【はじめに〜なつぞらまでのお話〜】
2018年,『半分、青い。』の感想タグでは大戦争が起こりました。
「面白くなかった」という感想を吊るし上げして反論する,脚本家の北川悦吏子さん。
『半分、青い。』が好きな人と『半分、青い。』を嫌いな人の間で起こるクソリプ合戦,罵倒ブログ合戦。
古参の朝ドラファンの皆様は考えました。
「これから,朝ドラが面白くなかった時は,公式タグではなく,別のタグを立てて発言しよう。私たちは居酒屋でクダを巻きたい面倒な朝ドラファンだ。自覚はある。楽しんでいる人と,クダを巻きたい人が,お互いの視界に入らないように,離れて生きれば戦争は起こらない。自らを隔離しよう」
2019年,
NHK東京放送局(略称AK)が自信を持って送る,朝ドラ100作目記念作品『なつぞら』。
今度こそ戦争は起こらないと,誰もが思っていたし,願っていました。
ばっちり戦争が起きてるやん……。
9月に入ると毎日のように「日本のトレンド」に入る「アンチ」タグ。
「アンチ」タグに主演の広瀬すずさんが貶められたとお怒りになる,広瀬さんファンのみなさま。
100作目記念朝ドラなのにイマイチ盛り上がらず,「日本のトレンド」に入れない公式タグ「#なつぞら」。
それどころか,公式タグ(又の名を本タグ)でも賛否両論。
なんでこんなことになっちゃったんだよおおおお!?
というわけで,
『なつぞら』がどういう物語だったか,何が起きていたのかをここに分析し,まとめておきたいと思います。
結論から言うと
「擁護」と呼ばれた人たちも,「アンチ」と呼ばれた人たちも,誰も間違っていませんでした!
少なくとも私はそう思っています。
ちなみに,
広瀬すずさん本人の人格や演技への好き嫌いとは全く関係ありません。
問題があるのは『なつぞら』という話の構造であり,
「なつ」という架空の人物の描かれ方です。
(広瀬さんの演技が上手か下手かという議論はここでは行いません)
問.なんでみんな,「なつが好きか嫌いか」で大騒ぎしてたの?
どこのタグでも多く見られたのが,「なつが嫌い」という意見です。
それに対して「広瀬すずさんは頑張ってるんだから,なつへの批判を言うな!」という反論もありました。
でも,その意見は,なつと広瀬さんを混同しすぎです。
『なつぞら』が始まった時は
「広瀬さん,人気の女優さんなのねー。綺麗なお顔立ちよねー。好きでも嫌いでもないけど」
ぐらいの認識のかたが大多数だったのではないでしょうか?
朝ドラの主演俳優さんがどれほど大変な量の仕事を引き受けなければならないか,どれだけ頑張っているかは,朝ドラファンならば誰でも知っています。
そうです,そもそもは
「広瀬さんが嫌い」ではなく,「なつが嫌い」から始まったんです。
まずそこから考えましょう。
そもそもなぜ,「主人公が好きか嫌いか」にこれほど焦点が当たる作品だったのか。
そして,「なつが嫌い」が行き過ぎて「広瀬さんまで嫌いになる」という人が出てしまったのは何故なのか。
(1)「なつが愛されていること」をまず受け容れることが必須の物語
私は,「なつを好きになれるかどうか」がこの物語の大きな論点となってしまったことは,自然なことであったと考えます。
なぜなら,この物語の構造自体が,そこへ収束するように作られているからです。
通常,「朝の連続テレビ小説」は下記のような構造で描かれています。
(時間なくて手書きでごめんなさい…)
「主人公が何を大切にして生きたか」を描くことが大テーマとなり,「女性の生き方」「仕事観」「恋愛模様」「家事育児」などの小テーマが各エピソードを複雑に絡むようにして描かれます。
つまり,
「A.なぜ物語がそのように展開するのか」の根拠が,全て
