「国の政策に異議を唱える人々をたたく」。平成の30年間でデジタル空間に生まれたのは、権威主義的なコミュニケーションが生む、終わりなき「犯人捜し」だった。自分の意思に背く者は国家の意思に背く者であるかような倒錯。現代によみがえった『臣民の道』の背景を探る。(評論家、著述家・真鍋厚)
「国の政策に異議を唱える人々をたたく」
「ネット炎上」の主犯として度々注目を集める、いわゆる「ネトウヨ」と称される一群の人々――。その対義語である「パヨク」と称される人々とともに「まともな議論」を不可能にする〝かく乱〟勢力として認知され、「真実」の追求よりも「感情」の発露を優位に置く傾向があることが分かってきている。そのような特異な現象と並行して平成の30年間にわたって右肩上がりで増加し続けたのは、「国の政策に異議を唱える人々をたたく」権威主義的なコミュニケーションを行うネットユーザーだった。
令和に入ってもこの動きは加速するばかりだ。あいちトリエンナーレの展示作品に対する常軌を逸した抗議や脅迫は、為政者の威光を背に「反国家的とみなしたアート」を懲罰する「表現狩り」であり、権威主義的なコミュニケーションの成れの果てというべきものであった。
「反対している連中は、自衛隊が守ってやる必要はない」
沖縄の基地問題や北朝鮮問題をめぐる「ネット炎上」が典型だ。国の政策に真っ向から反対したり、または疑いを表明したりするデモ参加者、マスコミ各社やその関係者などを、ひとまとめに「国賊」「売国奴」呼ばわりして攻撃的な言動を展開している。
「安保関連法案や沖縄の米軍基地の建設(普天間飛行場の名護市辺野古移設)に反対している連中は、もし敵が攻めてきたら自衛隊が守ってやる必要はない」うんぬんという物言いが最たるものだろう。
要するに、軍隊や警察や消防などの国民の生命・財産の保護に関わる各種公共サービスを、各人の「国家への忠誠心」の程度に応じて差別化を図れといっているのである。
恐るべきことに、ここでは「個人」と「国」、「私」と「公(おおやけ)」が一緒くたにされて、自分の意思に背く者は国家の意思に背く者であるかような倒錯が起こっている。
まるで『臣民の道』のタチの悪い劣化コピーである。
現代によみがえった『臣民の道』
1941年(昭和16年)に文部省教学局より刊行された『臣民の道』は、「国民が国家の意のままに動く道具であること」を定義付けた「国民道徳の指標」だった。「私生活というものが国家に関係なく、自己の自由に属する部面であると見なし、私意をほしいままにするがごときことは許されないのである。一わんの食、一着の衣といえども単なる自己のみのものではなく、また遊ぶ閑、眠る間といえども国を離れた私はなく、すべて国とのつながりにある。かくて我らは私生活の間にも天皇に帰一し国家に奉仕するという理念を忘れてはならない」
だが、現代によみがえった『臣民の道』は、単純に国家という「権威」と一体化して自分を「強者化」し、同じ国民を非国民におとしめて「自尊心」を満たすツール以上のものではない。それは、「反体制的な言動の者」を自警団のように監視・告発する「密告社会的なメンタリティー」の再来に過ぎない。
「訓練に反対する国賊は日本から出て行け」
2017年(平成29年)8月29日に北朝鮮が発射したミサイルの日本上空を通過した際、国民に緊急情報を発信した警報システム・Jアラートに関する騒動で、「こんなんで起こすなクソ」とTwitterでつぶやいた有名実業家に批判が殺到し「炎上」状態になった。これこそまさに「反体制的な言動」に対する「体制順応的なバッシング」そのものだった。実際、自治体主催で実施したJアラート訓練に抗議するデモに対し、「訓練に反対する国賊は日本から出て行け」と応じる人々がいたのである。
筆者は以前、拙著『不寛容という不安』(彩流社)の中で、明治維新前後に起こったキリシタン弾圧事件(浦上四番崩れ)に触れ、日本におけるヘイトスピーチ(憎悪表現)の萌芽(ほうが)のようなものを観察することができると指摘した。
当時の役人たちは、浦上村(現・長崎市)のキリシタンに改宗を迫り、それを拒まれると「なんという国賊だ」「外国に出て失せろ。日本の土を踏むのは相ならない。宙を飛んで行け」などと発言した。
