アメリカ人の愛国心を熱くする甘いリンゴのお菓子
1902年、ニューヨーク・タイムズ紙に以下のような文章が掲載されました。
(アップル)パイは我が国の強さと優れた産業創設の秘訣であり、我が国の繁栄である。英雄の食べ物である。食わないヤツは永久に負け犬である。
Pie is...the secret of our strength as a nation and the foundation of our industrial supremacy. Pie is the American synonym of prosperity. Pie is the food of the heroic. No pie-eating people can be permanently vanquished.
かなり強烈な文章ですが、アメリカ人の愛国心と素朴な感情をよく言い表しています。
アップルパイを上手に焼ける女性は良き妻とされるし、アップルパイの香りがしてこそアメリカの台所であるとされます。
ノリ的には日本人が「米を食わねえヤツぁ、日本人じゃねえ!」と言うのに似ています。上記の文のアップルパイの箇所を米に置き換えたら、気持ちが少し理解できるかもしれません。
「アップルパイのようにアメリカ的な」という慣用句すらあります。今回はなぜアップルパイがアメリカのシンボル的存在になったのかを見ていきたいと思います。
1. イギリスのアップルパイ
リンゴの原産国は中央アジアかコーカサス付近です。
アレクサンドロス大王の大遠征の際に、紀元前324年に現在のカザフスタン付近で発見され、大王がマケドニアに持ち帰らされ栽培させたと言われますが、これが最古のリンゴのヨーロッパの到来なのかは不明です。
もっとも古いアップルパイのレシピは、1381年のイギリスのレシピ本に掲載されているものです。原文はこちら。古い英語なので何て書いてるかサッパリわかりません。
この頃には既にイギリスで一般的なメニューだったようですが、当時のアップルパイは現在の我々が想像するものとかなり違ったもののようです。というのも、当時は砂糖が超貴重品(1パウンド=453㌘で現在の価値で5,500円くらい)だったので、パイ皮で包むのではなくコフィン(棺桶)と呼ばれる甘くない硬いバスケット状のパストリーか、食べられないが外側を包むには向いている天然素材に包んでリンゴを焼いたものでした。
そんな「アップルパイ」でもイギリス人は大好きで、1590年の詩人のロバート・グリーンはこう書きました。
君の吐息はまるでアップルパイのようで、
thy breath is like the steame of apple-pyes,
当時のアップルパイがどのくらい甘かったかは定かではありませんが、現在のように品種改良を重ねられて蜜がたっぷりの甘いものではなく、かなり酸っぱいものだったのではないかと思われます。
現在のアップルパイのように格子状の模様を考えたのは16世紀前半のオランダのパン職人で、オランダでもアップルパイは人気になり、独自の進化を遂げていくことになります。アップルパイはドイツやフランス、イタリアにも広まっていくことになります。
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2. アメリカに広がるリンゴ
実はアメリカにもアメリカ原産の「クラブ・アップル」という野生種のリンゴがありました。しかしこれはたいへん酸っぱく味が悪く、ヨーロッパ品種とは比べ物にならず全く食用になりませんでした。
ヨーロッパから品質の高いリンゴがアメリカにもたらされたのは17世紀前半と考えられています。北米で最初のリンゴ園は1625年に、ウィリアム・ブラクストン牧師がボストンに開いたものです。リンゴは実が実るために受粉の作業がとても重要で、リンゴ園開設当初は受粉が足りずに苦労しましたが、ヨーロッパミツバチが数十年後に導入されると安定しました。
アメリカ中西部へのリンゴの普及は、ジョニー・アップルシードというあだ名で知られる、ジョナサン・チャップマンという男が重要な役割を果たしたとい言われています。
彼はもともと果樹園を経営していましたが、どういうわけかリンゴの種を抱えて中西部に赴いてリンゴの生育に適した土地を探しまわるようになりました。適切な土地が見つかったら、その土地の所有者に無償で苗を分け与え、栽培方法を包み隠さず教えてあげました。彼は髪を切らずに長く、いつもボロボロのズボンをはき、その独特の風貌と彼の活躍は後に詩や物語に多く描かれていくようになります。
ジョン・アップルシードがどこまで貢献したかわかりませんが、北米大陸ではリンゴ栽培と品種改良が盛んになり、1845年の米国のリンゴの苗床カタログでは、350の高品質の栽培品種が販売されるほどでした。
アメリカで一番最初にアップルパイについて書かれた記述が、言語学者のアートン・メトカルフ著「America in So Many Words:Words with Shaped America」に掲載されています。これはハーバード大学の卒業生でボストン市民であるサミュエル・セウォールが1697年10月1日にホグ島へピクニックに行った時の日記です。
最初にバター、はちみつ、カッテージチーズ、クリームを食べ、夕食に良い味のローストラム、七面鳥、野鶏、アップルパイを食べた
Had first Butter, Honey, Curds and cream. For Dinner, very good Rost Lamb, Turkey, Fowls, Applepy.
