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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

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【高句麗と土師氏編】オススメ紹介①芥川の『桃太郎』『らき☆すた』『バキ』『呪術廻戦』。Twitterの右向き青鳥の元ネタはフランス神智学協会幹部のメーテルリンク? 

推薦文感謝!







今回は短め
目次
・大前提
・アンチ鬼である桃太郎と、高句麗
・らき☆すたと土師氏
・バキと鬼崇拝と野見宿禰(相撲の起源。土師氏)
・呪術廻戦の最強キャラが菅原道真の子孫(土師氏)
・新羅について(新羅三郎、円珍、醍醐、空海など)
・参考資料

やたら有名な創作物で
桓武・百済・大内・多々良・
長門・出雲・菅原氏・
野見宿禰・土師氏・毛利・
源氏・八幡・
醍醐・後醍醐・真言・立川・南朝
あたりが優遇されているものが多い理由がある程度わかるのが本記事。
例えば、名探偵コナンのヒロインが毛利

真言立川は前↓に詳説した。







上記+オススメ紹介+短め考察。

2017年度のオススメはこちら。.2018年度はない。
お勧め小説、漫画、アニメ、受験参考書(読み物用)とノンフィクションなど。
『ドグラ・マグラ』『サザエさん』
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-186.html
と被っていることあり。
つまり、前にオススメしたものは省いている場合があるし
省いてない場合もあるので注意




大前提

ゲーム漫画アニメは元ネタの分かりにくい思想を
非常にわかりやすく学べる内容になっていて感心することがあるが
高確率で非常に結社臭い。
子供を洗脳するには子供にも理解できるようにしないといけないからね。
良い印象を与えたい要素に良い印象を、
悪い印象を与えたい要素に悪い印象を与えるように
上手いこと作られている。


ぐだトマト
‏ @pteras14
2017年3月7日
リギョール神父は子供じゃないと
洗脳が効きにくいから児童に関する
ギョーカイを真っ先に押さえるのは鉄板だって言ってたよ!



児童向けの青い鳥文庫。
Twitterの象徴は右向きの青い鳥。
右目で青なら大枠では新ヤソで
小枠では英米優位のFG●系。
フランス(右目傾向)の神智学幹部のメーテルリンクの青い鳥が元ネタ?


Maurice Maeterlinck - Theosophy Wiki
https://theosophy.wiki/en/Maurice_Maeterlinck
"He was awarded the Nobel Prize in Literature in 1911.
His plays form an important part of the Symbolist art movement, which was influenced by Theosophy."

小森健太朗@相撲ミステリの人@komorikentarou
2018年8月12日
1920年代くらいまでのノーベル文学賞の受賞者が、かなり神智学関係の作家が多いのは、
ネットワークがあったんだろうな。メーテルリンクはフランスの神智学会幹部だし、
バーナード・ショーは神智学協会長アニー・ベサントと恋人関係にあった時期は神智学協会員だし、
インドのタゴールはイェイツ推薦だし


2018年8月12日
メーテルリンクの著書は大体英語に訳されているから、まあまあ読めるな。
本当はフランス語ですらすらと読みこなせたらもっとよいのだが、まあ英訳で読むのでよいじゃろ。

2018年8月12日
モーリス・メーテルリンクは、フランスの神智学運動の文学者での中心人物だが、「世界の大霊(英訳題:Great Secret)」では、ブラヴァツキーによる霊の導きのテーマを象徴として自分の文学作品に盛り込んでいるとしている。有名な童話「青い鳥」が、まさに神智学メタファーの童話であるのがわかりますね

2018年3月14日
「仏文学の地下水脈」だと、フランス神智学協会の指導者だったメーテルリンクの「世界の大霊」とか神智学書の紹介やって、「青い鳥」が実はブラヴァツキー夫人由来の神智学メタファーで書かれている話とかもできるな。
ただ、難点は、英訳で読んでいてはフランス文学の研究書にならないことだ。

2016年4月20日
メーテルリンクの神智学関連の著作、邦訳あるんかなと調べてみたら、
「死後の存続」(めるくまーる)と、大正時代刊行「生と死」、1954年刊「理智と運命」の3冊が見つかった。

2016年3月5日
というわけで昨日はメーテルリンク「グレート・シークレット」英語販を読んだがなかなか面白い。アカシックレコードの源流となるアーカーシャの話も出てくる。この本の「インド」章でインドの思想を色々語り(生半可だが)「エジプト」章で死者の書、「ギリシア」章で前ソクラテス思想を論じている。

2016年3月5日
鴎外「青年」で、平凡な日常の背後にある象徴的意義を体験するのは、ニーチェ以降ジンメルを除けばマエテルリンクしかあるまいと書かれている。童話作家としてのメーテルリンクでなく、神智学徒として論じている感じがある。

2016年3月5日
森鴎外と神智学を繋ぐラインとしては、
「青い鳥」の作者メーテルリンクとの関わりもあるかも。
神智学協会員メーテルリンクの書いた「グレート・シークレット」は「シークレット・ドクトリン」の大衆向け概説書で、偉大な宗教思想、オカルティズムの粋はブラヴァツキーとシュタイナーにあるとしている。






創作物における陰謀論的考察(裏読み)
=創作物(小説、音楽、アニメ、漫画、映画、ゲームなど)とその作者(ら)に
 強い影響を与えている思想や象徴等の偏りの主な原因が
 特定の思想や象徴等を共有する結社(秘密とは限らない)の共同謀議や
 その人脈等の関与、
 結社同士の派閥争い等だと仮定する、
 主に不可視な部分に働く力学の考察
と定義する。


思想と人脈も併せて考えると
結社系宣伝作品。
あらかじめフィクションとしてばらまくことで
潜在意識(物事の真偽や善悪判断ができない)に受け入れ態勢を作る。
そして、実行中のときにそれを警告する人がいても
「それはフィクション=現実ではありえない」と大半の人に思わせることができる。
物語の力が絶大なのは潜在意識に作用するから。
論説文では威力が低い。
宗教の教典が物語形式である理由。
対話形式の哲学書も生き残りやすい。





思想的偏りとは以下の分野に偏っていることが多いという意味↓



あと、カバラといえば生命の木が有名だけれど、
あれって別にカバラに限らないものだ、と最近どこかで見た。
ソース覚えてないのが惜しい。
どこで見たんだっけなー?



西暦を足して行くならユダヤ・カバラではなく
それを下敷きにネオプラトニズムと融合させたパウロ教謹製のクリスチャン・カバラでしょうね。
旧約はユダヤ教の聖典でキリストは出てこないけど、
パウロ教の二次創作、スピンオフの後付け設定で屁理屈捏ねれば問題無いのです。
カバラ自体根拠不明だし

ちなみに生命の木も後付け設定で西洋で創作されたという。
カバラという呼称も後から付けられたもの。
古代から生命の木の概念があるとか、西暦、新約ベースで古代ユダヤの秘教とかもうね。
権威付けの為に本場とか元祖と名乗るみたいだ。

クリスチャン・カバラは何かと便利だけどね。
それを下敷きに確信を持って陰謀論を語る連中は大体お里が知れるというか、
信仰隠して布教すんなよと。
スピ被れでニューエイジ、魚(キリスト)座の次の水瓶座の時代とか言っても
キリストが中心軸にあるよねなんてさらっとネタに出来ないくらいのも居るか。

ニューエイジは終末論とグノーシス、薔薇十字、
輪廻転生やインド哲学等の東洋思想のちゃんぽんで
ブラバッキーの神智学教会の系列。
日本のアニメにありがち。
それに染まらないとヒット出来んのかねェ(笑)

その手の創作物がばかり見て創る側に育つから自然と影響受けてそうなるってのもあるだろうな。
創作物を使って宗教と思わせず教化。なんだ、いつものパターンか。

創作物が何の宗教思想の影響を受けているか考えず無防備に受け入れて感化されると、
その影響下に置かれる。
どこぞの新興宗教の教祖が仏陀の生まれ変わりだなんてアニメを見ても大抵は真に受けないが、
わかりにくくしてあるとそうはいかない。
思想や価値観だけを植え付けるのが目的なら余計にね。

モチーフが無いと創作物は作りにくいから、
経典や神話から取ってくるなんてのはありがちだから、
必ずしもその創作物の創作者がそれに染まっているという訳でも無いんだけどね。
毎回根底に似たような思想が入るようなら疑った方がよいだろう。










まとまった文献はあまり読んで無いですね。
文献読んでいて興味持った所をメモっておいて片っ端から摘まみ食いで自分は広く浅く感じです。
知識積載量は数こなせば何とかなるけど、
ユダヤ(旧約ベース)・カバラで西暦(キリスト、新約)がおかしいと疑問を抱くセンスが一番大事ですよ。



薔薇十字関連はルネッサンス頃に創作された魔術を掘り進めていると自然と関連文献にぶつかりますよ。



アニメは寓話だけでなく、
文盲相手に教会の権威や思想を伝える為に活用された宗教画や宗教建築関連の影響も大きいでしょうね。
象徴的な宗教画や宗教の影響を受けたモチーフの模写なんてのもありがち。
近代広告、プロパガンダの手法もパウロ教が布教の為に活用していましたし。

矛盾や違和感にピンと来ないなら、
どれだけ書籍を大量に丸暗記しても活用できない。
懐疑したり自分で問いを立てたり課題を設けたりできなければ、
ただ記憶しているだけで生きた知識じゃない。

ただ知っているだけの知識は智恵にはならない。
知っているだけで智恵になるなら、ネットを活動すれば誰でもそれなりになれる筈だけど、
そうはなっていないだろう?
懐疑したり推理したり比較検証したりする能力は知識積載量と比例しない。
手札が多いに越したことはないけどね。

知識は道具箱に入った道具。道具がどれだけあっても、
それを使う技術や知識、目的が無ければただ沢山道具を持っているだけで何かに活用される事はない。
知識をコレクションするのもまた良い趣味だとは思うけどね。趣味に実用性を求めたりなんかしない。


うさぎもち@usagi_mochi22
これは世界史の復習してて本当に感じます。
昔はただ受験のためでしたから。
でも史学科も一応候補には入れてたので、興味はあったのです。ただ受験で出るところをやらないと、受からないから。
私は学校でやる表面の知識ではなく、より深い真実を知りたい、とずっと思ってきました。

そうなんですか。
お褒めの言葉ありがとうございます(←かなり喜んでる)
私も今日「広く浅く色んな知識をまずは仕入れよう」と思いました。
そうしたら色々繋がって、きっと色々結びついたり役立ったりするだろう、と。
ちゃんとと思うと敷居が上がるし、しんどくなるし、やらなくなるし。





何も無い@ficshion1
表向きはそうとは分からないようなものに宗教的価値観を埋め込むのにアニメや漫画は最適です。
見た目には創作作品なので、実際には事実を語っているようには見えず、
何かしらの思想を宣伝するのには最適です。

子子子子子さんも言っていたように、
アニメや漫画はネタ元などの何かしらの思想や価値観を見抜く上では最適な材料になります。
物事の考えを鍛えられる点で、
ネット上などメディアで騒がれているような識者(という名の宣教師)の喋りや論を
聴いたり見たりするよりも遥かに有用です。






アンチ鬼である桃太郎と、高句麗
芥川の桃太郎
『河童』(生命の木が登場)と芥川の大本人脈についてはこちら




桃太郎は善良な鬼を桃太郎軍が蹂躙しまくる話で
「鬼=善」という鬼崇拝教が喜ぶ話。
桃太郎は1887年(明治20年)に政府公認で教科書に採用された。
桃太郎の源流が高句麗の朱蒙が卵から生まれた神話だろうから
それを採用した明治政府も渡来人系人脈が強いのだろう。
高句麗は北朝系だから北朝系への配慮でもある。
南朝優遇の明治政府による
北朝も多少は優遇してますよアピール。

高句麗建国者が
太陽光の息子で
母が川の神の娘で
処女懐胎で誕生したという
太陽崇拝+キリスト属性
があるのも採用理由だろう。


政府は国家神道側。
鬼崇拝はアンチ国家神道側。
どちらも和風キリスト教、両建て、双頭の鷲(胴体は同じ)。

「金光教と大本教が崇めている艮の金神=鬼は岡山の温羅(うら)であり
別名「丑寅(うしとら)みさき」!
しかも左目を射抜かれたから右目のみの片目(製鉄民)!
しかも百済の王子!桃太郎の敵!」

超短いしオススメ
芥川は短い話ばかりなのが有り難い。

名前に龍があるのも尻が好む。
桃尻だったかは不明。

桃太郎
芥川龍之介
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/100_15253.html
”一万年に一度結んだ実は一千年の間は地へ落ちない。
しかしある寂しい朝、運命は一羽の八咫鴉になり、
さっとその枝へおろして来た。と思うともう赤みのさした、
小さい実を一つ啄み落した。実は雲霧の立ち昇る中に遥か下の谷川へ落ちた。

犬はしばらく強情に、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回しない。こうなればあらゆる商売のように、所詮持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。犬もとうとう嘆息しながら、黍団子を半分貰う代りに、桃太郎の伴をすることになった。

地震学などにも通じた雉は頭の鈍い犬を莫迦にする。

雉は犬をなだめながら猿に主従の道徳を教え、桃太郎の命に従えと云った。

酒顛童子も大江山の岩屋に酒ばかり飲んでいたのは確かである。その女人を奪って行ったというのは――真偽はしばらく問わないにもしろ、女人自身のいう所に過ぎない。女人自身のいう所をことごとく真実と認めるのは、――わたしはこの二十年来、こういう疑問を抱いている。あの頼光や四天王はいずれも多少気違いじみた女性崇拝家ではなかったであろうか?

桃太郎は桃の旗を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、
犬猿雉の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好い家来ではなかったかも知れない。
が、饑えた動物ほど、忠勇無双の兵卒の資格を具えているものはないはずである。

鬼の子供は一人前になると番人の雉を噛み殺した上、たちまち鬼が島へ逐電した。
のみならず鬼が島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の屋形へ火をつけたり、桃太郎の寝首をかこうとした。何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂である。

 その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ほどの目の玉を赫かせながら。……

あの大きい八咫鴉は今度はいつこの木の梢へもう一度姿を露わすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。……
(大正十三年六月)

初出:「サンデー毎日 夏期特別号」
   1924(大正13)年7月”

気になる記述だなあ。
地震学者を従える桃太郎=侵略者。
わざわざ地震学者というあまり使わない単語を選択。
鬼への攻撃に人工地震を起こしたという記述はない。
キジは人工地震技術者?

千年ごとに天才(ヤマトにとっては救世主)が現れるのは
ゾロアスター教の救世主が千年ごとに来ることが元ネタ?
当時の文豪の情報網をナメてはいけない。


桃太郎の話の元ネタ候補↓

高句麗の始祖「朱蒙」の物語
http://tommy1949.world.coocan.jp/Koguryo.htm
”紀元前1世紀ごろから、朝鮮半島(韓半島)は高句麗、百済、新羅の古代国家からなる三国時代を迎えます。 中でも、高句麗は遼東半島や満州など現在の中国の領土にも及ぶ広大で強力な古代国家を建設し、
歴代の中国政権に対して命運を分ける程の影響力を与えましたが、668年、中国の唐と連合した新羅によって滅亡しました。
 唐と連合し結局、韓国朝鮮民族の領土を狭めてしまった新羅に比べ、
 今でも高句麗は韓国朝鮮の人々の憧憬の的であり、「ああ、高句麗」と溜息をつかせます。後には遼東半島、満州まで領土とした広開土王(在位391-412)を輩出し、早くも
4世紀には仏教を受容するなどその活力と前衛性は目をみはるものがあります。 また、高句麗の文化は日本に対しても大きな影響を与えました。

紀元前37年、
その高句麗を建国したとする人が「朱蒙=チュモン」であり、
王名を「東明王」といいます。
神話では東扶餘の地で、
水神・河伯(ハベク)の娘「柳花(ユファ)」は天から降りた強い光によって身籠もり、
不思議なことに大きな卵を産む。
卵がかえり、
男の子が産まれ、武芸に優れた凛々しい若者に成長する。
この若者が後の高朱蒙(東明王)となります。”

まんまじゃねーか!

元ネタを考えると
桃太郎=渡来系侵略者
鬼が島=日本列島
と解釈できる。
桃太郎を採用した明治政府は桃太郎側。

もぐらさんが何度も指摘している通り、
厩戸皇子の仏教の師が慧慈という、
飛鳥時代(推古3(595)年)に高句麗から渡来した坊さん。
影響力が大きいのは当然。

村手 さとし
‏ @mkmogura
2011年10月28日
東国=北朝=高句麗・・・
西国=南朝=百済=田布施町

2012年9月17日
返信先: @yukiko_gnnさん
@yukiko_kajikawa 批判するのはいい。しかし、馬鹿にするのは見てて気分が悪い。
聖徳太子系の技術者が、高句麗系のこと。
そもそも日本は寺と神社がタブーになってること。
自分のブログの読者なら、ちゃんと読んで気がつけよ、と。そして、批判は自分自身にも同じく向けるものだ。

2012年11月18日
返信先: @saatennkixyuさん
@saatennkixyu @noranekonote @obaqtaro_going そのうち、有料化してブログ書くのでよろしく。神道のことといい、自分しか到達できないことをやるので、楽しみにしてて。
ちなみに白村江以降、日本の支配に深く関わったのは新羅ではなく高句麗です。えじ!






日本が右翼化したことで、本来、高句麗、百済の勢力内のセンター試験で、
新羅、秦〔これもそっち、景教=キリスト教〕が出てきたと。

ちと、危険信号。












朝鮮の歴史書(三国遺事)では、
百済は高句麗の王族が朝鮮半島に南下して建国したことが取り上げられています。
そう考えると、百済は高句麗と同じ満州に起源を持つことになります。
百済や高句麗と何かしらの関係があった日本がなぜ満州を意識していたのか、
見えてくるものはあるでしょう。

ar☺︎ma
‏ @aromafloat
2019年10月6日
高句麗は日本に渡来して日本人になっています。
大磯は高麗山がありますし、高麗という地名もあり、家康が手厚く保護していたそうです。
大磯といえば吉田茂です…

2019年10月7日
高句麗に関しては…
3~7世紀、ツングース系の民族が満州から北朝鮮にかけて建国した国家。
4世紀末~5世紀の広開土王・長寿王の時代に最盛期となった。
その後日本へ渡来した人たちがいるんだと思います。
朝鮮半島から日本人の領土も危うくなり帰る頃…




この百済の人々には全て僧も俗人も、3年間全員に官の食糧が支給された。
天智天皇10年春、亡命してきた渡来人の多くに朝廷は爵位を授与した。
ここでは一人一人名前を上げてそれぞれに
(兵法に精通)(薬学に精通)(五経に明るい)(陰陽に優れる)とか注釈を付けている。

そんだけ亡命してきた渡来人を厚く遇して朝廷の為に働き、やがて日本人に同化していった。
こういう歴史があって今の我が国はあるんで
今上が朝鮮渡来人由来の神社に行くとか当たり前なの。
キーキーわめく奴は歴史知らんだけなの。そいつらの中にも俺の中にも半島のDeNA入ってるよ、多分。

DeNAは入ってないです
なぜツイートしてから誤字に気づくのか


幣束
@goshuinchou
女神転生シリーズでアラハバキが遮光器土偶の姿をしているのは驚くべき東北の特異な歴史が筆ペン等で書かれた偽書「東日流外三郡誌」にそう書いてあるのをゲームが採用したからで遮光器土偶とアラハバキは全く関係ありません。




















https://twitter.com/tarareba722/status/398638477022994432

レテプレッソホール.pdf
‏ @many_winged
9月16日
あと同時期に芥川龍之介の桃太郎も読んだけどド畜生極まっててゲラゲラ笑った
芥川龍之介の桃太郎、ド畜生クソ野郎外道レジライ集団が見たい人は読んで損は無い

齋藤 長四郎
‏ @choshiro2
1月10日
朱蒙に従ったのは、鳥(烏)伊・摩離・陝父の三人で、
出雲神話ではありませんが「桃太郎」の話みたいです。
途中の川では魚や鼈が橋を作りますが、これは因幡の白兎の伝説みたいです。

たっちゃん@古代史研究
‏ @t7a7t0o1
2012年4月12日
扶余の朱蒙と桃太郎は似てる。河の神の娘の卵から生まれ、
麻衣・納衣・水藻衣の3人と出会い、敵の追尾から逃れて高句麗建国した朱蒙。川から流れてきた桃から生まれ、犬・猿・雉の3匹と出会い鬼退治した桃太郎。扶余神話が王族の移住と共に倭に伝わり、卵が桃、3人が3匹、追手が鬼に変わったかも。






竹熊健太郎《地球人》
@kentaro666
2013年1月6日
大本教と出口王仁三郎がやろうとしたことは国家神道の否定と作り直しだから、
そりゃ政府が半狂乱になって弾圧したのも無理はないよね。
革命思想はマルクス主義の専売特許ではないということだ。…と思ったら次回は北一輝ですか。どうなってるんだEテレ。

kaz.h@kazh9
2013年1月6日
返信先: @kentaro666さん
@kentaro666 今晩は。どうなってるんでしょう。
危機一髪だった通遼事件はさらっと流してましたが、
大本の闇の部分には黒龍会や関東軍などがぞろぞろ繋がっていますね。
第二次大本事件以前の映像はもろ、ファシスト団体で(王仁三郎が軍服を着てる!)びっくりしました。

竹熊健太郎《地球人》
‏ @kentaro666
2013年1月6日
@kazh9 もし大本教が弾圧を回避して勢力を拡大していたら、
日本のナチスになっていて、王仁三郎は日本のヒトラーになったかもしれないですね。

何も無い@ficshion1
2017年9月29日
ちなみに渤海は高句麗の遺民が靺鞨人(主に中国の東北地方や沿海州方面に住んでいました)と連携して成立しています。
その点で渤海は高句麗と何かしらの関係はあると思います。

2017年9月29日
そういえば高句麗崩壊後に成立した渤海も満州にも勢力を及ぼしていて、
日本とも使節を派遣するぐらいには交流していましたね。
満州人脈との関係はそこにもあるのかもしれません。

2017年9月29日
満州に相当する地域はかつて高句麗が支配していた時期があります。
満州人脈がいることが語られるぐらいですので、
一部の層が高句麗関連と何らかの関係があるのではないかと気になっています
(一応日本国内には高句麗様式の影響を受けているとされる高松塚古墳もあります)。





らき☆すたと土師氏

らき☆すたはそんなに面白くなかったが検索用にタイトルに入れた。

土師氏【はじうじ】
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E5%B8%AB%E6%B0%8F-787168
”古代の豪族。埴輪(はにわ)の製作,陵墓(りょうぼ)の造営,大王(おおきみ)の葬送儀礼などに関与した。
その名はハニ(土器などを製作する粘土)に由来し,
ハニで作られるのが埴輪や土師器(はじき),
その工人をハニシという。土師氏の居住地と陵墓の分布はかなりの対応をなしているが,
元来は居住地に住む住人相互の間には血縁関係はなかったようで,
のち土師連(むらじ)の支配下に入って,同一氏族であるかのような主張をしたとみられる。
奈良後期から末期にかけて,居住地を本拠として菅原氏・秋篠氏・大枝(おおえ)氏(大江氏)となった。
→関連項目 高野新笠


土師部の伴造(とものみやつこ)氏族。姓(かばね)は連(むらじ)。土部連にもつくる。
684年(天武天皇13)12月宿禰(すくね)賜姓。
王族・高官の陵墓築造、葬礼執行を伝統的職掌としていたが、
大化の薄葬令(はくそうりょう)施行と7世紀末以来の火葬普及によって墓制や葬法が変化すると、職掌に打撃を受け勢力を失い、一般的な官人として活動する者も現れた。
桓武(かんむ)朝の781年(天応1)、782年(延暦1)、790年の3回にわたり改氏姓を請願し、菅原(すがわら)、秋篠(あきしの)、大枝(おおえ)の三氏(朝臣(あそみ))に分かれた。[前川明久]

【大江氏】より

…790年(延暦9),桓武天皇の外祖母の一族土師(はじ)氏に大枝朝臣の姓を賜ったのに始まる氏族。菅原氏と同祖である。…


高野新笠【たかののにいがさ】
https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E9%87%8E%E6%96%B0%E7%AC%A0-92693#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
”光仁天皇夫人(ぶにん),
桓武天皇の母。
父は百済(くだら)系氏族の和乙継(やまとのおとつぐ),
母は土師真妹(はじのまいも)。
もとは和新笠と称し白壁王(のちの光仁天皇)との間に山部王(のちの桓武天皇)・早良(さわら)王らをもうけた。
桓武天皇即位により皇太夫人となる。陵墓は大枝山(おおえさん)陵,皇太后(こうたいごう),太皇太后と追尊。→早良親王/土師氏”



”南朝の基礎
百済=桓武天皇=菅原氏=土師氏=醍醐寺=嵯峨天皇(大覚寺)
【虚空と君のあいだに http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/0/1120…】
▼源氏は八幡、大江、平家は伊勢、厳島神社などなどと関係
→だから「特別な存在」と捏造
▼百済文化が引き継がれてますよ、ということ”

菅原氏=(大相撲の祖として知られる)野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫
▼菅原氏から公家の五条家が出た
▼五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家に
▼末裔とされる有名人
▽菅原道真
▽平手政秀

▽前田利家

▽柳生宗厳

▽大隈重信
▽松平定知”

鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B2%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE
”…
別名を土師の宮(はにしのみや)とも言われ、
一説には崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏
下総国浅草から利根川を上って当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源ではないかと言われている[3]。
そして、「はにしのみや」がいつしか訛って、
現在の「わしのみや」になったとされる。
後述する神楽は、伝承に基づいて「土師」の名称を用いている。

江戸時代初期から明治時代初期まで、神社所領は大内氏が治めた

明治元年(1868年)、明治新政府により準勅祭社(東京十二社)の1社に指定…
明治初頭の寺院整理神社統合により、別当大乗院は廃止…
本神社をモデルとする神社が登場する漫画およびアニメとして『らき☆すた』がある。
本作を元に町おこしが行われている。”


大内氏(おおうちし)は、日本の氏族の一つ。
本姓は多々良氏。百済の聖王(聖明王)の第3王子の後裔と称していた。
周防国府の介を世襲した在庁官人から守護大名、そして戦国大名へと成長し、
周防・長門
石見、豊前、筑前各国の守護職に補任されたほか、
最盛期には中国地方と北九州の6か国を実効支配した。家紋は「大内菱」。”

百済・大内・多々良・長門・出雲・菅原氏・野見宿禰・土師氏
……相撲・らき☆すたが持ち上げられた理由ね。

コメントのお返事【20120428】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/04/28/1106
君が代は、紀貫之が醍醐天皇の命令により古今和歌集を編纂したことが起源である。
醍醐天皇ってだけで間違いはないが、
当時の右大臣、菅原道真=百済系唯一の出世頭を任命した。
つまり、
菅原=土師氏=百済系の桓武天皇の親戚。
醍醐寺=土師氏系の寺という系譜があるので、
紀貫之=百済系
と判断しても、間違いではない。

しかし、日本書紀の捏造された部分である朝鮮討伐やら神代記の頃の話に、この紀氏の話がよく出てくる。
簡単にいうと、「天皇の変わりに紀氏が、百済や新羅を攻めた」という話がね。
 
「応神3年 百済に辰斯王がついたが、
天皇に無礼だったため、百済の人々は自ら王を殺して謝罪した、
よって紀氏は別の王を任命して許してやった・・・・」
とかの、「どう考えても捏造」というストーリーがいくつかね。
もう少し紹介するか。
 
「雄略9年、紀氏は新羅を征服した」ぉぃ!!!

