①
あたしが決めればいい。
ぜんぶぜんぶ、何もかも。
だって時間はたっぷりある。
途方に暮れる程、たっぷりある。
*****
咽喉が渇く…だめだ…足りない。
静寂に包まれた夜。
こんな日はいつだって、結界に守られたこの屋敷の闇の中でうずくまり、ただ時が
過ぎるのを待つだけなのに、今日に限って胸を掻きむしらんばかりの飢餓感に
どうしようもなくなってる。
慣れない洋酒に手を出したって酔えるわけでもなく、苛立ちが募るだけ。
もうだめだ、耐えられない。
欲しい…ただの一滴でも…欲しい。
『とも?新月の夜は外に出てはだめよ?』
タヌキの、いや、由加ちゃんのにこりともしなかった顔が浮かぶけど、
そんなの知ったこっちゃない。
あたしのしたいことは、あたしが決める。
それに、この屋敷を出て、結界から飛び出してしまえば誰もあたしを止められない。
さぁ行こう、――― 狩りに。
簡素なジーンズにシャツ、ジャケットなんか羽織って人間の姿の真似事をして。
隠しきれない、ぎりりと伸びた犬歯を一舐めして屋敷の門を…結界をくぐった瞬間――。
「…っ!」
鼻をくすぐる…ううん、鼻をつんざく強烈な甘さを含んだ匂いにむせ返った。
なに、この匂い…これは…まるで果実のような甘ったるいほどの糖度を含んだ…
ベタベタとまとわりつくような、そんな匂い。
けど…人間の匂いだ…。
あたしの、ヴァンプの極上のエサの匂い。
最近では、処女の血なんて滅多にありつけない。
それこそ不味くて、男でもなんでもただの腹の足しにしかならない、生気をその喉元に
手をかざして頂くばかりの日々だった。
けど、今日は違う。
これは…純潔の匂い。
まだ誰の穢れにも染まっていない…真新しい人間の匂いだ。
こくん、と咽喉が鳴る。
もう限界を知らせて。
欲しい…ぜんぶ奪ってやりたい…そんな欲望を止められなくて。
そうなれば早くて、およそ人間の身体能力では考えられない跳躍で匂いを辿るように
地を蹴った。
どこ…?
あたしの獲物は…?
そうやって引き寄せられた先。
目の前に広がった場所に、チッと軽く舌打ちした。
なんだ、純潔の匂いなんて当たり前じゃない。
だってここは。
「教会、ね」
囲う場所にはうってつけ。
てか、こんな場所じゃなきゃもう処女なんて妄想なのね?
まぁいい、今日のあたしはすこぶる調子がいい。
たとえ神の名のもとに何かされても、どんな鉄槌でも跳ね返せる自信がある。
だから…――。
「お邪魔しまーす」
ギィ、と古めかしい音を立てる重い扉を開け、厳かな礼拝堂へと足を踏み込んだ。
ただそれだけなのに、びりびりとあたしの身体を締め付けるような戒めの鎖のような
感覚がするからたまらない。
けどガン無視。
いるから。
あたしのエサが…そう、今、目の前に。
夜のこの場所なんて、滅多に人なんて来ない。
せいぜい懺悔部屋とか、そんなところに用がある人ばっかだし、下手したら
来るもの拒まずの所だから酔っ払いの類がいるぐらいでしょ?
ま、あたしも人の事言えたもんじゃないけど。
真紅の絨毯に、祈り台。
先祖の恨むべき相手をその先に置いて、蝋燭が等間隔に並んでる。
もちろん照明だってあるけど、ここは蝋を使うのがしきたりなのか、ほのぐらい。
ま、その方が隠し切れない口元にはありがたいけどね。
「どなた、ですか?」
「…っ」
一気に濃くなる甘い匂い。
ただ一人、目の前の子から。
肺一杯に、質量のある酸素が入り込んで満たしてくるのがわかる。
と、そこで苦笑。
なんだ…教会ったって、とんだ食わせモノだなーなんて。
だって、純潔なんてこの子一人じゃん。
ヴァンプのあたしにはわかる。
そうか、そうじゃないかぐらい。
てかさ、神がこの場にいたら笑いものだね。
「あー、ごめんなさいねーお祈り中だった?」
「いえ、大丈夫です。何か御用ですか?」
「御用、というわけでもないんだけど」
緩みそうになる口元を押さえて、カツンカツンとブーツのかかとを鳴らして近づく。
あぁ、今にも触れて掴んで喰らってしまいたい。
けどまだだ。
油断している隙をつかなきゃ、灰にされてしまうかもしれない。
そういう教育を施されていないとも限らないから。
だからまだ。
「何か悩み事でも?」
けど、すぐそばまで近づいて気づく。
なんだ、まだ子供じゃん、と。
あたしより頭一個分低い身長。
くりっとした目はあどけなく、雪のような柔肌がハビットの隙間から覗いてる。
気が引けるねぇ、こんな子供から拝借しようとしてるなんてって。
けど、もうハラペコだ。ぐーぐーお腹は鳴るほどに。
「悩み事、ねぇ」
「神のご加護の元に、私で良ければお聞かせください」
「うーん、じゃーひとつお願いしていい?しすたー」
「シスター…見習いですけど」
自信なさげにハの字に下がる眉。
いっそう幼さが際立つね、そうすると。
てか、ンなことどっちでもいいって。
さぁ、もうあたしの全身をめぐる血液は沸騰しそうなほどに心をいきり立たせてる。
ざわざわと全神経が逆立ってきてるのもわかるんだ。
だからね、ちょっと利口そうなしすたーさん。
「あなたを――」
すいっと手を持ち上げて真っ白なベールに軽く触れる。
きょとんとした目は、ほんの少しだけあたしの罪悪感を呼び覚ますけど、
それ以上に…食欲が止められない。
もう、止められない。
「――― 食べたいんだけどいい?」
喰らってやる。
欲望がカタチを成す。
小さなこの子に、今。
「…っ!?」
伸びた爪が肩に食い込んだ。
その痛みにわずかに歪む彼女の顔。
けど、構わずあたしは顔を近づけ喉元に向かって口を開く。
誘うのはやっぱり、あの強烈な甘さを含んだ匂い。
くらくらするほどの…匂い。
利口そうな しすたーさん。
ほんのちょっと、おとなしくしててよ。
すぐ終わるから。
そう念じるように瞼を閉じて、あたしは牙を突き立てた。
②
弱者なんて、決まってない。強者だって、決まってない。
立ち止まる勇気があったなら、ちゃんとそれは気づけるもの。
振り返ってみたならば、何が『強いこと』なのか気づけるもの。
*****
――― なんだこれ…止められない。
首筋にうずめた鼻をくすぐるのは、微かな汗の香りに混ざった、濃度の高い蜜の香り。
とろりと舌の上に広がるのは、今まで味わった鉄のような不味いものなんかじゃなくって、
それこそ、くらりと眩暈を感じてしまうぐらい、重ぼったい粘度の高い甘い果実。
この子はなんて掘り出し物。
無防備にも真っ白な肌を惜しげもなくさらして、弱い笑顔までも万人に向けて…。
そうやって悪い奴に近づいて、まんまとあたしの腕の中。
捕まえたが最後、蜘蛛のように絡めとって、いただきます。
「…ん…ぅ」
あぁ…美味しい。
甘い…。
こくんこくんと、鳴る咽喉は遠慮を知らない。
そう、思わず唇の端からこぼれそうになるのを、じゅるりと夢中になって追いかけて
しまうほど。一滴残らず、飲みほしてしまいたいと、狂ったように求めてしまう。
もっと…。
もっとちょうだい。
だめだ、止まんない。
少しだけって、一滴だけって思っていたのに。
だって…信じられないぐらい、濃厚。
こんなの絶対これから先ありつけない。
こんな…純度の高い…処女の血には。
ぐぅっと尖った犬歯をさらに深く突き立てて むさぼる。
可哀想なぐらい硬直した身体を、それでも逃げられないように腕の中に閉じ込めて。
どうせ人間。
弱い生き物。
生きてる時間は刹那の儚い生命。
それに彼女は、見習いだとしても どうやらシスター。
ここで生命を落としても、恨みなんてないでしょう?
だったら、と…すべてを吸い上げるように息を飲み込もうとした…瞬間。
「ぅ…やめ…くださ…」
ぶるぶる震えながら、ぴんとまだ身体を硬直させて…彼女の指が弱くあたしの髪を
つかんできたんだ。
図らずも引き剥がすように後頭部に回された手は、つん、と、本当に弱々しくだけど、
後ろに引っ張るように、あたしから逃れようともがく。
まだ意識あんの?
脱力してる指先じゃ、なんもあたしに痛みなんてないけど、その強い生命力には驚いた。
生への執着? そんなのを垣間見たみたいで。
「…ぁ……はぁ…っ」
一度ブレーキがかかった意識にカラダを離すと、彼女はひゅうとか細い息を
漏らしながら、ずるずると崩れ落ちた。
それでも完全に落ちないように、胸元のロザリオとあたしの腕を強く掴んで堪えてる。
へぇ、結構根性あんじゃん?
あたしは手の甲で無造作に唇を拭って、自分が追い落とした小さな身体を見下した。
「へーき?しすたー」
頭上からのあたしの声に、彼女は苦しげに肩を上下させてうつむくだけだった。
纏った白いベールをじわじわと穢すように、緋色が浮き上がっていて痛々しい。
そう、痛々しい…のに、あたしの心は愉快な気持ちでいっぱい。
あたしが穢した。
初めてがあたし。
純真無垢な彼女を、あたしが。
そんな歪曲した感情で。
けど…そこで気づく。
あたし…満たされてる、と。
すぃっと舐め上げた口内。
滑る舌に尖りの感触はなく。
昂ぶる気持ちさえ、もう欠片もない。
まじで?
え?
あたし、この子の血で満足しちゃったの?
うそでしょ?
お腹いっぱいってわけじゃない。
まだ入る、腹八分目。なのに?
「しすたー。あなた名前は?」
「…ど、して…こんなこと…。あなた…誰、ですか…」
掻き消えそうなほど小さな、だけど、明らかに責めるような声色。
たちまち、あたしはムっとしてしまう。
ただの人間なのに、あたしになんか言いたいわけ?…なんて身勝手に。
だけど。
「私は…いいです…けど…、他の誰も傷つけないで…傷つけな…」
ぐいっと、あたしの腕を持つ手から力が抜ける。
と、同時にその身体が糸が切れたように、くずおれた。
きっと限界だった。
やっぱりあたしが喉を潤すために頂戴した彼女のモノは、致死量に近くて。
「おっと」
真紅の絨毯に倒れ込む寸前、何故かあたしはその小さな身体を受け止める。
信じられないけど、人間を、受け止めた。
じわじわと流れ出る彼女のものは、どんどんベールを穢していく。
そのままほっときゃ、きっと訪れる人間が見つけてジ・エンド。
あっけないもの。
そうなれば、またあたしは新しい獲物を見つけるだけ。
そう、見つけるだけ…のはずなのに。
「うーん」
まじまじと、彼女の土気色になっていく頬を見つめる。
まだ子供。
腕にかかる重さだって、とんでもなく軽い。
衝動的だったにしても、そんな子からあたしは血を拝借して、使い捨てる。
その事実は、ほんの少し冷静になってきたあたしの胸に罪悪感を広がらせて。
「いや、けど、ほら、なんつーの? こういうのも自然の摂理だし?」
誰にともなく大きな言い訳。
そう、わかってるよ。言い訳だよ。
自分を正当化したいさぁ。
由加ちゃんは、新月の夜は外に出ちゃいけないって、あれほど言ってた。
それを破ったあたし。
で、子どもに手を出して。
後味悪くさよなら。
………、だめ、だよねぇ。
「あーもーわかってるってばー」
くしゃり、と髪を一度かき上げて、真っ白な生き物を抱え上げる。
「違うからね?あたしはなんも悪くないよ?けど、目覚め悪いからだかんね?
……うわー…けど絶対これ、由加ちゃん激おこだ。うわー…」
これでもかというほどの、言い訳を口にして。
あたしは、静かに教会を後にした。
最後に振り返った先には、祀られた先祖の天敵が不敵に微笑んだ様に見えたっけ。
③
昨日から学んで、今日を精一杯生き、明日への期待にしよう。
人間の中の『天才』と呼ばれた者が告げた言葉らしいけど、
積もり積もっていく昨日に溜息をついて、今日に迷い、
途方もない明日に憂いてしまうあたしは、何に期待すればいいんだろう?
*****
「とーもー? 私、言ったよね?」
「わかってる、わかってますって。あたしが悪かった、すみません」
「もう…」
開口一番、眉を寄せてそう言ったゆかちゃんに、あたしは顔も見ずに矢継ぎ早に謝る。
わかってたこと。
言われるだろうなぁって。
だけどそれでも、捨て置けなかった。
や、まぁ、目覚め悪いし?
だって、なんのダークストーリー?
シスターが、血をもってかれてサヨウナラ、なんて。
しかも子供。さすがに、ねぇ?
白い塊を背に屋敷に戻ったあたしに、ゆかちゃんは最初こそ わっと口を開いたけれど
すぐに状況を飲み込んで、寝室のベッドへと導いてくれた。
苦心して横たえたそれは、ぐったりとシーツに沈み込んで…もう虫の息で…。
どうするの?というゆかちゃんの視線に、途方にくれた顔で首を振れば、呆れたような
小さな溜息。
ともはいつもそう。
後先考えない。
今がすべて。
過去も振り返らない。
だから学習しない。
わかってるけど、それ、とものダメな所だよ?
すこし突き放したような、その距離感。
そのぐらいが、あたしが一番堪えるってわかってるから。
ほんとさぁ、付き合いが長いから、あたしも言いたい事が全部わかって、
そっぽ向くしかできないじゃんか…。
そんなことしたって、どうしようもないんだけど。
ヴァンプ――― そう呼ばれる、あたしとゆかちゃん。
この地で言うなら、吸血鬼?っていうのか。
同胞に出逢うだけでもどれだけの奇蹟なのか。
その上、お互いに争う事を好まないなんて誰が信じる?
ねぇ、そう考えればあたしは少しぐらい過去を振り返って学習してるって思わない?
種の存続のために、共に生きることを選んでんだから。
ただ…純血種のあたしと違って、混血種のゆかちゃんが温厚だったっていうのは
いいっこなし。
逆にそれだったから、うまくいってるんだと思う。
人間の心を理解しきれないあたしと違って、その体内に半分ながらも流れる血が
ゆかちゃんに、人間というものを教えてくれて。
だから、この世界で生きるための知恵をあたしにくれて、今も助けになってる。
「ともはもうお腹いっぱい?」
「まぁ…腹八分目?」
「これだけもらっといて?」
「…いっぱいです」
怒気の入り混じった声色に、ぐっと喉の奥で唸って黙る。
基本的に、ゆかちゃんは人間に甘い。
甘いっていうか、過保護っていうか。
あたしみたいに、衝動的に求めてしまう感情がないからなんだろうけど、
なんだか、そういう時は同じ種なのに疎外感を感じて、苛立ちを感じるんだよね。
「ふぅ…、3日」
「えっ?」
「3日かかるよ? やれるだけの事はするけど、あとはこの子次第」
「あー…」
どんなことをするのかあたしにはわからない。
医学的なことはまったくできないから、きっと…なにかしらの手を尽くすんだろうけど。
ひっかかったのは『この子次第』という言葉。
この子はシスターだ。
拝借する時にも感じた、自己犠牲の精神。
それが、幼いなりにこの子にもあるならば…どれだけ手を尽くしても無理だろう。
それこそ……あたしと血の契約でもしない限り。
けど、それを絶対提案しないのは…ゆかちゃんが混血種だから。
人間は人間として、その生命を全うするのが当然…、そう考えているから。
血の契約をしてしまえば…彼女はたちまち元気になる。
その代償に、物言わぬ心臓を与えることになるけれど。
それが…ゆかちゃんは許せないんだろう。
「お願いします…」
「うん」
返事と同時に、彼女の胸元のロザリオをゆっくり外して、そろそろと衣服を
脱がせていく。美しいばかりの鎖骨が露わになれば、痛々しい痕が姿を見せて、
ゆかちゃんは一度眉間を寄せた。
結構無茶にかぶりついたから、どれだけ皮膚が再生しても残ってしまうだろうなぁ。
ぼんやり考えてしまう。
傷ついた真っ白な生き物。
それでも、初めて見た瞬間の無垢さは変わらないのは何故だろう。
「とも、出てて」
「あー…はいはい」
きっとゆかちゃんなりの配慮。
もう、昂ぶりなんてないけれど、万が一にもまた血の匂いに反応しないとも
限らないから。
ここまで来たら、あとはゆかちゃん任せ。
あたしは一歩も部屋に立ち入る事さえ許されない。
だから…――― ひまに任せて、彼女のように祈り事の真似事をしてみた。
滑稽だと罵る声が耳に こだまするけれど。
彼女が助かりますように。
彼女の明日が来ますように。
明日への期待ができますように。
こんな自分は、やっぱり滑稽だと口元を緩ませてしまったけれど。
この時あたしは、心から、彼女の明日を願っていたんだ。
④
『運命』、なんて都合のいい言葉に縛られるなんてナンセンス。
どれだけその『運命』とやらに縛られていても、
ただひとつ自由なものをあたしは知ってる。
それは、人間だけが持つ心。
『運命』に振り回されて、諦めようかそれとも立ち向かうか、
それを決める人間の心。
ひたむきに、ただ前を向き続けようとするのも、
人間だけが持つ、心の力。
*****
――― 少しだけだよ?
