在が
繰り返し主張される一方
またその絶対超越性が度重ねて強調、力説されており、
その神観は、いわば超越神的汎神論とでもいうべき立場をとっている。
(一神教的多神教みたいだ)
輪廻から解き放たれるため
ギーターは二通りの解脱道を提示している。
一
各個の存在の究極の根拠たる霊魂についての
洞察・智慧を獲得しこれを証悟することであり
このため世事一切を捨離し世俗を離脱する方法である。
(グノーシス主義みたいだと思えるが
バラモン教の梵我一如がグノーシスの元ネタ)
二
自ら私利私欲を離れ
執着なく一切を神の手に委ね
結果の成否を度外視して為すべき本務を遂行する方法。
先に、ウパニシァッドで宣示された知識道、
静寂主義的な解脱道に対し
ギーターは、ここに、
日常普段の行為における道徳的実践、
徳行を有力な手がかりとし、
信と愛とを核心的要素とする新たな救済道を提示したのである。
「われへの行為をなし、
われに専向し、
われに信愛を捧ぐるひと、
執着なく、
一切衆生に害意なきひと、
そはわれに来たる」
(第11章55頌)
はシァンカラをはじめ、
多くのインド人注釈家たちによって
ギーターの精髄とされている。
人格的な主宰神に身を委ねるひとは、
この身を離れて後、
恵み深い主たるバガヴァッドに到るのである。
ギーターの詩人にとって
「梵への帰入は、未だ、最終の段階、
少なくとも、完全な解脱の十分な表現ではなかった。
クリシュナが、弁神論と宇宙論の双方で梵にとって代わり
さらに終末論でもまた、梵を凌駕するのである。
クリシュナ・バガヴァットとの合一、
これと一体になることが、解脱の最高、究極の段階なのである」。
ギーターは
西暦1785年
チァールズ・ウィルキンス(チャールズ・ウィルキンス)の英語訳によって
ヨーロッパで初めて知られるようになった。
その後、数多くの近代西欧語に翻訳されたばかりか
エスペラント語にも訳された。
ギーターのサンスクリット語テキストの出版は
西暦1823年ドイツ・ボン大学のインド学講座初代教授
アウグスト・ウィルヘルム・フォン・シュレーゲルの手で行なわれた。
当時ドイツの出版社では未だデーヴァナーガリー文字によるテキスト印刷の設備が
整わなかったため、シュレーゲルは、
パリで鋳造した活字を、
みずからの手で植字しなければならなかった。
批判的に行われたサンスクリット語テキスト出版には
シュレーゲル自身の手になるラテン語訳が添えられている。
(ブラヴァツキーはギーターの翻訳を読んで神智学に取り入れたのだろう。
グノーシス主義の元ネタがバラモン教だと気づいたのでは?)
・固有名・事項等について
アーディトヤ神群
ヴァルナ神、ミトラ神を首班とする上位七天神の一群。
リグ・ヴェーダでは道徳的色彩の濃い賛歌が捧げられている。
(アーディティヤ神群のことだろう。
やはりバラモン教でも7は聖数)
アートマン
「自己」。
人間、生類の体内に存する個々の霊魂、
および全一の世界霊、宇宙霊。
アイラーヴァタ
インドラの騎乗する神象で
象類の始祖。
天地の東の方位を護持するとされている。
(東の守護だから太陽属性)
アシュヴィン双神
直接の根拠となった自然現象は不明で
強いてこれを求めれば
日の出、日没時に輝く「明けの明星」と「宵の明星」に
多少の可能性を求めうる。
危難や困窮からの救出、
また奇跡的医療を本領とする一組の双神。
(ロクアカのタウム(マニ教が元ネタ)の源流?)
アナンタ
またシェーシァ。
ヴィシュヌが手中に携える蛇神の名。
ヴィシュヌの異名。
シェーシァはこの蛇神の名。
(バラモン・ヒンドゥー教では蛇は必ずしも悪ではない。
ゾロアスター教では爬虫類は悪。
キリスト教正当多数派はゾロアスター教要素が強く
異端少数派はバラモン教要素が強い。
グノーシス派では蛇は悪とは限らない。
蛇は悪思想って蛇に咬まれて人がよく死んだからでは?)
アルジュナ王子
パーンドゥ王とクンティー妃(=プリター夫人)の間に
生まれた五人の王子の第三。
伝承ではインドラによってクンティー妃が妊(みごも)ったとされる。
髷麗しき(もの)等の異名をもつ。
アルヤマン
天神の一柱で
祖霊たちの長。
ヴァスゥ神群
アグニ神のほか
大地・風・空・日・天・月・星辰の七神からなる。
恩恵、保護、安寧、暗黒駆除に関わる。
(合計8柱)
ヴァルナ
天則(リタ)の峻厳な保護神で
ブラーフマナ文献以後、
概ね水神として崇められる。
ヴィヴァスヴァット
字義どおりには
「光り輝ける(もの)」の意で
太陽の異称。
人類の父とされ
リグ・ヴェーダでは
また双子神ヤマ、ヤミーの父ともされている。
ヴィシュヌ
最高神で
ギーターではクリシュナとして化身している。
ウッチァイシュラヴァス
インドラの神馬。
天地創出に当たり、
乳海攪拌の際、生じた馬匹で
馬匹の始祖、王とされる。
ヴリシュニ
クリシュナの祖先の名で
ヴリシュニ族はその後裔、子孫一族。
またヤドゥ族、マドゥ族に同じ。
オーム
本来、何を意味するか不明。
聖なる音節として、
ヴェーダ祭式やその学習等の際、
初めに発声される。
(オウムが創造維持破壊も解釈の一つであり
原初の意味は不明らしい。
本来、何を意味するのか不明な呪文を唱えるのって危なくない?)
オーム、タト、サト
「オーム、それ、存在」の意で
聖なる音節とされる。
髪麗しきもの
クリシュナの異名
神々
行為によって生じた高位の存在で
天上界を住処とするとはいえ
なお六道輪廻のうちにあって生滅する。
クリシュナ
ヴィシュヌの化身で
ギーターでは戦車の御者として
アルジュナ王子に付き随っている。
クル
ドリタラーシュトラ王と
その弟パーンドゥ王の先祖の名で
その後裔、
またかれらの支配する地方にも冠し
とりわけドリタラーシュトラ王とその王子一党に
この名称が用いられる。
クルの野
デリー北方にある広大な原野で
クルの一族にとり
聖なる地域。
(クリシュナがアルジュナにギーターを説いた地が
クルクシェートラ。
クシ (kSi 所有する)から派生した単語クシェートラ(kSetra) は
土地、国、所有地、領地、国土、耕地、fieldなどの意味がある。
だから野と訳してもおかしくない。
クルクシェートラとは都市ではなく地方の呼び名。
野と呼べる地形かどうかは
ギーターには戦闘シーンがないのでわからない。
”聖なる大地、クルの野”と本翻訳では訳されている。
原文のカタカナ表記は
”ダルマクシェートレー クルクシェートレー
正義の地であるクルクシェートラにおいて”
http://blog.sitarama.jp/?p=1331
バガヴァッド・ギーター第1章第1節
英語と日本語訳併記のサイトが見つかった。
”1-1
Dhritarashutra said:
Assembled on the field of Dharma, O Sanjaya,
on the field of the Kurus, eager to fight,
what did my people and the Pandavas do?
ドリタラーシュトラは言った。
サンジャヤよ、ダルマの地、クル族の野に集いて戦わんとする我が一族とパーンダヴァの一族、
その情勢はどうなっているか。”
http://www.tmland.ne.jp/gita/1.htm
)
行為
カルマン。
所作、所業、
さらに、死後、次の出生の状態を決定することになる業累。
ゴーヴィンダ
クリシュナ、またヴィシュヌ。
サーンキヤ(論)
サーンキヤは
「数に関する、数え上げる」等の意をもち、
後に、世界形式の諸原理を枚挙し
これを説明する思想体系の名称となった。
マハーバーラタでは
後の純粋で、真正なサーンキヤ派の理論について
ほんの断片的な知識しか与えておらず
したがってギーターでは
概ね「理知的、理論的方法」といったほどの意味と解してよい。
サンジァヤ
ギーターの出来事を物語る、王宮付きの詩人。
ジァナールダナ
字義どおりには
「人間を悩乱する(もの)」。
またクリシュナまたはヴィシュヌの異名。
シァンカラ
字義どおりには
「幸を齎す(もの)」。
シヴァの異名。
(シャンカラだろう。
本書では「シャ」は「シァ」らしい)
種姓
バラモン(祭僧)、クシァトリヤ(武人)、
ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(非民)の
四重の階層で
インド教徒たちには
生まれながらの身分とされ
その責務は先天的に決定されているとされた。
信愛(す)
バクティ。
分与する、与る、享受する(また、婦人を)、
身を捧げる、(性的に)関係する、愛しむという意味の
動詞bhaj-に由来する語で、
とりわけ
「あるものの一部となること、
あるものに所属すること」等を意味し
さらに有神論の用語として
ここでは
「最高神の本体に与るという念(おも)いをもって最高神に仕え、
全身全霊でこれを愛すること」の意味をもつ。
ソーマ(酒)
すでにヴェーダ時代、その実体が不明となったソーマ草の搾り汁等から
醸造し、供犠祭で神々に供え、
かつ服用によって酩酊恍惚の状態に導く神酒。
ダイトヤ、ダーナヴァ
魔人の類。
知性器官
ブッディ。
微細な物質よりなる、
認識と決断の器官で
意志器官の上位に立つ。
知田者
クシェートラ・ジュニァ
認識、知識の主体で、霊魂のこと。
田(でん)
クシェートラ。
上記「知田者」とともに
サーンキヤ派の用語で
ここでは身体、肉体のこと。
バラタ
太古の王で
クル、パーンドゥ両統の始祖。
その子孫がバーラタ(バラタの御子)と呼ばれる。
ハリ
ヴィシュヌの別称。
プラクリティ
始源的物質原理、原物質。
広い意味での
いわゆる物質因。
プラジァーパティ
造物主。
神話上、一切万物の造り主。
ブラフマ・スートラ
全宇宙の唯一実在原理たる梵についての経典。
ギーターでは
ヴェーダ文献の末尾に配されているウパニシァッド(奥義書)のこと。
プラフラーダ
ダイトヤ魔人族の首長。
フリシーケーシァ
=クリシュナ。
ブリグ
人類の始祖マヌが
太古、創出した十大詩聖中の一人で
アンギラス族の祖とされる。
また冥界を遊歴し、
人類に火を齎したとされる。
ブリハスパティ
神々のため、もっぱら、供犠祭式をつかさどる神。
プルシァ
字義どおりには「ひと、霊魂」。
また宇宙的原理としても
世界霊の意味でも用いられる。
(バラモン教にとっての
人(の本体)=霊魂だとよくわかる単語)
マドゥ
(一)
太古の英雄ヤドゥの一族で、クリシュナの祖
(二)
クリシュナによって討伐された魔神の名。
(真逆の意味があるのは困る)
マヌ
人類の始祖。
四体のマヌが四大世期(劫)の各頭緒に
人類の始祖、かつ万物を調えるものとして登場する。
(ゾロアスター教の四人の救世主と元ネタ
=ゾロアスター教とバラモン教が分かれる前の思想が同じなのだろう。
ゾロアスター教では一万二千年を三千年ずつ四期に分ける。
ゾロアスター教ではアレキサンダー大王は極悪人という扱い。
えそてりか@Esoterica_GIKO
2016年7月8日
西洋、中東の宗教の共通要素って大抵ゾロアスター教から来てるんだっけ?1000年王国説とか
確かに千年王国説も起源はゾロアスター教かもしれんね。
1000年毎にゾロアスター、
フシェーダル、
フシャーダル・マー、
サオシュヤントと4人の救世主が現れ、
最後にすべての悪が滅ぼされるという。このあたりは仏教もかなり似てるよね。
>以前、パチンコ「創聖のアクエリオン」のCMで「一万年と、二千年前から愛してる~」って主題歌が流れてたけどあれの元ネタってゾロアスター教?
河森はオカルト・宗教大好きだから口出ししてないとも言い切れない
)
マリーチ
マルト神群中の一神。
マルト神群
恐るべきルドラを父とし
人々に恵みを施すヴィシュヌを首班とする一群の神々で
水の恩沢を施し
邪悪や魔神からの保護に関わる。
マルト神はヴェーダにおいては暴風(神)。
夜叉
精霊、鬼神の類で、
財物神クベーラの従者。
ヤドゥ
クリシュナの祖先の名。
ラーマ王
アヨードヤー国の雄君で
ヴィシュヌの七番目の化身とされる。
輪廻
サンサーラ。
生死の域を霊魂がさまざまな姿、形で
永劫に経めぐること
(本体あり輪廻=バラモン教型)
ルドラ神群
リグ・ヴェーダでは
しばしばマルト神群と一致し
天、空、地、
とりわけ
恐ろしい森や荒野、山岳等に、
目に見えず偏在し畏怖の念を生ぜしめる不気味な一群の神々。
ルドラは暴風神等の凶暴な性格を持つ神。
(ルドラあるいはマルト神群は
ポセイドンやヤハウェやエンリルの元ネタ疑惑。
ぐだトマト
@pteras14
中国やイランのサイトだと、
シュローモ神殿の二本の柱が
棒二本=11、且つこれが素数で
ピタゴラスが最も重視してた
聖数“10”の次に来る数字でそ?
