総選挙が始まりましたので、何かしらの形で李衣菜を応援したいと思って書きました。初投稿のため拙い部分、多々あるかと思いますが、読んでいただけますと幸いです。
行くあてのない一票がありましたら、多田李衣菜にどうぞ投票をよろしくお願い致します。
途中までタイトルが全く思いつかなかったので、たまたま聞いていたOwsleyの曲名から拝借しました。機会があれば聞いてみてください。
追記︰4月08日付の[小説] 男子に人気ランキング 14 位に入ったとのことです。拙作を読んでいただいた方、評価、ブックマークしていただいた皆様にこの場を借りて御礼申し上げます。
ユニットの名前すらない状態でステージに立った、初めてのイベント。
盛り上がりに欠けていたお客さんたちの姿に、不安がる私たち。
救いを求めて彷徨う視線の先で、プロデューサーが力強く頷いた時。
それを見た私の心に芽生えた感情の意味を、今もまだ考えている。
「李衣菜チャン、明日はソロのお仕事だっけ?」
「うん、名古屋に新しいヘッドホン専門店がオープンするからそのプロモーションイベント」
「そっか、みくは明日はナナチャンと一緒にとときら学園にゲスト出演にゃ」
ある日の撮影スタジオの昼下がり。
アイドル系音楽雑誌の表紙を飾るグラビア撮影を卒なくこなして、初めて内部資料以外の写真を撮ってもらうお仕事の時には表情の固さで何度もNGを出していたことを思えば、随分と成長したなあ、と我ながら感心している。
ユニットデビューしたころから比べると、シンデレラプロジェクトとしての枠組みにとらわれない仕事内容が格段に増えたと思う。その経緯を巡っては一口では語れない様々な出来事があったけど、今となっては肯定的に捉えられている。それはもちろんこうして変わらずみくちゃんと一緒のお仕事があるからこそ、なのだけれども。
「あー……それはまた体力要りそうな」
「みくはいいけどナナチャンが心配で……」
「菜々ちゃん、いつも一生懸命だからすぐ息切れしちゃうもんね」
「それより李衣菜チャンは地方のイベントだけど大丈夫? 一人で行って帰ってこれるのかそっちもみくは心配にゃ」
みくちゃんが失礼なことを言う。いくら私でも、新幹線に乗って帰って来ることくらい出来ないわけないじゃない。
そもそも一人での仕事と言っても、それはユニットではないという意味の一人であって、スタッフさんはもちろん名古屋支社から応援に来てくれる。それに何よりも。
「あー、うん……明日はプロデューサーも来てくれるから」
「Pチャンが?」
何故かはわからないけれど、みくちゃんの目がスッと細まったような気がする。
「李衣菜チャンだけズルいにゃ! みくだって最近Pチャンと一緒にお仕事してないのに!」
「ええ、そんなこと言っても……」
撮影スタジオの外にまで聞こえていきそうなくらいの剣幕で、まるで「この泥棒ネコ!」と言わんばかりの。いや、猫キャラはみくちゃんのほうなのに。
「私なんて、一人のお仕事についてきてもらうのは、たぶん、初めてなんじゃないかなあ」
記憶を辿ってみても、アスタリスクのお仕事でも現場にまでついてきてもらうのは珍しいと思う。大体はメイク中心のスタッフさんが数人居てもらえたら、みくちゃんと二人で何とかなる内容が多かったからなのだろうか。
ただでさえ14人全員が売れっ子で、シンデレラプロジェクト二期生の企画も検討しているらしい、売れっ子を抱える売れっ子。私たちだけに割けるリソースは決して多くない。
だから、どうして今になって、という疑問もある。
「そうなの? まあ、どうしてもPチャンは一人のお仕事だとみりあチャンや莉嘉チャン、蘭子チャンあたりについていくことが多いからそうなっちゃうのかにゃ」
「うん、だから……まあ、楽しみ、なのかな」
「そう言う割には何だか浮かない顔してるけど、どうして?」
自分では努めて気にしないように、と思っても表情に出てしまっているようだった。
楽しみ、という言葉に嘘は無くて。
少しだけ不安、という気持ちもまた本当で。
「私、プロデューサーとコミュニケーション取れる機会が今まであんまり無くって……気まずい、とまではいかないんだけど、その……」
「あー……李衣菜チャン、最初のほうはみくたちだけじゃなくてPチャンにもクールぶってたから……」
「まるで今はクールじゃないみたいに言うね!?」
「大事なのはそこじゃないにゃ。みくたちとは簡単に埋められた距離感を、Pチャンとは埋められないまま、ズルズルとここまで来ちゃったってことでしょ」
ぐう。
はぐらかされている気がしないでもないけど、その指摘には頷けるものがあった。そう言うだけあって、みくちゃんは決していい形ではなかったかもしれないけれど、あの立てこもり騒動の時に溜め込んでいた思いを吐き出したぶん、時機を逸したままの私よりよっぽどプロデューサーと打ち解けている。クールなアイドルとしての矜持はもちろん、そうじゃない振る舞いもまた、私の一面であることを十分に伝えきれていないまま、今日に至ってしまっているのは確かだった。
他のメンバーよりもプロデューサーとの距離があるように感じるのは、私の話し方のせいもあるのかもしれない、と思う。目上の人に敬語、とまではいかないまでも丁寧な口調で接するべきというのは、私の中でちゃんと線引きがあるので、今更それを変えるつもりはない。ただ、そのせいでコミュニケーション不足とも相まって、プロデューサーに取っ付きにくい子だと思われていたら困るなあ、と。
「だったらせっかくの機会なんだし、距離を縮める為に甘えてみればいいのにゃ。ほら、ごろにゃーん」
「いや、それ私のキャラじゃないし。そもそも甘えることが目的じゃないんだけど」
「じゃあどうしたいの?」
どう、って。
どうしたいんだろう?
