先日、ラジオ番組に出演させてもらいました。現代に通じる歴史のお話の一つとして、「児童虐待」は昔にあったのか? という話がありました。
結論から言いますと、もちろんありました。「虐待」どころか、奈良時代には「捨て子」がたくさんみられました。
税の負担を逃れるために、子どもを捨てる、ということがみられたのです。
口分田は、6歳以上の男女に班田されましたから、偽籍(戸籍を偽る・男子を女子と偽る)ということのほか、もっとも直接的に捨てる、ということもみられたわけです。
聖武天皇の后、光明皇后は、悲田院をつくり、これを救済する、ということもなさっています。
ラジオでは、短い時間でしたので、部分的にしか例をあげられませんでしたが、子どもが大切にされる、というのは近代になってからだ、という説明をしました。
子ども服の文化は近代に入ってから生まれたもので、それまで子どもはブカブカの大人の服を着ていました。
衣料が発達していないので病気やケガで抵抗力の無い子は死んでいきましたし、何より出産のリスクは現代よりもはるかに高い…
たくさん産んで、その中から生き残った子を育てる、ということがおこなわれていました。
子どもの名前も仮の名が多く、上級武士や大名のお子様などの幼名では、「梵天丸」とか「竜王丸」とか「虎千代」だとか「竹千代」だとかがみられましたが、下級武士や農民では、太郎や次郎、三郎のような幼名もみられました。(太郎、次郎、三郎の名称は平安時代の初期にはみられ、嵯峨天皇などは自分の皇子の幼名にもしています。)
このような場合、まるで「番号制」のようではありますが、「連番制」とは限りません。
長男は太郎、次男は次郎、三男は三郎、と言いたいところですが、次男なのに八郎、なんていう例もありました。
これ、ちょっと悲しい話なのですが、流産や幼くして死んだ子もカウントしている場合もあります。
すべてがそうではありませんが、次男で「小一郎」「小太郎」という場合もあり、これは後妻の子どもの長男、という場合にそうしたケースもみられました。
太郎、次郎、三郎… というのはいわゆる武士の「輩行名」だけとは限りませんでした(ちなみに輩行名は物語の中だけのフィクションの場合もあり、実際はどうだったか不明な人もいます)。
すぐに死ぬかもしれない子には、まだ名前をつけない、という場合もあります。
庶民・農民の女子は、花の名前や虫の名前などがつけられている場合もたくさんみられました。
本名を隠して、通称で呼ぶ、というのはやはり上級貴族や武士の娘である場合が多かったようです。
さてさて、一部の言説で「江戸時代は犯罪が少なかった」などという方がいますが、大きな間違いです。
このあたりは『日本国紀・読書ノート』でも指摘したのでご参照ください。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12430631616.html
「むかしはよかった」というのはかなりファンタジーな部分があり、現代と変わらぬ犯罪や、そして今回ラジオで話題となった「児童虐待」はみられました。
海保青陵の『東贐』には、江戸の犯罪事情がまとめられていて、現代にみられるような凶悪犯罪や詐欺事件がみられます。
『街談文々集要』には、槍の稽古をしているうちに、ホンモノの人間を突き刺したくなった猟奇的な殺人事件が紹介されています。
加賀藩の『断獄典例』には、後妻が前妻の子に火箸を押しつけて虐待する話も出てきます。
児童虐待、子ども問題は古くて新しい問題でもありました。