後はこれを2倍とか3倍にして
遊んでるだけって書いてあった
よん^^;
元ネタのインドやイランの33
はただテケトーに決めただけで
“沢山”という意味以外に大した
秘密もないんだけどね^^;
“33のルドラ神群”の場合、
“ルドラ(嵐)神族に属する神様が
沢山居るぞ”くらいの意味しかない^^;
神聖幾何学とかいう怪しい
学問や数秘術は、基本的には
ピタゴラス及びカバラから
連中がパクって来ている。
カルトとかはそういう数字を
意識して行動するだろうね^^;
易とか風水で行動決めるのと
似たような心理^^;
逆に金融家はオカルトを信じている
客をハメて金を騙し取るために
こういう占いとかを信じている
フリをする🤡
そりゃ、ある特定の株だとか
金融商品を満月🌕の日に買うって
分かってりゃ、後は言わないでも
胴元が何をするか分かるじゃろ?w
そのためには“満月🌕の日には
ドルが買われる”みたいなホラを
如何に客に信じさせるかが鍵か
は言うまでもなし。
因みにこの辺のクオンツ的
金融数字遊びを始めたのも
ニュートンさんではないか?
という説があるある🤑
(
結社が採用してそうなピタゴラス派の数字の意味についての記事を参考資料のところに引用しておく。
ピュタゴラス派では神聖数10は
テトラクテュス(四数体、10個の点のピラミッド型の配置)を意味するなど書いてある。
ピラミッド!
(二次元平面での点の並びであり
三次元立体ではないことに注意)
一部引用しておく。
”「6」は、そのような同性間の愛(すなわち、「3+3」)も含めて、
恋愛ないし友愛を表す”
”「8」は、オクターブとして、音楽の本質を担う数であり、
音楽は、数の原理を現実の世界に結び付ける存在でもあるので、
それは、世界自体の本質を表す”
”「4」すなわち、
テトラド(tetrad、四つ組)は、
点、線、面、立体
という事物が形成されていく次元の展開原理であり、
すべての存在の構成原理
…
根本原理である、世界の真実の姿として「真理」であり、
秩序ある世界の正しい姿として「正義」”
”「7」は、数自体の性質としても稀で珍しい存在ので、
めったにない機会という意味で、好機であり、
そのような好機に恵まれるとは、幸運であるという意味で、
好機や、幸運、幸福を表している”
”オクターブ(完全八度)、すなわち「8」を、
音楽自体を象徴する数として重視していました。
つまり、
「8」は、オクターブとして、音楽の本質を担う数であり、
音楽は、数の原理を現実の世界に結び付ける存在でもあるので、
それは、世界自体の本質”
”「10」こそは、
ピタゴラス学派の数理思想のシンボルである、
テトラクテュス(四数体、10個の点のピラミッド型の配置)の全体であり、
その完成形を表す数なので、
「10」は、
ピタゴラス学派の神秘思想全体を象徴する、
祈りの対象ともなっていた神聖数であり、
それは、
全宇宙を構成する根本原理であるという意味で、
宇宙そのもの”
6が友愛w
聖書の7重視はピタゴラスが元ではなさそう。
7がラッキーナンバーなのはピタゴラス教由来っぽい。
音楽と数学がらみの作品以外での8重視は
「∞」(タロットの帽子のつばくにゃアナレンマ)の可能性が高そう。
音楽と「∞」の掛詞もありうる。
日本だと単に縁起がいいからというよくある理由で8強調もありえる。
88と18(666)はナチの隠語。
ナルトの作者の新作が8を強調しているが
サイボーグ=肉体は魂の器思想なので
バラモン系思想。
アーリア系思想で8強調なので
ナチの隠語も意味しているかも。
グノーシス派にもオグドアス(八つ)という8が登場。
インド神話の8といえば
ヴァス(ヴァスゥ)神群が8柱。
(アグニ神のほか
大地・風・空・日・
天・月・星辰の七神からなる。
恩恵、保護、安寧、暗黒駆除に関わる。
合計8柱)
14 Words(Fourteen Words) は白人至上主義を示す。
バラモン教
→トラキアのオルフェウス教
(菜食主義、バラモン教型=本体あり輪廻)
→ピタゴラス教団
→プラトン が思想の流れ。
結局、源流はインド。
フリメの象徴がコンパスと定規だし、ピタゴラスは重要。
異端派版ヨハネ黙示録
=『第四エズラ書』を収録する『旧約聖書外典(下)』、
『旧約聖書外典(上)』『新約聖書外典』。
利子OKプロテスタントのカルヴァン派を隠すのが
ユダヤ陰謀論教の目的の一つなのを詳しく語るのは次回!
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-122.html
”・初期キリスト教の正統教会から異端として排除されたグノーシス派は、
七層の天をヘブドマス(七つ)と呼び、
この天をも含めてその下の世界と、
上界プレーローマ(充足)とを区別して、
その中間界にオグドアス(八つ)を想定している。
ヘブドマスの上にあるいは
オグドアスの下層に、
上界から脱落して下界形成の原因となったが
同時に上界の神性を保持している神性の女性的属性ソフィア(知恵)が存在している、という。
ユダの呼びかけの対象となっている女性的存在や
“七つの家のみ母よ、来りませ。その安息は第八の家にありたもうた。“(p.307)
などに、このようなグノーシス派神話の痕跡が残されている可能性があるであろう。”
上界プレーローマ(充足)
(ソフィア(知恵)が元いた領域)
中間界のオグドアス(八つ)
(オグドアスの下層(あるいはヘブドマスの上の領域)に
上界から脱落した女性的属性ソフィア(知恵)がいる)
七層の天であるヘブドマス(七つ)
7も8も重視しているようだ。
利子OKプロテスタントのカルヴァン派の引用元タイトルがらみで
参考資料のところに
新興金融業者(プロテスタント)が伝統的金融業者(ユダヤ教徒)の迫害に協力したことを載せておく。
ユダヤ教徒の金貸しは批判するくせにクリスチャンの金貸しは批判しないユダヤ陰謀論カルト)
8について述べたが
8は道教絡みでも重要な数字らしいので
日本で八が縁起が良いとされているのは道教由来だろう。
数秘術や神聖幾何学とかの本によく出てくるのが
ピュタゴラス。
おケツ社やスピ系の教祖になっている。
数学者は
「整合性があるからこの数字が出るのは偶然ではない!」と強調したり
神を感じたりするらしいが
歴史的経緯を見ると
計算しやすいように基準や定義を都合よく設定したりするから
整合性があるに決まっている。
ピュタゴラス数学も結論ありきだろう。
結論ありきだから無理数が出てきてやたら動揺したのだろう。
数学は計算のために作られた理論がある。
オイラーらの虚数を使うテクニックとか。
現代ではオイラーなどの人間(ここ重要)の技術
を基盤に物理・化・生物学などが成立している。
数学は神学問なのではなく
神(がかった一部の天才の定義の上に成り立つ)学問。
とまと
6月24日
「何かを犠牲にしなければ、
望む物を得られず」
コレって、現代人は“市場原理”
だとか、“弱肉強食”、“動物の
自然法則”を多分連想すると
思うのだけど、
コレ、本来は“魔術”の概念🧞♂️
物理学にも“エネルギーの保存則”
とか“作用・反作用”とかの概念が
あるけどさ、元々ニュートンさんが
“魔術専攻”だった事を考慮すると、
結構笑えない概念なんだよなぁ^^;
魔術の練習だったら……
タロットが先ずは良いんじゃね?
それかピタゴラスの数秘術。
ピタゴラスの数秘術の基本:
1〜10までキーワードが振って
あって、
1知恵
2女性
3男性
4正義
5結婚
みたいになっていて
1+2=3(知恵+女性=男)
1+3=4(知恵+男性=正義)
2+3=5(女性+男性=結婚)
みたいなルールがある。
※注:ピタゴラスの時代は男尊女卑
社会だったので昔の価値観
このサイト、重要なところは
月子ちゃんクラブの2代目の
兄部三都女史が物理学者より先に
弦理論だとか素粒子の元概念
を“先に発見した”と指摘している
箇所ね。
しかも“霊能力”でw
(
おそらくこのあたりの個所
"We do not see the world in the way it is. We see the world in the way we are.
…
Fear of ridicule or loss of reputation can override a scientist’s desire to establish or to defend the truth.
Such has been the fate until recently of researches carried out over a period of thirty-eight years by the Theosophists Annie Besant (1847–1933) and Charles W. Leadbeater (1854–1934), who claimed to use a type of clairvoyance to describe what they thought were atoms and molecules. Before we discuss their work and demonstrate its consistency with established facts of nuclear physics and with the theories of quarks and superstrings once it is correctly interpreted, we will review the events that led to their collaboration in this systematic psychic investigation of the subatomic world. The severest critic of parapsychology would have to admit that this study, which remains little-known even to parapsychologists, is unique.
"http://www.smphillips.mysite.com/occult-chemistry-02.html
ベサントが死んだのが1933年
リードビーターが1934年。
33。)
・本文日本語訳
ギーターはヴィシュヌ派。
サンジャヤ
” ときに、白毛の馬たちに曳(ひ)かせた壮麗な戦車上に立ち、
マドゥの後裔(=クリシュナ)と、
パーンドゥの王子(=アルジュナ)は、
神妙(じんみょう)のほら貝を吹き鳴らしました。 (一四)
フリシーケーシァ(=クリシュナ)はパンチァジァヤを、
強運(ごううん)の士(=アルジュナ)はデーヴァダッタを。
名だたる荒者(あらもの)、狼腹(おおかみばら)の(ビーマ王)は、
巨大なほら貝パウンドラを吹き鳴らしました。 (一五)”
p.31
(
ほら貝を吹くアルジュナとクリシュナ。
クリシュナはヴィシュヌの化身。
ヴィシュヌもほら貝を吹く。
法螺貝を根拠に日ユ同祖論を布教する儲がいるが
「ユダヤ教←インド→日本」が正しい。
中間無視の詭弁に注意。
)
サンジャヤ
” プリター夫人の御子は、そこに、
父親、大伯父、師父たちら、母の朋(とも)がら、
同胞(はらから)や、子息、孫たち、友びとら、 (二六)
舅、かつまた朋輩(ほうばい)らが、(思い思いに引き分かれ、)
両軍勢のいずれにも、(まじり)立つのを認めたのです。
かの、あらゆる縁(えにし)ゆかりの徒輩(ともがら)の、
(両軍中にまじり)立つのを見て、
クンティー妃の王子(=アルジュナ)は、 (二七)
惻隠の情窮まり、この世の望み絶え果てて、次のように申しました。
アルジュナ王子は申しました。
これなる骨肉至親の、戦わんとて寄せ来たるを目のあたりにして、
クリシュナよ、 (二八)
わが四肢は萎え、また口乾く。
わななきはわが身に、(総身の)毛また逆立つ。 (二九)
(神与の弓)ガーンディヴァはわが手より落ち、肌また焦熱を覚ゆ。
われ確(しか)と立つ能わず。わが心また彷徨えるがごとし。 (三〇)
…
たとえわれ討たるとも、魔敵討伐の雄(=クリシュナ)よ、
この殿ばらを討つを欲せず。
たとえ三界(さんがい)統ぶる覇権のため、
いかに況んや、大地のためなりと。 (三五)
ドリタラーシュトラ王の一族を弑虐して、
いかなる愉悦かわれらにあらん、
ジァナールダナ(=クリシュナ)よ。
(われらが)身命窺(うかご)うて、弓矢構えるこのものたちを討ち取るに、
ただ罪過のみわれらに残らん。 (三六)
”
pp.33-36
第二章
(p.41”「われ戦わじ」と言い放ち、沈黙した”アルジュナに対して)
クリシュナ
” 万物の体内に坐すこの霊魂は、永久(とわ)に損わるることなし、
――バラタの御子よ――。
されば、すべて生きとし生けるものを、そなた嘆くべからず。 (三〇)
さらにまた、本務に思いをめぐらすに、たじろぐべからず。
そは武士(もののふ)にとり、法の定むる戦闘にまされるもの、
他になければなり。 (三一)”
p.45
(「肉体を殺しても霊魂は殺せないから
クシャトリヤの義務である戦いをせよ」と言う
酷いシーン)
第八章
クリシュナ
" すべての門戸(=五官)を調伏し、かつ、
心中の内官(マナス)を制止して、
呼吸を己の頭頂に留めて、ヨーガの持続に努め、
「オーム」と、一音節の聖音を発し、
われを(心中に)想起しつつ、身を離れ、逝くひとは、無上の帰趨に赴く。"
pp.98-99
(ヨガを躊躇なく人を殺せるように精神制御する技術として使うな!