不安な気持ちの理由はいくらでも列挙出来る。
でも、それだけでは当然楽しみな気持ちの理由にはならない。
だとすれば、私が現状をどうにかしたい、どうにか出来るチャンスだと息巻いているこの気持ちこそが、楽しみの一端を担っているのだと思う。
「んー……卯月ちゃんや凛ちゃんくらい普通にコミュニケーション取ってお仕事したいなあ」
「その二人を目指すのはちょっと難易度高過ぎるにゃ……。でも、だったらやっぱり甘えるという路線は間違いじゃないにゃ」
そうなのかなあ。
決して仕事上でのコミュニケーションが上手く行ってないわけではなくて、二人きりになったときに、プライベートなことを気兼ねなく喋れる間柄までは行けてないってくらいで。
それはもしかして、一人のときのお仕事のモチベーションにも関わってくるのかな。
「さっきみくちゃんはズルいって言ってたけど、プロデューサーがいるといないとでお仕事ってそこまで差が出るもの?」
私は少なくとも気にしたことはなかった。言い換えるなら、一人で仕事を進めていく上で深刻な問題が起こったことはなかった。アスタリスクとしてのトラブルは結果的に私たちだけで解決すべき問題だったことがほとんどだったし、実際に上手く行った――行きそうだったからこそ、プロデューサーも見守ってくれていたのだと思う。
アスタリスクとしての、という領域に思考が及んだところでまた思い出した。
あの、初めてのステージに立った時の記憶。隣にみくちゃんがいるはずなのに私一人になってしまったかのような孤独感を、救ってくれたのは。言葉に出来ないあの気持ちが、答えを握っているのかな。
あれからもう半年以上経っているのに、何かもわからない小さな思いは、ずっとつっかえたまま。
「そりゃあ、みくだって出来ればいつもPチャンと一緒にお仕事したいって思ってるよ。でも、Pチャンがいないことを言い訳にしてパフォーマンスを発揮出来ない、しないのはプロとしてカッコ悪いって思うの。李衣菜チャン風に言うなら、それはロックじゃないってことにゃ!」
上手くお仕事出来た時に、あの仏頂面が少しだけ綻んでお疲れ様の一言でも貰えたらもちろん嬉しいにゃ、と言い添えて。
みくちゃんは強いなあ、と思う。
私は今まで騙し騙しで何とか出来ていただけで、もしかして。
まとわりついた靄を払うように、明日の進行表を確認することで仕事モードへと強引に切り替えていった。
「ここまでが我々の持ち時間の3分の1ほどですが……多田さん?」
「ひゃ、はいっ」
新幹線での移動中の打ち合わせなのに、上の空になってしまっていた私の意識を引き戻したのは、地の底から聞こえてくるようなお父さんよりも低い声。
「どうかされましたか?」
「い、いえ、何でもないんです。ごめんなさい、ぼーっとしちゃって」
グリーン車には私たち以外誰もいないから、これ幸いと始まった進行の確認のはずだった。
ああ、だめだな。意識しちゃうと何だかそわそわして落ち着かない。初めてのお仕事じゃあるまいし。いつもと違うことは、みくちゃんがいなくてプロデューサーがいる。それだけなのに、私らしくなかった。
「でしたらいいのですが……。体調がすぐれないようでしたら、言ってください」
「大丈夫、大丈夫です……」
昨日みくちゃんと話していたことを思い出して実行に移そうと思っても、タイミングが見つからないし、そもそもどう甘えればいいのかもわからない。こんなんじゃ、仕事上でのコミュニケーションすらも上手くいかなくなっちゃってるような。
わからない。わからないけれど、私の本分はアイドルであって、お仕事を疎かにしてしまうわけにはいかない。それはみくちゃんが言っていた、他ごとに気を取られて最高のパフォーマンスを発揮出来ないのはロックじゃない、ということだった。
「ええと、どこまで確認しましたっけ。ヘッドホン屋さんの司会の人に新製品の話を振るところでしたっけ?」
「……いえ、その次の次の、多田さんのお気に入りのヘッドホンの話、ですね」
「あー、あはは……。すみません……」
だめだめだった。窓の外、流れていく静岡の景色の中に私の意識も取り残されていた。
そんな私を見かねたのか、プロデューサーはカートを引いた車内販売のお姉さんを呼び止めて、
「少し、休憩しましょう。打ち合わせは到着してからでも十分間に合いますから。……すみません、コーヒーを一つ。多田さんは何を飲まれますか?」
「……コーラを、お願いします」
冷た過ぎないコーラ。弾ける炭酸で喉を潤しても、つっかえている思いは流されてはくれない。
確かにお仕事の話を今すぐに再開しても、きっとまたどこかに心を置き忘れてしまうかもしれない。今からこんな心持ちでは、いざ本番の時に上手に出来るかどうかだって怪しい。それならいっそ、今ちゃんとコミュニケーションを取ってモヤモヤを取り除くべきなのかな。
そう思って話し掛けようとした私より先に、優しくて落ち着いた声が言葉を紡ぐ。
「多田さんは、最近お仕事の調子はどうでしょうか?」
まるでどうやって子どもと接していいかわからない親みたいな唐突な切り出し方。というか、仕事で帰りの遅いお父さんが、たまに夕食の時間に間に合った時の第一声はまさにこんな感じだった。
相変わらず不器用なんだなあ、と思う。
ずっとカッコつけていたせいで、身近な男性と今まで満足にコミュニケーションを取れずにいる私と、どっちが不器用なんだか。
「とっても、楽しいですよ。シンデレラプロジェクトやみくちゃんとはもちろん、なつきちや菜々ちゃん、他の部署のみんなと色んなお仕事をさせてもらえて、毎日が刺激に満ち溢れてます」
「それは、とても素晴らしいことですね」
小さく頷いて。
その仕草は、あの時のものとは意味合いが違うのだろうか。
「アスタリスクの――あなたのお仕事の企画検討は私がしているのですが、その後は指示を控えたり現場にいても見守るだけになってしまったりすることは、ずっと気になっていました。忙しさを理由に、あなたたちの自主性に任せきりになっていたことを申し訳なく思っています」
少し迷ったような素振りを見せてから、プロデューサーは力のない声で言う。
……どうして今、そんな話を。
「……前川さんから、聞きました。多田さんが私と上手く意思疎通を図れているのか不安に思われている、と」
