「いだてん」嘉納治五郎ロス広がる ネット号泣&山下泰裕氏も涙…役所広司ラスト秘話 デスマスクの意味
勘九郎は「日本のマラソンの父」と称され、ストックホルム大会に日本人として五輪に初参加した金栗四三(かなくり・しそう)、阿部は水泳の前畑秀子らを見いだした名伯楽で64年の東京大会招致の立役者となった新聞記者・田畑政治(まさじ)を演じる。
役所がダイナミックに演じた治五郎は、講道館柔道の創始者。教育者としても知られ、1891~93年(明24~26)に旧制第五高等中学校(現熊本大学)の校長を務めたことから、1891年熊本生まれの四三とも縁。その後、四三が進学した東京高等師範学校(現筑波大学)の校長も務めた。
1909年(明42)、アジア初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に。1911年(明44)、大日本体育協会(現日本スポーツ協会)を設立し、会長に就任。1912年(明45)ストックホルム五輪は選手団団長として参加し、四三と三島弥彦(生田斗真)を支えた。
1920年(大9)アントワープ五輪はIOC会長・クーベルタンに直訴状を提出し、マラソンを正式種目に復活。1924年(大13)に完成した明治神宮外苑競技場も、治五郎が「私はあそこ(森)にスタジアムを作る。いつの日か東京でオリンピックを開くために」と夢を抱いたもの。1940年(昭15)東京五輪招致の際は、大胆にも本命・ローマのイタリア首相ムッソリーニに開催地を譲ってもらう“禁じ手”を唱えた。
四三にとっては人生の恩師。田畑とは、日本水泳チームが大活躍した1932年(大7)ロサンゼルス五輪に一緒に参加し、1940年東京五輪招致で協力。人並み外れた情熱と、ひょうひょうとしたユーモアを兼ね備えた大人物で、明治から昭和の日本スポーツ界の発展を牽引した。
この日放送の第37話は「最後の晩餐」。戦況が悪化する中、田畑が「こんな国でオリンピックやっちゃ、オリンピックに失礼です!今の日本は、あなたが世界に見せたい日本ですか!」と治五郎に土下座し、東京開催返上を懇願したが、治五郎はカイロで行われたIOC総会に出席。各委員に「私を信じてください」と訴え、東京開催承認に導いた。
1938年5月4日、カナダ・バンクーバー経由で帰国する貨客船「氷川丸」。治五郎は参加したお茶会から、咳き込みながら自分の部屋に戻る。その後、高座の五りん(神木隆之介)が治五郎の訃報を伝えた。
田畑は横浜港に寄港した氷川丸に急ぐ。田畑やIOC委員の副島道正(??本晋也)らが見守る中、治五郎の棺が運び出され、安らかに眠る顔がのぞいた。
「あまちゃん」「64(ロクヨン)」「トットてれび」のチーフ演出、テレビドラマとドキュメンタリーを融合した「その街のこども」などで知られ、この回を演出した井上監督は初めてデスマスク(死人の顔)を撮影した。
「治五郎さんの最期は本当は壮絶だったと思います。もちろん壮絶さは多少出しますが、どちらかといえば、みんなに愛された人の最期はどんな感じなのかと考えながら撮りました」と演出の狙いを説明し「普段は撮らないデスマスクを初めて撮ったんです。役所さんも『初めてだよ、棺おけに入ったの』とおっしゃっていました」と明かした。
「治五郎さんが亡くなったことは五りんの高座シーンで分かっていて、普通は棺の周りに人がいれば、それで成立するんです。亡くなったことを示して、その次のシーンでさらにデスマスクを映すのは、語弊があるかもしれませんが、もう“物”でしかないので、当然、お葬式を題材にした作品だと死に顔が大事になりますが、普通、僕たちの中では粋じゃないんです。視聴者の皆さんだって、あまり死体は見たくないじゃないですか」
それでも今回、敢えてデスマスクを撮影。「自分でも不思議な感覚で…。たぶん自分の中で、治五郎さんの顔がいつ消えていくか、見たかったんだと思います。治五郎さんを看取ったのは、偶然、氷川丸に乗り合わせた外交官の平沢(和重)さん(星野源)で、一緒に東京五輪招致を頑張った田畑や副島さんをはじめ、劇中の登場人物みんな、治五郎さんの最期の顔を見たかったわけじゃないですか。愛すべき人の最期なので、自分としては普段はしないデスマスクまで撮るぐらい、治五郎さんの人生を撮り切りたい気持ちだったということだと思います」と理由を語った。
治五郎が最期、平沢に手渡したストップウオッチは田畑に託された。井上監督は「これが重要なアイテムになります」と予告。1940年東京五輪は結局、戦争のため幻に。ドラマは終盤、戦後へ。治五郎の遺志は1964年(昭39)東京五輪招致へ受け継がれる。
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