もちろんそこには、かつての体制側が植え付けた「邪教観=誤った認識」に引きずられた部分もあったが、Jアラートの時と同じ国民を非国民化することで優越感を得ようとする構図がうかがえる。
明治維新という「御一新」がもたらした社会の混乱によって生じた「精神的な空白」が、のちの『臣民の道』のような「特定の権威への従属」を称揚する道を切り開いたことは想像に難しくない。
犯人捜しに固執する「他者の悪魔化」
このような「国家と一体化して自分を『強者化』する」主体は、古くから権威主義的パーソナリティーとして知られている。エーリッヒ・フロムは、「自由からの逃避の最初のメカニズムは、人間が個人的自我の独立をすてて、その個人にはかけているような力を獲得するために、かれの外がわのなにものかと、あるいはなにごとかと、自分自身を融合させようとする傾向がある」と分析した(『自由からの逃走』日高六郎訳、東京創元社)。
現在では、そこに様々な考え方を認める価値の多様化そのものに脅威を感じ、その元凶と思われる犯人捜しに固執する「他者の悪魔化」(ジョック・ヤング)という側面が加わってきている。
排他性によってアイデンティティーを確認
ジョック・ヤングは、「アイデンティティーとはつねに排他的に定義される(それは排除を前提とした包摂である)ものであり、さまざまなアイデンティティー・グループ(いわゆる「コミュニティー」)のあいだの同盟関係は不安定なもの」(『排除型社会 後期近代における犯罪・雇用・差異』青木秀男・伊藤泰郎・岸政彦・村澤真保呂訳、洛北出版)と述べ、アイデンティティー・グループ=コミュニティーが「排除」と「包摂」の両義性を持つことを主張した。要は、自分たちが何者であるかを定義した途端に、自動的にその定義からこぼれ落ちる「自分たち以外」の者が生じる。
つまり、わたしたちは多かれ少なかれ排他性によってアイデンティティーを確認しているのだが、「自明性=当たり前と思われていること」を支えている土台が崩れると、「自明性」を脅かす「犯人=悪魔探し」に傾倒しやすくなるのである。
これについてヤングは、近年目立つ「他者を悪魔に仕立てあげようとする欲望は、自分たちが社会の中心にいるはずだと思っている人々が抱く、存在論的な不安に由来している。そしてその不安は、かつては自明とされた文化や伝統が――すなわち本質が――崩壊しつつあることが根本的な原因となっている」と説明している。
不安という感情の発生源を「特定の階層」に求める
グローバル化によって産業構造が変わった結果、中間層のほとんどの生活水準が下がり、「富める層」と「貧しい層」の二極化が進んだ。高度経済成長が支えていた人も街も活気がある「輝かしいニッポン」の原風景もすっかり荒廃した。そして、不安と怒りに駆られた人々は、それらの感情の発生源を「社会の仕組み」にではなく「特定の階層」に求めるようになっている。
「外国人嫌悪(ゼノフォビア)」はその代表例だろう。
「反体制勢力」だけではなく「支配階層」にも「〝まともな日本人〟とは異質な者」が入り込み、「日本という国(の安全や文化)を破壊しようとしている」などといった、「在日」「反日」というキーワードに象徴される陰謀論的な恐怖症も、やたらと民族的なルーツや国籍にこだわる純血主義的な傾向から見て、広い意味での外国人嫌悪に含まれると考えるとより理解しやすくなるだろう。
信頼をベースにした関係性を紡ぐしか……
自分が何者かわからなくなり不安になり疎外感を持つことによる「自明性の喪失」は、まかり間違えば「終わることのない犯人捜し」のループに入って抜けられなくなる。現在では、それは多様性(自分が正当だと考える価値観以外のもの)に対する嫌悪へと急速に拡大しており、多くの人々が「自分が社会の中心にいること」を声高に主張しようと必死にもがいている。
だが、すでにわたしたちは「中心のないフラットな世界」に移行してしまっており、そこでどこの誰かを「悪魔」呼ばわりしたところで、荒野に向かって絶叫しているのとほとんど変わらない。
このような不毛な行為に捕らわれてしまうことを少しでも避けるには、どうすればいいのか? 「権威」に寄り掛からずに自尊心を保つことができ、「犯人捜し」に向かう感情を中和する、信頼をベースにした関係性を地道に紡いでいくしかない。もとより「最適解」などというものは存在しないのだから。