「顕宗3年、三韓の支配者として生磐宿禰は『神聖』という称号を自ら称した」
紀氏は・・・神聖ローマ皇帝ですか?
(明らかにキリスト流入後、江戸末期以降の捏造だよな、これ。)

 
これ日本書紀ね。
(捏造だらけ。これらは醍醐天皇の側近に都合のいい話なわけである。過去と捏造のツギハギ。
天皇すり替えに一言も言及できない学会の基礎であるこれらは、醍醐寺の館長の甥が編纂したんだから、よく考えりゃあたりまえである。
今の時代の話ね。)
 
 
ね、ばかばかしくて、古代史研究の人も「ここらへんは捏造である」とひらきなおってる話がいくつかある。
朝鮮半島の国々と戦争したという三韓討伐とかのところはとくにね。
その時に、よく紀氏が出てくるわけ。
 
 
吉田松陰含む、南朝族=百済でいいと思うよ。
よって醍醐系につながる紀氏=百済
も、それでいい

「アーリア人」=「アーリア=高貴な」、
「神=神秘的な力」。
弘法大使=偉いお坊さん。
 
芸がない。全部同じ手法。
すべて単なる形容詞。
 
白人の都合・・・有色人種が起源である人類史に
「白人という歴史がなかったために」、
インドという国にカレーの似合いそうな「アーリア人という白人がいる」と捏造した。
どんな白人だ???!!!”


“神道=キリスト教とかの話も、日本人ならびっくりだけど、
「外国資本にとっては、普通のこと」だと思うよ。
神と訳したのは聖書からだと知ってれば、むしろあたりまえと感じてること。”

“滅んだ源氏をもってこなきゃならなかったり、
今日、説明した滅亡してた真言宗もそうだし、
あと、たいてい流刑地でしょ、神社があるとこって。
仏教反対の物部氏もそういう流れだよね。
実は彼らの心のよりどころなんて全部、主流にはなれず、衰退したものばっかりなんだよね。”

(大内氏(おおうちし)の
本姓は多々良氏で、
百済の聖王
(聖明王)の第3王子の後裔を自称。
タタラ、百済。くだら、ペクチェ。

紀氏(きうじ)は
記紀などによれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角が始祖だから
土師氏の子孫。


応天門の変(貞観8年(866年)藤原氏による他氏排斥)で
紀 夏井(き の なつい)が配流されると一族は衰退し、
紀氏の政界における没落が決定的になる。

宇多天皇に重用された紀 長谷雄(き の はせお。
『竹取物語』の作者の候補者の一人。
宇多帝の次の主君が醍醐天皇)より後は、
政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくなり、

紀 淑望(き の よしもち。
紀長谷雄の長男。
和歌作品が『古今和歌集』(1首)以後の勅撰和歌集に3首採録されている。
主君は宇多天皇→醍醐天皇)、

紀 在昌(き の ありまさ。
文章博士=紀伝道の教官(令外官。漢文学及び中国正史などの歴史学を教授)。
主君は醍醐天皇→村上天皇。

や貫之・友則・時文などの文人・歌人を輩出するだけであり、
政治的に上昇できないなら芸術で頑張るしかないとわかる。
政争に敗れた勢力を慰めるために、
政争に勝った側が芸術では優遇することもあったのだろう。


紀氏の流れの末裔に、田長流の石清水八幡宮護国寺別当家(田中・善法寺家)がある。
紀氏は醍醐系や八幡と繋がっていて
藤原氏を恨んでいるはず。


八幡太郎と呼ばれる、
河内源氏の源義家に兵法を教えたとされるのが
大江匡房。

大江氏(おおえうじ)の起源は
桓武天皇(百済系)が即位10年となった延暦9年(791年)に、
縁戚関係にある土師 諸上(もろがみ)らに大枝の姓を与えたことで
土師 諸上(もろがみ)が大枝 諸上となったことから。

「桓武 土師」でツイッター検索したらRAPT儲が複数ヒット。
もぐら説を改悪し同祖論デマで聖書にこじつける、
お魚(キリスト教の象徴)天国=ラプト儲。
ラプチャー儲の文章のコピペ度がすごい。
もう少し個性を出さないとプロが
複数アカウント使っているとバレバレ。
生長の家批判と悪魔批判があったら超高確率でラプト。
アイコンと名前でクリスチャンだとバレバレ。
ラプト系だと感じたアカウントのプロフィールが高確率でラプト推し。
携挙(rapture)系=青い左目。

 




村手 さとし
‏ @mkmogura
返信先: @Show_BujuBantonさん、@kazakira5555さん
ん、読めないニックネームさんて、子子子子子さんなの?
あー、今書いててはじめてわかった。
大相撲とか、らき☆すたとか、たぶん正解だと思う。
俺の書いたこと、よく調べ直したね。
土師のこととかの血脈の部分、日本でわかってるのねここねこさんだけじゃない?

使い方わからん
‏ @Show_BujuBanton
子子子子子さんの固定ツイートにリンクがあるので間違いないと思います。

子子子子子さんだけでなく村手さんもお世辞などではなく本当に凄いと思います。

自分は紹介したものの難しすぎます。

村手 さとし
‏ @mkmogura
サンキュー。
逆に素朴な疑問とかでぶつけてくれた方が、答えやすい。
まあ、わからないことや気になったことがあるなら聞いてけれ。

使い方わからん
‏ @Show_BujuBanton
こちらこそありがとうございます。
何かあったら質問させてもらいます。




使い方わからん
‏ @Show_BujuBanton
返信先: @mkmoguraさん、@kazakira5555さん
量があるから書いていると疲れるでしょうね。文章にまとめるだけでも一苦労だと思います。自分に知識があっても到底出来ません。

タダで読めるだけでありがたいと思います。

村手 さとし
‏ @mkmogura
そういえば風の子さんとかいたなぁ。
俺のこと恨んでないかな。
はぁー
(ネオナチのbo信者になった人で
私を工作員認定した人ね。
あれだけ工作員の手口とか
宗教知識のツイートを読んだはずなのにアレかよと思った。




バキと鬼崇拝と野見宿禰(相撲の起源。土師氏)

昔のバキは面白かったなあ。
今は相撲編で宿禰を持ち上げているのだが
野見宿禰は日本書紀によれば
埴輪を考案した人物であり
この功績で皇族の葬儀を任され
土師氏(はじうじ)の祖となったとされる。
今の支配層が大変優遇している氏。
バキは鬼崇拝だし、出口鬼サブローも出たし意図的だろう。
竹内文書の竹内宿禰との掛詞かも。



コメント抜粋
(土師氏について)
”菅原道真、毛利元就、桂小五郎あたりが子孫で有名か”
(明治政府の重鎮は薩長だけでなく土師氏の子孫が多い疑惑)



呪術廻戦の最強キャラが菅原道真の子孫(土師氏)



(このアカウントのアイコンが校章で
目+卍+666+丸に十字!

最強キャラの苗字が五条。
菅原氏
=(大相撲の祖として知られる)野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫であり、
菅原氏から公家の五条家が出た。
五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家になった。

菅原薫宜は
後醍醐天皇の隠岐島脱出にも関与している。
土師氏系は後醍醐、南朝、真言立川側。

五条という苗字はテキトーに選んでないよ。
五条悟、公式設定でも菅原道真の子孫だからね。
しかも前日譚である『東京都立呪術高等専門学校』の主人公である乙骨も道真の子孫。
遠縁だが五条先生とは親戚。
意図的じゃねーか!

作者は土師氏優遇のことを知っているっぽい。

五条の術、道真っぽさが全然ない。
能力が数学系(無限とか級数とか)なのは数秘術との掛詞?
五条の技が赤、青、紫などであることから
両目系「日月」キャラだろうが
単行本表紙や、
71話「壊玉-漆-」で「蒼」(あお)の使用開始時、
74話「壊玉 -拾-」の(瀕死から復活してから)「よぉ 久しぶり」の場面で
左目出し、右目隠し。
「蒼」の読みがブルーだったら爆笑してたw


過去編で五条が
瀕死から復活して(死と再生の儀式)覚醒。
「天上天下唯我独尊」って言ってて、釈迦五条って読者に呼ばれている。
五条の名前は悟なので大乗の釈迦アピールなのだが、
どーせエセ仏教だから釈迦じゃなくSHAKAなんだろうけどな!
かなり仏教っぽさがする作品だが
いつも通り表面だけで、
仮に仏教でも異端かつ真言の立川寄り
+ニューエイジZENだろう。

そのうち醍醐とか
金剛とか
女性キャラと合体技「立川」とか
「空の海」とかいう技が出るんじゃない?
真言宗醍醐派総本山の醍醐寺は醍醐天皇(元の名は源維城)の祈願寺。
醍醐天皇の左右大臣が藤原時平・菅原道真。
醍醐、源氏、菅原、真言宗、金剛杵。

主人公は両面宿儺の指(特級呪物)を呑み込んだが
体に適合したので無事。
宿儺の意思を押さえ込むことの出来る「器」である主人公。
両面宿儺は仁徳天皇の時代に飛騨に現れたとされる鬼で
朝廷は建振熊命(たけふる くまの みこと)を派遣して退治させた。
鬼とは限らないって?
当時の朝廷に逆らう者=鬼 だから正しいよ。
現地では英雄だったのだろう。
岡山のウラと同じ。

あれ~土師氏と鬼系ってバキと同じだぞ~?

前述したが、らき☆すたで有名な
鷲宮神社は別名が
土師の宮(はにしのみや)とも言われ、
一説には崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が起源とされる。

ストーリーに全然関係ないのに土師氏要素が共通。
いや~なぜでしょうね~w

また、
盤星教という非常に気になる宗教が登場する。
非情に面白い設定なのだが
宗教についての深い理解と相当な学習が必要だと感じた。


崇拝対象が天元様。
天元様が進化し続けると
意思がない高次の存在になるのでそれを阻止するため、
適合者である少女(星漿体)と融合させて進化を阻止し
進化前にリセットしたい。
だから少女(星漿体)を護衛せよが五条(過去編なので先生ではなく生徒)らの任務。

この任務が成功(最高存在との合一)すると
進化阻止。
(霊性)進化と、最高存在との合一は
神智学系パチモンのグノーシスの特徴。

たしかに、
最高存在との合一が達成されると
進化は止まるな。
だって、最高まで達したんだから
進化=改善したくても言葉の定義上不可能だ。

本作では合一することで進化リセットだから
神智学系パチモンのグノーシス系の人が嫌がりそう。
合一しないほうがより進化できるって設定だからね。
進化するほど良いというのが否定されているのも嫌がられるな。
「進化=善、どんどん良くなる」(進歩思想)の否定。

結論を言ってしまうが、
途中で生贄の女の子が殺されて進化阻止に失敗したから
進化が止まらないというオチだと思わせておいてからの、
でも別の星漿体で霊性進化は阻止されたというオチ。
阻止といってもリセットだから
進化自体は否定されないのがポイント。

66話「壊玉」

「天元様を信仰
崇拝する宗教団体
盤星教
「時の器の会」!!」
のところに
この宗教のマークがあるのだが
画像は↓にある。

【呪術廻戦】ネタバレ感想<66話>呪詛師集団「Q」と開戦!
https://idononaka.com/jujutsukaisen-netabare66

丸に十字がない。
元ネタがわからない。
星崇拝だし何かの星座の星の配置かもしれない。
「米」みたいなマークが中央にある。
等辺十字が含まれるのは
現在は絶対的一神教になっているからだろう。

夏油
「天元様の術式の初期化ですか?」

「天元様は"不死"の術式を持っているが
"不老"ではない
ただ老いる分には問題ないが
一定以上の老化を終えると
術式が肉体を
創り変えようとする」

「天元様曰く
その段階の存在には"意志"というものがないらしい
天元様が天元様でなくなってしまう」

「高専各校
呪術界の拠点となる結界
多くの補助監督の結界術
それら全てが天元様によって
強度を底上げしている
あの方の力添えがないと
防護(セキュリティ)や任務の消化すらままならない」

「最悪の場合
天元様が人類の敵となる可能性もある」

「だから500年に一度
"星漿体"
天元様と適合する人間と同化し
肉体の情報を書き換える」

夏油
「肉体が一新されれば
術式効果もふり出しに戻る
"進化"は起こらない」

五条
「成程
メタルグレイモンになる分にはいいけど
スカルグレイモンになると困る
だからコロモンからやり直すって話ね」


夏油
(盤星教が)
「崇拝しているのは
純粋な天元様だ
星漿体…
つまりは不純物が
混ざるのが許せないのさ」

天元様の新しい器(星漿体)である少女(理子ちゃん)の存在が
盤星教とQにバレたので
彼らから少女を守り、天元様と融合(つまり少女は生贄として抹消)するのが
五条と夏油の任務。

天元様の暴走による
現呪術界の転覆を目論む
呪詛師集団「Q」はかませ。
アノンを意味しているの?

夜蛾
「天元様と
星漿体の同化は
2日後の満月!!

それまで少女を護衛し
天元様の下まで送り届けるのだ!!」

霊性進化を阻止せよという任務。
失敗すると先読みできる。
少女を生贄にする思想が登場。
同化は満月だし太陽系ではなく月系の宗教だろう。
星崇拝だから日月も含む。


72話「壊玉 -捌-」で適合者の天内理子(あまないりこ)が
同化したくない、もっと皆と一緒にいたいという本音を言ってすぐに
殺される。

最高存在との同化(という名の生贄)は良くないという描写。
殺されるぐらいなら同化したほうが良かったのではと思わせる
後味の悪い結末。

74話

盤星教本部
星の子の家

そんなに似てないなあ。





盤星教 代表役員 園田茂
(額にコブ?みたいなのがある)
「盤星教は奈良時代
天元様が日本仏教の
広がりと共に
術師(マイノリティ)に対する
道徳基盤を説いたのが初まりだ


呪術界と宗教『法人』の相性は最悪
その歪(ひず)みから生まれたのが
現在の盤星教
魂と器の会

だから我々は非術師の立場に徹している
様々な越権を許されている術師も
原則
非術師には手を出せないからね

だが時が来てしまった
教典に示された禁忌(タブー)!!
絶対的一神教へと成り果てた盤星教!!
その対象である
天元様と星漿体(けがれ)との同化!!」


これ、一神教正当多数派では
造物主(最高存在)と被造物(人間)の合一はタブーであることを知らないと
きちんと理解するのは難しそう。
タブーだから生贄の理子ちゃんを「けがれ」と呼んでいる。

盤星教が絶対的一神教になったのは作中時点から500年前以内だろうから
絶対的一神教になりはじめたのは宣教師が来た頃だろう。
もともとは多神教だったのが
宣教師の影響で教義が変わったのだろう。

ややこしくなってきたので整理。
重要なのはオチだ
理子との融合は達成されなかったのだ。
つまりこのままでは絶対的一神教は維持され
しかも唯一神の進化は阻止されず
高次元存在に進化し
一神教三兄弟正当多数派の最高存在Xに近づく。
ますます絶対的一神教になる。
絶対的一神教の信者らは
理子(信者にとってはケガレ)の遺体を
お姫様抱っこする五条の前で
ニコニコしながら拍手。
不気味に描かれる。
つまり、絶対的一神教に悪い印象を読者は受ける設計。
「一神教三兄弟正当多数派の最高存在Xに近づいた」と書いたのは
真に最高存在なら進化=よりよくなるなんてありえないから。
霊性進化することと
天元様が物理的存在である時点で
現人神的一神教。
高次元存在となりこれ以上進化しなくなったら
真の意味で一神教になったといえる。

読者にうまく霊性進化(新キリスト教)の概念を受け入れさせつつ
一神教(旧キリスト教)には悪い印象を抱くようになっている。
上手いデザイン。
本作が霊性進化肯定なのは
進化キャンセルの原因となる「けがれ」(生贄の女の子)を殺したことから明らか。
昔は霊性進化キャンセルしないとダメな教えだったのに
今は霊性進化キャンセルはダメという教えになってしまった。
影響したであろう切支丹(イエズス会系)は異端のグノーシス派は否定だからね。

殺された理子ちゃんはミッションスクールに通っていたし
やはりキリスト教を意識している。

あ、一神教と言えば7が好き。
七海という七三分けなど7を強調するキャラが登場。別にクリスチャンではない。

などと考察していたら、
77話「玉折-弐-」で
星漿体はもう一人いたか
既に新しい星漿体が産まれたのか
どちらにせよ天元は安定していると判明。
理子ちゃん死ぬ必要なかったじゃねーか!
結局、霊性進化は阻止された。
霊性進化は阻止といってもリセットであり
霊性進化思想自体は肯定。

盤星教では
信者には星漿体との同化は阻止したことにしてるんだろうなー。


菅原氏(すがわらうじ)は土師氏の子孫。
大江氏と並んで子孫は代々、紀伝道(文章道)が家業。
菅原道真は醍醐天皇の治世に従二位・右大臣になる出世頭だが失脚。

紀伝道は
中国の正史『史記』『漢書』『後漢書』の三史と
『文選 (もんぜん) 』などの詩文を扱うから、
要は、中国史と漢詩。



菅原道真bot
‏ @michizane_bot
9月16日
【菅原天満宮】奈良にある、私の生誕の地と云われる土地。祀られているのは、
天穂日命、野見宿彌、そして私、菅原道真。天穂日命は土師氏の遠い祖先とされ、
野見宿彌は垂仁天皇より土師姓を賜った土師氏の祖と言われています。
土師氏は後に、その土地の地名から菅原氏を名乗るようになります。

村手 さとし
‏ @mkmogura
2014年11月25日
高倉健の祖先は
鎌倉時代の北条家に仕えた刈田式部大夫篤時と言われた北条篤時で、
篤時の子孫が西国に移り、大内氏に仕え北九州へ。
大内=百済王=南朝鮮=南朝です。
在日認定は間違いで由緒正しき日本の朝鮮族です。
親玉。韓国との縁を天皇本人が認めてもスルーで嫌韓な右翼から学びましょう

2014年12月29日
高倉健が朝鮮族というのを、まだリツイートしてくれる人がいる。では追加。
初代征夷大将軍を誰も知らずに、坂上田村麻呂を皆が知っていて、
八幡、天満宮の菅原道真神社とか毛利とか、
今も芸能界のドン周防、多々良の安倍とか。
全部、由緒正しき朝鮮族である。明治の南朝百済天皇すり替えに帰結する

4月2日
あーら、やっぱり。
山上憶良を百済帰化人とした人の発案が、この令和という年号です。
中西進という人の発案。
ほんと、予想通りだな。
百済南朝族。

4月2日
北朝は高麗、北朝鮮ですよ。
慧慈。

だめだめわんこ
‏ @damedamewanko
4月2日
確認のため。村手さんの言う北朝南朝というのは、
14世紀の日本の南北朝の話ですよね。実はそれは渡来人の出身地域の対立でもあったと。

村手 さとし
‏ @mkmogura
4月2日
返信先: @damedamewankoさん
ですよ。
日本の南北朝時代も大陸と同じ構図ですよ。
とりあえず、南朝をあげてみますね。
大覚寺統、後醍醐天皇、
菅原道真(日本の天満宮の元)、坂上田村麻呂、
多々良(田布施のあそこ)、八幡(いわゆる源氏系の起源)。
ここらが百済系統で日本でも南朝です。


2018年9月23日
返信先: @bonchan1さん、@JunjiHattoriさん
多々良を百済と知らん奴が、いい加減なことを言わないほうがいい。
家康が百済って。ないから。
百済の勢力って、実はすごく少ない。
征夷大将軍、坂上田村麻呂、
なぜか日本中にある神社の天満宮、菅原道真とか。
本気で調べたいなら、平安から続く経明道について調べなさい。
当時の官僚寮の学問。


2018年1月20日
返信先: @yaginuma_sanさん
小泉牧師とかいまさら。

日本中の天満宮=菅原道真。
征夷大将軍=東北の山賊狩り左遷、坂上田村麻呂、任命する八幡。
日本史で不可解な権威は全部、天皇すり替えの南朝百済朝鮮族。捏造歴史。
全員キリ教もしくは祖先。
国家神道作ったやつらもね。
湯船に浸かった牧師が「お風呂嫌い」って信じるか?

@_iononscappo
9月14日
「盤星教は奈良時代 天元様が日本仏教の広がりと共に術師に対する道徳基盤を説いたのが初まりだ」
ほう……(文章の意味が頭に入ってこない)(あとはじまりって誤植だよね)

妬うどん
🔥🍜
‏ @grilled_noodle
9月11日
盤星教、奈良時代は「術師にはこういうことをしようね…って道徳を天元様に教えられて『天元様すげえ!』ってなっただけの組織」だったのが、
現在に至って「『天元様マジ神!』
『星漿体と混じるとかマジ無理解釈違い』って感じ」にエスカレートしちゃったんだな
茂さん?だっけ あの役員の人可哀想

信者「星漿体と融合とか無理!星漿体殺しましょ!」
役員「え…盤星教ってそんなんじゃないじゃん…術師への道徳観説いたのが始まりだよ?
でも信者失いたくないし…でも星漿体殺せるだけの戦力もないし
下手に動いたら術師に目付けられるし…ダメ元で伏黒パパに頼も!」
伏黒パパ「ええよ」
ってこと?

これで「星漿体特定してるならわざわざ融合直前の警備整う前じゃなくてもっと平常時に暗殺すればいいじゃん」って疑問に対して、ほんとは役員は殺したくないけど信者がうるさいからギリギリまで失敗上等暗殺依頼に踏み切らなかった」ってアンサーが用意されたわけだ

ていうかプライベートジェット出したのも信者への暗殺頑張ってますアピにも思えるな そこまで頑張ってくれたんなら……みたいな感じにはなりそうだし

あっそんでアレだな、500年周期で行われる「融合」を、
奈良時代(8世紀)成立のはずの盤星教は少なくとも一回は見逃してるのはなんで??って思ってたけど、
おそらく16世紀ごろにあったはずの「融合」時には盤星教が今ほど過激ではなく「融合」を受容していたってことなのか

こう、科学的に呪術が否定されていく風潮の只中にある現代人の方が
天元様に過激な理想を抱いてるってのはちょっと面白いな

あいう@10/14 西2 チ17b
‏ @aiugenghiskhan
9月8日
天元様って奈良時代からいて500年に一度同化の必要があるのよな?
既に一度は同化を済ませてる筈なのに盤星教は何をあそこまで危険視してるんだろう。これ以上は駄目ってことかな。
或いは盤星教が絶対的一神教になったのはここ500年以内か

えのき
‏ @enoki1200
9月9日
「術師に対して」ではなく「術師に対する」だから、
盤星教は天元様が奈良時代に仏教を利用してマイノリティとして迫害されがちだった術師を守る教えを説いたのが始まりで、その教えと乖離していき開祖である天元様を神と崇める絶対一神教へと変遷していってしまったのか。

ハンセイ(岩代俊明 待望論)
‏ @neoamakusa
9月9日
#呪術廻戦 #wj41
盤星教代表役員の園田茂さんの話がよく解らなかったんですが、「教典に示された禁忌」は天元様と星漿体の同化のことで良いんだよね?

何かこの書き方だと絶対的一神教と成り果てることも含むように読めるけど、
だとしたら今度は星漿体との同化は禁忌にはなり得ませんからね。

要するに、この「教典」とは絶対的一神教に成り果てた「魂と器の会」が作ったもので、本来の盤星教には無かったものであると。

上層部である園田はそれを理解してはいるけど、今更立場を捨てられないというわけか。#wj41 #呪術廻戦








新羅について(新羅三郎、円珍、醍醐、空海など)


新羅について誰かもっと掘り下げて欲しいことを書いておく。

新羅三郎と呼ばれる源 義光(みなもと の よしみつ)の
生誕は寛徳2年(1045年)。
兄が八幡太郎(源義家)。
墓所は大津市園城寺町、鎌倉市大宝寺。
鎌倉市大町にある大宝寺(たいほうじ)は日蓮宗。
いつから日蓮宗?最初から?

源 義光の
墓所は滋賀県大津市園城寺町で、
義光が元服の儀式を執り行った新羅善神堂の裏手にある。
要は、園城寺(三井寺)の中にある。

近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから
新羅三郎(しんらさぶろう)と称したらしいが、
本当か?
三井寺なら普通に天台宗の仏の前で元服するのが普通では?
そうする方が権力確保に有利だし。
ジャイナ教宗教施設内で釈迦の前で成人式を行なうぐらい変だぞ。

園城寺(おんじょうじ)
=三井寺(みいでら) は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。
本尊は弥勒菩薩である。
ミトラ説があるやつね。その説の信憑性はここでは突っ込まないけど。

園城寺の境内に新羅善神堂(しんらぜんじんどう、国宝)がある。
園城寺の鎮守神である新羅明神を北院の鎮守として祀る。
現存の建物は貞和3年(1347年)、足利尊氏の寄進による。
少数派の新羅勢力を取り込みたかったの?

足利氏が河内源氏の子孫であり、
新羅三郎義光は河内源氏だから?

