あいちトリエンナーレ、ゴリゴリ社会派の意識高い系が多いのかなと身構えていたけど、愛知芸術文化センター、円頓寺エリアを見た限りでは説教くさい印象もなく、全体的に興味深く見ることができた。不自由展をめぐる騒動で、個別の作品にほとんど注目がいかなくなっているのは本当にもったいない。
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もちろんディレクターの津田氏によるジャーナリスティックな関心は反映されている。この「情報」化時代において「情動」性をおびた言葉が時に排外性をもって拡張される状況において、情(なさけ)や憐れみによって応答するという、多分に社会派的・人間主義的なテーマが基調にはある。
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皮肉なことにと言うべきか、状況に応答する意識が強いほど、不自由展中止に即応する態度も強くなり、結果としてその手の作品が多く中断されている。状況に即応する態度が強まれば強まるほど「今ここ」の社会的効果=作家の態度表明が前景化し、作品がクローズしていくというのは兆候的なように思う。
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そういう中でこの展覧会の別の側面——いわば展覧会のB面が浮かび上がってくる。そこには社会的で即応的というよりも、反復性や非-社会性、ある種の自動機械のようになることの肯定的な可能性が見えてきているように思う。
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大量生産品のような反復的パターンを手彫りするアマンダ・マルティネス、シルクスクリーンによってひたすらインクを刷り重ねる今村洋平、限られた抽象的パターンを反復しながら音楽的ドローイングを行う文谷有佳里。
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造形的な作業性とは少し異なる水準では、機械のように微笑み続ける映像のアンナ・ヴィット、料理の記号的分割=構造性に注目する永田康祐、写真に写り込んだ謎めいたイメージを自動翻訳的に転調させる澤田華、歴史的建築物に空間的・時間的な反復とズレを持ち込む津田道子など。
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これらは拡張する情動に対して、人間的な情(要するに人情)によって応答するというよりも、むしろ無情——あるいは機械的な非-情のなかで、この世界を捉えつつ再構築しようとしているのではないか。
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翻って展覧会のメインビジュアルになっているウーゴ・ロンディーネの、一様の仮面をつけた、しかし衣装、ポーズ、体型の異なる道化師がうずくまる作品。(まさに今回のような)乱気流的な状況から距離をおいて一時停止すること、孤独であることの豊かさ=ボキャブラリーを示す作品にも見えてくる。
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名古屋市美術館や豊田方面はこれからですが、昨日見た中でのざっとしたメモとして。
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あいちトリエンナーレについて、その後も様々な問題はあれど、僕個人としての基本的な問題意識は、この連ツイからあまり変わっていない。「不自由展」関連の話題で染め上げられてしまった中で別の側面にも光を当てるべきではないかと。とはいえ中断している各展示が再開されたらもう一度見に行くつもり
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おっしゃることわかる一方で、今回強烈な光がトリエンナーレに当たったことで個別の作家への光の当たり方も大きくなっているというのが僕の印象です。ここまで1つの芸術祭で全ての作品に対して感想がまんべんなく述べられてる芸術祭を僕はほかに知らないです(毎日作家名でツイッター検索しています)
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