1933 (昭和8) 年 27歳 | 苦しい恋と憂鬱の連鎖 |
1月、矢田津世子との交際が急速に深まり、互いの自宅を訪問し合うようになる。この年、2人は頻繁に手紙もやりとりした。内容はまじめな文学についての話題が中心で、現存する安吾発信の書簡だけでも、この年1年間で31通にのぼる。 2月5日、「ふるさとに寄する讃歌」を収録した『小説』第2輯が、450部限定の単行本として芝書店から刊行される。 3月初め、矢田に誘われて同人誌『桜』の創刊に加わる。これは『モダン日本』の編集者でもあった作家大島敬司を主宰として中西書房から発行することになった半商業的同人誌で、当初は乗り気でなかった。安吾の招請により菱山修三が加わったことで勢いづき、また、同人の田村泰次郎、井上友一郎、真杉静枝、河田誠一らと親しくなって、互いの家を行き来するようになる。同時期に隠岐和一や若園清太郎、山沢種樹らの編集になる同人誌『紀元』の企画準備にも協力し、同誌には後に中原中也や加藤英倫、安原喜弘らを加入させる。『紀元』には他に鵜殿新一、片山勝吉、西田義郎、谷丹三、丸茂正治、寺河俊雄らが参加、装幀は青山二郎、長谷川春子らが担当した。 3月26日、新宿中村屋で行われた『桜』同人の座談会「文学の新精神を語る」に出席。安吾はこの座談会で、文飾よりも主題と格闘することの重要さを説き、そのためには長篇を書かなければいけないと語る。また「文学とは社会制度に対する反逆であり革命だ」と宣言する。 4月頃、『桜』同人会に顔を出していた『時事新報』文芸部記者の笹本寅から、矢田が同紙社会部部長で既婚者の和田日出吉と毎日曜に会っていると聞き、衝撃を受ける。相前後する頃、同人の河田が2人の仲をとりもとうとして矢田家を訪ねたところ、矢田は安吾の人間と文学を尊敬していると河田に伝えたという。 5月1日、『桜』創刊。創刊号から安吾と矢田、田村が長篇の連載を始める。同月10日、有楽町の朝日講堂で創刊記念の「文芸講演と舞踊・映画の夕」を開催。安吾はこのような式典は俗悪で文学者のやることではないと反対したが押し切られたもので、順番に演台に立たされる。安吾は緊張をほぐすため楽屋でウイスキーをラッパ飲みして、「ナチス党の敬礼のように、右手を高々とまっすぐに斜上方にさしだして、上手から舞台にあらわれた。なにか二言、三言しゃべったかと思うと、また同じように右手をさしだして、舞台の上手にひっこんだ」と田村の回想記にある。また、この日の講演会控室では『紀元』の最初の打ち合わせ会も行われ、安吾はその席で谷丹三と隠岐和一の2人を絶讃する。『桜』と重なったため安吾の寄稿は少なく、編集実務にもタッチしていないが、後々までメンバー集めのほかいろいろと相談に乗った。 同月下旬、『青い馬』の同人だった大久保海洋(ひろみ)が始めた週刊紙『東京週報』へ矢田の原稿を載せるよう斡旋、矢田は同紙へ社会時評を連載したもよう。また、23日に矢田宅へロシア作家ザイツェフの本を送る。 6月7日、矢田津世子、片山勝吉、加藤英倫らを誘って矢口の渡しでのピクニックを計画していたが、『桜』第2号の校正の遅れなどで当分延期となる。『桜』は以降の刊行が難しくなる。 7月21日、矢田が左翼関係者にカンパした容疑で特高に連行され10日余り留置される。この事件以来矢田の健康がすぐれず、あまり会えなくなる。 8月、長兄献吉が満洲へ視察旅行に赴く。 8月15日、『紀元』創刊号が出来、同人一同が集まる。同月19日、若園清太郎訳のデボルド『悲劇役者』出版記念会に旧『青い馬』同人や中原中也らと参加。同月24日、矢田宅へ見舞いに行き、ドストエフスキー研究会の計画を伝える。 9月1日、『紀元』創刊。同月6日、矢田、若園、菱山修三、鵜殿新一らを神楽坂・紅屋に集めてドストエフスキー研究会を開く。同月17日頃から末頃まで新潟に滞在。22日から3日間、新潟新聞本社3階ホールにて親戚の画家村山政司らの展覧会を手伝う。松之山の村山真雄のもとで宿帳に「秋縹渺たる村家に来り酔ふ 酔ひ痴れてわめくに遠し村の家 安吾」と墨書したのはこの時のことと思われる。 10月、『桜』版元の中西書房が手を引いたため第3号が発行できなくなる。同人たちから非難を浴びた大島敬司が同人脱退、井上友一郎が編集長となる。田村泰次郎が新たに北原武夫や石川利光らを仲間に入れ、同人費運営の形で事態打開を図る。井上の回想によると、第3号はすでに組み上がっていて、井上、田村、坂口、真杉、北原の5人で新橋駅近くの印刷屋へ支払い猶予の交渉に出かけたという。安吾は嫌気がさして早々に帰ってしまい、結局交渉は決裂する。その時、北原はこっそり一束の『桜』第3号をオーバーの下に隠し持って出てきたというが、ここに連載中の「麓」第3回が掲載されていたかどうかは不明。翌年1月に近藤書店から復刊された『桜』通巻第3号には掲載されていない。この交渉からまもなく、同人を脱退する旨、井上友一郎に言い送る。矢田、菱山、真杉も脱退する。 同月15日、ドストエフスキー研究会第2回を開くが、若園1人しか集まらず、以降中止となる。同じ頃、豊山中学時代の親友で、家の生活費を使い込み失踪していた山口修三から何年ぶりかで許しを乞う手紙が来る。悪いことが重なり、しだいに鬱病の症状がぶりかえすようになる。 同月、中篇「浅間雪子」が完成し『文學界』に送る。この『文學界』は、小林秀雄、川端康成、宇野浩二、武田麟太郎、林房雄らの編集で文化公論社より同月創刊されたもの。「浅間雪子」のタイトルは戯曲版「麓」のヒロイン名と同じである。この作品は『文學界』の翌年2月号に発表予定で組み置きとなったまま掲載されずに終わる。同誌はその号で一時廃刊となっている(4カ月後に文圃堂書店から1巻1号として復活)。そうした諸事情が影響したものと考えられ、未掲載の原稿の内容とその存否は現在も不明である。 同月30日、若園に誘われてテアトル・コメディへ観劇に行き、若園とフランス15世紀の戯曲を共訳する約束を交わす。 11月半ば頃、猿飛佐助のファルス小説を書きかけてやめる。 12月2日、嘉村礒多の葬儀に参列。その場で牧野信一と久しぶりに会い、共に飲む機会がふえる。 同月初め頃、長島萃から錯乱した内容の手紙が何通か届く。「おまへ、街のガス燈なんだよ、ヌッとつったってて。眼は蒼いんだ。かなしさうで、綺麗で、たよりなくて」といった文面で、長島はまるで投函証明ででもあるかのように葛巻にも文面を書き写して送った。下旬には長島が脳炎で危篤状態になり、死去までの1週間を付き添う。その間のある日、長島は安吾1人を病室に残し、安吾が生きていては死にきれないから、死んだらきっと安吾を呼ぶと言い残す。 |
◆発表作品等 |
1月、「傲慢な眼」(『都新聞』8、9日) 2月、「小さな部屋」(『文藝春秋』) 4月、「山麓」(『東洋大学新聞』30日) 5月、「新らしき性格感情」(『桜』) 座談会「文学の新精神を語る」(同) 「麓」(同、7月まで連載、未完) 「新らしき文学」(『時事新報』4~6日) 7月、「宿命のCANDIDE」(『桜』) 「山の貴婦人」(『帝国大学新聞』10日) 11月、「一人一評」(『新人』) 「ドストエフスキーとバルザック」(『行動』) |
◆書簡 |
1/23~12/22 矢田津世子宛(31通) 10/08 井上友一郎より来信 |
◆世相・文化 |
1月9日、伊豆大島の三原山で実践女子専門学校の生徒が友人立ち会いのもとに火口へ投身自殺。翌月にも同校生徒が投身自殺し、立ち会ったのが2件とも同じ同級生と判明、新聞で大きく採り上げられる。以後、三原山は自殺の名所となり、この年だけで129人が火口へ身を投げた。安吾は2年後の1935年と51年に大島を訪ねており、「安吾巷談」の1篇「湯の町エレジー」では「光栄ある先鞭をつけた何人だかの女学生は、三原山自殺の始祖として、ほとんど神様に祭りあげられていた」と、皮肉な笑い話としてこの事件に触れている。 1月30日、ドイツでヒットラーが首相就任。11月にはナチス党の一党独裁体制になる。 2月21日、小林多喜二が築地署の特高課で拷問され獄死。プロレタリア文学の弾圧が激化する。 2月24日、国際連盟総会で満州国を承認しない決議が採択され、日本代表団は議場を退場、翌月27日に国際連盟を正式に脱退する。 3月4日、アメリカでフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任、世界恐慌克服をめざしてニューディール政策を打ち出す。 3月18日、尾崎士郎が「人生劇場 青春篇」を7月まで『都新聞』に連載。35年に初版本刊、36年に内田吐夢監督により映画化。 4月16日、共産党員が大量に検挙される。 同月28日、海軍に続き陸軍でも少年航空兵制度が始まる。 5月3日、ドイツの建築家プルーノ・タウトが来日、翌日、桂離宮へ案内される。36年まで日本に滞在して、何冊もの日本文化論を著す。⇒1936年へ 同月、京大で滝川事件。法学部の滝川幸辰教授の講演が司法官の「赤化」を促すとして問題になり、鳩山一郎文相が滝川の罷免を要求。法学部側は全教官の辞表をもって文部省に抗議したが、大学当局の支持も得られず、京大総長と滝川ら20数名が辞職する。 6月5日、関東大震災で倒壊した聖路加国際病院が再建される。安吾が1942年に「日本文化私観」で「堂々たる大建築」だが「たあいもない物」と評した建物である。 6月7日、共産党指導者で、安吾の長兄献吉が大学時代に教えを受けた佐野学および鍋山貞親が獄中で転向を表明。共産党は両名を除名処分とする。 6月、谷崎潤一郎「春琴抄」発表。 9月、宇野千代が「色ざんげ」を翌年2月まで連載。 9月21日、宮沢賢治が37歳で死去。 10月、川端康成、横光利一、宇野浩二、小林秀雄、河上徹太郎、林房雄、武田麟太郎らが文化公論社から『文學界』を創刊。 11月1日、改造社から『文芸』創刊。編集長は上林暁。 12月、谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」を翌年1月まで連載。 |