新羅明神は、
唐に留学した円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされるのだが
天台宗の坊さんだから後世の創作だろう。

以下しばらく論文(参考資料に載せておく)の要約。

円珍が新羅明神を信仰した事実は認められないので
後世に創作された伝承と見られている。

園城寺の由来に関する最も古い記述は
1062年に記された園城寺龍華会縁起で、
すでに新羅明神の海上出現譚が書かれている。
弥勒信仰が見られるのだが、
日本の仏教説話では観音が化身する話が多く
弥勒が生身の人間に化身するのは珍しい。

ミロク化身は6、7世紀における新羅の弥勒信仰の影響だと考えられる。
新羅明神は新羅の神を祀ることで新羅の外患を調伏しようとからだと考えられる。

半島の仏教の影響を強く受けた八幡信仰は、
9世紀から10世紀にかけて神功皇后神話と結びつくことで 急激に護国神的武闘性を強めていった


要約終わり。
八幡も登場。

円珍は寺門派(天台宗の三井寺派閥)の宗祖。
円珍はなんと空海と親戚。
智証大師という称号を醍醐天皇から賜る。
天台宗系なのに
新羅や空海とからむ変わり種。

円珍は新羅商人の船で入唐したそうだが、
新羅優遇はこれが理由?

新羅(しらぎ/しんら、シルラ、前57年 - 935年)は
高句麗と百済を滅ぼして、
朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)
=統一新羅時代(とういつしらぎじだい)を築いた。

唐軍につきしたがい百済へ進軍し660年に百済を滅ぼした。
663年に唐軍が白村江にて倭国の水軍を破る(白村江の戦い)。
668年に唐軍が高句麗を滅亡させた戦いにも新羅は従軍。

つまり、百済系と高句麗系にとって
新羅系は仇。

となると新羅を優遇すると当時はまずいのでは?
捏造個所があるのは間違いない。
でも明治以降か以前かもわからない。


百済系も高句麗系も新羅系嫌いの筈で、実際、
遣新羅使は779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止。

持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国(下野 ≒栃木県)に送る。
新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に送る。
持統天皇3年(689年)にも帰化した新羅人を下毛野に移す。
翌持統天皇4年(690年)にも帰化した新羅人を武蔵国や下毛野国に住ませる。
霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国(岐阜県南部)を本貫地(※)とし、
席田郡(むしろだぐん。岐阜県≒美濃国にあった)に移される。

※本貫地
①戸籍の所在地
②氏族集団(宗族)の発祥地
(つまり完全に帰化したことを意味する)

畿内から離れた、蛮族(公家視点)の地に送られている時点で政治中枢には入れてないとわかる。
数人中枢にスカウトした可能性はあるけどね。
百済系も高句麗系も新羅系は嫌いだろうし新羅系から断りそう。

新羅明神の本地仏は文殊菩薩。もんじゅといえば満州。

どこからどこまでが明治以前の捏造で
どこからどこまでが明治以降の捏造で
どれが事実かよくわからないが怪しすぎることはわかった。






参考資料


前田 利家
‏ @matazadainagon
2018年8月14日
我が前田家の家紋は梅鉢紋。菅原氏の出と言われとる。
天神様・菅原道真公だの
その菅原氏は元は土師(はじ)氏といい、大和国高野近辺に居住地があった。
そして元を辿れば野見宿禰様が先祖である。相撲の祖じゃな。
かの桓武天皇の母御・高野新笠様もここの出であり、新笠様には渡来人の血が流れておる。

土師氏は貴人の埋葬に関わる政務を専らとしており、古くは埴輪を作っとった。
また貴人の記録をまとめており、やがて史書を編むようになり漢籍が到来すると儒学を担当する。
その後、桓武天皇により土師姓は大和土師氏を菅原、
乙訓土師氏を大江と名乗らせた。
菅原道真公や大江匡房公は儒学の大家だわな

また、菅原氏から公家の五条家が輩出する。
五条家は野見宿禰様の子孫である事から相撲司家となった。
で、前田家であるが、菅原姓の者でも公卿に列する家格ではなく、地下家になる。
土豪だでな。元は前田蔵人家と言い、代々蔵人を名乗ったという。美濃の方からの支流らしい。
儒学の素養はなさそうだの

あと、信長様の守役・平手政秀様や大和柳生家も菅原の後裔だそうな。
菅原の祖、野見宿禰様と言えば相撲の祖であり、
当麻蹴速殿を蹴り殺す程の剛の者でもあるが、
前田家も平手家も柳生家も優れた武士の家柄。猛る武の血を引いとるのやもしれんがや。

26.出雲氏考Ⅱ(土師氏・菅原氏・大江氏)
http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-26.html
”出雲氏から派生したとされる「土師(はじ)氏」、土師氏から派生したとされる「菅原氏」「大江(大枝)氏」および「秋篠氏」などについて述べたい。歴史上有名な人物はこの流れから多く輩出されている。これが出雲氏であるという
感覚は非常に薄い。
土師氏は天穂日命の裔「韓日狭命(からひさ・うましからひさ)」の子供で埴輪の発明者、
日本の相撲の元祖とも言われている「野見宿禰」を元祖とする一族である。勿論「神別氏族」である。殉死の代わりに埴輪を制作した功により、11垂仁天皇から「土師職」を仁徳天皇朝には土師連姓が与えられたとされている。古墳の造成、葬送儀礼にも代々携わった。とされている。
河内国志紀郡土師里が本貫地とされ、土師神社がある。
古墳の造成が盛んだった時代は、栄えたが、古墳時代が終わると活躍の場が縮小され、古い氏族ではあるが、朝廷での立場は目立つことはなかった。
ところが、50桓武天皇の誕生により、立場が一変した。
桓武天皇の母親の母親(祖母)が山城国乙訓郡大枝郷を本拠とする土師氏の出身であった。この縁により土師氏総てに対し朝臣姓が賜姓されることになった。
大枝郷の土師氏には「大枝氏」が、
大和国添下郡菅原庄を本拠としていた土師氏には、「菅原氏」が、
最後に平城京郊外の大和国添下郡秋篠郷に本拠を有していた土師氏には「秋篠氏」が与えられた。これ以降それぞれ中央政界で活躍の場が与えられたのである。
特に「菅原氏」は、天神さんで有名な「菅原道真」の出現で藤原氏と肩を並べる氏族になった。
しかし、道真の左遷により一時政界から遠ざかるが、間もなくカムバックし、
「源平藤橘」に次ぐ6家の堂上貴族を発生させたのである。以後幕末まで続いた。
一方武士の一派も多数派生した。はっきりしないところもあるが、加賀の前田氏、伊予の
久松氏、各地の松平氏(徳川家康も関係してくる)、柳生氏など多くの大名家を輩出した。
また、「更級日記」で有名な「菅原孝標娘」もこの流れから出た。
「大江氏」は、当初「大枝氏」を称したが後に大江と改称した。菅原氏と同様に文章博士を歴代出した文章道の家として朝廷に仕えた。歴史上有名なのは「大江匡房」と
鎌倉幕府の確立に貢献(公文所別当)した「大江広元」である。
この流れから大名家「毛利氏」、「永井氏」などを輩出した。
堂上貴族としては「北小路家」がある。女流歌人作家として有名な「和泉式部」も大江氏の出身である。

筆者の住む京都府長岡京市にあった「勝竜寺城」の江戸時代の城主で後に高槻藩の藩主になった「永井直清」が大江氏の出身であることはあまり知られていないことであるが、事実である。大江氏は山城国乙訓郡で発生した唯一の古代豪族であり、その末裔の一人が「細川ガラシャ」で有名な「勝竜寺城」(乙訓郡で最後まであった城)の最後の城主となったのも何かの因縁を感じる。
「秋篠氏」は、秋篠寺で有名な奈良にある土師氏の一派の一つであった。初代「秋篠安人」は参議にもなり娘を嵯峨天皇の妃にもしたが、その後の裔の動向がよく分からない氏族である。本稿では菅原氏・大江氏を中心に記述することにする。

土師氏人物列伝
日狭命(からひさ・うましからひさ)
①父:阿多(諸説あり) 母:不明
②子供:野見宿禰 別名:甘美韓日狭命 ・可美乾飯根  
③日本書紀記事:崇神60年 「振根」の項参照
 
2-1)野見宿禰
①父:韓日狭命(諸説あり) 母:不明
②子供:阿多勝 ・高車氏祖三熊    
天穂日の14世孫と伝えられる。(続日本紀など)
13成務天皇の一人息子(和訶奴気王)を養子にしたという説あり。
・前稿「出雲国造氏」14)襲髄命を野見宿禰と同一人物という説もある。(出雲国造伝統略)これは一般的ではない。
③土師・菅原・大枝(大江)・秋篠氏らの祖。
④河内国志紀郡土師里が本拠地。
⑤紀記事:垂仁朝に埴輪を制作して殉死に替えた功により土師職に任じられた。
⑥11垂仁朝「当麻蹴速」と角力をとり、勝利。大和当麻の土地を与えられ朝廷に仕えた。
河内国を与えられたとの説もある。
⑦相撲の神 相撲神社、野見宿禰神社など。
⑧子孫である公家「五条家」は相撲司家となった。


2-9)
①父:大保度 母:不明
②子供:菅原氏祖八嶋・秋篠氏祖兄国・大枝氏祖菟・土師娑婆氏祖磐村

・大枝道長
延暦10年(791年)従五位下。
 
・秋篠安人(752-821)
①父:首の5世孫土師千村(公卿補任では宇庭) 母:不明
②子供:高子(嵯峨天皇妃:子供:源清)京子・康子(嵯峨天皇妃)
③782年朝臣姓賜る。桓武天皇の母方の祖母の関係。
本拠地:大和国添下郡秋篠。土師氏関係地。秋篠寺。
④続日本紀の編纂に携わる。
⑤伊予親王事件関与。失脚。復活後815年従三位。参議。
⑥52嵯峨天皇時「弘仁格式」を手がけた。
⑦この流れは、この後詳細不明である。
 
3)菅原氏人物列伝
3-1)菅原古人(?-784?)
①父:土師宇庭 母:不明
②子供:清公 ら多数。
③781年朝廷より菅原姓を賜る。
④文人、文章博士、大学頭。従五位下、遠江介。
 
3-2)清公(770-842)
①父:古人 母:不明
②子供:是善・善主ら多数。第4子。
③文章博士、大学頭、式部大輔。
④従三位。
⑤804年遣唐使として、空海らと渡唐。
⑥818年以降、各種唐風の儀式などを導入。
女性の名前に「子」の字をつけることも建言。
⑦「菅家集」。「令義解」を清原夏野らと編纂。
 
・康子(覚寿尼)
①父:清公 母:不明
②道明寺住持。道真の叔母。
③道明寺は藤井寺市道明寺一丁目にある寺で、寺伝によれば6世紀末「土師連八嶋」が自宅の一角に土師寺を建てたことに始まる。これが後に菅原道真にちなんで道明寺と改称され、道真の叔母にあたる覚寿尼がこれを管理した。
道真と覚寿尼は非常に親交があり、道真は度々この寺を訪ねたとされている。
この寺の近くに道明寺天満宮もあり、元々の土師神社であったともされている。
 
・善主(803-852)
838年の遣唐使。
 
3-3)是善(812-880)
①父:清公 母:不明
②妻(ー872)伴氏女。子供:類子(光孝天皇妃:子供:源順子)道真・道仲・道善
③文人、文章博士、国司、
④872年参議。勘解由長官。55文徳天皇・56清和天皇侍読。従三位。
⑤文徳実録撰す。
 
3-4)道真(845-903)
①父:是善 母:道真母(伴氏女)少納言「伴善續(ばんよしずみ)」女
②正室:島田宣来子(島田忠臣女)。子供:高規他23名
③学者・漢詩人・政治家、文章博士、
④862年18才で文章生。867年文章得業生正6位下、下野権少掾。
⑤870年正6位下。874年従五位下民部少輔。877年式部少輔、文章博士。
⑥886年讃岐守、任国下向。888年阿衡の紛議に関与。890年帰京。
⑦59宇多天皇の信任を得る。891年蔵人頭。892年従四位下。893年参議式部大輔
⑧894年遣唐大使。建議して遣唐使制度廃止。(907年唐滅亡)
⑨895年従三位権中納言。長女衍子を宇多天皇の女御とした。
⑩897年娘清子を宇多天皇の子斎正親王の妻にした。
⑪897年宇多天皇譲位、60醍醐天皇即位、道真を重用することを薦めた。藤原時平と道真にのみ内覧を許した。正三位権大納言。中宮大夫。
⑫899年右大臣。
⑬900年三善清行が引退を勧める。道真拒否。
⑭901年従二位。斎正親王を皇位につけ醍醐天皇を退けることを謀ったと誣告され、罪を得て太宰権帥に左遷。宇多上皇は醍醐天皇に面会しようとしたがかなわなかった。
長男高視他子供4名流罪(昌泰の変)
⑮903年太宰府で没。安楽寺に葬られた。
⑯913年右大臣に復位。贈正二位。993年追贈正一位左大臣追贈太政大臣。
⑰類聚国史、日本三代実録など編。
 
・清子
59宇多天皇3男「斎世親王」妻。子供:源英明
 
(参考)斎世親王(886-927)
①父:宇多天皇 母:橘義子
②3男。妻:菅原道真女清子。別名:真寂法親王
③901年菅原道真が太宰府に左遷された原因となった人物。(昌泰の変)その後仁和寺に入り真寂法親王と名乗って僧となった。
 
・衍子
59宇多天皇妃。
 
・輔正(952-1009)
道真ー淳茂ー在躬の流れ。在躬の子供で後の戦国武将大名家前田家の祖とされている。異説も多い。
 
3-5)高規(たかみ)(875-913)
①父:道真 母:島田宣来子
②子供:文時・雅規    別名:高視
③893年文章得業生。その後大学頭。
④昌泰の変で父に連座。901年土佐介に左遷。5年後帰京。
⑤大学頭、従五位上となったが以後振るわず、38才で病没。
 
文時(899-981)
①父:高規 母:不明
②子供:雅熙
③文章博士、式部大輔など歴任
981年従三位。
⑤和漢朗詠集
 
 
3-6)雅現
3-7)資忠
 
・薫宜
①父:雅現(高規子説あり)母:不明
②美作官家・柳生氏・前田氏ら武家菅家祖。(諸説あり)
③この子孫は、岡山県勝央町付近に美作菅家7流発生。
後醍醐天皇の隠岐島脱出にも関与。
 
3-8)孝標
①父:資忠 母:不明
②子供:定義   妻:藤原倫寧女
③上総・常陸国受領。
 
・孝標女(1008-1059以降?)
①父:孝標 母:藤原倫寧女
②子供:仲俊 夫;橘俊通
③「更級日記」作者。「浜松中納言物語」作者。
④母の伯母は「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母である。
 
3-9)定義
①父:孝標 母:藤原倫寧女
②子供:高辻是綱・唐橋在良・輔方(これが本当の嫡流か)
 
3-10)是綱
正四位下、大学頭。堂上家「高辻家」の祖。
この流れから堂上公家五条家・清岡家・東坊城家が発生。
 
・唐橋在良(1041-1121)
従四位上式部大輔。堂上家「唐橋家」の祖。
妻:源長親女
子供:清能(妻:高階為信女)唐橋家
為恒ーーー北野社別当家
 
・輔方
安楽寺別当家
 
3-11)宣忠
 
3-12)長守
高辻長守、従四位上大学頭。
 
3-13)為長(1158-1246)
①父:長守 母:不明
②子供:高辻長成 五条高長・公良・豊後長野氏祖泰親など   別名:高辻為長
九条家の家司。1204年文章博士。土御門天皇読。
④順徳・後堀河・四条・後嵯峨天皇侍読。
⑤1211年従三位。200年ぶりの菅原氏からの公卿。
⑥1215年大蔵卿。
⑦1221年正三位1235年参議。1240年正二位。
明治維新まで堂上家6家(高辻・五条・清岡・桑原・東坊城家など)を発生存続させた菅原氏中興の祖である。
さらに大名家、松平氏・久松氏派生、徳川家康にも関係してくる。

 
・高辻長成(1205-1281)
正二位参議。
 
・五条高長(1210-1284)
従二位式部大輔。堂上家「五条家」の祖。
五条家からさらに東坊城家・清岡家・桑原家が派生した。
明治まで続いた。
相撲の横綱免許の司家となった。

 
4)大江氏人物列伝
土師氏9代首
2-10)菟
2-11)土徳
 
2-12)富杼
①父:土徳 母:不明
②子供:祖麿 真妹
③百済救援軍に従ったが、唐軍の捕虜となった。その後唐軍の計画を帰国して朝廷に告げた。(紀)
 
2-13)祖麿
①父:富杼 母:不明
②子供:犬養・和麿
③天平8年(736年)外従五位下。
 
・真妹(?-?)
①父:富杼 母:不明
②夫:和乙継 子供:高野新笠(49光仁天皇妃:子供:50桓武天皇)
③延暦9年(790年)正一位追贈。大枝朝臣となった。(続紀)
 
・高野新笠(?-789)
①父:和乙継 母:土師真妹
②夫:49光仁天皇 子供:50桓武天皇・早良親王
③出自は、父の和乙継は、百済系渡来人。続日本紀延暦8年(789年)記事
「ーーー百済武寧王の子純陀太子より出ずーーー」とある。日本書紀には513年百済太子淳陀死去とある。天智天皇以降に日本に渡来した所謂「百済氏」とは異なる。
④高野は現在の奈良市高の原に比定されている。この近傍に土師氏の根拠地である、菅原伏見、秋篠がある。
⑤山城国乙訓郡大枝郷が母の土師氏の出身地である。この縁で新笠の御陵は大枝にある。
⑥京都「平野神社」奈良県北葛城郡王寺町「久度神社」(この近くに乙継の墓がある。)
などが関係している。
 
2-14)和麿
①父:祖麿 母:不明
②子供:諸上   この人物がない系図もある。
③宝亀5年(774年)記事:外従五位下、大和介。
④道鏡の由義宮塔造営。47淳仁天皇を淡路島に改葬。
 
<大江(大枝)氏>
4-1)大枝諸上(?-?)
①父:土師和麿 母:不明
②子供:本主・乙主・乙枝  別名:諸士
③790年?桓武天皇から土師姓から大枝朝臣姓を賜った。
④本拠地は山背国乙訓郡大枝郷の土師氏の領地。
⑤宝亀3年(772年)造東大寺司史生。正6位上。
 
4-2)本主
①父:諸上 母:不明
②子供:音人 音峰
③備中守
④父が阿保親王である。との説あり。
年齢的に無理があると思う。
 
4-3)大江音人(811-877)
①父:阿保親王(諸説あり)  母:中臣氏女?(諸説あり)
②子供:千里・千古・玉淵ら多数。
③大枝本主の養子となる。本主の嫡男説(公卿補任)もある。この時代に大枝姓から大江姓に変更。
・本主が阿保親王の子供であるという説。(尊卑分脈)
・音人は本主に嫁いできた中臣氏女が阿保親王の側室であり、そこに産まれた子供であり
実は阿保親王の子供説。(皇胤紹運録)
・上記総て作り話。本主も音人も土師氏の出。(太田 亮)
など。
④菅原清公から文章学を学ぶ。菅原是善と「貞観格式」撰上。文徳実録・郡籍要覧・弘帝範などの編纂。
⑤864年参議。874年従三位。
 
・千里(?-?)
①父:音人 母:不明
②長男、子供:維繁
③学者・歌人。中古36歌仙。小倉百人一首。
④菅原是善らと「貞観格式」撰上。
 
(参考)阿保親王(792-842)
①父:51平城天皇 母:葛井道依女藤子
②第1皇子。妃:伊都内親王<桓武天皇 子供:在原業平・業平ら
③810年「薬子の乱」に連座。太宰権帥に左遷。その後許され上総国、上野国太守。
④840年橘逸勢らの「承和の変」には与せず橘嘉智子に密書を送った。
 
・玉淵
丹後守
 
・朝綱(866-958)
①父:玉淵 母:不明
②子供:清胤・澄江
③公卿、学者、書家。
④938年正五位下文章博士。
⑤953年参議。 正四位下、備前守。小野道風と並ぶ技量をもった書家。
 
・清胤(943-995)
天台宗僧侶・歌人。
 
4-4)千古(ちふる)(866-924)
①父:音人 母:不明
②次男、子供:維時・維明
漢学で醍醐天皇侍読。 歌人。
 
・維明
・以言(955-1010)
 
4-5)維時(888-963)
①父:千古 母:不明
②三男。子供:重光・斎光
③学者、60醍醐天皇・61朱雀天皇・62村上天皇の侍読。文章博士。大学頭。
④遣唐使。
⑤950年参議。
⑥960年中納言参議。
 
・斎光(934-987)
 
・為基
妻:高階成忠女
 
・寂照(962?ー1034)
①父:斎光 母:不明
②俗名:定基、別名:三河入道、三河聖、円通大師。
③図書頭、三河守歴任後、988年出家。信に天台教学を学び、1003年に渡り、円通大師の号を賜った。帰国することなく、杭州で没した。
 
4-6)重光(ー1010)
 
・雅致
越前守
 
・和泉式部(978?-?)
①父:雅致 母:不明
②夫:和泉守橘道貞、為尊親王<冷泉天皇>敦道親王 藤原保昌、子供:小式部内侍(歌人)永覚
③夫の任国と父の官名から「和泉式部」という女房名がついた。王朝歌人。
④1008年一条天皇中宮藤原影子女房。
⑤恋愛遍歴多い。「浮かれた女」
⑥「和泉式部日記」作者?
⑦岐阜県可児郡御嵩町に廟所とされる碑あり。墓は兵庫県伊丹市および京都府木津町にある。
 
4-7)匡衡(まさひら)(952-1012)
①父:重光 母:不明
②妻:赤染衛門 子供:挙周・江侍従ら
③儒者・歌人。中古36歌仙の一人。東宮学士。文章博士。
④正四位下。尾張守。藤原道長、行成、公任とも交流あり。
 
(参考)赤染衛門(956?-1041)
①父:赤染時用(実は平兼盛)母:不明
②子供:挙周・江侍従
③女流歌人・中古36歌仙
④藤原道長の正妻「源倫子」とその娘「上東門院影子」に仕え、和泉式部と並び称された
歌人。
⑤栄華物語作者。
 
4-8)挙周(たかちか)(-1046)
①父:匡衡 母:赤染衛門(歌人)
②子供:成衡
③文章博士。
④母の力により道長を動かし、和泉国司となった。今昔物語集、十訓抄などに記事。
 
4-9)成衡(?-?)
①父:挙周 母:不明
②妻:橘孝親女 子供:匡房・能高
③大学頭
 
4-10)匡房(まさふさ)(1041-1111
①父:成衡 母:橘孝親女
②子供:隆兼・雅致・維順・有元
③東宮学士・勘解由使長官 平安時代有数の碩学。歌人。
④1088年参議。
⑤71後三条天皇、72白河上皇の信任。関白二条師通の信任。
⑥1094年従二位権中納言。
⑦1098年太宰府に赴任。
⑧1011年正二位大蔵卿。
古今著聞集に八幡太郎源義家の話あり。
「器量は賢き武者なれども、なお軍の道知らず」と匡房がいった。これに義家いたく感じ弟子となった。云々。

 
 
4-11)維順
 
4-12)維光(これみつ)(?-?)
①父:維順  母:不明
②子供:匡範(北小路家)・時房ら
③平安時代貴族。学問の大家。官位:式部大輔。
 
・匡範(1140-1203)
①父:維光 母:不明
②子供:周房
③堂上家「北小路家」の祖。大江氏としての本流か?
 