その言葉で入室を許されたあたしは、静かにゆかちゃんの横を通りベッドへ。
「へぇ」
軽く眉を上げて、声が漏れた。
横たわる小さな姿に、明らかな変化を見てとって。
三度の夜を飛び越えて再び見つめる彼女は、穏やかな呼吸に赤みのさした頬で。
シーツに隠された上半身をうかがい知ることは出来ないけれど、
胸元に膨らみがあるし…合掌しているんだろう。
ヴァンプがなにやってんの?なんて思うけど、ゆかちゃんに文句なんて言えない。
「どうなの?」
「うん、まぁ、明日には意識の混濁もなくなって目覚めるかな」
「お疲れ様」
「ほんとお疲れだよ。…もうごめんだからね?」
それはつまり。
この子から貰うのはもう禁止、そういうことなんだろう。
いやけどさぁ、こればっかりはあたしの意志じゃどうにも。
反応の鈍いあたしに、ゆかちゃんは、とも?とダメ押し。
はいはい、と軽く手をヒラヒラさせて、大きく肩をすくめてやれば同じくらい大きなため息。
それを尻目に、もう一度彼女を見下して、目を細めた。
気付いたのかな、ゆかちゃんが、あぁ、と一度頷いて。
「誰かさんが喰い破っちゃったから、それが限界」
痛い所つくね。
いや、わかってたけど、こうもまざまざと見せつけられると なけなしの良心が疼く。
「反省してるってば」
「どうだか」
「ねぇ、ゆかちゃんって何気にあたしにキツくない?」
「約束を破れば人間の子供だって強く叱られるものでしょ?」
「あたしゃ子供か…」
ごちりながら かかとを鳴らして彼女に近づくと、そうっと指先で『その部分』をなぞる。
あたしが、喰らいついてしまった…肩口に近い喉元に。
出血はない。
けれど、ちょっと酷い火傷の痕のように皮膚が浮き立ってる。
はっとするほど真っ白な肌をしているから、嫌がおうにも…目立つかも。
けど、それよりもあたしの意識を引き寄せたのは…じんわり指先から伝わってくる体温。
人間の、体温。
あたしやゆかちゃんにはないもの。
柔い感触から伝わるそれが、なんだかちょっと新鮮で…触れるのをやめられない。
「とも、そろそろ」
ぱっと手を離す。
どこまでも冷静な声に。
あたしを戒め続ける声に。
なんだかそれが癪だ。
「…あー、うん。…ゆかちゃん?」
「なに?」
「この子の身元とかは?」
「シスター見習い、なんでしょ?」
ともが知らないのに私が知ってるとでも?
ずっとここにいたんだよ?
誰の為に3日間?
その目が言ってる。
あーそうだよね、はいはい、あたしが知らなきゃゆかちゃんが知るわけない。
知るすべも、混血種のゆかちゃんにはない。
そう混血種にはね。
「覗いていい?」
「驚いた。ともが人間を気にかけるなんて」
「たまにはそういう時もあるんだよ」
「いつもは食事でしかないのに?」
「あーもーいいの?ダメなの?」
いい加減責められ続けて煩わしい。
ちょっと乱暴に髪をくしゃりとかき上げて睨みつけてやれば、
どうぞお好きに、と瞼を閉じて肩をすくめるゆかちゃん。
ったく、こういう時付き合いが長いのはかなわない。
――― 覗く。
一口にそうは言ったけど、それは純血種のあたしだけが出来ること。
長い長い時を生きていく中で、心の機微さえ感じられなくなることもある。
その憂いのほんの僅かな癒しにと、先祖がくれたのか厄介な贈物。
意識を落としている者に触れれば、その者の生きてきたヴィジョンが視える。
そんな贈物。
ヴァンプが人間の事知ってどうなる?とか、滑稽な、とか。
そういう気持ちがないわけじゃない。
だけど、この時あたしは『知りたい』と思ったんだ。
この真っ白な生き物の、生命の記録を。
すっと一度息を吸い込む。
それから意識を集中させて…あたしは、彼女の中に…飛び込んだ。
どぷん、と。
まるで聖水に身体を浸すような嫌悪感に身震いをしながら。
⑤
・
・
・
愛されたいと願っていました。
誰からも。
きっと初めから。
そう、生命に吹きこまれた瞬間から。
だけど…本当に愛されたいと願ったのは、愛を目の当たりにした瞬間。
求めて、答えて、通じ合っている姿を見た瞬間。
同時に、私にはそれが無いのだと知った瞬間。
無かったのだと気づいた瞬間。
・
・
・
『ここで待っていてね?』
デパートの屋上。
くるくる回るちっぽけで安っぽいメリーゴーラウンド。
銀色の硬貨をコロン、と入れた女の人が私に微笑みます。
『大丈夫だからね?』
優しい優しい おひさまみたいな笑顔。
ぽかぽかした笑顔。
きっとこれが、その人の最後の記憶。
なのに何故でしょう。
口元は笑っていたんです…笑っていたのに、顔は思い出せません。
『すぐ戻ってくるからね?』
幼いながら私は知っていました。
すぐになんて戻ってこないこと。
いいえ、その時なんて永遠に訪れない事。
父、と呼んでいた人が去った日も、こんな一日だったから。
だったらどうして私は泣いて「いかないで」と言わなかったのでしょう?
『いい子ね』
褒められることがとても嬉しかったのです。
私を見てくれることが、とても嬉しかったのです。
けれど、それと同じくらい…、入口で立って待っている男の人が苦手だったのです。
『そろそろ』
『えぇ』
こうして簡単に、私を褒めてくれた人を奪ってしまうその人が。
どれだけ私を褒めてくれていても、その人はたった一声でそっぽを向きます。
まるで私など、いなかったように。
それに。
『もう100円入れとけよ』
『…えぇ』
その男の人は、一度として私を見てくれませんでした。
そこにいないように。
そうして私は。
『じゃあね、―― 佳林』
本当に、『居ない子』になってしまいました。
・
・
・
上着を着こんだはずなのに、やけに寒さに震えていたのを覚えています。
頭のてっぺんにあったおひさまが、いつのまにか傾いて、背の高い建物の向こうに
吸い込まれていくのをずっと見ていたのも覚えています。
ここで待て、とは、今考えるとなんて残酷な言葉だったのでしょう?
小さな子供に、大人の言葉は絶対で。
それが『母』という方なら、それは疑うこともできないもので。
くるくると回ったメリーゴーラウンドはただの一回だけ。
多めに入れた硬貨など、カランと差し出し口に戻っています。
それでも私の記憶には、鮮明にそのメリーゴーラウンドから流れていた音が風景が
残っています。
時々外れていた音色。
同じ景色の繰り返し。
戻ってこない…『母』。
そうして…私の元へ来てくれたのは、黒に近い藍色の服に身を包んだ女の人と
何人かのお巡りさん。
とても騒がしい音が、お巡りさんの無線から聞こえていましたが、私にはなんにも
わかりませんでした。
ただ、そう…とても寒く、吐く息も真っ白、視界は真っ暗で、凍てつくすべてに
ただただ震えるだけで。
気付いた藍色の人が私に、分厚い毛布のようなものを巻きつけてくれました。
ほっそりとした指に幾筋もの皺を頬に乗せたその女の人は、にっこりと微笑みます。
それから、そうっと私の頭を撫でて、
『私と一緒に行きましょう?…偉かったですね。ちゃんと待っていたのですね』
褒めて、くれました。
何故でしょう…。
ただそれだけなのに。
私は、どこにも持っていきようがない息苦しさに必死に息を吸い込んで
わぁ、と…、大きく泣きました。
初めて、母以外の人の前で泣きました。
・
・
・
こじんまりとした部屋に通されます。
そっと背を支えられて。
ふと、顔を上げれば、やはり皺だらけの頬をもっとくしゃりとさせてその人は
私に微笑みます。
『あなたが心から願うのであればすべてを与えましょう』
なんて魅力的な言葉だったのでしょう。
すべてを与えてくれるとは。
子ども心に私はとても喜んだ記憶があります。
けれど…、不思議なことに、その時の私には…もう何も欲しくはなかったのです。
ただ一つを除いては。
『すべてを…?』
『えぇ、すべてを』
『だったら』
思えばもう、私はこの頃から…
『あなたの笑顔を私に下さい』
すべてを手に入れていたんだと思います。
・
・
・
シスターとして生きる、その選択に迷いもありませんでした。
私には、母より愛する人ができたのですから。
『誓願を…』
貞潔、清貧、従順。
なにも苦痛なことはありませんでした。
すべては、御心のままに。
それが私のすべて。
私の、運命。
・
・
・
「なんだそれ」
ふらりと傾ぐ身体を支えながら、あたしは二、三度後退。
深い所まで入り過ぎた。
その代償に、少しばかりあたしの生力をもってかれた結果だ。
だけど…呆れて物も言えない。
なんでそういう考えに至るわけ?
悔しいとか、悲しいとか、辛いとか、そういうの全部『運命』で片づけてんの?
そうやってすべてを捧げて、今どうなってんのさ?あたしなんかに喰われて。
それで幸せ? 本当に?
あたしには、この手の人種のことはよくわかんない。
天敵だし?
だけど…言い知れない感情がむくむくと胸に広がって来るんだ。
こんな子が。
まだ子供なのに。
『運命』なんて言葉でくくって、早々と未来を選択して。
「気に食わない」
同情したわけじゃない。
そんな感情、あたしにはないはずなんだから。
だけど、そう、本当に気に食わない。
だってあたしは知ってる。
噛みついて、喰らって、引き裂いたあの時。
あたしを見て、確かに心を露にした彼女を。
どうしてと、あたしを責めた眼差し。
そこにはまだ、人間としてのものが詰まってた。
押し込められてた。
「さて」
どうしてやろう?
どうせなら、…ここでこうなったのも、何かの縁。
あたしの先祖の天敵から、この子を奪ってやろうか。
いやいや、簡単に奪っても面白くない。
だったら。
「ちょっとしたゲームでも、してみようか?――― 佳林ちゃん」
まだ、すぅすぅと穏やかな寝息を立てる彼女、佳林ちゃんにあたしはにぃっと笑って
その喉元に、小さな口づけを落としたっけ。
⑥
さぁ、ゲームを始めよう。
あなたのその真っ白な心を、あたしに示して。
勝てば天国、負ければ地獄、じゃないけど、
神にも悪魔にも口出しさせない、あたしとあなたの一度きりのゲームには
それ相応のモノを代償に。
そう、それはあなた自身とあたし自身。
それをテーブルに置いて、あなたの好きな『運命』のハンドでかかってきて?
ブラフも使わなきゃ、あたしはフォールドしないよきっと。
本気でかかっておいで?
あなたが本気なら、あたしも本気で応えてあげる。
『運命』以上のハンドでね。
*****
薄闇の中、彼女のほんのちょっと目尻の上がった瞳が開きだす。
とろんとした水面を思わせるそれを、あたしは じぃっと見つめてにこりと笑顔。
「お目覚め?シスター佳林」
「……。…っ!」
「おっと」
がばりとシーツを蹴散らすように起き上がった彼女…シスター佳林は、途端に
ひどい眩暈にでも襲われたんだろう、額を押さえるようにしてうずくまってしまった。
無理もない。3日間眠り通しだったんだから、身体がついてきてないんだ。
まだまだ蒼白な顔が、その証拠。
「だいじょうぶ?」
くつくつと笑いながら、近くのテーブルに置いてあった水差しからコップにそれを注いで
差し出してやる。
一瞬、無意識に手を伸ばして、ありがとうと言いかけたんだろう幼いシスターは、
あたしの真っ黒な全身に…自分とのコントラストに、ハっと意識を覚醒させたみたいに
目を丸くして、すんでの所でぴたりと手を止めた。
それから、わずかに怯えたようにあたしを見上げてくる。
わーなんかそういうのいいねぇ。
久方ぶりに味わう感覚。
なんで?どうして?って瞳。
昔、由加ちゃんと出逢う前までは、ただの食事でしかなかった人間という生き物。
いただきます、と拝借して、遊びでギリギリのところで解放した時に、そういう瞳を
何度か見たことある。
今の彼女の瞳は、まさにそれだった。
「施しは受けない?」
「…、いえ、いいえ、いただきます」
「おぉ、素直じゃん。さすが、シスター?」
「…見習いです」
もそもそと呟いて、あたしの手からコップを受け取ると、静かに こくりこくりと
喉を鳴らし潤していく。
わずかに見えるその白い喉元は、あんだけ拝借したってのに、あたしの中の
欲望を呼び覚ますように美しいから、あたしまで無意識に唾を飲み込んでしまったっけ。
「ありがとう、ございました」
そっと薬指で口元を拭いたシスターは、律儀にぺこりと頭を下げてコップを差し出して
くる。いちいち礼儀正しいねぇ。あいつに仕える者ってのはみんなこんななの?
…ぜんぶを失ったってのに。
そう、この子の誰にも触れさせない心の奥底にあるもの、それをあたしは知ってしまった。
寂しさ、疑問、苦しみ、悲しみ…それからほんのわずかの憎しみ。
そういうの、ぜんぶ解かせるほどのものが、あいつにあるって?
そんなわけない。あたしはそう思ってる。
だから…。
――― 始めようよ、シスター佳林?
「さて、シスター佳林」
コップを受け取ってまたテーブルに戻し、軽く息をついてから切り出す。
にっこりと笑いながら、彼女の隣に腰掛けるようにして。
途端に、びくりと身体を震わせるけれど逃げはしない。
ま、逃げても無駄だしねぇ。
けど、あたしって優しいから。
逃げる方法を教えてあげる。
足掻いて、もがいて、人間らしく命を燃やす方法を。
「えっ、あの、どうして私の名前…」
「さて、どうしてでしょう?」
「…あなたは、一体…何、ですか?」
「なに、だと思う?」
あたしの問いに、難しい顔をして…じっと見つめてくる。
と、ふいに何かを思い出したのか、自分の首筋に触れて…軽く息を飲んだみたいだった。
そうだね、消えない傷痕が、何があったかを思い出させてくれるかも。
さぁ、思い出して?
何があった?
あなたの残ってる最後の記憶の先に。
きっと、そこに答えがある。
あたしが何者か。
賢そうなあなたならわかるでしょ?
そう、これからのすべてまで。
「…あなたは…吸血鬼、さん?」
「ご名答。けどもうちょっとカッコよく、ヴァンプって呼んで欲しいな」
「ヴァンプ…っ」
「おっと、あたしにロザリオをかざしても、なんにもなんないよ?ついでに言うなら
心臓のあたりに杭を打たれても死なない」
「…っ」
慌てて近くにあったロザリオに手を伸ばしかけた彼女に、にぃっと笑って見せる。
長い年月の中で、人間がここまで進化したように、あたしらだって進化してきた。
簡単に種を消されても困るしね。
あたしの姿に何を見たのか、彼女はちょっとだけうな垂れるようにロザリオを
膝の上に落として…、それから情けない表情でほんの少し微笑んできた。
諦めの笑み、そんな風に。
「…私に、どうしろと?」
「物わかりのいい子は好きだよ?シスター佳林」
「…普通に呼んでくれていいです」
「んー、じゃあ、佳林ちゃん?」
「はい」
あぁ、なんだか一気に歳相応になったね。
子どもは子どもらしく、それが一番だよ。
あなたはどこか子どもらしくない。そういうの、捨てなきゃいけなかったのかもだけど
これからは…ちょっと考え方変えてみなよ。
「あたしとゲーム、してみない?」
「ゲーム、ですか?」
「そ。もし佳林ちゃんが勝ったら、二度とあたしはあなたの前に現れない」
「えっ」
いいんですか?と目がパチパチしている。
闇の中に捕えられてしまったような絶望からの光、って感じ?
わー…そんなに忌み嫌われる存在なの?あたしらって。いや、そうか。
だけどね、それだけじゃない。
ゲームの勝者への賞品が差し出されるのは、佳林ちゃんだけじゃない。
与えるだけの存在は、あいつだけ。
「ただし」
「…っ」
「あたしが勝ったら、…佳林ちゃんの血を、これからもあたしに与え続けてもらう」
「…!」
すいっと細めた目に本気を見たんだろう、佳林ちゃんは ごくりと一度喉を鳴らして
身体を硬直させた。
血を与え続ける、なんて軽く言うけど、佳林ちゃんはシスターだ。
それがどれほどの、あいつへの背徳行為か、わからないわけじゃない。
ましてや、これからずーっと与え続けるとなると、ねぇ?
「あの…私、そんな…」
「勝てばいいんだよ、簡単じゃん」
「そんな…勝負事なんて…」
わかりやすいね、争い事を望まない、とか。
ねぇ、そうやっていい子演じて、あなたはどうなった?