「B.主人公がC.何を大切にして生きたか」に貫かれているのです。
例えば,
A.佐賀でいじめられ続ける苦労よりも,新天地で一からやり直す苦労を選ぶのは,
B.おしんが,
C.自立して自由に生きることをずっと願ってるからなんだなあ
とか
A.お金がなくても家の中が大荒れでも,一緒に頑張ることを選ぶのは,
B.布美枝さんが,
C.旦那さんの茂さんが,非常に美しい心を持っていることを愛し,その仕事を素晴らしいものだと思っているからなんだなあ
とか
A.結局,恋愛の方にケジメをつけて,終わらせることを選ぶのは,
B.糸子が,
C.仕事人としてしっかり筋を通すことを何よりも大事にしているからなんだなあ
という構造で,視聴者に「なぜ物語がそのように展開するのか」の根拠が伝わるのです。
(上から『おしん』『ゲゲゲの女房』『カーネーション』です。各作品は,本当はこんな一言では語り尽くせないほど様々なテーマを包含しているのですが,今回はものすごく簡潔に語るために,その説明に字数を割きません。ごめんなさい)
しかし『なつぞら』における「なぜ物語がそのように展開するのか」は,ぐるぐると最初の地点に戻ってきます。
『なつぞら』は,「なつが愛されていること」が大前提なんです。
これは,大テーマを描くこととは違います。
「いやいやそんなことないよ!なつの開拓者精神を描いてるって制作側も言ってるじゃん!」と反論するかたもいらっしゃるでしょう。
しかし,
「なつの開拓者精神」が物語の展開の根拠になっていると仮定して各エピソードの展開を見てみると,筋の通らない部分が多数出てしまうんです。
例えば,一部の例を挙げると,
・茜さんが退職する時は声をあげなかった東洋動画の社員たちが,なぜなつの退職にだけは猛抗議したんでしょうか。
・茜さんは自分自身もアニメの仕事に復帰したいのに,なぜなつの娘・優の託児業務を引き受けてくれたのでしょうか。
・あんなに兄妹の再会に拒否の素振りをのぞかせていた千遥が,なぜ結局,思いを翻して咲太郎・なつと合流したのでしょうか。
などなどなど。
これらは「なつが開拓者だから」では説明しきれませんよね。
でも
・茜さんが退職する時は声をあげなかった東洋動画の社員たちが,なつの退職に猛抗議したのは
→「なつは(社員みんなに)愛されているから」
・茜さんが自分も仕事をしたいにもかかわらず,なつの娘・優の託児業務を引き受けてくれたのは
→「なつは(茜さんに)愛されているから」
・千遥が結局,咲太郎となつのところの集うことを望んだのは
→「なつは(千遥に)愛されているから」
と考えると,スッと筋が通ります。(全てのエピソードを同じように分解するには字数が足りないので,あとは皆様,各自脳内補完でお願いします…)
つまり,『なつぞら』における「なぜ物語がそのように展開するのか」の根拠はたったひとつ,「なつが愛されていること」なのです。
そのため,「女性の生き方」「仕事観」「恋愛模様」「家事育児」などの小テーマにおいても,問題が解決する理由や,展開の根拠が全て「なつが愛されているから」になります。
なつは愛されているから,仕事が上手くいく。
なつは愛されているから,育児も助けてもらえる。
なつは愛されているから,離散した家族がもう一度集まる。
なつは愛されているから…
逆に言えば,
「なつが愛されている」という前提を最初に受け容れることができなければ,この物語に納得することは全く不可能になります。
しかし,
作中で「なぜなつが愛されているか」についての説明に当たる部分は,ほぼ描かれません。
(下記,重箱のすみをつつく細けぇところは興味のある人だけお読みください!)