1934 (昭和9) 年 28歳 | 長島の死から放浪の旅へ |
1月1日、長島萃が昏睡状態のまま死去。旧『青い馬』同人たちに告別式の案内状を書き送る。2日に葬儀があり、少しして長島の蔵書の形見分けの手配も自ら率先して行う。7日、長島家で形見分けが行われ、抽選で1人5冊ぐらいずつもらう。若園清太郎がもらったフロイトの精神分析書の裏表紙余白に、鉛筆書きで「安吾はエニグムではない」「安吾は死を怖れてゐる。然し彼は、知識は結ひ目を解くのでなしに、結ひ目をつくるものだと自覚してゐるから」「苦悩は食慾ではないのだよ。安吾よ」などと落書きされており、若園からこの本を進呈される。後年、これを謎のまま「暗い青春」に書き写している。 2月3日、『桜』同人の中で最も近しく感じていた河田誠一が肺結核のため実家の香川県仁尾町中津賀にて夭折。6日に遺族から知らせを受け、9日、早稲田大学の同窓でもあった田村泰次郎が同人代表で香川へ赴く。 3月10日頃、矢田津世子が蒲田を訪れるが安吾不在で会えずに終わる。 3月から4月にかけて5回ほど南の方へ旅に出る。吉原のバーの快活な女給と意気投合して8日間、2人で沼津から伊豆長岡あたりまで温泉宿を回って旅したことが「二十七歳」に書かれている。 4月終わり頃、矢田から登山倶楽部へ勧誘の手紙が届くが、鬱病傾向に加えて、仕事をし過ぎると脳貧血で倒れるようなこともあり「どうしやうかと、実はまだ考へ中です」と書いて送る。以後、翌年の夏まで、年賀状以外の矢田との文通が途絶える。この頃から、蒲田の工場街でボヘミアンというバーをやっていたお安と半同棲生活に入る。ボヘミアンから程近い安アパートを借りたが、訪ねた菱山修三の回想によると、その部屋は四畳半1間で机もなく、重ねた原稿用紙と万年筆が畳の上にじかに置いてあったという。 初夏の頃、小田原に戻っていた牧野信一宅に暫く滞在し、昆虫採集の供をする。同じ頃、蒲田の安アパートでジンマシン状の皮膚病に悩まされ、お安とともに大森区堤方町555(現在の大田区中央)の十二天アパートに移る。ここでは卓袱台が一つ置かれたが、やはり執筆は捗らなかった。 7月末、皮膚病がまだ治りきらず、友人たちに松之山温泉へ湯治に行くと言って旅に出るが、結局松之山へは赴かず、8月いっぱいは富山県魚津の旧友の「貧乏寺」に滞在する。 9月には旧友の紹介で「黒部山中の酒造家」のもとへ赴き、さらに奥秩父へ向かう。雲取山から甲武信岳へ、梓川伝いに下って小海線の海の口に出て、八ヶ岳の蓼科山まで縦走する。 夏から秋にかけての時期、娼家で淋病をうつされる。その頃、江古田の結核療養所で会計の仕事をしていた丸茂正治のもとを訪れ、井伏鱒二から伝授されたという「秘伝の治療法」を実践。まず白檀油を少量飲み、水を1升くらい飲んでから自転車を1時間ほど乗り回す。これを1週間続けると大量の小便が出て治るというもの。丸茂に療養所の自転車を借りて練馬、沼袋から新井薬師、哲学堂を巡って帰る、これで本当に治ったらしい。 12月頃、銀座出雲橋のはせ川で井伏鱒二の紹介により檀一雄と出逢う。井伏伝授の淋菌退治法の効果を檀にも得意げに語ったという。 |
◆発表作品等 |
2月、「長島の死」(『紀元』) 3月、「谷丹三の静かな小説」(『三田文学』) 「神童でなかつたラムボオの詩」(『椎の木』) 4月、「愉しい夢の中にて」(『桜』) 「文章その他」(『鷭』) 5月、「姦淫に寄す」(『行動』) 6月、「訣れも愉し」(『若草』) 「遠大なる心構」(『文學界』) 7月、「夏と人形」(『レツェンゾ』) 9月、「麓〔戯曲〕」(『新潮』) 「無題」(『紀元』) 10月、「意慾的創作文章の形式と方法」(『日本現代文章講座 方法篇』) |
◆書簡 |
1/01 矢田津世子宛 1月上旬 若園清太郎宛 2/10未明 矢田津世子宛 3/10 矢田津世子宛 3/26 宇野浩二より来信 4/28 矢田津世子宛 6月頃 牧野信一宛 |
◆世相・文化 |
1月、河上徹太郎と阿部六郎の共訳によりシェストフ『悲劇の哲学』刊行。河上はこの後もシェストフ作品を翻訳、論評し、知識人の間に流行する。 3月、満州国皇帝に溥儀が就任。 6月、萩原朔太郎が詩集『氷島』を刊行。 6月、2月から休刊していた小林秀雄らの『文學界』が文圃堂書店より復活。 8月、岡本綺堂「半七捕物帖」連載開始(翌年12月まで)。 9月、亀井勝一郎『転形期の文学』刊行。 10月25日、文圃堂書店から『宮沢賢治全集』全3巻の刊行開始。草野心平の熱意に成るもので、装幀は高村光太郎が無償で引き受ける。 11月2日、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁する米大リーグ選抜チームが来日、各地で日本チームと対戦して16戦全勝する。20日、静岡では日本のエース沢村栄治がルースを三振にとるなど好投。この16戦のうちのどれかを安吾も観戦しており、のちに「日本文化私観」にベーブ・ルースらの威容を記している。 12月1日、南満州鉄道株式会社が大連-新京(現在の長春)間で特急の運転を開始。 12月、中原中也が詩集『山羊の歌』を刊行。『宮沢賢治全集』ような本を、と文圃堂書店に頼み込み、同じく高村光太郎が装幀した。牧野信一「鬼涙村」発表。 12月26日、沢村栄治、スタルヒン、水原茂らをメンバーとして、日本初のプロ野球チーム大日本東京野球倶楽部(翌年、東京巨人軍と改称)結成。ライバルの大阪タイガースは翌年12月に結成。翌々年には7チームにふえる。 |
1935 (昭和10) 年 29歳 | 尾崎士郎との出逢い |
春頃、新潟中学で同級生だった大江勲が竹村書房の編集者になっていた関係で、竹村から処女作品集の出版が決まる。同時に、企画顧問のような仕事を引き受け、手始めに『スタンダアル選集』を企画、4月25日に東京帝国大学仏文科講師で研究室助手を務めていた中島健蔵のもとへ大江と2人で相談に行く。その夜、中島と深更まで飲み、やっと小説が書けるようになったと話す。 5月2日、中島の研究室にて大岡昇平、小林正、大江勲と会し、『スタンダアル選集』の打ち合わせをする。ここで大よそ中身が定まり、竹村書房社主の竹村坦も交えて飲む。大岡は京都在住の生島遼一を誘うため出張費を竹村に請求したが、その額が少なかったため不満であったらしい。結局、大岡の担当分のみ翻訳が成らなかった理由もここに端を発したものか。『スタンダアル選集』全7巻の巻立てと発行日は以下のとおり。1巻「ラミエル」中島健蔵訳(1936.1.27)、2巻「エゴティスムの回想」小林正訳(1936.4)、3&4巻「リュシアン・ルウヴェン」上・下 大岡昇平・渡邊明正訳(未刊)、5巻「日記」前川堅市訳&「書簡」河盛好蔵訳(1936.7.5)、6巻「匣と亡霊」「媚薬」「一伊太利貴族の思ひ出」桑原武夫訳&「パリアノ公爵夫人」「フランス人の恋」「ヴァニナ・ヴァニニ」生島遼一訳(1936.7)、7巻「ナポレオン」佐藤正彰訳(1937.3.25)。 同月、『作品』に発表した文芸時評「枯淡の風格を排す」で徳田秋声の文章などを小学生並みと批判、これに激昂する秋声門下の尾崎士郎が竹村書房を介して「決闘」を申し込んでくる。東京帝国大学の御殿山で待ち合わせ、上野から浅草、吉原の馬肉屋へと夜明かしで飲みあるき、翌日はさらに大森山王の尾崎家で飲んで、大森の十二天アパートに帰ってから血を吐いたという。士郎とは以後、終生の友となる。 6月25日、初めての単行本『黒谷村』が竹村書房から刊行され、疎遠になっていた矢田津世子からも祝いの手紙が届く。 7月10日、若園清太郎の胸膜炎療養を目的として群馬県吾妻郡の新鹿沢温泉へ一足先に赴く。若園の到着を待つ間、山一つ越えた長野県小県郡(現在の東御市(とうみし))の高原にある奈良原鉱泉へも探索に行く。数日後、若園と入れ代わりに一旦東京へ戻る。15日、新宿・白十字で『黒谷村』出版記念会が催される。20人余り出席。司会は中島健蔵で、宇野浩二が乾杯の音頭、尾崎士郎、井伏鱒二、河上徹太郎、武田麟太郎らがスピーチを行う。数日後、新鹿沢温泉に戻り、26日に若園と2人で奈良原鉱泉へ移る。若園は8月下旬に帰京するが、安吾はここに9月上旬まで滞在し、長篇「狼園」の執筆に集中、第1回分を書き上げて『文學界』へ送る。 9月に帰京してまもなく、お安とともに埼玉県の浦和駅近くのアパートに移り住む。「いづこへ」によれば、お安の別れた夫が「住所を突きとめ刃物をふりまはして躍りこむから」とお安にせかされたためだが、実はお安の妹(おそらく富子、作中では従妹アキ)と安吾が関係をもったことが裏の理由ではなかったかと作中で推測している。この頃、友人らへの手紙に渋谷区猿楽町五二の山沢種樹方と住所を記しているのは、山沢宅が『紀元』の発行所でもあったため連絡に便利と考えてのことであろう。お安の妹はまもなく自分の夫に追い出されて浦和まで頼って来てしまう。その頃書かれた短篇「をみな」には、そうしたドタバタ騒ぎの「現在」が描かれ、生々しい怒りを発散させた小説になっている。 11月末、巣鴨保養院に再び入院していた沢部辰雄を訪ねる。上京していた松之山の義兄村山真雄ら8人と伊豆大島から下田、天城、江の浦を旅行する。この旅行前後にお安との同棲をやめ、蒲田の実家に戻る。 |