苦い思いを振りきれた?
違うよねぇ?
あいつへの忠誠おおいに結構。
だけど、あなたはまだ人間。
だったら人間らしく…してみなよ?
あたしに、人間を示して見てよ。
「拒否権、あるように見える?」
「…ひどい、です」
挑発するように、ちょっとからかい口調で言ってやれば、いい反応。
そうそう、そうやってな。
まだまだあなたが、あいつにすべてを出すには早すぎる。
「いいね、その目」
「…」
「じゃ、ルール決めよう。あたしが出すのは一つだけ」
「なんですか?」
そんなに身構えなくても。
無理難題なんかふっかけない。
ゲームはちゃんとルールを守れるものじゃないと面白くないからね。
「佳林ちゃんが、一度でもあたしに『助けて』と言ったならアウト」
「え?」
「逆に、佳林ちゃんがあたしのルールを決めてよ。じゃなきゃ公平じゃない」
「…私が…」
ヴァンプが公平を説くなんて、笑いものだね。
けど…それほどまでのハンデをしてでも、…欲しいと思ったんだ。
佳林ちゃんの、血が。
ほかの誰かじゃもうだめ。
佳林ちゃんのが欲しいんだ。
だから。
しばらく困ったようにしていた佳林ちゃんだけど、意を決したように、胸元のロザリオを
ぎゅっと握り、口を開いた。
「わかり、ました。…えっと、…では、あなたが…」
「あたしが?」
「…あなたが、一度でも人間を襲うことがあれば、あなたの負けです」
「へぇ、言うねぇ」
人間を襲うということ。
きっと、佳林ちゃんのことだから自分と同じ目に誰かをあわせたくないとか、
そういう気持ちで言ったんだろう。
いいねぇ、その選択。
思いながら、苦笑してしまう。
ちょっとばかりそのルールは、あたしには辛いもの。
血だけがあたしらの食事じゃない。人間の生気だって頂ける。
けど、それもきっと佳林ちゃんの中では、『襲う』と判断するものだろうね。
ってことは、しばらくの禁欲生活じゃん。
「いいよ、それで。じゃあ期限を決めよう。そうだねぇ。次の新月がくる日まで」
「新月…」
「佳林ちゃんが眠ってた時間はハンデであげよう。あと約26日、かな」
「…それまで、私が助けを求めなければ…」
「解放して、二度とあたしは現れない」
「…わかりました」
きゅっと唇を噛んで、あたしを見据える佳林ちゃんは堅い決意の塊。
可愛いね、そういう姿は。
だけど、あなたは少しばかり見過ごしてる。
手つきに…ヴァンプに血を与えた者には、…闇の者が近づきやすいってね。
それからあなたは…逃げ切れるかな?
「判定は…」
「とも、ちょっといい?」
「あーいい所に。彼女が…宮崎由加ちゃんが、審判ね」
「とも?」
訝しい顔をする由加ちゃんだけど、説明はあと。
今は、開始の合図を一番に。
「あ、そうそう、ひとつ。まだ言ってなかったね」
「?」
「あたしの名前は金澤朋子。とも、でいい。それに敬語もいらない。対等なんだから」
「…とも?」
「そ。ま、この世界で不便しない通り名」
「…わかりまし…、わ、わかった」
いいね。
どんどん『人間らしく』戻ってく。
そうじゃなきゃ面白くない。
白いヴェールをとっぱらったあなたも、結構いいもんだよ、きっと。
「陽が昇れば教会に帰してあげる。それが…スタートの合図だよ」
「…うん」
こうして、あたしと佳林ちゃんのゲームが始まったんだ。
人間とヴァンプの奇妙なゲームが。
⑦
あなたたちの悲しみは、必ず終わりがある事で
あたしたちの悲しみは、今がいつまでもある事です。
無理なく生きていきたいですか?
だったら、あなたの魂をください。
夢も希望も、あなたを創るすべてを捨てて あたしにください。
それが出来ないなら…
――― 命を燃やして、がむしゃらに生きてみせてください
*****
「じゃ、よろしく」
重い扉の向こう側。
ほんの少し冷たい風を含んだ朝の空気の中にいる二人を、あたしは暗闇の世界から
見送る。不本意なんだけど、あたしは一歩も動けないから、すべてを…由加ちゃんに
託す形で。
「…とも?」
「わかってます。借りはちゃんと返すから」
「その言葉、忘れないでね」
ちょっとだけ煩わしそうに眉を寄せた由加ちゃんは、盛大な溜息と一緒に目を閉じる。
けど、仕方ないじゃん。
あたしは一歩として、この屋敷から出れないんだから。
忌々しい、空にぽっかり浮かぶあいつのせいで。
「えっと…?」
「いいんだよ、佳林ちゃん。行こうか」
「あ、はい…」
わけがわからないというみたいに、首を振ってあたしと由加ちゃんを交互に見たのは
佳林ちゃん。ま、人間には…ってか心清らかなこの子には一生わかんないだろうね。
清々しいと思っているものが、万人に共通するものじゃないって事。
がちゃりと、重厚な音を立てて閉ざされた世界に、あたしは臆病に一歩下がって
由加ちゃんの意識にあたしのものをトレースさせて二人を追いかけたっけ。
うっかり由加ちゃんが変な事を佳林ちゃんに告げないように。
佳林ちゃんのいつ発せられるかわかんないSOSを、聞き取れるように。
・
・
・
黒衣に身を纏っている由加ちゃんと、白に身を包んでいる佳林ちゃんが一緒に
並んで歩くと異色。身長差だってあるからなのか、ちょっと滑稽にも見える。
…なんて思っていたら、意識繋いでる由加ちゃんに叱られそうだ。
ここは大人しく、二人を見るだけにしておきますか。
「あの…どうしてあなたが…」
「由加、宮崎由加、だよ。佳林ちゃん」
恐る恐ると言うように尋ねた佳林ちゃんに、ふんわりした笑顔で答える由加ちゃん。
なんだ、そんな顔できるんじゃん。
そうしていれば美人なのに、どうしてあたしにはつんけんするんだか。
…とか思うほど、由加ちゃんはおおよそヴァンプに見えない笑みを見せていた。
「あ、えと、じゃあ…由加、ちゃん?」
「うん。…なんで私が佳林ちゃんを送るか、だけど」
そこで、さっと目を細めて空を仰ぎ見る由加ちゃん。
視界さえトレースしていたあたしは、その毒にしかならない眩しい陽の光に
思い切り顔を背ける。
ねぇ、由加ちゃんそれ、わざとやってるでしょ?
むっとして言ってやりたいけど、言ったところでこの人は絶対同じことをした。
そういう人なんだ、由加ちゃんは。ほら、今だっていたずらっぽく口元が笑ってる。
「ともは、おひさまが大っ嫌いだから」
「えっ?」
…ったく。
みすみす弱点を教えるとか、由加ちゃんはどっちの味方なの?
ま、きっと遅かれ早かれこれは気づかれた事だから捨て置くけど。
「純血のヴァンプはね、陽を浴びると灰になってしまうの」
「は、灰に…っ?」
「意外でもなんでもないでしょ?結構文献に書いてあるから知っているはずだけど?」
それは…と言葉を濁したのは佳林ちゃん。
きっと空想の話なんだとか、そんな風に思っていたんだろうね。
こうして本物の人外の者に会うまでは。
手に取るようにわかる。生真面目な心が混乱しているのが。
「それこそ私達が灰になってしまっても~とか。それがお伽噺かは見た人しか信じない
けれど」
「そう、だけど…。じゃあ由加ちゃんは?」
「私は純血じゃないから」
「えっ?」
「半分、人間の血が流れてる混血。…だから、ともより寿命もぐんと短い」
「混血…」
「意外?人間に恋をしちゃうヴァンプもいるってことだよ。特に…ヴァンプに性別は
ないから」
「…」
ヴァンプが人間に恋を。
なんでもないように言ってるけど、内心穏やかじゃない由加ちゃんには気づいてる。
最後の所で受け入れられない、混血である自分という存在。
忌み嫌われた種と交わった血を、今でも…100年以上の時を飛び越えても、
由加ちゃんは呪っている。生を与えた両親を憎んでいる。
許されぬ恋に、愚かだと嘲笑われながらその命を落とした両親はちょっとしたニュース
にもなって。生まれた由加ちゃんにはどれほどの傷だったか、あたしが出逢うまで
灰色に濁っていた瞳がすべてだったと思う。
ま、そう思えば純血のあたしに風あたりキツくなるのも仕方がないのかもしれないね。
気にもならないけど。
「あの…、ともの事を教えてもらってもいいですか?」
しばらく難しい顔で俯いていた佳林ちゃんは、意を決したように由加ちゃんに振り向いた。
由加ちゃんから語られるヴァンプに興味を持ったのか、その目は真剣。
いや、違うね、この勝負に勝つことに真剣なんだろうね。
「敵を知り、己を知れば…か」
呟いた由加ちゃんは、あたしの心を見透かすようで苦笑い。
これだから嫌だね、一度でも繋がってしまうと全部視えちゃう。
「そうだね、どんなことが知りたいの?」
おいおい、なに出血大サービスしてんのさ。
由加ちゃんは本当にどっちの味方なのよ?
突っこんだ所で、この人は飄々と言うんだ。
『ともではない誰かの味方』と。…たまんないね。
「えっと…、どんな人、なんですか?」
「抽象的だね」
「す、すみません…っ」
きっと佳林ちゃんは、思っている事や考えてる事を言葉にまとめるのがうまくない。
だーっと思いついたままを言ってしまうのは避けたくて考えすぎて、出る言葉が、
きっとこんなのばっかなんだろうね。
だから伝わらない。
由加ちゃんも一瞬苦笑して、けど、ふむと頷いた。
「いいよ。うーん…、自分にとにかく正直。だけど繊細で臆病。頑固だけど柔軟。
楽しい事が大好きだけど、難しい事にも首を突っ込む。直感的に動くくせに論理的」
「え…っと。すごく…その」
「素直に言っていいよ?結構デタラメな人…っていうか、矛盾した人って」
「あ、その、すみません…」
言ってくれるね。
これだから付き合いが長いのも困る。
…けど、付き合いが長いからこれだけ理解してくれてる。
あたしだってそう。
由加ちゃんのことなら、きっと誰よりわかる。
他意なんてなく、同胞として。
「だけどね、ひとつだけ」
「はい…?」
ふわりと風が吹いた。
やんわりと佳林ちゃんの纏ったヴェールを広がらせるぐらいの。
それは由加ちゃんの纏った黒衣も、ひらりと舞わせて…。
隙間から瞼にこぼれ落ちた太陽の眩しさに、目を細める。
由加ちゃんも、あたしも、視界の先にいる…佳林ちゃんに。
「人間の事が好きよ?」
「え?」
「人間に…焦がれてるって言ってもいい」
「焦がれてる…?」
「不変の中にいると、限りあるものが愛しく見えるものなの。だから…人間に
寄り添いたがる」
「えっと…」
「…おっと、これ以上は視えてるともに怒られちゃう。難しかったかな?けど、
もう教会だよ?」
「あ…、ありがとうございます」
息が…詰まった。
何を言うんだ…って。
知らないうちに渇いていた咽喉を鳴らしてしまうほど。
人間が好き?
あたしが?
焦がれてる?
どこをどう見て?
あたしはヴァンプだよ?
人間になんでそんな感情を。
もやっとした気持ちが、黒い煙を燻らせるように胸に広がってくる。
行き場のないそれは、何でもないように教会の門の前で、ふっと口元を緩める
由加ちゃんを睨みつけることでしか逃がせなくて…苛立ちがこみ上げたっけ。
なのに…。
「ねぇ、佳林ちゃん。ちょっとだけ、教会の中、いい?」
「え? あ、はい…」
由加ちゃんはさらにあたしの心に追い打ちをかけてくる。
踏み込めない聖域。
純血のあたしには。
けど、由加ちゃんは進める。
半分の血が、許してる。
つまりはそういうこと。
あたしの目が、この先は、――届かない。
・
・
・
「ここなら、ともが視ることもできないから」
「あの…」
重厚な威厳を保った聖堂に響く掠れた優しい声色は、穏やかに。
黒衣の者へのほんの少しの疑念も抱かず、すべてを受け入れる場所。
その中での会話は…密やかに。
「私がこういうことしちゃいけないんだろうけど…佳林ちゃんは身を守るすべを
もってないから…。特別に…1つ力を貸してあげる」
「え?」
「これを」
黒衣より取り出したるものは、小さくも歪な鉛の物。そして、銀の光放つ物。
見た者は誰でも息を飲む。
佳林も例外ではない。
「これ…、銃、ですか…?」
「うん」
「そんな…っ、受け取れませんっ」
「聞いて?あなたはともと賭けをした。けれど、ともが必ずしもルールを守るとは
限らない。万が一、佳林ちゃんに襲い掛かってきたら…どうするの?」
「それは…」
「その時の為の、最後の手段だと思って持っていて欲しい」
「最後の…手段」
そっと佳林の手の中に押し込まれるそれは、なんと重きものなのか。
短銃と呼ばれるほどの質量なれど、初めて手にするものには…戸惑いしかない。
そして、由加の言葉も。
「ヴァンプは簡単に死なない。特に…ともは、心臓を杭で抜かれても死なない。
……けどね、この銀の弾丸で心臓を撃ち抜けば、射止めることができる。絶対に」
「銀の、弾丸」
「たとえ使わなくても、身に付けているだけでいいから」
ぶるりと一度身震いしてしまう佳林に、由加は柔らかく微笑む。
この場に似つかわしくない物を差し出したとは思えない笑みを。
それが…佳林には恐ろしくもあった。
そして…疑問がこみ上げる。
「あの…どうして、由加ちゃんはこんなことまで…してくれるんですか?」
「…フェアじゃないから」
「フェア…?」
「ともは、いつでも約束を破れるけど、あなたはきっと最後まで約束を守る。
だったら、ちゃんと対等でいなきゃ…ズルイじゃない?」
くすりと笑った由加は、どこかしら妖艶さを滲ませて、そうっと佳林のヴェールに触れた。
裾の捲りあがった場所を正しただけなのだけれど、その手のひんやりした感触が
佳林の額に触れ…ほんの僅かに切なさが胸に広がった。
あぁ、この人も、ヴァンプなのだと。
ありがとうございます、と下げた頭に手を振り去って行く由加は、さながらゲームの
審判のような静かな眼差しとともに光の中へと消えていく。
その背は朋子よりも由加の方を、純血のヴァンプに見せて仕方なかった。
⑧
人の心を動かすのは、人の心。
それは決して立派な人間だけが、心を動かすわけじゃない。
どれだけ本気で相手に向き合ったか、どれだけの心の燃料を持っているか。
燃料がなければ、誰かの心を燃やし動かすことなんてできないから。
そして…真心には真心で。
そんな着火剤で広がって繋がっていく人間の心って、――― 本当に不思議。
*****
朝は礼拝。掃除、それから食事をして、またあいつへの祈り。
ここ最近視た佳林ちゃんは、毎日そんな日々の繰り返し。
こんな太陽が昇る時間に、アタシが起きて観察とか…どんだけあの子の血が欲しいのか。
いや、それもあるけど、あるんだけど、一番は…興味。
人間の姿は色々見てきた。
だけど、こんな人種は初めてで。
すべてをあいつに捧げるとか、そんなの本当にあるわけ?と、意識をもってかれたんだ。
こんな小さな少女が、と。
そんな佳林ちゃんはアタシの目が届いているのを知ってるのか、一度だってあの合言葉を
使わない。意外と頑固、なのに不器用、で、バカ正直。
たった一言いえば、実は思ってたよりもいい未来があるかもなのにね。
で、今日も今日とて、日課の奉仕活動で施設の子どもたちのお相手中。
何か担当でもあるのか、朝から夕方まで付き合う佳林ちゃんは、どっちが子どもなんだか
わかんないぐらい楽しそうにしてる。
今も、ほら、数人の子どもたちに囲まれて、シスター、シスターなんて引っ張りだこ。
ま、子どもだってわかってるよね。
年の離れた人間よりも、感性だって近しい人間の方が、話もしやすいって。
砂場に入れば、ドロドロになりながら遊んじゃってさ。本気すぎるでしょ…。
って。お。
ふと気づく。
一人、トンネル作りに入れない子どもに。
こういう子っているよね。今の時代にはたくさん。きっかけの一言が言えない子。
そういう時に、理解ができるかどうか、佳林ちゃんはどうすんの?
あぁ、やっぱりおいでと手招きね。
「今ね、砂のトンネル作ってるの。やってみない?」
ぽんと肩を叩いて勧める佳林ちゃん。
その子は、おどおどと何度も佳林ちゃんと砂場の子どもを見比べて俯いて。
なんだろうね、手に取るようにわかる、その子の気持ち。
慣れない場所。
すでに作られ始めてるトンネル。
もし、自分が加わる事で和を乱したら?怒られたら?嫌われたら?