4-13)広元(1148-1225)
①父:維光(藤原光能説)? 母:不明
②子供:親広・長井時広・那波宗光・毛利季光・海東忠成など
③鎌倉幕府初代別当。
④実の父は維光ではないらしく藤原長家流光能(右京大夫)の子供説強い。
母が再婚して中原広季のもとで養育された。中原広元と称した。
大江維光の養子となった。
⑤異母兄に中原親能がいた。
親能は源頼朝と親交があり、
その縁で1184年頼朝の家臣となった。
公文所別当となった。
1185年の守護・地頭制度も広元の策である。
⑥1199年頼朝死後以降北条義時・政子と協調。
承久の乱の時、長男大江親広が官軍についたが、
広元は幕府軍につき活躍。
⑦1214年正四位下。陸奥守。
⑧1247年宝治の合戦で四男毛利季光(妻が三浦義村女)が三浦泰村側につき、
一族ほとんど誅殺。この時生き残った一族が各地の大名になったとされる。
「広島」の名は、子孫である毛利輝元が1589年広島城築城の時広元にちなんで命名したとの説あり。
 
・長井時広(ー1241)
 
・毛利季光(1202-1247)
①父:広元 母:不明
②妻:三浦義村女、子供:大名「毛利氏」の祖。
③相模国毛利荘の領主。妻の縁で1247年の北条と三浦氏の最後の決戦となった「宝治の合戦」で三浦泰村側に付き敗北。誅殺された。この時越後にいた息子経光のみ生き残りこの流れから戦国武将「毛利元就」が出る。


6)出雲氏Ⅱ(土師氏・菅原氏・大江氏)系図解説・論考
 前稿(出雲氏考Ⅰ)で出雲氏の嫡流である出雲臣氏関連について述べた。本稿では出雲氏から派生した土師氏および土師氏から分派した菅原氏・大江氏などについて解説したい。
 
6-1)<土師氏>  (土師氏概略系図参照)
元来土師氏は出雲氏元祖の「天穂日命」の14世孫である野見宿禰を元祖としてきた連姓氏族である(当初は土師臣姓で臣姓氏族であったという説もある)。勿論神別氏族である。これが出雲氏本流のどこから分かれたかに関しては、諸説ある。
筆者は「飯入根」の兄弟である「甘美狭」の子供であるとする系図を採用したが、
飯入根の子供である「氏祖」の子供「襲髄」を野見宿禰と同一人物とする説などもありはっきりしない。
いずれにせよ記紀でいう11垂仁天皇時代の人物とされている。埴輪を古墳に置くことを垂仁天皇に提案し、殉死の風習を無くしたとされ、また相撲の最初の記述がある伝説上の人物である。この縁でこの一族は、古墳を築造する専門の氏族と認定されたのである。
16仁徳天皇の時に土師連姓を賜ったとされている。
この件に関し、古来
土師氏は出雲氏と血族関係があったことに疑問視する専門家も多い。本来は、古墳築造、土師器生産などの新技術を有する渡来系の氏族ではないかとする説がその中心である。
新羅臭の強い氏族とされてきた。これがどこかの段階で出雲氏系図に組み込まれたのである。と主張されている。記紀にも突如として野見宿禰が登場するのである。それ以後もこの氏族は出雲の地に存在していた形跡が全くない。野見宿禰の墓は播磨国にあるともされている。勿論政治的な事績記事も殆どないが、記紀にはちょくちょく顔を出す氏族であった。

古墳時代にはそれなりに活躍の場があったものと推定されるが、墳墓が簡素化された時代になり、その活躍の場は限られたものになった。672年「壬申の乱」では40天武天皇側に属したようである。(近江側に属した者もいたらしいが)本拠地は、河内国志紀郡土師里であったようだ。
筆者列伝13代「土師甥」が大宝律令制定に関与し従五位下に叙せられたという記事がある。筆者の調べた範囲で土師氏として最高の官位についたのは、奈良時代の人物で筆者列伝では14代「土師宇庭」で阿波守、勘解由長官従四位下である。宇庭は「甥」の子供で後の菅原氏の祖である。
土師氏は筆者列伝9代「土師首」の子供の時4流(腹)に分かれた。とされている。(諸説あり)
・大和国添下郡菅原庄の土師氏
・大和国添下郡秋篠の土師氏
・山城国乙訓郡大枝郷の土師氏(毛受腹)和泉国百舌鳥から移った。
・河内国志紀郡土師里の土師氏?
これらの土師氏は、奈良時代には「土師」という姓を他の姓に替えてくれるよう朝廷に申し出ていた。
ところが49代光仁天皇が没し、50桓武天皇が即位した781年に先ず菅原姓が、782年には秋篠姓、790年には大枝姓が上記4腹のそれぞれの土師氏にその住んでいた土地の名前にちなんで与えられた。さらに朝臣姓が賜姓されたのである。河内国の土師氏だけはよく分からない。土師娑婆氏かもしれない。
この最大の理由は、桓武天皇の母親の出自が土師氏に関係していたからだとされている。桓武天皇の母親「高野新笠」は、父親が渡来系百済氏の末裔である「和乙継」であり、母親は山城国乙訓郡大枝郷に住んでいた、土師氏の娘「土師真妹」であった。
桓武天皇の父は49光仁天皇である。光仁天皇は天智天皇系の人物で本来なら天武天皇系が朝廷を牛耳っていた奈良時代において、天皇になる可能性は殆どなかった。
これが藤原氏内部の権力闘争・天皇家内部の世継ぎ争いなど複雑に絡んだ結果、突如として60才を過ぎた白壁王に天皇の座が廻ってきたのである。この間の詳しい事情については、既稿「古代天皇家概論Ⅱ」に記したのでそれを参考にして頂きたい。
この白壁王(後の49光仁天皇)の妃の一人に「和新笠」がいた訳である。いたって卑な女性として扱われていたのである。
光仁天皇の皇后は井上内親王という申し分のない女性がいた。その間には他戸親王という男児もおり、新笠の子供「山部皇子」に天皇になる目は無かったのである。それが突如として朝廷内の大変動が起こり山部皇子が皇太子となり、ついに50桓武天皇になったのである。
これは土師氏にとっても思ってもいなかった幸運が廻ってきたのである。
781年から790年にかけて土師一族に次々に朝臣姓と新姓が与えられたのである。
同時に朝廷内の立場もがらりと変わったのである。
高野新笠ー土師真妹の女性の威力である。
815年秋篠安人従三位・参議。
818年以降に菅原清公従三位・参議。
864年大江音人参議874年従三位
といった具合に以前の土師氏では夢の又夢の位に次々とのぼり、
かつ天皇妃を出す氏族になったのである。
歴史上このような例は他にない。
極論すれば一人の女性の力により古代豪族ではあったが、下級官吏がせいぜいであった氏族が、一族こぞって公卿の地位にまで達したのであるから、それも単に一人だけではない。秋篠氏は安人しか記録にない。しかも系図によっては安人を土師宇庭の子供であるとの説もある。筆者は「千村」子供説を採用した。
菅原・大枝(大江)氏はこれ以降日本の歴史を作る氏族になったのである。
 
6-2)<菅原氏> (菅原氏詳細系図参照)
  東風吹かば 臭いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ  (諸説あり)
                        菅原道真
菅原氏の初代は何人もいる。しかし「菅原古人」の流れが後の菅原氏の本流となった。
この時から菅原氏は学問・文章を得意とする一族である。元来の本拠地は上述したように
大和国添下郡菅原庄である。現在の奈良市菅原町である。
菅原道真はあまりに有名であるので詳しくは述べないが、突如として藤原氏中心の朝廷に頭角を現し、右大臣にまでなった人物である。という印象を一般的に持たれているが、実は筆者人物列伝でも明らかなように、父「是善」祖父「清公」も既に朝廷内で従三位の公卿の地位を得ていたのである。そのお陰で29才には公家である従五位下となっている。ただ単に学問に優れ頭脳明晰だったから偉くなったのではない。当時の朝廷は、一に血筋、二に父親の位、三・四・色々有った上に本人の人物・能力が問題にされるのである。
道真に関しては、その生まれに関し諸説ある。それらは余り根拠もないので省略する。
59宇多天皇に大変信頼され、宇多の子供60醍醐天皇の時右大臣にまでなった。藤原氏以外で大臣になることは当時希有であった。その後左大臣「藤原時平」との政争に敗れ太宰府に左遷された話は余りに有名である。この背景およびその後を参考系図を基に解説したい。(宇多天皇関連詳細系図参照)
①宇多天皇は、系図からも分かるように、当時では珍しく藤原氏の血脈を直接受けていない天皇である。
②当時、藤原氏の本流は、北家冬嗣流であり、「良房」は既に56清和天皇外戚となり摂政として、「基経」は57陽成天皇の摂政・58光孝天皇の関白(日本で最初)になり政治を直接牛耳ることを開始していた。
③天皇の外戚になることが、政治の実権を握る最大の手段となっていた。
④宇多天皇は、その点比較的に藤原氏からの直接的圧迫はなかった。但し自分を天皇にしてくれたのは藤原基経だったので、その恩義はあった。
⑤そこで有能であった非藤原氏である「菅原道真」を重用出来たのである。
⑥宇多天皇の妃の一人に道真の娘「衍子」を入れ、橘氏娘義子との間に出来た斎世親王の妃に同じく道真の娘「清子」を入れたのもその表れである。
⑦そして宇多天皇は譲位して息子の60醍醐天皇が誕生した。宇多天皇からの進言もあり899年右大臣に道真は就いた。道真54才の時である。この時左大臣になったのが、北家主流基経の息子である「時平」である。時平28才である。
⑧醍醐天皇には1才年下の異母弟である「斎世親王」がいた。この親王の妃が道真の娘清子である。
⑨平安時代に入って藤原氏は、次々と藤原氏に対抗する古代豪族出身の氏族を色々な名目で潰してきた。「823年承和の変」「866年応天門の乱」「887年阿衡の変」など。
⑩ここにきて、菅原氏の台頭は、藤原氏から見れば許されない事態である。菅原氏がこれ以上天皇家に近づくことは、絶対に食い止めなければならない。と考えたのは当たり前である。それほど菅原氏は勢力を伸ばしたと思われる。
⑪そこで藤原氏側(左大臣時平)のとった作戦が、醍醐天皇に対し菅原道真が、譲位をせまり娘婿である斎世親王を次ぎの天皇にしようとしている趣旨の讒言をしたのである。
⑫ 醍醐天皇はこれを真に受けて、901年正月に道真の左遷を命じたのである。宇多上皇がそれを止めさせるべく動いたが時既に遅かったとされる。
⑬901年に時平は自分の妹である「穏子」を醍醐天皇の女御として入内させた。
⑭斎世親王は、無実の証明として仁和寺に入り「真寂法親王」と名前を変えて僧になった。
⑮穏子の子供は61朱雀天皇・62村上天皇となり、藤原氏独走態勢に入っていくのである。
⑯時平は909年に他界し、藤原氏本流は弟「忠平」の流れに移る。そして摂関政治の最盛期である藤原道長へと繋がった。
⑰この間に朝廷近辺で各種異変(時平の突然死も含め)が起こり、これが道真の怨霊だとされ、道真の名誉復権と怨霊を鎮めるための神社が建立された。これが「北野天満宮」である。
⑱北野天満宮の祭神は「菅原道真」である。その神名は「天満大自在天神」である。ここから道真のこと及び天満宮を「天神さん」と呼ぶようになったのである。
元々は無実の罪・恨みを晴らして下さる神であったが江戸時代頃から、学問の神様になったとの説あり。
 以上が道真関係の話である。この後菅原氏は間もなく復権し、道真の孫の「文時」は従三位の公卿になっている。本流では歌人である藤原倫寧女を妻とした「菅原孝標」、その娘で「更級日記」の著者「孝標女」などが輩出される。

その後しばらく歴史上からは消えるが、
鎌倉時代になって筆者列伝13代「菅原為長」の時、約200年ぶりに従三位の公卿の位についた。この人物が菅原氏中興の祖となり、これ以降「高辻家」など6家が堂上家として永続し、「源平藤橘」に次ぐ名家として栄えたのである。この中に野見宿禰の言い伝えを引いて相撲の横綱免許の元締めとなる「五条家」がある。
これら総てが「高野新笠」の遺徳といえよう。ここで菅原氏から分派した人物についても簡単に記したい。
清公の子供「善主」の流れに「正好」という人物がいる。これが前述した「武藏氏」のなかの氷川神社の「武藏武芝」の娘と結婚して「正範」を産み、以後この神社の社務家となった。ここに古い出雲氏の縁が繋がっていたのである。
菅原道真には23名もの子供が記録されている。実際はもっといたとされる。この中の本流については上述したが、本流から戦国大名久松家が発生した。これが松平家となり「徳川家康」に繋がる系図がある。ここらあたりになると一寸怪しくなる。
本流ではなく支流から大名「柳生家」が発生。また加賀百万石前田家も菅原氏の末裔とされているが、これには諸説ある。また南北朝時代に後醍醐天皇方について活躍した、美作菅家党という一族も道真の末裔とされている。
以上が菅原氏の概略である。
 
6-3)<大江(大枝)氏>    (大江氏詳細系図参照)
 大江氏は元々「土師諸上」が790年「大枝」の姓を賜ったことに始まる。本拠地は山背国乙訓郡大枝郷である。現在の京都市西京区大枝である。大枝柿の名産地である。筆者の住む長岡京市の隣である。昔は長岡京市も大枝も共に乙訓郡であったので同じ郡内である。
ここに住んでいた土師氏は元々和泉国の百舌鳥にいたものの一部がこちらに移ったものとされている。乙訓郡出身の唯一の古代豪族といえる。これが3代「音人」の時「大江」に改姓されたのである。
本論に入る前にもう少し「大枝」について述べておきたい。
前述したように、この地こそ、50桓武天皇の祖母「土師真妹」の住んでいた所である。真妹は「土師富杼」の娘とされている。この人物は、天智朝に百済救援軍に従ったと日本書紀に記されている。それ以外にはよく分からない。その娘が川向こうの河内国交野付近にいた(諸説あり)渡来系の和乙継(後の高野乙継)と結ばれ「新笠」が生まれた。兄に「祖麿」がいた。
その頃の女姓は、結婚後も自分の家にいたので、新笠は大枝で生まれた可能性が高い。さらに新笠は若い頃の「白壁王」に何かの縁でこの大枝の地で出会いがあったとされる。よって桓武天皇もこの大枝の地で生まれ育った可能性があるともされている。
桓武天皇が何故、奈良の都を捨て、山背国乙訓郡長岡の地に新都「長岡京」を造ったのかの理由の一つに、この生まれ故郷説がある。ちなみに高野新笠の御陵はこの大枝の「沓掛」と言う所にある。
この辺りの推論を村尾次郎が「桓武天皇」吉川弘文館(1996年)で詳しく記しており、現在もこの説は無視出来ないとする支持者がある。勿論桓武天皇は奈良付近で誕生したとする説もある。かほどにこの大枝という土地は筆者にとって身近な存在である。京都の西の端の集落である。真妹の兄もその子供も外従五位下という位を有し、奈良の朝廷に仕えていた形跡がある。大枝氏の初代諸上も奈良にいたらしく正6位上になっている。しかし、まともな貴族とは言えない位である。これが3代大枝音人改姓「大江音人」になってから歴史上にはっきりと登場する。平安時代に入ってからである。
大江音人の父は、大枝本主であるが、この人物はよく分からない。一説では阿保親王の落胤であるという。また別の説では阿保親王の側室であった中臣氏女が本主の嫁となり生まれた子供が音人で、これが阿保親王の落胤だという説もある。筆者人物列伝は、これに従ったが、史実かどうかはっきりしない。太田 亮はいずれの説も作り事である。としている。音人は811年生まれである。土師氏初代野見宿禰から直系で17代になる。野見宿禰を垂仁天皇朝の人物とすると320年頃と仮定すると一代約29才で継いで来たことになる。これは不合理ではないが一寸長すぎる感はある。
大江氏も菅原氏と同じく学問・文章を得意とする一族となった。菅原氏とは非常に密な関係があった。音人も864年には参議、874年には従三位の公卿となり、道真の父是善より早く公卿になったのである。
それ以降大江氏からは多くの政治家・歌人・文化人が輩出された。女流作家として有名な「和泉式部」もその一人である。赤染衛門も関係者の一人である。
平安中期平安時代有数の碩学と言われた大江匡房という人物が現れる。この人物は八幡太郎源義家にも師と思われた程の人物である。大江氏としては最高位の正二位大蔵卿となりその後の大江氏の繁栄の祖となった。その曾孫に相当する人物が鎌倉幕府の基礎を造った大江広元である。父「維光」の嫡男として匡範がおり朝廷に仕えこの流れから堂上家「北小路家」が発生している。大江氏としては唯一の堂上家であり、こちらが本来の大江氏の本流であろう。菅原氏とはかなり見劣りがする扱いである。
一方武家大江氏祖呼ばれる大江広元 について、述べたい。
「広元」の出自に関しては古来諸説ある。
・大江維光の実の子供で中原広季の養子となったが後に大江姓に復姓した。
・実の父は藤原長家流の光能の子供であり、母が中原広季と再婚したので広季の養子となり、さらに藤原光能の別の妻が大江維光の娘であった関係で維光の養子となり大江姓を名乗った。(筆者参考系図大江広元詳細系図参照)
・大江維光の娘と藤原光能との間に生まれ子供である。この母が中原広季と再婚したので中原広元と名乗ったが後に大江維光の養子になり大江氏となった。
など謎である。いずれにせよ腹違いの義兄弟に中原親能がいたのである。
この人物が源頼朝の挙兵以来頼朝に従っており、この人物の紹介により京都の公家出身の文筆才能ある人物として、鎌倉幕府の主に事務方の幕僚として、幕府に迎え入れられたとされている。鎌倉幕府の礎を築いた人物である。これ以降この流れは武士として発展していくのである。
子供に「毛利時広」という人物がいる。相模国毛利庄を領地としたのでこの姓がついた初代である。その妻が三浦一族の首長であり、鎌倉幕府の重臣であった「三浦義村」の娘である。北条氏が幕府の実権を握り目障りのなった三浦氏を滅ぼすために行った「宝治の合戦」(1247年)では、三浦氏に関係する一族は皆三浦氏に付き戦った。毛利時広もその一人であった。この戦に敗れ「時広」の子供も越後に赴任していた「経光」を除いて総て自害したとされる。この経光だけは助かりその子孫から戦国大名「毛利元就」が出たのである。この流れから戦国大名吉川氏・小早川氏が生まれた。
余談ではあるが、筆者のご先祖もこの宝治の合戦で三浦軍についた武人であったと旦那寺(三浦氏一族の寺)にある古い過去帳に記されてあったのには驚いた。
この戦に敗れた三浦軍の武将は約五百数十名同時自害するという壮絶なものであったとされている。(上記寺にはこの500名余りの武人の名前と戒名、三浦氏との関係が記された古文書も残されている)
大江広元の子供に「宗光」という人物がいる。(参考系図:大名家永井氏系図参照)これは那波氏の養子となるが、大江姓に復姓してその末裔の娘が、源頼朝の父「義朝」を殺害した長田忠致(主君暗殺者とされている)の兄弟「親致」の末裔「広常」と結婚し、その子供の流れに「徳川家康」の幕臣であった「長田直勝」という人物がいた。家康は主君暗殺につながる「長田」という姓を嫌い、長田直勝を元々は女方の姓である大江姓に戻した。そして永井姓を名乗らせた。即ち大江氏・永井直勝としたのである。これが長岡京市にあった勝竜寺城の城主となった「永井直清」の父である。
直勝は、勝竜寺城の元城主「細川幽斎」とも親交があったようである。
勝竜寺城は、細川ガラシャとして有名な明智光秀の娘「お玉」が細川幽斎の嫡男「忠興」とが結婚したした場所でもある。
息子「直清」は1633年勝竜寺城城主(2万石)となり1649年高槻藩主(3.6万石)となり、幕末まで高槻藩は永井氏であった。
一方勝竜寺城は直清が高槻に移ってから後は、廃城となった。乙訓郡にあった最後の城であった。現在勝竜寺城公園として残されている。
古代豪族大江氏が発生したのが「山城国乙訓郡大枝郷」である。そしてその約800年後に、その末裔の大名である大江氏「永井直清」が最初に城主になったのが「山城国乙訓郡勝竜寺村」にあった勝竜寺城だったのである。乙訓郡内にもかなりの知行地を持ったとされる。
その間の距離は数Kmである。
何かの縁を感じざるをえない。
大江広元の嫡男「親広」の流れが武家大江氏の本流と思われるが、子孫は繁栄したようだが特記すべき事項がないので省略する。
 
以上で出雲氏の派生氏族である土師氏・菅原氏・大江氏について概観した。
再度述べるが、これだけ記すべき内容のある大氏族となりえたのも「高野新笠」という全くの偶然の女性の縁があったればこそと思わざるをえない。
その原点は山城国乙訓郡なのである。菅原道真の領地が乙訓郡開田村にあったとも言い伝えられている。
その縁で長岡天満宮が現在の長岡京市にあるのである。
 
7)まとめ
①土師氏は、出雲氏本流出雲臣氏と後に呼ばれるようになる氏族からの派生氏族といわれているが、史実として血脈的に出雲臣氏と繋がっているかどうかには疑問も残されている。
②野見宿禰を元祖とし、記紀には時々土師氏に関連するものもあるが、奈良時代末期までこれといった事績はない。
③50代桓武天皇の時代に入り、急激に一族の活躍が始まる。これは桓武天皇の母親「高野新笠」が山城国乙訓郡大枝郷に本拠をおいた土師氏に関係していたことに端を発したものである。
④桓武天皇が、この「大枝郷」あたりで幼年期を過ごした可能性があることが指摘されている。
長岡京遷都の一つの理由とされている。筆者もこの可能性は十分あると判断している。
④土師氏から、秋篠氏・菅原氏・大江氏が分派した。これらの中の有能な人材が主に学問・文章を得意として朝廷内で認められそれぞれ公卿を出す氏族になった。
⑤特に菅原道真は、59宇多天皇に寵愛され60醍醐天皇の時、右大臣にまでなった。娘は天皇妃・親王妃となり、藤原氏の勢力に迫る勢いになった。
⑥遂に藤原氏の逆鱗にふれ、「道真」は太宰府に左遷された。これにより一時菅原氏の勢力は低下するが、間もなく復権し、鎌倉時代以降「源平藤橘」に次ぐ公家社会の地位を保った。
⑦一方、大江氏は、菅原氏とは一寸遅れるが朝廷内でその実力が認められ、匡衡・匡房などの学者を輩出、和泉式部のような女流作家も輩出した。
⑧さらに鎌倉幕府の創立に公家として貢献した大江広元は、その後「毛利氏・永井氏」などの大名家を輩出する祖となった。
⑨鎌倉時代以降では、菅原氏も大江氏も武家に転じる者も多く日本の各地で活躍した。
⑩山城国乙訓郡出身の古代豪族は、大江氏だけである。乙訓郡最後の城である勝竜寺城の最後の城主である「永井直清」が、この大江氏の末裔の一人であることは、余り知られていない。               (2007-3-15 脱稿)
 
8)参考文献
・桓武天皇 村尾次郎 吉川弘文館(1996年)
・桓武天皇 井上満郎 ミネルヴァ書房(2006年)
・大江匡房 川口久雄 吉川弘文館(1995年)
・菅原道真 坂本太郎 吉川弘文館 (1989年)
・大江広元 上杉和彦 吉川弘文館(2005年)
・「姓氏家系大辞典」太田 亮 角川書店
 
         その他多数。”

※土師氏・菅原氏・大江氏系図は直接このサイトで見てください。

算道
https://kotobank.jp/word/%E7%AE%97%E9%81%93-71198#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

明経 (みょうぎょう) 道,文章 (もんじょう) 道,明法 (みょうぼう) 道とともに,令制で設けられた大学寮 4道の一つ。博士2人と算生 30人 (のち 20人) を有する独立学科。その教科書として『孫子』『五曹』『九章』『海島』『六章』『綴術』『三開重差』『周髀』『九司』が用いられた。算道終了者は,各官司の算師や,主計寮,主税寮などの吏員となり,行政実務にあたった。
のち算博士は三善,小槻両家の世襲となり,
三善家出身の博士は算道の教授に,小槻氏出身の博士は諸国の調賦算勘
の職にあったという。

大学寮の一学科で、算術を教授した。職員令(しきいんりょう)に算博士(はかせ)2、算生30がみえる。平安初期、明経(みょうぎょう)、文章(もんじょう)、明法(みょうぼう)とともに大学寮の四道を形づくるに至るが、他の三道にくらべ小規模であり、802年(延暦21)には算生が20人に減定されている。学生は九章、海島、周髀(しゅうひ)、五曹(ごそう)、九司、孫子、三開重差などの教科書を学んだ。
算道出身の官人は多く主税(しゅぜい)、主計(しゅけい)、木工(もく)などの寮にあって専門知識を生かした。
算道の教官には卑姓出身者が多く、世襲する氏族に小槻(おつき)氏や三善(みよし)氏が認められる。
三善清行(みよしきよゆき)は『奉菅右相府書』のなかで、「遊学の次(ついで)、偸(ひそ)かに術数を習う」と記しており、9世紀後半のころ算道が三善氏の家学化してきていることを示している。[森田 悌]
『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』”

(地位が低かったので今の支配層は優遇しているかも)

明法道
みょうぼうどう
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%B3%95%E9%81%93-139796#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

大学寮の一学科で、律令(りつりょう)の研究、教授を行った。
教官を明法博士(はかせ)、学生(がくしょう)を明法生と称するが、令の規定にはみえず、728年(神亀5)に教官2、学生10を置いた。
令制に明法道の教科書はみえないが、学生は律と令とを学んだと思われ、
『延喜式(えんぎしき)』では律を大経、令を小経に准じ講説すると規定している。
 明法道出身者を試験する明法試は律令10条を問い、
義理に識達し問われて疑滞なきものを通とし、全通を甲、8以上通を乙とし、位階を与えた。明法道出身者は多く刑部(ぎょうぶ)省、弾正台(だんじょうだい)、衛門府(えもんふ)などの官人に採用され、専門知識を生かした。
法律知識を有する官人への需要は多く、802年(延暦21)には明法生の定員が20人に加増されている。
ただし刑獄を扱うことから上級貴族にして明法道に学ぶものは少なく、教官、学生ともに卑姓出身者で占められた。律令を習得した明法生が明法試を受けるのが令規であるが、
10世紀後半になると明得業生(とくごうしょう)ないし准得業生の宣旨(せんじ)を受けたもののみが明法試を奉ずるようになった。
9世紀から11世紀にかけて讃岐(さぬき)氏や惟宗(これむね)氏から卓越した明法家が輩出したが、
11世紀末になると坂上(さかのうえ)、
中原両氏が明法博士家として固定し世襲となった。[森田 悌]
『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』”

(中原氏はわからないが、
坂上氏は地位が低かったので今の支配層は優遇している。
おじゃる丸!


