西城秀樹「最大のヒット曲」、なぜマネージャーが訳詞を手がけたのか

みんなが真似した「Y.M.C.A.」
週刊現代 プロフィール

川崎 当時のアイドルが洋楽のカバーをシングルにすることはまずなかった。そういう意味でも、挑戦的な試みでしたね。

天下井 中には「秀樹にゲイの歌など歌わせないで」と批判的な意見もありました。

ファンからカミソリ入りの手紙が、事務所に届いたこともあった。でも、秀樹は「良い曲だから大丈夫。一生懸命歌えば、みんなわかってくれるよ」と気にしていませんでした。

岡村 秀樹は何に対しても前向きでしたね。イメージを変えることに消極的な歌手もいるけど、彼は変化を恐れない。むしろ楽しんでいた。

あのころは、人気も落ち着いてきて、アイドルとしての岐路に立っていた。そういう意味で『ヤングマン』は、彼にとっても大きな転機だったと思う。

川崎 たしかに、それまでの秀樹さんは全身で爆発するというか、髪を振り乱して画面に迫ってくるイメージでしたが、あの曲はいつものシャウトも封印して、「一緒に歌おうぜ」という爽やかなイメージになった。

昔からのファンとしては違和感もあったけど、それがあの曲にはマッチしていたのでしょうね。

天下井 マネージャーとしても、女の子たちのアイドルから国民的歌手へと飛躍してほしいと考えていた時期でした。甲子園の入場曲にも採用されたり、幼稚園や小学校の運動会でも使われていると聞いたときはうれしかったなあ。

川崎 ジャニーさんも『ヤングマン』を高く評価していました。みんなが一体になれるエンターテイメントが大好きですから。「あの曲は素晴らしい、YOUもやっちゃいなよ」と言われたので「YMCA」のところを「MAYO」に替えて歌ったこともあります(笑)。

 

岡村 もし西城秀樹以外が歌っていたら、あれだけのヒットにはならなかったでしょうね。郷ひろみのアイドル性でも、野口五郎の歌唱力でも成立しなかった。秀樹のエンターテイメント性があったからこそ、国民的名曲になったと思っています。

川崎 『ザ・ベストテン』で、伝説の9999点を獲得したのは、後にも先にもあの曲だけ。

天下井 唯一の心残りは、レコード大賞かな。あの年『ヤングマン』は主な音楽賞を総なめにし、あとはレコ大さえ獲ればグランドスラムでしたが、大賞はジュディ・オングの『魅せられて』に。なぜなら、外国曲のカバー作品は審査の対象外だったから。

川崎 でも、あの曲が時代を大きく変えたのは間違いありません。欧米のディスコミュージックのカバーがブームになり、客席とアーティストが一緒に踊って盛り上がるのも、当たり前になった。

岡村 '70年代後半の音楽シーンは、ニューミュージックの影響もあって、若者はどんどん内向的になっていた。そんな若者たちを奮い立たせてくれたのが秀樹でした。

川崎 最高に色っぽくて、挑戦的。西城秀樹のようなスターは今後も出てこないでしょう。告別式のとき、集まったファンから涙まじりの『ヤングマン』の大合唱が聞こえてきて……。あれは胸が熱くなりました。

岡村 あまりに早過ぎる別れでしたよね。本当に残念でなりません。

天下井 亡くなる直前の還暦コンサートのとき、すでに体が思うように動かない状態でした。でも彼は自分の姿を見せることで、頑張っている人の励みになればと思って、ステージに立ち続けた。

控室で『ヤングマン』が最近また盛り上がっているね、と言うと「いまの時代に合っているのかな。俺もまた元気になるよ」と応えてくれた。

川崎 秀樹さんはまさに永遠のヤングマンでした。

天下井隆二(あまがい・りゅうじ)
52年福島県生まれ。'72年に芸映プロに入社し、西城秀樹などのマネージャーを務める傍ら、作詞を手掛ける。『ヤングマン』の訳詞者
岡村右(おかむら・たすく)
47年神奈川県生まれ。音楽ディレクター。RVC株式会社(RCAレコード)で、西城秀樹や和田アキ子、福山雅治などの楽曲を手掛けた
川崎麻世(かわさき・まよ)
63年京都府生まれ。ジャニー喜多川氏にスカウトされ、'77年14歳でアイドルデビューすると、NHKの『レッツゴーヤング』で一躍人気者に

「週刊現代」2019年9月14日・21日合併号より