「同和」という言葉をめぐって
本当は専門家が語るべきだろうと思うが、今回の騒動で問題となった同和という言葉を中心に少しだけ。僕らの世代では当たり前でも、今の若い人たちはあまり知らないことなのかもと思うし、極めて党派的対立が強い分野なので、専門家ではない一般人がアウトラインを語る意味は少しはあるだろうと思う。
もともとこの言葉は被差別部落の環境改善と差別解消を目的とした事業を、差別によって立ち遅れていた生活インフラや都市環境を他の地域と同じような水準にすることで差別を解消しようという意味で同和事業と呼んだことから来ている。地方で個別に行われていたものが、69年、同和対策事業特別措置法として正式に立法化され国策事業になった。10年の時限立法だった。
多額な予算を投入する国策事業なので、どうしても利権ができる。で、その利権を巡るいくつかの騒動が事件となり同和利権という言葉ができた。一方で、部落解放運動の中で、大きく3つある団体の中でも最大の組織である部落解放同盟は、同和事業利権への傾斜を深めるとともに、過激な糾弾闘争を繰り広げていた。それは、差別的発言をした人を糾弾会に呼び出して一人に対して集団で徹底的に反省と自己批判を迫るというものだった。精神を破壊される者も多かった。この闘争で部落差別にまつわる様々な言葉がタブー化することになる。集落を示す部落という言葉さえ、公では使えない状況になる。やがて、同和という言葉が代替語となる。そして、同和という言葉さえもタブー化するようになっていく。
映画評論家の町山智浩さんがジャーナリストの佐々木俊尚さんの「高浜町と関西電力の話は同和がらみなのですか…。本当ならこれはまたマスメディアで報じにくい案件に。」という発言に対して「差別的な風評拡散で通報しました。佐々木俊尚はもうジャーナリストを名乗ってはいけないと思います。」というツイートを行った背景には、同和という言葉が、被差別部落の言い換え、もしくは差別的なニュアンスを含む隠語であり、差別性が感じられるようになったという事情がある。一方で、佐々木さんが用いた「同和がらみ」という言葉は、単に同和事業に関わる利権がらみという意味でしかない。(現段階としては、故・森山元助役は後述する部落解放同盟朝田派の方法論を個人で引き継ぎ、部落解放運動を利用して自身の権力を保持してきたのだろうと思う。現在、朝田派は失脚している。その意味では、森山氏が原発立地である高浜町と関わった当初はともかく、今回は同和事業との関わりも薄く、ここ数年においては部落解放同盟と関係がない可能性が高いと思う。)
10年の時限立法であった同和対策事業特別措置法はその後、3年延長され終了したが、まだ被差別部落の環境改善と差別解消が達成されたわけではなく、地域によっては事業を進める必要があった。そこで、82年、地域改善対策特別措置法(地対法)が施行される。同和という言葉がここで公式には消えることになる。これは同和利権に関係する不祥事や事件、また、前述の同和が部落差別を意味する隠語として機能してしまっている現状なども反映しているのだろうと思う。また、この法律が検討される協議会では、部落解放同盟の糾弾会や同和事業を巡る騒動が議題にあげられ協議会に対して批判を強めていた部落解放同盟にとっても、この時点で同和という言葉がネガティブなイメージを持つようになってきて、同和という名前を冠することを望まなくなっていたのかもしれない。そのあたりの空気感は、当時、活動家として内部から部落解放同盟の運動方針を批判をしていた藤田敬一さんの著書「同和こわい考―地対協を批判する (あうん双書)」に詳しい。本は絶版で入手は古本の出品を待つか図書館で読むしかないが、このサイトに当時の様々な方の論考の貴重な記録が残されている。興味のある方は一読を薦める。)
ここで、部落解放運動の団体について整理しておきたい。