明経道【みょうぎょうどう】
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E7%B5%8C%E9%81%93-139753#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
”律令制下の大学寮における四道の一つ。《論語》《孝経(こうきょう)》などを中心に経学(けいがく)を修める学科。初めは経学のみが本科であったが,
奈良中期に文章(もんじょう),明法(みょうぼう)の二道が分離独立し,
平安時代に入って経学も明経道の名で呼ばれるようになり,算道を加えて四道と称された。やがて文章道の隆盛に伴い衰微,清原・中原の2氏が明経博士を世襲した。

大学寮の一学科であるが、一般科ないし予科的性格をもつ。
中国の経学(けいがく)を修めるもので、職員令(しきいんりょう)に規定された400人の学生すべてがここに所属する。令制教官は3名、のち5名に増員された。『周易(しゅうえき)』『尚書』『周礼(しゅらい)』『儀礼』『礼記』『毛詩』『春秋左氏伝』『孝経(こうきょう)』『論語』などを学び、
律令官人に必要な儒教思想を身につけることを求められた。学生はまず音博士(おんはかせ)について教科書の音読を学び、ついで博士、助教について講読を受けた。旬ごとに1日の休仮(暇)(きゅうか)を与えられたが、休仮の前日に博士の考試を受けねばならず、また1年の終わりには大学頭、助の試を受け、大義八条を問い、二経以上に通ずるものは官吏に推薦された。
明経道を専攻的に学んだ著名人に空海、
藤原三守(みもり)、忠貞王などがおり、空海の伝には、大学に経遊し、直講味酒浄成(うまききよなり)について『毛詩』『左伝』『尚書』を読み、岡田博士に『左氏春秋』を問うた、とある。
9世紀段階までの明経道教官にはさまざまな卑姓出身者が知られるが、
10世紀末になると中原、清原両氏が明経道博士家として固定してくる。

 また学生は教官の経書講説を終えると式部省頭、助の試である明経試を受けることが令の規定であるが、10世紀初めに至ると、明経得業生(とくごうしょう)となったものが明経試を受けるのが原則となった。[森田 悌]
『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』

(明経道系で最も優遇されているのが空海)

紀伝道
きでんどう
https://kotobank.jp/word/%E7%B4%80%E4%BC%9D%E9%81%93-51151#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
”平安時代の大学寮における学問四道の一つ。中国の正史『史記』『漢書』『後漢書』の三史と『文選 (もんぜん) 』などの詩文を教科とする。元来,令制大学寮の規定には,三史や文章の教科はみえないが,神亀5 (728) 年大学寮に文章 (もんじょう) 博士1人をおき,『文選』の講読や作文の教授にあてた。のち吉備真備が唐から帰朝し,史書 (紀伝) 尊重の風を振興,
大同3 (808) 年初めて紀伝博士1人を文章博士と併置し,ここに紀伝道の名は公的になった。
しかしのち良家の子弟の多くが文章道を志し,
紀伝道がふるわなくなると,承和1 (834) 年紀伝博士を廃して,文章博士を2人とし,以後,紀伝と文章とは同義語となった。


律令制度の大学寮における四道(主要な4学科)の一つ。四道とは紀伝・明経(みょうぎょう)・明法(みょうぼう)・算。教科内容は《史記》《漢書》《文選(もんぜん)》などの中国の史書や詩文。文章(もんじょう)博士・文章生などから成る学科のため,のちに文章道の呼称が生じたが,正式名称ではない。明経道に代わり平安時代から特に重んじられ,学者の登竜門とされた。しかしのち文章博士は菅原・大江2氏の独占。

他道たとえば明経道では、明経博士、明経生からなる学科を明経道と称したのに対し、
文章博士、文章生などからなる学科を紀伝道と称することとなった。
紀伝道は、文章道と別個の道(学科)を形成するものではなく、
文章道と同じ道で職掌任務も一部分担するものである。

紀伝道の家としては、平安時代を通じて菅原(すがわら)、大江、藤原氏の南家、式家、北家日野流があり、5家が独占した。[山中 裕]
『桃裕行著『上代学制の研究』復刊(1983・吉川弘文館)』”
紀伝道は土師氏系の菅原と大江が独占。こりゃあ今の支配層が優遇するわ。
大半の紀伝道の説明で、藤原氏の南家、式家、北家日野流が省かれているのが意図的だなあ。
土師氏の完全独占ではなかったのね。
高位の貴族は紀伝道を目指すだろうね。



文章道
もんじょうどう
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E7%AB%A0%E9%81%93-143184#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8

律令制の大学寮で教えた4学科の一つ。漢詩文と歴史を内容とする。最初大学では学科の分科はみられず,経学 (明経) を中心としていたが,漢文学の隆盛に伴い神亀5 (728) 年に漢詩文を内容とする文章道が明経道から独立し,平安時代に入るとますます盛んとなり,歴史を内容とする紀伝道 (きでんどう) と合体し,貴族の学問の中心となった。教科書には『史記』『漢書』『後漢書』など中国の歴史書や『文選 (もんぜん) 』などの漢詩文集が使用された。

〘名〙 令制下の学制で、大学寮の学科の一つ。また、そこで学ばれた学問。紀伝道の俗称。中国の詩文および歴史を読み、漢詩文を作ることを学ぶ学科。令の官人登用試験の秀才・進士両科に対応する課程として次第に明経道から分離し、天平二年(七三〇)に教官・学生を具備する学科として制度的にも独立した。紀伝道とも呼ばれ、平安中期にはそれが公称となる。もんじょう。”


三足鳥(サムソグ)の痕跡
http://www.kingchin.jp/11_J.html
”ある日、金蛙王のもとに、太伯山(白頭山)の南にある優渤水の漁師が嘆願に来た。 
魚を盗んでいく獣がいるので、捕まえて欲しいというのである。金蛙王は「網を投げて獣を捕まえよ」と命じた。だが、網が破られてしまった。そこで鉄製の網を投げ、やっと岩の上に座っていた奇妙な獣を捕まえた。それは女性のようだが、唇が異様に長く口がきけなかった。そこで、その唇を短く切り取ると、ようやく人の言葉を話し始めた。 彼女の話では、彼女は青河(鴨緑江)の河伯(水神)の娘で柳花(ユファ)といい、いつも二人の妹と熊心淵の辺りで水遊びをしていたが、偶然に解慕漱が、そんな三人の様子を観ていた。そして、「水神の娘であれば、私の跡継ぎに相応しい子を得られるだろう」と考え、神力で岸辺に黄金に輝く宮殿が建て、部屋には三人分の御馳走や酒を十分に用意して姿を隠した。

 好奇心に駆られた三人姉妹が宮殿に入り、酒食に酔い痴れてしまったとき、突然解慕漱が現われた。姉妹は驚いて逃げ出そうとしたが、慕漱王は扉の前に立っている。妹を逃がした長女の柳花は捕らえられ、強引に妃にされてしまった。 妹たちの急報を聞いた父の河伯は烈火のごとく怒り、解慕漱と対決するが、天帝の子である解慕漱(ヘモス)には敵わなかった。そこで柳花を解慕漱の嫁に差し出すことにしたが、河伯は解慕漱にとっては一時の遊び心ではないのかと不安になり、解慕漱を酔わせ、柳花と一緒に革の輿に閉じ込め、解慕漱の龍車に乗せた。 こうすれば柳花も一緒に天界に連れて行くしかないだろうと考えたのだが、目を覚ました慕漱王は煙のように輿から抜け出ると、一人で天界に戻って行った。そして、慕漱王は二度と戻ることはなく、捨てられた柳花は怒り狂った父によって唇を引っ張られ、三尺にも伸びてしまった。そして、優渤水に追放されたというのである。

金蛙王は柳花を王宮に連れ帰ると別宮に閉じ込めた。やがて彼女の懐妊の報せが届いた。

 日光が柳花の胎内に宿ったというのだ。やがて、柳花は大きな卵を産み落とした。

 それを不吉な現象だと思った金蛙王は、卵を家畜小屋に捨てさせたが、家畜が卵を守り、荒野に捨てると鳥獣も卵を守るので、金蛙王は自分で卵を壊そうとした。だが、どうやっても割れない。遂に諦めて卵を柳花に返し、養わせることにした。 やがて卵の殻を破って男の子が出て来た。生まれながらに異様な能力の持ち主で、生まれて一月も経たないときから母親と会話をした。ある日、ハエがうるさくて眠れないというので、蔦で弓、竹で矢を母が作って与えると、その矢で糸車の上のハエを射落として見せたという。弓術の才能に優れ、七歳の頃には自分で作った弓矢で百発百中の腕前を誇った。扶余国では弓術の名手者を「朱蒙」と尊号することから、この子の名前は解朱蒙となった。

金蛙王には七人の王子がおり、いつも一緒に遊んでいたが、末弟の朱蒙には天与の才能があるので、兄の王子たちは羨ましくもあり腹立たしくもあった。あるとき、金蛙王が朱蒙ばかりを褒めるのが悔しくて、兄たちは朱蒙を木に縛り付けて帰ってしまった。すると朱蒙は縛られた大木を引き抜いて帰ってきた。恐るべき怪力を持っていたのである。 長兄の帯素は優秀な朱蒙に皇太子の地位を奪われることを恐れ、金蛙王に「朱蒙はあまりに人間離れした力を持っております。しかも私たちとは血筋が異なります。今のうちに排除しないと、いずれは国にとって災いになるでしょう」と進言した。そのときは金蛙王も一笑にふしたが、だんだんと疑わしい気持ちになり、朱蒙に冷淡になっていった。

 それを母に告げると「いつか、お前が出て行くときのために」と駿馬を与えてくれた。

 やがて柳花は王子たちが朱蒙暗殺を謀議していることを知ると「この国に留まって恥辱を受けるより、遠くへ行って自分の本領を発揮しなさい」と言って、逃亡を勧めた。 朱蒙は国を出る決意をしたが、母を連れては行けない。恐らくは今生の別れとなるだろうと朱蒙が悲壮な表情をしていると、母が五穀の種を包んで渡してくれた。

鳥伊、摩離、陜父という三人の友が朱蒙の旅立ちに同行した
。四人は馬を駆って、淹滞水という河に着いたが橋がなくて渡れない。背後には追討兵が追ってくる。朱蒙は馬鞭で天を指し、天神に祈願した後に水面を打つと、無数の魚やスッポンが川面に浮かんで橋を作ってくれ。朱蒙らが無事に河を渡り終え、追討兵がその橋を渡り始めると、忽然として橋は消滅し、橋の上にいた者は溺死した。

 朱蒙は逃避行の途中で三人の賢者と出会い、一緒に旅して卒本洲に着いた。

 そこは肥沃な土地だったが、すでに卒本扶余という国が在った。だが、その王には継嗣がいなかった。王は朱蒙が常人離れして優れているのを見抜き、自分の三人の娘から次女を妃として与えた。
やがて、王が死ぬと、朱蒙は王位を継ぎ、国名を高句麗と号し、解姓も改めて高朱蒙と名乗った。ときに朱蒙二十二歳。紀元前37年のことだと言われ、人々は天(太陽)の子である彼を東明王と呼んだ。

建国の評判を聞いて四方から人々が高句麗に定住したので、次第に繁栄していった。”

高句麗建国者が
太陽光の息子で
母が川の神の娘で
処女懐胎で誕生
これが元ネタの桃太郎を明治政府が公式採用。
太陽崇拝+キリスト属性。
南朝優遇の明治政府による
北朝も多少は優遇してますよアピール



新羅明神像(しんらみょうじんぞう)
http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/picture/01.htm
”新羅明神像(しんらみょうじんぞう)
・重要文化財 鎌倉時代 十三世紀
・絹本著色 縦86.7cm 横39.4cm


新羅明神は、智証大師が唐から帰国する途中、
その船中にあらわれた護法神で、 三井寺の重要な神として北院に祀られています。

特徴
唐服で顎ひげをたくわえた痩身の老翁姿の明神をあらわし、
その下に束帯姿の火御子、笏を持つ般若菩薩と箱を捧げる宿王菩薩を配しています。
明神の頭上円相内には、本地仏である文殊菩薩を描いていて垂迹曼荼羅の形式をとっています。

口を開いて何か唱えているような明神の表情や、 手の長い爪などに異国的なものがただよっています。”


平安仏教における新羅明神*
―園城寺の由来伝承と新羅の彌勒信仰―
袴田光康**
http://210.101.116.28/W_files/kiss9/59800253_pv.pdf
”【日文抄録】
日本天台宗寺門派の本山である園城寺(三井寺)には 新羅明神という神が祀られている。
園城寺の守護神とされるこの神は 寺門派の開祖であり 同寺の再興者
である入唐僧円珍の帰国の船中に現れ、 後に円珍を園城寺の地に導いた神と伝えられている。
しかし 円珍が新羅明神を信仰した事実は認められず、
後世に円珍に付会された伝承と見られている。

このため 正体不明な新羅明神は 対立する円仁一派の赤山明神に対抗して創祀されたものであろうと論じられてきた。
だが 記録の上では 新羅明神が赤山明神よりも早くから朝廷の叙位に与っており、
むしろ 赤山明神の方が新羅明神に対抗した形である。
従って 新羅明神の起源については赤山明神と切り離して独自に考える必要がある
園城寺の由来に関する最も古い記述は、
1062年に記された園城寺龍華会縁起である。
それは新羅明神の海上出現譚、

大友氏の氏寺創建伝承、
教待説話という三つの要素から構成されている。
それらに共通して見られるのは弥勒信仰であるが
特に教待説話において教待が 彌勒之化身 として語られていることは特筆される。
日本の仏教説話では 観音が化身する話が多く
弥勒が生身の人間に化身するという信仰は特異なものだからである。

それならば 弥勒の化身という発想はどこから齎されたのであろうか。
それは 6、7世紀における新羅の弥勒信仰の影響を受けたものと考えられる。
新羅の弥勒信仰は 花郎と結びつくことで独自の展開を遂げた

花郎の制度は 新羅の真興王の37年(576)に定められたが、
三国遺事には次の真智王の代に未尸郎という伝説的な
花郎が出現したことを記している。
その未尸郎の説話では 未尸郎が 彌勒仙花 と
呼ばれる弥勒の化身
として描かれており 日本の教待説話との類似性が注目される。
この未尸郎の説話には
「彌勒仙花 を乞い求めた真慈という僧、
水源寺の門前で真慈を待っていた少年(未尸郎) 少年が彌勒仙花 であることを教える 山霊 (老人)が登場する。
これを教待説話と比較するならば、
真慈は円珍に、
「彌勒仙花 は教待に、
「山霊 は新羅明神に、
それぞれ対応するものとして把握される。
即ち、新羅明神は、本来は山頂や麓の水源地に出現する山神であったと推察される。
天から山に降臨する子神とその母神の信仰が
「彌勒之化身 と護法神の関係に変化したもの
と考えられる
しかしながら 園城寺の由来伝承では 新羅明神は 山ではなく 海に出現して
いる また 「彌勒之化身 である教待は 少年ではなく 老僧として表現されてい
る このことからも 直接的に未尸郎の説話と重なるのではなく 別な要素によっ
て変容されていると考えるべきである。
即ち 彌勒の護法神的性格を帯びた山神が
更に日本神話の塩土老翁と習合することで新羅明神が誕生したものと考えられる。
これは、新羅との関係が悪化した10世紀における 神功皇后神話の再生とも深く関係するものであろう。
神功皇后神話は 流離する母子神の信仰を基盤とするが、
韓半島の仏教の影響を強く受けた八幡信仰は、
9世紀から10世紀にかけて神功皇后神話と結びつくことで、
急激に護国神的武闘性を強めていった。

これと同様の現象
は 「彌勒之化身 を語り継いできた園城寺の伝承についても起こり得たであろう
園城寺の伝承は 円珍を由来譚に取り込む中で 彌勒の護法神を円珍の護法神へ
と変換し 更に円珍と護法神の関係を神功皇后と塩土老翁に重ねることで 新羅明
神を護法神から護国神へと据え直していった
のである。
新羅明神という異国の神の
名も 新羅の神を祀ることで新羅の外患を調伏することを期したからであると考え
られる。 その意味では 新羅明神は 円仁派の赤山明神に対抗する神などではな
かった。
新羅明神は 新羅の山神に起源を持ちながら 自らの故郷である新羅の
神々に対抗するという矛盾した役割を負わされた神である。
それは 外来の神を日本の護国の神として仏教的に習合していく平安仏教の国風化の中で、
新たに生み出された神
であったとも言えるだろう。

* 本稿は科学研究費基盤研究(C)による研究成果の一部である This work was
supported by Grant-in-Aid for Scientific Research(C)KAKENHI(№23520249).
** 日本 明治大学. hakamada@dune.ocn.ne.jp
88 淵民學志․第17輯 (2012)”
(句読点は引用者がつけた)


※花郎(ファラン、かろう)
新羅で10世紀まで続いた、
軍事的訓練や文化的教育機関としての青年組織制度で、
花郎徒は宮廷に臣下や兵士として仕えた。

新羅神社考
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/index.htm






STB
‏ @RC_StB
2016年2月27日
文芸の世界だと、下の名前で呼び捨てにされて一流だよ
「鴎外」「露伴」「芭蕉」「蕪村」「藤村」で通じるよね

三島由紀夫は「三島」とは呼ばれるけど「由紀夫」とは呼ばれない
川端康成も「川端文学」は使うが「康成文学」とは言わない

(太宰と芥川は?
芥川の場合、賞の名前のせいで芥川の方がしっくりくる。
あと森鴎外を森と呼ぶと混同されそうだからでは?
当てはまらない例が多そうな謎ルール疑惑)

ついでに芥川で他にオススメかつ尻要素がない作品も紹介しておく。



原作既読。
小娘は、穢ならしくて貧相だからこそ良いんですよね~。

2015年12月16日
「そうではない 場合もあります」 知ってます。
#クソリプ川柳

(動画コメント抜粋
”「蜜柑」(みかん)は、大正8年(1919年)5月に芥川龍之介によって『新潮』に発表された短編小説。”

”この当時芥川は海軍機関学校に外国語講師として勤務していた
その為に海軍士官待遇の二等定期乗車証を支給されており大船から毎日通勤していたという

”芥川龍之介なら燐寸とゴールデンバットだろwww”

”講和問題=第一次世界大戦のパリ講和会議
これにより山東省の租借地及び南洋諸島が独逸から日本に譲渡された”

”一次大戦みたいな大戦争であっても日常に蕩けて消える”

”「小僧の神様」をMMDドラマに仕立てた人もいたな”



呪術廻戦のネタバレ感想<ジャンプ74話>
https://idononaka.com/jujutsukaisen-netabare74

神智学の影響を受けたボームのオズ・シリーズ、メーテルリンク『青い鳥』、タブッキ再び
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/06/post-778c.html
”前掲の神智学ウィキで「詩人」を閲覧したら、イェイツの名があった。ウィリアム・バトラー・イェイツは(William Butler Yeats, 1865 - 1939)は詩人で、アイルランド文学復興運動の指導者であり、わが国での知名度も高い。

作風から神智学の影響が感じられ、以前本や日本語版ウィキなどで調べてみたが、「黄金の夜明け団」のメンバーだったことしかわからなかった。

今改めて閲覧してみると、日本語のウィキペディアにはイェイツが英国バラ十字協会系「黄金の夜明け団」のメンバーで日本の能の影響を受けたことや
1923年にノーベル文学賞を受賞したことなどは書かれているが、やはり神智学の記述は皆無である。

英語版ウィキには神智学協会との関係について書かれている。
神智学ウィキでは、イェイツが神秘学、スピリチュアリズム、バラ十字運動に興味を持ち、
神智学協会ダブリン・ロッジの重鎮だったと記述されている(→ここ)。

『オズの魔法使い』を書いた
ライマン・フランク・ボーム(Lyman Frank Baum、1856- 1919)の『オズの魔法使い』は日本語版ウィキペディア「オズの魔法使い」に「アメリカ初のおとぎ話」(→ここ)と書かれているように文学史、ファンタジー史、またアメリカの文化史においても極めて重要な作品だと思われるので、神智学ウィキの「作家」で逸早く目に留まった。

ライマン・フランク・ボームがメソジスト派の家庭に生まれたことは日本語版ウィキペディアの「ライマン・フランク・ボーム」に、ボームがルイス・キャロルの1865年の『不思議の国のアリス』から影響を受けていたらしいということは「オズの魔法使い」に出ているが、神智学との関わりについての記述は皆無である。

神智学ウィキによると、ボームは1892年9月4日に神智学協会に入会している(→ここ)。英語版ウィキペディアにも記述がある。ボームが神智学協会のメンバーとなったのは36歳のときであった。

それから8年後の1900年、46歳のときに『オズの魔法使い』がアメリカ合衆国イリノイ州シカゴのジョージ・M・ヒル・カンパニーから初版が出版され、以後20年に渡って14巻からなるオズ・シリーズが刊行された。

オズ・シリーズに神智学の影響がないとは考えられず、ボームが影響を受けたというルイス・キャロルだが、神智学ウィキによると、
ルイス・キャロルは心霊現象研究協会(略称SPR)の会員で、神智学にいくらかの関心があった。彼はシネットの『エソテリックブディズム』のコピーを所有していたという。

過去記事でも引用したが、SPRが誕生した経緯について、ブラウァツキーの伝記ハワード・マーフェット(田中恵美子訳)『近代オカルティズムの母 H・P・ブラヴァツキー夫人』(竜王文庫内 神智学協会 ニッポンロッジ,1981,p.265)には次のように記されている。

マイヤーズは神智学協会に関係のある超常現象に特別な興味をもっていました。彼もその友人達も皆、博学な人達でしたが、最近、自分達の特殊な協会をつくり、このような現象の研究を始めました。

これがSPRと呼ばれるようになった組織なのである。

SPRの設立に関わったフレデリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤース(Frederick William Henry Myers, 1843年2月6日 - 1901年1月17日)は長い間神智学協会のメンバーだった。

ホジソン・リポートの存在もあって、SPRを神智学協会の上位に位置付けた対立構造を煽るような書かれかたをすることが多いが、実際にはSPRは神智学協会の知的で自由な、開かれた雰囲気のなかから生まれた組織であった。

ブラヴァツキーの相棒オルコット大佐はSPRを歓迎して一生懸命に協力したが、ブラヴァツキーにはSPRの研究全体に懸念があったようで、『近代オカルティズムの母 H・P・ブラヴァツキー夫人』(竜王文庫内 神智学協会 ニッポンロッジ,1981,p.266-267)には次のように記されている。

彼女はこの研究全体に懸念をいだいていました。S・P・Rの高慢な英国の知識人達は現象の背後にある人間についての深いヴェーダの考え方については何も知りませんでしたし、自分の徳性の全傾向を変える放棄のヨガや自己放棄については何も知りませんでした。彼等にとっては推理的な心が最高の神でした。彼等の心は非常に訓練されていたかもしれませんが、制限されており彼等がつかもうとしている超メンタル界にはとても及ばぬものでした。――間違った角度から本質的な謙虚さもなくとらえようとしていたのです。

神秘主義者であれば、目に見えない世界の研究には浄化された心の認識力が用いられることを知っているが、SPRのメンバーはそのような心得のないまま、世俗的な心と物質界の装置で無意味な研究を行おうとしてい.るという懸念がブラヴァツキーにはあったのだろう。

ルイス・キャロルは1832年に生まれて1898年に没しており、
ブラヴァツキーは1831年に生まれて1891年に没しているから、2人は同時代を生きている。神智学協会とSPRの形成期に、ルイス・キャロルが双方に興味を持ったとしても不思議ではない。


ホジソン・リポートに言及したついでに書いて置くと、神智学ウィキに「Category:People who encountered Mahatmas」というのがあって、マハトマに遭遇した人々――38人――がリストアップされている。興味本位な記述ではない。

一方で38人全員が精神障害者かペテン師か、あるいは霊媒だったと想像するのであれば、
他方でブラヴァツキーを代表者に選定して彼女を霊媒でペテン師だったと性急に結論づけたかった人々の利害と目的は何だったのかと想像するのでなければ、バランスがとれない話である。

いずれにせよ、ホジソン・リポートの虚偽性は1977年にSPRの別のメンバー、ヴァーノン・ハリソンによって暴かれた。

『青い鳥』を著したモーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck, 1862 - 1949)についても、調べてみたい。 ⇒調べました。拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の次の記事にまとめています。

63 心霊主義に傾斜したメーテルリンクの神智学批判と、風評の原因
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/09/15/161504”
”ネット検索でメーテルリンクがSPR(心霊現象研究協会)フランス支部のメンバーだったとの情報に接したが、ソースの確認ができなかった。

輪廻説に神智学説を代表させ、アンニイ・ベザント(アニー・ベザント*7)に神智学者を代表させてこれらを批判し、神智学上の仮説は「感傷的な論議にすぎない」と結論づけ、退けている。

それに対して、結論を含む140ページがSPR(心霊現象研究協会)の説に沿った考察となっているのである。

メーテルリンクは断言する。

 新接神学の注目すべき宣伝者アンニイ・ベザント夫人の次の言葉は尤もである。
『更生説ほど偉大な智慧の祖先を背後に有する学説は無い。
最も賢明なる人間の意見をか程に味方につけている物はない。マックス、ミュラが行った様に、人道の最大の哲学達がそれ程完全に一致している学説はない。』
 これは皆全く真実である。けれども今日の吾等の疑り深い信仰心を征服する為には他の証拠を要する。
私は近代新接神学者達の主な著作を探したが一としてそれを発見しなかった。彼等はただ最も漠とした独断的言説を繰返すに止まるのである。彼等の最大の言説主要なそして、容赦なく言えば、彼等が依拠する唯一つの言説は感情的なものにすぎない。*8

SPRのメンバーであったような人々がどれほど執拗に証拠を求めたかが、このメーテルリンクの言葉だけからしても察するに余りある。

神智学協会の目的は次のように掲げられている。

1. 人種、肌の色、宗教の差別をせず、人類の普遍的同胞団の核を作ること。

2. アーリア人及び他の民族の聖典の研究、世界の宗教及び科学の研究を増進すること。及び古代アジアの文献、即ちバラモン、仏教、ゾロアスターの哲学の重要性を証明すること。

3. あらゆる面で、自然の秘められた神秘を探究し、また特に人間に潜在するサイキック及び霊的な能力を研究すること。*9

Annie Wood Besant,1847-1933.
「アイルランド生まれ。
1889年,神智学協会に入会,インドに渡り,ベナレスカレッジを設立する。1916年にインド独立運動のための自治連盟を組織し,1917年には国民会議派の議長になる。1907年~1933年の間,インド神智学協会の総裁を務める(二代目会長:引用者註)。リードピーターと共に,J・クリシュナムルティのメシア教化を推進した。”

76 モーリス・メーテルリンク『青い鳥』の罪な象徴性について
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/10/13/213637
"
『青い鳥』は、1908年に発表されたメーテルリンクの戯曲である。メーテルリンクは1911年にノーベル文学賞を受賞した。

わたしは子供向けに書き直されたものしか読んだことがなかったので、改めてメーテルリンク(堀口大學訳)『青い鳥』(新潮社、1960・初版、2006・改版)を読んだ。

『青い鳥』は、貧しい木こりの家に生まれた兄チルチルと妹ミチルが、
妖女ベリリウンヌに頼まれた青い鳥を、お供を連れて探す旅に出るという夢物語である。

妖女の娘が病気で、その娘のために青い鳥が必要なのだという。

兄妹は、思い出の国、夜の御殿、森、墓地、幸福の花園、未来の王国を訪れる。
見つけた青い鳥はどれも、すぐに死んでしまったり、変色したりする。

一年もの長旅のあと、兄妹が家に戻ったところで、二人は目覚める。

妖女にそっくりなお隣のおばあさんベルランゴーが、病気の娘がほしがるチルチルの鳥を求めてやってくる。

「あの鳥いらないんでしょう。もう見向きもしないじゃないの。
ところがあのお子さんはずっと前からあれをしきりに欲しがっていらっしゃるんだよ」*2と母親にいわれて
チルチルが鳥籠を見ると、キジバトは青くなりかけていて(まだ完全には青くない)、青い鳥はここにいたんだなと思う。

チルチルには、家の中も森も以前とは違って綺麗に見える。
そこへ元気になった娘が青い鳥を抱いてやってきて、チルチルと二人で餌をやろうとまごまごしているうちに、
青い鳥は逃げてしまった……

結末にも希望がない。

自分の家に生まれてくることになる未来の弟に、チルチルとミチルは「未来の王国」で会う。
その子は「猩紅熱と百日咳とはしか」*9という三つもの病気を持ってくることになっている。そして死んでしまうのだという。

既に両親は、男の子3人と女の子4人を亡くしている。母親はチルチルとミチルの夢の話に異常なものを感じ、それが子供たちの死の前兆ではないかと怯える場面がこのあと出てくるというのに、またしてもだ。

新たに生まれてくる男の子は、病気のみを手土産に生まれてきて死ぬ運命にあるのだ。

このことから推測すると、
最後のチルチルの台詞「どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返してください。
ぼくたち、幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」*10は意味深長だ。

今は必要のない青い鳥だが、やがて生まれてくる弟の病気を治すためにそれを必要とするようになるかもしれないという暗示ではないだろうか。

結局、青い鳥が何を象徴しているのかがわたしには不明であるし、
それほどの象徴性が籠められているようには思えない青い鳥に執着し依存するチルチルの精神状態が心配になる。

ちなみに、青い鳥を必要とした、お隣のおばあさんの娘の病気は、神経のやまいであった。

医者は神経のやまいだっていうんですが、それにしても、わたしはあの子の病気がどうしたらなおるかよく知っているんですよ。けさもまたあれを欲しがりましてねえ。*11

娘の病気はそれで治るのだから、鳥と接する気分転換によって神経の病が治ったともとれるし、
青い鳥が一種の万能薬であったようにもとれる。"


(青い鳥
=青ロッジのフェニックス+マハトマ+アートマンかと思ったが違うっぽい。

”キジバトは青くなりかけていて(まだ完全には青くない)”だから
霊性進化した存在の象徴?