マインドフルネスを軍が取り入れる理由は
兵士を癒すためだけではない。
無我を奴隷となり従順に従えという意味で使うニューエイジ系カルト企業も同類。
)
第一〇章
聖なる方(クリシュナ)
” 古の七大詩聖、また四(体の)マヌも、
わが存在(の一部)にして、(わが)意より生じ、
これより、この子々孫々、世に(生じたり)。 (六)
このわが(威力の)発現と、不可思議(ヨーガ)力を如実に知るひとは、
不揺不蕩(ふようふとう)のヨーガを具(そな)うるにいたる。
これにつき、疑いなし。 (七)
われは万物の本源、一切はわれに発すと考え、
知者は(われへの)愛に充ち、われに信愛を捧ぐ。 (八)”
p.112
(不可思議力全体をヨーガとルビを振ったのか
不可思議までがヨーガのルビで全体としてヨーガ力なのかわからない。
「ヨ」が「不」の下半分のところにあり
「ガ」が「議」の上半分のところにあるので
不可思議(ヨーガ)とした)
第一〇章
” 聖なる方は語りました。
いざ、わが神妙なる(威力の)発現を、重立(おもだ)てるにしたがい、
われはそなたに語るべし、――クルの王よ――。
(そは、)わが拡がりに、辺際なければ。 (一九)
われは、一切衆生の心腑に坐する自己なり、髷麗わしきものよ。
われは万物の太初、中間、かつ終尾なり。 (二〇)
アーディトヤ神群中、われはヴィシュヌ。
天体の中では、燦々(さんさん)と輝く太陽。
マルト神群中、われはマリーチ。
星辰の中で、われは月兎。 (二一)
(三重の)ヴェーダの中で、われはサーマ・ヴェーダ。
神々の中ではインドラ。
また感官の中で、われは内官。
生類の、われは意識なり。 (二二)
またルドラ神群中、われはシヴァ。
夜叉、羅刹中、財主クベーラ。
ヴァスゥ神群中、われは火(神)。
峨々(がが)たる山岳の中で、われは須彌山(しゅみせん)。 (二三)
また(司)祭僧では、祭主ブリハスパティなりとわれを知れ、
プリター夫人の御子よ。
また将卒たちの中で、われはスカンダ。
海洋中、われは大洋。 (二四)
大詩聖中、われはブリグ仙。
音声中、われは一音節のもの(*)。
祭式の中で、われはつぶやきの祭式。
豎立(じゅりつ)不動の(山々の)中では、ヒマラヤ。 (二五)
ありとある樹木の中で、菩提樹。
また神仙たちの中では、ナーラダ。
天上の楽士の中で、チトララタ。
成満(じょうまん)者たちの中では、聖者カピラ。 (二六)
馬匹(ばひつ)の中では、
甘露より生ぜるウッチァイシュラヴァスなりとわれを知れ。
象王たちの中では、アイラーヴァタ。
また人びとの中で、人王。 (二七)
武具の中で、われは金剛杵。
牝(め)牛の中では、如意牛(にょいぎゅう)。
またわれは、生み殖やす愛の神。
長虫(ながむし)の中で、われはヴァースキ。 (二八)
ナーガ族中、われはアナンタ。
水に縁あるものの中で、われはヴァルナ。
また父祖たちの中で、われはアルヤマン。
縛(いまし)むるものの中で、われはヤマ。 (二九)
また魔神群中、われはプラフラーダ。
駆り立つるものの中で、われは時。
また野獣の中で、われは百獣の王。
翼あるものの中では、ヴァイナテーヤ。 (三〇)
浄むるものの中で、われは風伯。
刀剣帯ぶる武者たちの中で、われはラーマ王。
また魚族の中で、われは鰐。
河川の中で、われはガンジスの娘。 (三一)
われは、造化(ぞうけ)の太初にして、終尾かつ中間なり、
アルジュナよ。
諸学の中で、われは最高霊の学。論師たちの論議なり。 (三二)
音節の中で、われは「ア」音。
複合の語では、並列複合語。
われこそ、無窮の時。
われは造り主にして、すべての方位に面を向く。 (三三)
われは一切を奪い去る死にして、
かつ、生じ来たらんものの淵源。
女性(的なもの)の中では、
名聞・幸運・喋語(ちょうご)・
記憶・智慧・堅固心、宥恕なり。 (三四)
…
ヴリシュニ族中、われはヴァースデーヴァ。
パーンドゥ族では、強運の士(=アルジュナ)。
また聖者の中で、われはヴィヤーサ。
詩仙らでは、詩仙ウシァナス。 (三七)
戒むるものの、われは刑杖。
勝利を願うものの、われは機略術策。
また秘義における沈黙、
知識ある人びとの知識なり。 (三八)
かつまた、一切衆生の種子たるもの、そはわれなり、アルジュナよ。
われなかりせば、動不動のもののあることなし。 (三九)
…
けだし、アルジュナよ、その数多知れるをもていかんせん。
われこの全世界を、わが一分もて支えつつ存すれば。 (四二)”
pp.114-119
注釈
p.204
一〇章(二五) 一音節のもの
=オーム(om)
(
心腑(心府 しんぷ)
=こころ。心中。
調べたら心臓という意味ではなく心だった。
調べてよかった。
心に坐するアートマン。
クリシュナは心にアートマンとしてもいると言っている。
αにしてωは割とあるが「中間」をつけるのは
ヴィシュヌでもあることの表現だろう。
α(始まり、創造、梵天=ブラフマー)にして
中間(維持、ヴィシュヌ)にして
ω(終わり=創造の前の破壊、シヴァ)。
重立つ(主立つ おもだつ)
=主要である。中心となる。
クリシュナは自分自身を時間かつ死とも呼ぶ。
つまりカーラ。
ウパニシャッドの創造神「死」もクリシュナの一形態なのだろう。
豎=臣+又+豆など変換で出ない漢字が多いとやる気が削がれる。
豎立=まっすぐに正しく立つ。
人王。ゲーティアとつけたくなる。
ヴィシュヌの化身であるクリシュナが自分は時だと何度も言う。
そして死でもある。つまりカーラ。
風伯=風の神、風神。
秘儀ではなく秘義表記は珍しい。
まさかアルジュナに話しかけているクリシュナが自分はアルジュナと言うとは。
語句解説より
アートマン
「自己」。
人間、生類の体内に存する個々の霊魂、
および全一の世界霊、宇宙霊。
FGOの神たるアルジュナがインド神話の全神格を統合した
一神教的多神教的存在なのだが
ギーターのこの個所をキリスト教と新キリスト教(神智学系)的に曲解したのだろう。
ギーターは短いからすぐ読み終わるからライターは読んでいるだろう
)
第11章
※ハリ=クリシュナ。
” サンジァヤは語りつづけました。
こう述べるや否や、――王よ――、
不可思議(ヨーガ)力の大主ハリは、
プリター夫人の御子に、
無上、霊妙威稜(いりょう)の御姿を現示したのです。 (九)
夥しい口、眼をもち、
夥しい奇しき面相を有し、
夥しい神妙の装飾を帯び、
夥しい神妙の武具振りかざし、 (一〇)
…
天に、一千の太陽の光の、
一斉に(輝き)出でたならば、
それ(こそ)、この偉大なる方の輝きに等しいでありましょう。 (一二)
パーンドゥの王子は、そこで、神々の主の体内に、
さまざまに分かれた全世界の渾一せるのを、目のあたりにしたのでした。 (一三)
…
アルジュナ王子は申しました。
神よ、御身の体内に、神々、
さらに個々の庶物の群れ一切、
かつまた蓮華の座に在(いま)す主たる梵天、
すべての詩聖、聖なる人面蛇身の神々を、われは見る。 (一五)
夥しき肘臂(ちゅうひ)と胴、口、眼を有し、
四方に(拡がる)広大無辺の御姿の御身を目のあたりにす。
万相を具す一切の主よ、
御身の終尾も中間も、また頭頂をも、つゆ見ることなし。 (一六)
…
われは見る。頭頂、中間、終尾なく、
精力無尽、数多の肘臂を有し、
日月を眼とし、口は燃え輝く炎を含み、
身の光輝もて、この一切を焦熱する御身を。 (一九)。
…
聖なる方は答えました。
われは、世の破滅をばなす強大なる時。
世を回収せんがため、ここに出現す。
たとえそなたのあらずとも、敵陣中に居ならべる武士(もののふ)たちは、
すべて皆、存(命)することなかるべし。 (三二)
”pp.122-127
(
威稜(いりょう)
=天子の威光。稜威。みいつ。
口や目が多いフィクションの魔物の元ネタ?
口や目が多いのはおぞましくするデザインでよくあるから関係ないかも。
クリシュナの目も月と太陽。
自分を時間だと言うクリシュナ。
アルジュナが殺したくないと言っている人々は
アルジュナが殺さなくても死ぬと言うが
アルジュナが自身の手で殺したくないという意味だから説得力ないのでは?
)
第13章
” 聖なる方は語りつづけました。
この肉体は、クンティー妃の王子よ、「田(でん)」と呼ばる。
そを知るもの(=霊魂)、これをば、
それに通ぜる人びとは、「知田者(ちでんしゃ)」と呼ぶ。 (一)
”p.139
(
5.イダム
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.com/2014/02/idam.html
”バガヴァッド・ギーター13章の最初から、
バガヴァーンが教えます。
…
”「この」体は、「クシェートラ」です。”
クシェートラ=耕地=行動をして結果を刈り取る場所
…
”このクシェートラを(対象物として)知っているのが、
クシェートラを知る者です。”
…
バガヴァーンは続けます。
…
”そのクシェートラを知る者(つまり、あなた)が、
私(つまり、バガヴァーン)であると知りなさい。”
これは爆弾発言ですね。
バガヴァーンは続けてもう一つ爆弾を落とします。
…
”全てのクシェートラ(身体)において”
「私=バガヴァーン」でも、さっき十分びっくりさせられたのに、
「私=バガヴァーン=全員」って!
”
”
第17章
クリシュナ
” 「オーム、タト、サト」とは、
梵の三重の指標とさる。
これにより、往古、
バラモン、ヴェーダ、祭式は創始されたり。 (二三)”
p.166
(語句解説より
オーム
本来、何を意味するか不明。
聖なる音節として、
ヴェーダ祭式やその学習等の際、
初めに発声される。
(オウムが創造維持破壊も解釈の一つであり
原初の意味は不明らしい。
本来、何を意味するのか不明な呪文を唱えるのって危なくない?)
オーム、タト、サト
「オーム、それ、存在」の意で
聖なる音節とされる。
)
第18章
クリシュナ
” 我執を恃(たの)みて、「われ、戦わじ」と考うるに、
これなるそなたの決意は徒(あだ)なり。
(武士(もののふ)たるの)本性、そなたを駆り立てん。 (五九)”
p.179
(
クシャトリヤの本性があなたを駆り立てるとか
戦いたくない感情を我執だと言うとか酷いな。
無我や無執着を奴隷化のために使うカルトみたいだ。
最終的に説得されてしまうアルジュナ。
やっぱりこれが広まったのって
兵士を鼓舞するのに有用なのもあるよね?
