母との間に良い思い出がない。
子どもの頃から粗相をしようがしまいが、向こうの機嫌次第でよくぶっ飛ばされたし、顔や手足に傷が出来るのは日常茶飯事。「自分が仕事から帰ったときにトイレにいたから」とかいうよくわからない理由で食事を抜かれることもあったし、言葉の暴力に関してはバリエーションが豊かすぎてもはやギャグ。ちなみにぎりぎり平成生まれ。今ほど虐待に過敏ではなかった世の中。お前には価値がないお前はみんなに嫌われてるいるだけで迷惑、と洗脳のように刷り込まれていたので、高校までまともに友達が出来なかった。
大学に入学して実家を離れて、ようやく少しずつ人間関係が広がっていって、いつもなんとなくつるむメンツも出来て、彼女たちとは社会人になってからも定期的に集まってご飯食べたり飲んだりしている。
その友人ら4人のうちの1人に、子どもが生まれて、その子は母親になった。その子は色白で美人で、旦那さんも紹介されたけど、爽やかなイケメンだったので、こりゃ子どもの将来も約束されたもんだななんて友達と笑い合った。
赤ちゃん抱えてると、なかなか外ではご飯食べづらいよね、ってことで、少し前に彼女の家に食べるものを持ち寄って(食器の用意とか洗い物の面倒もかけたくなかったので紙皿紙コップも持参、ゴミは持ち帰りで)、この前久しぶりに集まった。彼女の子どもとも初めて会った。かわいい赤ちゃんだった。で、その赤ちゃんを抱えてるのは、友人であり、「母親」という人種だった。
それが、本当に怖かった。
とにもかくにも母親という存在に良い思い出がないのだ。わたしにとって母親というのは、いつ爆発するかわからない地雷のような、突然目の前に現れて火を噴いて暴れる怪獣のような、理解できないおそろしい存在ということになっているようで、彼女が母親として子どもに向き合うのを見るたびに、胃の辺りがしくしくと痛くなった。
母親という存在がみんなあんな感じになるわけじゃない。理屈ではよくわかってるつもりなんだけど、なんとなく、また年末に仲間内で予定を立て始めている、彼女に会える機会からちょっとずつ後ずさっている自分がいる。
結婚して、父親の転勤でまったく馴染みのない土地で、今で言うところのワンオペ育児をしていた母。おまけにわたしは育てにくいお子様で、言葉は遅いし集団行動には乗れなかったようだし、きっとものすごく手を焼いたに違いない。だから仕方のないことだったんだ。何の因果か今のわたしは児童福祉の関係で働いてて、日々いろんな子どもと出会うけど、その度に、母もきっと辛かったのだと思って自分を納得させ続けてきた。
でも、親しい人が母親になったのを見てこの有様なので、たぶんちっとも納得出来てないんだろう。だからといって年に1、2回くらいしか顔を見ない母親に対してわざわざ蒸し返すのも気が進まないし、どうしたらいいのか途方に暮れている。