◆発表作品等 |
1月、「淫者山へ乗りこむ」(『作品』) 2月、「天才になりそこなつた男の話」(『東洋大学新聞』12日) 3月、「悲願に就て」(『作品』) 「清太は百年語るべし」(『紀元』) 4月、「蒼茫夢」(『作品』) 5月、「枯淡の風格を排す」(『作品』) 「想片」(同) 6月、短篇集『黒谷村』竹村書房刊 7月、「金談にからまる詩的要素の神秘性に就て」(『作品』) 「日本人に就て」(同) 8月、「逃げたい心」(『文藝春秋』) 「分裂的な感想」(『文芸通信』) 「作者の言分」(『時事新報』7日) 9月、「文章の一形式」(『作品』) 「嬉しかつたこと 楽しかつたこと 口惜しかつた事 癪に触つたこと」(『文芸通信』) 10月、「西東」(『若草』) 11月、「桜枝町その他」(『文芸通信』) 12月、「をみな」(『作品』) |
◆書簡 |
1/01 矢田津世子宛 5月頃 尾崎士郎宛 7/09 矢田津世子宛 7/24 矢田津世子宛 7/26 竹村坦宛 7/26 隠岐和一宛 08/05 矢田津世子宛(若園清太郎と連名で) 10/04 小林秀雄より来信 12/23 尾崎士郎宛 |
◆世相・文化 |
1月、夢野久作『ドグラ・マグラ』刊行。小林秀雄が「ドストエフスキイの生活」を37年3月まで連載。 2月19日、美濃部達吉がかつて発表した天皇機関説が貴族院本会議にて問題化、同院議員の美濃部本人が25日に釈明演説を行うが、軍部や右翼の圧力により政府は美濃部の説を異端と断定、著書は発禁となり、美濃部は議員を辞職する。 同月、高見順が「故旧忘れ得べき」を翌年3月まで連載。 3月、亀井勝一郎、保田與重郎らが『日本浪曼派』創刊。第3号からは太宰治、檀一雄、山岸外史、木山捷平、伊東静雄ら多数の同人を迎える。 同月、坪田譲治が「お化けの世界」を発表。 4月、横光利一が「純粋小説論」を発表。自分を見る自分としての第四人称を設定することによって、純文学と大衆小説を融合・止揚できると説き、純粋小説論争が起こる。安吾も9月発表の「文章の一形式」において、第四人称を設定しなくても同様の効果が得られる日本語の特異な性質に言及した。 5月、詩誌『歴程』創刊。同人は草野心平、中原中也、高橋新吉、菱山修三らで、宮沢賢治も物故同人として遺稿詩が掲載された。 同月、太宰治が「道化の華」を、石川淳が「佳人」を発表。 8月、吉川英治が「宮本武蔵」を新聞連載(39年7月まで)。安吾は1942年の「青春論」で武蔵の兵法と生き方について論じている。 8月10日、第1回芥川賞に石川達三「蒼氓」が決定。選考委員は菊池寛、久米正雄、佐藤春夫、川端康成、横光利一らで、太宰の「逆光」「道化の華」は候補どまり。直木賞は川口松太郎「鶴八鶴次郎」他。 10月、伊東静雄が詩集『わがひとに与ふる哀歌』刊行。太宰治が「ダス・ゲマイネ」発表。 10月10日、砂子屋(まなごや)書房創業。社主は山崎剛平。のちに文人囲碁会のメンバーとなる(⇒1939年へ)。太宰治『晩年』や尾崎一雄『暢気眼鏡』など、無名の新進作家たちの「第一作品集」を多く刊行した。安吾は長篇『古都』を砂子屋書房から刊行する約束だったが、完成しなかった。⇒1942年へ |
1936 (昭和11) 年 30歳 | 矢田津世子との訣別 |
1月、矢田津世子をモデルとするヒロインが陰惨に描かれた連載小説「狼園」の第1回が『文學界』に発表される。奥付の発行日は1月1日だが、実際の発行は数日さかのぼるものと考えられる。発表後、ずっと会わずにいた矢田津世子から手紙が届く。手紙の現物は残っていないが、『黒谷村』の感想などが書かれてあったようで、8日、「お送りした本、あれは然し無意味なのです。過去に書き棄てた全てのものは、僕は微塵も愛が持てません」と返信する。おそらくその直後、矢田の突然の訪問を受ける。この再会時のようすは、エッセイ「青春論」や長篇「吹雪物語」、自伝的小説「三十歳」などで繰り返し描かれることになる。お互いが初めて恋心をもっていたことを告白、矢田はどうしてあの頃それを言ってくれなかったかと詰問したという。急速にかつての激情を取り戻し、それから1カ月ほど頻繁に会うが、互いに苦しめ合うような会話が続いたようである。「狼園」はこの時点で第3回まで入稿されていたはずだが、以後未完に終わる。 この年の初め頃、『早稲田文学』の編集に携わっていた尾崎一雄から執筆依頼があり、4月までに「雨宮紅庵」を書き上げる。 3月1日、本郷区菊坂町82(現在の文京区本郷)の菊富士ホテル屋根裏の塔の部屋に移り住む。ここには翌年1月まで滞在することになる。引っ越してすぐに矢田へ案内の手紙を出す。3月5日頃、菊富士ホテルを訪ねて来た矢田と、まるで反応のない口づけを交わして別れる。近藤富枝『花蔭の人』に転記された矢田の3月5日付のメモには、次のように書かれていたという。 「私が彼を愛してゐるのは、実際にあるがままの彼を愛してゐるのではなくして、私が勝手に想像し、つくりあげてゐる彼を愛してゐるのです。だが、私は実物の彼に会ふと、何らの感興もわかず、何等の愛情もそそられぬ。/そして、私は実体の彼からのがれたい余り彼のあらばかりをさがし出した。しかしそのあらを、私の心は創造してゐたのである」 その後、矢田から「映像が実体を拒否する」という言葉の書かれた絶縁の手紙を受け取り、3月16日、もう一度会って話したいと返信を送る。以後はおそらく会っていない。 3月24日夕、牧野信一が小田原で縊死。25日の通夜に赴き、谷丹三と深酒。26日の葬儀では谷丹三らと受付をつとめる。葬式のあと、『紀元』同人たちと娼家に赴く。これがもとで再び淋病を患い、治療のため原稿料が早く欲しい旨、尾崎一雄に書き送っている。 4月1日、「をみな」が『純文学』に再掲される。 6月16日、矢田へ宛てて「僕の存在を、今僕の書いてゐる仕事の中にだけ見て下さい。僕の肉体は貴方の前ではもう殺さうと思つてゐます。昔の仕事も全て抹殺」と、実質上最後の手紙を書き送る。以降、「吹雪物語」の原形となる長篇に集中、その一部として「母を殺した少年」を書き上げる。 夏頃、お安が菊富士ホテルに近い神保町に店を移し、くされ縁が復活する。自伝的小説「死の影」によると、「女の店の酒を平然と飲み倒した。あまたの友人をつれこんで、乱酔した」というような手ひどい扱いで、菊富士ホテルにはお安を一歩も近づけず、ときどき安吾のほうが店へ泊まったと書いている。 同じ頃、竹村書房の企画顧問としては、『スタンダアル選集』に続いて『フランス知性文学全集』もしくは『フランス心理小説叢書』の企画を立てたが、これは実現せずに終わる。やはり同じ夏頃から尾崎士郎と同人誌『大浪曼』を作ろうと計画、9月頃には坪田譲治、榊山潤らより安吾のもとへ原稿が送られてくるほど具体化していたが、他の原稿がなかなか集まらず、この計画も実現せずに終わる。この年は他に、北原武夫が当時文芸記者をつとめていた『都新聞』に匿名批評をしばしば書いたらしい。 11月28日、書きかけの長篇を一から書き直しはじめる。菊富士ホテルにはたくさんの酒友が訪れたので、そこを逃れて鵜殿新一の家で書いたりしたこともあり、ハイスピードで快調に書き進む。 |
◆発表作品等 |
1月、「狼園」(『文學界』3月まで連載、未完) 3月、「禅僧」(『作品』) 「不可解な失恋に就て」(『若草』) 「流浪の追憶」(『都新聞』17~19日) 5月、「雨宮紅庵」(『早稲田文学』) 「牧野さんの祭典によせて」(同) 「牧野さんの死」(『作品』) 「現実主義者」(『文芸通信』) 座談会「新しいモラルを・文学者の生活を・文芸ジャーナリズムを・いかにすべきか?」(『都新聞』17日~6月1日) 7月、短篇集『黒谷村』〔普及版〕竹村書房刊 9月、「母を殺した少年」(『作品』) 「文芸時評」(『都新聞』27日~10月2日) 10月、「老嫗面」(『文芸通信』) 11月、「スタンダアルの文体」(『文芸汎論』) 「一家言を排す」(『新潟新聞』20日) 「フロオベエル雑感」(『早稲田大学新聞』25日) 「幽霊と文学」(『新潟新聞』27日) 12月、「日本精神」(『新潟新聞』4日) 「新潟の酒」(『新潟新聞』11日) 「お喋り競争」(『時事新報』16~18日) 「手紙雑談」(『中外商業新報』24~26日) |
◆書簡 |
1/01 矢田津世子宛 1/08 矢田津世子宛 3/01 矢田津世子宛 3/16 矢田津世子宛 4/13 尾崎一雄宛 6/16夜 矢田津世子宛 7/20 竹村坦宛 9月頃 尾崎士郎宛 9/30 隠岐和一宛 |
◆世相・文化 |