内容がバラモン・ヒンドゥー教的に良いのもあるだろうけど)
メモ終わり。
参考資料
面白いのは仏教の伝統で、太陽は光輝そのものとして毘盧遮那(ヴァイローチャナ)や大日(マハーヴァイローチャナ)という覚りの光の宇宙神となり、日没を眺める阿弥陀の観想として覚りの代名詞となっている一方で、密教では諸仏の裏に書かれる円相は月輪であり、禅でも月が覚りの象徴です。 pic.twitter.com/K4QQqfg0xF
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月3日
それと対応するように、日本では日月曼荼羅のカタワレである「日の丸」が国旗に昇格している一方で、風流な方面ではもっぱら月、という分業状態。タカラヅカでも月・星・宙とあるけどお日様組はないようです。足穂のオットー少年の言うように、青空のせいで太陽は日常的すぎるのかもしれません。 pic.twitter.com/QGjCQN5zpF
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月3日
なお曼荼羅では日月はどのように描かれているでしょうか? まずは胎蔵曼荼羅の最外院東方に描かれる日天(アーディトヤ)。太陽神そのものです。ヴェーダにも出て来る。馬車に乗っているのはギリシャ神話のヘリオスと同じですね。天上を自前で移動してるんだから自家用車を持っているんでしょう。 pic.twitter.com/llVKYTXyo3
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月3日
なお、天体そのものは日天(アーディトヤ)として、天体の運行は日曜(スーリャ)として表象されます。やっぱり馬がいますが、乗り物っぽくはない。この曼荼羅の画像は染川英輔画伯の『曼荼羅図典』から。観蔵院(練馬)の曼荼羅の線描図です。この画を用いた曼荼羅解説書がいくつか出ております。 pic.twitter.com/btWmkooheM
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月3日
お月様のほうはこれ。左が月天(チャンドラ)でお妃といっしょに描かれます。右のウサギさんが描かれている二種の図は月曜(ソーマ)です。ソーマというのはヴェーダの世界の神々のドラッグです。これが同時に月でもある。月はパワーが上がったり下がったりしますからね。 pic.twitter.com/4luSRL8tb0
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月3日
以上は胎蔵曼荼羅ですが、金剛界曼荼羅では日天(左)と月天(右)が図のように描かれます。それぞれ6つあるのは金剛界構成曼荼羅のうちの六種(成身会、三昧耶会、微細会、供養会、降三世会、降三世三昧耶会)のものです。以上は染川英輔画伯『曼荼羅図典』からでした。 pic.twitter.com/Cro9UewhHV
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月3日
さて、創世記でもカレワラでもフランシスの太陽讃歌でも、日月は神の位置にあるのではなく、むしろ道具・素材的です。とはいえ、太陽讃歌に見るように、ブラザー・サンはかなり神に近接している。日本神話ではアマテラス(太陽)とツクヨミ(月)は非対称で、太陽がそのまま神となっています。 pic.twitter.com/QL7fLnOXuI
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月3日
琉球王朝の尚円王と尚真王の肖像はこんな感じ。やっぱり日月は欠かせないみたいですね。東アジアの宇宙論的な帝王神話の世界観です。李朝でも琉球でも向かって右が太陽で左が月のようです。仏教の須弥山図でもそうなっているものが多いみたいです。 pic.twitter.com/k1oWJQJayu
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月8日
(白丸 赤●
月 太陽
向って右
=自分(見る側視点)から見て右
=それに対面するように向かっている状態でのあなたにとっての右。
要は、見られる側視点ではない。
西洋錬金術では見る側視点で左に太陽、右に月。
つまり見られる側視点だと右目が太陽、左目が月。
中国、朝鮮、琉球、日本ではその逆が伝統的。明ではなく月日。
)
創世記の天地創造がオリエント神話を下敷きにしていることはよく知られています。とくに二日目の水の分離はティアマト神話系。序文の水の面を動く神の霊(=息)は(フェニキア神話経由の)宇宙卵のエコーであるらしい。四日目の日月曼荼羅はどの神話の真似というのを超えた普遍性を感じさせます。 pic.twitter.com/s5s1XPL5OR
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月3日
日月の話の続き。カレワラで面白いのは、呪師のロウヒ婆との抗争の中で、日月が幽閉されるくだりです。岩波文庫の『カレワラ』(リョロートが手を入れた新ヴァージョン)で眺めていきましょう。カミ的存在であるヴァイナミョイネンが楽器カンテレを奏でていると、日月が自分の城で聞き惚れます。 pic.twitter.com/lrdE9oIlbb
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年5月30日
「音曲は月の家まで聞こえ、歓喜は太陽の窓辺に達した。月はその家から出てきて、白樺の曲がり目に坐った。太陽はその城より抜けて、松の木の頂に降りた。カンテレに聞き入るために、歓喜の調べを讃美した。」……と、ここで老婆ロウヒに捕縛されてしまうのですが……。 pic.twitter.com/zBSO13c0B8
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年5月30日
《月》はその家から出てきて(クー・トゥヴァスタハン・トゥレヴィ)、
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年5月30日
白樺の曲がり目に坐った(アストゥイ・コイヴン・コンケロッレ)。
《太陽》はその城より抜けて(パイヴァ・パートュイ・リンナスタンサ)、
松の木の頂に降りた(ロイヘ・ラトゥヴァハン・ペタヤン)。 pic.twitter.com/Ndl7l1CaVD
「月」は現代語と同じくkuuですが、「太陽」はpäiväとなっています。これは現代語では通常カレンダー上の「日」です。現代語でも「太陽」の語義はあるようですが。現代語「太陽」はaurinkoです。現代日本語でも「日」は暦日の意味に限定され、むしろ「太陽」を使いますが、これとパラレルです。 pic.twitter.com/TDXnxyprqu
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年5月30日
さて、ここで日月は「ホホヤの歯抜け婆」と呼ばれるロウヒに捕らえられてしまう。かくて世界から日月が失せ、「もう永久[とこしえ]に夜だった、長く真暗闇だった。カレワラは夜だった」となります。日本で言えばアマテラスの岩戸隠れですが、こちらは「隠された」んですね。しかも月もいっしょ。 pic.twitter.com/zEANVUJTgv
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年5月30日
『カレワラ』でポホヨラの女主人ロウヒに日月が幽閉されると、面白いことに鍛冶の神が日月を鍛造しようとします。北方のシャマンが金属製の日月を壁に懸けたりするのと関係あるという説も。アマテラスのケースでは八咫鏡を用いて岩戸から引き出していますが、こちらでは鏡が太陽神の光を映している。 pic.twitter.com/DRdqwRKjT4
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月1日
鍛冶イルマリネンは月を金から、太陽を銀から鍛えます。我々の感覚では金と銀が逆じゃないかと思えるんですけどね。ヴァイナミョイネンは造っても同じようには照らないだろうと。それでもとにかくやってみると……「月は照らしはしなかった 日は輝きはしなかった」という結果でした。 pic.twitter.com/NBeQ568zCZ
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月1日
やはり面白いのは、鍛造された月(クー)を樅(クーシ)(=ヨーロッパトウヒ)の頂に、太陽(パイヴァ)を松(ペタヤ)(=オウシュウアカマツ)の梢に置いていることです。頭韻を踏んでるんですね。木の梢に掲げた日月というのは、玩具っぽくて、なんだか可愛らしいイメージです。 pic.twitter.com/lGAGc8sQCf
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月1日
結局ヴァイナミョイネンの提案で鍛冶イルマリネンは槍を造ります。ロウヒが鳥になって偵察に行くと、婆さんをつかまえる首輪を造っている所だ、とイルマリネン。ロウヒは恐れをなして自分から日月を解放してしまいます。「すでにまさしく天空にある、それらの昔の位置にある」……で一件落着。 pic.twitter.com/TPL0fKedIE
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月2日
最後にヴァイナミョイネンは太陽讃歌を歌います。月にも言及していますが、毎朝昇って獲物が捕れるようにしてくれ、と歌ってますから、やっぱり太陽中心ですね。日月はある程度人格的な存在のようですが、神というほどではありません。しかし日々の幸の源泉だという意味で讃歌が捧げられるのです。 pic.twitter.com/iu7C12x1N0
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月2日
カレワラにはサンポsampoという不思議な「機械」が出てきます。機械というか、要するに碾き臼のようなものらしく、がりがり回すと富が出て来る。粉や塩や金が出て来る。打ち出の小槌のようなものです。画像は鍛冶の神様イルマリネンが鍛造しているところ。 pic.twitter.com/f00mJ5W49F
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月4日
カレワラのサンポもロウヒとの闘争中に海底に沈んでしまいます。鍛冶イルマリネンがロウヒのために鍛造、しかし約束の嫁が貰えず……色々あって戦争になって、サンポは沈み、海の宝となる。サンポの断片は各地で富をもたらす。……だからサンポにはやはり宇宙論的な豊穣の源泉の意味があります。 pic.twitter.com/jx8spPXwDG
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月4日
そもそもサンポ鍛造を提案したのは主神の如き老ヴァイナミョイネンです。ポホヨラの乙女は別嬪だ、日月が彼女を眺める、サンポ鍛造で気をひいて結婚しろ、という話。さらに宇宙樹のような樅が登場。月が梢に、北斗星が枝に立つ……やはりどうもサンポの話と宇宙軸とは関係しているみたいですね。 pic.twitter.com/YveluSZAfZ
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月4日
カレワラ最後の山場は妖術師からサンポを奪おうとするサンポ戦争です。ワシに姿をかえた老婆ロウヒが爪でサンポをひっつかみ、海に落とす。サンポは微塵に砕け、各地に流れ、富の源泉となる。もはや臼のような機械というより、神人の身体から五穀が生まれる神話に匹敵する富の分散神話になっています。 pic.twitter.com/exJmqCB4Kh
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月15日
「そこでポホヨラは貧困になり、ラップはパンの無い生活となった。強固な老ワイナミョイネンは…サンポの破片を発見し…破片を持ちこんだ…飾った覆いの断片を霧の深い岬の先へ、靄の濃い島の端へ…生産し繁栄するように 大麦のビールとしてライ麦のパンとして」(小泉訳カレワラ43章より) pic.twitter.com/8jxSIBe5s7
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2019年6月15日
安倍晋三はなぜ憲法を変えるのか その根本思想
https://ameblo.jp/realwar3/entry-12272526085.html
”人間が持つ良心が失われ、
脳が怒りに満たされ、
人間が自らの命さえ忘れて戦争に突き進む状態を『覚醒』と呼ぶ。
たとえば、ギリシャ神話のヘラクレスは侵略戦争を厭わず、
時には自分の子供さえ殺している。
古代の王族や神官たちは、ヘラクレスのこうした行いを褒め称え、
ヘラクレスを神と同等の存在と認め、神として祀った。
神に等しい、真の英雄であると。
後に、ヘラクレスのこうした行いをプラトンは黄金の種族と称えている。
そして、我々のように戦争を望まない種族は、錆びついた鉄の種族なのだと。
肉体からの魂の解放を望まない者、
他人を肉体から解放する戦争を好まない者は、
利己主義の鉄くずでしかないということ。
実は神には善も悪もないとされている。
この思想は古代に生まれ、
現代でも政治思想を支える根幹となっている。
たとえば、インドの大叙事詩マハーバーラタの「バカヴァッド・ギーター」にはこのように書かれている。
主人公のアルジュナは王子であり、イエスのように神であるインドラ(戦争神)の子。
アルジュナはヘラクレスのように優秀な戦士だったが、
親族との雌雄を決する戦争に躊躇していた。
しかし、アルジュナの御者に化していた神クリシュナが、
犠牲や結果を考えずに戦争を遂行する事をアルジュナに求める。
善と悪は人間の世界にのみ存在するものだと。
悪とは、
人間の肉体から生まれる欲望から生じる偏見によって善と悪を区別している事を言うのであり、
神の領域である正義は、人間の善悪を超越する。
聖書ではアダムとイヴが善と悪の知識の実を食べたがために、
堕落した者として神から追放されている。
なぜアダムは追放されたのか?
アダムはその実を食べた時、
初めて自分が肉体を纏っていたことに気づいた。
肉体を顧みず、ヘラクレスのように戦うことを止め、
人間の肉体を守る法を知ってしまった。
「その実を食べれば、お前は必ず死ぬ」
それは、人間を法によって人間を守れば、
人間がどんどん増殖し、
やがて地球の許容量を超えてしまい、
人類は滅亡してしまうという、神からの警告だった。
人はヘラクレスのようにあれ、という神の教えにアダムは背いたのだ。
実際、キリストは、
この世に平和ではなく、
剣と争い(戦争)をもたらすためにやって来たと聖書には書かれている。
また、クリシュナも言う。
戦争は堕落した人間を肉体から解放し、
良い世界(死後の霊的世界)へと霊魂を導く正義の行いであると。
こうしたマハーバーラタが言う正義、
堕落した人間の肉体から霊を解放するー
という教えは、これを聖典とするヒンドゥーだけではなく、
聖書、つまりキリスト教、イスラム教、そしてユダヤ教の根本思想となっていることを、知ることから始めなければならない。
そして、このブログでも何回か書いてきたが、
ソクラテスやプラトンもまったく同じことを言っている。
仏教においても、釈迦はこう言っている。
「二度とこの悲しみの世に生まれてくることはない」と。
しかし、釈迦はマカダ国のアジャセ王によるヴァッジ族への戦争を、
柔らかい表現で制止している。
(釈迦の待機説法)
釈迦は何度も戦争をやめさせている。
こうした釈迦の態度は、西洋宗教、そしてその根幹である神秘主義の思想家の間では、
「(魂の肉体からの解放に対する)消極的態度」と呼ばれている。
―あらゆる宗教は、二通りの教えを持っている。
ひとつは私たち大衆にも教示されている『公教』。
もうひとつは位階を受けた人間だけに明かされる『秘教』がある。
(古代では密儀宗教と呼ばれていたもの)―
秘教である西洋神秘主義、そして哲学では、
戦争によって積極的に肉体から魂を解放することこそが、
この世における指導者たちが行うべき唯一最大の使命であるとされているからだ。
しかし、このことは我々凡人である国民に正直に話したところで、
とても理解、または許容されるものではない。
それゆえ、哲学者や宗教家に指導された政治を司どる人々は、
こうした哲学思想に無知な大衆を、
強制的に良き世界へと導くため、
あえて善と悪に分かれ、戦争を行い、
世界の人口を抑制する。
聖書はこれを「アーク」と呼んでいる。
ノアの時代に起きた、地表を覆っていた人間を洗い流した出来事は、
「ノアズ・アーク」と呼ばれており、
それは人間が増えすぎた時に起こるとされる神との約束で、
聖書はその約束を永続させるために受け継がれてきたものだ。
言い切るが、
聖書はただそのためにだけ書かれたものだからだ。
また、それこそが宗教が持つ神秘と呼ばれてきたものであり、
古代ギリシャではミュステリオンと呼ばれていた。
プラトンは、その教えを国家的宗教に則らず、
ソフィストとしての新しいやり方で、
若者たちにその秘密を明かしていたため、
罪ありとされ処刑された。
(今はやりの政治塾を営んでいた)
世界的宗教の神々や預言者たちは、
人間のこの世における生を否定している。
霊魂こそが人間の本性であり、
あの世こそ、人が永遠の生命を受ける、
美しい楽園であると。
確かに、物資や金に囚われすぎたこの世は、
あまり美しいとは言えないかも知れないが、
その醜いこの世を生み出しているのものは
実はほかならぬ、世界各国の政府。
アベノミクスにも代表されるように、
国家は、企業の儲けばかりを重視し、
人間がこの世で安住できる環境づくりを行っていない。
豊かな社会とは、経済で一番になることではなく、
世界の誰もが衣食住が足りて、
争いのない、平和な環境の中で慎ましく暮すことができることではないだろうか。
であるのに、資本主義の代表であるアメリカは、
世界から金や物資を集めては、
それを元手に戦争ばかりしている。