絵の才能がある,素晴らしいアニメーターと言われていましたが,仕事で徹夜する,動物の動きの真似など,仕事の表面的な部分を描くばかりで「どのあたりが仕事人として素晴らしいのか」「アニメーターや作画監督の仕事はどのようなものか」の微細な描写はありませんでした。産休育休を巡る労働争議についても「大人の事情」が絡んでいるのか詳しく描かれることはなく「愛されなっちゃんに皆味方する!」というノリで解決してしまいました。この描写から逃げたことは,「日本初の女性アニメーター」としてのなつの深い魅力をだいぶ削いだと思います。制作を巡って上司や先輩,同僚と激突もしていましたが,なつが自ら引っ張っていくというより,周りの人にヒントや助けをもらって解決することが多かったです。長年子供を預けている先(茜さん家)の子供の誕生日を覚えていないなど,女性として,母親としても配慮の無い言動が多々あり,「中に入っているのオジサンでは…」と批判されることすらありました。茜さんやマコさんがなつのどのへんを好きで味方しているのかが詳細に説明されることもありませんでした。昭和でありながら平成令和の育児問題を描く,保育は茜さんに丸投げなど,「働くお母さんのリアル」が薄い部分が相当あり,育児周辺がテーマになった週は視聴率も落としています。そもそもなぜ十勝で実子そっちのけで可愛がられてきたのかの根拠にあたる描写も不足しています。幼いなつがおんじと一緒にアイスを食べた時には,確かに,なつが愛されなつに変貌していく伏線が張られていたように見えていましたが,「なつの戦災孤児としての苦悩や孤独の描写」「他人の顔色を窺う辛さ」が「自然体の,愛されなつになっていく幸福な過程」と明確に関連づけて描かれることはありませんでした。
ですが逆にそのことが,「なつが愛されていること」が,この作品の「テーマ」ではなく「大前提」である証拠なのだと私は考えます。
『なつぞら』において,「なつが愛されていること」は,各エピソードで様々な描写で繰り返し描かれ,回を経て説得力や重厚さを増すもの(テーマ)では無い,ということです。
「なつが愛されていること」は,この作品の揺るがぬ大前提です。
そして「なつが皆に愛されていること」がオチとなるエピソードを作ることに注力したために,本来のこの作品のテーマであったはずの「なつの開拓者精神とはどのようなものなのか」を描写することは散漫になりました。
このあたりが
「なつは中身が無い,からっぽだ」
「仕事も育児も結局,不機嫌を周りの人に悟らせてからの人頼み。アイス食いながら『一番良くないのは他人が何とかしてくれると思って生きていくことだ』っておんじに諭されたのは忘れたのかよ!?」
と批判されてしまう所以です。
制作スタッフの皆さんは,本当に善意で,「戦災孤児から愛されっ子に生まれ変わるなつ」を作ろうとしたのかもしれません。
でもね…
どんなに素晴らしい物語でも,絶対に受け容れなければいけない大前提として「主人公が皆に愛されていること」を設定したら,それは「その人物を好きになることを強制する物語」になってしまう危険性があるのですよ…
多くの朝ドラファンは,半年間,主人公が何を大切にして生きたかを観た結果,その主人公(俗に言う朝ドラヒロイン)を好きになります。長きに渡る撮影を頑張り抜いた俳優さんを讃え,俳優さんごとその主人公を長く愛します。
ですが,『なつぞら』においてはそれが出来ません。
まず最初になつを好きにならなければ,視聴者として弾かれてしまいます。
最初になつという人物を好きになることができた視聴者さんや
「好き」まではいかなくても「見てても全然嫌な引っ掛かりが出ない」視聴者さん,
もともと広瀬すずさんのファンで「どんなことがあってもなつを好きでいる」と心に決めていたかたにとっては,
『なつぞら』は非常にわかりやすく,受け容れやすい物語であったことでしょう。