2月、北条民雄が「いのちの初夜」を発表。 2月26日、青年将校たちのクーデター、二・二六事件勃発。高橋是清蔵相らが殺害される。翌27日から東京市に戒厳令がしかれる。 3月9日、広田弘毅内閣が発足。 3月、牧野信一自殺。矢田津世子が「神楽坂」を発表、好評を得て芥川賞候補となる。 3月17日、メーデーが禁止となる(終戦まで)。 5月18日、阿部定事件。定が愛人男性を絞殺して局部を持ち去った事件で、センセーショナルに報道される。被虐性愛の末の行為として情状酌量され、判決は懲役6年。安吾は事件を同情的に見ており、戦後、定と対談したり、身のふり方について助言したりした。 6月、砂子屋書房から太宰治が第1作品集『晩年』を刊行。 8月、ベルリンオリンピック。平泳ぎの前畑秀子ら日本は金6個、計18個のメダルをとり、「前畑ガンバレ!」の絶叫ラジオ中継が語りぐさになる。アメリカのオーエンスは、100メートル、200メートル、走り幅跳び、400メートルリレーで4個の金メダルを獲得。⇒1940年へ 9月から11月まで、坪田譲治が「風の中の子供」を新聞連載。 10月、保田與重郎が「日本の橋」を発表。 10月15日、ブルーノ・タウト『日本文化私観』の翻訳本刊行。桂離宮や玉堂、竹田、大雅、鉄斎らの日本画を高く評価し、日光東照宮や秀吉の茶室などを俗悪とした。西欧文化の模倣についても手厳しい批評を下している。偶然にも同日、タウトは日本を離れ、38年にトルコで死去。安吾の「日本文化私観」は本書への全面的な反論であるが、その本文中「玉泉」とあるのは「玉堂」の間違いであろう。タウトは浦上玉堂のことをゴッホに比肩する天才画家と讃えている。⇒1942年へ 11月25日、日独防共協定調印。 |
1937 (昭和12) 年 31歳 | 京都での両極端な生活 |
1月、隠岐和一が胃病の療養で京都の実家におり、長篇に没頭したいなら嵯峨の別宅に泊めてくれると言うので、京都へ行くことに決める。30日、尾崎士郎と飲み、士郎宅に泊まる。31日、『早稲田文学』編集の尾崎一雄に宛てて、今は長篇以外の原稿は書けないとお詫びのハガキを出す。夕刻、尾崎士郎夫妻と竹村書房の大江勲に両国の猪料理の店「ももんじ屋」で送別会を催され、そのあと大江とお安とに駅で見送られて夜行列車に乗り込む。 2月1日、隠岐の世話で嵯峨の別宅2階に仮寓する。隠岐の実家は京都市中京区両替町の老舗帯地問屋で、嵯峨の家は隠岐の妹幸子の病気療養のために借りたもの。1日の夜、隠岐から最大限の歓待を受ける。祇園花見小路の茶屋から舞妓を伴って東山ダンスホールまで行ったようすが「日本文化私観」に書かれている。3日、車折(くるまざき)神社で節分の神火(とんど)の祭りを見、火明かりで願掛け石に書かれた文字を一つ一つ読む。 嵯峨では、昼はもっぱら小説を書き、夜には車折神社裏の嵐山劇場へ旅芸人の芝居を見に行ったり、隠岐と飲みに行ったりする。隠岐に誘われて、丹波亀岡にあった大本教本部の爆破された跡を見物に出かけたこともある。隠岐の末妹で女学校通いの弘子が世話役で金庫番もつとめてくれたが、田村泰次郎が京都まで遊びに来た夜には、初任給50円の時代に1晩で100円飲んでしまったこともあったという。 2月末頃、伏見区稲荷鳥居前町22の中尾という計理士の事務所2階を間借り。隠岐の叔父が見つけてくれたもので、窓から火薬庫が見える2階の部屋だった。この転居を機に隠岐は東京へ戻る。 3月3日、「吹雪物語」第4章まで書き上がる。第5章は矢田津世子をモデルとする古川澄江が登場するクライマックスだが、執筆途中の22日に原稿用紙が切れて「身を切られるごとくつらし」と、隠岐に手配を頼むハガキを出す。 4月、尾崎一雄、小田嶽夫、伊藤整、上林暁らを同人として前年6月に創刊された『文学生活』の同人に加わるが、同誌は6月号をもって廃刊となる。 4月7日、「吹雪物語」第5章を書き終わる。9日、金策に困って隠岐に無心のハガキを出す。その頃から、立命館大学の山本という先生、東大仏文科を卒業したばかりでJO撮影所の脚本部員になっていた三宅勇蔵らと飲みに行ったりするようになる。27日には山本と、偶然出会った旧『青い馬』同人の多間寺龍夫と3人で泥酔、多間寺を隠岐の実家へ無心に行かせる。月末には尾崎士郎も遊びに訪れたもよう。 5月25日、「吹雪物語」第6章まで、600枚以上が書き上がる。総枚数の7分の6にあたる。ハイペースの執筆はここまでで、以降停頓する。5月末頃からお尻に腫れ物ができて高熱にうなされ、同時に計理士の都合で部屋を引き払わねばならなくなる。隠岐や葛巻義敏に送金の無心をし、多間寺に引っ越し先を探してもらう。 6月9日頃、伏見区深草町一之坪36の上田食堂2階に転居。京阪稲荷駅前の露路にあり、家賃も食費も安くて生活が楽になる。この食堂に集まる人々と連日碁を打ったり酒を飲んだりする。「吹雪物語」には手をつける気が起こらず、古典文学に関心が湧いて各種の説話のほか、のちに「閑山」のタネとなる「甲子夜話」や北条団水「一夜舟」、「燕石雑志」「諸国里人談」「利根川図志」「北越雪譜」など各地の伝説や奇談、怪談などを録した江戸時代の随筆まで読みあさる。また、三宅勇蔵に誘われて数多くの映画を見、新京極の京都ムーランというレビューや、森川信一座がアトラクションをやっていた活動小屋、ニュース映画館などへ通いつめる。 秋には食堂2階の広間に碁会所を開かせ、碁の「先生」と呼ばれるようになる。同じ頃、女学校4年生で「不良少女」だったとされる食堂の娘が家出を繰り返し、頼まれて三宅とともに市中の喫茶店を探しまわる。 10月いっぱいは病臥。 11月10日に「吹雪物語」第7章がようやく書き上がり、後日譚にあたる第8章の約10枚を除いて第1稿が完成、推敲に入る。 12月下旬、食堂の娘が本格的に家出、娘の母親と三宅と3人で、娘の友人宅を訪ねてまわる。結局、別のルートから発見され連れ戻された娘は、恋人と一緒にいたことを安吾にだけ白状したという。 |
◆発表作品等 |
1月、「北と南」(『新潟新聞』14日) 2月、「気候と郷愁」(『女性の光』) |
◆書簡 |
1/10 矢田津世子宛 103 1/31 尾崎一雄宛 173 2/26 尾崎士郎宛 112 3/04~12/25 隠岐和一宛(13通) |
◆世相・文化 |
1月、山本有三が「路傍の石」を6月まで新聞連載。 2月2日、林銑十郎内閣発足。 2月9日、石川淳「普賢」が芥川賞に決定。 3月、志賀直哉『暗夜行路』前・後篇刊行。 4月、横光利一が「旅愁」の新聞連載をはじめる。戦争で中断するが戦後も書き続け、未完に終わる。 同月、永井荷風が「墨東綺譚」を6月まで新聞連載。 6月、川端康成『雪国』刊行。 6月4日、第1次近衞文麿内閣が成立。 7月7日、蘆溝橋事件により日中戦争が始まる。 7月31日、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社が共同で軍歌「進軍の歌」の歌詞を懸賞募集する。北原白秋、菊池寛らが選考委員。わずか1週間で22,000通を越える応募があり、8月12日、『青い馬』同人で大蔵省会計課に勤務していた本多信が1等当選。9月に陸軍戸山学校軍楽隊の作曲・演奏でコロムビアからレコード発売され、60万枚を超えるヒットになった。もっとも、人気が高かったのは「勝ってくるぞと勇ましく」で始まるB面「露営の歌」のほうで、2等当選した藪内喜一郎の作詞、古関裕而の作曲であった。安吾は晩年「世に出るまで」の中で、本多信のことを「愛馬行進曲」を作った詩人、と書いているが、「愛馬行進曲」を作詞したのは別人で、この「進軍の歌」と混同したものであろう。10月21日には、これを主題歌とした映画「進軍の歌」も公開された。 8月、国民精神総動員運動の開始が決まる。 8月12日、尾崎一雄『暢気眼鏡』が芥川賞に決定。 10月1日、政府が小冊子『我々は何をなすべきか』1300万部を全国各戸に配布、朝鮮人には『皇国臣民の誓詞』を配布し、戦意高揚を促す。 10月22日、中原中也が結核性脳膜炎により30歳で死去。 10月、島木健作が長篇『生活の探求』を書き下ろし刊行、ベストセラーとなる。 11月6日、日独伊防供協定調印。 12月13日、日本軍が南京を占領、日本中が歓喜に湧いたが、南京では2カ月にわたって虐殺行為が繰り返されたといわれる。 |
1938 (昭和13) 年 32歳 | 『吹雪物語』に賭けた自信と失意 |
1月、三宅勇蔵が入営したことにより、京都で一番の飲み友達がいなくなる。 2月末、菱山修三がフラリと訪ねて来て、前年10月刊行の第2詩集『荒地』を贈られる。 6月半ば頃、「吹雪物語」の推敲を終えて帰京、竹村書房に原稿を渡し、菊富士ホテルに戻る。 6月29日、松之山の姪で可愛がっていた村山喜久が、弱冠20歳で自宅庭の沼に入水自殺を遂げる。 7月20日、『吹雪物語』を竹村書房から刊行。「知性の混乱を通過した最初の正統芸術小説書下し長篇」と銘打った帯の宣伝文は自ら書いたものである。今までにない新しい小説との自負があり、「賞のひとつぐらゐも、必ず貰へるべき筈のものだと信じてゐるのです」と竹村書房の竹村坦に書き送っている。しかし批評はほとんどなく、検閲で伏字だらけにされたせいもあって売れ行きも悪く、失意の日々が始まる。 8月頃には新宿の高野フルーツパーラーで、菱山修三の司会のもとに出版記念会が行われる。葛巻義敏、上林暁、尾崎一雄、宇野千代、中村地平、真杉静枝、丸茂正治らが出席。 この頃、若園清太郎から岡田東魚を紹介される。岡田は講談社で『講談倶楽部』の編集をしていた十幾つ年上の文学愛好家で、安吾とは段違いに碁が強かった。岡田に連れられて、本格的な囲碁仲間のつどう本郷3丁目の碁会所「富岡」に出入りするようになる。そこで別格に強い東大囲碁部主将の頼尊清隆らと知り合い、岡田と共によく連れだって飲みに行く。岡田の住まいは板橋にあったが、安吾を敬愛して菊富士ホテルに仕事部屋を借りて住み、安吾の生活の補助までしていたらしい。