21世紀に入り、アメリカが戦争を行っていない年はないし、
その戦争をさらに拡大しようとしている。
釈迦は、確かにこの世が「悲しみの世」であるとは言ったが、
その晩年、ヴァイシャリーを訪れた時に、
「人生はなんと甘美なものよ・・・ヴァイシャリーは美しい」と言い残しました。
また、釈迦はその死が近づいた時、
彼が一番信頼していたアーナンダさえ願えば、
自分の命は永らえることができると、
アーナンダに求めました。
釈迦からこの世の生に執着しないと教えられきたアーナンダは、
釈迦の気持ちを汲むことができず、
釈迦は亡くなってしまうのですが・・・
釈迦は、人間の肉体が欲望に満ちたものであることを認めてはいましたが、それでも、この世の生の中に素晴らしさがあることに気づいていたのです。
それは、釈迦とその初期仏教集団であるサンガの人々が送っていた生活のように、
欲望を抑え、
物資を大切に使い、
争い事起こさずに、対話によって物事を解決してゆくことではないでしょうか。
しかし、聖書に代表される西洋宗教では、
戦争は神の命令として、
信仰する人々の義務として明記され、
世界から戦争がなくならない原因を生み出してきました。
主はヨシュアに言われた。
「恐れてはならない。おののいてはならない。
全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。
アイの王も民も町も周辺の土地もあなたの手に渡す。
エリコとその王にしたように、
アイとその王にしなさい。
ただし、分捕り物と家畜は自分たちのために奪い取ってもよい。
あなたは、町を裏手からうかがうように伏兵をおけ。
※青字は「聖書」新共同訳 日本聖書刊行会
「旧約聖書 ヨシュア記 7.12-8 アイの滅亡より」引用
これは神ヤハウエがユダヤ人に戦争を命じた一例ですが、
アイだけではなく、その前には、紀元前7000年から古代都市を築いていたとされるエリコも、
聖書の神の命令により、
ユダヤ人の手によって滅亡していました。
それが神との約束、契約だと。
戦争はよく言われるように陰謀ではありません。
昔は、聖書に書かれているように、
霊的な神の命令として、国家の、民族の公的な行いとして、
神官が発する指令によって開始されました。
ところが近代啓蒙主義に至り、
神と人間の立場が逆転してしまい、
人間こそが自然を解明し、支配する者、
すなわち人が神になる―という思想が明確に打ち出されました。
それが近年、西洋神秘主義と呼ばれているもので、
いわゆる陰謀論でいうところのフリーメイソン思想です。
フリーメイソンは内面化された神殿思想を継承するが、
その過程において神と人間の伝統的関係を転倒させることにより、
神殿建築の象徴的意味を人間と社会の完成の過程へと移行させる。
「フリーメイソンと錬金術:西洋象徴哲学の系譜」
吉村正和 人文書院より引用
こうした思想は、
古代ギリシャなどで行われていた、
人間が神の子になるという儀式の新しい解釈から生まれました。
彼らはいつも謎めいた言葉を使い、
その目的が何であるかを完全には明かさないために疑われてしまうのですが・・・
それは人間自身が神となり、
かつて霊的な神が行っていた計画を、
人間自身が実行すること。
それこそが人間がこの世において神として行う、
最も高貴な、「神の子の作業」であるということです。
つまり、キリストと同じ救世主ということですね。
私は、フリーメイソン自体の大きな運動のうねりと役割は、
18~19世紀にかけて、すでに終わっていると考えています。
フランス革命とアメリカ建国という目的を達した段階で。
もちろん、その思想は消えてはいないのですが、
すでにそうした西洋的国家の中に、
その思想は団体を越えて、
幅広く根付いているからです。
ですから、今さらフリーメイソンが世界を支配しているなどとは言いません。
ただ、アメリカ政府もイギリス政府も、
それと同じ流れの思想によって動いているのだということ、
そのためにアメリカが建国されたのだということは、
知っておくべきだと考えています。
それを知らないままでは、
世界から戦争をなくすことはできないのですから。
私たちは、すべての人間が寿命を全うできる社会の構築を目指すべきです。
彼らは人類が増えすぎて、食料がなくなり、
人間同士が殺し合い、人肉食が開始されてしまうなどと主張しています。
それなら戦争だって同じじゃないですか。
殺し合い、奪い合って、
どこがどう違うのか理解できません。
そんなことよりも、
サハラ砂漠やサンデ‐砂漠、
タクラマカン砂漠を、
日本の海水を真水化する技術を使い、
パイプラインを引いて緑化することで、
食料も調達できるし、
アフリカの子供たちもきれいな水が飲める。
そして、砂漠が緑化されることで、
海水面が低下し、水没の危機にあるバヌアツも救われる。
また、植物が増えることで地球温暖化も抑制され、
気候変動も穏やかになる。
私がアメリカ大統領や日本の総理大臣なら、
まずはこうした砂漠の緑化に取り組む。
しかし、現実の世界はどうですか。
世界の指導者たちは、
自分たちだけのファーストを唱え、
そして教育の無償化という餌に撒いては国民の支持を得、
世界における戦争を拡大しようとしてしているだけではないですか。
私ひとりでも思いつく、世界を救うべき行いを、
なぜ21世紀の科学が極限まで発達した世界の指導者たちはできないのか。
それは、できないのではなくて、
やらないだけ。
かれらが行おうとしていることは、
人間をこの世で救うことではなく、
この世から人間を救済することだからです。”
【哲学者は肉体から魂を分離するのが仕事 肉体は魂の牢獄 死こそ永遠の生命】 生命を否定する哲学
https://ameblo.jp/realwar3/entry-12266097151.html?frm=theme
"以前にも書いたが、「戦争の原因は哲学にある」ということを理解していただきたいので、再度書き直す。
プラトンは著書「パイドン」の中で、
哲学こそ最高の学問で、哲学者は人間の肉体を最高度に侮蔑し、
また死を願い、死の練習をしている者だとはっきりと言っている。
私はプラトンのうち「パイドン」以外では、
「国家」「プロタゴラス」「パイドロス」「ティアイストス」
「ソクラテスの弁明・クリトン」を読んでいる。
これらプラトンの著書を研究してみた結果、出てきた結論は、
哲学は人間の肉体から、
魂を解放することを、
唯一、無二の目的としている。
つまりわれわれ人間の生命の否定である。
また、この魂の肉体からの分離を促進するため、
戦争を推奨している。
この人間の生命を否定する、最高の学問と主張する哲学が、
なぜか現代でも、大学においてプラトンがいうように最高の学問として扱われている。
日本の政治家はたいてい言う「私の哲学は」と、
哲学と言う以上そこにあるのは「死」と「戦争」であり。
国会議員の場合には、いかに国民を殺す方法を生み出すか、
ということになるだろう。
そして、安倍晋三とその仲間が進めているように特に「戦争」を。
戦争こそ、人間の魂を一気に肉体から切り離す最高の機会であり、
核戦争ではすべての魂の分離さえ可能となる。
つまり哲学とは、いかに国民や大衆を戦争に引きずり込むか、
その手段を考えだす学問に至る。
こうしてみると、
北朝鮮の核兵器製造やミサイル発射、
アメリカのシリアやアフガニスタンへの爆撃、
そして我が国で戦争法や国家機密法が成立したことも、
それらすべてが、
哲学の目的を完遂するため、
政治家が行っている軍事行動なのだということが分かる。
またプラトンは、死後の魂は不死なのだと主張する。
以前に書いたが、
これも国民を戦争に引きずり込むために重要な魂の教育であり、
戦争が起こるたび、古代より何度も使われてきた。
宗教と哲学によって。
僧侶はまず霊魂が不滅で死後はこれからあれへと移ることを教えようとする。
こうして死の恐怖は無視され、勇気が大いに鼓舞されると思っている。
僧侶はその他、星座とその運行について、
世界と大地の大きさについて、
ものごとの本性について、
不滅な神々の力と権能について、
多くを論じて青年に教える。
※青字は引用 カエサル著「ガリア戦記」 近山近次訳 岩波文庫
VⅠ-14より
―引用終わり―
ガリアにおける僧侶、ドルイド僧は、戦争に向かう若者たちを教育していた。
僧侶は一番最初に一番重要な教えである「魂の不死」を説く、
若者たちはその教え、復活を信じて戦場に散って行った。
ちなみにこの坊さんたちは戦場には行かず、安全なところで命令するだけだった。
ドルイド僧が言っていた霊魂の不滅はプラトンの主張とまったく同じで、プラトンより古いオルフェウス教やイシスなどの密儀などでも同じことが教えられていた。
宗教家、そして哲学者が、
若者たちを勇敢に戦場に送るために、
考え出された古代の手法なのだった。
ドルイド僧は天体やものごとの本質についても若者に教えていたのだが、それもプラトンとまったく一緒。
なぜなら、ただ「魂は不滅、安心して死んで来い!」と言われたところで説得力はなく、
これでは若者たちは敵前逃亡してしまうだろう。
若者たちを逃がさないためには、
天文学や地理、化学や言葉などの学問をも、併せて学ばせることで、
初めて僧侶と哲学者に威厳が備わり、若者たちの信用を得ることができるからである。
先日NASAが発表していたが、
土星の衛星に水素が見つかったそうだ。
これも哲学者の仕事だと言える。
私は言いたい、
「地球外生命体のことなどどうでもよい。
地球内生命体を大切にしてくれ」と。
"
「プラトン悪魔の証明」 哲学は人間を戦争へと向かわせる 魂向け変えの術
https://ameblo.jp/realwar3/entry-12266111415.html?frm=theme
"プラトンは哲学者と言われているが、古代の宗教と同様、
魂の不死を説いていた。
つまり哲学とは人間の霊魂を扱う宗教、それも「霊魂を死へと向け変えさせる」
または「霊魂を戦争への向かわせる」術であるという結論に至る。
では、プラトンが我々が生命だと思い込んでいるこの肉体をどのように若者たちに教え込んでいたのか、検証してみよう。
※以下青字は引用 プラトン著「パイドン」岩田靖夫訳 岩波文庫より
人間にとって生きることよりは死ぬことの方がより善いということだけが、
他のすべてとは違って、
例外なしに無条件で的であり、他のものごとの場合のように、
ある時ある人には、という条件がけっしてつかない。23頁より
哲学者は死を恐れない。死とは魂と肉体の分離であり、
哲学者は魂そのもにになること、
すなわち、死ぬことの練習をしている者であるからだ。
本当に哲学にたずさわっている限りの人は、ただひたすらに死ぬこと、
そして死んだ状態にあること、以外のなにごとも実践していないのだが、このことにおそらく他の人々は気づいていないのだ。
28~29頁
したがって、ここでもまた、哲学者の魂は肉体を最高度に侮蔑し、
肉体から逃亡し、まったく自分自身になろうとするのではないか。
33頁
それなら浄化(カタルシス)とは、この議論の中で先ほど語られたように、
魂を肉体からできるだけ切り離すこと、そして、魂と肉体のあらゆる部分から自分自身へととり集め、
自分自身として凝集するように習慣づけること
37頁
ところで、正にこのことが、すなわち、
魂の肉体からの解放と分離が、死と名づけられているではないか。
だが、われわれの主張では、魂の解放をつねに望んでいるのは、特に、いや、ただ、正しく哲学している人々だけなのである。
そして、哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し、分離することである。そうではないか。
38頁
友よ、この肉体的なものは重荷である、と考えなければならない。
それは、重く、土の性質をおび、目に見える。
このような魂はこの重荷を持つために、
酷い荷物を背負わされて、目に見える場所へと再び引きずり降ろされる。81頁
―引用終わり―
私は言いたい「プラトンよ、お前が死ぬことは構わないが、他の人間に死を勧めるのはやめてくれ」
「そして世界の政治家たちよ、プラトンを利用して若者たちを戦場に引きずり出すことは、もうやめてくれ」
「戦争がしたければ、自分たちだけで戦ってくれ」
「そして世界の人々よ、この悪しき学問と宗教から、一日も早く解放されよう」
人間が解放されなければならないのは肉体からではなく、
哲学と宗教、そして戦争からではないか。
私たちは神社には良い神様がいると信じてお参りに行き、
家族の健康などを願う。
家族の死を願う人はまずいない。
それが宗教や哲学では「魂は不死です。戦争に行きなさい。死ねば永遠の生命や復活が待っています」
などと言われている。
私はこのような存在を知っている。
それは一般的に「死神」または「悪魔」と呼ばれてきた。
古代世界にキリスト教が勃興し、
他宗教はキリスト教に滅ぼされていった。
それらを受け継ぐ者たちは「地下に潜り」、
見つからぬように教えを受け継いでいた。
その教えは「魔術」そして「錬金術」と呼ばれ、
異教徒には分からぬよう、
結社を作り、暗号、寓意、シンボルマークなどに教えを隠し、
再び世に出る日を待った。
彼らはキリスト教に対し何度も挑み続け、
ついに勝利する。
ルネッサンスから始まった彼らの攻勢により、
哲学、密教などの教えは芽吹き、
今や完全に世界を抑えるまでとなった。
20世紀最大の宗教学者であるミルチャ・エリアーデはこう言っている。
ソクラテスは、「みずからの魂に心を配る」必要を強調した。
プラトンはさらにその先に進み、
―魂―生命ではなく!―がもっとも貴重なものであると考えたが、
それは、魂がイディアの永遠なる世界に属するものだからである。
ミルチア・エリアーデ著 「世界宗教史3」 島田裕巳訳 ちくま学芸文庫より引用
私たちの生命は狙われている、
それも北朝鮮や中国、アメリカだけではない、
日本政府が次の戦争を画策し、
私たち日本人を殺そうとしている。
哲学の教えによって。
"
読まれるべき本 プラトンの「パイドン」
https://ameblo.jp/realwar3/entry-12274008691.html
"前回、創作ではない本をもっと読んで欲しいと書いた。
とはいえ、先日書店に行ったとき、私は少し驚いたことがある。
私が本を書くために勉強していた2001年から2006年の間と違い、
兵器産業やアメリカ政府の実態を記録した本がほとんど書店に並んでいないのだ。
私は2001年に世界戦争が始まると確信し、勉強を始め、やっと本にしたのだが、その時よりはるかに日本は危険領域に入っている。
しかし、肝心の本が本屋から消えているのでは、
皆さんに読んでほしいと言っても無理がある。
私も、ここ数年ほとんど勉強していなかったため、
戦争に関わる良質な本がここまで減っているとは思ってもみなかった。
おそらくそれにも理由があるだろう。
特にアメリカの言論は抑えられていると感じた。
日本のテレビ局のように。
アメリカ人がかつてブッシュについて洗いざらい書き出したような本が、トランプについてはまったくなかった。
あるのはどれもあたり障りのない本ばかり。
兵器産業についてはまったく無くなっていた。
そこで、書店でまだ残っていれば買って読んでもらうのが一番だが、
図書館で借りるという方法もあると思うので、
これからできるだけ、お勧めする本についても書いてみたいと思う。
まず初めに読んでもらいたいと思うのはプラトンの「パイドン」
理由は、何度も述べているように、現代、そして古代においても、
政治は哲学や宗教の思想の核心部分を拠り所として実行されている。
つまり、現代政治とは哲学の実践である。
また、そうでなければ哲学が世界中で学ばれることもなく、ソクラテスやプラトンが歴史上の偉人扱いされることはないはずだ。
私は、プラトンらが説いた哲学の真意を理解するためには、解説書を読むのではなく、実際にプラトンが何を書いたか読むのが一番てっとり早いと考える。
プラトンらソフィストたちが何を書き残したのか、
それは誰のためであり、
どのような目的があったのか、
私はすでに知っているが、
いくら私が書いたところで、
実際に読むのとは理解度が違う。
プラトンによれば、当時ソクラテスはアテナイ随一の智者ということになると思うが、同時期に生きていた喜劇作家アリストファネスは、
ソクラテスは金儲けのために裁判用の弁論術を教えていたと書き残している。
それは有罪を無罪にするという術だったらしい。
現代で言うなんとかの法律相談所みたいなものだ。
実際、プラトンの「国家」にその事実を垣間見せる記述がある。
できれば「国家」を読んでもらえれば一番よくプラトンらの考えが判るのだが、国家はぶ厚いため、いきなりでは少しきついと思い、
薄くても彼らが人間の命をどう捉えているかが理解できる、
「パイドン」をお勧めする。
「パイドン」は、岩波文庫の青帯で1冊600円程度で買える。
ページ数も少ない。
さらに、プラトンの本は対話方式になっており、
劇のように進行するため、
哲学本と言ってもかなり読みやすい。
アリストテレスとはまったく違う。
できれば、日本や世界の政治を動かしている原動力である哲学を理解するために、一冊でも良いから読んでみてほしい。
気をつけて頂きたいのは、
哲学書には悪いことばかりが書いてあるわけではないということ。
大きな問題でないことについては、たいてい正しい見解を述べている。
そこがミソで、それに引き込まれて信じてしまうと、
一番肝心な生命と戦争について、
彼らの意見は正しいという肯定派となってしまうだろう。
彼らは小さなことはまったく気にしていない。
彼らの意見や目的の核心を要約すると、
①政治の実験を握るのは、我々哲学者でなければならない。
②国づくりは戦争を基本とし、子供や女性は共有とする。
劣等な人間の種は残さない。
③死こそ本当の生命であり、この世は魂の牢獄であるので、
人はできるだけ肉体から魂を解放しなければならない。
等々。
それはまさアメリカを初めとし、世界の戦争を肯定化する、肝心要の礎と呼ぶべきものだ。
プラトンは誰もが読むべき本である、
ただし、厳しい批判の目を以って。"
U@wayofthewind
2012年10月29日
たんぽぽさんの慧眼は、西洋文明は「死を思う文明」だと見抜いていたことからもうかがえますね。
それが生贄や搾取だったり、侵略や戦争にまでつながってくる。 @lanekota
2012年10月27日
たんぽぽさんのブログ閉鎖、
タイミング的に石原新党が表向きの理由みたいだけど、それだけかな……?