ごく初期のころは、イギリス移民の他に、オランダ、フランス、ドイツ、スウェーデンからの移民がそれぞれ独自のアップルパイを作り、アメリカのアップルパイというものは当時は存在しませんでした。1798年に公開されたアメリカで最初の料理本「American Cookery」には、複数のアップルパイのレシピが掲載されています。
共通していたのは、女性たちはリンゴの皮をむき、芯を取り、乾燥させてリンゴを長期保存可能にし、一年中アップルパイを作れるようにしていたことです。
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3. フロンティア・スピリットを象徴するリンゴ
ローラ・インガルス・ワイルダーの小説「大草原の小さな家(Little House on the Prairie)」は、西部開拓時代のアメリカのリンゴ農家の一家を描いた作品です。
物語の中で一家はひどい干ばつから逃れてきて、鉄道会社から「大きな赤いリンゴの地」を買ってリンゴ園にすべてを賭ける決意をします。主人公ローラの娘ローズのセリフにこんなものがあります。
わたしが13歳になったら、ここにあるリンゴの木はみんな実をつけるようになるのよ…リンゴは汽車に乗って、大きな町へいくの。町の人はそれを買って、パイを焼くのよ
ローラ一家はリンゴの実が収穫できるまで時間がかかるため、近所のリンゴ農園からリンゴを買い、一部は土の中にいけて生食用にし、その他は切って皮をむき三日三晩干して保存食にしました。こうすることで冬の間中リンゴを生やパイで食べることができたのです。
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アメリカ中西部はやせた土地が多く、トウモロコシや麦の栽培に向かないところでは盛んにリンゴが栽培されました。 中西部の人にとってはアップルパイは、伝統食であり、なつかしいおふくろの味でもあり、ずっと守り続けるべき味であるのです。アップルパイを食べて育った人間が、商業や軍事、政治の各面で、国内はおろか国外でも活躍するようになりそれを誇って、「オレたちのアップルパイが力の源だ」と素朴に言われるようになっていきます。
4. アップルパイはアメリカ的か、反アメリカ的かの論争
20世紀初頭に、アメリカの食文化をめぐる大きな論争が繰り広げられます。
それは「アップルパイはアメリカ的か否か」という論争です。
アップルパイ反対派はこのように主張します。「アップルパイは砂糖をたくさん使った不健康な食べ物で、体に悪く、不道徳で、アメリカのガンそのものである」。
このような主張をしたのは道徳的社会構築の立場から食文化の改善を求めた革新派の人々です。彼らは、贅沢すぎず貧しすぎず、手に入りやすい体に良い食材で、WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)のルーツからアメリカ人に最適な料理の開発を進めていました。
家政学者のエリザベス・フルトンは、「アルコール依存症のようなアップルパイ」を食べることは、離婚の原因であると信じていました。彼女は主婦に人工的な味付けのアップルパイを放逐して、「新鮮な果物に戻る」よう訴えました。
この背景にあるのは、19世紀前半から活発だったキリスト教的社会改革運動です。アメリカ北部を中心に、都会化と工業化に伴う伝統社会の崩壊に危機を唱えて新たなキリスト教文脈を構築しようとし、さまざまな社会改善運動が進んでいきました。質素倹約や質実剛健が主張され、飲酒や肉食の禁止に加え、過度な欲望の解放が咎められ、その中で甘いアップルパイも槍玉に上がりました。自然な味のリンゴを食べるということは、「アダムとイブが食べたリンゴの味に戻る」ということを意味しました。
一方でアップルパイ擁護派は、「アップルパイはアメリカが貧しかった時代から我々を支え、アップルパイを食べてアメリカの偉大な人物は成長した。アップルパイはアメリカに欠かせない存在である」と主張しました。1895年のニューヨークの新聞は、「すべてのアメリカ人はアップルパイへの欲求を持って生まれた」と主張すらしました。
アップルパイ放逐の危機に、擁護派はアップルパイと愛国心を結びつける文脈を発明し、「伝統のアップルパイを愛する者こそ真の愛国者である」と訴えました。冒頭の「(アップル)パイは我が国の強さと優れた産業創設の秘訣である」という主張もこの文脈に則っています。
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5. 愛国的なデザートとなるアップルパイ
アップルパイ擁護派と反対派の戦いは、第一次世界大戦の勃発により擁護派の勝利に終わります。世界大戦に突入するアメリカの愛国的な雰囲気の中で、擁護派の唱える「アメリカ人はアップルパイを食べる」という文脈が強調され、戦争報道の中で伝えられていくことになります。
1918年にボストン・デイリー・グローブ紙の社説はこう書きました。
外国に行ったアメリカ青年は、アップルパイが食べれないせいで元気をなくしていった
パトリック・ヘンリー(合衆国憲法に権利章典の導入を認めさせた人物)だったらこう言ったかもしれない、「アップルパイか、さもなくば死を」。そう、アップルパイのない自由など何になるというのか?