”見つけた青い鳥はどれも、すぐに死んでしまったり、変色したりする。”

青い鳥は死んだりするから
不滅なるアートマンではない。
死んで復活しないみたいなので不死鳥でもない。
でもそれは偽物あるいは霊性進化度合が足りないだけかもしれない。
そもそも聖書思想の影響下なので
霊的地位は鳥より人間の方が上。

マハトマ本人(そもそも人と呼ぶべきなのか?)は不滅だろうから
マハトマでもない。

未来の弟が病死すると判明することと
最後の青い鳥は逃げた=まだ役割を果たす時ではない。

結論。
青い鳥
=マハトマが遣わしたメッセンジャー、導き手であり、
霊的成長、進化を促し、
死の運命すら変えうる、
治癒の奇跡をもたらす存在。


あくまで私の解釈。




(神という字を書いてみよう その1【20120212】
https://web.archive.org/web/20150715101058/http://www.mkmogura.com/blog/2012/02/12/1064
”宗教という詐欺師の看板の仕組みを理解するためには、その看板が薄っぺらいものだと、もっとちゃんと認識する必要がある。
 
そのために先に、この記事から読んで下され。
神道とは何か?そして、そのことの理解が、「どんな派閥が天皇すり替えという今の詐欺社会を作ったか?」に繋がっていくよという、その具体的な話をする前にね。
 
 
「神なんて物はいない。」
 
 
神という字が、普通の神様の意味、創造神として使うようになったのは「明治以降」である。
まあ、自分も最初、聞いたときは信じられなかったけどね。
 
「愛という言葉」ができたのと同じく、キリスト教を中国語の聖書へと訳す際に、出来上がった言葉である。当てた字である。
それが、神という言葉なんだよ。
 
 
そう神様なんて、薄っぺらな詐欺のために出来上がった言葉である。
最初は信じられなかった自分が、そう確信を持った理由を箇条書きにして説明しよう。
 
・神という漢字
・神という字を日本の漢字の先生中国ではどう扱っていたか?
・昔、神という字を使った創造神を否定する決定的な単語
 
 
さて、では、まず神という字を、広告の裏にでも書いてみてほしい。
漢字、これは象形文字である。
つまり、漢字は絵のようになっていて、字体がどうなってるかが、その字そのものの意味へと繋がっているのである。
 
神というのは『示申』と書く。旧書体で「しめすへん+申」
この「しめすへん」というのは、祭壇を絵にした文字であるわけ。
もっと明確に説明しよう。
神社の儀式だけでなく、鏡餅やら、お月見の団子を置くとかで使われる、あの木で出来た台だよ。そう、白木でできた白いヒラヒラがついたアレ。
「〒」これが木で出来たやつで、その横の転々が白いヒラヒラね。
 
そして決定的なのは右側、「申」である。これはカミナリを意味する。
田んぼに落ちるカミナリね。
つまり、神という文字は、「祭壇と雷が落ちる図」という絵を、簡易化した象形文字である。
 
 
ユダヤ教やキリスト教で、YHWH、それとかエホバ(間違ってるけど)、イスラム教ではアラー(al+rar・冠詞とあのラーね)。
エジプトではラー(太陽)であり、一神教的な言い方であっても、アトン(aton)とかアモン(amon)とかである。
これは「あ」から「ん」まで、最初の文字から最後の文字という意味である。
創造神である神をあらわす際に、最初から最後の文字の全てで表すという敬意的な表現になる。
これは、阿吽(あうん)として、仁王像などのように日本、中国にも伝わってきた。
 
神様という物に対しての呼び名は難しい。
世界を作ったという偉業の象徴の為に、彼らの呼び名、文字は、どの宗教でも威厳のある表現方法が必要なわけだからね。
だから神聖4文字YHWHとか、みだりに神の名を呼んではならないとか。
 
 
で、だ。
チョイマテ。日本の神ってどういうことだと。
世界を作った創造神である「神」よりも先に、木で出来た祭壇の箱があるわけで、神様より「木工師」のほうが先に誕生していたのか?と。
 
それに、そもそも世界中にある最も起源的な宗教、その全ては「太陽崇拝」である。
「白人ではないんだから」、カミナリなんてものを創造神として崇めるなんて事自体が、そもそもおかしい。
有色人種である日本人はもちろん太陽崇拝のはずで、アマテラス(天照)という神道もそのはずだよね。
 
 
 
つまり、これキリスト教改という白人の神、ゼウスだろ!と。
 
ここだけでも聖書からきたと聞いて納得してしまうが、ちゃんと最後に納得してくれ。
では、長くなったので、次回に分けよう。
そもそも日本では、八百万の「神」という表現があることでごまかされているが、道祖神やら氏神、氏(うじ)という祖先が「神になる」というのもおかしいし、創造神としての意味で「神」という文字を使うのなら、おかしすぎる表現が多数ありすぎる。
 
その決定的な物を紹介したいと思う。
 
神という字は、あの、今も使われてるような形の祭壇であることでもわかるとおり、中国でも大昔からある字ではなく、後から作られた類の文字だろう。
 
というわけで、箇条書きの次の項目「中国の用法」などなどに続く。”


ド・けちん坊将軍【20120210】
https://web.archive.org/web/20150715030713/http://www.mkmogura.com/blog/2012/02/10/1058
”暴れん坊将軍!!!!
 
 
まあ、実際のことを言うと、「ケチな詐欺師の親玉」みたいな将軍(?)なんだけどね。
豪快でカッコイイなんてもんじゃない。
 
質素倹約という享保の改革を行った、八代将軍である徳川吉宗。
こんなものを架空の歴史で盛り上げてるのも、まあ、水戸黄門という尊王(南朝天皇)の印籠と同じく洗脳である。
 
紀州藩主。
あの伊勢があるとこ=紀州だよ。
幼少で将軍職になった家継という徳川本家の後継ぎが死んで、特異な形で御三家から選ばれたという経緯の特殊な将軍だけど。(俺個人としては、徳川家のTOPってだけで、将軍という呼び名さえなかったように感じるのだが)
 
で、こんな言葉がある。
 
「江戸に多きものは伊勢屋稲荷に犬の糞」
 
 
江戸に増えた悪事をうれう言葉である。
 
伊勢屋=伊勢商人(ケチな詐欺師)
稲荷=ねずみ講
犬の糞=そのまんま
 
(5代将軍の綱吉、犬公方様以降だね、動物保護の精神が生まれて江戸に犬が増えたというのは。当時の江戸の人がつい最近までの中国のように野良猫・野良犬を食べなくなった、って意味になるから。)
 
辞書によるとこうなる(広辞苑)
※伊勢屋
江戸時代、倹約を旨とする商人の異名。伊勢出身の商人がよく節倹身を持して、宵越しの金を持たないことを誇りとした江戸人の間に伍して着々商権を拡張し、「江戸に多きものは伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるまでの繁栄を来したからいう。
 
 
↑辞書ではこう書いてあるが、「伊勢屋=繁盛した」というが、犬の糞と並べて「繁盛した」という表現をする馬鹿はいないだろう。
それは、カレーのおいしさを・・・マテ。
 
まあ、それでも「伊勢屋=ケチ」なのは間違いないでしょ?
で、伊勢=伊勢参りという宗教=詐欺師で、構図は簡単に理解できるわけ。
で、ケチつながりで紀州の吉宗なわけ。
もちろん、伊勢神道=天皇すり替えでも繋がっているわけ。
デフレ政策=ケチだから、とも言えるわけだ。
 
まあ現在も、この広辞苑と同じく、「犬の糞」とイコールな物、当時の「詐欺師が蔓延したよ」と風刺した物を、「伊勢参りは繁盛した」という資料にされてるだろうけどね。
この伊勢という宗教詐欺師が、のちの時代の天皇すり替えに役立ったのは言うまでもないわけですな。
ちゃんと隠蔽する気がないのは、辞書というものが既に、アンチ南朝天皇ともいえる「さすがは百科全書派のながれ」と言いたいところですが。
 
 
まあ、そういうわけで。 
伊勢神道という宗教を江戸に蔓延させ、質素倹約なんて、本人までもケチ臭い&間違っているデフレ政策の吉宗を、「暴れん坊将軍」として、けち臭さを消すための架空のお話「豪快な人物像」という虚像を作っているわけ。
今現在もね。
 
 
伊勢=天皇すり替えの神道
紀州=吉野を中心とした南朝という百済の残骸つながりに一部重なる
 →「紀州藩=真言宗を保護したとこがある」
 
それだけではなく、江戸に宗教詐欺師、伊勢屋を蔓延させた功績と、ケチな奴の親玉であるというのをごまかすための、「暴れん坊将軍」。
 
あと、吉宗は一部洋書を輸入するのを解禁して、それがキリスト教改の国家神道の手先どものできあがる土壌になったから、洗脳=評価されてるというのもある。
まあ、ケチな詐欺師というのが一番だろうけどね。
 
 
まあ、世の中そんなモンです。
 
「江戸に多きものは伊勢屋稲荷に犬の糞」
たった一言だけど、時代背景とか、重要な嘘の骨格を知ってれば、見えてくるものがあったので、こうやって補足できました。
 
犬の糞をありがたがってる人は今も結構いるようで。”

(コメントでカトリックのりおが同祖論を展開w
君が代の起源その1【20120430】
https://web.archive.org/web/20160128120349/http://www.mkmogura.com/blog/2012/04/30/1110
”君が代の起源。
 
 
明治以降から実質的に国歌として歌わされてきた「君が代」。
 
この国歌としての装置。
それは、明治からでもわかることだが、「すり返られた天皇を賛美する装置」そのものである。
国歌自体がナショナリズムと無関係ではいられない装置であるわけで。
そして明治以降に始まった醜悪に機能的なもの、それは「天皇すり替え」を無視していては、答えは見つからない。
 
ロスチャイルドは、君が代を、挽歌「死者を哀悼する歌」と言い。
ロックフェラーは、君が代を、長寿「未来永劫を願う歌」と主張する。
 
なら「君が代は何か?」を自分が説明しよう。
 
 
※ロスチャイルドってなぁに?という素人さんへ、簡単に説明。
日本のロスチャ=憲法9条賛美=左翼。
ロック=憲法改正=右翼で分けてくれればいいよ。

http://www.mkmogura.com/site/menu3.html

  
そもそも、君が代の歌詞は、面白い話だとは思わないだろうか?
 
君が代は 千代に八千代に 細石(さざれいし)の巌となりて
こけのむすまで
 
 
細石(さざれいし)とは、字のごとく「小さい石(川の流れに流される石)」である。
 
「細石が、なぜか巌(大岩、巨石)になる。」
小さな石が、大きい岩になってしまう。
石が大きく育つ?こんな非科学的な話がありえるか?ってことね。
 
こんな不可思議な歌詞のこと。
この部分は、「天皇すり替え」を無視していては、絶対に答えが出ない。
 
こここそが、すり替えられた南朝天皇のための装置として君が代が選ばれた理由でもある。
 
 
なぜ、小さな石が大岩になって、それが長寿の歌とも挽歌ともなるのか?
 
くり返しになるが、「天皇の宗教は仏教であるか神道であるか」
その質問に「ゼンマイ仕掛けの祈祷師」には答えられない。
つまり、大学などの肩書きを持つ歴史研究者で、この同じ属性の話、「君が代について」の答えを、ちゃんと説明できる人は誰一人いない。
 
今日は、序章である。
 
「なぜ石が育つ?」、それが「南朝天皇崇拝にどう繋がるのか?」
これを考えてもらって、次回へと引っ張ろう。
 
 
今は君が代を口ずさんで、気にしてくれるだけで良い。
5秒でいいから考えて欲しい。
文学的にも「とあること」を意識しなければ、絶対に説明がつかないフレーズだからだ。
 
 
この「君が代の話」は、少し遠回りをすることになる。
 
以前の神道の話の記事では、省略した、南朝天皇のためのキリスト教のこと、これもセットで説明したいからだ。
 
中国の漢訳聖書  :  日本の国学である神道

神道で出てきたこの2つの話。

これらは日本と中国、全く関係ない、独立した事象である。
なのに、両方とも、なぜか「神」という創造神にふさわしくないキリスト教が決めた創造神の漢字を使い、その字を使い始めた時期まで完全にリンクしている。
そして明治、神道が出来上がった。
で、明治から、この君が代=賛美歌は作られた(アーメン!)
 
神道についてのこと。
明治以前の仏教の世界の中に、この明治という嘘を作り上げた役者の「集団意識」、血脈みたいなものを見つけることができる。
そこを、もう少し説明したいから。
 
君が代の歌詞、川の中で「さざれ石が岩となった」ように、それは「仏教が神道になった(させた)」という歴史の流れの中のお話。

重なる部分があるのよ。
だからこそ、神道についての補足も一緒にする。
で、「君が代がなんであるか?」をちゃんと説明したい。
 
 
ロスチャが挽歌といい、ロックが長寿と言い張る。
それは、ある意味、両方とも正しい。
 
今の自分は「鎮魂であるともいえる」ぐらいの説明もしておこうか。
では、お付き合い頂きたい。
 

ちなみに、さざれ石とは実在していています。
 
その、さざれ石が取れるとしている岐阜県の春日村というところには、
中曽根康弘の建てた「君が代発祥の地なる石碑」があります。
あと、下鴨神社とかにもあるそうです。
 
まあ、大きな岩には絶対にならないけど・・・。これも説明する。

ちなみに、君が代について、賛成・反対どちらか?というの二元論的な話を。
じゃあ、自分は「替え歌にして君が代を歌います」ということで。
それがなぜかもわかるよ。

On 5月 1st, 2012, アイパッチ さんのコメント:

お久しぶりです。

さざれ石、見たことあります。

実家がお稲荷さんを祀ってまして
(昔引っ越してきた所にお稲荷さんの祠があったのが縁で)
伏見の本社に詣でるのに付き合い
その時に下鴨神社に観光で寄ったときに
見ました。
大きな石に子持ち勾玉みたいに
小さい石がびいっしりと付いてて
不思議な感じでした。

ちなみに僕の誕生日は安陪清明と同一日です。
知ったときにビックリしました。

On 6月 7th, 2012, りお さんのコメント:

ユダヤ陰謀論者が南朝すりかえを批判したり南朝を馬鹿にしたりするので、南朝のルーツがユダヤではないのか知りたいのですよ。

posted on 6月 7th, 2012 at 9:10 PM
12
On 6月 7th, 2012, 管理人まっこうもぐら さんのコメント:

だから、あるわけないって。
今さら、日油同祖ってあるわけないでsy。っと。ただでさえ、日本の日油h、河豚計画の流れから、白人ユダヤ基準になってるし、アブラハムのちを受け継いだ、中東の有色人が基準、スタート地点であって、そこからを理論的に説明してから日油同祖なんぞを語ってくだされ。

On 8月 26th, 2012, 嘉羅久利 さんのコメント:

 摂家神道にだまされてはいけません。古事記をちゃんと勉強しましょう。国家神道屋は日教組と結びつき、歴史変造をしてきました。だまされてはいけません。

posted on 8月 26th, 2012 at 1:47 PM
16
On 8月 26th, 2012, まっこうモグラ(管理人) さんのコメント:

言い聞かせるように、他人に言う言葉は、多くの場合。自分自身に言い聞かせている言葉であることが多い。念仏のように唱えているなら尚更である。

だまされてるもなにも、日教組の歴史改竄については、貴殿よりくわしいですけど…。
神道の分類のこと以前に「創造神としての神」というのが、キリスト教徒によって捏造された捏造なんですけど。
七福神だろうと仏教だろうと、そのなかのインド神だろうと、古事記どころか、漢文だろうと、その後に作られたキリストに重なる意味での神様は存在しません。「天」ならいるけどね。

すべては聖書の訳を神とあてたことにあわせた、でっちあげです。
だまされてはいけません…とはいいません。だまされてたことに気づいたら、受け止める勇気を持ってください。


君が代の起源その2【20120501】
https://web.archive.org/web/20141228232958/http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/01/1112
”歴史の先生に聞いてみよう。
「今の天皇は、南朝なんですか?」と。
 
『あぁ? あんだって???
 もっと、大きい声でいってくれにゃぁ・・(志村風)』
 
間違いなく難聴である・・・。
 
シリーズでお伝えする、君が世と南朝の話。
 
結論を少しだけ言うと、「君が代も南朝」である。
知ってのとおり、「南朝=百済」である。
 
醍醐天皇(醍醐寺=真言宗) → この醍醐の名前を引き継いだのが、明確な南朝である後醍醐天皇(真言立川流&大覚寺系統=南朝のこと)になる。
 
この醍醐天皇のときに右大臣だった人物。
「歴史上、百済系では唯一の出世頭」が、菅原道真であるわけ。
 
で、「北野天満宮=菅原道真」で、「よくわかんないけど学問の神様」で神社を構成しているわけ。
 
そもそも大覚寺というのは「3種の神器が引き継がれたお寺」という嘘になっている。
そもそも、お寺で三種の神器?神道の話?になってるのも、妙な話・・・どころか完全に無理があるのだが・・・。
それ以上に無理がありすぎるのは、「醍醐=仏教の最高真理を意味する単語」である。
こんな名前をつけた天皇なのに、南朝の起源=「神道でした」となってるのだから、もう笑うしかない。
 
こんな嘘だらけ。
 
逆に、その嘘をすくい上げていけば、どんな奴らが「作り上げているか?」が浮かび上がる。

神道=「キリスト教+真言宗+寝返った徳川(水戸学派)+薩摩長州」
このような、もっと大きな意味での「区分けと経緯」は、前回の「神道ができるまで」あたりの記事を、参考にして欲しい。
 
今回は、江戸末期から明治維新の執行者ではなく、彼らの集団意識のみなもと。
「さらに、その起源」ともいえる、もっとピンポイントな話。
その浮かび上がった構図が、君が代の構図とも「完全に重なり」、そして「歌詞の意味がわかる」わけである。
 
どういう流れで「できたよ」という話は、過程の部分を省いているので、「こういう歴史の流れの中のこういう集団」というのを箇条書きに説明する。
 
・桓武天皇(土師氏。菅原氏の起源。毛利=大江の起源)
 天皇の韓国訪問時の発言。韓国の新聞の一面になった最近の話。
「続日本記より桓武天皇の生母が百済系であることでゆかりを感じる」
 その桓武の即位10年に「自分の親戚である土師氏に大江(毛利の起源)の姓を与えたのが起源。
 菅原氏=土師氏。
ね、朝鮮渡来人=土師氏=毛利=百済。だから主君も百済。
 
・嵯峨天皇(桓武天皇の第2皇子)
源氏の起源。
のちの後醍醐天皇の時代、南朝のお寺、大覚寺(真言宗)。
いわゆる南朝のことをを別名、大覚寺系というのだが、その嵯峨天皇の開いたお寺こそ、山号が嵯峨山で、嵯峨御所とも言う大覚寺なわけ。

 
 
・醍醐天皇
 土師氏(仏教界の中の技術者集団の一派である)彼らが作ったのが=醍醐寺(真言宗)など。
 その醍醐の名を持つ天皇に、当時の官房長官(右大臣)に抜擢されたのが菅原道真
→でも、藤原北家の圧力によりのちに更迭(将来の北朝に敗北→悪霊化→神社になる)
 
で、説明不要な後醍醐天皇。
 

おっと、長くなったので、次回に引っ張る。”


君が代の起源その3【20120502】
https://web.archive.org/web/20141228233207/http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/02/1114
”前回の続きである。
少し、後醍醐天皇を絡めて、まとめに入る。
 
たぶん、君が代の話は次回。
 
今の歴史研究の基礎となる日本書紀を編集をしたのは黒板勝美であり、彼の甥は醍醐寺霊宝館館長である。
 
そもそも、歴史を研究するうえで統治者の宗教というのは、一番最初に考えるべきところである。
生物を科学的に研究するのに、哺乳類か爬虫類かを知らずに研究は出来ないのと同じように。
 
しかし、キリスト教徒に言われ、「天皇と神社」という関係をでっち上げた日本では、その最初のステップにさえ到達できていない。
どんだけ、嘘があるんだよ、てなわけで、自分も騙されてる部分があるかもしれない。
 
まあ、他の歴史家、「人間は卵から生まれます=天皇は神道でした」よりは参考になるでしょ?
 
おっと、醍醐という単語でもわかる系譜。
今の嘘を作ってる縦糸(大本教的に言ってみた)
 
それが、前回の記事で箇条書きにした面子である。それを後醍醐天皇でまとめよう。
 
 
この醍醐の名を引き継いだ後継者、後醍醐天皇=南朝なわけである。

醍醐天皇・在位 897~930  後醍醐天皇・在位1318~1339
 
だいぶ離れてるけど、真言宗、土師氏などの、仏教の技術者軍団の中の系譜で、つながってるわけね。
 
 そういうわけで、百済の血縁は、土師氏を中心とした、仏教の中で装飾などを担当する技術者一派を中心に構築されている。
その技術者の中での窓際族(落ちぶれた)であるといえる。
 
だから、「仏教界の中でこれが神道だよ」という嘘が、無理がありすぎるのばかりである。
吉田神道(徒然草、なぜか出家??!!)とか、
吉川神道(毛利)とかね。
もっと、仏教の中で主流の一派だったら、「もっとわかりにくい嘘になっていた」だろう。
仏教の中でろくな功績を立てられなかったから、
「天皇に結びつく寺」が少なく、九鬼氏(海賊&度会氏)の「伊勢神道=天皇」だとかの主張をせざるを得なかったわけで。
 
ちなみに、物部為国という人物は伊勢権大夫という肩書きで、高野山の工事をやったとして、
伊勢→高野山も、落ちぶれた仏教界の技術者で繋がっています。
(仏教反対の物部氏が起源。物部神道。)

 
神道という言葉自体が出来たのが江戸末期。それだけでも無理があるのに。
「ここらへんを神道ですよ~」と捏造を作ってるのが、ここらへんの落ちぶれた=主流になれなかった人たちね。。
 
 
そもそも、鎌倉や伊豆、これら神社が多いところ、そして南朝の元である吉野まで、基本的に「流刑地」で重なる。
流刑地では、仏教以外の崇拝儀礼が残った(許された)わけで、それに頼った形で、今の神社という嘘は出来ている。

 
主流は、藤原氏。
そして仏教の主教である天台宗系(中国つながり。呉織みたいな技術者もいるよ。)、
あと聖徳太子のお師匠さん慧慈(技術者でもある)などから続く、高句麗系の派閥、こっちが主流派で形成されていたわけであって。

よって、のちの南朝、百済は仏教界の窓際族。
その中で、彼らがよりどころとしてる起源をあげると、この面子になる。
 
そういうわけ。
 
補足も少ししよう。
 
最近の天皇の発言でも確定的な「百済系」の桓武天皇。
 
その桓武の親戚である土師氏で、骨格は出来ている。
で、醍醐になって「菅原道真」という唯一の出世頭を排出したが、
でも藤原北家に追い出されて、(更迭)。
さらには、後醍醐天皇の時には吉野に逃げる。文字通り都落ち。
 
ちなみに源氏の先生になるのが、大江匡房(毛利)。
その曾祖父にあたる匡衡に対して先生的な指導をした人物こそが、菅原道真の孫、菅原文時。

百済だけじゃなく、こう繋がってもいる。
ね、つながりなんて簡単でしょ?
 
骨格が仏教の装飾などを担当した土師氏。
 
それが、後醍醐天皇のときに、真言立川流になったこと。
そう考えれば、この意味、「失墜した」というのが、わかるよね。
 
Let’s骸骨本尊セックス!! 【20090504】
異端も異端。窓際族どころか、どれだけ追いやられて、カルト化したんだよ?ってことね。
寺の技術者か骨格。だから大覚寺、醍醐寺で繋がっている。
で、それが真言宗になって、とてつもない落ちぶれっぷり=異端=カルト化したってこと。 
 
はい、おさらい。
 
桓武(百済生母)→土師氏(毛利)→醍醐寺・大覚寺(真言)→醍醐天皇(菅原道真)→後醍醐天皇(真言密教)→滅亡。
 
さて、この構図と「君が代の起源」が関係があるのか?
 