ですが,「なつ」という人物と何らかの理由で合わなかった視聴者さんにとっては,非常に押しつけがましく,気持ちの悪い物語になっていたのです。
【2019年9月29日追記】(細けぇところなので,ご興味のある方だけお読みください)
「なつぞら」最終回 脚本家が明かすぎりぎりの創作秘話。「締めのナレーションには好き嫌いがあると思う」(木俣冬) - 個人 - Yahoo!ニュース
大森先生の(おそらく『なつぞら』に関してはラストとなる)インタビュー記事を読みました。
「なつが愛されていること」が今作品の唯一最大の根拠になったのは,
・戦災孤児であることについて→深掘りすると暗くなる。ライト層向けの作品だからやめてほしい。
・アニメ会社の仕事について→労働争議や働き方問題を深掘りすると,モデルとなった企業のイメージ悪化に繋がるからやめてほしい。
・北海道開拓について→ロケを増やす予算は無いので,予算内でできることにしてほしい。
・女性の生き方問題について→深掘りすると炎上や視聴者離れの原因になるからやめてほしい。
みたいなオーダーがあったからなのではないか,と感じました。
描きたい事が全部封じられた末に,最後の頼みの綱として編み出された,全編を貫ける「たったひとつの冴えた根拠」が「なつが愛されていること」だったのではないかな,と。妄想ですみません。
何を申し上げたいか言うと,大森先生も,磯Pも,各スタッフの皆さんも,我々視聴者の想像を絶するような過酷な条件の中で,100作目を作っていたのかもしれない,ということです…。100作目が大変なのは誰もがわかりきっていたことですが,「主人公のなつ(と,中の人である広瀬すずさん)頼み」以外の解決が無いぐらい,制約が多すぎたのはないか,と。
(2) なつ以外の女性登場人物に感情移入すると,自然と、なつを批判する視点が出る
とはいえ,
『なつぞら』ような構造の物語が良い作品になる場合もあります。
アイドル映画やアイドルドラマです。
アイドルさんにできるだけそのままの魅力を活かす演技をしてもらい,「主演者が絶対的に愛されているアイドルである」ということを前提に,その魅力を撮る。
主演アイドルさんのみずみずしい演技と,作品テーマと,脚本・演出が奇跡のマリアージュを遂げた,傑作がたくさんあります。
では,そのようなアイドル映画・アイドルドラマと,『なつぞら』はどこが違うのでしょうか。
もし,王道のアイドルドラマであったならば,物語の中に「主人公に真逆の立場のライバル」や「主人公へのアンチテーゼ」が散りばめられています。
それらは,主人公を視聴者に嫌わせたり,主人公を過剰に持ち上げたりするために配置しているのではありません。
「あなたの考え方,おかしいよ!」「私はあなたと同じようには思えない!」と誠実にぶつかってくれる存在を登場させることで,主人公の魅力や哲学がより明確に描かれるのです。
その構造を非常に複雑に使ったのが『あまちゃん』です。
主人公のアキには「光と影」として常に対照的なユイが,
「女の三代記」「母と娘の衝突と和解の物語」としての春子と夏ばっぱが,
同志としてのGMTのメンバーがいました。
その誰もが「アイドル」であり,同時に確固とした意思を持った一人の女性であり,全員にきちんと言い分がありました。「他の誰かに感情移入したら,主人公のアキを嫌いになってきた…」となるような構造は持っていません。
親友ユイや母親の春子の心の闇すらも,アキとぶつかり合い,それぞれがますます魅力を放って生きていくための強い原動力に変換されていきました。
しかし,『なつぞら』ではそのようにはなりません。
もし,なつ以外の人について,心の闇の部分まで感情移入したら,
「夕美子がグレるのもわかるよ,だって自分の実家なのになつばっかり中心じゃん」
「マコさんがなぜ女性初のアニメーターじゃないの…?なぜなつに屈した…?」