ずいぶん昔の子どもたちなら、こんなメンタルな話、滅多になかったのにね。
時代ってやつは不思議。
さぁ、佳林ちゃんはどうするの?
入れてあげてと、背を押すだけ?
別をやってみる?と勧める?
どれも間違いじゃない。
だけど、それはその子のその瞬間の気持ちをそらしてしまう。
どうするの?
興味深くアタシはじっと見つめる。
そしたら…、佳林ちゃんは意外な方向に出た。
「よぉーしっ!」
突然腕まくり。
それからヴェールをぽいと近くに置くと、裾が汚れることも構わずに砂場の中へ。
入ーれーて、と子どもたちに笑顔であいさつ。いーいーよ、なんて可愛い合唱のあと、
おいおい、そんなに?ってぐらいの勢いでトンネルの中に手を入れて砂をかきだす。
子どもより長い腕は、どんどんと穴を広げて道を作ってく。
わぁーと嬉しそうなギャラリーは、わくわくしているのがわかるほど。
突っ立ってたその子も、覗き込むようにして少しずつ輪の中に。
だけど、子どもよりも、大きな身体は、小さなトンネルに触れてしまって…そして。
「あーっ」
会えなく崩落。
ぐしゃりと潰れた砂のトンネル。
落胆の声が子どもたちから上がる。
だけど、佳林ちゃんは笑顔だった。
「ごめーんっ、でもさっ!結構深くできたよっ!ねっ、どうやったらもっと繋がった?」
「んー、わかんないよぉ」
「土がさ、結構柔らかくなってたと思うんだよね」
「あっ!水っ!お水で少し固めたらいいかもっ!」
「そうだねっ!」
佳林ちゃんの笑顔に釣られたのか、沈んだ表情は一気にまた輝く。
次はこうしよう、それでだめならああしよう。
子どもたちの小さな会議は続いてく。
それを見ながら、自然と棒立ちしていた子を輪の中へ。
「…私だってこうやって潰しちゃうんだよ?おかしいでしょー?」
失敗を笑って流す佳林ちゃんに、その子はこくんと頷いて口元を緩める。
あぁ、警戒心が解けたのか、もう砂場で遊ぶ気まんまんじゃん。
「崩したっていいんだよ?わざとじゃないって、みんなわかってるから。
何度だってできるから」
あぁ、なるほどね。
そうやって自分がやってみせて大丈夫だって、示したってことか。
考えたね。
一度崩しちゃってみせて、それでも笑ってくれる姿をみせれば…入りやすい。
ふぅん、ただの考えなしじゃないってことか。
「せっかくなんだし、崩れることばかり考えてたら、楽しめないよ?今、ここでしか
できないこと、いっぱいしてみない?」
今、ここでしか。
そう言った。
それは…静かにアタシの何かを揺さぶった。
今、この時を生きる人間。
だから、一瞬一瞬を大切に。
至極もっとも。正論過ぎで何も言えない程に。
先ばかり考えても…そういうこと。
限りある人間は…なんて眩しいんだか。
苦笑しながら、アタシは重い腰をあげた。
・
・
・
「…すごいね、さすが子どもの気持ちは子どもがわかる」
「っ!」
太陽がようやく傾きだした頃、すいっと影に輪郭を浮かび上がらせて佳林ちゃんの
隣に立つ。わっと、驚いたように目を丸くするけれど、アタシの言葉に、すぐに
佳林ちゃんは、むっと小さく唇を尖らせた。
「…子どもじゃないです」
そういうのが子どもっぽいってのに。
くつくつ笑って、ふいっと砂場を見た。
飽きもせず、子どもたちはずっとトンネルで遊んでる。今は水を流し入れて川でも
作ってるのかもしれない。子どもの発想力ってのは豊かだねぇ。
そんなアタシの関心を見てとったのか、ヴェールについた泥を気にもせず、
佳林ちゃんは静かに目を細めた。
「…ここへ遊びにきてくれる子は、小さな頭の中で色んな事を考えてるんです。
私なんかが想像もつかないことを。それは、ある意味、大人より大人で」
「大人より、大人、ねぇ」
えぇ、と頷く目は、愛おしげで…もともと子どもの世界が好きなのだろうね。
雰囲気でも伝わってくる。
「けど、考えすぎちゃって動けなくなっちゃってって子が多くて。
そんな時に、ちょっとだけ声をかけてあげるしか私にはできません。
走り出してから考えた方が、うまくいくこともあるんだよって」
それはちょっとしたジレンマにも見えた。
佳林ちゃんは、奉仕…ボランティアであって、責任も何も負えない。
だから、線引きが…必ず必要になってくる。
その先は、入り込めない領域。それが…ほんの少し苦しいのだろう。
「ふーん」
考えすぎて、か。
子どもは子どもらしく、なんて言葉は化石となったってことなのね。
いまいちわからない。
だって、子どもだ。結局は。
アタシから見れば、佳林ちゃんだってそう。
だから…ピンと来ない。
来なかった、のに。
「なぁ、お姉ちゃん」
「んぇ?アタシ?」
気づけば、いつのまにか横に立っていた男の子。
真っ直ぐ見上げてくるその目は、夕焼けに染まって不思議なグラデーション。
なんだなんだと両膝に手をついて目線を合わせてやる。
「お姉ちゃん、おっきぃな」
「まーキミよりはねー」
なんだよそれっ、とか元気に笑う男の子。
素直な反応なんて滅多に触れあわなかった。
だから、ちょっとばかり人間の大人の真似事をしてみたくなった。
よくある、会話の真似事を。
「なに、ぼく くんは、大きくなったら何になりたいの?」
「大きくなったら?うーん、大きくなったら、合体ロボット!」
微笑ましい。
合体ロボットか。
さすが、人間の子どもだ。
そーかー、なんて頭を撫でてやる。
そしたら…思いのほか、不満そうにその子はアタシを見上げてきた。
なに? なんなの?
わかんなくて首を傾げる。
と、そこで、隣にいた佳林ちゃんが膝を折って、その子の前に座って目線を合わせた。
にっこりと、笑いかけながら。
「うーん、じゃあ、『大人になったら』何になりたい?」
大人に、なったら。
大きくなったら、じゃなくて、大人になったら。
それを聞いた男の子は、さっきまでの無邪気な顔じゃなく、引き締まった勇ましさを
その表情に覗かせて言い切ったんだ。
「警察官!」
オマケで、ぴしりと伸ばした背と敬礼ひとつ。
あぁ…なるほどね。
色んな事を考えている、か。
子どもは、大人が思うほど子どもじゃない。
いや、それだけじゃなくって、大人のように…曲がってもいない。まっすぐ素直。
ちゃんと言葉を理解してる。考えてる。
大きく、は巨大化したら、で、大人になったら、は未来の姿。
そっと心の中で頷いた。
ね? とアタシを見上げてくる佳林ちゃんにも悔しいけど頷いてしまう。
行っておいで、と男の子の背を押してみんなの元へ行かせると、ゆっくりとまた
アタシの隣に立つこの子だって、子どもであって子どもじゃない。
「…さすがシスターだ。アタシには考えもつかない。壊すことしか考えないアタシにはさ」
言葉にして改めて思った。
根本的な所が違い過ぎる、と。
人間とヴァンプは、交わらない。
きっと理解だって、深い所ではできない。
奪うこと、本能に逆らえないこと、考える以前に動いてしまうこと。
そういうの、ぜんぜん人間とは違うね、なんて。
なのに、佳林ちゃんは…ふっと一度中空を見つめて…口を開いた。
「……そんなこと、ないんじゃないですか?」
と。
「うん?」
「本当に壊すことしか考えてないなら…私を助けたりしなかった。賭けなんて、しなかった。
だって、こんなちっぽけな人間なんですもん。いつでも血液を獲るなんてできるはずです。
けど、それを…あなたはしなかった」
今度はアタシが目を丸くする番だった。
この子…本当に色々考えてる、と。
自分のことじゃない、他人の事を、と。
驚いた。本当に。
だけど、同時に…――― ほんのすこし腹立たしくなった。
そこまで考えられるなら…何故……?と
どうして、この子は…、と。
きっと、前にも感じた無意識の中に押しやられた意識のひとつだ、これも。
それを掴めてない。
あいつの元にいるから、それを掴めてない。
だけど…いま、アタシが教えてやる義理もない、か。
ふっと笑って沈んでいく太陽を見上げた。
「…きまぐれだよ。こんだけ生きてるんだからね。たまにはドキドキしてみたいじゃん?」
「んー…だったら、ひとつだけお願いしたいです」
「なに?」
珍しい。
お願いなんて。
軽く眉を上げて拳一個分小さな頭を見下す。
途端に、ちょっとむくれた顔がアタシを見上げて。
「…ごちそうの身にもなってください」
年相応な声で不満を口にしたんだ。
思わず吹き出す。
いいね、その反応は。
そういうのは好きだ。
「んははっ。言うねぇ。じゃあ、アタシもひとつ」
「なんですか?」
「早く助けを求めてよ」
「もう…」
「それと敬語、いらないって言った」
「あ」
やっぱり、気づいてなかったか。
まーいきなり変えるのは難しいか。
「しゃーないなー。まずは佳林ちゃんのそのお堅い所を壊すことを考えようかなぁ」
「もう…っ、とも!」
「んはは、その調子。じゃね、ここの空気はアタシには合わない」
すいっと姿を影に溶かしていく。
むぅっと頬を膨らませたままの佳林ちゃんは、それでも消える瞬間、
しょうがないなぁって笑みを見せていたっけ。
ねぇ、わかってる?
これって賭けなんだよ?
時間制限のついた勝負なんだよ?
そうやって胸の奥で告げてくる声が聞こえた気がしたけれど…アタシはこの時、
確かに人間との時を楽しんでいたんだ。
佳林ちゃんとの時を、楽しんでいたんだ。
⑨
あなたはいい加減気づくべき。
『自分』というものが、自由であることに。
今のあなたは、あいつの導きなんかでここにいるんじゃない。
そう見えて、全然違う。
だって、あなたは選択した。
いや、過去のあなたは、ずっと選択し続けてきた。
その選択の先に、今のあなたがいるんだよ。
誰かから勧められて、それを選択したのもあなた。
それを拒んだのもあなた。
意識してなくても、あなたはずっと、なりたい自分になるように選択している。
今も、この瞬間も、決定権はあなたにあって、あいつにあるわけじゃない。
だったら、もう気づきなさい。
あなたの心は、いつだって自由なんだと。
*****
僅かな暖色の灯りがともされた小さな部屋で、アタシはどでーんと木の椅子に
もたれて座る。
居心地悪い事この上ないけど、ここに来なけりゃなんにも始まんないし、あいつの
針のようにアタシを差してくるような空気にも、ずいぶん慣れたから。
大体、賭けが始まってどのぐらい経った?
軽く一週間は経ったはず。
ハンデを考えても、そろそろ本気出さなきゃお堅い彼女は絶対落ちない。
こんなご馳走とは滅多に出会えないことを考えれば、出来ればそろそろ仕留めて
いきたいんだよね。
「というわけで、助けてって一言いえばいいだけなんだよ。ねぇ、なんか助けてほしいこと
ないの?ちょっとくらいあるでしょう?」
「とも…」
ハの字に眉を下げて、彼女…佳林ちゃんは困ったみたいに頭を垂れた。
ついで、はぁ…と細い息をつきながら、トントンっと小さな机に聖書を立てて音を鳴らす。
あ、無視を決め込む気?
こらこら、仮にも迷える子羊だぞ?
来るものは拒まないってのが、あいつの教えでしょうよ?
「かーりーんーちゃん」
ずずいっと、机の向こう、ちょっとした柵みたいに仕切られた先にいる佳林ちゃんに
身を乗り出して名前を呼ぶ。
途端にまたあの困り顔で小さく笑うものだから面白い。
アレだよねー、完全にヒールにはなりきれないよねー佳林ちゃんって。
や、まーシスターだし?当然だけど。
「あのね、とも。ここ、一応相談事とか悔い改めたい事をお話するところなんだけど」
知ってる知ってる。
あれでしょ?懺悔室ってやつでしょ?
今はなんか言い方違うみたいなんだけど、古い記憶しかわかんないや。
「だから相談しに来てんだけど?佳林ちゃんを落とすにはどうしたらいい?って」
「落と…っ」
とんでもないっ、て仰け反ってわたわたとする佳林ちゃん。
あーほんといい反応。
スレてなさすぎ。
どんどんからかいたくなる。
いや、そっちの趣味があるわけじゃないんだけどさ。
「助けてほしい事とかないわけ?」
「な、ないよぉ…」
うっそだぁ~。
誰だって助けてほしいことの…あ、そっか言い方変えよう。
人間には、こっちの方が効果的なんだよね?
出来る限り、あいつみたく優しい顔で…優しい顔で…、あっ、キモっ、なんて思わないぞ。
「じゃあ、佳林ちゃん?」
「な、なぁに?」
「叶えて欲しい願い事ならあるでしょう?それも、アタシなら叶えてあげられるかもよ?」
人間の業ってものを、アタシは知り尽くしてる。
力を誇示したいがために理由を作り立てて、誰かを攻撃したり、それを利用したり。
そこから生まれた憎しみに、悲しみに、また争いが広がってひとつの世界が壊れて。
そうやって人の心はどんどん歪み…今度は富のために人を貶める。
そこからはエンドレスループ。
際限のない願いという名の欲望は、今やそこらへんを歩いていても転がってるほど。
だから、なんにもおかしくない。
人間の佳林ちゃんが、どんな願いをもっていても。
ましてや…アタシは知っている。
佳林ちゃんが本当に望んでいるだろう『幸せ』のカタチを。
ねぇ?それを言ってごらんよ?
アタシなら…きっと叶えてあげられる。
最高のカタチで。
…なのに。
佳林ちゃんは――― 理路整然と言ってのけた。
「もし…あったとしても、それを叶えるのは…――― 自分自身だと思う」
ふわりと、部屋の隙間から入り込んだわずかな風が、佳林ちゃんのヴェールを揺らす。
けれど、その風にも揺らせないほど…佳林ちゃんの目はまっすぐアタシをとらえてた。
信じて疑わない目。
一本の太い柱のようなものが、その小さな身体に入っているような…そんな凛とした声。
それほどまでに、佳林ちゃんは…『白』だった。
他に例えられない、本当に、白。
「わー…優等生ー…」
思わず背を椅子にもたれさせて笑っちゃう。
おかしいからじゃない。
あまりにも『らしくて』。
アタシの反応が気に食わなかったのかな?
佳林ちゃんは、一瞬だけ口をつぐんで俯いて。
それでもちゃんと自分の言葉を確かめるように、また言葉を紡ぎ出した。
「もしも誰かに叶えてもらう願いが、大きければ大きいほど、それは自分自身から
逃げてると思う」
「逃げる?なんで?」
思わずトゲっぽく訊いちゃう。
なんか腹立たしくて。
だってラクじゃん?
願い、叶えるよ?助けてあげるって言ってんだよ?
自分が傷つかなくてもいいし、手だって汚れない。
代わりにほんのちょっとの佳林ちゃんをくれればいいだけ。
なんにも辛くない。
なのにつっぱねるとか。
しかも逃げ?アタシを頼るのが、逃げだって?
それを…佳林ちゃんが言うの?
この場に身を投じる佳林ちゃんが言うの?
「そうやって、もし、その願いが理不尽な形で叶えられても、自分のせいじゃないって
絶対思っちゃう。誰かが叶えたものだから、誰かか言ったから…ともが言ったからって、
とものせいにしちゃう。それで傷つくのは…きっと私自身だと思うから、そういうのは、
したくない。」
理不尽、ねぇ。
あたしに言わせれば…――― ここにいるあなたが理不尽なんだよ。
選んだつもりで…あなたはきっと、周囲を見すぎてた。
警察官。
もう陽も暮れて、行き場のない自分。
差し出された手を、取るしかなかった道。
そのあなたに、もう一度選択させてあげようってのに…。
呆れたアタシに気づいたのか、佳林ちゃんはパタパタと立ち上がって視線をそらせる。
まるでもう、この話はやめよう?と逃げるように。
突き詰めていけば…自分が崩されてしまうと、ほんの少しでも気づいているのかもね。
「そ、それに、主に背くことはできないから…っ、じゃっ」
カタン、と木の扉を開けて行ってしまう佳林ちゃん。
無理には追いかけない。
追いかけた所で、きっと今日はもう頑ななあの心は開けない。
「あー…どうしよ? ほんっとに優等生だった」
ぐうんと伸びをして唸る。
誰も居なくなったこう空間には、あいつを祀ったクロスがでかでかとその姿を主張していて
気分が悪い。
「アンタ凄いねー、あんだけ信じさせちゃうとかさー」
悪態をついたからって返事はこない。
きたらびびるし。
ふう、と立ち上がって部屋を後にする。
もう一度振り返って扉のすぐ向こう側に視線をこらせば、唇を指先で弄りながら俯く
佳林ちゃんの背中が見えた。
あなたが信じて進んだ道は、間違っているとは言わない。
だけどね。
すぅっと影に溶け込みながら、アタシは断言した。
「――― ここにいる限り、佳林ちゃんの願いは叶わないよ」
その声は届いたか?