ドキッとした。私はもちろん、プロデューサーにもみくちゃんにも、そういう意図はないんだろうけど、陰口みたいにこっそり話していたことを本人にバラされてしまったようで、バツが悪い。
普段は頼りがいのある男の人が、こんなにも弱々しく見えるのは痛ましかった。そして、その原因になってしまっているのは私だった。
「そ、それは違うんです。不安じゃなくて、私が……その、みんなは、プロデューサーと、普通にしてて、私だけ、その、ちゃんと話せてなくて」
動揺し過ぎていて、何を言っているのか自分にもわからない。ただ零れ落ちていく言葉、想い。あなたがそんな顔をする必要はないのに。
せっかくみくちゃんが焼いてくれたお節介、無駄にはしたくない。思っていることをそのまま口に出来るように、心を落ち着かせて。
「その、みくちゃんにはそういう話はしたんですけど、決してプロデューサーが悪いとかそういうことじゃないんです。私が今まで、プロデューサーとゆっくりお話できるタイミングがあんまりなくて、もっと凛ちゃんや卯月ちゃんみたいに自然にできたらいいのにな、って」
「そうでしたか……」
少し、表情が明るくなったような気がする。本当に、ほんの少しだけれど。
「ですが、私があなたたちの自主性に任せていたことを、ずっと申し訳なく思っていたというのは本当です。シンデレラプロジェクトの中でも、とりわけアスタリスクは当初からあなたたちの判断に任せることが多く、放任と思われても仕方のないプロデュースだったのかもしれない、と」
「それは……違うと思います。私とみくちゃんは、他の子たちと違ってぶつかり合いながら前に進んでいけるパワーがあったから、プロデューサーの過度なサポートは必要なかった。そうじゃないんですか?」
そうだったからこそ、今まで打ち解けられる機会が来なかったのかもしれない、とも。
良く言えば手のかからない子たち、だったのかな。
私が問い掛けると、プロデューサーは珍しく驚いたような顔をしていた。
「そう……です。そうなればいいと思って、実際にそうなりました。多少の問題に阻まれたとしても、あなたたちにはあなたたちだけでそれを解決出来る力があり、私が余計な手出しをすることで拗れさせてはいけないと。確かにそういう意図はありましたが、多田さんがそこまで深く推し量られていたとは」
「……そんなに、意外ですかね?」
「とんでもない。やはりあなたはとても聡い方だと」
……褒められてるんですよね、それ?
「それに私たちアスタリスクは、好き勝手にさせてもらえたからこそとんでもない化学反応を起こして、起こし続けられていると思いますから」
「そうですね。私としても嬉しい、誤算が多かったように思います」
ふっ、と。
柔らかく微笑んだ、と思った次の瞬間にはもうキリっとした表情に戻っていた。
見間違いなんかじゃない。心臓が跳びはねるのがわかった。
ああ、藍子ちゃんか椿ちゃんからデジカメを借りておけばよかった。一瞬を収める為にカメラを持ち歩いているその意味の一端を、理解出来たような気がする。二度と訪れない私だけのシャッターチャンスは確かにあるのかもしれない、と思った。
「ですが確かに、多田さんが仰られるように円滑なコミュニケーションは重要だと、私も以前から思っていました。……そのままでは、取り返しの付かないことになってしまう場合もあると、身に沁みてわかっていますので」
思い返しているのは、以前に担当していたというプロデューサーの前から去っていった女の子たちのことだろうか。もしくは、立て籠もり騒動を起こしたみくちゃんだろうか。それとも、感情を剥き出しにしたあの日の未央ちゃんだろうか。
あるいは。
「そのため、今日のイベントは本来であれば今まで通り一人でも滞りなくこなせる仕事だと思いましたが、名古屋支社のスタッフに無理を言ってあなたに同伴する許可をいただいたのです」
「だ、だったら別に事務所にいる時に話しかけてくれてもよかったじゃないですか」
「あなたの普段の仕事ぶりを見たいと思うのは、不思議なことでしょうか?」
さも当然とでも。
授業参観、という言葉が不意に頭に浮かんで来て、またさっきのお父さん像と重なって見えた。
「それにどうしても事務所では机に向かってしまいますし、他の皆さんもみえますので、落ち着いてお話するのが難しいかと。なので、名古屋に着くまでにあなたのことを聞かせて下さい」
プロデューサーはいたって真面目な顔のまま、そう言うのだった。
「進行に問題が?」
「ええ、すみません。346プロさんの前に弾き語りステージに立っていただく予定だった男性シンガーさんが、高速の渋滞に巻き込まれて到着がまだでして、スケジュールに穴が空いてしまいそうなんです」
少し早めにイベント会場のヘッドホン専門店に入ったところでスタッフさんから開口一番、悪いニュースが飛び込んで来た。
オープン記念イベントは複数のプログラムで構成されており、私の出番は最後から二番目のコーナーに予定されていた。本来なら、今は地元出身のシンガーさんの1時間ほどのアコースティックライブが始まったばかりのはずだった。
「その前のプログラムでなんとか場は繋いでいるのですが、そろそろ限界で……。シンガーさんのほうも到着まであと4、50分は掛かると……」
スタッフルームからステージを覗いてみると、確かに観覧スペースに集まった満員のお客さんの間には、既に不穏な空気が伝播し始めているようだった。壇上のコンビ芸人さんは必死に引き延ばそうと漫才を披露しているものの、時折変な間が生まれて傍目にもネタ切れが近そうな雰囲気が感じ取れる。
歯切れの悪いスタッフさんの言葉。そんな風にちらちらと期待を込めた眼差しを向けられたら、状況と合わせて大体次に何を言おうとしているのか私でも予想出来る。
「無理を承知でお願いするのですが、346プロさんのほうで少しでも繋いでいただけないかと……」
「いや、しかし……まだ打ち合わせすらも……」
プロデューサーは苦々しい表情を浮かべて難色を示す。
結局、新幹線の中ではプロデューサーが現場にいなかった時の私の活動報告や、プロデューサーから見た他のユニットの近況、他の部署の仲が良い子の話、他愛もない会話に終始して、打ち合わせについては本当に一言も喋らなかった。それでも私の言葉一つ一つに相槌を打って、決して饒舌ではなくてもプロデューサーが自分のことを話してくれたのは、気を回してくれたみくちゃんにも顔向けできる十分な成果に違いない。とても貴重で充実した時間だった。
