近鉄奈良市駅から東へバスで1時間、そこに柳生の里がある。ここにもまだ土葬は残っているが、さらに南へ山中を歩くこと約30分、大保町(おおぼちょう)という集落では今もほぼ100パーセント、遺体は土葬されている。この村で生まれた老人が、数年前、自分が埋葬される山を縁先の窓越しに眺めながら、老妻に看取られ、亡くなった。
奈良市内の街で暮らす、50歳代の息子夫婦が駆けつけ、父の死を見届けると真っ先にしたことは、父親を埋葬する山に登り、墓地の入り口に「仮門」をつくることだった。
「竹を伐り出して組んだ、高さ4メートルほどの大きな門です。この仮門の下を、オヤジを納めた棺をくぐらせるんです。幼いころから年寄のすることを見て育ちましたから、見よう見まねでつくりました」と話す。
仮門は、柳田国男「葬送習俗語彙」にも、棺をくぐらせる弔いの門として出てくる。この門は、陵墓建造に先立ち、古代天皇を風葬で弔ったモガリ葬の仮の門に由来するといわれている。
仮門をくぐると、そこは墓標が林立する土葬の森だった。
「葬式の日は朝から、穴掘り役に選ばれた村人3~4名が、2メートルほどの深さの穴を掘り、野辺送りの行列の到着を待つんです」と村人の一人は言う。
野辺送りに連なった人々は、最後のお別れをし、深い穴に棺を入れる。掘り返した土を穴に戻し、土饅頭の形に盛り、その上に墓標を立てる。その周りをさらに「四十九院」という四十九の塔婆の井垣で囲った。この井垣も古代のモガリ葬に由来する。
「土葬をなぜ続けるのですか?」と50歳代の村人に尋ねた。「焼かれるのはかなわん。熱いやんか」とおどけながら、「死んだら故郷の土に還りたい。それだけや」。彼はそう答えた。