白いヴェールが、小さく揺れるのを視界の端で見た気がしたっけ。
⑩
教えっていうものは、意外とどこにでも転がっているもので。
今は見つけられなくっても、あなただけの『答え』ってのは、ちゃんとどこかに在るわけで。
あなたが見つけようと心から思えば、生きてる限り無限の可能性があるんだよ。
人間ひとりのほんの僅かな生きる時間だって、常に変化に満ちているんだし、
存分に味わい尽くさなきゃ、それこそ『人生』がもったいない。
そう、思わない?
*****
賭けを始めてもう折り返したころ、アタシは今日もぼんやりと礼拝堂の陰で
あの子を見つめる。
奉仕・礼拝・奉仕・礼拝。
毎日よくもこう飽きもせずに繰り返せるなぁと思う。
変化のない日々って、なんか、うあーって発狂したくなんないのかな?
アタシには到底無理だ。
なのに、あの子、佳林ちゃんは何事にも一生懸命。
いや、そこは手を抜いてもいいでしょうよ?って所まで。
けど、そうやって見ていたから…毎日、佳林ちゃんが過ごしている姿を、
アタシも毎日見ていたから…なんとなく、心がざわついた。
こんなに人間に関わるなんて、今まできっとなかった。
そりゃあさ、ずいぶん長く生きてるんだし、たまーに生活を覗き見るとか、ちょっとだけ
食事を~って欲求を満たすための観察はしたことあるけれど。
こんだけひとりの人間をーってのは、きっと初めてで…。
なんていうか、これってさ、…ちょっとした…執着にも似ている、気がしない?
…なんて思って、ちょっと苦笑した。
だって、そういうのって、たぶんマズイ。
由加ちゃんじゃないけど、人間に近づきすぎるのは、きっとアタシには良くないから。
昔から欲しいものが出来たら、最後は自分をセーブしきれなかった。
佳林ちゃんも一緒だったじゃん?
見つけた瞬間、血が欲しくてたまらなくて、空腹に任せて…食いちぎるように頂いた。
…まだ欲しい。
ぜんぶ欲しいとさえも思ったりしてる。
――― だけど。
それは…血が?
それとも、佳林ちゃんが?
――― あぁほら、これってもう良くないヤツ。
自問自答していけば、目を逸らしたい事実が迫ってきて息苦しさに胸を掴む。
人間を…佳林ちゃんを、手に入れたいって…そういう事実が。
やばいぞー、これ、ほんとにやばい。
由加ちゃんにバレでもしたら厄介なぐらい。
そうやって、自分の方に意識を持っていっていたから、反応が遅れた。
におい…。
なんだこれ…。
鼻がもげるような。
それに、ひどい瘴気。
まるで毒だ。空気全体が毒されたような重さを含んでる。
きっと人間にはわからない。
けど、アタシにはわかる。
人間でないアタシには。
これは…、この場に足を踏み入れるのは場違いなやつの…においだ。
それが今、あの子の前に。
「…ぁ…」
「へぇ、いい女になってきたもんだ?」
さっと目を凝らして、確かめる。
そして佳林ちゃんの前に立った男を見つけた。
瘴気の元はアイツだ。
うねるように、そこだけ空間自体が歪に見える。
ただの人間。なのに…なんだろう、違和感。
きっと、業の塊だからだろうと思う。
そういう人間を嫌ほど見てきたからわかる。
見た目は、ひょろりとした長身で。
くたびれたジャケットに、もったりとした頭髪。
無精ひげが年齢をわかりづらくしているけど、まだ若い。
そんなやつが…淀んだ空気を撒き散らして…。
「宮本、佳林だよなぁ?」
そいつは、佳林ちゃんに距離を詰めるように、ひたひたと歩み寄ると顔を覗き込み、
それから舐めるように全身を目で追う仕草をした。
下卑た笑みまで頬に滲ませて、無精ひげをさするもんだから…たまんないね、こういうの。
手に取るようにわかる、そいつの頭ン中に吐き気さえしてくる。
それにしても…どこかで見た気がする。
あいつの影。
どこだった…?
怯える佳林ちゃんに、苛立ちがこみ上げてくるのを腹の奥に抑えこんで記憶をたどる。
わりと近い過去。
……、あぁ、そうだ、思い出した。
あの刃物のような、冷たい瞳に…浅黒い顔は…。
「なんだよ、お義父さんが会いにきてやったんだぞぉ?」
そう、佳林ちゃんの母親と去って行った男だ。
佳林ちゃんに一度だって目もくれず、母親の腰を抱いていた。
幼い二つの瞳には、どう映ったのか、灰色に濁った佳林ちゃんの心までは
視ることはできなかったけれど、きっと、虚無に繋がる絶望だったはず。
母親を連れていかれたという…母親が自分ではない誰かを選択したという事実に。
……女としての生き方を選んだ母親に。
「…母は…亡くなったと聞いています…入籍も、しなかったとも、聞いています」
「へぇー、そーなんだ?じゃー知り合いってことでもいいけど?」
「なんの、御用ですか?」
それでも佳林ちゃんは気丈だった。
震える声を喉の奥に一度落として…、まっすぐそいつを見上げて事実を述べた。
それを見て、アタシは一度眉をしかめる。
偉いよ、ちゃんと意思を伝えるのは。
だけどね、それが通じない相手ってのが、この世の中にはいるんだよ、佳林ちゃん。
「あいつがさー、お前の事頼むーとか言い残してたからさー引き取りに来たんだよね」
「え…っ? そん、なこと聞いてな…いです…っ」
「いいから来いよー」
ここまで、だね。
『助けて』の合図は来ない。
勝利宣言も、耳にも届かない。
だけど、ここまでだよ。
――― アタシの我慢がね。
伸ばされるそいつの手が、白の佳林ちゃんの腕を掴もうとした。
母親に触れたその真っ黒の手で、娘の佳林ちゃんに。
そうはさせない。
その子は――― アタシのだ。
「…ッ!痛ってぇっ、な、なんなんだよっ」
「…っ!? とも…!?」
だめだよ、その子はアンタが触れていい子じゃない。
アタシが言うのもなんだけど、その子には…触れちゃいけないんだよ、誰も。
ぎりりと、無骨な手首を掴み上げると軽く外側に捻ってバランスを崩してやる。
それから思い切り今度は反対側へと、引っ張るようにして腕を返す。
虚を突かれたのと、素早い動きについてこれないそいつは、右に左に身体を揺らして
最後は、床に膝を折って罪人のように平伏した。
要領さえわかってれば、大の男を女が組み伏すのだって、こんなに簡単なんだ。
で、両手を軽く締め上げれば、ポッキンきて終わり。
…のはずだったのに。
「…ぅ…」
まずった…。
人間に触れるのが…久しぶり過ぎて…まずった。
「とも…?」
身体中の細胞がざわざわとしていく。
触れた人間の体温に、掴んだ手の甲に浮き立つ血管の脈動に…喉の渇きが激しくなる。
なんだこれ…やばい…、食べたい…食い破ってしまいたい。
なんでもいい…、誰だっていい…、血を…生気を…アタシにちょうだいよ。
少々腐ってたっていい。
腹の足しになれば…。
そう、もうアタシはずっと腹ペコで。
ほんの一滴の血だって欲しくて欲しくて…。
ぐぅっと、こみ上げてくる欲望に、今もう、流されそうで。
「人間…血…、いい、ね…」
簡単なこと。
その喉元を噛みちぎるように仕留めてしまえば…。
つかんだ指先から、その生気を搾り取ってしまえば…。
「ぐぅ…血…」
「とも…?ともっ?」
すぐそばにいるはずの佳林ちゃんの声さえ遠い。
どくん、どくん、と。
自分の心臓の音だけが耳鳴りのように響いて、呼吸が乱れてくる
一気に血液が逆流するように身体中が熱い…。獲物を仕留める為の歯が尖りだす…。
次に見た伏したそいつは…もう、ただの『ご馳走』だった。
「な、なんなんだよ…離せよ…ッ」
さぁ、もう止められない。
ただ貪るように… ――― いただきます。
ぐうっと右手で首根っこを掴むと同時に、大きく口を開いて―――
「だめ…!! だめっ!ともっ!!」
「ッ!!」
瞬間、白がアタシの目の前を覆った。
真っ白。
視界ぜんぶが。
ついで、軽く引き剥がす力と何かがぶつかる衝撃…、そして鼻をくすぐる甘い匂い。
激情に歪んでいくアタシの心を、優しく包むような…甘くて優しい匂い。
気づいた時には、アタシは佳林ちゃんの身をていしての剥す力によって、
『食事』を失くされていた。
散り散りになっていくのは本能。
求めて貪り食ってやろうと思う本能。
そうすれば早くって…ただただ、目の前の事に愕然とするだけだった。
「…ぅ…佳林、ちゃん…」
「だめだよ…それはだめ…ぜったいだめ…っ」
なんで…そんな…。
なんでそんな泣きそうな顔で、アタシの肩にうずもれてるのさ?
他人のことでしょう?
もっと言えば、あなた、さっきまでとんでもないことになりかけてたんだよ?
なのになんで…アタシなんかを。
大体、こんなことしなければ、あなたは…賭けに勝ってた。
なんで…。
うまく回んない頭で、ぼうっと佳林ちゃんを見つめて…それから天を仰いだ。
そこには…礼拝堂の真ん中に…あいつを象ったクロス。
…目に映った瞬間、苦笑。
あんた…凄いねって。
ここまでさせちゃうんだ?って。
「っ!くそっ、なんだよっ!」
僅かな隙をついて悪態つきながら、駆け出したのは男。
アタシの横をすり抜けるように、入口へ。
そうはいかない。
アンタは仕留める。
「とも…!」
とん、と。
軽く佳林ちゃんの肩を押すようにして離れると、踵を返して男を追いかける。
…追いかけようと、したんだ。
けれど。
「と、止まって…!とも…!!」
佳林ちゃんの声…と、カチリという金属音に…足を止めた。
金属音…?
待って、この音は昔聞いたことがある。
それをまさか、佳林ちゃんが?
おそるおそる振り返ってみて…そのまさかだった。
佳林ちゃんは、震える指先をトリガーにひっかけて…アタシに短銃を向けていた。
なんて似つかわしくない姿だろう?
白に染まった佳林ちゃんが、重い黒光りするそんなものを持ち出すなんて。
刹那、礼拝堂の扉が開き、大きくダン、と閉められる。
あーあ、逃げられちゃった。
あいつ…きっと、これからも来る。
なのに。
思わずため息。
あいつにも、佳林ちゃんにも、そして…その不格好さにも。
「あのさぁ、そんなの効かな……―― 待って、そん中なに入れてんの?」
軽くあしらおうとしたけれど、ちらりと見えたセットされた弾丸に見覚えがあって
目を見張った。あれは…過去何度かアタシを…脅かしたもの、じゃない?
「由加ちゃん…から、貰ったの。本気でともを止めたいなら、持ってなさいって…」
「シルバーブレット、か…。ったく、つくづく人間の味方しちゃって」
苦々しい気持ちに笑いまでこみ上げてくる。
同時にほら、戦意喪失。
匂いに引きつけられてた本能は、いまは散って…尖りきった歯も元通りだったし。
まさかの由加ちゃんのバックアップには驚いた。
それを出してきた佳林ちゃんにも。
けど、逆に言えば…それだけ本気だってこと、か。
人を襲う事を良しとしない、佳林ちゃんの本気。
まったくかなわない…。
自分のおかれてる立場を理解してる分、ほんとに。
だけど言わせてほしい。
人間ってやつは、あなたが思っているようなやつばかりじゃないんだよ。
「てかさ、生きててもロクでもないやつだよアイツ。だったら」
「だめ、だよ…っ、どんな人にだって、生きる権利がある。自分の人生を見つめる時間が
ちゃんと用意されてるものだから」
銃口は下ろされない。
下ろせないのか。
アタシがいつ飛び出していくともしれないから。
けど、だからこそムカついた。
アタシより、人間を信じる佳林ちゃんに。
アタシより、あいつを信じようとする佳林ちゃんに。
「じゃあ佳林ちゃんは?」
「え?」
「佳林ちゃんが佳林ちゃんらしく生きる権利はどこにあんの?」
「…!」
さっと表情を変える佳林ちゃんに、軽くどこかが痛んだ。ちくりと。
けどやめない。
だってわかってないんだから。
なんにもわかってないこの子に、ちゃんと気づかせなきゃ、これからだってこの子は
すべてを犠牲にしてしまうから。
「こんな人生を本当に受け入れてんの?」
「やめ…て」
…て、なんでアタシ…。
こんな必死になってんのさ。
「このままだと、あいつに全部喰われてしまうよ?それでもいいの?
全部出しちゃっていいの?」
「やめてっ!」
なんでこんな熱くなってんのさ…らしくなさすぎ。
落ち着け…おちつけ…。
ほら、もうこれ以上は…気づいてる。
もう、佳林ちゃんの深い所はえぐった。十分。
だから…。
深く息をついて、今一度…と礼拝堂の奥、クロスを見つめる。
その視線を静かに短銃を降ろして追いかけたのは、佳林ちゃん。
「…。アタシは、佳林ちゃんが見つめるあいつの言葉は信じない。だけどね、
一つだけ腹立つけど言葉を借りるなら…――― 自分を偽るな」
「…とも…」
「したいこと、やりたいこと、願った事を諦めて、佳林ちゃんは笑顔になれた?」
「…」
なに言ってんだかなぁっと思う。
長くいたから、ほだされてしまったのかもね、と自己嫌悪しちゃう。
けど、佳林ちゃんは聞いた。
アタシの言葉を、噛みしめるように。
だから…。
無意識に…、そっと佳林ちゃんの頬を撫でるように触れていた。
アタシを見上げた佳林ちゃんは、びくりと一度震えて、戸惑いに瞳を揺らしていたけれど。
そんな佳林ちゃんに…アタシは少しばかり残酷な言葉を落とす。
あなたの存在意義を揺るがすほどの言葉を。
意地悪でじゃない。
ちゃんと気づいて欲しいから。
「ねぇ、佳林ちゃんはさ、生きている意味が欲しいだけじゃないの?」
「…っ、だ、誰だってそうだよ」
いいね、その反応は。
人間らしい。
そういうのは好きだよ。
だけど、まだ。
「誰かに必要とされる自分?」
「…だとしたら…?」
「その誰かがみんないなくなったら、生きてる意味ってなくなっちゃわない?」
「…っ」
極論。
だけど、アタシだから言える言葉に、佳林ちゃんは息を呑んだ。
その目が混乱したように見つめてくる。
どこかそれは救いを求めているみたいで、たまんなくなる。滑稽過ぎて…可愛くて。
ヴァンプが人間に救いの手を…なんて、前代未聞。
けど…なにごとも最初は前代未聞。だったら…ひとつだけ教えてあげよう。
「佳林ちゃん、言ったよね?願いを誰かのせいにしたくないって。
誰かのためにってしてることが、誰かのせいにしてることもあるんだよ?」
「誰かの…せい?」
「佳林ちゃんが見つけなきゃいけないのは、生きてる意味なんかじゃない」
「じゃあ…なに?」
「…わかんない?」
「…教えて?」
すがる眼差しに、何もかもを与えたくなってしまう。
けど、ひとつだけと決めた。だから優しいアタシはここまで。
すうっと、唇を指先で撫でれば…切なく見つめられて…喉の渇きがまた戻ってくる。
けれど、それ以上に激しくこみ上げてきたのは…胸を締め付ける痛み。
体感したことのない…もどかしい痛み。
あぁ…これって…。いや、認めない。認めたくない。
だけど実際アタシは…もう、この時、佳林ちゃんに…。
「――― それは『助けて?』」
そらされたのは瞳。
指先から逃れるように、俯いてうな垂れもして。
その手の短銃さえなければ、…その小さな身体を…抱…いや、なんでもない。
「…ずるいよ、それは…」
弱い抗議は、年相応。
問題の解けなかった小さな女の子の、不満の声。
それがなんとも可愛くて…ぶっと吹き出した。
「んははっ、また来るわ」
「あっ、とも…!」
「なに?」
するりと、佳林ちゃんから離れて扉へと歩き出したアタシの背中に、慌てたように
投げられる呼び声。
くるっと首だけ回して振り返れば、軽く息を吸い込んで…でも音になる前に飲みこんで。
それから…逡巡するように指先をせわしなく結んだり解いたりを繰り返し…、やっと
小さく告げてきたんだ。
「…あり、がとう…、助けてくれて」
おっどろいた。
本当に。
さっきまでの会話を考えれば、こんなアタシにお礼とか、そんなこと言えるわけない。
なのに、佳林ちゃんは言った。ありがとう、と。
「…なーんで、そんなバカ正直なのさ」
「だって…助けて…もらったから。…それにともは…きっと悪い人なんかじゃないから」
「………」
「…とも?」
「今日は……部屋、ちゃんと鍵かけて寝なよ。じゃ」
それだけ言って、礼拝堂を後にする。
これ以上ここにいると、『あてられて』しまいそうだったから。
何かをまだ言いたげだったけど、今日はここまで、ね。
がたん、と。
大きな音を立てて閉まった扉に背をつけて、前髪をため息で揺らす。
あぁ…なんだかたまんないなぁって。
なんでそんなに素直なの?