この頃、隠岐和一が1度めの応召、京都市深草歩兵第九連隊へ配属されることになり、「武運長久」を祈って日章旗に寄せ書きをする。集まったのは安吾、菱山、若園、江口、山沢ら『青い馬』以来のメンバーのほか、尾崎一雄、草野心平、田村泰次郎らの名前もある。 8月10日、再びどこかの田舎にこもって「生命を賭けた仕事」に没頭したいので金を貸してほしいと竹村書房に頼む。また、この頃から、『文体』の編集に携わっていた北原武夫の奨めで、古典に取材した短篇を構想しはじめる。『文体』はこの年11月に宇野千代のスタイル社から創刊される文芸誌で、編集主幹は三好達治。北原も宇野も三好も安吾作品を高く評価しており、全7冊発行された『文体』の5冊に作品が載る。 9月、20日頃に満州へ行く計画を立てるが、1カ月後の10月半ばに中止と決める。 秋頃から、赤坂溜池にあった日本棋院で催される文人囲碁会に顔を出すようになる。ここでは、旧知の小林秀雄、三好達治、尾崎一雄のほかに、主宰の野上彰、豊島与志雄、川端康成、村松梢風、倉田百三、三木清、徳川夢声らと相知る。 11月末頃、京都を舞台にした長篇を書きはじめた旨、京都の深草第9連隊に入営中の隠岐和一に書き送る。3年後に発表される「古都」とその続篇「孤独閑談」は、長篇を意図して書かれた連作で京都言葉がふんだんに使われている。両作の原形となる「囲碁修業」「探偵の巻」がこの年に発表されているので、早くから長篇「古都」の計画が頭にあったと考えられる。 この頃、竹村書房で版を重ねていた尾崎士郎の『人生劇場』第何版かが、検印もなく印税未払いで販売されたことが士郎にわかり、訴訟になりかける。この事件の仲介役を引き受け、竹村から謝礼として高級なスネーク・ウッドのステッキをもらう。もっとも、その場で公式な文書を交わさなかったため、翌日士郎から速達が来て話は逆戻りしてしまったらしい。この一件以降、終戦まで士郎とは疎遠になる。 |
◆発表作品等 |
1月、「女占師の前にて」(『文學界』) 3月、「南風譜」(『若草』) 6月、「本郷の並木道」(『帝国大学新聞』20日) 「囲碁修業」(『都新聞』21~23日) 7月、書き下ろし長篇『吹雪物語』竹村書房刊 11月、「『花』の確立」(『読売新聞』15日) 「探偵の巻」(『都新聞』24~26日) 12月、「閑山」(『文体』) 「序」(真杉静枝『小魚の心』に書き下ろし) |
◆書簡 |
1/24~6/12 隠岐和一宛(6通) 8/10 竹村坦宛 9/12 隠岐和一宛 10/14 隠岐冨美子宛 11/29 隠岐和一宛 12/19 竹村坦宛 12/19 隠岐冨美子宛 |
◆世相・文化 |
1月、石川淳が「マルスの歌」を発表するが、発禁処分を受ける。中川与一が「天の夕顔」を発表。 2月7日、火野葦平「糞尿譚」が芥川賞に決定。 2月、小林秀雄が「志賀直哉論」を発表。 4月1日、国家総動員法が公布される。4日には灯火管制規則も公布。 4月、堀辰雄『風立ちぬ』刊行。中原中也が生前にまとめていた詩集『在りし日の歌』が創元社より刊行される。 6月、三木清が「人生論ノート」を連載(41年11月まで)。 8月、火野葦平が「麦と兵隊」を発表。 9月、ペン部隊として多くの作家が戦地へ従軍するようになる。 11月、岡本かの子が「老妓抄」を発表。 12月、草野心平が詩集『蛙』刊行。 |
1939 (昭和14) 年 33歳 | 取手でトンパチを飲む日々 |
1月、蒲田の家にいた長兄献吉が新潟新聞社取締役に就任し、新潟へ戻る。 2月5日、文人囲碁会では、野上彰、頼尊清隆、岡田東魚、大江勲、鵜殿新一、若園清太郎、伊田和一(田岡敬一)、豊島与志雄らと本郷チームを結成、尾崎一雄や榊山潤、砂子屋書房社主山崎剛平らを中心とする上野砂子屋チームと対戦して圧勝、大いに自慢とする。 3月、長篇執筆のため、竹村書房の竹村坦の薦めで茨城県取手町に転居することを決める。菊富士ホテルを退去する時、階下に住んでいた岡田東魚に「吹雪物語」の直筆原稿を預ける。上梓されたら家賃を入れる約束だったので持ち出せないというのだった。結局、岡田は預かった原稿を包んで安吾とともに菊富士ホテルを出てしまうが、安吾没後、郷里の函館図書館に寄贈したため今日に残っている。 3月28日、千代田区内幸町大阪ビル内のレストラン「レインボウ・グリル」にて開催された井上友一郎『波の上』(砂子屋書房刊)出版記念会に出席。他に徳田秋声、広津和郎、宇野浩二、尾崎一雄、高見順、伊藤整、丹羽文雄、石川達三、田村泰次郎、円地文子、坪田譲治ら数十名が参会した。 4月頃、戯作「殺人とは何歟」を書きはじめたが、構想の複雑さに書きあぐね頓挫。 5月16日、竹村坦と茨城県取手町に着き、伊勢甚旅館に1泊後、休業中の取手病院の離れに住むことになる。もとは賄いのじいやが住んだ小屋である。それからまもなく、野上彰、頼尊清隆、岡田東魚が訪れ、若園清太郎、関義らを加えて『野麦』もしくは『青麦』という同人誌を作る計画に誘う。安吾は道鏡をモデルにした作品を執筆すると言い、そのプロットなどを話すが、資金もなく同人誌が実現する当てはなかった。 初夏の一日、若園が妻と幼い長女をつれて遊びに訪れ、その1月ほど後には中村地平と真杉静枝の内縁夫婦が訪ねて来る。予定していた長篇はほとんど捗らず、鬱状態が続く。取手に住んだ8カ月間にはファルス短篇を1つ書いたほかは、エッセイや『都新聞』に匿名批評を書いただけで、居酒屋で「トンパチ」と呼ばれるコップ酒を飲む日々が続く。月に2回ほど東京に出て、若園ら友人たちの家を訪ね、映画を見たり碁を打ったりする。 8月1日昼頃、洪水のあと増水した川で少年が遊んでいて溺れたと人々が騒いでいるのところに出くわし、褌一丁になって3回ばかり川へ飛び込み、少年の水死体を引き上げる。この時、少年の祖父も少年を助けようとして共に溺死していたが、さらに潜って捜す元気はなかった。この一件以来、町では英雄視されるようになる。ただ、川に飛び込む時に、竹村からもらった自慢のスネーク・ウッドのステッキをなくしてしまう。 10月半ばに取手を訪れた谷丹三は、机の上に危うい心理状態のメモ書きが置かれているのを見たという。 11月4日と5日、モクゾウガニを食べる蟹祭りで町の人たちと飲む。5日の昼は竹村坦の来訪を受けて職業野球観戦に行く。 12月下旬、岡田東魚が精神異状を来たしたと若園から連絡を受け、アテネ・フランセで3人で会う。斎藤茂吉の青山脳病院への入院をすすめるが、岡田はそれだけは勘弁してほしいと哀願する。年末、行方不明になった岡田を探しまわる。 |
◆発表作品等 |
1月、「かげろふ談義」(『文体』) 「想ひ出の町々―京都」(『スタイル』) 2月、「紫大納言」(『文体』) 3月、「木々の精、谷の精」(『文芸』) 「長篇小説時評」(『徳島毎日新聞』25~31日) 4月、「茶番に寄せて」(『文体』) 5月、「勉強記」(『文体』) 「市井閑談」(『都新聞』6~8日) 8月、「日本の山と文学」(『信濃毎日新聞』16~19日) 10月、「醍醐の里」(『若草』) 11月、「総理大臣が貰つた手紙の話」(『文学者』) |
◆書簡 |
1/30 尾崎一雄宛 2/23 隠岐和一宛 5/17 竹村坦宛 5/17 尾崎一雄宛 5月頃 野上彰宛 10/27 竹村坦宛 11/06 谷丹三宛 11/30 谷丹三宛 |
◆世相・文化 |
1月、高見順が「如何なる星の下に」を翌年3月まで連載。折口信夫が「死者の書」を3月まで連載。 1月15日、横綱双葉山の連勝記録が69でストップする。 2月、井伏鱒二が「多甚古村」を発表。太宰治が「富嶽百景」を翌月まで連載。 3月、詩誌『荒地』創刊。 4月、岡本かの子の遺作「生々流転」が12月まで連載される。 5月、ノモンハン事件。日本とソ連との国境紛争で、9月の停戦協定まで武力衝突が続く。 7月、三好達治が詩集『艸千里』刊行。武者小路実篤が「愛と死」を発表。 9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる。 |
1940 (昭和15) 年 34歳 | 小田原でキリシタンにはまる |
1月3日、岡田東魚が板橋の家を売って、神奈川県鎌倉郡(現在の藤沢市)片瀬に移り住んだことがわかり、若園清太郎と片瀬を訪問、1泊して岡田を元気づける。数日後、若園が岡田を懇意の精神病院へ入院させるが、岡田は早々に退院して片瀬に舞い戻り、4月に郷里の函館へ引っ越してしまう。岡田とはそれっきり会うことはなかった。 1月上旬、中村地平・真杉静枝夫妻宅を訪れ、中央公論社に勤める故長島萃の妹に会ったと夫妻から聞き、短篇「篠笹の陰の顔」を構想する。 1月中旬、三好達治の世話で神奈川県小田原町早川橋際亀山別荘に転居。ここでは毎朝5時頃に起きて半日ほど熱心に執筆する日課を崩さなかったと三好が回想している。食事は毎日三好家でとり、三好とはよく碁を打つ。まもなく三好からキリシタンに関する本を薦められ、その面白さに憑かれて何冊も読む。これが初めての歴史小説「イノチガケ」へと結実していく。三好の紹介で知り合った歴史に造詣深い伊沢幸平と親しくなり、資料探索の手伝いなど頼むようになる。夜はもっぱら、牧野信一の幼友達でガランドー工芸社という看板屋の主、山内直孝と飲み歩く。 4月、囲碁仲間の頼尊清隆が都新聞社に入社、この年から翌年にかけての頃、ヒロポンが二日酔いに効くと都新聞社内で評判だと頼尊から教わる。試したのは錠剤だが、戦中はあまり服用する機会もなかったという。 6月1日の鮎釣り解禁日に合わせて、前夜から小林秀雄と島木健作が三好の家に泊まり、4人で鮎釣りを楽しむ。三好とは全面的に打ち解けた関係にはなれず、しだいに三好家に出入りすることが少なくなる。 7月4日、妹千鶴が長野県北佐久郡春日村出身の竹花政茂に嫁す。 秋頃からは蒲田の実家にいることの方が多くなり、11月25日から12月初めまで新潟へ帰省。 12月31日夕、浅草の雷門で大井広介と会い意気投合、『現代文学』同人に加わる。同人は安吾と大井の他、平野謙、杉山英樹、赤木俊(荒正人)、佐々木基一、南川潤、宮内寒弥、井上友一郎、檀一雄、野口冨士男、北原武夫、菊岡久利、山室静、高木卓、豊田三郎の16人。同誌には終刊までの3年間、毎号のように作品を発表、座談会にも積極的に参加するなど深くかかわることになる。 |