「茜さんがどれだけ苦しい思いで仕事辞めたと思う!?託児押し付けんなよ!」
「千遥は出自を隠したいと言ってるのに,どうして乗り込んでくるんじゃボケ姉!」
などと,逆に,物語中では描かれていない,なつへの批判視点に気づいてしまいます。
『なつぞら』は,「なつを中心に本物の家族が作られていくこと」を最終ゴールとして描きたいために,他の登場人物の心の闇についての描写をきっぱりと削ぎ落としています。他の登場人物と,ぶつかっているようでぶつかっていないのです。ぶつかるたびに「なっちゃんが凄いから解決した」というオチがつき,全ての人物が「なつ」に収束していきます。
『なつぞら』が描きたいのは,「なつを中心に本物の家族が作られていくこと」の光の部分,ハッピーな部分です。
だから
「家族(同然)だからという理由で,自他の境界を安易に超えて相手に頼るのは,依存や搾取ではないのか」
「家族(同然)だからという理由で,ありがとうを言わない,勝手にボディタッチして良い,努力を腐すなどが描かれるのは家庭内ハラスメント行為の描写ではないのか」
「性と恋と家族の線引きについて問題があるのではないか」
といった,「なつを中心に本物の家族が作られていくこと」で起こりうる闇の部分は描かれないのです。
2016年にドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』が,家庭内における「愛情の搾取」を示し,「家族だから〜」などの理由で相手を束縛し自分の思い通りにすることの危うさについて丁寧に描いたこととは,全く真逆の発想です。
(話は脱線しますが,『なつぞら』において「なつを中心に本物の家族を作る」ために,登場人物の全てが自他の境界をドロドロになくし,「からっぽの器である孤独ななつ」に融合していくことについて,「人類補完計画だ!」と指摘した方が複数おられました。大変興味深い考察です。試しに,「なつを中心に本物の家族が作られていく」を光の部分の物語として,横に置いておいてみましょう。そして,隠された闇の部分…なつの周りの人々の心の中に起こっていてもおかしくない,他者と一体化することの気持ち悪さや,自他の境界が無いことの怖さや,他者を受け容れられない葛藤を,丁寧に読み込んでみましょう。すると,『なつぞら』の「なつを中心に本物の家族が作られていく」が,「みんなが『なつ』になっちゃえば苦しみもなくハッピーになれるよ」と,ホラーな感じに読めてしまうのです。「人類補完計画」「なつに還りなさい」に収束していく物語だとストレートに読解することができます。誰かと家族になるために自他の境界を溶かすことは,DV,モラハラ,児童虐待,毒親の連鎖などにも繋がる,本来ならば非常に恐ろしいことです。でも,なつとなつの周りにいる人々は,そのようなことに全く無自覚に,きわどいラインに触れているのです)
もし,なつ以外の人に深く感情移入したら,上で述べたような,「なつを周りで見ている人の心の闇」の部分が見えるでしょう。
本当に,制作側は「なつが愛されていること」だけをたったひとつの冴えた前提かつ根拠として「なつを中心に本物の家族が作られていくこと」を純粋に描きたかったのだと思います。
しかしその,たったひとつの根拠をあまりにも冴えさせたために,『なつぞら』は,他の人物(特に女性)の視点を持つことを許さない,「なつを嫌いになる自由の無い物語」となりました。離れたり,嫌いになったりする自由を相手に持たせないのは,もはや暴力です。『なつぞら』では,「ワーキングマザーを扱っている作品なのに実際のワーキングマザーから苦言が飛んでくる」ということもよく起きていましたが,その理由の一つは,この作品が「他の女性の視点を持つことを許さない不寛容さ」を包含していたからではないか
と私は考えています。
(3)じゃあ,なぜ,「なつ嫌い」が「広瀬すず嫌い」に繋がってしまったの?