なんでそんなにすべてを受け入れられるの?
じゃあ、なんで――― アタシを受け入れないの?
もうアタシはあなたが欲しくて仕方ないのに。
気づいてる、もう。
そう…自覚アリアリに。
その血だけじゃない、あなたが欲しいって。
それこそ、白に憧憬を持ってるわけじゃない。
黒に引きずりおろしたいわけでもない。
ただ…、寄り添ってみたい、かも、とか、そういう、さ。
気付けばそんなことばかり考えてた。
ばかばかしい、と心のどこかで嘲る濃い血の騒めきを感じながら。
⑪
貴方が決めればいいのです。
どんなことでも、すべてのことを。
だって時間は刹那なもので。
一瞬後には、予期せぬ未来。
耳に届くは、そんな子守歌。
鈴の音のように凛とした、あの子の子守歌。
だからアタシは――― この時決めた。
誰にもやれない、アタシの未来を。
誰にもやれない、あの子の未来を。
*****
不穏な気配は、夜闇に紛れて色濃く。
静かにアタシは瞼を閉じて影で見つめる。
あの子のまわりを、注意深く。
月の光も届かないこんな夜に、ひたひたと近づく足音は…あの子の眠る石畳の部屋へ
一直線に向かっていく。異様なほど高揚した鼓動と、緊張ではない息の弾むような音を
響かせながら、確実に一歩一歩あの子の元へ。
輪郭をとらえて、溜息が出た。
あの男だ。
あの子の、母親さえも食い散らかしただろう、あの男だ。
このご時世に、完全セキュリティーなんて笑わせる。
どうせ家族だとか色んなごたくを並べて潜り込んだんだろう。
この場所は…来るものを『拒めない』のだから。
やはり仕留めれば良かった。
後悔したところで、きっとアタシはあの時できなかった。
止められた声に、震える指先でむけられたあの弾丸に誰が逆らえる?
あの子の、悲しく苦しみに滲んだ瞳に、誰が?
けれど…二度目はないと、心に刻んだアタシを知らない男の誤算がここに。
あの子は…やらない。
誰にも。
この感情がなんなのか、もう判りかけてる。
執着心。
そんな言葉で言いくるめられないものだってことも。
けれど、向き合うのは今じゃない。…今じゃない。
はっ、はっ、と、佳林ちゃんの部屋の前で、爛々と欲望にたぎるような眼差しを
一度ひそめる男。
また優しい声色で「お父さんだよ」とでも言うつもりなのだろうか?
家族というものに、大きな想いをもったあの子へ。
そんなことは、――― 許さない。
「…なんてにおい。鼻がもげそう」
「…ッ!?」
「二度目まして、かな」
「おま…!」
ふわりと、背後の闇から抜け出るように影を現すアタシに、そいつは大きく目を
見開くように振り返った。くたびれたコートも靴も、そのみすぼらしい外見すべても
…憎い。
あの子に相応しくない。
白のあの子に、まったくね。
だから、もちろん―― 会わせるつもりなんてないんだよ。
すいっと片腕を持ち上げて、恐れ慄き、引きつらせた顔でアタシから遠ざかろうとする
その男に手を伸ばす。
男の血なんて不味くて飲めたもんじゃない。
貰うなら…生気だ。
そう、アタシが欲しい血は、ただひとつだけだし。
けれど男の生気は、その欲望の数だけの容量を持っていて腹の足しぐらいにはなるから。
だから…。
剥き出しになっていく犬歯に、血の色のように濃く滲む瞳に、飢えている自分を自覚する。
だってどれだけ食べてない?
人間の断食だってキツい。
ましてや、アタシは人間じゃない。
好きな時に狩りをして、好きな時に拝借する。
そうやって気が遠くなるほどの年月を生きてきた。
なのにさ、笑っちゃうよね。
このアタシがルールなんてものを守るなんて。
―――― ルール。
あと僅かで、男に触れるだろうところまで近づいて、がちん、と身体が止まった。
ルール。
そうだ、アタシは…ルールを、決めた。
『人を、襲わない』と。
それは…この場合も、アリなんじゃないの?
…妙に冷静に、クリアになった頭の中を整理していく自分がいるのがわかる。
そうなってしまえば、剥きだした感情は一気にかき消え…犬歯も瞳も…解かれる。
別に見ちゃいない。
今のこの瞬間を、あの子は。
だから、ルールなんて守られているかなんてわかんない。
別にいいじゃん。
じゃなきゃ、アタシの命は尽きてしまうかもしれないんだから。
だけど…。
くっと、目を閉じると浮かぶの。
あの子の、弱くも正しさに満ちた目が。
怖いくせに、それでもちゃんとまっすぐアタシを見つめてきたあの目が。
「…アンタ、ほんっとあの子に感謝しなよね」
なんて甘ちゃんだろうアタシは。
だけど、そう思ったところでもう牙はむけない。
ひっ、と怯え、背を反らせる男へ距離を詰め、額に人差し指を突き立てる。
アタシたちが万が一にも姿をとらえられた時のためについた力、催眠。
それを今、男に施す。
忘れろ、出ていけ、と。
意識を弾き飛ばすように、くんっ、と脳に揺さぶりの一撃を加えて。
「っ!?」
「さっさとこの場から立ち去りな」
ぴんと身体を棒のように立たせた男は、瞬きもせず道化のようにアタシの声に
来た道を戻りだす。
アタシの声は絶対だ。
闇に生きてきたんだからね、欲にまみれた人間には、特に。
ふっと顔を上げる。
刹那、酷い眩暈に襲われた。
ぐるんと目の前が回転していくような、立っていられない程の負荷で。
慌てて傾ぐ身体を、石壁に手をついて支える。
次いで、嫌な汗がふつふつと額に浮き立ってくるのを目を閉じて深呼吸でやり過ごす。
やっぱり、アレだね、一ヶ月は長かったかもね。
くつくつと笑いながら、治まりだした感覚に頭を振る。
それから…そっと、体勢を持ち直して、あの子の部屋の扉に手をついてみた。
と。
冷たい木の扉は、アタシの僅かばかりのその押す力に従って開いていくから
驚きつつも、また溜息。
「鍵、かけろっつったじゃん…」
ここはもう、安息地帯じゃない。
次に会った時にはもっと強く言うべきか。
まったく…と、心の中で悪態をつきながら…中に踏み込んだ。
途端にピリピリと肌に軽く針を突き立てるような痛みと、嫌悪感が胸に広がる。
洗礼を受けた場所は、さすがに時代を経ても苦しい、か。
それに…と、ベッドに目を向けて苦笑い。
佳林ちゃんは、その胸元に聖書を抱くようにして眠っていた。
「…どこまで信仰深いのよ…」
あいつは、助けを求めても応えてはくれないってのに…。
「…さん……」
「…?」
か細い声が耳に届いた。
何か、と佳林ちゃんの顔を覗き込んで…息を飲む。
佳林ちゃんは…その瞳から涙を流していた。
溢れた水は、目尻からこめかみを伝い、枕をしととと濡らしている。
幾筋もの跡が…痛々しい。
「…さん…おかあさん…」
お母さん…か。
今度こそはっきり届いた言葉に目を細めた。
まだ子ども。
母親の記憶なんて、もうほとんどないだろうに、その影を追い続けてるのか…。
戻っては来ない背中に絶望しただろうに。
心砕かれて、光りさえ見失ったろうに。
「…アタシはお母さんじゃないっての」
ほだされるわけにはいかない。
アタシはヴァンプで、人間ではないものなのだから。
しかも、今は賭けの真っ只中。
弱った心に寄り添えば、一気に勝機を打ち砕く。
そんなことは判りきっている。
なのに、――― アタシは触れてしまった。
流れ落ちる涙を拭うように…そっと指先で、その頬に。
それから…滑稽とわかりつつも…その頭を撫でるようにくしゃりと…短い髪に。
「…あったかい」
人間の体温は不思議だ。
命を燃やす時に溢れる熱を全身に巡らせて、生を主張するかのように。
触れることにためらいを与えるように。
触れたものに、何かを伝えるように。
と、そこで佳林ちゃんは、苦しげに眉を寄せた。
アタシの手から逃れるように首を振って。
まるで…息苦しさを払うように短く息を吐くようにして。
夢…?
夢にうなされてる?
放っておけば夢は消える。
朝陽が瞼を焦がす頃には、跡形もなく消えてるだろう。
だけど…アタシは…待てなかった。
遠い朝まで苦しむだろう顔に…居たたまれなくなった。
それはすぐ行動に。
すいっと身をかがませて…、額を合わせる。
夢の中に入るのは、過去に触れるのと同じくらい…いや、起こりえない事象に
触れるために…ひどく体力を消耗する。
そんなことはわかってる。
けれど…アタシは迷わず、夢の中へと飛び込んだ。
佳林ちゃんの、夢の中へと。
・
・
・
たったったっ、と小さな子どもの駆ける音がする。
はっはっ、と緊張に息を詰まらせながら。
そうっと閉じていた瞳を開くと…その先には…、目に鮮やかな夕暮れの景色。
これは…この景色は知っている。
アタシは知ってる。
うん、『視た』んだ。だから、知っている。
デパートの屋上。
無機質な動物を象った乗物があちこちにあって…なのに、耳に届いた音は
メリーゴーラウンドの壊れたような古ぼけた音だけで。
それに、乗せられていた…あの子。
あぁ…この記憶は…こんなにもあの子の深い所に根付いて離れないのか…。
毎夜、夢でも、いまだ見ているのかもしれない。
それだけで、ほんの僅か、胸の奥が痛んだ気がした。
と、思った所で、アタシの横を、すり抜けていく影。
目で追って、気づく。
まるで時を遡ったような、アタシが見た過去の記憶と変わらないあの子の…
佳林ちゃんの姿がそこにあった。
あいつへの忠誠を誓うことになる、あの日の記憶のままの…。
必死だった。
短い手足を全力で動かして。
何かから逃げるように、その目に怯えを浮かばせて。
どうしたの?
一体何からあなたは逃げているの?
眉を寄せた刹那、世界が一転。
夕暮れ時の景色は、ガラスが砕けるように大きな音とともに崩れ落ち、一面の闇に。
上も、下も、なにもない、ただの闇。
なのに、あの子は走っていく。
ひらけぬ世界を
終わりのない世界を。
ううん、走ってるんじゃない、――逃げていた。
その唇が象った言葉に、アタシは我が目を疑った。
―――― 主よ…、どうか…。
主、だって?
こんな世界でも、あいつに助けを求めているの?
あぁ…なんてあなたは…、悲しく憐れで……無垢な、子どもなんだろう。
助けなどこない。絶対に。
なのに救いはあると、信じて疑わない。
疑えないのか。
この子は、すべてをあいつで塗りつぶしてしまったから。
刹那。
あの子の背後の闇が、ゆらゆら揺れて人型に変わる。
恐ろしくも辛うじて『人』だと認識できる形に。
アタシより頭一個分高い、その闇は―― なるほど、あの男だった。
追いかけていたのは、あの男だった。
どれほどまでの恐怖を植え付けたんだろう?幼いこの子に。
それだけでも飽き足らず、現実にも、夢にも現れて襲い掛かるとか、なんて執念。
いや、怨念。
思わず、ざわりと全身が総毛立つほどの嫌悪感がこみ上げてくる。
どんだけこの子を苦しめれば気が済むわけ?
この子が一体何をした?
それが運命だとでも?
そんな都合のいい世の中を押しつけないで。
思い通りにいかないのが世の中だなんて、この子につきつけないで。
それを背負うのは…、割り切ったものだけ。
すべてを納得して、受け入れたものだけ。
この子は…まだ走れる。
あがける。
だから――。
ギリっと気付けば鋭く尖っていた犬歯。
感情が抑えきれない。
全身の血が逆流していく。
アタシがアタシでいられない。
獲物を横取りされそう、とか、そんな気持ちだからなんかじゃない。
獲物じゃない…、そう、もう、佳林ちゃんは、獲物なんかじゃない。
アタシの…アタシの求める…。
すっと、一歩前に出た。
くしくもそれは佳林ちゃんと、闇の間に割り入るカタチ。
ううん…あの子の背を…守る形。
「…夢ってのはさ」
闇の咆哮が聞こえる。
どけ、消えろ、そいつは俺の、と獣のような剥きだした欲望を滲ませて。
けれど、一歩も動くことはない。
本当の闇はこんなもんじゃないって知ってるから。
闇は…ただ孤独なだけで、恐怖なんてものは本当はない。
それを知らない佳林ちゃんの闇には、まだ救いはある。あるんだよ。
「理想を現実に出来るものじゃないとだめじゃない?」
ぐっと拳を握りしめるように振り上げて、薙ぎ払うように横へ一閃。
「――!?」
毒には毒を持って制す。闇の者は、闇の者をもって制す。
こんなちっぽけなもの、アタシの前には塵に同じ。
ビュンという音と共に、闇は一瞬で掻き消え…穏やかな夕暮れのデパード屋上に
今一度舞い戻る。
その夢さえも寂しくて…アタシはタクトでも振るかのように、空間を操る。
すいっと筆で絵の具でも塗る様に…錆びれた地面を鮮やかな色へ。
肌寒く突き刺す風だって、ほら、夢の中なら…穏やかな春風のように変えられる。
音の外れたオモチャなんていらないよね。
ほら、どうせなら新品同様のメリーゴーラウンドの馬車をどうぞ?
これが夢。
思い描いたままを、見せてくれる夢。
そうでなきゃ、眠りまで苦しむなんて…佳林ちゃんには似合わなくない?
そうやってすべてを色づかせてから、軽く舌打ちして瞼を閉じた。
この夢は…佳林ちゃんのものだ。
結局は…苦しくても、悲しくても、受け止めるのは佳林ちゃんでなければならない。
なのにアタシは、アタシの夢を押しつけた。
そのことに、今更ながらほんの少しの罪悪感が浮かんで。
けれど…。
「…!」
くん、と。
小さな力がアタシのコートの裾に。
振り返りはしない。
しないけど、そんなことをするのは一人だけ。夢の…主だけだ。
「…あり、がとう」
あぁ…なんて弱くもまっすぐな声。
それが…胸の奥にしみわたる。
感じたこともない、あたたかい気持ちに…息が出来なくなる。
「…佳林ちゃんの、ありがとうって、なんか、いいよね」
気づけば無意識に言葉を落としていた。
――― それが合図だった。
「…とも? もしかして、とも?」
夢が解ける。
目覚めの合図。
いけない、意識を揺さぶり過ぎた。
早く退散だ。
でなけりゃ、ここの閉じ込められてしまう。
アタシみたいな闇が、こんな優しい夢にはとどまれない。
さあ……逃げろ。
すうっと、立ち去る瞬間、あぁ、そういえば…佳林ちゃんは夢の中でさえ言わなかったなと
気づいたっけ。
―――「助けて」と。
・
・
・
熱い…身体が灼ける…苦しい…。
それだけじゃなくて、全身に力が入らない。
夢に深入りしすぎた…。
力の大半を持っていかれた感覚がしてる。
それでもなんとか、ふらつく足元に耐えて、屋敷に戻りキッチンヘ。
あちこちに身体をぶつけながら、荒く息を乱したまま水道に一直線。
カチャカチャと、手に触れたコップを必死で掴み取り、蛇口を回して一気に注ぐ。
そこからはただの獣のように、浴びるように喉を潤した。
口の端どころか、顎をみっともなく濡らして、床さえ汚してしまうけれど知ったこっちゃない。
渇きが…止まらないんだ。
いくら飲んでも、腹にも溜まらない。
灼けつくように全身の体温が昇りきってて止められない。
これはそう…禁断症状。
まるで人間のアル中だね。
欲しくて欲しくてたまらない。
けれど、それは叶わぬ願い。
だから、こうして水を流し込む。
いつまでも、いつまでも。
「ぐっ、はっ、けほっ、けほっ」
「……とも」
捻りっぱなしの水音と、大きな物音に気付いたのか、背後には…いつのまにか
由加ちゃんが立っていた。途端に、冷静さが落ちてきて…崩れ落ちそうな身体に
力を込めて立ち上がる。なんでもないように。
大きなため息に、それは失敗しているのだと気づいたけれど。
「…とも、最近佳林ちゃんにつきっきりだね」
「そりゃ、賭けの相手だし?」
だめだ。
まだ足りない。
すがりつくように、またコップに水を注いで飲み干す。
けどまだだ。
まだ、もっと…もっと。
このままだと、意識を手放した瞬間、誰にでも襲い掛かってしまう。
それだけは避けなきゃ、…そう、賭けが、あるから。
そうやって狂ったように蛇口にすがりつくアタシの横から、伸びた手がそれを制した。
由加ちゃんだ。
痛々しいものでも見るように目を細めて、息をついてる。
きゅっと閉じられた蛇口が静寂を連れてきて、耳が痛むほど。
「…賭け、ルール。…それだけじゃないみたいだけど?」
「…何が言いたいの?」
痛い所をついてくるね、いつも。
けど、教えてはやんない。
賭け以上の意味を見出してしまったアタシの心を、由加ちゃんには。
それは、罵られるからとか、そういうものから逃げる為じゃなくって…お互いのため。
立ち居っちゃいけない禁忌に踏み込もうとしているアタシと、その先に生まれた
由加ちゃん。
ね?どれだけ同じ時を過ごしている同胞でも、触れちゃいけない…触れさせちゃ
いけない領域ってものがあるんだ。
だから、アタシも由加ちゃんも…ギリギリの所で離れる。
お互いから、離れる。
「別に。それより、…食事、本当にしてないんだね」
「…ルールはルール、だからね」
ぐいっと口元を拭って、そばにコップを置く。
これ以上のバカ飲みは、由加ちゃんが許してくれないみたいだし。
「…ゆかの、あげようか?」
「はい?」
「昔はあげてたじゃん、どうしてもダメって時には」
それは…。
ぐっと、唇を噛む。
何度か食事にありつけなかった時、由加ちゃんはアタシにその喉元を差し出してくれた。
半分の純血は、甘さに苦味を含ませていたけれど…アタシの渇きを補うには十分で。
そうやって…二人で生きてきた。
生き、永らえさせてくれた。
人間のように、肉や魚、穀物で生きていける由加ちゃんとは違うアタシを、由加ちゃんが。
一瞬、おさまりかけた喉の渇きが甦る。
けど、大きく首を振って、痛い妄想をかき消した。
それだけは、もうできない。
アタシがアタシでいる為に…もう。
「…やめとく」
わずかにコップに残っていた水を飲みほす。
マヌケっぽいけど、口内にたまった唾を悟られず落としたくて。
「どっかで佳林ちゃんにチクられても困るし」
そんなことは絶対しないだろうことはわかっていた。
フェアであるべきと考える由加ちゃんでも。
「…残念」
くすくす笑っておどけるけれど、その目は寂しそうに揺れてる。
けど、気づかないふりをした。
それが…礼儀ってやつでしょ?