見えにくい圧力を受けたり、何か危険な兆候や事前情報を知ってしまったとか? いずれにしても、おつかれさまでした。残されたテキストを活かさないといけませんね。
2012年10月26日
@lanekota たんぽぽさんブログ、どうして閉鎖するんですか?
なかだち@madaraiguana
2018年12月24日
「昔、インドにアーリア人が入ってきたとき、其処の原住民を武力でなくて、へ理屈(哲学)で抑圧したのが、バラモンの始まりです。やがて、このへ理屈(哲学)に特化した邪教の宗派が生まれます。これが佛教です。
バラモンというのは、あーだ、こーだと、へ理屈をゴネて原住民の存在を全否定して、
自分達の支配の正当性を説いたんですが...このへ理屈に特化した邪教(佛教)は、バラモンの存在理由まで否定し始めちゃった。さー大変。インド社会は立ち行かなくなります。
この邪教(佛教)の台頭で、インドの支配階層のヒエラルキーが否定され、危機感を感じたバラモンは理論武装して対抗しました。
理論武装で生まれ変わったバラモン教が、ヒンディー教です
“ヴェーダ/バラモン教というとアスラとデーヴァという神格が登場する。
アスラは悪魔でデーヴァが神、ゲーム等でもお馴染みだ。
ゾロアスター教ではこの悪魔/神がひっくり返ってアフラ=神のダエーワ=悪魔になる。
一応、一般的にはアスラは”自然の荒ぶる力”を表し、
デーヴァは”文明による恩恵”を喩えていると言う。
つまり人間にとって優しいのは”文明=デーヴァ”と言うことになる。
例えばリグ・ヴェーダではデーヴァのインドラが英雄神として扱われており、
邪龍ヴリトラというアスラが”旱魃”を表している。
即ち、”旱魃”は農作業をする人間にとっては天敵であり、
恵みの雨を運ぶインドラ=嵐の神は有難いというわけだ。
よく、善悪の二元論はゾロアスター教から始まったと言われるが、
単純な神vs悪魔という構図はヴェーダ教でも見られるわけである。
さて、二元論とは言え、皆さんはもう既に”真の神”はアスラでもデーヴァでもないということを知っている。
”真の神”は”輪廻”の創作者である創造神=死であることは既にお話させて頂いた。
つまり、ヴェーダ/バラモン教におけるアスラとかデーヴァというのは人間と同じ単なる一種族、
ぶっちゃけただの
ザコ生物の一つでしかない。
ところが現代のヒンドゥー教徒もヴェーダの神を輸入した仏教徒もこれを有難く崇拝している始末である。
一神教系(主にユダヤ教系列)の西洋人達が多神教を見下してバカにするのは、
彼らの信じる神=創造神の方が圧倒的強者であると知っているからである。しかし、
残念ながらこの西洋人達の大好きな創造神は悪の大魔王の中の大魔王=死である。
デーヴァやアスラの様な生易しいチンケな物ではない。
創造神ほど凶悪な邪神は存在せず、
結局この大悪魔の最終目標は自分自身を含めた全ての創造物を喰らい尽くすことである。
当然この創造神、自分用の”餌”である生物を創造するにあたって、
当然自分の都合のいい様に創り上げる。
つまり、人間を初めとした全ての生物は繁殖行動により子孫を増やそうという本能が強い。
(個体が増えた方が、餌の量が増える)
そして古代のバラモン達が本能のまま生きる同胞を嫌い、
ヒマラヤ山に篭ってヨガを鍛えることによって生物的本能をコントロールしようと試みた話もした。
ところで、宗教の有名な修行法として”断食”がある。密教にもあれば、イスラーム教にもある。
これも一種のヨガであり、”食欲”という本能に負けない精神力を鍛えるために行われる修行法である。
決して断食することによって”霊力”が上がるわけではない
この辺の認識が宗教家やスピリチュアリストは良く勘違いするので注意すべし。
さて、本能に逆らって生きることは実は相当難しい。誰でも出来る生き方ではない。
つまり同じ人間集団でも勝者と脱落者の二極に分かれることになる。
当然バラモン社会では、悟りを得た修行の完成者が一番偉いということになる。
彼らは本能的な欲求を抑え込むことに成功し、もはや創造神の奴隷ではなくなるわけである。
では、”負け組”がどうなるかというと普通の”一般人”に戻るわけである。
ここで、古代のバラモン達は一つの重要な発見をする。
どうやら修行の才能は遺伝するらしい。
特に本能に忠実な人間の子供は、その子供も欲望バリバリの大人になる確率が高い。犬や猫のブリーダーなら分かると思うが、親の性質や気質というのは子へ遺伝する。凶暴で人を噛む犬からはやはり凶暴で人を噛む子犬が産まれやすい。
つまり我儘で程度の低い人間からはやはり我儘で低脳な子供が産まれ易いのである。
※別にフェイド大帝は右翼ではない。
ただこのナチ的優生学というのはバラモン教においては重要な概念である。
そこからヴァルナ制度やカースト社会が生まれるわけだから。
イスラームのコーランでは”悪い大人になる可能性の高い悪い心を持った子供は、
子供のうちに殺してしまうのは倫理的に正しい”とされている。
現代の心理学では、問題のある精神障害は適切な治療により後天的に治すことが出来ると基本的には考えられている。
例え、親が犯罪者だったとしても
何の犯罪も犯していないその親の子供を罰するということは現代社会では認められないだろう。
ところが古代インドでは現代日本の倫理観や常識等は一切通用しない。
悪は遺伝するのである。これは確定事項である。ここの所が良く理解できていない現代人が実に多い。多すぎる。
”善や悪が遺伝する”というのは言い換えれば、
善人と悪人はDNA的に別の生物種であるということだ。
即ちバラモン社会ではバラモン=善であり、その他一般人は悪であるということだ。
これが時代が経るとヴァルナ制度(カースト制度のこと)へと発展し、
バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラと4つに分かれることになる。
ただクシャトリヤ以下の4つは「その他大勢」と同義であると考えた方がよい。
「マヌ法典」を読んでも、
やはり”この世の所有者はバラモンのみ”と記されている。
ところでフェイド大帝は、
バラモン=魂人=魂以外の実在を認めない、肉体を忌み嫌う人種
一般人=貪人=創造神の思惑通り本能のまま欲望丸出しで日々を生きる人種
の二つに人間を分別したいと思う。
貪人の「貪」は、創造神の中国での呼び名、伝説の魔獣「獣編貪」から来ている。
当然、「魂人」というのは圧倒的少数で、人間の大半は「貪人」である。
この「魂人」のことを西洋人は「イルミナティ」と呼ぶ。そう、これが本来の「イルミナティ」の正しい定義なのだ!
ところが、アイクを初めとした陰謀論家の著者の大半が「魂人」と「貪人」の区別が出来ておらず、
両者がごっちゃまぜになっている。
「魂人」と「貪人」の二つが区別できると、
ゾロアスター教的二元論も理解しやすい。つまり、
アスラ=自然/本能の神格化=自然/本能のまま生きる「貪人」
デーヴァ=自然/本能を制御する文明=本能を制御する「魂人」
というわけだ。
だから「魂人」とデーヴァは本質的に同じ性質を持ち、「貪人」とアスラも同じ本質を共有する。
これが”神vs悪魔”の正体である。
これが理解できると、ヤハウェ vs サタンの構図もグッと理解できるようになる。
ところで、バラモン教のカースト制度では「混血」を極端に嫌う。
つまり、あるカーストの男性は同じカーストの女性と結婚するのが最善であると説かれるわけである。
バラモンとクシャトリヤの間に生まれた子供というのはバラモン同士の子供よりも社会的地位が劣る。それも当然である。DNAが混ざれば同じ生物種ではなくなるのだから。
旧約聖書のネフィリムを神は嫌ったという箇所の謎もこれで解ける。
ネフィリムというのは神職とその他一般人の混血児のことを指すのだ。
※ちなみにフェイド大帝はネフィリムを「魂人」×「貪人」の合いの子「混沌人」と呼んでいる
ところで、この「善や悪が遺伝する」という話、
やはりどうしても信じ難いという能天気が取りえの教育を受けてきた読者も多いだろうと思う。では、皆さんの好きなプラトン先生のお言葉を見てみよう。
フェイド大帝の言葉は信じられなくてもギリシャの大哲学者プラトンの言葉なら信じられるだろう。
プラトンは「メノン」で”徳(アレテー)”は教育によって教えれる物なのかどうかを問題に挙げている。
結論を言うと、プラトンに拠れば”徳”というのは先天的にしか身に付かないと唱えている。
プラトンがイラン系宗教の隠れ信者であったことは既知の事実であるが、
「メノン」ではプラトンが実は”輪廻転生”を信じていることが分かる記載がある。
プラトンは”徳”と言うものは前世が記憶しているからこそ
現世においてそれが”徳”であると認識できるのだと説いている。
つまりプラトン哲学だと”徳”は前世から「遺伝」するのだ!