そんな風に自分から話をしたいと切り出したプロデューサーが、今度は明らかに私から目線を外して、意識的にこちらに話を振ろうとしていない。その理由はすぐに察することが出来た。きっとここで私に問い掛けると、また判断を任せてしまうことになるんじゃないかと思っているんだ。そうしてはいけないと決めた矢先だったのに、と。
だったらそれは違う、と声を上げる。
「プロデューサー、私、やりたいです」
例え私が出ていったところで、シンガーさん目当てのお客さんを引き留めることが出来るなんて思わない。そもそも自分の進行すら満足に把握してないのに、予定より大幅に多く喋るなんて上手くいくビジョンが全く見えない。
――でも、今出来ることをしないで、自分の番が来た時に最高のパフォーマンスを発揮出来るとも思わない。
「多田さん……」
「ほんとは、やれるって言い切れたらロックなんですけど……でも、今はやるしかないと思います」
私たちだけで判断をさせてもらえていたのは、過去の経験と実績からの信用だった。
今までは、それで良かった。
今からは、私の未来を信頼してほしい。
「あなたたちに……あなたに、判断を任せきりにしてはいけないと思ったばかりなのに、私は酷いお願いをしようとしています」
「いいんです。プロデューサーが私を信じてくれているからこそだと思いますから」
「すみません。……いいえ、ありがとうございます」
「その代わり、さっき新幹線で言ってたプロダクション近くのおいしいハンバーグの洋食屋さん、今度連れて行ってくださいね」
はい、必ず、と返事をするとプロデューサーは表情を消して目を閉じた。集中して考え始めたのかな、と思ったほんの数秒後にはスタッフさんに向き直っていた。
「10分、時間をください。その間にこちらの多田は出来る限りの進行の確認を行います」
「あ、ありがとうございます! 現在のプログラムが終わり次第休憩を挟むようにします」
「では、その終了時に必ずシンガーさんの到着が遅れていることを説明して下さい。店内放送でも同じことを。そして多田が予定より早く登壇することを合わせて伝え、お店のSNSでも臨時のお知らせとして告知して下さい。私どもの部署のSNSでも同じように投稿しますので」
「はい。SNSでは進行のトラブルは告知済みですが、改めてそのタイミングでお知らせするようにします」
「それから後日、動画配信サイトの当部署アカウントにて多田が出演している部分のみ公開しますが、構いませんね?」
「はい、許可は必ず取ります。そちらもSNSにて臨時のお知らせと合わせてアナウンスいたします」
「それから、登壇後の多田の最初の挨拶の終わりにこちらの音源を……」
私は勢いだけで出演したい、と言ってしまったけれど、既に決まっているスケジュールを変えるのは単純な事ではないのだった。決して多くはないかもしれないけれど、当初の時間通りに集まってくれる、私目当てのファンへの出来る限りの配慮も忘れていない。さすがはプロデューサーだった。
私に出来るのは、自分が本来出演する予定だった部分の会話の流れを確認することだけ。追加のおおよそ30分ほど、繋ぎで膨らませて喋る内容は何もないし誰も知らない。
心臓が少しずつ早いビートを打ち始めていた。果たしてこのネガティブな高鳴りを変えられるのか。
「……といった事情がありまして、皆さまをお待たせしていること、大変申し訳ございません。プログラムの順序の変更を検討した結果、346プロさんのご厚意で特別にこの時間から前倒しでご出演いただけることになりました。本日のオープン記念トークイベントに駆けつけてくれましたのは、シンデレラプロジェクトのアスタリスクから元気いっぱいロック担当、多田李衣菜ちゃんです。どうぞ!」
横手のスタッフルームから出て司会の台を通り過ぎ、イベントスペース中央の一段高いステージに登壇していく。ステージ中央には、マイクと水のペットボトルが置かれた簡素な机と椅子が用意されており、当初の進行予定ではすぐには座らず、軽く挨拶をすることになっていた。
マイクを手に取りながら、集まってくれているお客さんの顔を見渡す。確かに人数は多いものの、大半は男性シンガーさんの出番を心待ちしていた人たちだろう。いつも私たちのイベントに来てくれる客層とは微妙に違うのがわかる。本来の定刻より先に集まってくれた、346プロのライブTシャツを着ている人を始めとした私のファンは当然数えられるほどで、拍手もまばらだった。
10分という猶予ではこんなものだろう、とは頭の中で理解していても、直近のお仕事は無条件で好意的なレスポンスを返してくれるオーディエンス相手のイベントばかりだったから、心が追いついて来ない。
もちろん敵じゃない。でも、味方とも言えない。
最初は誰だって、もちろん私だって通った道のはずなのに、どうして今こんなにも心細く感じているのか。どんなに疑問を重ねても誰も答えてくれない。これは私の――私一人のお仕事なんだから、私がやらなくちゃいけない。
数多くの戸惑いと、ほんのちょっとの期待を含んだ視線を一身に受けて、マイクのスイッチを入れた。
「お、おはようございます! あ、違う……こんにちは!」
「おっと、さすがの李衣菜ちゃんも集まってくれたお客さんを前に緊張気味ですね。温かく見守ってあげてください!」
いきなり失態だった。
喋りが本業ではないはずの司会の人がおそらくアドリブでフォローしてくれたけど、なんて恥ずかしい。
鼓動の高鳴りは8ビートからとっくに16ビートに変わっていた。さっき自分からイベントに出たいなんて強気で申し出たとは思えないビビりようだった。まだ一言しか喋ってないのに水に手を付けてしまいたくなるほど、喉が渇いているような錯覚。傍から見てもガチガチに緊張しているのがわかってしまっているようで、僅かながらも集まってくれた私のファンの間にも、少しずつ動揺が広がり始めていた。
これはいけない。早くいつもの調子を取り戻さないと……。
「えーっと、本日はお日柄もよく……待望の名古屋店がオープンされるということで……その、応援に駆け付けました! がんばります!」
あああああ、それは違う人の台詞だった!