「まぁ、干からびないようにね」
言いながら、由加ちゃんは締まりきっていなかった蛇口をひねって水を止める。
そうして…落ちた水滴を見つめて…言葉を続けたんだ。
胸に刺さるような一言を。
「それと、――― …消えないようにね」
か細い声だった。
孤独に怯えるのは…人間だけじゃない。
きっと誰しも、多かれ少なかれ孤独と付き合う。
けれど、避けられるなら避けたいと思うのも…皆一緒。そう、みんな。
「アタシがいなくなると寂しい?」
精一杯の軽口。
きっと由加ちゃんも気づいた。
だから、ふむ、と少しおどけたように返してくれたんだ。
空気を、変えるように。
「寂しいっていうより、面倒に巻き込まれたくない」
「由加ちゃんらしい」
「最近のともを見てると、ね。佳林ちゃんに引きずられて命を落としそう」
「まさか。アタシ、ヴァンプだよ?」
「そうだけど」
ブラックジョークを受け流す。
これ以上はだんだん腹の探り合いになる。
そういう時は、逃げるが勝ち。
かたん、と。
今度こそコップを置いて、アタシはこの場を退散する。
「ま、あと一週間だし?負けても別の場所に行くだけだよ」
「…引っ越しの準備しとく」
「おいおい、ちょっとさぁ負ける前提で話しないでくれる?」
「だってとも、勝つ気なさげだもん」
「言うねぇ」
ここまでだね。
もう、言えることはなにもないから。
きっと、由加ちゃんもアタシから聞きだせることはないよ?
そうやって苦笑いひとつだけ零して、朝陽の気配にアタシは寝室へと逃げ帰ったっけ。
「……とも、本当に、勝つ気…なさそうだもん…」
その由加ちゃんの呟きは、残念だけど、アタシの耳に届くことはなかった。
⑫-LAST-
時の鐘が、高らかに鳴る。
審判の刻を知らせるように、歌うように。
――― 新しい世界を祝福するように。
*****
夜空の向こうの朝の気配に、私は静かに一度息を吐き、教会をあとにする。
向かう先は、この地域の方達にも開放されている小さな図書館。
同じ敷地内に、知識を養うためにと建てられている場所で、私のような者でも
こうしてたくさんの先人の教えに触れることが出来るんだ。
ただ…私のような見習いが時間をゆうに費やすことができるわけもなく、
こうして、まだ陽の昇るには遠い時間に、こっそりと鍵を借りては勉学に勤しむ。
「失礼します…」
シン、と静まりかえった館内は、それほど広いわけでもなく、こじんまりとした場所で。
それでも所狭しと並んだ棚は、知識を求める者の探求心をくすぐる。
私の…好奇心をくすぐる。
ほら、ちょっと湿ったような紙の匂いも、今は心を落ち着かせてくれるから。
「えっと…」
入室と返却を記して、目当ての本棚へ。
それから…新しい一冊を探していく。
向かった先は…歴史、世界史。
私の、私だけのこの小さな世界の中で、それ当然とばかりに暮らしてきたけれど、
転機は突然にやってきて…もう止められない。
知りたいと思う気持ちを止められない。
私の知らない「何か」を探して掴みたいと思う気持ちを…抑えられなくなったの。
そう、漆黒の、あの人に…ともに、捕まってから。
だからこの場所で、知識を…掘っていく。
……最初は、なんて身勝手な人なんだろうって思った。
自分のために、私を振り回す、なんて非常識なって。
賭けとか、血が欲しいとか、あんなにも私を痛めつけただけでは物足りずに、
もっともっと、なんて。
ひどい人。
そう思ってた。
だけど…。
知れば知るほど…ともは、ひどい人、だけじゃなくって…とても孤独な人で。
ううん、それだけじゃない。
由加ちゃんも、言ってた…、人間に、寄り添うような…近しい、人で。
不思議な…人で…。
だから、知りたくなった。
とものことを。
ともの、生きてきた道を。
そうして今…、歴史をたどる。
ともの、足跡を探す。
なんでこんなに気になるんだろうって、不思議に思う。
もう約束の日は3日後に迫っているのに。
何もしなければ、言わなければ、静かに過ぎ去る時。
そうして、さよならをして、私は私の生活を。
それってとても平和なことだと思う。
私の心にも平穏が訪れ、主に仕える日々をもう一度手繰り寄せて奉仕の日々。
確かにそれで良いと、その方が良いとそう思うのに…――― ざわめくの、胸が。
それはきっと…数日前、部屋に残っていたともの匂いのせい。
誰一人として部屋に入れたことはなかったのに…眠りから目覚めた時、
…微かにともの匂いがしたんだ。
それと同時に…鼻につくような…タバコとお酒のものも混じっていた。
私はそんなに頭のいい方じゃない。
だけど…そう、容易に想像がついたんだ。
きっと…とも、が、私を助けてくれたんだって。
…今でも鮮明に残っている夢の残像。
追いかけられていた…。
影に。
大きく恐ろしい影に。
捕まってしまえば、闇の中へと飲みこまれてしまう。食われてしまう。
恐怖にもがいて、ただ逃げるしかなかった。じりじりと迫るその影から。
だけど…それをかき消してくれた人がいたんだ。
振り返って見つけたのは、迫る影と同じくらい黒い人だったけれど、
影とはぜんぜん違う…優しさが見えた背中で。
その背中が言ったんだ。
…私の『ありがとう』が、いいと。
その声は…甘く深い、特徴的な声で…。
ともの…声で。
だから、確信してた。
ともは、部屋にいた。
私の部屋に…夢の中に、いた、と。
そして…夢は夢じゃなくって…、本当に私を…助けてくれたって。
「…とも」
すっと指先で、童話・吸血鬼の本の背面部分をなぞる。
何冊か読んだ吸血鬼のお話は、身勝手で傲慢で、気高くこの世を見下すものばかり
だった。それが吸血鬼だと、声を揃えたように謳い。
だけど…それだけじゃないって私はもう知ってる。
だから…そう、疑問はまた広がったんだ。
どうして?どうして、と。
だってともは…賭けだと言ってちゃんとルールを守ってくれている。
人を、あの男の人を襲いかけたのも…私のためで。
ねぇ、それは…どうして?
血が、欲しいから?
本当に?
……ううん、そんなことを考えてしまう私が、どうしちゃったんだろう?
ふるふると頭を振って戒めるけど、思考の糸は どんどん絡まって解けなくなってる。
主に仕える者が…とものような存在を気に留めるなんて…。
けど…ともは…助けてくれた。
一度だけじゃない、きっと…夢のように、知らない所でも。
それは…どうして?
あぁ…どうしよう…最近の私は、ずっととものことばかり。
とものことを知りたくなって。ともに、佳林の事を知ってほしくなって…。
はぁ、と一度大きく息を零して本棚に寄りかかるように額をこつんとぶつけた。
どうしよう…このままじゃ、私は、ともにいつか…差し出しちゃうかもしれない。
だって、とも、どんどん痩せてきてる。
コートの下に隠した身体のカタチはわからない。
だけど、そんなの簡単にわかるもん。
うっすらと浮き立つ頬の尖った輪郭。
赤みの差していた肌は、今はただただ白くて。
強い言葉で隠してるけど、その目がふっと時々、中空をさ迷うのも知ってる。
それって…ちゃんと約束を守って…『食事』をしていないってことで…。
もう…何日も何日も…。
約束の一ヶ月はもうすぐそこで、きっとその日までともは…――― 人を食べたりしない。
だとしたら、私が助けてと言わない限り…ともは…このまま…?
もしかして…―――消えて、しまう?
そんなの…そんなのはだめ。
だけど、私は主に仕える身で…。
あぁ…どうしたら…。
ぐるぐるしていく思考の迷路に囚われてしまう。
――― その一瞬の隙が…すべてだった。
「―――ッ!?」
「静かにしろよ…?」
ぐぅっと、突然背後から身体を密着させられて抑え込まれる口元。
太く浅黒い腕が、締め上げるように私の喉元を固めて、息さえままならない。
その瞬間、鼻を掠めたのは、あのタバコの臭い。
吐き気がするほどの。
苦しさにもがきながら、必死に目を向けて…あぁ、やっぱり、と心の中で唇を噛む。
私を捕えたのは、ともではなくて、――― あの男だった。
やめてください、という声は届かない。
本棚へと頭を押さえつけるように背後を取られていて、腕一本さえ動かない。
成人した男の人を押し返すなんて、こんな小さな私にはどうやったって無理な話で。
塞がれた口と、締め上げられた咽喉から、音にならないくぐもった声を絞り出すしか
できない。
「タイミングよかったなぁ、ひとりだし?」
「…ッ! …!!」
「大丈夫だって。怖いのは最初だけだからさぁ。にしても、ちっちぇーなぁ」
「…ッ!?」
無遠慮に衣服の上から胸元を掴まれて、恐怖に身がすくむ。
なんとかしなきゃと もがきたいのに、ガタガタと足元が震えだしてもう動けない。
どうしていいのかもわからず、ただピンと張った緊張のままがちんと身体が固まる。
「なんだこれ?うわ、拳銃か?お前、おっそろしい」
「っ!!」
面白おかしく衣服の中をまさぐられて、ずっと肌身離さず持っていたものさえ
奪われる。
それを見て…あの存在を思い出す。
賭けを…思い出す。
――― 助けて、と。
反射的に頭に浮かんだ言葉。
そして…あのふわりと風になびいた栗色の髪と、漆黒で繊細な背中。
きっとここでただ一言いえば…彼女は…ともは来てくれる。
助けてくれる。
だけど、けど…あぁ…だって…。
こんな姿見られたくない。
そう思ってる自分もいるんだ。
弱く情けない、何もできない人間、…しかも…こんな…押さえつけられて。
そんな所見られ、たくない。
賭けに負けるとか、そんなことより、こんな恥ずかしい所見られたくないんだ。
ともには。
だけど…こんな、こんなかたちで…私は…。
かたくかたく瞼を閉じる。
じんわり浮かんだ涙は、目尻からすいと落ちようとする。
その瞬間だった。
「―――― 意地っ張り」
……あぁ、この声。
鼓膜を震わせた闇に溶ける甘さを滲ませた声に、私は悔しいけど安堵した。
そんなこと、しちゃいけないのに…確かに私はほっとしたんだ。
来て、くれたんだ、って。
「懲りないね、アンタ」
「っ!?」
強く男の人ごと後ろに引っ張られる感覚。
一瞬私を巻きこんで傾ぐ身体だけど、すぐさま背から引き剥がされた男の人は、
驚くほどに簡単に、ともに襟元を引っ張られて、ぐぅんと窓際まで投げ飛ばされた。
大の大人が、たった一人の人の力で、いとも簡単に。
ううん、違う、これが吸血鬼の力。
人でない者の力。
…ともの、力。
ふらりと反動で私の身体も床に落ちそうになる。
それを腰をかかえるように抱き留めてくれたのも、ともだった。
「この子、アタシのなの。やめてくんない?」
いつもは気怠げな目が、今は鋭く男へと向けられている。
こんなに剥き出しに怒りを表しているともは、初めて見るかもしれない。
苛立ち、嫌悪、…ほんのちょっとの危険な感情、そういうのが全部そこにあったんだ。
けど、そんなともを見ながら…私は…かりんは、一気に不安が広がった。
だってほら…触れて気づく、やっぱり線の細くなったともの身体。
もっと…ふっくらしていた頬も今はもう見る影もない。
余裕綽々だった笑みも、もうそこにはなくって、ただただ恐ろしいばかりの執着がそこに。
アタシのだ、と、ともは言った。
それは…賭けがあるから?
そんなに…純血が大事?
生きていくために?
自分の欲求を満たすだけのための、かりんが必要?
…違う。
きっと違う。
ともは…血が欲しいんじゃないって。
だって…本当に欲しいなら…もうかりんは、貯蔵してるすべての血液を奪われてる。
こんなにも心乱されるほどに渇望しているんだから、どこかで人に襲い掛かってても
当然なのに。
だけどそれをしない。
賭け、なんて、もう言い訳。
人の心に寄り添うことが多いかりんには、もう判ってる。
ともが欲しいのは…血じゃない。
そうじゃない。
自惚れなんかじゃない。
焦がれたのは…ともが欲しいと願ったのは…
「この…化け物ふぜいが…!」
かっとした。
窓際で、したたかにぶつけた頭を撫でながら毒つく男の人に。
感情が、一気に爆発する。
思考が焼き切れそうなぐらい。
そう、かりんは…初めてこの時『怒り』を覚えたんだ。
この、何も知らない身勝手な人に。
「ともは…!」
「…佳林、ちゃん?」
「ともは…、ともです!!化け物なんかじゃない!!」
すぐそばで息を飲む気配。
一度ふっと抜けるかりんを支えていた手の力。
だけど…もう一度支えるように入った力は体温なんてないはずなのに…温かかった。
ともの…手は、温かかった。
「なんだそれ…。あーもーいいわ。お前、いらない」
「っ!」
忘れていた。
そうだった。
男の人は、かりんから、あるものを奪ってた。
護身用にと、由加ちゃんから渡されていた、あの―― 短銃を。
びっくりするぐらい自然に銃口が向けられたから、動けなかった。
逃げることもできない。
ただ、じっと丸い穴が覗くそれをまっすぐ見るしか。
躊躇いなんてない。
それ当然とばかりに、指がかかって、照準をかりんに。
あぁ、撃たれる。
察知した瞬間。
パン、という軽く乾いた音と一緒に、大きな衝撃。
撃た…れた…?
思ったのは一瞬。
けど、痛みなんてどこにもない。
どこにもなかったけど――― 目の前には黒い影が広がってて。
ううん、違う。
影は覆いかぶさっていた。
かりんを、かき抱くみたいに。守る…みたいに。
そんなの…誰かなんて確かめなくてもわかる。
「とも…!!」
「…ぐぅ…、さすが銀の弾丸…威力抜群じゃん…。恨むよ由加ちゃん…」
軽口は、弱く。
きゅっと背に手を回して、どろりとした感触にハっとした。
そうっと手を持ち上げて確かめて…ひっと咽喉が鳴る。
だって…かりんの手を染めていたのは、真紅の血。
とめどなく溢れる、ともの、血だったから。
「やだ、とも…!」
「ちょっと…離れてな」
慌てて何かで止血を、とヴェールを脱いで傷口に押しつけようとするけれど、
それを制したのはともだった。
びっしょりと額から汗を玉のように浮かせて、ふらふらとかりんから離れ。
窓際の男に振り返って一度大きく深呼吸。
ただそれだけなのに、弾丸の喰い込んだ肩から、どっと血が流れ出た。
ぼたぼたと床を穢すだけじゃ飽き足らず、どんどんと足元に血だまりを作ってる。
だめだよ…だめ…、このままじゃ…。
ただでさえ、ともは…血が足りてない…なのに…。
じわっと視界が滲む。
やめてと声を出したいのに、すっくと立った背中がそれさえも制しているみたいで
なんにも言えない。見守るしかできない。
「く、来るなよぉ…」
カチン、カチン、と無様にも もう弾のない拳銃にすがる男の人。
それを鼻を鳴らすようにして見つめて、一歩、一歩ともは歩み寄っていった。
「アタシのものは…、佳林ちゃんは…佳林ちゃんの心は、アンタにだけは渡さない」
とつ、と。一歩進めば赤い点が落ちていく。
傷口を押さえることもしない、ともの足元に、まるで存在を刻むように。
「居ない子にされた佳林ちゃんの気持ち、アンタにはわかんないでしょう?」
耳に届いた言葉に…目を見開いた。
待って…、どうしてそんなこと、言うの?