これで要約ウブな読者諸君も分かっただろう。奴ら(イルミナティ)はヤバイ!ということを。
このバラモン教(&プラトンのオマケ付き)の考え方を発展させていくと、「魂人」による「貪人」の一括管理が必要になってくる。
なぜならば「魂人」と「貪人」というのは本質的に相容れず、
特に本能と支配欲の旺盛な「貪人」は「魂人」を断絶しようと侵略闘争を仕掛けてくる可能性が非常に高い。
そこで古代インドのバラモン達「魂人」が長年掛けて開発してきたのが、
イルミナティによる家畜人(貪人)の管理システムである。
この仕組みがインドやイランの様なアーリア社会限定のものであれば良かったのだが、
運悪くイギリスの植民地化の際に西洋人にこのイルミナティ・システムの仕組みが知られる所となってしまった。
これはブラバツキー夫人やフリーメイソン経由でイギリスを始めとした西洋社会に浸透していくのだが、
元々、西洋人(白人のヨーロッパ人)というのは歴史的にみておバカな民族の末裔である。
今でこそ、白人というとハリウッドのスターや、パリコレのトップモデルを想像してお上品なイメージがあるが、元々はRPGのヒゲモジャのドワーフみたいな奴らの末裔であり、
ローマ人からもバルバロイと蔑まれてきた未開人の末裔が現代の白人達である。
しかも中世時代のローマ・カソリック教会の圧政によりほとんどの白人はマトモな教育等受けてこなかった。
(西洋人が文明人として遜色のない文化を持つようになったのは実は歴史的にはごく最近のことなのである)
バラモン教のイルミナティ・システムというのは「魂人」が「貪人」に適用して初めて効果の出る政治システムなのだ。
「貪人」が「貪人」に適用してどうする。
これが現代のイルミナティ・システムが機能しない主な理由なのだ。
例えばロックフェラーやロスチャイルド、エリザベス女王が
↑超格差社会の創出と人口削減と人種・階級差別と核開発と資本主義の根拠ですよ。
ピタゴラスの哲学の概要
https://information-station.xyz/2367.html
”ピタゴラス(またはピュタゴラス、Pythagoras、前570年頃~前496年)は、
紀元前6世紀後半の古代ギリシアの哲学者かつ宗教者
…
イオニア地方(小アジア(現在のトルコ)南西部のエーゲ海沿岸)の
サモス島に生まれ、そこで壮年に至るまでの長い年月を過ごしたのち、
アケメネス朝ペルシアによる
東方からの圧力が強まっていくなか、
前530年頃、専制支配を逃れて、
イタリア半島南端のクロトンへと移り住み、
そこで、
宗教と数学的な学術研究が融合した
独特の思想的色彩をもつ
ピタゴラス教団ともピタゴラス学派とも言われる、
一種の宗教学術集団をつくりあげました。
この教団のなかで、その教祖である
ピタゴラスの存在は神格化されていき、
教団内部で生まれた思想やその業績のすべては、
教祖であるピタゴラス自身へと帰せられていったので、
以下に述べる、ピタゴラスの思想と学説の内容も、
ピタゴラス個人というよりは、
ピタゴラス学派ないしピタゴラス教団という、
ピタゴラスを祖とする
一つの宗教学術集団の業績と、その全体的な思想内容と考える方が、
より正確と考えられます。
ピタゴラスの哲学の概要
ピタゴラス教団は、
当時、ギリシア本土から南イタリアにかけて
信仰が盛んになっていた
オルぺウス教(またはオルフェウス教)の影響を受けつつ、
魂の不滅性と、輪廻転生を基本理念に、
魂の浄め(katharsis、カタルシス)によって、
個人の魂を救済することを教義の中心としていました。
「肉体(ソーマ)は魂の墓標(セーマ)」
というオルぺウス教とピタゴラス教団の思想に
通底する箴言に示されている通り、
彼らは、
魂は、本来、不滅で神的なものであるはずなのに、人間においては、
その魂が、死すべき肉体につなぎ留められていると考えていました。
そして、
その墓標ないし牢獄である肉体を離れて、
禁欲的生活を営み、
肉体に基づく感覚的理解を捨て去り、
純粋な知性によって世界を把握することによって、
個人の魂を救済することを
究極の目標としていたのです。
ピタゴラスは、
そうした救済へと至る
魂の浄め(カタルシス)を得るためには、
音楽(mousike、ムーシケー)
を用いることが重要だと考えました。
彼は、
音楽における主要な音階が、
オクターブ(完全八度)ならば、
弦の長さは1対2(音程が1オクターブ上がると弦の長さが2倍になる)、
完全五度ならば2対3、
完全四度ならば3対4
というように、
竪琴の弦の長さの
シンプルで美しい整数比によって生み出されることを解明し、
このように、
弦の長さとのきれいな比例関係によって、
調和した音の響きが構成されることから、
音楽(ムーシケー)は、
数的比例関係に基づく、
数学的な調和(harmonia、ハルモニア)
によって成り立っていると考えました。
そして、
そうした、言わば、
数学的に純化された音楽を
自らの知性で聴き分けることによって、
魂の浄め(カタルシス)が得られると考えたのです。
ピタゴラスは、さらに、
音楽だけではなく、
天体の運行などの宇宙全体の秩序も、
数学的比例関係とその調和によって成り立っていると考えました。
肉体と感覚に捕らわれている
通常の人間には聴き取ることはできないが、
音楽の本質に目覚め、
数の神秘を会得した者だけは、
自らの知性によって、
頭上にまたたく星々の小さなささやき声、
そして、
全宇宙が奏でる壮大なシンフォニー(交響曲)である
天球の音楽(harmonia mundi、ハルモニア・ムンディー)
を聴き取ることができると考えたのです。
以上のような音楽や天文学の探求を通じて、
ピタゴラスは、
音楽や天体の運行、さらには、
自然や宇宙全体の秩序が
数によってもたらされていることを見て取り、
世界のすべての存在は、
数学的比例関係とその調和という
数の原理によって成り立っていると考えるに至ります。
つまり、端的に言えば、
ピタゴラスは、
「万物の始原(アルケー、元となるもの、根源的原理)は何か?」
という
最初の哲学者タレスの時代から問われ続けてきた、
世界の根拠への問いに対して、
「万物の始原は数である」
と答えたということですが、
この万物の始原の問いに対するピタゴラスの答え方は、
今までの自然哲学者たちとは大きく異なる思考の方向性を示しています。
これまでの、
タレスやアナクシメネスといった
ミレトス学派やイオニア学派に代表される
自然哲学者たちは、多くの場合、
水や空気といった、何らかの
自然的事物、物質的存在に直接、
万物の始原(元となるもの)を求めたのに対して、
ピタゴラスは、
数という、
事物が存在する論理的な形式の方に
存在の始原(根本原理)を求めたという点が
大きく異なると考えられるのです。
つまり、
ピタゴラスは、
自然現象や物質的存在といった
目に見える事物ではなく、
その背後にあり、それ自体は
目に見えないが、すべての存在の基底にある
数という
論理的形式自体に焦点を当て、
そちらの方が、すべての存在の始原(アルケー、根源的原理)である
と考えたということです。
ピタゴラス学派は、
こうした考えを、さらに推し進め、
「テトラクテュス(tetraktys、四数体、四元数)」
(1から4までの最初の4つの整数の和が10であることを、10個の点の配置によって図形化した図形数)
の神聖化に代表されるように、
万物の始原としての数を神秘化させていくなかで、
1は知性・実在、2は思いなし(ドクサ、感覚知)・女性、3は全体・男性、
4は正義・真理、5は結婚などというように、
それぞれの数字へ特定の事物や観念を割り当てることなども行っていきましたが、
以上のように、
ピタゴラス学派における、
魂を浄め、救済を得るための探求は、
音楽と天文学の次元から、
数学を介して、
存在の真理へと至る哲学の次元へと、
段階的に進んでいくことになるのです。
”
ピタゴラスにおける数の意味の割り当て
https://information-station.xyz/2387.html
”ピタゴラス学派、ないし、ピタゴラス教団は、
教団の教義やその学術的思想を外部に対して隠し、
神秘として保持する
一種の密議教(秘密結社的な神秘宗教)のような組織でもあったので、
その教義および思想の内容について正確に知ることは難しいのですが、
その数理思想における、
数の意味の割り当てについてまとめると、
それは、おおよそ、以下のようなものであったと考えられます。
1は、知性・理性、実在・存在
2は、思いなし(ドクサ、感覚知)、女性
3は、全体、男性
4は、正義・真理
5は、結婚
6は、恋愛・友愛
7は、好機、幸福
8は、本質
9は、特になし
10は、完全、神聖、宇宙
それでは、これから、
それぞれの数字について、その意味が割り当てられた理由を
一つ一つ読み解いていきたいと思います。
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ヌース(知性)とドクサ(思いなし)
まず、
はじめの数字である「1」についてですが、
「1」は、真理は一つ、などと言われるように、
知性の理解によって、真理が一つに定まり、
存在の真の姿が
確定している状態を示すので、
知性(nous、ヌース)または理性
そして、
その理性によって解き明かされた真の存在である
実在(ousia、ウーシア)
を表すということになります。
つまり、
「1」は、
知性による確実な認識を表しているということです。
これに対して、
「2」は、肯定と否定の2通りがあって、
真実が一つに定まっておらず、
正しいかもしれないし、間違っているかもしれない、
あるかもしれないし、ないかもしれない、
という
どちらともはっきりしない、
ドクサ(思いなし、臆見、感覚知)
の状態にあることを示しています。
つまり、
「2」は、
感覚による不確実な認識を表しているということです。
理性と感性、男性と女性
そして、
ピタゴラス学派の考えによると、
その不確実な感覚的認識を表している
「2」が「女性」のことも表しているということですが、
これは、いったいどういうことなのでしょうか?
これは、
現代の男女同権主義の立場から言うと、
受け入れがたい差別と偏見に満ちた考えということになるのですが、
一言で言えば、
ピタゴラス学派は、
女性とは、感性的な存在であり、
それに理性である「1」を足した存在が
男性である、
と考えていたということになります。
つまり、
ドクサ(感覚知)=「2」とヌース(知性・理性)=「1」
を合わせ持った存在が、
男性=「3」であり、
「3」である男性こそが、完成された人間の姿である、
と考えていたということです。
そして、
「5」は、
女性である「2」と男性である「3」の和、すなわち、
女性原理と男性原理が合わさった数になるなので、
「結婚」を意味することになります。
一方、
女性=「2」と男性=「3」の積である
「6」の方は、恋愛、または、友愛とされていましたが、
これは、
数学において、
足し算よりも、掛け算の方がより高度な論理であり、
古代ギリシアでは、
生物的・社会的な結びつきである結婚よりも、
よりプラトニック(純粋に精神的であること)な愛を含む
恋愛や友愛の方が、高尚で優れた愛の形であると考えられていたので、
より高度な論理である積の帰結である「6」の方に、
高尚な愛である、恋愛と友愛の方を対応させたということです。
同じような話にはなりますが、、
恋愛と友愛の方が、結婚よりも
プラトニックで理性的であるという意味で、
結婚=「5」に「理性」=「1」を足したものが、
恋愛・友愛=「6」とされたと考えることもできるでしょう。
また、
古代ギリシアでは、
同性愛、特に、
教養の高い男性同士のプラトニックな愛が
異性愛よりも高尚なものだと考えられていたので、
「6」は、そのような同性間の愛(すなわち、「3+3」)も含めて、
恋愛ないし友愛を表すとされたと考えられます。
孤立の「7」と音楽の「8」
そして、
次の「7」は、現代でも、いわゆる、ラッキーセブンと言われるように、
幸運のシンボルとされていますが、
「7」は、数自体の性質としても、
他の数とは少し変わった性質を持っています。
それは、
定義上、すべての整数と互いに素である1を除くと、
7だけが
1から10までのどの数とも
互いに素(二つの整数の間に1(または-1)以外の公約数がないこと)
であり、
そういう意味では、
1から10までの数の中で、
7だけが孤立している、
ということです。
このように、
「7」は、数自体の性質としても稀で珍しい存在ので、
めったにない機会という意味で、好機であり、
そのような好機に恵まれるとは、幸運であるという意味で、
好機や、幸運、幸福を表していると考えられます。
また、
ピタゴラスは、
数学の論理と世界の秩序を結びつける存在として、
音楽を非常に重視していたので、
弦の長さが最もきれいな整数比である
1対2になるときに生み出される音程である
オクターブ(完全八度)、すなわち「8」を、
音楽自体を象徴する数として重視していました。
つまり、
「8」は、オクターブとして、音楽の本質を担う数であり、
音楽は、数の原理を現実の世界に結び付ける存在でもあるので、
それは、世界自体の本質を表す数でもあるということです。
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テトラド(四つ組)とトライアド(三つ組)
ところで、
ここでいったん、小さい数の方に戻って考え直してみると、
「3」には、「男性」という意味だけではなく、
「全体」という意味もありましたが、
この意味づけには、いったいどのような理由があるのでしょうか?