◆発表作品等 |
1月、「生命拾ひをした話」(『囲碁春秋』) 4月、「篠笹の陰の顔」(『若草』) 5月、「文字と速力と文学」(『文芸情報』) 6月、「盗まれた手紙の話」(『文化評論』) 7月、「イノチガケ」(『文學界』9月まで連載) 11月、「負け碁の算術」(『囲碁クラブ』) 12月、「風人録」(『現代文学』) |
◆書簡 |
1月中旬 若園清太郎宛 1月中旬 尾崎一雄宛 3/01 隠岐和一宛 11/25 山内直孝宛 |
◆世相・文化 |
1月、堀口大學がサルトル「壁」の翻訳を発表。 1月16日、米内光政内閣が発足。 2月、太宰治が「駈込み訴へ」を発表。岡本かの子の遺作長篇「女体開顕」発表。 同月11日、皇紀2600年の紀元節大祭が全国の神社で執り行われる。同日、朝鮮人の氏名を日本式に変える創氏改名の法律が施行される。 4月、織田作之助が「夫婦善哉」を発表。 5月、會津會津八一が歌集『鹿鳴集』刊行。 5月、太宰治が「走れメロス」を発表。 5月、ドイツ軍がフランス侵攻、フランスは6月22日に降伏しドイツ占領下におかれる。 6月、レニ・リーフェンシュタール監督のベルリンオリンピック記録映画『民族の祭典』が日本公開される。後年、ナチスのプロパガンダ映画として批判の対象にもなったが、斬新な映像表現による高い芸術性が評価された。安吾もこの映画を見たらしく、アメリカの陸上選手オーエンスの完璧な肉体美について「日本文化私観」に書いている。 7月22日、近衛文麿が第2次内閣を組閣。 8月、伊藤整が「得能五郎の生活と意見」を翌年4月まで連載。 8月1日、国民精神総動員本部が「ぜいたくは敵だ!」の立て看板を東京市内各所に設置。 9月、田中英光が「オリンポスの果実」を発表。 9月23日、日本軍が北部仏印へ進駐開始。フランスが親ドイツ政権となったため可能となったもの。 同月25日、阿部豊監督による国策映画「燃ゆる大空」が日本劇場にて公開される。円谷英二が特撮に加わり、実戦機を使用した空中戦の迫力が人気を呼んだ。安吾もこれを見て、2年後の夏、その芸術性の低さを嘆く文章を書いている。 同月27日、日独伊三国同盟調印。 10月12日、近衛文麿を総裁として大政翼賛会結成、事実上、一国一党体制となる。岸田国士が翼賛会文化部長となり日本文芸中央会が発足。 12月、内閣に情報局が設置され、言論統制が強化される。 |
1941 (昭和16) 年 35歳 | 『現代文学』の悪童たち |
この年から3年ほど、月に10日は大井広介の家で過ごし、書庫にあった探偵小説や三国志演義など読みあさる。大井家に集まる『現代文学』同人の平野謙、杉山英樹、荒正人、佐々木基一、南川潤、井上友一郎、郡山千冬、長畑一正らと探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。ポーの未完長篇の解決篇を平野と合作しようと幾晩も意見を戦わせたこともあり、のちの推理長篇「不連続殺人事件」の構想もこの当時に芽ばえたようである。また、よく大井と連れだって浅草のお好み焼き屋「染太郎」へ出かけるようになり、春頃から浅草の東京演芸の脚本家になった淀橋太郎やかつて京都新京極の小さな活動小屋(映画館)のレビューで感銘を受けた芸人森川信らと出会う。 この年、『現代文学』発行元でもある大観堂から書き下ろし長篇『島原の乱』刊行の約束を得て、5月3日頃から中旬まで、九州へ取材旅行に出る。長崎では図書館で「高来郡一揆之記」を書写、妖術使いといわれた金鍔次兵衛の潜んだ横穴などを見学する。7日に島原へ、9日には天草を探訪してまわる。 7月22日、小田原が豪雨に見舞われ、早川の堤防が決壊、三好達治の家は鴨居まで浸水し、安吾の借家は流れ去る。 8月、新聞社統合による新潟日日新聞社設立とともに長兄献吉が取締役副社長に就任。 同月初め頃、三好達治と伊沢幸平から小田原水害の知らせを受けて、夜具と数十冊の本、特に三好に貸してあった父坂口五峰著『北越詩話』だけでも送り届けてほしい旨、三好に書き送る。夜具と『北越詩話』は高い所にしまってあったため幸い水難を免れていたが、三好は被災して大変な時に身勝手なことをと激怒して、誰か引き取り人をよこすようにと返信する。 8月21日、小田原の荷物の引き取り役を山内直孝にハガキで頼む。尾崎一雄宛書簡によると、この直後ぐらいに小田原まで出かけているが、三好や山内のもとへは立ち寄っていないようである。短篇「真珠」によれば、10月にも11月にも「ドテラを取りに小田原へ行つた」が、冬前で必要に迫られていなかったため面倒になって「ドテラを忘れて戻つて来た」という。 9月5日まで「島原の乱雑記」執筆、9日から長篇「島原の乱」第1稿にとりかかる。もっとも、主人公の1人と考えていた金鍔次兵衛が島原の乱直前に死んでいたことや、一揆側の資料が少なすぎることなどが響いて、執筆は捗らず。 秋、若園清太郎の『バルザックの歴史』および『バルザックの方法』2著が共に大観堂から刊行されることになり、隠岐和一、山内義雄、大観堂の北原義太郎と4人で出版記念会の世話役を引き受ける。会場手配から署名帳の準備、案内状の執筆まで率先して行う。 11月3日、銀座「エーワン」にて若園の出版記念会を開催。石川淳、高見順、井上友一郎、山沢種樹ら20人ぐらい出席。この会で石川淳を知る。初めは反目する風であったが、2次会で石川が案内した新宿の武林夢想庵のバーで話すうちに石川と気心が通じる。 12月7日、いよいよ寒くなってドテラを取りに小田原の山内直孝宅へ赴く。8日、開戦の報を小田原で聞く。午後、生魚をもとめて山内と相模湾沿いをバスで国府津、二宮へと向かい、その日のうちに空襲があるかもしれぬと覚悟しながら焼酎に酔う。 |
◆発表作品等 |
4月、短篇集『炉辺夜話集』スタイル社出版部刊 「後記」(『炉辺夜話集』に書き下ろし) 5月、「死と鼻歌」(『現代文学』) 「相撲の放送」(『都新聞』7日) 6月、「作家論について」(『現代文学』) 「島原一揆異聞」(『都新聞』5~7日) 8月、「文学のふるさと」(『現代文学』) 9月、「波子」(『現代文学』) 「中村地平著「長耳国漂流記」」(同) 10月、「島原の乱雑記」(『現代文学』) 11月、「文学問答〔北原武夫との往復書翰〕」(『現代文学』) 「ラムネ氏のこと」(『都新聞』20~22日) 12月、「新作いろは加留多」(『現代文学』) 座談会「昭和十六年の文学を語る」(同) 「日本の詩人」(『都新聞』1日) |
◆書簡 |
4月下旬 坂口下枝宛 5/09 尾崎一雄宛 5月頃 若園清太郎宛 8/21 山内直孝宛 8/24 尾崎一雄宛 9/03 山内直孝宛 9/20頃 山内直孝宛 |
◆世相・文化 |
1月8日、東条英機陸相が「戦陣訓」を全軍に示達。新聞などでも大きく報じられ、「生きて虜囚の辱めを受けず」という特攻精神を鼓舞する文言が有名になる。安吾も「堕落論」でこの言葉を引用、強く否定した。 3月、堀辰雄が「菜穂子」を発表。 4月1日、主要6都市で米の配給制実施。同日、小学校が「国民学校」と改称され、初等科6年、高等科2年の義務教育8年制となる。 4月13日、日ソ中立条約調印。 6月、徳田秋声が「縮図」を9月まで新聞連載。 同月22日、ドイツ軍がソ連に侵攻開始。 7月、織田作之助『青春の逆説』刊行。太宰治『新ハムレット』刊行。 同月、『新潟新聞』が『新潟毎日新聞』と合併し『新潟日日新聞』と改題される。 同月28日、日本軍が南部仏印にも進駐する。 8月、高村光太郎が詩集『智恵子抄』刊行。三木清『人生論ノート』刊行。 9月から翌年にかけて、ゾルゲ事件発覚。ソ連のスパイとしてゾルゲや尾崎秀美らが検挙される。ゾルゲと尾崎は1944年11月7日に死刑執行された。 10月18日、東条英機内閣成立。 11月26日、アメリカが日本にハル・ノートを提示。すべての占領地を満州事変前の状態に戻すことを要求するもので、日本はこれを最後通牒と受け取る。 12月8日、真珠湾奇襲攻撃により、太平洋戦争開戦。この時、空中攻撃隊350機に加えて特殊潜航艇5隻による特別攻撃隊が海中を出撃。1隻は魚雷攻撃に成功したと打電があったが、結局生還できた艇はなく、10人のうち9人が死亡、1人は米軍の捕虜となった。⇒翌年へ 同月10日、日本が米領グアムを占領。以後、翌年夏までに香港、マレーシア、インドネシア、フィリピン、タイ、ビルマ(ミャンマー)、ニューギニア、シンガポールなど、連合国側の植民地を次々と占領。 同月11日、ドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告。 同月16日、広島県の呉ドックから世界最大の戦艦大和が就役。 |