第二次世界大戦に従軍するある兵士は、記者になぜ志願したかを尋ねられてこう答えました。
ママとアップルパイを守るためさ
この文脈ではアップルパイというお菓子が、アメリカという国、故郷と家族、自由と平等というアメリカ的価値観に統合されてその象徴とされているのが興味深いところです。
このように、アップルパイが愛国的なシンボルとして描かれると、これまで作ってなかった母親たちもアップルパイを作って子どもたちに食べさせるようになり、子どもたちはアップルパイを食べて育ち、深い愛情を抱くようになっていきます。
第二次世界大戦後、東西冷戦でソ連と向き合うようになってもこの文脈は健在で、1950年にジャック・ホールデンとフランシス・ケイは「The Fiery Bear」という歌で以下のように歌いました。クマとはもちろんロシア人のことです。
オレたちは野球とアップルパイが大好き
カウンティー・フェア(地域の農畜産物フェア)も大好き
星条旗が高くはためいている
ここにクマの居場所はないのさ
We love our baseball and apple pie
We love our county fair
We'll keep Old Glory waving high
There's no place here for a bear
1960年秋、ソ連のフルシチョフ首相が国連で演説する目的でニューヨークを訪れた際に、一般人のヴァージニア・マククリアーという女性が、フルシチョフが宿泊しているホテルの部屋宛に一つの小包を送りました。警官隊は警戒し、爆発物処理班が招集されました。慎重に中を開けてみると、その中はアップルパイでした。
小包を送ったマククリアーは、アップルパイはフルシチョフに「アメリカの真の強さ」を教えるだろうと述べました。アップルパイは上と下にパイ生地がありますが、真に味があるのは真ん中のリンゴ。つまり「一部の権力を握った上層図とその他大勢の貧民からなるソ連と違い、アメリカは中間層の力が非常に強く、これこそがアメリカ国家の真の強さと価値である」と主張したわけです。
このように、アメリカ人は時代時代でアップルパイをアメリカの象徴的存在に置き換えて表現してきました。アップルパイを食べることは、おおげさに言えば、十三州時代から現代までアメリカのために戦い生きた人たちをリスペクトする行為であり、アメリカ的価値観を再確認する行為でもあるわけです。
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まとめ
アメリカ人が愛してやまない食べ物は、ハンバーガーとか、ピザとか、コーラとかいろいろありますが、どうやらアップルパイは別格のようです。
ジョージ・W・ブッシュが大統領に就任した時のNHKの報道で、妻のローラを紹介する時に「前大統領クリントンの妻ヒラリーとは違う、古き良きアメリカのお母さん」「アップルパイを焼くのが得意な女性」という紹介があったのを覚えています。この一文だけで、彼女は愛国的であり、故郷と家族を愛し、何事も分別があり過剰でなく、穏やかで優しく、しかし自由を侵されるときは命をかけて戦う、といったイメージが与えられたのです。
それにしても、 現代の分断されたアメリカにおいて、今後アップルパイはいったいどのような存在になっていくのでしょうか。古臭くてダサいお菓子、甘すぎて食べられない、今どきじゃないお菓子、になった時が、アメリカという国が大きく変化した証左である気がします。
参考文献・サイト
古き良きアメリカン・スイーツ 平凡社 岡部史