恥ずかしさで顔が熱くなるのがわかる。ここぞというところで思いっきり外してしまった。当然、観覧スペースのざわめきを呼び覚ますのに時間はかからない。
『おいおい、李衣菜ちゃん大丈夫か』
『何かめちゃくちゃあがってないか?』
『さっきの、卯月ちゃんのモノマネ?』
『だりーな体調悪いのかな』
『リーナやばくね?』
隣の人に話しかけるくらいの声量のはずなのに、いやにはっきりと聞こえてくる。
頭の中が段々白くなっていく。ライブのような心構えや準備は必要なくても、さすがにぶっつけ本番に近いような形でのお仕事は何度も経験なんてしてない。
静かに血の気が引いていくのを感じる。意識まで遠ざかっているのか、司会の人が多分またフォローしてくれているのに、頭に入って来ない。さっきは聞こえてきたお客さんの声も段々と小さくなっていく。
観覧スペースの後方、正面には鏡張りの太い柱があって、そこにはたった一人、どう見ても頼りない私の姿が写っていた。例え自称、という言葉をまだ外せないキャリアの浅さでも、カッコよさを売りにしているロックなアイドルだとはとても思えない。本当の私は一体どこに?
盛り上がりに欠けているのはわかってるのに、いつもはどうやってファンをアツくさせていたのか思い出せなくなっている。いつも。いつもの調子で。
いつもってどんな風だったっけ。
私のいつもは。
みくちゃんが、あるいはなつきちや菜々ちゃんが。あるいはシンデレラプロジェクトのみんながいてくれたから。
だから一人じゃ何もできないのかな。
そんなことない。
一人でのお仕事だっていつもは上手くやれてた。
決まっている進行を確認して当たり障りなくお仕事をこなしていた、いつも?
そうじゃない。そんなはずない。
錯綜する思考。
殺到する焦燥感。
緊張で嗚咽が込み上げてくる。
土台無理な話だったのかな。
私、このお仕事失敗しちゃうのかな。
どうしたらいいんだろ。
どうしたらいいのかな、みくちゃん。
どうしたらいいのかな、なつきち。
どうしたらいいのかな、みんな。
……どうしたらいいんですか、プロデューサー。
知らない土地で迷子になってしまった子どもが、泣きそうになりながら親を探すように。
それでも嗚咽を堪えて辺りを見渡すと、あんなに目立つ姿がどうして今までは視界に入って来なかったのか――観覧スペースの脇の壁際でそれはもう威圧感たっぷりの大男が、ものすごい形相で必死に手を振ってアピールしていた。
――私はここにいます。
そんなに大げさにアクションしていたら、声を出していなくてもそう言っているのがわかる。
私がそちらを向いたことに気づくと、プロデューサーは目線を外さないままで一旦手を降ろした。
音の聞こえない世界。
交錯する視線。
ユニットとして立った初めてのイベントの記憶がフラッシュバックする。
救いを求めて辿り着いた先にあったのは。
……ああ、そっか。私は一人じゃなかった。
胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
本当はいつだってそうだと、頭の中ではわかっていた。私たちの見えないところでも、あなたが私たちの為に必死で走り回っていたことを。
過去を信用していたのは私もだった。
だから、今からはあなたの未来を信頼する。
何かを伝えるようなプロデューサーとそれを受け取る私。
そしてお互いに強く、頷いた。
ほんの数秒間の音の聞こえない世界から戻ってくると、当然まだざわめきは続いていた。司会のスタッフさんさえも、フォローに続いての話題をゲストの私に振りながら心配そうに見つめている。
そうだった。時間が早まったのにわざわざ集まってくれたファンの人だけじゃない、このイベントのスタッフさんだって私のステージの成功を手助けしてくれる味方だった。そしてそれ以外の――まだ味方じゃない――未来の可能性の人たちにファンになってもらうのが本当に大事なことだった。パニックになって、そんな当たり前のこともわからなくなっていた。
何より、私には心強い味方がいつでも傍にいた。いてくれることを、思い出した。
小さく息を吐いて水のペットボトルを手に取ると、蓋を開けて一気に半分近くまで飲み干した。あの時から喉にずっとつっかえていた思いが、流されていくのがわかった。
まだ心臓は大きな音を立てている。緊張は吹き飛んだ、なんて嘘は言えない。トチってやらかすかもしれない。台本通りにいくことのほうが珍しい。だけど、それが思わぬ化学反応をもたらすアスタリスクで、多田李衣菜だった。
最後にもう一度だけプロデューサーを見て、マイクを握り直した。
「……ごめんなさい! やっぱり人のモノマネだとカッコつかないからやり直させて下さい!」
ざわめきが一瞬で収まる。
私を信頼してくれているファンの人たちには、もうそれだけで今までと雰囲気が違うと伝わったらしい。
『おお、いいぞいいぞ』
『カッコいいとこ見せて!』
『かましてやれ、リーナ!』
そして対照的に。
さっきまでテンパってどうしようもなかったやつが何を言い出そうとしているのか、なんて訝しんでいる未来の私のファンたち。
例え盛大に外したって構わない。私が今出来る最高のステージングを見せつけてやるんだ。
進行予定には、赤字で挨拶の締めについてとても大事なポイントが書かれていた。それもパニックになって忘れていたものだから、予定と違う挨拶になってしまって、裏方の音声さんはさぞ困ったに違いない。
今度こそは、と大きく息を吸い込む。
