手紙が奏功し、夏休み明けには自分のクラスの教室内だけは、防毒マスクより軽量な活性炭入りマスクでも過ごせるようになった。だが、他のクラスの生徒が大勢いる廊下やスクールバス内では、防毒マスクをしていても香料などが突き抜けてくるため、震え、脱力、頭痛、めまい、肺の痛みなどに襲われた。

 また、9月半ばには学校が各教室の床にワックスを塗ったため、一週間ほど自分の教室に入るのも難しくなってしまったことがあった。夏休み中は体調もかなり回復し通学を楽しみにしていたが、今は、丸1日学校で過ごすと、その後の2日ほどは学校に行けなくなってしまうような状況が続いている。Aさんは、「学校に行きたいのに」と泣いているという。

◆2009年から保険診療となっている化学物質過敏症

 化学物質過敏症とは、ごく微量の化学物質でさまざまな症状が出る病気である。軽い頭痛を感じるなどの軽症者から、普通に生活することが困難なAさんのような重症者まで、程度の差はさまざまだ。心因性のものだと考える医師、あるいは病気として認めない医師も多いというが、2009年10月から保険診療の病名リストに登録されているれっきとした疾病である。

 かつては工場労働者などが、有害化学物質に一度に大量に暴露したあとや、少量でも長期間にわたって暴露したあとに発症する病気だった。ところが今や、普通に生活しているだけで発症する人が急増している。

 内山巌雄京都大学名誉教授*らが2000年に全国の成人4000人(有効回答率71.3%)に対して行なった調査**によれば、化学物質過敏症の可能性の高い人は0.74%、可能性のある人は2.1%であった。2000年ごろの成人人口は約1億人であるから、感度の高い人は70万人、可能性のある人は210万人もいるということになる。
<*2000年当時は国立公衆衛生院労働衛生学部部長>
<**内山巌雄,村山留美子.公衆衛生学的立場から見た化 学物質過敏症.平成 11 年度厚生科学研究費補助金報 告書 2000;1-5.>

 また12年後の2012年、内山教授らが成人を対象に行なった調査*では、回答者7245人の4.4%が化学物質過敏症と判定されている。2000年と比較して、その率は倍増している。大人だけで全国に440万人もの患者もしくは予備軍がいるということだ。
<*東賢一、内山巌雄.化学物質過敏症の実態について : 全国規模の調査と臨床の現場から (特集 化学物質過敏症問題の現状と今後の課題を考える)>

 ところが日本では、化学物質過敏症の診断ができる病院の数が極端に少ない。それに加えて、病気自体の理解が進んでいないため、発症していてもそれと気づかずに過ごしている人が多い。Aさんのケースも、中学1年生の時点ですでに発症していたと考えられるが、病院で診断を受けるまでに4年もの月日が流れている。その間、症状は悪化し続け、結果的に、対応も遅れてしまった。

◆急増する患者、手を打たない国

 今年9月16日、東京で日本臨床環境医学会の市民公開講座が開催され、高知県の医療法人高幡会大西病院の小倉英郎院長が化学物質過敏症患者に関する調査結果を報告した。

 報告によれば2010年9月から2018年9月の8年間に同院を受診した1歳から15歳までの患者24名のうち、ほぼ三分の一の29.2%が発症の契機となった化学物質として衣類の洗剤・柔軟剤をあげている。

 調査対象となった8年間のうち半数の12名は、2016年以降に受診している。つまり少なくとも大西病院ではそのころに患者が急増したということだ。

 マイクロカプセル技術を使用した高残香性の柔軟剤が日本で売り出されたのは2010年。徐々にブームになり、ここ数年はどこもかしこも合成香料の香りが漂うようになった。すすぎ1回でエコというふれこみの合成洗剤も、次々と売り出されている。もともとすすぎ回数の少ない柔軟剤ともども、さまざまな成分が衣類に残留し、空気中に拡散あるいは皮膚から吸収されていることは想像に難くない。