戦時中、熊本県に学童疎開していた糸満盛成(せいせい)さん(88)=那覇市=が沖縄の家族らから受け取った手紙やはがきが、4日から28日まで那覇市歴史博物館で展示される。母オトさんらが1944年の10・10空襲について知らせる記述もある。盛成さんは沖縄戦と南洋で母ときょうだい4人を失って孤児となり、手紙を形見として大切に保管してきた。同博物館によると、疎開児童が受け取った手紙は珍しく「戦時下の人々の生活や疎開先での子どもたちの不安な心情を知ることができる貴重な資料だ」としている。
盛成さんは現首里桃原町の出身で、首里第二国民学校高等科1年だった44年に疎開した。終戦直後は鹿児島県にとどまり、47年に沖縄へ戻り親族に育てられた。
母オトさんは何度も手紙を送っている。盛成さんを「セイチャン」と呼び「あなたのところわたいへんさむいでそうね。私わ一回もあなたのことわわすれませんよ」(原文のまま)とつづっている。同博物館の外間政明学芸員は「少しつたない文字だが、子を思う気持ちが感じられる」と指摘する。
10・10空襲に関する部分では「あさの七時に空しゅうがはぢまりまして午後の四時まで那覇わ大変そうどーでした」「なみの上神宮やすこしとびとびのふるい家がのこって居(お)ります」(同)と描写され、家族は無事だから心配しないようにとつづっている。
別の場所に疎開した友人らからの便りも多い。45年6月15日以降に届いたはがきには「我(わ)が故郷である沖縄島も遂(つい)に玉砕してしまった」とある。同年7月に届いた川崎市で働く友人からとみられる手紙には「故郷の沖縄も敵の手に取られ、本当にくやしくてたまりません。きっと此(こ)の仇(かたき)は撃たなければなりません」と記されている。疎開先の子どもらが壊滅的被害を受けた沖縄を憂う様子が伝わってくる。