「3」すなわち、
トライアド(triad、三つ組)
という概念は、
キリスト教の成立以降は、
三位一体(Trinitas、トリニタス、父なる神・子なる神・精霊の一体性)
といった、
より深遠で神秘的な意味を持つようになります。
しかし、
古代ギリシアの思想では、
「3」という数には、そこまでの重きは置かれていないので、
ピタゴラス学派において「3」は、
始め、中、終わり
過去、現在、未来
といった、単なる
事柄の順番といった意味での「全体」を表していると考えられます。
そして、
「4」が正義であり、真理でもあるというのは、
ピタゴラスが考えた人間の完成形が「3」であり、
そこに、さらに、理性としての「1」を重ねて加えることで、
より正しい人間、すなわち、正義を表すことになった、
と考えることもできますが、
古代ギリシアの思想、特に、ピタゴラス学派においては、
「4」という数自体がより重要な意味を持つと考えられます。
ピタゴラス学派では、
「テトラクテュス(tetraktys、四数体)」
(1から4までの最初の4つの整数の和が10であることを、10個の点をピラミッド型に配置することによって図形化した図形数)
に象徴されるように、
「4」すなわち、
テトラド(tetrad、四つ組)は、
点、線、面、立体
という事物が形成されていく次元の展開原理であり、
すべての存在の構成原理であると考えられていました。
したがって、
「4」は、
世界を構成する原理である
テトラクテュス(四数体)の元となっている
テトラド(四つ組)を表す数
という意味において、
根本原理である、世界の真実の姿として「真理」であり、
秩序ある世界の正しい姿として「正義」でもあると考えられたということです。
そして、最後に、
「10」こそは、
ピタゴラス学派の数理思想のシンボルである、
テトラクテュス(四数体、10個の点のピラミッド型の配置)の全体であり、
その完成形を表す数なので、
「10」は、
ピタゴラス学派の神秘思想全体を象徴する、
祈りの対象ともなっていた神聖数であり、
それは、
全宇宙を構成する根本原理であるという意味で、
宇宙そのものでもあると考えられていたのです。”
1300年から1700年までの現在のドイツにあたる地域にあった1300近い町村を対象にした統計分析の結果、
宗教改革以後、
カトリック地域と比較してプロテスタント地域ではポグロム(ユダヤ人迫害)がより多く発生していたことが明らかになったのだ。 (6/18)
さらに、プロテスタント地域の中でも、宗教改革以前に
(1)貿易を主な生業としていた地域
(2)ユダヤ人が貸金業を行なっていた地域
で、宗教改革以後によりユダヤ人の迫害が起こっていたことがわかったのだ。 (7/18)
これは、
(1)貿易を行なっていた地域では金融への需要が大きいため、貸金業の利益もより大きかった
(2)ユダヤ人が元々貸金業を行なっていた地域では、ユダヤ人はプロテスタントの新規参入の障壁となっていた
から、ユダヤ人がより差別・排除された、と考えられるのだ。 (8/18)
先述のものと同様のデータを使った分析の結果、
カルヴァン派地域もルター派地域もカトリック地域よりユダヤ人迫害が多かったことがわかったのだ。さらに、統計的に有意とまでは行かなかったけど、カルヴァン派の方がルター派より迫害が多かった傾向にあったのだ。
(11/18)
統計的に有意ではないとは言え、
カルヴァン派の方がユダヤ人の迫害が多い傾向にあったという結果は、
この研究が想定しているロジック(=金融業に従事する人が増えることで対立が生じる)が正しいことを示唆しているのだ。
(12/18)
でも活版印刷とその製品としての出版物によって広まったのは、プロテスタントの考えだけではないのだ。この研究では商業をするために必須の知識が満載の本、つまり当時のいわば「ビジネス書」の出版にも注目しているのだ。 (3/26)
6月19日
じゃあ新規参入が起こりやすいタイミングはいつかを考えると、自然に出てくる答えは「今いる印刷業者が死ねばいい」ということなのだ。そこでこの研究では、1517年以前(宗教改革以前)の各都市の印刷業者のリストと、彼らが「いつ死んだか」をデータ化したのだ。
(12/26)
St. Ives
@StIves68401858
6月19日
返信先: @bot99795157さん
ゲッベルスに先立つこと400年。メランヒトン(ルターの参謀ね)のメディア戦略が浮き彫りにされるのか読むのが楽しみだ。
統計分析の結果、宗教改革以後、プロテスタント地域では反ユダヤ本が出版される数がカトリック地域よりも4倍も多かったことが明らかになったのだ。当時の書籍はエリートの為のものとはいえ、論壇的な所でもユダヤ人差別が増加していたことが示唆されているのだ。
(15/18)
これまで紹介してにたユダヤ人差別の原因が政治的・文化的なものだったとするなら、この研究は差別の経済的な原因に迫ったものと言えるのだ。より一般的には、職業選択や労働市場、経済構造の変化が民族(宗教)間関係に与える影響を明らかにしたものとも考えられるのだ。
(16/18)
(床がメイソン模様)
IVによる分析の結果、1932年11月の選挙ではカトリックはプロテスタントと比較して約25%ナチスに投票する確率が低かったことが明らかになったのだ。この効果は今まで紹介してきたどの要因(例えば社会関係資本とか)よりも実質的に大きい、まさに最大の決定要因だったのだ。 (14/20)
5月27日
ここから示唆されるのは、地域の宗教的エリート(神父)による教区の教徒の動員なのだ。中央の教会がいくらナチスを非難しようと、地元の神父がナチ・シンパだったらあまり意味はなかったのだ。
カトリックの宗教教義というより、彼らエリートがもつ動員力が重要な要素だったと考えられるのだ。
(18/20)
(しかしカトリックにもナチに協力する勢力がいたのは事実。
)
ぐだトマト
@pteras14
長いのでRT途中省略。
ぐだトマトさんファン達の興味を
引く話題だと思う。
歴戦のぐだトマトさんファン達は
もう既に知っている内容だとは
思うけど^^;
“オーム”の真実(Yogasūtra1.27)
http://www.mahayogi.org/tokyo/yoga/ys1-27/
”スートラ(経文)本文では、「それを言い表したのが振動音響」としか書いてありません。
「振動音響」の元の言葉は “プラナヴァ” で、低周波で響く振動音のことです。
人間や動物でいえば「うなり声」のこと。動物(特に牛)のうなり声や、
ハチのブーンという羽音や、現代でいえば冷蔵庫のモーター音など、
「うなる」と表現できる音は、もともとの意味でのプラナヴァ音に入ってくるかと思います。
それを伝統的には聖音オームといいます。いまだに忘れ難い「オウム真理教」の事件。彼らが団体名に使っていた「オウム」も、この聖音オームのことをいっています。インド人やインドに詳しい人にしてみれば、彼らが伝統の聖音を利用したことは一目瞭然なのですが(例えば「アーメン真理教」みたいなもの)、一般の人にしてみれば、そんなことは知らないので、「オウム」(あるいは「オーム」)という言葉すなわち「危険なもの」という結びつきができてしまったと思います。
これはある意味、仕方がないことだと思います。実際、彼らはとてつもなく危険な思想の持ち主だったわけですから。日本ではお寺を表す記号として普通に使われている卍(まんじ)が、ドイツでは危険な独裁者を表すシンボルで、表に出すことも許されないのと同じことが起こったと思います。
しかし、そういう経緯は現代の日本だけの話です。それとは別に、
低い振動音の響きがなぜ至高の存在を表す聖音と見なされるのか。『ヨーガ・スートラ』の注釈書はそのことを論じています。
言葉というのは記号です。ある動物を「犬」と呼ぶか「ドッグ」と呼ぶか、それぞれの文化の中で決まったことで、別に必然性はありません。「あの動物を表現するとしたら “ドッグ” という音しか絶対ありえないよね〜」ということはありません。言語によって名称は違います。
でもよく考えてみると、そうではない言語文化を超えた必然的な音もあります。例えば否定を表す言葉です。日本語では「ない」、英語では「not」、サンスクリットでは「na」。他の言語でも、否定を表す言葉は、基本的にna, no, ma, muといった鼻音で表されます。おそらくそれは人間共通の感覚で、否定する気持ちと鼻音は必然的な結びつきをもっているようです。
そういう意味で、至高の存在と聖音オームの振動音は必然的結びつきをもっていると、『ヨーガ・スートラ』の注釈書は言います。つまり、「至高の存在を表すならオームって音しかないよね!」ということです。正確にいうと、最後の音は口を閉じるだけなので、「オーン」という音になります。うーん 😥 そうかな?って感じですよね。これについて、実は僕には子供の頃の経験があります。
小学生から中学生くらいの時だったと思いますが、僕は一人の時に、口を閉じた状態で「ンーー」という音を出して、のどの下のあたりを震わせることをする習慣がありました。そうすると、すごく気持ちが落ち着いてきて、感覚が澄み渡るように繊細になったからです。いつの頃からか、誰に教えられたのでもなく、自然にそういうことをしていました。今にして考えてみると、いわゆるマントラ・ヨーガ(マントラ・真言を唱えることで、心を落ち着かせ集中させる方法)をしていたのだと思います。
実はこの方法、ヨーガの瞑想法や呼吸法、アーサナ(ポーズ)が編み出される前は、唯一の瞑想法だったようです。世界最古の哲学書といわれる「ウパニシャッド」には、大宇宙の本質(ブラフマン・梵)と個人の本質(アートマン・我)が、実は同じ一つのものであること(梵我一如)を体認するための手段として、「オーン」と唱える瞑想が教えられています。
その具体的な効果として僕が経験したところでは、心の散漫さがなくなり、感覚の繊細さが生じてきて、自然に集中状態に入りやすくなるということがあります。今ではヨーガのアーサナや呼吸法など、他にもっと効果の高い方法がありますが、本当に古い時代にはそれくらいしかなかったようです。その「オーン」の音の中で、世界と自分のなかに潜む、微妙な本質を直観していく方法を取っていました。
また逆に、深い瞑想状態に入ると、そんな知識がまったくない人でも、胸や頭の中心で、ハチの羽音かモーター音のようなものが鳴っているのを経験することがあります。瞑想方法ではなく瞑想の結果として経験するわけです。
僕個人的には、自分の体の中ではなく、空間すべてでその微妙な音が鳴っているのを経験したことがあります。もしかしたら、そういう前知識があるものだから、冷蔵庫か電器か何かの音を「神秘音だ!」と勘違いしてるのではないかと思って、家の外に出てみましたが、やっぱりどこでも鳴っていました。それで、「あ、オームってこれのことなんだな」と思って家に帰りました。
そのような感じで、生き物や世界の本質である至高の存在を表す音は「オーン」しかないと体験的に分かってきます。それは他のどんな名称・記号でもいいというものではありません。そうしたヨーガ行者たちの体験と直観にもとづいて、この今回のスートラも説かれていると思います。”
コトバの前は唸り!唸りのパワーは凄い!
https://yanagihara.exblog.jp/12362238/
”△ 神事の中に降神の儀というものがあり神主が「オ~オ~オ~オー」と大きな唸り声をあげて、天から神を降りてくるように誘促し、神を祭壇中央の榊にお迎えする儀がある。また最後には昇神の儀があって初めと同じように、神主の「オ~オ~オ~オー」という唸り声と共に神を天にお見送りする儀で終了する。
宮司が唸り声を上げるとき側で聴いているとその迫力に圧倒される。いつもの穏やかな宮司がまるで神がかりになっているのが分かる。 なぜあのような唸り声を出さねばならないのかいつも不思議に思うのだが、厳かに神を呼び出し、祈祷の力を見せ付けるひとつのデモストレーションなのだろう。
眠っておられる神様を起こすのに大声をあげるのか、または神様の耳が少し遠いのかとにかく「オ~オ~オ~オー」は何度聴いても驚かされる。
吼える犬は弱いが唸る犬は気をつけろよとく言われる。そのとおりで強い犬はむやみに吼えずにいきなり噛み付く。
人間も同じで、口を開いていつも大声を出しているタイプはたいしたことがないが、口を閉じたまま身体を震わしながら搾り出すように唸り声をだすヤクザの親分の「テメェ死にたいか!」の一言は凄みがある。
赤ちゃんも言葉を覚えるまでは気に入らなければ泣くか唸り声を上げる。 はるか昔、この地上に人類の祖先が現れ生活する中で、コトバが使われるまでの間おそらく人間は唸り続け、その唸り方、表現の仕方の違いが少しずつ言葉になったに違いない。
お経を上げるのもその一つ、教会での賛美歌もその一つ、唱する、唱えるということは要するに唸るということになる。
野性的な唸りか、文化的、芸術的唸りかの違いだけだ。それによって心を浄化したり、
感情を高揚させたり 意思表示の大衆デモで声を合わせてシュプレヒコールをしたりする。サッカー試合場の狂喜じみた大声援の迫力も凄い。 気力を高める。気力をアピールする。威圧して見せ付けるために使われている。
いつもお経を唱えているとその念力が強くなるのもこの唸りの効果らしい。
オーム真理教がクローズアップされたために封印・封殺されたコトバがある。それは「オーム」という素晴らしいサンスクリット語のマントラ(真言)だ。
「ナム・アミ・ダブツ」も「ナム・ミョウ・ホーレン・ゲキョウ」も
大日如来を讃える「オン・・バザラダトバン」も釈迦如来を讃える「ノウマク・サマンダ・ボダナン・バク」もみんな唸るマントラ(真言)なのだ。
その母音のア、イ、ウ、エ、オーの音魂が七つのチャクラを刺激して潜在能力を高めることが分かっている。チベットの倍音声明では「ンー・イ・エ・ア・オ・ウ・ム」と発生して七つのチャクラに対応させている。”
マヌ法典 渡瀬信之 翻訳 - うちこのヨガ日記
https://uchikoyoga.hatenablog.com/entry/20141120/p1
マヌ法典 「家長の生き方」抜粋~
https://blogs.yahoo.co.jp/advaita_com/32611149.html
マヌ法典 ― ヒンドゥー教世界の原型 渡瀬信之 著 - うちこのヨガ日記
https://uchikoyoga.hatenablog.com/entries/2014/06/07
バガヴァッド・ギーター 鎧淳 訳 - うちこのヨガ日記
https://uchikoyoga.hatenablog.com/entry/20140530/p1
(更新)バガヴァッドギーターの翻訳を比較してみました
https://ameblo.jp/prthivii/entry-12161824253.html
『バガヴァッド・ギーター』 鎧淳訳(中公文庫、1998年/講談社学術文庫、2008年)
http://itifusa.hatenablog.com/entry/2015/11/16/003127
お読みくださり感謝!
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