「――346プロダクション、シンデレラプロジェクト所属、アスタリスクの多田李衣菜!」
ハウリングも起こりかねない力の限りの叫び。
「今日もロックに行くぜっ! よろしくっ!」
言い終わると同時に重厚なエレキギターのジングルが両側の巨大なスピーカーから鳴り響いた。私の言葉を引き継ぐような、あまりにもベストなタイミング。なつきちが私の登場SEとしてレコーディングしてくれた、最高にクールなギターインストだった。
それに合わせて何度も練習してきたエアギターを披露すると、ファンからは待ってましたと言わんばかりに歓声が上がり、未来のファンも熱気にあてられて一人、二人と釣られて拍手し始めていた。更に、ステージとは関係なく来店していたお客さんまでも巻き込んでいく。やり直したとはいえ掴みはバッチリだった。
視界の端でプロデューサーが小さくガッツポーズをしているのが見えて、ああ、やっぱりデジカメを借りておくんだったなあ、なんて。
後日。
『今日もロックに行くぜっ!』
レッスンを終えてシンデレラプロジェクトの部屋に入ると、とっても耳馴染みのある声が聞こえてきた。
プロデューサーがいつもにらめっこをしている壁際のデスクトップパソコンの前に、五人ほどの人だかりが出来ていた。肝心の机の主は、例え座っていたとしても遠くからでもわかるので、どうやら外出でもしているようだった。
もう大体何をしているのか察しているけれど、このまま気付かないふりを通してプロジェクトルームに居座り続けるのは難しい。
「……みんな、何やってるの?」
「あ、李衣菜ちゃん。この前李衣菜ちゃんが名古屋でイベントに出た時の映像が配信されてたから、みんなで見てたんです」
一番外側にいた卯月ちゃんがきれいな髪をなびかせて振り返った。
……ですよねー。
後日配信するとの言葉通り、過日のイベントの模様は動画配信サービスのシンデレラプロジェクトのアカウントでしっかりと投稿されていた。最初のガチガチに緊張している私の姿ももちろん、ノーカットで。ご丁寧に私の出演部分だけ切り出してアップロードするくらいなら、そのついでにカッコ悪いシーンもカットして欲しかった。トークイベントそのものは、その後適宜場を繋ぎつつ台本の流れ通りに終了したとは言え、どうしても最初でつまずいたのが目立ってしまう。
ライブのブルーレイからドラマのちょい役まで、自分の出演している映像なんてもちろん今まで何度も見ているけれど、こうして自分だけのステージを、目の前で改めてみんなに見られるのはどうにも恥ずかしい。
「えへへ、李衣菜ちゃん、私のマネしてくれたんですね。嬉しいですっ」
「卯月ちゃん……」
思い出すのも億劫な記憶が確かなら、先ほどのシーンの前が一番恥ずかしくて見られたくないところで、動揺して図らずも卯月ちゃんのモノマネになってしまったオープニングトークのはずだった。
記録映像として見ると、その後の掴みの為に卯月ちゃんをダシにしたような流れになってしまっていて、後ろめたい気持ちが湧き上がってくる。仮に誰かが私のモノマネとして、ロックロック連呼して笑いを誘ったとしたら、本気で怒ることは無くても心穏やかなままいられるかどうかはわからない。本意でなくてもそういうことをしてしまったのだと、今更思い知らされる。結果オーライだったから、とは間違っても言えない。
「今度一緒のステージで、二人でやりましょうねっ!」
なのに、卯月ちゃんはいつもと変わらない百点満点の笑顔で。
ピースピース、ぶいっ、なんて。
私のネガティブな感情を吹き飛ばしていく。
やっぱり人のモノマネなんて良くない。適材適所。私には私の、卯月ちゃんには卯月ちゃんの、ぴったりのガラスの靴がある。それを見つけて履かせてくれたのは誰かなんて、言うまでもなく。
「……うん、ありがと。楽しみにしてる。その代わり卯月ちゃんもエアギターの練習しといてね」
「ええっ、そんなあ!」
そう言う割にはどこか嬉しそうな声音で。
近々一緒のステージのお仕事を入れてもらえるように、プロデューサーにお願いしようと思った。
「李衣菜ちゃん李衣菜ちゃん、このときPくんと一緒だったんでしょ? いいなー、アタシもPくんと一緒にお仕事したーい」
「李衣菜ちゃんずるーい。私もプロデューサーと一緒のお仕事がいい!」
「うっ」
一難去ってまた一難。今度は莉嘉ちゃんとみりあちゃんの年少コンビが詰め寄ってくる。無邪気さ故に言動に裏がなくて、現場について来て欲しいだけ、というストレートな気持ちに対して、言いくるめる為の言葉を持たない私にとってはある意味最も怖い存在だった。
こうなるのが嫌だったから出来れば知らぬ存ぜぬで通したかったし、こんなお仕事があったという事実すらあわよくば抹消したかった。動画のアップロードと入ってきたタイミングが悪すぎたとしか言えない。
どうしたものかと迷っていると、救いの手は意外なところから差し伸べられた。
「莉嘉チャンもみりあチャンも、よくPチャンについてもらってるでしょ? Pチャンも忙しいからあんまり無理言って困らせちゃダメだよ。ほらほら、レッスン始まっちゃうから早く行くにゃ」
「はーい。……みりあちゃん、今度の撮影見に来てくれるように後でPくんにお願いしよ!」
「うん、そうしよー!」
「あっ、こらっ! もう、全然わかってなさそうにゃ……」
宥めようとするみくちゃんから、逃げるように素早い動きで莉嘉ちゃんとみりあちゃんはルームから飛び出して行った。こと軽い身のこなしという一点において、誰かよりよっぽど猫っぽいと感心する。