「人間らしくってのを失くした子の気持ち、アンタには一生わかんないでしょう?」
とも…? どうして?
どうしてそんな…かりんのことばかり…。
ともが…傷つけられたんだよ?
なのに、どうして、そんな…かりんのことなんか…。
視界は涙で揺れていく。
口元を慌てて押さえるけど、喉の奥からこみあげてくる、ひくという音が止められない。
押さえた手が、ともの血で濡れているなんて気にもならない。
そんなことより、目の前のともが…――― 優しすぎたから。
なんで…?
もっと、吸血鬼は傲慢で…気高くて…。
そういう生き物なんでしょ?
なのに、なんで…
「誰かの中にいる自分を生きる意味にしてしまった憐れな子の気持ち、
アンタには、一生わかんないでしょう!?」
――― こんなに、かりんを想ってくれてるの?
「ひッ」
恐れをなした男の人は、すがりつくように背後の窓に背を打ちつけた。
その瞬間、かりんは…あっ!と目を細める。
それはすぐに、声に。
「とも…!!下がって!!」
「…!」
声は届いた。
けど、…ともは下がらない。
かりんの言葉の意味も理解したはずなのに、下がらなかった。
遠いと思っていた朝の気配。
それはもう、時の流れに消え行って。
静かに…眩い光を――― この図書館へと招き入れ始めたんだ。
煌々と。
朝陽が昇る。
瞼を焦がすほどの、輝く光を床一面に広がらせて。
心満ちるような心地よい太陽。
けれど、ともには…―――― 毒された、光線。
じゅ、と。
何かが焦げる匂いが鼻についた。
まさかと思って、ともの背中を見つめれば身体中から立ち込めていく煙。
ともを、焼き尽くさんとしていく太陽に、抗うような意思を含んだ煙。
それだけじゃない。
足元にあれだけあった血だまりが、どんどん跡形もなく蒸発していく。
何もなかったように、ともなんて、そこにいなかったように。
かりんの手も、浄化するように。
だめ…だめだよ…!とも、そのままじゃ!
わっと口を開きかけたその時。
ともは、顔を覆うように腕で隠しながら、ぐぅっと丸めた背をそのままに…
男の人に飛びついた。
「ぐっ!はな、せっ!」
「ここで…アタシが、朽ちても…アンタだけは…!アンタ、だけは…!」
その手で掴みかかったのは喉元。
刹那、男の人に異変が起こった。
瑞々しさもあったはずの肌に、一気に広がる皺。
黒髪は、白髪へ。
そして…声は…しゃがれ…。
そう、男の人は…生気をすべて、ともに奪われて…その場へ、くずおれたんだ。
どすん、と。
背中から倒れた男の人の重さに一度大きく弾む床。
同時に、ふらりと身体を揺らして近くの本棚に肩を押しつけてずるずる倒れていく、とも。
「とも…!! とも…っ、とも!!」
たまらず駆け寄って身体を引き寄せたまま、影になっている場所に一緒に転がる。
「あぁぁ…っ、なんでっ、なんでこんな…っ、止まらない…止まらないよぉ…っ」
陽は避けた。
なのに…ともの全身から立ち込める煙は止まらない。
それどころか、さらさらと…粉のような白いものを足元にどんどん落としていってる。
これは…灰?
そんな…じゃあ、ともは…っ。
「あー…賭けは、佳林ちゃんの勝ち、だねぇ」
「え…っ」
「アタシ、あいつの生気食べちゃった。たらふくさ…。もうアイツ、生きてるけど動けない」
力なく笑いながら、男の人をちらりと見たともは…賭けに負けたというのに…
まったく悔しそうにも見えなくて…見えなくて……胸が締め付けられる。
だって…、動けなくしたのは…、もう二度と…かりんに近づけないように、
そうやってしてくれたからなんでしょう?助けて、くれたからでしょう?
こんな、目に、遭ってまで。
「…ってなわけで、これでサヨナラだ」
「やだ…やだ、待って、こんなのやだよ…ダメだよ…っ」
嗚咽が零れる。涙は頬に溢れてく。
朝陽が、じんわりまた足元に迫ってきて、必死でともの身体を影にひっぱってくけど
もういいんだ、と、やんわり首を振られる。
なんで…!なんでっ!
だってこのままじゃ、本当に…!!
「あのさ…、最後だから…言わせて?ヴァンプが何言うんだーってことだけど…」
「最後とかそんな!」
わっと言いかける かりんを、いいから、と目だけで止めるとも。
「……生きる意味なんて探してもみつかんないよ。生きてくことに理由はないから。
そんなものを探すぐらいなら…『生きがい』を見つけなさい」
「生きがい…?」
あぁ、それはいつか話した言葉。
ともが怒ったみたいに…かりんに一度放った言葉。
誰かに必要とされることを望んだかりんを、ともは違うとNOを突き付けた。
その時はくれなかった答えを…今。
最後だからと…最期だからと…。
「そ。…アタシが最後の最後にこうして佳林ちゃんといる自分に見つけたみたいに」
「かりんと、一緒にいることが…生きがい…?ともの…?」
「だったみたい。アタシが、一緒にいたいと思った。あなたの中にアタシがいなくても」
あぁ、やっぱり。
ともは…純血なんて、かりんの血なんて、もういらなかった。
ただ…ただそばにいたいと願って…ずっと…近くにいてくれた。
確かに始まりは賭けだった。
だけど…賭けなんてもうどうでもよくって…。
ただかりんの為にって、側にいてくれてた。
それが…生きがいなんだって…、大切に…守って…くれてた。
かりんの間違った答えに、ずっと正しい答えを…差し出してくれてたんだ。
今頃…気づくなんて。
気づいて…しまうなんて。
「それが…アタシの生きがい。あー…だめだ。ここまでか」
声にハっとしてともの全身を見つめれば、まるで乾いた土のように、皮膚の表面に
裂け目が現れ始める。
衣服の裾から、焦げた匂いと一緒に…形を失くした身体が灰になって落ちて…。
その頬も、さらさらと粉を吹いて煙に巻きあげられて…。
「やだ…とも…!しっかり…!しっかりしてよぉっ」
「…いいんだよ。アタシは、永く…生きすぎた」
「待って…っ、待って!ともっ、行かないで…!」
どんどん重みが無くなっていく身体を止めたくて、ともを捕まえる。
だけど、そんなかりんに…、ともは、ははっと力なく笑って。
あの…特徴的な笑みで、笑って。
そろりと…崩れていく指先で、頬に触れてきたんだ。
最後の…力を振り絞るように。
「バイバイ、しすたー佳林」
――― 瞬間。
眩い朝陽が降り注いだと同時に…粉塵を巻きあげて、――― ともは、消えた。
一陣の風が、かりんを包み…、その腕に…衣服と灰だけを残して…かき消えた。
「…うそ、だよね…? とも?」
室内に響くのは、かりんだけの声。
それから、冬の寒さを連れた風が、窓を揺らす音だけ。
「うそ、でしょ? ねぇ…ともぉ…」
ぎゅう、と、固く衣服を握りしめるけれど…さらさらとその隙間から落ちていく灰が
返事なんてしてくれるはずもなくって…。
初めて…かりんは、本当に失ったものの大きさに気づく。
ともの、存在の大きさに、気づいたんだ。
「やだ…やだよぉ…なんで…どうして?かりんが欲しいんじゃなかったのぉ?」
出逢いは信じられないものだった。
今思い出しても、鳥肌が立つほど…恐ろしく、痛みの記憶しか残ってない。
残された傷痕に、どれだけ嫌悪したかもしれないほどだった。
なのに…。
賭けだと、約束を取り交わして…。
まさかそんな人外の者が…って、疑ったのに…ともは、ちゃんと約束を守っていた。
ううん、守るだけじゃなくって…かりんを知ろうとしてくれた。
寄り添って、時々反発して、理解できない人間の姿に首を傾げ、だけど、考えて…
そして…人間以上の人間さを、かりんにくれた。
そんな人が…、どうして。
嫌だ…嫌だ嫌だ嫌だ…。
「やだ…やだよ…!やだ!とも…!戻ってきてよぉッ!」
わぁっと、天を仰いでみっともなく泣きじゃくる。
子どものように、隠しもせず、わあわあと。
お母さんにもできなかったことを、ともに。
ともだから。
かりんを生きがいだと言ってくれた、ともだから。
「―――っ!――っ!!」
ただがむしゃらに泣いた。
だってこんな現実、悲しすぎる。
「…よ…っ、主よ…!どうか…っ!」
主よ…神よ…っ、神様、どうかお願い、します。
お願い…。
私の大切な人を、どうか返して。
あなたのもとへ行けない ともを。
孤独の闇に還っていくともを。
堕ちるだけなら…だったら、私に。
もう、これより先、生きる意味なんて求めません。
なにも、いりません。
この身すべてを焼き払われても、なにをされてもいい。
命が欲しいというのなら、すべて差し出してもかまわない。
だから、どうか…どうかこの人だけでいい、私に…かりんにください。
愛を…ひたすらに、愛を注ぎ続けますから。
だから…ともを…かりんにください…お願い……お願い……。
「おねがい…、おねがい…っ」
強く強く、ともの衣服をかき抱く。
ぼろぼろとその上に、涙を落としながら。
弾くように…落とし、ながら。
――― 刹那。
竜巻。
視界を遮るほどの鋭い風が、そう、竜巻のように巻き上がった。
腕の中から。
あまりのことに息もできず目を背けて、ばたばたと本棚から落ちた何冊かの本が
踊るようにページをはためかせているのを見つめる。
だけど、それよりも感じたのは違和感。
ずっしりとした…重み。
粉っぽい感触はどこにもなくって…腕に触れたのは…絹のような手触り。
ふんわり鼻をくすぐったのは…かりんの好きな…涼しさを滲ませたあの匂い。
…ともの、匂い。
――っ、ともの、匂いっ!
ばっと腕の中に目を向ける。
そして…息を飲んだ。
それは…その人も。
腕の中で、衣服の下に…現れた、その人も。
さらりとした栗色の髪が朝陽に輝いて、ちょっと金色に眩しく映る。
ふっくらした唇に、強い色を滲ませた瞳。
成熟した女性の曲線と、筋肉質な輪郭。
そして…この唇から響く、甘い、声。
「…嘘でしょ?ホントに?」
「とも…?とも、なの?」
掠れる声。
涙はぴたりと止まって、ただただその姿を見つめてしまう。
その視線に気づいたともは、何度か自分の身体を見回して手を握ったり開いたりして
感触を確かめてる。自分が自分なのか…確かめてる。
それで納得したのか…どうしようもなく情けない笑みを浮かべて、かりんをくすぐった
そうに見つめてきたんだ。
「…みたい」
「なんで…どうして…」
そこまで言って、はっと思いだす。
吸血鬼という人達の逸話を。
文献でも読んだ。
そんな人、いやしないと思っていたから忘れていたけれど。
今、目の前で現実に起こったことだから…信じられる。
そう…―― ヴァンプは心から涙してくれた者の涙を浴びて人としてよみがえる、と。
「なんだ、アタシの事、結構勉強してたんだ?」
「し、主の教えで」
「またあいつ?」
「とも…、大いなる…父だよ?」
肩をすくめながら、かりんの顔を見つめてくつくつ笑いながら身を起こすともは、
くるりとコートを身体に巻き付けて、ほう、と一度長く息をついた。
その姿に目を細める。
奇跡、としか思えないから。
だって…こんな…誰が想像した?
ともが…、人間としてかりんの前に、なんて。
だから…気づいたら問いかけてたんだ。
「ともは…主を信じる?」
「信じるわけないじゃん」
んはっ、と吹きだして茶目っ気たっぷりに告げるのはともらしい。
冗談でしょ?なんて、ちょっとした嫌悪だった隠さないし。
むってしてしまいそうになる。
だって…教えがあって、今…ここにっ。
わっと口を開きかけるけど、それを遮って言葉をつづけたのはとも。
「あいつは信じない。だけど…佳林ちゃんは、信じてやってもいいよ?」
それは…暗に、心から存在を願ったかりんだから、と言っているようで…。
ちらりと交差した眼差しが…本当に優しいもので…。
うっ、と喉の奥で唸っちゃう。
自然と赤らんでく頬が恥ずかしい。
「…天邪鬼」
「残念、もうアタシ鬼じゃない。…だから血もいらない」
そう、だね。
もう、ともは…吸血鬼じゃない。
永遠に続く命だってなくって、かりんの血を求めることだってない。
それはとてもいいことで、いいこと、なのに、もういらないよ、って言われたみたいで。
かりんは、もういらないよって…言われたみたいで。
「…かわりにってわけじゃないけど」
「?」
「佳林ちゃんが欲しい、かな」
「…っ。ちょ、調子に乗らないで」
本当に困る。
どうしてこうも、ともはかりんの心を読んじゃうんだろう?
どうして…こんなに嬉しい気持ちにしちゃうんだろう?
「じゃあ、賭けしようよ?」
「え?」
「佳林ちゃんがアタシを好きになったら負け」
直接的な言葉に、心臓が一度大きく音を立てた。
好きに、なったら。
それは…なんて色づいた心。
誰かだけのものになるなんて許されないかりんを、ぐらぐらと揺らしてくる心。
主は言いました。
すべてを与えよ、と。
貞淑であれ、顕著であれ、貧困であれ、と。
きっとともの賭けは、そのすべてを突きくずしてしまうもの。
だけど…。
だけど、かりんは…思ったんだ。
すべてを与えよ、と。
それは…自分に正直であれ、と。
そういう言葉だってあるんじゃないかなって。
本当の正しさなんて、自分自身が決めるものだと思ったから。
人の数だけある正しさ。
かりんの正しさは、かりんが決める。
ともが…ともの性格がうつっちゃったのかなぁ…。
だけど…それでいいと思ったから。
「じゃあ…ともが佳林を」
「それはだめ」
「え?」
どうして?
心の決心をつけて、今、ともに向かおうとしたのに?
傷ついた顔でもしてしまったのかな?
あぁ、違う違うと、ともはからからっと笑って。
「最初から負けちゃってんだから」
あぁ、もう…ともってほんと…。
「…ずるい」
「なんとでも?期限は…アタシの命が尽きるまで、かなー」
「長いよ」
「そんだけ欲しいものなの。一生かけてもね」
自信満々な顔。
なのに、ほんのちょっとだけ頼りなく見えるのは…ともが人間だから?
それとも…かりんの心は降りてこないと…思っているから?
あぁ…やっぱり生まれたてのともは、わかってないんだなぁ。
見てきたはずのかりんのことを。
ううん、違うね。
人間だからわからない。
人に人の心は、覗けない。
だから、言葉を届けて、心通わせて、感情でぶつかり合って…気持ちを溶かして。
そうやって一緒に…生きていく。
その一歩を踏み出したばかりなんだから、わからなくて当然。
だったらかりんが…教えてあげなきゃ。
心を…寄り添わせなきゃ。
「そんなことしなくてもいいんだよ?」
「え?」
「そんなこと、しなくても、かりんは…」
そっと、床に手をついて、ともとの距離を縮める。
長い睫毛のともは、びっくりしたみたいに目を丸くしたけど。
ちゃんと届ける。
かりんの心。
ちょんっと鼻先がぶつかって、それでも離れたくなくて角度を変え…
ともの息を一瞬捕まえるように、唇を重ねた。
「…いいの?主はどうしたの?」
「主も、お許しくださるよ」
すぐそこにいるともに…もう一度塞ぐように唇を押しつける。
「愛することは…誰にでも平等に起こせる奇跡の一つだから」
「…そう」
嬉しそうに、にぃっと笑ったともは…最後の距離を崩すように…かりんの背を引き寄せ
なんどもぬくもりをくれたっけ。
かりんの知らない時間を生きてきたあなた。
きっと、星の名前も、国の名前も、知り合った人でさえかりんは知らない。
けれど、これからは一緒。同じ形、同じ体温、同じ…心音で。
とても怖くても大丈夫、かりんはもう恐れない。
だから、あなたも…生きて…死ぬことを恐れないで。
信じること、夢見ること、哀しむことも、その先の喜びも…そして、
愛することを―― かりんはもう恐れないから。
そうやって、…ひとつだけの命を見つめていくから。
・
・
・
昨日は去り、明日はまだ来ない。
かりんたちにはただ、今日があるのみ。
さあ、始めよう。
生きがいをくれたあなたの為に、今日という日を始めよう。
こんなにも―― 朝陽って、気持ち良かったんだね。
そう言ったあなたの笑顔は、きっと忘れないと思う。
人間としてのあなたの…最初の笑顔、だったから。
END