ふっふっふ・・・、はっはっは。あ~はっはっはっは。
 
驚愕の事実に、あなたは3分と持たない!!・・・・・・かもしれない。
 
次回、君が代のできた年代、編纂者などの整理 → その次で、謎解き解決編。”

物部為国(読み)もののべ ためくに
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E9%83%A8%E7%82%BA%E5%9B%BD-1115410
”?-? 鎌倉時代の大工。
東大寺の工匠物部為里の一族とみられる。
貞応(じょうおう)2年(1223)高野山奥院拝殿の造営に従事。
さらに平等院鳳凰(ほうおう)堂の修理,
東福寺仏殿造営にしたがった。

生年:生没年不詳
鎌倉中期の建築工匠。貞応2(1223)年の高野山奥院拝殿造営,
文暦1,2(1234,35)年の平等院鳳凰堂修理で大工を勤めている。
さらに九条道家によって創建された東福寺では,延応1(1239)年上棟の仏殿の大工を勤めた。現存する同寺三門(1405年再建)から考えて,東福寺には大仏様の技法が導入されていたらしく,このことから為国は,重源 のもとで治承4(1180)年の兵火後の東大寺再建工事に携わった伊勢権大夫物部為里の直系と考えられる。新技法である大仏様の普及に東大寺系の工匠の関与があったことを示していて興味深い。<参考文献>大河直躬『番匠』

(山岸常人)

鎌倉時代の大工。生没年不詳。1223年(貞応2)に高野山奥院の工事を〈伊勢権大夫〉の肩書でつとめたことが《高野春秋》に書かれており,文暦2年(1235)の平等院鳳凰堂の修理工事にも参加していることが墨書銘によって判明する。
また1239年(延応1)上棟の東福寺仏殿の大工をつとめていることを示す記録もあり,鎌倉時代に宋からもたらされた新様式である大仏様(天竺様)の技術を身につけていたのではないかと思われる。 ”

物部為里(読み)もののべ ためさと
https://kotobank.jp/word/%E7%89%A9%E9%83%A8%E7%82%BA%E9%87%8C-1115411
"没年:建保1頃(1213)
生年:生年不詳
鎌倉初期の番匠大工。東大寺大勧進俊乗坊重源 に登用され,
桜島国宗と共に東大寺の伽藍再建に活躍した。大仏殿造営の功績により従五位下・伊勢権守の位官を授けられた。
文治2(1186)年から建久8(1197)年まで現役であったことが確認できる。
建仁3(1203)年,東大寺南大門仁王像の造像に結縁し,
晩年には重源への報恩として東大寺大湯屋の湯田として私領田を寄進している。木工寮などの官工系の工匠であった可能性が大きい。のち1220~30年代に,高野山や京都の諸寺の造営・修理に名を現す伊勢権大夫物部為国は為里の系類に属す番匠と推定される。

(永井規男)"

旧嵯峨御所 大本山 大覚寺
https://www.daikakuji.or.jp/about/
"弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。
正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所
とも呼ばれる。
平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。

嵯峨院が大覚寺となったのは、皇孫である恒寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)である。
弘法大師空海のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に1度の開封)として奉安され、
般若心経写経の根本道場として知られる。
明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院である。いけばな発祥の花の寺でもあり、「いけばな嵯峨御流」の総司所(家元)でもある。時代劇・各種ドラマのロケ地としても有名である。

延暦13年(794)、桓武天皇は「山背」を「山城」と改め、新都・平安京に遷都する。
桓武天皇ののちに即位した平城天皇は、病身のため弟の嵯峨天皇に在位わずか3年で譲位するが、平城上皇の平城古京への復都、薬子の乱などの政変によって政局は動揺していた。
遷都から15年、大同4年(809)に即位した嵯峨天皇は、律令よりも格式を中心に政治を推し進め、ようやく平安京は安定をみる。 一方で嵯峨天皇は、都の中心より離れた葛野の地(現在の嵯峨野)をこよなく愛され、檀林皇后との成婚の新室である嵯峨院を建立、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。嵯峨天皇は、唐の新しい文化を伝えた入唐求法の僧侶たちにも深く帰依された。
その代表が弘法大師空海であり特に恩寵を賜り、
弘仁7年(816)には高野山開創の勅許を得、
同14年(823)には東寺も下賜され、真言宗の立教開宗に至った。

弘仁9年(818)の大飢饉に際して嵯峨天皇は、弘法大師の勧めにより一字三礼の誠を尽くして般若心経を浄書され、その間、檀林皇后は薬師三尊像を金泥で浄書、弘法大師は嵯峨院持仏堂五覚院で、五大明王に祈願した。

嵯峨院が大覚寺として再出発することになったのは、貞観18年(876)である。

後宇多天皇が徳治2年(1307)に出家し法皇となり、
法名を金剛性と号し大覚寺に住して第23代門跡
となる。
この時、皇位が皇統や所領の継承をめぐって2分され、亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住したことにより大覚寺統(南朝)と称されることとなる。法皇は大覚寺の再興に尽力され、次々と伽藍の造営に努められたので「大覚寺殿」と称され大覚寺のご中興とされる。しかし、第24代性円門跡の時代、延元元年(建武3年・1336)火を発してほとんどの堂舎を失ってしまう。
元中9年(明徳3年・1392)には南北朝媾和が大覚寺正寝殿で行なわれ、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って大覚寺に入った。しかし、和議の条件が果たされなかったため、応栄17年(1410)、後亀山上皇の吉野出奔以後、南朝の再興運動が起こり、大覚寺もこの運動に深く関わっていく。

最後の宮門跡は、江戸時代後期・天保8年(1837)に門跡に就任された有栖川宮慈性入道親王である。大正13年(1924)、第48代龍池密雄門跡が心経殿を再建。また大正天皇即位式の饗宴殿を移築し、御影堂(心経前殿)とした。"

大江 匡衡(おおえ の まさひら)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%8C%A1%E8%A1%A1
"時代 平安時代中期
生誕 天暦6年(952年)
死没 寛弘9年7月16日(1012年8月6日)[1]
官位 正四位下・式部大輔
主君 円融天皇→花山天皇→一条天皇→三条天皇
氏族 大江氏
父母 父:大江重光、母:藤原時用娘
妻 赤染時用娘・赤染衛門、伴徳成娘
子 挙周、持隆、匡子、能公
養子:時棟、林豪

大江 匡衡(おおえ の まさひら)は、平安時代中期の貴族・歌人・儒者。中納言・大江維時の孫で、左京大夫・大江重光の子。官位は正四位下・式部大輔。中古三十六歌仙の一人。

村上朝の天暦6年(952年)に誕生。大江氏(江家)は大江音人を祖とし菅原氏(菅家)と並ぶ学問の家柄で、菅原道真の失脚後に飛躍し、「聖代」とされている村上朝には匡衡の祖父にあたる維時や一族の大江朝綱らが儒家の中心的存在となる。父・重光は対策に及第している文人官僚。

匡衡は晩年に自身の半生を回顧した長編の述懐詩[2]を残しており、幼少期から青年期の様子も記されている。述懐詩によれば匡衡は7歳で読書を始め、9歳で詠作を行う。康保元年(964年)13歳で元服し、祖父・維時から教戒を受けたという(維時は実際には応和3年(963年)に死去[3])。なお、元服に際して改めた「匡衡」の名は漢代の文人である匡衡に由来すると考えられている[4]。

康保3年(966年)15歳で大学寮に入り、翌康保4年には寮試に合格して擬文章生となる。匡衡は紀伝道を学び、天延元年(973年)に省試に合格して文章生となる。なお、この時期に父・重光が死去している。天元2年(979年)に対策に及第する(策問作者は問頭博士・菅原文時、策問(問題)と匡衡の回答は『本朝文粋』に収録されている)。匡衡は赤染時用の娘で歌人として知られる赤染衛門を室としているが、長子挙周の出生時期から天元年間の婚姻であると考えられている。

寛和元年(985年)襲撃され左手指(どの指かは不明)を切断される。犯人は藤原保輔とされる。

東宮学士や文章博士を経て、正四位下・式部大輔に至る。匡衡は一条朝で文人として活躍し、藤原道長・藤原行成・藤原公任などと交流があり、時折彼らの表や願文、上奏などの文章を代作し、名儒と称された。また地方官としても善政の誉れ高く、尾張国の国司としての在任中は学校院を設立し、地域の教育の向上に努めた。

長和元年(1012年)5月末より食事に支障を来すなど体調を崩して、同年7月16日薨去。享年61。最終官位は式部大輔正四位下兼文章博士侍従丹波守。公卿としての地位を望んだが果たせずに終わった。 "
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%8C%A1%E8%A1%A1

君が代の起源その4【20120503】
https://web.archive.org/web/20160412031045/http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/03/1117
”君が代は「天皇すり替えを行った物達が、己の起源を再認識するための歌」である。
 
「彼らのため」の国の歌という舞台装置。
 
 
で、前回は、その彼らそのものの起源の話を箇条書きにした。
それと照らしあわす前に、今回は、君が代を整理したい。
 
 
君が代の制定は、明治2年(1869年)になる。
しかし、作られてから十年以上もの間、まともに歌われることはなかった歌でもある。
 
 
イギリスの歩兵軍楽隊から楽曲を薩摩藩兵は、習っていた。
その英国の軍楽隊隊長であるジョン・ウイリアム・フェントンは、
薩摩兵から「日本には国歌がない」というのを、知らされる。
じゃあ「なんか選べ」と、
薩摩砲兵隊隊長である大山岩次郎(のちの陸軍大将・元帥)に選ばせた曲こそが、君が代であり、フェントンがそれに旋律をつけたのが、初代君が代の誕生である。(今の旋律とは違う。)
 
 
君が代は、薩摩琵琶歌の蓬莱山の中にあり、それが好きだった大山(巌)が、その歌を選んだとされている。
その君が代のルーツを探ると、最終的には古今和歌集(紀貫之が編纂)した、読み人知らず=誰が作ったかわからない歌になる。
 
 
ここで、大山岩次郎(大山巌)について、軽く説明。
 
外国資本のしでかした明治維新と、選ばされた国歌・・・。
 
 
君が代という和歌を選んだ、この本名「岩次郎(当時は弥助と名乗った)」、のちに君が代から「巌」を自分の名として名乗り、今では大山巌という名前が一番有名になっている人物。満州軍総司令官でもある。
こいつの嫁に山川捨松(♀)といるのだが、当時、数億円の経費であろう海外留学をし、その後、日本に帰ってきて英語の教鞭を振るうという外国資本の手先そのままである。
 
この山川というのは、面白い話である。
戊辰戦争のときに会津側の指揮をしていた、つまり新政府軍と戦った会津側の指揮をしていたのが、山川大蔵。捨松の兄である。
で、薩摩藩砲兵隊である、とうの大山巌と戦争をした。
捨松の兄、大蔵の弟、山川健次郎という人物も有名だ。
この会津の戦争、つまり白虎隊に参加していた。
「白虎隊=勘違いで自決した」という「あやしすぎる話」の生き残り。
普通、推測だけで死なないと思うけど・・・背後から白虎隊をガトリングガンで一掃したとかのほうが信憑性が・・・。
 
おっと、山川は、自分の敵、なぜか逆側の手先になってるわけ。
それが大山の嫁。山川捨松。
 
それだけでも眉唾なわけだが、山川健次郎。こいつも生き残って米国に留学(エール大学)→そして、東京帝国大学総長(つまり東大の一番偉い人)にまで、エリート街道を上り詰めている。
敵だったのが、寝返って出生していく。留学というおまけつきでね。
 
 
ま、第2次世界大戦の後、岸、児玉とかの行動と一緒。
寝返り組だろうね。
どこかの韓国製菓財閥と関係が深い統一教会の御曹司と、その嫁みたいな話。
敵対してたけど、和解→結婚。そんなとこまで、おんなじ、おんなじ。
 
 
東京帝国大学総長である山川健次郎は、のちに国家主義思想団体「国本会」を設立している。(右翼っぽい)

 
山川って言うと、山川均という共産党を作った人物を連想するけど、それとは血縁関係がないよ。
たしか、その嫁が、この捨松の学校(同じ日本初の女子留学生、津田梅子が作った女子英学塾・津田塾大学)の出身だったから、「同じ山川か!!」って、最初は俺も勘違いしていた。
でも違った。
 
 
左翼が君が代に反対になっていくとこ。
 
それは自分が言う、ロスチャ系南朝族のように、最初は天皇すり替えに協力=左翼教育も基本はすり替えに隠蔽協力だったこと、そこからアンチになっていくという経緯が大事なところであるわけ。
 
君が代のこと。左翼がアンチ天皇になっていく、その経緯ね。
大正天皇と戦後のGHQ情報参謀2部の巻き返し(逆コース)で2度裏切られてるから。。
 
天皇すり替え→明治→大正天皇(北朝=左翼系の天皇になるはずだった)→追い出した&大正天皇は馬鹿だと流布→昭和天皇(南朝)が院政で乗っ取り→軍国主義(右翼化)→敗戦(天皇制の廃止するはずだった=GHQ民政局(戦後左翼教育)→象徴天皇→民政局を追い出した(GHQ情報参謀2部)→CIA体制(左翼的教育現場に愛国教育などの侵略)=今。
 
こんな感じになってるわけね。
 
戦後には消えるはずだった天皇。それを残したこと。
 
で、日本のロスチャ=左翼平和ボケ教育現場であるはずが、GHQ情報参謀2部(CIA)が巻き返したことで、「今」、君が代という「すり替えた南朝天皇の歌」を強制させようとしてるということ。
だから、日本のロスチャ(左翼系)がヒステリーを起こす。
君が代の強制は、軍国教育への回帰になるとかの主張でね。
日教組やらの義務教育の現場は、ロス茶の筆頭だからね。憲法9条を作ったアメリカ【20091224】
 
 
で、消えるはずだった天皇なのに、君が代として強制(侵略してきてる)として、今の君が代についての賛成、反対という問題になるわけ。
ここは、過去のおさらい。
 
 
特に左翼系は反対、日教組は断固として君が代は反対!!!でたまに、ニュースになる。
卒業式とかのときにね、
でも、そんなときに思い出して欲しい、こんな話を。
 
 
日本の左翼教育=ロスチャイルドといっていい。
そしてメーデーを含む、労働組合による運動=ロスチャイルド思想の歴史ともいえる。
 
よって、教員の労組、日教組=ロスチャイルドの権化といっていい。
統一教会臭い2ちゃんやら右翼やらが嫌いな代名詞、日教組であるが、この部分のロスチャであることは間違いはない。
  
 
1947年以降の逆コース、日本が左翼平和主義ではなく自衛隊と戦争屋、ロックフェラーの流れに、反転して進んでしばらくした後の1951年。
その、日教組自身によって、「新しい国歌」の募集が行われたのは、あまり知られていない。
正確には「新エルサレム・・・」ではなかった、「新国民歌の斉唱運動」ね。
彼ら自身によって選ばれた歌が、「緑の山河」という歌ね。
 
君が代に絶対反対の教師に、じゃあ君が代って何?と聞いても「よくわからない」と返答が返ってくるのだが・・・。
立場的には君が代を絶対反対という、そのロスチャの化身である日教組自身が、国歌を作ろうとしたことがあるわけ。
まあ、ボツになったけど。
 
理由がわからないけど反対!!でも、自分達の選んだ国歌ならOK!
それじゃ、単なる「好き嫌い」だろ!!!
ってな話である。
 
 
さて、じゃあ変わりに「君が代の醜悪さ」について説明してあげよう。
 
おっと、余談がながくなったね。
とうわけで、次回に続く。
では、君が代について、まず整理しよう。”

君が代の起源その5【20120504】
https://web.archive.org/web/20160412085608/http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/04/1120
”君が代を整理する。
 
起源は、醍醐天皇の命によって編纂された、古今和歌集である。
紀貫之の手による古今集(905年もしくは914年頃)。
 
紀貫之が編纂=集めただけであり、この歌集の中の「賀の歌」に入っている、「読み人知らず=誰が作ったかわからない歌」が君が代の原型である。
 
 
わが君は、ちよにやちよに さざれいしの 巌となりて 苔のむすまで
 
 
最初の起源は、「君が代」ではない。
「わがきみ」である・・・。
 
面白いことに、しかも天皇の歌でもない。
「よみ人知らず=位の高い人ではない」わけであるし、「わが君」というのは、天皇などの目上の人に使う最上級の敬語の部類ではない。
 
「わが君」の意味としては、『私の頼りにしている主人は』みたいな感じが近い。
現代風に言うなら、社会人が、自分の直属の上司にあてて使う敬語程度。
他の歌で、天皇に使われる「大君は」と比べて、「わが君」=「私の主人」なわけ。
どっちかと言うと、「同系列上」、つまり「同じ階級」で、「頼りにしてる主人は」という種類の敬語という感じである。
むしろ、「わが君・・・」を、「自分と自分の上司は・・・」、の訳として並べてしまったほうが意味が近い。
 
 
身分の高い人ではなく、その人「私と私の主人は・・・」みたいに呼ぶのだから、「天皇の歌ではないでしょ?」ということになるわけ。
 
なぜ、この身分が低い人が作った歌を紀貫之は、選んだのか?
なぜ、これが『賀の歌(長寿の歌)』となるのか?
天皇の勅命に従ったわけだから、天皇に「提出したわけ」ね。
 
それも、「なぜか?」ってこと。
 
それが「君が代の意味を知る」ことに、決定的に繋がっている。
でも、答えは次回で。
 
 
明確な答えより先に、この話を。
 
1千年前の話ではなく、もう少し「君が代が、出来上がった時代のこと」、明治の時代に材料を集めることができる。
先に、この部分と、いつから「わが君」が、「君が代」になったのか?を。
 
なぜ、彼らが「君が代を選んだのか?」というところ。
君が代の、2番、3番のことも補足しておくべきだろう。
なぜ、選んだが見えてくる。
 
 
君が代には、3番までがある。
 
君が代は 千代に八千代に 細石の巌となりて 苔の生すまで
君が代は 千尋の底の 細石 鵜のるる磯と あらはるるまで
君が代は 限りもあらじ 長浜の 真砂の数は よみつくすとも
 
1番 古今集 読み人知らず→紀貫之
2番 源頼政(天皇のために京都御所で鵺ぬえを退治した源氏)
3番 光孝天皇の即位したときに奉納された歌
 

国歌として組み込まれた年代。

1番 1869年に外国資本に応じる形で選ぶ(大山巌)
2番 1882年以前=明治15年に国歌制定の動きがあったときに、2番として小学校唱歌に記載されている
3番 不明(わりと最近)1985年の文部省の調査で報告される
 
醍醐天皇、天皇を救った源氏、光孝天皇。

 
誰の歌か?で、「なぜか」、理由が浮かびあがる。
その選んだ理由は、「源氏」の略系図と重なる。
  
嵯峨天皇→清和天皇→「清和源氏」→「摂津源氏」→ 源頼政(2番)
嵯峨天皇→孫になる光孝天皇(3番)→醍醐天皇(編纂 紀貫之1番)
 
 
ここに、南朝の基礎

百済=桓武天皇=菅原氏=土師氏=醍醐寺=嵯峨天皇(大覚寺)
ね、重なるでしょ?
 
「源氏=八幡=征夷大将軍」という嘘が蔓延してること。
そして、南朝の主軸である百済勢力が、この醍醐寺などを中心とした「桓武からの仏教技術者=土師氏のなかにある」と知ってれば、彼らの都合のいいところから、「君が代」を選んだ
と浮かび上がってくるわけ。
 
源氏→大江→毛利もね。
今年の大河ドラマは平氏だそうだが、ここらへん、平清盛についても、桓武平氏(伊勢平氏=伊勢に本拠地を持った)という言葉があるように、桓武天皇(百済)で、間違いはない。

厳島神社には、平家ゆかりの物が多数あるが、ただ、桓武→土師氏の流れで、「仏教の中の技術者」と繋がっているだけである。
ここらへんの流刑地とも重なる海沿いの神社は、「海崇拝」程度の儀礼であり、歴史上の役割に神社が出てきたか?という問いは、絶対にNOであるからだ。
昔の神社という物は、政治とは一切関係ない宗教(儀礼)だからね。
 
「政治とは関係ない宗教(単なる儀礼)である」という意味を、ちゃんと考えるべきだろう。
 
この厳島神社というのも単なる海崇拝。
それを、NHKはいつものように、捏造しまくってくれるだろう。平家だから神器の話も出てくるかもね。
それに、征夷大将軍というものさえ嘘であると理解できれば、源氏と平氏の話も違って見えるだろう。

よく考えると、源氏はもちろん、平家だって、歴史の中で「天皇にくっついた数ある血筋の中の一つ」程度の話でしかない。
源氏と平氏で争って、「共倒れしました」
みたいな。
笑い話とは言わないが、人情劇のモチーフ的な話というだけである。

昔の政治と神社の話をごまかすように、天皇と仏教に絡んできた藤原氏のこともごまかして、どうでもいい単なる滅んだ家系、源氏だの平家だのを、「重要だよ」と、教えこまれているのである。
 

その「変な話だよ」ということになってる「なぜ」。
そこに理由がある。
 
この場合は、桓武天皇からの百済の血筋「仏教の中の技術者の流れ」を、両者とも受け継いでいるから、そういう理由。「神社のもと」
 
これも基本は同じだよ。藤原氏を無視して、「こっちのほうが日本の重要な人達だよ」と言ってるようなことには、この「神道」という嘘、天皇すり替えという嘘がからんでるってこと。
だから、何度も言うように、支配者と宗教の関係を分析することは、一番最初の基本。

天皇は神道ですという、「人間は卵から生まれます」の考え方では、哺乳類について一切わかるわけない、歴史について一切わかるわけない。
おなじことだよ
 
 
源氏は八幡、大江、平家は伊勢、厳島神社などなどと関係してる→だから「特別な存在だよ」と捏造してるわけね。
百済文化が引き継がれてますよ、ってこと。
 
で、君が代は、その中の源氏の部分と重なる
ということ。
 
2番になる源頼政は、「摂津源氏」である。
平氏も勢力を伸ばした「摂津という国=津の国」と言えば、摂津=大江山と大本教というキリスト教そのものの名前を付けた宗教との関係、そして、津(港)の国。今の神社全庁と秦氏の関係、本人達が原始キリスト教徒と言ってる人達、ここらのつながりを連想するのも当然でしょ?
 
ね、君が代というものが、神社と同じ嘘の種類、必要性を内包している。
おっと、ここはまだ調査していない。
 
 
「源氏と重なる。」
これから説明する答えを補完できる材料である。
 
君が代の謎。
・細石とは何なのか?
・石が成長するのか?大岩になるのか?
・なぜ、これが「賀の歌」長寿の歌なのか?
・「わが君」とは、どういうことか?
・なぜ身分の低い人の歌が、天皇に贈られたのか?
 
 
では、明日明確な答えを出そう。
 
 
おっと、忘れていたことが一つ。
 
「わが君」が、「君が代」になったのは、「和漢朗詠集(1013年)」からという話である。
君が代の起源として、辞書や百科事典でも、こちらをあげている事例も多い。
当時の関白の子、藤原公任が、紀貫之の歌などを編纂して作った歌集の中に、古今和歌集の「読み人知らず」の「わが君」がこの歌集に一緒に編まれたわけである。
 
和漢朗詠集というのは、数多い写本があるのだが、原本は存在していない。
一部は、「わが君」での写本も残っている。
 
この「君が代」に変更した理由は、「わが君」が最上級の敬語ではなかったからでもある。
では、いつ、誰が、なぜ変更したのか?
上記にあげた「君が代の謎」という箇条書きの答えが、この「君が代に変更した」という答えも教えてくれるのである。
 
・なぜ、「君が代」にかわったのか?=変えた者たちは誰なのか?

 
 
 
では、明日の君が代事件簿の回答編に、進ませていただこう。
今回出てきた箇条書きの疑問を、もう一度、推理してみてはいかがだろうか。
 
 
明日の答えを聞くまでは、説得力はないかもしれないが、大胆な推理を披露しよう。
自分は「君が代」になったのは江戸後期からが基本であると考えている。
君が代の3番、

君が代は 限りもあらじ 長浜の 真砂の数は よみつくすとも
 
これは、もとから「君が代」の歌であり、同じ古今集の巻20にのっている。
古今集の中の「君が代」。
この歌から君が代になったとも言われている。
 
光孝天皇の即位したとき、大嘗の祭りのときに納めた歌であり、「伊勢の国の歌」として歌われた歌であるからね。

「伊勢の歌」「伊勢の歌」・・・・・。

ほら、君が代という都合がまた見えてくる。
「伊勢と天皇をくっつけたいのは、江戸末期から」なわけだからね。
つまり、和漢朗詠集の写本の存在は全部捏造か江戸末期の物。たぶん、ほとんどの物が。(残りの可能性もあるが、それは明日の記事で。)
 
「神のやたらつく天皇」の出てくる、日本書紀の神代記あたりの記述と同じこと。
それらは、キリスト教という神道のための捏造なんだよ。
それが、神道=天皇といってる歴史家しかいない馬鹿国歌の日本であるということ。
正直、中国や韓国を笑えんね。
 

 
天皇に対しては、都合の悪い敬語である「わが君」を、神道の都合から、伊勢の歌からもってきた「君が代」をつけた。
スジがとおるでしょ?
(もちろん、伊勢神宮なんてものが政治に絡むことはない。ね、真砂=海岸の砂を意味するでもわかるように、海崇拝の儀礼だったんだろう程度の話。)
 
「君が代」に変わったことの起源は、この天皇と神道の都合、伊勢の歌にある。
 
 
間違いなく、南朝。天皇すり替えのための歌である。
(明日の記事読んだら、読み返して、あなたも考えてみて)
 
でっちあげの神道と天皇の関係を必死になって捏造してる彼らの苦労を、理解してあげれば「答え」なんて簡単だよ、と。
 
俺ってやさしい。

よし、補完する材料は整った。
 
明日、この箇条書きの疑問について「明確な答え」を出そう。
「わが君」→「君が代」だけじゃなく、「もとの歌そのものの意味」までもね。
その後、もう一度、この記事を読み返して欲しい。

藤原氏と源氏の話も出てくるよ。
よって、答えより先に、こう書いたほうが、わかりやすかろうと思って。”

君が代の起源その6ラスト【20120505】
https://web.archive.org/web/20160412094024/http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/05/1122
”細石(さざれいし)は なんですか?
大きく育つ石ですか?
かぱんの中や机の中も捜したけれど 見つからないのに・・・♪
 
ふふっふー♪ふふっふー♪
 
 
わが君は 千代に八千代に 細石の巌となりて 苔の生すまで
 

細石が巌=巨岩になって、苔が生える。
 
さざれいし=川に流される小石。
これが岩になる?
この誰も答えられない世紀の疑問に、お菓子を食いながら答える。
 
 
では、君が代のことを、説明しよう。
 
こんなものは歌心さえあれば、なぜなのかがわかるわけ。
 
まず、これは身分の低い人の作った歌である=「わが君」。
醍醐天皇の命を受けた紀貫之が、編纂した=天皇に提出した。
紀貫之は、「賀の歌」=長寿を願う歌にしている。
 
天皇すり替えと、当時の時代背景。それを知ってれば、簡単にすべて説明がつく。
 
 
そもそも、長寿の歌なら、何を「人に例えている=擬人化している」のか?
それは、紀貫之が選んでるわけで、「長寿の祝い」になるというところに間違いはない。
 
「苔むす」=巌・いわお(巨石)
苔が生えますよ=時間が続きますよ=永遠を願うわけだからね。
 
その巌は、川に流される小石(さざれいし)が、成長して出来上がると言うこと。
で、細石は実在してるが、大きな岩=巨石になることはない。
 
石の中のカルシウム分が溶けて、他の小石にくっつくだけ=これが実在している細石。
君が代の解釈を説明してる人で、一部は、君が代の「石が育つ」のは、塵も積もればで「鍾乳洞だ」と言ってる人もいるけど、「さざれ石=流される小石」である以上、それはないと思うぞ。
小川に流される石と鍾乳洞では、重なりようがない。
 
おっと、それ以前に「細石=巌=人」であるのは明確なわけ。
それなら簡単であり、当時の時代背景を知ってれば、なぜ紀貫之がこの歌を選んで天皇に献上したかも、簡単なことなんだよ。
 
 
結論からいう。
 
身分の低い「読み人知らず」が、この歌を作った。
その意味は、「私と私の主人は、時代の流れに負けず意地を張りつづけますよ」という意味。
 
当時、藤原北家に押されまくってた醍醐天皇。
そしてその醍醐天皇の側近である紀貫之は、この歌に感銘を受けて、
「自分達も藤原氏に負けないで、巌になりましょう(団結しましょうの意味もある)=意地を張りつづけましょう」ということで、天皇に献上
した。
川に流れていた細石が、流されないように育つということ。
つまり巌とは岩窟王のことさ。
(文字ヅラから連想されるガンコ=石頭であることと、藤原氏に取り囲まれてるという意味で、岩窟王とかけてみた)
 
そうすれば「苔むす=永遠ですよ」ってことね。
だから、「長寿を願う=賀の歌」なわけ。
 
 
ほら、桓武天皇から続く仏教界の窓際族、それが百済の流れで醍醐天皇につながってること。それが醍醐寺(真言宗)で、南朝の起源になっていくこと。
 
醍醐天皇の右大臣、菅原道真。失墜して悪霊化(歌の当時)→後醍醐天皇、吉野に流される(その後)。
 
ほら、百済という仏教界の窓際族で、藤原氏に負けそうだった
って意味がわかるでしょ?
時代背景のこと。だから、「いわおになりましょう」なわけ。
 
細石が「昔流されていた小石」が、巌(巨石)になる。
これは天皇自身に「あなたは天皇なんです、藤原氏に、もう流されないで下さい」と言ってる部分もあるわけね。
 
 
・細石とは何なのか? =人間の意地=当時の天皇を指す
・石が成長するのか?大岩になるのか?
   =もう藤原氏に流されない巌でいてね
・なぜ、これが「賀の歌」長寿の歌なのか?
   =流されない、そうすれば千代に八千代にってこと
・「わが君」とは、どういうことか?
   =天皇自体が藤原氏に負けそうだった部分もあるから
・なぜ身分の低い人の歌が、天皇に贈られたのか?
   =身分の低い人が意地を通したように、自分達も従います、団結します(細石くっつきます)から、「流されないで」=懇願の歌でもある。
 
 
実在しない、細石から育つ巌(岩)が、人間そのものをさす事。
そして天皇自身へ向けた歌で、天皇よりも「権力があった藤原氏」の存在があるなら、わかりやすい歌でしょ?
で、右大臣の菅原道真は、藤原時平の一言で左遷させられる
んだからね。

なんで、菅原道真が学問の神様として「神社に祀られているか」を知ってれば簡単。
ほら箇条書きの答えも、すんなり意味が通るでしょ。
あと、醍醐天皇の皇子である源高明も右大臣である藤原師尹の一言で左遷させられている事例とかもあるよ。
 
藤原家の全盛というと、のちの藤原道長のころを連想すると思うけど、この時代、君が代の3番に出てくる光孝天皇は、最初の関白である藤原基経が担ぎ出した天皇だからね。
で、確定的といえるのが、醍醐天皇(君が代1番)は、その基経の娘(醍醐皇后)にとっての婿扱いなわけ。
天皇に関白を認めさせたのが、この藤原基経だから。天皇を担ぎ出し、関白を認めさせた。=天皇に命令して実行した。権力構図がわかるでしょ?
 