ここまで述べてきたように,『なつぞら』は,「物語を好きになること」と「主人公のなつを好きになること」ががっちり一体化した構造を持った物語です。
まず「なつ」を好きにならないと,物語を好意的に読むこと自体ができなくなります。
つまり,物語全体への不満や批判が,主人公に非常に向かいやすい。
主人公を演じるかたに大変負担がかかる構造をそもそも持っているのです。
もし制作サイドがそのことに自覚的であったならば,去年の『半分、青い。』のように,役と俳優さんの間に明確に境界線を引いたでしょう。鈴愛は,永野芽衣さん本人と明確に違う人物として成立していました。そして,北川悦吏子先生への批判が激化しても,永野芽衣さんを批判する声は上がりませんでした(元から永野さんを嫌いだという主張の人は除いて)。
だから,「なつ」という架空の人物も,広瀬さん本人と明確に切り分けられていたら良かったんです。
しかし『なつぞら』制作スタッフは「なつは広瀬すずさん自身を出せばOK!一体化しちゃってOK!」とGOサインを出していたのではないでしょうか。
https://friday.kodansha.co.jp/article/36012
脚本家の大森寿美男先生も
https://www.tvguide.or.jp/column/chokusou-drama/20190907/02.html
「(広瀬さんのファンなので、奥山さんと)違ったとしても全然いいや」
「広瀬さんが表現することがなつの正解」
と考えていたと,インタビューで語られています。
また,『なつぞら』公式は,「なつのモデルが奥山玲子さんである」と大々的には宣伝していません。少なくとも調べられる範囲では,奥山さんの夫である小田部さんが「なつについて妻もヒントにした」と前掲の記事で語ったことが最初で,そこから各メディアで「なつのモデルと見られる人」「なつのモデルの一人」などと取り上げられるようになったようです。
そう,広告宣伝としては「奥山玲子さん=なつ」に乗っかっていましたが,
人物造形においては「奥山玲子さん=なつ」では全くなかったのです。
この点について,今も「奥山玲子さんをモデルにしたから,なつは素晴らしいんだ」と賞賛されるかたも,「奥山玲子さんをモデルにしたはずはのに,なつは奥山さんと全然違う!」と憤慨されるかたも,どちらもおられます。
大森寿美男先生ご自身も
「奥山玲子さんという人も参考にさせてもらいましたが、奥山さんそのものを描くのではなく、奥山さんみたいな人を勝手なイメージで作っただけ」
と,9/13付けのインタビュー記事で話しておられるので,
「なつ」と「奥山玲子さん」の距離感は「女性初のアニメーター」という肩書きを借りただけの全くの他人
ぐらいだと考えておくのが適切なのでしょう。
『なつぞら』のアニメーターたちのモデルは? 脚本家・大森寿美男氏を直撃 | マイナビニュース
(ちなみに,スタジオジブリ出版部の小冊子「熱風」の9月号では,高畑勲監督夫人であるかよ子さんが,「本当の奥山さんはあんなセンスの悪いおしゃれじゃなかった」「奥山さん怒ってるよ」と小田部羊一さんに苦言を呈したことが述べられています。また,小田部さんは他のかつての同僚からもなつの造形について苦言を呈されたことを明かしています)
このようなことから察するに,広瀬さん渡っていた演技のオーダーは
「奥山さんは一応参考にして。でも無視していいから。ていうか,結局はすずちゃんの好きなようにやっちゃっていいから」
という,矛盾に満ちたものだったのではないでしょうか。
その結果,起こったことは何だったか。
例えば,中川大志さん演じる「一久さん」が,夫からの愛情表現として「ラーメンのメンマをなつにわけてあげる」というアドリブを入れた時に「何でメンマくれたのかわからない」となってしまう広瀬すずさんが出来てしまうのです(あさイチインタビューより)
「なつ」という「一久さんを愛し,一久さんに愛されている架空の人物」としてではなく,「広瀬すず」としてアドリブを受けたために,「中川大志さん」がメンマをくれたことと,それが「不器用な夫・一久」の愛情表現であることが繋がらなかったのです。
私は,広瀬さんの役作りが間違っていたとは思いません。
「なつ」という演じるべき「架空の人物」をきちんと用意してもらえず,「好きにやっていい」と言われて,そのまま等身大の感覚で演じたことは,朝ドラのヒロインとしては少々浅慮だったのかもしれませんが,間違いではありません。
問題は,このような「役作り」を推奨することによって,「なつ」という架空の人物と,「広瀬すずさん」の境界線が限りなく曖昧になってしまったことです。
「なつという人物像」が良くなかったのであれば,そこに対する批判や感想を述べれば良いのです。広瀬さんの演技力についてだけではなく,脚本や演出,制作全体が批評対象になります。
しかし,なつと広瀬さんの境界線があまりにも曖昧になってしまいました。
「なつを好きになれないと面白さがわからない」「なつ以外の人物を好きになることが許されない」構造の物語を「なつとほとんど境界線を曖昧にさせながら広瀬さんが演じている」という状況では,「なつを好きになれなかった視聴者の不満」は,相当,広瀬さんに向かいやすかったのではないでしょうか。
そのために,両者を混同する人が後を絶たず,広瀬さん個人への人格攻撃などが相次いだのだと思います。
「なつ」はどうしても愛されなければいけなかった。
『なつぞら』という作品が愛されるためにも,広瀬さんが心ない攻撃に晒されないためにも。
広瀬すずさんの魅力に惹かれて起用し,このドラマを制作したはずが,なぜ結果的に「批判が起きたら広瀬さんに全責任を押し付ける構造の物語」になってしまったのでしょうか。
このように「役と俳優を安易に混同することの危険性,また,そのような構造を持った物語の危うさ」について,一視聴者としてもしっかり注意しておきたい,と心から思います。
というわけで
問.なんでみんな,「なつが好きか嫌いか」で大騒ぎしてたの?