今では部落解放運動の団体としては部落解放同盟しか報道されなくなってしまったが、部落解放同盟がその過激な活動によって社会問題を起こしていく中で、その強力な批判者だったのが日本共産党だった。糾弾闘争や積極的な行政への介入による利権獲得は、部落解放同盟の当時の指導者である朝田善之助が提唱した朝田理論によるものだった。団体内の権力闘争で朝田派は主流派から失脚し、以前より穏健にはなったが、部落解放同盟は現在でも糾弾闘争を肯定的に位置づけ、糾弾を否定する言論こそが差別と偏見のあらわれと主張している。この朝田の指導体制に反旗を翻す者たちを日本共産党が吸収する形で、全国部落解放運動連合会が誕生する。一方で、保守系では全日本同和会が存在したが、部落解放同盟同様に暴力による同和利権獲得運動に批判が集まり、同和利権に関わる事件に関与した者を除名、排除する形で新たに自由同和会が誕生。ほぼ自民党系と言っていいだろうと思う。自由同和会は、部落解放運動から階級闘争と天皇制否定を排除する運動方針をとっている。
全国部落解放運動連合会が共産党系、自由同和会が自民党系という流れで、部落解放同盟が社会党系と見る向きもあるが、厳密に言えば、前者2団体と違い、主体は部落解放同盟であり、社会党は団体が支持している政党に過ぎない。ちなみに、現在、部落解放同盟中央本部が支持を表明している国政政党は立憲民主党である。また、地域によっては自民党を支持するなど、まちまちである。
共産党系の全国部落解放運動連合会は、日本共産党との結びつきが強く、ほぼ日本共産党であると言っていい。部落解放同盟が引き起こした事件としては、代表的なものはオールロマンス事件、八高事件などいくつもあるが、佐々木さんが「マスメディアで報じにくい案件」と触れられているように、マスコミが差別問題として報道に及び腰になる中、事件の真相に迫る批判的な報道をしてきのは「赤旗」を始めとする日本共産党の機関紙だった。週刊誌でさえ、大きな刑事事件になるまでは報道できない状況だった。今回の関電の騒動で、森山元助役の関電や部落解放同盟とのつながりとを報じていたのが日本共産党の理論政治誌「前衛」だったのはそういう背景がある。
部落差別問題についての日本共産党の見解はどういうものだったのか。
それは文字通り「同和」である。10年の時限立法としての同和対策事業特別措置法に対して、最も国策の考え方に近かったのは、じつは日本共産党なのではないかと思う。被差別地区と他の地区が同和されたとき部落差別問題は解決されるという考え方で、糾弾闘争、同和利権について徹底した批判を展開した。日本社会でも批判的な空気はあったが、直接言論で批判していたのは日本共産党しかなかったと言ってもいいかもしれない。同時に、その主張は国や世論に近く、そこがまた、急進的な解放運動側からは批判される点でもある。これは、今となってはあまり知られていないことだろうと思う。04年、全国部落解放運動連合会は「部落問題は基本的に解決した」と終結宣言をし解散。発展的に全国地域人権運動総連合と名を変えた。
82年に施行された地域改善対策特別措置法(地対法)は、02年に期限が切れ、国策としての同和対策事業は終焉。今は地域の状況により、地方公共団体が主体の事業となっている。部落解放同盟は地対法に代わるものとして人権救済法の成立を主張した。自由同和会も同様の主張をした一方で、日本共産党はかつての糾弾闘争に法的根拠を与え、新たな利権になる懸念が大きく、国家による言論統制につながるとして一貫して反対の立場をとっていた。
今回の騒動で気になったのは、同和利権との関連は大阪ではすぐに想像がつくが、同和問題に馴染みのない東京ではいまいち想像がつきにくいという意見が多かったことだ。それには理由がある。それは東京には歴史的に差別がなかったからではない。多くの都市が差別解消のために同和事業を進めてきた中で、東京都は一貫して「東京には部落差別問題は存在しない」という立場だったからだ。革新系の美濃部都政になって差別問題に取り組むようになるが、その頃には急速な都市化によって流動化し、ある程度の同和がなされてきたという事情がある。また、各団体が他地域ほどの影響力が持てなかったことも影響はしているだろう。
同和という言葉を巡る騒動で思うことは、同和という、本来はニュートラルなはずの言葉に無限の含みを持たせて差別認定することで、その領域をアンタッチャブルにしてはいけないということだ。一般の人々が語ることが禁忌となれば、その禁忌を破り語る権利が自分たちには特権的に与えられていると主張する党派による一方的かつ啓蒙的な歴史しか知ることができなくなる。それは誰もが望まないだろう。
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