敵の敵は味方。ともかくも、助けてくれたみくちゃんには感謝しないと。
「で、李衣菜チャン。ちょっと気になることがあるんだけど」
「な、何?」
「最初はガッチガチに緊張して挨拶も覚束ない感じだったのに、途中から別人みたいになったのはどうして?」
マウスカーソルで再生位置をほんの少し左にずらすと、スタッフルームからとてつもなくぎこちない動きで私が登場してくるところだった。油をさし忘れたロボットみたいで、今にも関節の軋む音が聞こえて来そう。
改めてあの辿々しいオープニングトークの映像を見ると、喋りはもちろんのこと、本当に酷い顔をしている。冷や汗だらだら、焦点の合わない目、産まれたての子鹿のように震える足。声に出てないだけで目尻には薄っすらと涙さえも浮かぶ。これが生放送のテレビ番組ならちょっとした放送事故だった。
それが、ある一瞬を境にあまりにも劇的に変わる。
落ち着きなく彷徨っていた視線が一点を捉えた時。
鮮やかに花開くように。
……私、こんな顔してたんだ。
驚いたのは、その一瞬の前後どちらの自分にも。
「うん、私も気になる、かな。李衣菜、すごくいい顔してるから」
「みく的にはここで観客席に誰かを見つけてテンション上がったのかなーって思うんだけど。その後も何回か同じ方向をチラチラ見てるし」
「あっ、ホントですね。何だか李衣菜ちゃん、すごく嬉しそうです。まるで、ドラマの恋する女の子みたい……」
前言撤回。
敵の敵は敵だった。しかも自然に凛ちゃんまで加わって二人に増えた。前門の虎、後門の狼。それぞれの後ろにそんなオーラが見えるような気がする。なるほど猫と犬のイメージにぴったり、なんて呑気に感心している余裕はない。どっちの味方かわからない兎の卯月ちゃんまで爆弾を投下して参戦してきたからもうめちゃくちゃだ。
スッと目が細まって、探るようなみくちゃんの視線。
「夏樹チャンは別のお仕事だったし……。まさか李衣菜チャン! みんなに内緒で、か、か、彼氏を……」
「やるね、李衣菜。ああ、こういう時はロックだね、のほうがいいのかな」
「す、すごいです李衣菜ちゃん! 大人ですね……!」
「ああああもう! そんなわけないでしょ! ちょっと……その……知り合いを見つけて……」
苦しすぎる言い訳。
私自身もこの一瞬の変化の意味を理解出来ていないから、秘める答えも、誤魔化す答えも持ち合わせていない。なら、例えこのまま件の人物について問い詰められたとしても、明言を避けたい。あの時の言葉に出来ない気持ちの意味を、誰も理解出来ないまま、私の名も無きバラは咲き始めている。
盛り上がっている三人を前にして、収拾の付かない予感がし始めていた。もう少ししたら撮影終わりの美波ちゃんが来てくれるはずだから、さすがに良識のあるリーダーなら何とかこの場を収めてくれる気がする。
もはや神頼みになりかけたところでガチャリ、と扉の開く音。待望の真の救世主の登場する福音が高らかに鳴り響く。
「おはようございます。おや、皆さん私の机に何かありましたか」
気のせいだった。福音の後から響いてきたのは、地獄の底から這い上がってきた悪魔の低い唸り声のよう。
もう本当に、さっきから最悪のタイミングが重なり続けている。ここでプロデューサーの登場は、事態を余計に拗れさせるだけにしかならない確信があった。
「PチャンPチャン! 李衣菜チャンがぁ!」
「わーーー! ストップストップストップ!」
「もがもごご」
ほーら、こうなると思った。
予想していたのでみくちゃんを捕まえて口を塞ぐのは容易い。とは言え一時的なものなので、この暴れ猫の処遇はどうしたものか。
「はい、多田さんがどうかされましたか。……ああ、先日のイベントの模様ですね」
プロデューサーがパソコンの画面を覗き込むと、ちょうどみくちゃんが巻き戻した分を再生し終えて私が入ってきた時と同じオープニングトークの終わりに差し掛かっていた。
『今日もロックに行くぜっ!』
画面の中の私の表情は、緊張が解けてまた先ほどまでとは劇的に違っていた。SEに合わせて、なつきちの指の動きを見よう見まねでパフォーマンスに落とし込んだエアギターを披露している。クールなアイドルとしての立ち居振る舞いを思い出して、オーディエンスの盛り上がりに確かな手応えを感じている決め顔だった。手前味噌ながら、私が普段から憧れている数々のアーティストさんたちにも負けないくらい、カッコいいと思う。
「……とても、良い笑顔です」
プロデューサーは、感慨深げに頷いて。
アイドルとして採用が決まった時から何回も――私以外のアイドルも、そう言われている聞き慣れたフレーズ。
思わず吹き出しそうになってしまって、空気が弛緩する。気が抜けてしまったのはみくちゃんも同じで、私の手から解放されたのに暴れることもなく、借りてきた猫のように大人しくなっていた。
「プロデューサー、もうちょっと気の利いた感想言えないの?」
少し呆れたような凛ちゃんの言葉。決して辛辣じゃなくて、信頼が根底にあるからこその適当な距離感を保っている。
プロデューサーもさして驚くでもなく、そう指摘されるのは織り込み済みであったかのように小さな頷きで指摘を受け入れる。もし同じことを一年ほど前に言われたら、きっとプロデューサーは困り顔で手を首の後ろに当てて、しばらく考え込んでいたと思う。
けれど今は迷わず。
「そうですね。自信に満ち溢れた、とても格好の良い表情をされています」
――多田さんに倣って言うならば、と。
「ロックな笑顔、です」