1942 (昭和17) 年 36歳 | 緊密な作品群と「島原の乱」 |
1月頃、エッセイの代表作「日本文化私観」を執筆。 2月16日、母アサが死去。 『現代文学』2月号および3月号に、大観堂「長篇歴史文学叢書」の広告が載り、坂口安吾『島原の乱(仮題)』上下2冊も予告される。「スタンダールを彷彿しメリメの香気高く、まさに歴史文学のジャンルを拡充するもの」という宣伝文は安吾自身の筆かと推測される。 5月、「島原の乱」の一部とみられる「天草四郎」100枚ほどを完成、大井広介に見せたが不評のため発表せず、構想を練り直す。今に残るノート「島原の乱 第一稿」は、この「天草四郎」の原形かと思われる。 6月、「孤独閑談」を『文芸』に発表予定だったが検閲を通りそうにないと断られ、砂子屋書房から刊行予定だった長篇『古都』は執筆中断を余儀なくされる。 6月末頃から10月初め頃まで新潟に帰省。新潟へ出立前、麹町番町の若園清太郎宅を訪れ、戦時下で先の見通しがつかないアテネ・フランセの仕事などやめてジャーナリズム関係の会社に転職しないかと奨める。長兄献吉と十数年来の友人である電通の吉田秀雄(当時は常務)が社員を探していたため。新潟では、献吉の家で長篇「島原の乱」を書き継ぐかたわら、短篇やエッセイもいくつか書く。未発表原稿として〔田舎老人のトランク〕〔木暮村にて〕〔「燃ゆる大空」について〕〔平野謙について〕〔「島原の乱」断片〕のほか書簡の下書きもしくは書きさしも数点残っている。また、小説「宮本武蔵」の構想を立て、武蔵についても研究を進める。武蔵も島原の乱に参戦しているため、列伝スタイルで長篇にとりこもうとしていたのかもしれない。 8月、献吉が新潟市学校裏町の家を同市二葉町1丁目5932番地に移す。移ったばかりの家に若園清太郎が5日ほど滞在、献吉に紹介し、町を案内したり毎日一緒に泳ぎに行ったりして遊ぶ。若園は帰京後、西銀座の電通で吉田秀雄に会うと、どういう関係からか台湾総督府の機関紙である『台湾日日新報』への就職を斡旋され、同時に電通外国部の仕事を手伝うように言われる。 10月、「青春論」後半が武蔵論になったため小説「宮本武蔵」の構想を中止し、「島原の乱」執筆に立ち戻る。 11月、1県1紙の新聞社統合による新潟日報社設立とともに献吉が専務取締役に就任。 |
◆発表作品等 |
1月、「古都」(『現代文学』) 「文章のカラダマ」(『都新聞』8日) 2月、「たゞの文学」(『現代文学』) 3月、「日本文化私観」(『現代文学』) 4月、「外来語是非」(『都新聞』12日) 5月、「文芸時評」(『都新聞』10~13日) 6月、座談会「一問一答 丹羽文雄は何を考へてゐるか」(『現代文学』) 「真珠」(『文芸』) 7月、「甘口辛口」(『現代文学』) 座談会「歴史文学を中心に」(同) 8月、「大井広介といふ男」(『現代文学』) 9月、「居酒屋の聖人」(『日本学芸新聞』1日) 「今日の感想」(『都新聞』30日) 11月、「剣術の極意を語る」(『現代文学』) 「青春論」(『文學界』12月まで連載) 12月、「文学と国民生活」(『現代文学』) |
◆書簡 |
6/23 尾崎一雄宛 7/23 尾崎一雄宛 7/25 尾崎一雄宛 11/17 伊沢幸平宛 12/27 尾崎一雄宛 12/28 伊沢幸平宛 |
◆世相・文化 |
2月、中島敦が「山月記」「文字禍」を発表。 3月6日、真珠湾攻撃の折に特殊潜行艇による特別攻撃隊に「志願」して逝った「9人」がいたと初めて大本営発表される。捕虜になった酒巻和男の存在は隠され、集合写真からも削られて「九軍神」と讃える内容。安吾はこれをもとにして「真珠」を執筆する。酒巻和男は戦後帰国して、1949年6月および7月に手記「捕虜第一号」を発表。安吾も即座にこれを読んだが、その内容については不満が多く、同年「スポーツ・文学・政治」において、こう語っている。「ボクらの読みたい『戦争物』は冒険物語なんだ。しかるにあれはやはり俘虜記だ。文学はあんなもんじゃない。基地から死地へ向って行く、その間の緊迫した事件が文学の主題であるべきだ。後からの感想の部分なんて、てんでだめだ」 4月、小林秀雄が「当麻」を発表、以降『無常といふ事』にまとめられる連作を断続的に発表する。 同月18日、米軍機B25が東京、名古屋、神戸などで、初の本土空襲。 5月、中島敦が「光と風と夢」を発表。 5月26日、情報局の指導を受けて、日本文学報国会が設立される。会長は徳富蘇峰、事務局長は久米正雄が務め、安吾を含めて事実上ほとんどの文学者が会員とされる。 6月、ミッドウェー海戦で大敗北、日本は主力空母全6隻中4隻と多数の戦闘機、熟練パイロットたちを失う。 7月、岩田豊雄(獅子文六)が「海軍」を12月まで新聞連載。 8月、川端康成が「名人」を発表。 9月14日、『改造』掲載の論文が共産主義的であるとして細川嘉六が検挙される。これが横浜事件に発展、終戦までに改造社、中央公論社、日本評論社、岩波書店、朝日新聞社などの編集者や細川と関わりのあった組織の社員など60人余が検挙され、拷問により4人が死亡した。⇒1944年へ 11月、第一次大東亜文学者会議が開催される。 11月、前年に合併した『新潟日日新聞』がさらに『上越新聞』『新潟県中央新聞』と合併し『新潟日報』と改題される。 同月27日、大政翼賛会と朝日新聞・東京日日新聞・読売新聞の3紙による「国民決意の標語」公募の結果、「欲しがりません勝つまでは」などの標語が入選し話題になる。後年の安吾作品「負ケラレマセン勝ツマデハ」は勿論これのパロディである。 |
1943 (昭和18) 年 37歳 | 『真珠』『日本文化私観』刊行 |
2月中旬、アサの一周忌で新潟に帰省、20日に帰京。新潟中学時代の旧友三堀謙二宅を訪ねてくつろぐ写真はこの時の撮影と思われる。 6月末頃から10月初め頃まで新潟に帰省、「島原の乱」の執筆を続ける。その間の7月8日、檀一雄が少年航空兵の取材で新潟を訪れ、禁酒の大詔奉戴日であったが酒を酌み交わし、9日、2人で越後川口の姉古田島アキの家に赴く。この夏も毎日海へ泳ぎに行く。 9月、大井広介が徴用逃れのため、いとこの麻生太賀吉が経営する麻生鉱業の東京支社に勤める。井上友一郎は大井に頼んで11月から福岡県飯塚の麻生鉱業山内坑の労務係として単身赴任する。 10月、作品集『真珠』を大観堂から刊行。一部の表現が軍国精神に合わないとされ再版を禁じられる。この頃、島原の乱をとりこんだ「猿飛佐助」の小説を構想、「島原の乱 第一稿」ノートの裏から執筆を始めるが冒頭のみで中断。「島原の乱」も中断して、「黒田如水」の執筆にかかる。 12月20日、献吉が『新聞総覧・昭和十八年版』に論文「戦ふ新聞の再出発」を寄稿。 12月31日、浅草の染太郎で淀橋太郎らと飲み明かす。 |
◆エピソード |
『文芸』12月号の本年度推賞作家アンケートに答えた『現代文学』同人のうち、大井広介、平野謙が中島敦と石川淳を挙げ、安吾と佐々木基一もまた中島敦であった。談合と誤解されるのではないかと大井たちが危惧していたところへ安吾が現れ、「弱ることはないやね。われわれが、一斉に推賞する結果になったのは、立派な仕事だったからです。立派な仕事を大いに賞める、これは立派なことではありませんか」と堂々と言ってのけたという。 |
◆発表作品等 |
1月、「五月の詩」(『現代文学』) 3月、「講談先生」(『現代文学』) 5月、「伝統の無産者」(『知性』) 7月、「巻頭随筆」(『現代文学』) 9月、「二十一」(『現代文学』) 10月、「諦らめアネゴ」(『現代文学』) 短篇集『真珠』大観堂刊 12月、「本年度の新人について、従軍記・報道文について、本年最も感銘を受けた文学作品(葉書回答)」(『文芸』) エッセイ集『日本文化私観』文体社刊 |
◆書簡 |
3/10 山内直孝宛 3/12 大井広介宛 |
◆世相・文化 |
1月、谷崎潤一郎が「細雪」を3月まで連載するが、検閲により差し止めとなる(戦後、1948年に完成)。 同月13日、ジャズなどの米英音楽1000曲の演奏やレコード売買が禁止される。 2月、中島敦が「弟子」を発表。 同月1日、ガダルカナル島からの撤退開始。雑誌名に英語の使用が禁止される。 同月23日、「撃ちてし止まむ」の標語ポスター5万枚が配布される。 4月、武田泰淳『司馬遷』刊行。亀井勝一郎『大和古寺風物誌』刊行。 同月18日、連合艦隊指令長官山本五十六が戦死。 5月1日、木炭と薪の配給制が始まる。 同月29日、アッツ島の日本軍が玉砕。安吾は翌年、日本映画社でアッツ島の幽霊が出る映画の脚本を書いたという。 7月、草野心平が詩集『富士山』刊行。中島敦が「李陵」を発表。 7月、日本文学報国会編『辻詩集』刊行、「伝統の無産者」が収録された。 7月1日、東京府が東京都になる。 8月、大東亜文学者決戦会議開催。 9月、太宰治『右大臣実朝』刊行。 9月8日、イタリアが無条件降伏。 10月21日、学徒出陣壮行会が神宮外苑で行われる。 11月1日、兵役服務年限が5年延長、45歳までに。 |
1944 (昭和19) 年 38歳 | 徴用逃れで日本映画社へ |