につきましては
答.「なつぞらは,最初になつを絶対に好きになっておかないと,展開に全く納得できなくなる構造の物語だったんだ。なつを好きになれるかどうかが,この作品に納得できるかどうかの踏み絵になっていたから,みんなそこに注目せざるをえなかったんだよ。踏み絵の中の人となってしまった広瀬すずさんには,だいぶとばっちりだったと思う」
と答えさせて頂きたいと思います。
「広瀬すずさんは頑張ってるんだからなつへの批判を言うな!」という人も,
「広瀬すずが嫌いだから最悪の作品だったわ」という人も,
広瀬さんとなつを混同し,適切な作品評が出来なくなっているという点では,どちらも同じです。
しかし,
「なつが好きだから『なつぞら』を楽しく最後まで観れた!」という人と
「なつが嫌いだから『なつぞら』を楽しめなかった…」という人は
どちらも,作品の構造をきちんと読解して反応している人です。
そう、「なつを好きか嫌いか」で激闘した人たちは,
どちらの立場であっても,作品が示している大前提を的確に読み取った人たちです。
違っていたのは,制作側が提示した大前提に伸るか反るかだけ。
「読解が足りない」「妄想がすぎる」などと「擁護」陣営と「アンチ」陣営が罵倒しあうこともありました。
ちゃうねん。
「擁護」と呼ばれた人たちも,「アンチ」と呼ばれた人たちも,誰も間違っていなかったのです。
そもそも,
『なつぞら』公式タグに主にいらしたのは,なつぞらや,なつや,広瀬さんを深く愛している人たち。
「アンチ」扱いされてしまったけれど,それぞれの別タグで棲みわけていたのは,『なつぞら』を愛せなかったけれど、それぞれ朝ドラを深く愛している人たち。
「擁護」や「アンチ」はどこにもいなかったんだと,私は思います。
【おわりに〜朝ドラビギナー養成機関としてのAK朝ドラ〜】
『なつぞら』に限らず,近年のAK(東京放送局)朝ドラにはもう一つ特徴があります。
それは,「小テーマ完結型」ということです。
例えば,「女性の生き方」「仕事観」「恋愛模様」「家事育児」などの小テーマは,週ごとなどに完結して描かれます。
そこだけを聞くと,従来の朝ドラと変わっていないように見えます。
しかし実際は大きく違います。図にするとこんな感じです。
もしSNSだったら,こんな感じでしょうか。
エピソード(小テーマ)とエピソード(小テーマ)の間を繋ぐ説明がなく,文脈で理解するのではなく一枚絵で理解することができ,美しい場面が整然と並んでいてどこからでも楽しめる,インスタグラムのような感じになると思います。
『なつぞら』も,「小テーマ完結」でパートごとに見ると,「おんじとアイスの話」「一久さんのアニメ制作観」「天陽くんの死」など,連続性や整合性を持って素晴らしく感動的に描かれたものが存在しています。
しかし,全体を通して見た時の連続性や整合性はありません。
「なんか,なつは,天陽くんが死んでソウルメイトみたいに扱ってるけど,おまえ,上京してから全然天陽くんのこと思い出してる素振りなかったじゃん…」
みたいなことを突っ込んではいけないのです。
「小テーマ完結型」にはメリットがあります。
それは,しばらく視聴を逃してしまっても,また容易に戻ってこられることです。
これまでの「朝の連続テレビ小説」ではそれは無理でした。