朴訥な口振りで、そう言うのだった。
およそプロデューサーらしからぬ単語と、これぞプロデューサーという単語の組み合わせから生まれた破壊力のあるセンテンスに、今度はさすがに全員が苦笑いを浮かべるしかなかった。
プロデューサーもこれには面食らったようで、首の後ろに手を当ててお決まりの困った時の仕草をしてみせた。茶化したわけではないけれど、揃って同じ反応をしている私たちを見て、恥ずかしく思ったのかもしれない。
俯き気味になって心なしか赤面しているようにも見えるプロデューサー。
あっ、かわいいかも、なんて。
「もう……結局それ?」
「あはは……でもプロデューサーさんの言う通り、李衣菜ちゃんとってもカッコいいです!」
「むむむ。Pチャン! 今度はみくのお仕事について来て欲しいにゃあ!」
みくちゃんは、さっき莉嘉ちゃんとみりあちゃんに自分が言ったことをもう忘れたのだろうか。
約一名はまた暴れ猫と化したものの、私への追及はなんとかうやむやになってくれそうで安堵する。
「ともあれ、多田さん。お疲れ様でした。ショップスタッフからも、緊急時に見事に場を繋いだ多田さんに、丁寧に感謝の言葉をいただきました。また、このイベントを受けて各所から様々な反響が上がってきています」
クリップ留めの紙束を片手にプロデューサーは読み上げていく。
公開から数時間、この映像はただのトークイベントとしては現在進行形で驚異的な再生数を記録しているということ。
このイベントの模様について、音楽雑誌から取材申込が数件来ていること。
先方のヘッドホンショップが、多田李衣菜モデルのヘッドホン製作の企画検討をしていること。
イベントで本来私の前に出演するはずだった男性シンガーさんから、このパフォーマンスに感銘を受けたとのことで楽曲提供のコラボ企画の打診をされているということ。
346プロ通販部門での私のグッズが軒並み完売しているとのこと。
「全てあなたの素晴らしい仕事ぶりに対しての、皆さんからの評価です」
一つ一つの報告でさえ、ソロでの私の仕事としてはなかなかない大きな成果だった。
じんわりと、嬉しい気持ちが染み込んでいく。
確かに私のパフォーマンスへの正当な評価なのかもしれない。でもこれは私が気付いていなかった多くの味方が、ファンの人たちが、未来のファンの人たちが、繋がって広げてくれた可能性だった。
そのことが何よりも嬉しく思えた。
「これからまた忙しくなるとは思いますが、私も可能な限りサポートしますので頑張っていきましょう。……あと、それから」
感動に浸っている私。
卯月ちゃんは満面の笑みで自分のことのように喜んでくれて、凛ちゃんはやっぱりクールなままで讃えてくれて、暴れていたみくちゃんさえもそっぽを向きながらも労いの言葉を掛けてくれている。
本当に今日は良い日だ。今夜眠りに就く時には、とても素敵な夢が見られる予感がする。
この瞬間までは、そう思っていた。
「……お約束していた食事の件ですが、明日の夜はいかがでしょうか?」
ぴしっ。
そんな音が聞こえた。
あるいは本当に窓ガラスにヒビでも入ったのではないかと思えるほど、和やかな雰囲気は一瞬にして凍りつき、鋭利な刃物にも似た視線が二方向から向けられたのを感じた。
重ね重ね、最悪のタイミングだった。
「李衣菜チャン、食事って何……? まさか本当にごろにゃーんって甘えて……」
真実に気付いてしまった、とでも言いたげな前門の虎。
違う。違わないけど、多分みくちゃんが今考えているようなこととは、違う。
「ふーん……。李衣菜、私にも詳しく聞かせて欲しいな」
静かに燃え上がる蒼い炎のオーラを身に纏う後門の狼。
見た目に反して、赤い炎より青い炎のほうが温度が高く燃焼している、と理科で習ったことを何故か今思い出した。
「あわわわわ、ど、ど、どうしましょう……」
あと、何かわたわたしている兎。
「都合が悪ければ別の日でも構いませんが……」
プロデューサーは状況を理解しているんですか?
「ああ、もう……誰か助けて……」
祈るように呟いてみても、今度こそは救いの神が現れる兆候は一向に無く、本当に私一人で乗り切らなくてはならないようだった。そして、例え上手くこの場を切り抜けられたとしても、やるべきことは沢山ある。
とりあえず、これ以上広まらないようにみくちゃんと凛ちゃんを何とか口封じ、もとい口止めをして。
今度のライブで卯月ちゃんとデュエットのコーナーを入れてもらえるように頼んだら、練習の為にレッスン場の大鏡とのにらめっこの始まりだ。
あと、なつきちにSEのお礼とパフォーマンスをバッチリ決めた報告をして。
それから、藍子ちゃんと椿ちゃんにデジカメを買う相談に乗ってもらおう。
――ああ、忘れていた。
まずは、そう。
明日の夜で大丈夫です、と返事をしてから。
名前も知らないまま咲き始めている私のバラ。
迂闊に触れられない、茨を持ったこの感情の意味は、まだ私自身にもわからない。
みくちゃんや凛ちゃんが邪推して、卯月ちゃんがまるで――と表現したようなものが、本当に正解なのかもしれない。
あるいは、私がお父さんの姿を重ねて見ていたあの気持ちこそが、そうなのかもしれない。
そもそも、莉嘉ちゃんやみりあちゃんのように、単純に傍に居て欲しい、という無垢な願いが一番大きな意味を占めているのかもしれない。
もっと言えば、この思いはいずれ違う行き先へと向かってしまうものなのかもしれない。
それでも、いつかこの感情に名前を付けて奏でる時が来るなら。
――あなたに届きますように。