1月1日、浅草の染太郎から淀橋太郎に国際劇場へ案内され、少女歌劇を見たあと、酔いにまかせて楽屋で演説する。 1月、戦時下の雑誌の統廃合により『現代文学』も終刊となる。同誌最終号に発表した「黒田如水」に始まる中篇「二流の人」をその後も書き継ぐ(終戦までには完成していたもよう)。また、戦争中は平家物語や玉葉など史書を多く読んだという。 1月頃、松之山の甥村山政光が早稲田大学工学部への入学準備のため上京、献吉からの言づてにより、甥を市島謙吉(春城)邸へ連れて行く。市島は父仁一郎の親友で、早稲田大学創立者の1人であるが、この年4月の死期を間近にして病臥していたという。 年初の頃、大井広介、南川潤、檀一雄、半田義之と共に、大井の紹介で既に井上友一郎が勤務していた福岡の麻生鉱業を慰問、坑内を見学する。その後、平野謙も麻生鉱業に就職して福岡へ行き、荒正人が麻生鉱業系列のセメント会社、檀はやはり大井の紹介で大政翼賛会に勤める。安吾が徴用逃れのため日本映画社の嘱託となったのも、おそらくこの頃である。銀座の日本映画社へは当初1週間に1度ぐらい通い、試写室でニュース映画と文化映画などを見たあと専務と15分ぐらい話をするのが仕事であった。出勤日以外は毎日碁会所へ行く。後には1カ月に1度の通勤となるが、通勤した時にはいつも、北海道新聞東京支社に移っていた若園清太郎を訪れて、不足がちになっていたタバコをせびったという。 3月14日、矢田津世子病死の報を受ける。 5月以降、おおやけには国民酒場でしか酒が飲めなくなり、銀座へ出た時は電通裏にできたウイスキーの国民酒場へ行く。ここの世話役の1人が若園に恩がある関係でウイスキー券を2枚もらえたので、長い行列に並ぶ必要はなく、若園や毎日のように来て並んでいた石川淳と歓談する。 6月下旬、日本映画社で文化映画「大東亜鉄道」の脚本を頼まれ、相前後して芸術映画「アッツ島」の脚本も書いたというが、どちらも映画化はされず。 夏頃、同居していた四兄上枝の家族が、長野県小諸の東京計器会社へ工場疎開し、蒲田の家に1人住まいとなる。毎日、水風呂に入る日課を12月初めまで続ける。 時期ははっきりしないが、この頃から終戦までの1年間に、2人の女性と恋愛感情の伴わない肉体関係をもったと「二十七歳」や「魔の退屈」などに書いている。1人は貞操観念の全く欠けた戦争未亡人で、もう1人は娼婦あがりの不感症の女だったという。 9月、献吉が新潟日報社社長に就任。 12月頃、文化映画「黄河」の脚本を頼まれ、黄河に関する書物を探しまわり研究しはじめる。立教大学内の亜細亜研究所で文献の紹介を受け、創元社の編集部に勤めていた伊沢幸平からは鳥山喜一の『黄河の水』などを奨められて読む。 |
◆発表作品等 |
1月、「黒田如水」(『現代文学』) 鼎談「文学鼎談」(同) 2月、「鉄砲」(『文芸』) 「歴史と現実」(『東京新聞』8日) 11月、「芸道地に堕つ」(『東京新聞』1日) |
◆書簡 |
2月上旬 若園清太郎宛 10/03 尾崎一雄より 10/05 尾崎一雄宛 12月末頃 河原義夫宛 |
◆世相・文化 |
1月29日、横浜事件で『改造』『中央公論』などの編集者が検挙される。 同月、太宰治が「新釈諸国噺」を発表。 3月、料飲店の閉鎖令が出される。 5月5日、都内104箇所に国民酒場が設けられる。平日午後6時から1人約1合まで、しかも合計200人分ぐらいしか飲めなかったため、毎日行列ができた。 6月15日、米軍機B29が九州を空襲。以後、11月まで九州地区が集中して攻撃される。 7月7日、サイパン島の日本軍が玉砕。 同月10日、1942年に始まる横浜事件により、改造社と中央公論社に廃業命令。 同月18日、東条内閣総辞職。 8月3日、テニアンの日本軍が玉砕。10日にはグアム島も玉砕。 10月、神風特攻隊、人間爆弾「桜花」、人間魚雷「回天」などが編成され、順次出撃。 同月24日、レイテ沖海戦で、日本軍は戦艦武蔵など主戦力を失う。 11月、太宰治『津軽』刊行。 同月1日、タバコが1日6本ずつの隣組配給制になる。 同月19日、世界最大の空母信濃が就役するが、直後の29日に米軍の攻撃により沈没。 同月24日、B29が東京を空襲。以後、東京、名古屋、大阪をはじめ全国各地で無差別爆撃が打ち続く。 12月、吉川英治が「太閤記」を翌年8月まで新聞連載。 |
1945 (昭和20) 年 39歳 | 空襲下の東京で |
1月初旬、大阪全国書房の『新文学』の依頼に応じて、火薬庫に関するエッセイ(おそらく「青い絨毯」)を送るが、発禁の怖れから掲載を断られる。 前年末から引き続き、毎日のように神田、本郷、早稲田その他の古書店を回って黄河に関する文献を渉猟。春頃までに、會津八一に早稲田の甘泉園へ招かれ、中国語の黄河文献を紹介されるが、これは語学が必要なので諦める。會津は父仁一郎や長兄献吉と親交があったが、このとき招かれたのは伊沢幸平の仲介によるものかと安吾は推測している。 3月16日、若園清太郎に召集令状が来たことを知らされ、入隊2日前の20日、銀座の国民酒場で隠岐和一夫人の冨美子が勤務する兵庫県の農事指導所へ家族を疎開させてはどうかと提案する。安吾自身も召集令状を受け取ったがすっぽかしたという伝説があるが、これは近藤日出造との対談での放言で、事実とは考えられない。自伝などでは、点呼礼状もしくは徴用出頭命令というのが来て、仕方なく出かけて行ったと書いている。 3月22日、献吉が全国の地方新聞社代表とともに東京に招集され、中央紙3社と地方紙との出向協力体制を命じられる。新潟日報社は毎日新聞社と提携することになる。 4月から蒲田周辺への空襲も激化、自宅庭に防空壕をつくる。初めはコンクリートの池を改造して防空壕としたが、その後、ドラム缶をもらって蛸壺壕を自作する。献吉から新潟疎開を促されるが、「東京が敵の襲撃で亡びるなら、自分は東京と運命をともにして亡びるだろう」と返事を送る。 4月初旬、長野県小諸の東京計器会社で工場長をつとめていた四兄上枝の工場に、若園清太郎の家族を寮母の名目で疎開させる。 4月13日、献吉は東京大空襲で被災した會津八一のため毎日新聞社機を手配し、新潟の飛行場で出迎える。その後は新潟市内でも空襲が打ち続くが、この頃から松之山の姪村山みわが高等女学校に通うため献吉宅に同居を始める。 4月16日と5月23日の焼夷弾攻撃によって蒲田は焼野原になったが、近隣の人々と協力して消火活動に努め、自宅は焼け残る。爆撃のあとを見物して回ったり、友人たちの安否を気遣ってあちこち見舞いに行ったりする。 6月頃、「黄河」の脚本を20枚ばかりの走り書きで提出、やはり映画化されず。 8月15日、終戦。戦後の坂口家には、焼け出された親戚筋の裁判官大野璋五が一家4人で同居する。 9月29日、尾崎士郎が戦犯に挙げられそうな噂を案じて大森へ赴く。 11月、献吉が新潟日報社で第1回新潟県美術展覧会(県展)を主催。終戦直後の9月に公募を始めたものである。県展は以後、今日まで続く。同月、献吉は戦犯追及の嵐を怖れて新潟日報社社長を辞任、常務となる(2カ月後にはヒラ取締役に)。 11月、士郎と同人誌『風報』を作ろうと計画し、12月11日に創刊号掲載用原稿(内容は不明)を執筆。 12月16日付『朝日新聞』の志賀直哉「特攻隊再教育」に憤りを感じ、下旬から翌年1月にかけて『風報』第2号用に「咢堂小論」を執筆。この年、ほかに「焼夷弾のふりしきる頃」を執筆したと推定されるが生前未発表である。 12月30、31日、翌年1月2日の3日間、尾崎士郎の秘書の名目でGHQ戦犯事務所に同道し弁護する。 |
◆発表作品等 |
8月、「予告殺人事件」(『東京新聞』12日) 10月、「露の答」(『新時代』) この年、「土の中からの話」(初出誌未詳) |
◆書簡 |
3/22 河原義夫宛 6月下旬 若園清太郎宛 9/08 坂口献吉宛 9/14 大井広介宛 9/18 坂口献吉宛 9/29 尾崎士郎宛 9/30 坂口献吉宛 10/03 尾崎士郎より来信 10/20 尾崎士郎宛 11/04 尾崎士郎宛 12/11 尾崎士郎宛 12/21早暁 尾崎士郎より来信 12/23頃 尾崎一雄宛 12/28 尾崎士郎宛 12/31 尾崎一雄宛 |
◆世相・文化 |
1月9日、米軍がルソン島に上陸、フィリピンのほぼ全土が制圧される。 3月10日、東京大空襲。 同月17日、硫黄島の日本軍が全滅。 4月13日、再び東京大空襲があり、明治神宮など焼失。 5月7日、ドイツが無条件降伏。 5月31日、米軍が首里市を占領、沖縄戦の大勢が決する。 7月26日、連合国首脳がポツダム宣言。日本はこれを黙殺する。 8月6日、広島に原爆投下。8日、ソ連が日本に宣戦布告。9日、長崎に原爆投下。 8月15日、日本が無条件降伏し、終戦。 8月17日、敗戦後処理のための内閣として、東久邇宮稔彦王を首相に最初で最後の皇族内閣が誕生。 8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが日本に到着。以後、1951年4月までGHQを統轄する。 9月11日、GHQが戦争犯罪人を逮捕するよう命令、順次何千人にも及ぶ逮捕者が出る。東条英機はピストル自殺を図るが未遂に終わる。 10月、太宰治が「お伽草紙」を発表し、「パンドラの匣」を12月まで新聞連載する。 同月9日、東久邇宮内閣がわずか54日で総辞職。幣原喜重郎内閣が発足。 12月16日、戦犯容疑の近衛文麿が服毒自殺。 同月17日、日本で最初のBC級戦犯裁判が横浜で開廷。 同月29日、第一次農地改革案が公布される。 |