『日本国紀』読書ノート(210) | こはにわ歴史堂のブログ

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210】岸内閣から池田内閣が成立し、総選挙で自民党が勝利した背景の説明が誤っている。

 

「昭和三五年(一九六〇)、岸の後をうけて首相となった池田勇人は、マスコミや左翼知識人の反対を恐れて、自民党結成時のもう一つの党是であった『自主憲法改正』をいったん棚上げし、経済政策に力を注ぐことにした。」(P459)

 

と説明されています。どうも、戦後の戦局の説明が、正確ではなく、岸内閣総辞職、池田勇人に首相が変わり、「…四ヶ月後に行なわれた衆議院総選挙では、四百六十七議席のうち、自民党が二百九十六議席を獲得して圧倒した。つまりマスメディアが報道していた『世論』は、国民の意識を正しく反映していなかったのである。こうしたマスメディアによる世論捏造はこの後も長く続くことになる。」(P456P457)と説明されていますが、かなり勘違いされています。

「安保闘争」の一面は、何かと強引な政治を進めていた岸内閣に対する国民の「不信」もありました。与党内でもこの「空気」があり、池田勇人もその一人で、いわば反主流派の一人でした。(当時明らかにノンポリ保守であった母も、「岸さんが辞めはって何かホッとした。池田さん、わりと好きやったで。」と話していました。)

この「四ヶ月」というのがポイントで、池田勇人はマスメディア、とくに普及を始めていたテレビを利用して、さかんに「庶民派」であるアピールをしていきます。低姿勢で丁寧な説明を繰り返す池田首相に、好感を覚える人々が増えました。現在の内閣府大臣官房広報室にあたる内閣総理大臣官房広報室を拡大・充実させたのも池田勇人です。池田はマスコミを恐れたのではなく、逆に積極的に利用しました。

そして当時、社会党がさかんにアピールしていた「貧困対策」に対して「所得倍増計画」をかぶせ、与野党対立の要であった「政治・外交」から視点を外して「生活・経済」を全面に出して支持を得ました。その上で、総選挙に出たのです。

「衆議院の解散」は首相の専決事項。「勝てるタイミング」でしか実施しません。

マスメディアという剣が、野党から与党の手にうつっただけのことで、マスメディアが報道していた「世論」が、今度は自民党に有利に働いたのです。

右派・与党は、「マスメディアによる世論捏造」という言葉で左派・野党を批判することはありますが、政権与党もまたマスメディアを有利に利用することはよくあります。

「安保闘争」とこの後の「池田内閣」はこのことをよく示している例なのです。

「『自主憲法改正』をいったん棚上げして」といっても、もし衆参両院で2/3以上の議席を占めれば、自民党はいつでも憲法改正発議をしていたと思います。

自民党が圧倒的支持を受けても2/3を超えない、というのは「経済政策や外交政策は支持するが、軍国主義と戦争は嫌」という五十五年体制の時期の「世論」がよく現れていたと見るべきだと思います。

 

「日本は、何年にもわたって年率一〇パーセントを超える成長が続く驚異的な高度経済成長によって、まさに奇跡ともいえる復興を成し遂げた。この章の冒頭でも述べたが、この復興を成し遂げたのは政府ではない。政府が『所得倍増計画』を打ち出し、号令をかけるだけで復興できるものなら、世界の発展途上国はすべて豊かになっている。日本の復興をなしたのは、ひとえに国民の力である。」(P459)

 

「国民の力」であったことは確かですが「ひとえに」ではなく、国際社会やアメリカの援助が背景にあったことも忘れてはいけない視点です。

アメリカの「ガリオア資金」「エロア資金」投入、ユニセフの経済・食糧支援、中国・インドの賠償金放棄など、これらが無ければ「東京オリンピックを開催して、新幹線を開通させた」(P459)ような「日本復活」などありえませんでした。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12451233156.html

「誇りと自信の回復」を謳うと同時に「感謝の現代史」も綴らなくてはならない部分です。