「わが君」を紀貫之が天皇に献上した理由。
・「天皇自体が藤原氏に追い込まれていた」
・「藤原氏に流されないで=懇願した」
 
で、右大臣である菅原道真だけでなく、紀貫之も土佐守=高知に左遷させられるんだから、簡単でしょ?
 
君が代と藤原氏では、前回の記事、和漢朗詠集についてのことも補足する。
関白の子、藤原公任。醍醐天皇の頃より100年ほど後になるが、このときこそ、「藤原北家の全盛」なわけ。
 
 
此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることの 無しとおもへば
 
 
藤原道長が、天皇以上の支配者であるという歌、これをうたうのが、和漢朗詠集のできた直後である。
このときに「わが君」の歌が、「君が代」に変わったということだが、天皇をないがしろにしている藤原一族の一員である藤原公任が、そんな天皇に気をきかせるような理由自体が存在しない。
だから、「わが君」のままであって、伊勢とくっつけたかった江戸末期、もしくは明治になってから「わが君→君が代」したんじゃないのかな?と、自分は考えているわけ。
で、伊勢の歌で繋がってるなら、ほぼ確定的だろと。
 
おっと、天皇自体が「追い込まれていた」だから、懇願としての君が代があるわけ。

「あなたの地位を あきらめないで~♪」
 
 
あと、もともとの歌った人が「読み人知らず」であるわけで、どっちかというと元の意味は、
「流されませんでした→意地を張りました」→「わが主人に栄光あれ!!!ぐふぅ!!」という、玉砕の歌、鎮魂の歌というほうが近いと思う。
 
この部分は、太平洋戦争のときの「天皇陛下万歳」をイメージが重なる部分もあるよね。
そういう意味では昔のナショナリズムの悪しき部分が露骨すぎる歌でもあるよね。君が代。
 
 
この鎮魂であるというのは、「君が代にも繋がる源氏」、そう、源氏物語も同じである。
 
正直、こうやって調べていくと「あまりにも捏造が酷い」わけで・・。
2割か、3割の可能性として、もとから「源氏物語ではなく、藤原物語だった?」=まるまる捏造だった!!!!!なんて可能性も、少し頭の中に残して考えてはいるんだが・・・。
 
とりあえず表面上の情報で言うなら、源氏物語の作者は紫式部という、藤原家の娘である。
時代も和漢朗詠集とほぼ重なる、まさしく藤原氏の全盛である。
天皇の嫁は全部が藤原氏!!!!
 
そんな時代に源氏物語という藤原氏の娘が、失墜したとはいえ、ライバルの関係になる源氏を賞賛する作品を作るというのも、妙な話なわけで。
 
タイトルが源氏であるなら、まさか藤原家賛美のための作品ってわけではないだろうし・・・。

 
 
http://www.mkmogura.com/blog/
2012/01/08/1037/comment-page-1#comment-1923

世界の果てさんへ

源氏物語は、源氏が衰退した後で当時の皇后には藤原氏系しかなれなかったので、その都合からも藤原道長がモデルといわれますが、読んで字のごとく源氏賛美の物語なわけです。

昔、ガキの頃、なんでわざわざ源氏にするの?ってところから、
「暴露本であるのか?」→源氏を暴露する理由も、藤原氏を暴露するのもおかしい
「ポルノ本とか、官能小説のような下品な娯楽か?」作品の中身はそうでもないし、女性週刊誌の感覚とは少し違うだろ
 
 
などなどから、今、自分は、井沢元彦のような考え方と、彼らのような人たちが隠す「源氏と天皇すり替えの都合」みたいな部分が答えで、鎮魂であろうと結論付けております
 
で、さっき出てきた藤原氏に島流しにされた源高明(醍醐天皇の皇子)あたりにむけた鎮魂の作品であると、なんとなく考えています。(源氏物語当時の1008年?~、まだ源氏全体では藤原氏におされ一部衰退しただけで滅んでもいない)
 
※正直、君が代を調べてみて「藤原物語の可能性」があがった・・・。
まじで、まるまる捏造だったりして?
鎮魂であるというのは井沢あたりの話から、もってきた考え方ね。
 
源高明は藤原氏から嫁をもらい、その間の子が天皇の息子の妃になった=親戚であるはずの藤原氏にとって邪魔になった・・・これが島流しの原因・・・なんという藤原氏の妬み!!!で、源氏物語がこの鎮魂のための作品なら一応の筋は通る。

 
 
おっと、君が代の話。
 
 
君が代の最初の原型は、身分の低い人が歌った「意地を張った」という歌である。
先述のとおり、「鎮魂の歌」に近い。
天皇のために、この歌を選んだ紀貫之らには、「懇願の歌」になるわけ。
 
今、この歌を、「君が代」という題名で歌っている。
 
これは、ロックフェラー系、つまり右翼が
「今のすり返られた南朝天皇の世の中を未来永劫を願う歌」であると主張することも、
もとの原型である「鎮魂の歌」から転じて、
戦後に天皇を捨てようとしたロスチャイルドが
「死を悲しむ歌=挽歌である=天皇は死んだ」と主張することも、どちらも、ある意味では正しい。
というか、両方とも意味は繋がっていると思うわけね。
 
天皇の永遠を願う歌
天皇の失墜=滅んだ=鎮魂
どっちとも言えるわけね。
 
 
もともとは「藤原氏によって傀儡化した天皇を嘆く」ためでもある。
そして追い込まれた天皇だから、この歌を、南朝の起源である醍醐天皇のアンチ藤原氏の奴らが、天皇に献上したということでもあるわけ。
 
ただ、一つ課題が残ってしまった。
 
「君が代」に、変わった経緯、このことは、疑問が残る。
自分が言ったように、君が代の3番、「伊勢の歌」つながりで、明治以降に「君が代」になったという可能性は、もちろんあるし。
そうではなく、普通に「君が代」になっていたという可能性もあるわけで。

もともとは、名もない人の歌、「わが君」である。
それが「君が代」になったのは、「もともと読み人知らずのための鎮魂だった、わが君の歌」が、南朝というものが滅びたことにより、「滅びた南朝自体をさす為に、君が代に変更されて歌われた」という可能性は十分あるからね。
 
君が代を選んだとされる大山巌は、薩摩琵琶の「蓬莱山」が好きで、この歌を選んだとされている。
 
この琵琶歌(鎮魂っぽいでしょ?)のもとが、和漢朗詠集で、そのもとが、古今和歌集であるからね。
 
薩摩ってだけで、南朝崇拝な部分はあるわけだが。
この蓬莱山は、室町末期、島津忠良が作ったのが最初といわれている。
和漢朗詠集の頃に、藤原氏が「君が代」と変更するのは、絶対にない(和漢朗詠集の写本は明治以降の捏造であろう)とは言い切れるが、南朝崇拝が部分的に残った「鎮魂歌」のなかで、「南朝全体をさすために、君が代に変えられて歌われていた」というのは、「ない」とは言い切れず、ありえる話ではあるからね。
 
南朝崇拝の鎮魂歌である太平記。
たぶん・・・・鎮魂である源氏物語。
そして、神道の起源は、仏教界の窓際族の百済の血縁にある。
 
「滅びた南朝にする」、それが明治維新。
それは、食べ残しをあさるカラスのように、「鎮魂の中の南朝崇拝」というのを拾い集めて、結果として神道というでっちあげを、無理やり作らなきゃならなかったということでもある。
 
源氏物語の源氏賛美などでは、鎮魂?であることを隠して、よくわからないけど源氏賛美みたいになってること。
そして、八幡=源氏ってだけの摩訶不思議な話に頼り、征夷大将軍という嘘までも作り上げていること。

 
 
そもそも、神社という嘘を、外国資本に言われて作らさせられている時点で、悲しすぎる。それはすり替えた、どこぞの馬の骨の天皇であると、バレバレすぎる稚拙すぎる話なわけで。
それに、もともとは藤原氏に追い出されたせいで、結果的に南朝という吉野に流れ、「真言立川流」というカルトにはしるほど、落ちぶれたわけでもあるのに。
藤原氏に負けてセックスカルト宗教になるのも、国際金融資本に言われて、神という御伽噺の「残飯宗教」を作らされるのも、同じではないかと。
 
どれもこれも、「救われない話」である。
 
 
 
もともとは、「藤原氏の傀儡にならないで」との意味で歌われた「わが君」という歌である。
「天皇、意地をはって負けないで」と。
 
それが、「君が代」という歌となって、今は「外国資本の傀儡に過ぎない天皇」のために歌われている。
 
 
流されていた細石も、巌となる。
流されないようになる。
 
意地を張らなきゃならないのは、誰なんだろうね?
 
 
君が代を賛成、反対とかはめんどくさいので、卒業式とかも骸骨本尊を抱えて、肩には「真言立川流」というタスキかけて、「南朝崇拝を強制される場合はこの格好をします」という「宗教の自由」を盾にして参列すればよろし。

仏教の中の窓際族の通信簿【20120508】
https://web.archive.org/web/20160412122900/http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/08/1130
”南朝の起源。
後醍醐天皇以前の起源も、桓武天皇(百済)、そしてその親戚、土師の中にある。
 
 
普通の人にはこの程度の認識でいいと思う。
 
「土師氏を中心とした仏教会の中のつながり=百済系の仏教技術者」
 
これだけでね。
だって、あくまでも重要なのは「今」だからね。
過去のことに、こだわりすぎる、追いかけすぎるのもよくない。
 
でも、もう少しだけ踏み込みたい、そうすれば見えてくるものがあるから。
よって少しだけ補足する。あくまでも簡単に。
 
 
彼ら、「仏教の中の窓際族」
 
これを理解するために、当時の律令制度、「四道」について。
 
奈良時代から平安時代のね。
 
南朝、彼らのポジションと多く重なる起源となるものが、当時の律令、「明法道」である。
簡単にいうと、当時の京都、鎌倉時代になる前まであたりの時代の政府、その中の式部省というのがあって、そこには貴族を学習させる寮、「大学寮」があったわけ。
大学という名の、官僚機構「学習制度」だよ。

 
 
で、その学問の中心が四道。
4つの学問。
「紀伝道、明経道、算道、そして明法道」だったわけ。
この4つね。他にも、中心学科ではなく、その他の学科として、医道、暦道などがあった。
 
この4つの中で一番身分の低い人がなったのが、明法道。
 
 
明法道=裁判=仲裁訳だと思ってくれていい。
今の司法権と一緒で、お金を産まないので、ないがしろにされた=身分の低い人=揉め事のときの政府のパシリ扱いと考えてくれればいい。
 
なんか事件があった→おまえいってこい。なわけ。
 
明法道とは、儒教(アンチ仏教の部分がある)の考え方にそった、仲裁のための学問である。
明法道は天平のはじめ確立され、奈良時代末期から平安初期に最盛期となり、「当時の律令(法律)が機能しなくなった」ことにより、延喜ごろ(醍醐天皇のころ)には有名無実化した。
 
司法試験の学生=明法生
政府のパシリ=裁判官=明法博士。
 
儒教から、のちに神道になるつながり。
儒教にアンチ仏教の部分があって、江戸初期の儒教を「儒家神道」なんて呼び名
にしてること、こういう流れがあるのは、過去記事で少し説明したよね。平田篤胤のとこで。
 
その起源といえるのが、裁判を扱う上での学問、この明法道からなわけ。
だから、奈良、平安時代、もっと昔の時代でも同じ。
アンチ仏教なとこがあった学問。
仏教とは一線を画す、儒教での学問であること、そして窓際族=身分の低い人がなれた
ことであること。
そういうことから、南朝の起源の人達と重なるようになってるわけ。
明法道の中にそういう儒教と一緒のように、引き継がれていった。
あと、こういう役所以外では、儒教も一般に広がったのは、江戸時代以降なわけです。
 
大本教的表現、平安時代の学問である「明法道の歴史の中に縦糸がある」。
で、儒教と重なる、それが明法道。
 
 
なぜか征夷大将軍でやたら名前の出てくる坂上田村麻の家系の「坂上」とか、毛利の起源である「大江」も、この明法道の家系である(正確には中原系)。
 
南朝の起源でわかりやすい、菅原道真がいるよね。
学問の神様、北野天満宮。
道真の孫→大江匡衡の先生→匡衡のひ孫・匡房→源氏の先生。

1077年頃の明法博士(裁判官)は 菅原有真  坂上定成。
 
坂上という家系と、菅原の家系。わかりやすいよね。
 
有真は、惟宗氏の支流とも言われているが、文字通り道真の「家系であろう」と言われている。(※なんせ身分が低い人達だもんで、はっきりしない)

菅原道真・845-903 本人は流刑された咎人なわけだし。

醍醐天皇以降なわけで、明法道が有名無実化、もう裁判官というより、単なる藤原氏のパシリと考えてくれていいよ。
 
 
で、この菅原有真の家系だと思われる同じ明法博士、菅原資清が改名した姓が、「中原」という苗字なわけ。

これも正確には菅原有真と菅原・中原資清は同じ家系であるという明確な証拠はない。
同じ学問勤めで、同じ菅原という苗字ってだけ。これも「たぶん」。
(※なんせ身分が低い人達だもんで)
 
で、大江広元(1148-1225)は、その中原家の養子ね。
これが毛利の起源。

桓武天皇→土師→菅原→中原→大江→毛利
大江(もとは大枝)の姓も、土師氏から改名した姓だからね。
大江=源氏の先生、このことを補強する話でもある。
 
ね、明確に桓武天皇から続く百済な人達。
だから中原になった菅原=「たぶん菅原道真の血縁だろう」には信憑性のある話なわけ。
 
明法道→中身がなくなる(藤原氏の独裁)→名前や学問としての部分だけ残る→窓際族→坂上や菅原(パシリ)。
 
で、中原になってからは、少し出世して、「明法道=揉め事の仲裁訳=裁判官」ではなく、「明道の博士」になっている。
 
もう明法道なんて権力はないわけで、で、少し出世、がんばったんだね。
 
一つ上、揉め事の仲裁人=下っ端のパシリから、お役所勤務になったってとこ。
大江広元の父親は中原広季。中原は清原氏と一緒に有名な明経道の家系といわれている。 
 
で、大江広元と中原親能(義兄弟)が、鎌倉幕府(ないけどね)という出張所の建設に尽力したといわれている。
 
 
菅原道真(9世紀・醍醐天皇のころ) → 冬の時代 → たぶん菅原の家系=菅原有真・菅原(中原)資清(11世紀) → 中原(少し出世) → 大江広元(その子が毛利に戒名、13世紀) →  毛利 (これは今現在でもある)。

で、ここからキリスト教に声かけられて、明治維新になった。
ね、簡単でしょ?
 
坂上と征夷大将軍、源氏=幕府という嘘、神社、日本の奥の院。
ほら、今まで出てきた単語の意味も「明法道」の中に見えてくるでしょ?
 
 
おっと、難しい話になっちゃったね。
単純に考えてくれればいいよ。
 
北野天満宮・菅原道真という神社(本人は違うけど作った人達のこと)
征夷大将軍の坂上田村麻、(連呼してる理由)
毛利、儒家神道(儒教が神道ってことになってる理由)
あと吉田神道、吉川神道(毛利の親戚、吉川はその前から明法道系)
吉田兼倶の子で、清原宗賢の養子になるのが、明経博士、清原宣賢(1475-1550)。

 
ここらへんの単語がでたら、「明法道が起源だな。」ぐらいに考えてくれればOK!
 
ついでに江戸時代のあとに一般に広がった儒教、神道というのに隠れてて気づきにくいけど、そういう流れなわけで「儒教にも、あっち側の意図が入ってる」ぐらいに考えてくれえればOK!
 
 
まあ、ぶっちゃけ、この話は、難易度が高すぎて、こんな説明は、彼ら、この系譜で繋がってる手先本人が、「そうなのか!!」と一番喜んじゃいそうな話。
よって、記事にするか悩んだわけなんだけど。
 
ちなみに、江戸末期のキリスト教の手先、平田篤胤1776-1843、こいつも明法道、中原系の血縁と自称してたんじゃないかな?
中原有象→平田職在、平田姓になっているわけ。
(まあ数百年も平田姓が遡れるわけないから、全くどうでもいい話なんだけどね。)
 
あと、キリスト教伝来時、16世紀の京都での話だけど、そのときキリスト教(カトリック)が日本の中心である京都で、まず抱え込んだのが、明経博士です。
これは法道のここの流れに重なりもします。
1563年5月、清原枝賢と結城忠正はキリスト教に受洗していて、足利義輝とともに京都でのキリスト教追放に反対しました。
結局、1565年に宣教師を追放(義輝が死亡したため)→1569年、織田信長と和田惟政(摂津)により京都に宣教師が復活→1587年九州平定後の秀吉によって伴天連追放。(火薬が必要なくなったから)

 
 
おっと、キリスト教と戦国時代の具体的な話は、また今度。
織田信長、秀吉、家康、松永久秀あたりと、キリスト教の動き、「キリスト教禁止する&でも火薬欲しい!!」で揺れ動くわけで、どこの国と貿易が基準だったか?とか、どんな宣教師がいたか?で見えてくる部分もあると思うので。
それに火薬とキリスト教の奴隷売買、数万人から数十万人の性奴隷。
これは、歴史会のなかの明確なタブーだからね。
整理だけしかしてないけど、その部分の話は、また今度説明します。
 
とりあえず・・・
当時の京都の大学、そのおちぶれた学問の中に南朝の残骸が残ってたこと。
これだけは覚えといてね。
 
明法道→明経道(その一部)
 
 
もとは、奈良平安時代の、律令と大学寮「貴族のための学校」の科目に起源があるわけです。
その中の身分の低い=出世コースと外れたとこにね。
 
ちなみに、このころの科目「諸道=いろんな学問」でさえ、学問として相手にされなかった科目もあります。明法道以下のものね。
 
それが「陰陽道」です。

 
当時でさえもスピリチュアル過ぎて平安時代とかでも相手もされなかった。
「陰陽師身の上知らず」。自分の運命がわからないで、何がわかるか?ってこと。

ね、昔、「陰陽道の起源は南朝に繋がっている」って軽く説明したよね。陰陽道は明法道以上の「窓際族」なわけ。だからこれも「落ちぶれ組」で重なるよ。ってこと。
明法道以上に最初から馬鹿にされていた学問??なわけ。
 
ちなみに、陰陽道の流れをくんでるのが、「賀茂・土御門(安倍)」あたりで、賀茂神社なんかの神社(笑)は、その典型的なものだろうね。

 
ここだけでも、「どういうものが神社になっていったか?」も、なんとなくだけど、わかるでしょ?
 
失墜した学問、明法道。
学問として相手されなかった陰陽道。
 
だからそういうところが、中央省庁に対して反抗する温床となって、その縦糸が引き継ぎに引き継がれて時代が進んで明治になって、神社になったと。
 
ちなみに、うちの祖先の石碑についての話。
あっち側という説明はしたけど、その証拠の石碑、それは自治会館じゃなく神社にありました。【20120217】
この間、新聞にのりました。3月の始め頃の夕刊。
新聞によると寺子屋の先生というだけではなく詩人でもあったそうです。
地方紙だけど誰か気づいてコメでもくるかな?と思ったけど。
ちょっと寂しかったです。
 
まあ、神社ってそういうとこよ。”

坂上定成(さかのうえのさだなり)について
中原明兼と関所公文の岡田氏 近江国の中原氏と一井・市井・櫟井・真野・浅小井・井伊氏と
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/1f1a34b866e334875c3546b0f7987466
”法曹至要抄(ほうそうしようしょう)は、日本の平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、
法曹官僚の坂上氏により記された法律書である。原型を坂上明兼(中原明兼)が造り、その孫である明基が完成させたといわれる。全3巻。 (古くは坂上明兼の単著と考えられてきたが、坂本太郎の研究によって実は父・中原範政から継承した家学に基づいて坂上明兼による原本が執筆され、その後孫の明基によって加筆・校訂が行われて現行本が成立したと考えられている。)

明兼の父・中原範政は明経道の中原氏の庶流俊光の子として生まれ、明法道の坂上定成の養子となって坂上氏の後を継いだが、後に旧姓に戻った。

このため、明兼を含めてその子孫は本来「中原氏」が正しく、陽明文庫所蔵『平知信記』紙背文書内の長承2年7月12日付の明法勘注や平安遺文所収『東大寺文書』保安4年9月12日勘状においては「明法博士中原明兼」名義の署名で行われているが、当人は「坂上氏」の名乗りを好んだ。

これは歌人でもあった明兼が坂上氏の祖である坂上是則にあやかって、将来勅撰和歌集に自分の和歌が採用される事を願ったもので、
勅撰和歌集の編纂が行われるたびに名乗りを「中原」から「坂上」に改めたという伝説がある(『袋草紙』)。真偽は不明であるが、晩年の名乗りが「坂上」であったのは確認されている。

~~~*~~~

この「坂上是則」の父親は【坂上望城】である。
つい先日教えていただいたばかりだが、「梨壺の五人」
の一人である!”

菅原有真(読み)すがわらの ありざね
https://kotobank.jp/word/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E6%9C%89%E7%9C%9F-1083562
”?-? 平安時代中期-後期の官吏。
応徳2年(1085)従五位上。大蔵少輔(しょう),越中介などを歴任し,明(みょうぼう)博士となる。
法制上の意見を上申した勘文(かんもん)が「法曹類林」にみえる。法制家として惟宗允亮(これむねの-ただすけ)らとならび称される。 ”

清原枝賢(読み)きよはらの えだかた
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%9E%9D%E8%B3%A2-1070970
”1520-1590 戦国-織豊時代の儒者。
永正(えいしょう)17年生まれ。清原国賢,清原マリアの父
(みょうぎょう)博士。祖父清原宣賢(のぶかた)につぐ名儒として知られ,大内義隆,松永久秀の師となる。永禄(えいろく)6年宮内卿。同年ビレラから受洗したがのち棄教。天正(てんしょう)9年正三位にのぼり出家した。天正18年11月15日死去。71歳。法名は道白。名は「しげかた」とも。 ”

結城忠正(読み)ゆうき ただまさ
https://kotobank.jp/word/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E5%BF%A0%E6%AD%A3-1118836
”?-? 戦国時代の武将。
松永久秀の家臣。学者として知られる。永禄(えいろく)6年(1563)久秀の命でキリスト教の是非をしらべるため清原枝賢と奈良で日本人修道士ロレンソを審問。キリスト教の教えをきいて感銘をうけ,堺からビレラをまねいて枝賢らと受洗。近畿地方のキリシタン布教に大きな影響をあたえた。通称は山城守。号は進斎。洗礼名はアンリケ。 ”







北川 宥智
‏ @OshoUFO
2011年1月28日
@Greenbellove 石山寺のご神体ですか?石山寺は真言宗で、中興が淳祐内供。彼は観賢僧正に連れられ高野山に登り、奥の院の石窟を開けた際に、空海の姿が見えなかったそうですが、観賢僧正の導きで、手を触れることができ、かぐわしい香りが身についたと言われる傑僧です。


お読みくださり感謝!
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