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2019-10-02

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・戦いというと、他の考えもなく、
 「敵を憎む」ということになってしまうのは、
 かなり遅れた思考なんだろうなぁと思う。

 「敵」と決めたとたんに、もう、
 「だから憎むべきである」と決めてしまい、
 「敵にはなにをしてもいい」となってしまうこと。
 ここから、抜け出すような考えを、
 ぼくらはたしかに、あんまり教わらないできた。

 「敵」を決めて、それを「憎む」ことは珍しくない。
 いったん「敵」であると決めつけたら、
 それはもう人間として扱うのではなく、
 「敵」という「憎むべきもの」になってしまうのだから、
 「敵」には、嘘をつこうが、脅かそうが、
 ときとして暴力に訴えかけようが、こころは痛まない。
 そこには、それはもう大変な判断があったはずなのだが、
 実際の「敵」認定は、あんがい根拠なくなされる。

 これを書いているぼくだって、
 どこかのだれかに「敵」認定されているだろうし、
 この文を読んでいるあなたにしたって、
 どこかで「敵」にされたり「敵」をつくったりしている。

 もしかしたら、いずれ、人間の社会が、
 もっとましなものになっていたとしたら、
 まず、「敵」は憎むものとはかぎらないということが、
 わりと常識のようになっているかもしれない。
 しょうがなく「敵」ができることはあっても、
 それは憎んだり、陥れたりする相手とはかぎらない。
 いま言うと、甘っちょろい非常識かもしれないけれど、
 少なくとも「そういうことはあるよ」くらいのことは、
 人がふつうに考える時代はくるような気がしている。

 いま、ラグビーワールドカップの試合が、
 あんなにもおもしろく感じられているひとつの理由は、
 「敵」は憎む相手ではないということが、
 試合から、よく伝わってくるからだと思うのだ。
 社会をそのまま反映させたスポーツではなくても、
 「人のひとつの理想」を見せ合う競技なのだとは思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「憎む」ことは、やがて、じぶんをも「憎む」ことになる。


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