毎日見ていないと繋がらないエピソード,わからなくなる伏線などが縦横無尽に張り巡らされていました。その意味では,朝ドラは「毎日15分間のプチ大河ドラマ」の側面も持っていたのです。
しかし今は,「決まった時間,必ず座って見ていなければいけないドラマ」がどうしても敬遠されます。テレビ以外の映像娯楽が発達し,「テレビ以外のものを見る」という選択肢が増えたことも一因だと思います。
素晴らしく重厚に作り込まれたドラマが敬遠されてしまうのは,ドラマファンとしては非常に残念なことです。
ですが,その結果を,このように考える人もいます。
>今、テレビドラマなんて観るのは馬鹿だけ。話が面白いかどうかとか、どうでもいいんだ。自分の好きなタレントが出ていたら、キャーと言って喜ぶ人、そういう人だけが観ている。
日本のドラマがこの10年で急速につまらなくなった、本当の理由(田崎 健太) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
ワンパターンなものしか受けない,俳優の演技はどうでもいい,難しいものは敬遠される…。ドラマファンには残酷な言葉が並ぶ記事です。
古参朝ドラファンのみなさまが「こんな,エピソードごとにブツ切れの朝ドラ,『連続』でも『テレビ小説』でもねえや!!」とお怒りになるのはごもっともだと思います。
でも,いろいろな角度から「朝ドラ,面白いね!」と思ってくれる人が増えなければ,朝ドラ自体がいつか滅びるかもしれません。
『半分、青い。』『なつぞら』と続いて,AK(東京放送局)の方針自体を批判したいかたもたくさんおられるでしょう(ってそれは私か!)
しかし,まだもう少し,AKの朝ドラには大躍進の余地があると,私は思いたい…。
そもそも
「視聴率を取り、ライト層を取り込んで朝ドラ視聴の習慣をつけてもらう」
→AK(東京放送局)朝ドラ
「視聴率よりも視聴者満足度を取り、昔ながらの朝ドラ視聴者を逃さない」
→BK(大阪放送局)朝ドラ
で役割分担をしてらっしゃる気がするのです…。
つまり,そこからさらに,
「基本的にライト層向けなんだけど,古参ファンが見ても唸らせられるAK作品」
「基本的に古参ファン向きの濃さなんだけど,ライト層も気軽に楽しめるBK作品」
が生まれれば,良いのですよね…?
私はそれを待ちます。
それを待って,来年もAKに期待します。
朝ドラファンにできること・すべきことは,様々な方向へ朝ドラファンが増えていくための応援をすることだ,と思いながら…。
さて。
散々文句を書きましたが,
アニメージュ7月号のインタビューを読めば,大森寿美男先生がどれだけ船頭が多く変更が度重なる中で脚本を書いてこられたのかが偲ばれます。
散々とばっちりで罵詈雑言を受けてしまった広瀬すずさんのファンのみなさまには辛い半年間であったと思います。
朝ドラが好きで好きで仕方がないのに,「アンチ」「悪の巣窟」と罵倒され続けた,ガチ朝ドラファン勢のみなさま,物凄く耐えた半年間だったと思います。
みなさまおつかれさまでした!!!
戦争は終わった!!!
終わりにしようよもう!!!
だって朝ドラは面白いから!!!
来週からの『スカーレット』,楽しく視聴いたしますが,
もちろん,来年の『エール』も楽しみにお待ちしております。