1906 (明治39) 年 0歳 (仁一郎47歳) | ヒノエウマの年、坂口炳五誕生! |
10月20日、新潟県新潟市西大畑町28番戸(現在の新潟市中央区西大畑町579番地)に父仁一郎(1859‐1923)、母アサ(1869‐1942)の五男として生まれる。13人兄弟の12番目で、本名は炳五(へいご)。ヒノエウマ生まれの五男であることからの命名である。血液型はA型。 仁一郎は当時憲政本党に所属する衆議院議員(1902年8月から20年5月まで毎回連続して当選)で、新潟新聞社社長、新潟米穀株式取引所理事長であり、五峰の号で漢詩人としても知られた。東京では日本橋区本銀町(ほんしろかねちょう)の旅館樋口屋に滞在し、その2階奥の間を新潟県代議士の集会所とした。 アサの実家吉田家は中蒲原郡五泉町(現在の五泉市五泉)の大地主であった。 兄姉は長姉シウ(1876‐1946)、次姉ユキ(1888‐1935)、三姉ヌイ(1889‐1930)が先妻ハマの子で、四姉キヌ(1891‐1984)が古町の芸妓五泉キチとの間に生まれた。以下、後妻のアサとの間に、五姉セキ(1893‐1984)、長兄献吉(1895‐1966)、六姉アキ(1897‐1967)、次兄七松(1900‐07夭折)、三兄成三(1902‐04夭折)、四兄上枝(ほづえ)(1903‐76)、七姉下枝(しづえ)(1903‐84 上枝とふたご)。このうち、シウは1896年2月に北蒲原郡越岡村(現在の新潟市北区岡方)の曽我直太郎に嫁しており、ユキもこの年1月30日に同郡長浦村上土地亀(現在の北区上土地亀)の新保巽に嫁していた。キヌは母の五泉キチの家にいた。下枝はのちに養女となる星名家にこの頃すでに入っていた。⇒1910年へ 安吾出生当時、西大畑の家に住んでいた親族は、母アサと16歳のヌイ、12歳のセキ、11歳の献吉、8歳のアキ、6歳の七松、2歳の上枝、離れに79歳になる祖父の得七も住んでいた。仁一郎は衆議院議員として東京にいることが多かったが、仁一郎と安吾を入れて11人。のちに東京でも同居する婆やをはじめ住み込みの使用人、通学などの理由で居候する親戚や書生なども何人かいたので、かなりの大家族だったといえる。もっとも数年後には順次嫁ぐなどして少人数になっていく。 10月30日、祖父得七が岩船郡瀬波村大字浜新田字青山519番地(現在の村上市浜新田)で死去。享年80。瀬波温泉はこの2年前の1904年に石油掘削中に熱湯が噴出して開湯。得七はしばらく温泉宿に逗留していたらしく、少し前に瀬波温泉から仁一郎宛に手紙を出していた。 ※注 戸籍では「西大畑町28番戸」となっていたようだが、施政方針では1889年以降は番地表記が正式とされていたので、当時すでに「579番地」の地番も決まっていた。 |
◆世相・文化 |
1月7日、桂太郎内閣総辞職を受けて、立憲政友会総裁の西園寺公望が組閣。以後7年間、長州閥で官僚を登用する桂と、護憲派ながら桂に譲歩した西園寺とが交互に組閣し、桂園時代と呼ばれた。仁一郎が属した憲政本党は政友会と並ぶ護憲政党だったが雌伏の時代に入る。 1月、馬場孤蝶がチエホフ「六号室」の翻訳を発表。安吾は豊山中学時代からチェーホフ作品が好きでたくさん読んだ。1928年4月頃の山口修三宛書簡の中で、「チエホフが、狂人を書いた勝れた短篇を発見した」とあるのは「六号室」のこととみられ、そのほか特に「退屈な話」に感動して何度も読んだという。 3月、米カリフォルニア州で、日本人移民制限が決議される。 同月、東京日比谷で市電値上げに反対するデモ隊が電車などを襲撃し、軍隊が鎮圧。 同月、島崎藤村が『破戒』を自費出版、文壇で大きな話題になる。 5月、北一輝「国体論及び純正社会主義」が秩序妨害で発禁となる。 6月、幸徳秋水が日本社会党演説会で直接行動論を主張。日本における無政府主義思想(アナーキズム)のはしり。⇒1910年へ 10月、米サンフランシスコで日本・韓国人学童の白人からの隔離命令が出る。 10月22日、パリでサントス・デュモンがヨーロッパ初の動力飛行に成功。11月12日には飛行距離220mを達成。アメリカのライト兄弟による初飛行から3年後のことで、世界各国の飛行機開発に拍車がかかる。安吾は小学校時代、大将か大臣もしくは飛行家になりたいと思っていた。 同月、南満州鉄道株式会社(満鉄)設立。初代総裁は後藤新平。 |
1907 (明治40) 年 1歳 (48歳) | 自然主義文学の流行 |
1月20日、大隈重信が党幹部らと対立し憲政本党総裁を辞任、引退を表明。大隈は早稲田大学総長に就任したほか、精力的に文化事業に没入した。その後、反政友会新党結成のため大同団結しようとする大石正巳らの「改革派」と、あくまで民権路線を貫く犬養毅らの「非改革派」が対立を続けた。仁一郎は犬養派で「小犬養」とあだ名される一徹ぶりであったという。⇒1909年へ 9月17日、次兄七松が7歳で死去。 12月、仁一郎は本籍地の中蒲原郡阿賀浦村大字大安寺11番地(現在の新潟市秋葉区大安寺509)の900坪ほどの土地と旧村松藩主の隠宅を移した建物を、大安寺尋常小学校に譲り渡す(のちの阿賀小学校。現在は空き地)。 |
◆世相・文化 |
2月4日、足尾銅山で坑夫らが暴動、ダイナマイトまで使用され、軍隊が鎮圧に出動。この年、別子銅山などでも軍隊が出動し、生野銀山、三池炭坑などのストや労働争議は全国で240件を記録。 3月、ゴオゴリ「狂人日記」を二葉亭四迷が翻訳。 7月24日、第3次日韓協約により、韓国が完全に日本の管轄下に入る。以後、韓国各地で反日運動組織と日本軍の衝突が起こる。 7月30日、日露通商条約調印。 9月、田山花袋「蒲団」発表。私小説論を含む自然主義文学論がさかんになる。 11月22日、文芸協会が本郷座で翻訳劇を初演。坪内逍遥訳「ハムレット」が上演される。 |
1908 (明治41) 年 2歳 (49歳) | 1年に2度の大火災 |
3月8日、新潟市で大火。古町通八番町から出火して1,770戸が焼失、萬代橋も橋梁部の半分以上が焼失。⇒翌年へ 9月4日、新潟市で再び大火。今度は古町通四番町から大畑町方面まで2,120戸焼失。坂口家は類焼をまぬがれる。 12月5日、三姉ヌイが岩船郡山辺里村(現在の村上市山辺里)の小田喜一郎に嫁す。 |
◆世相・文化 |
1~4月、正宗白鳥「何処へ」連載。 3月25日、治安警察法改正案が衆議院で可決。女子の政治集会参加が認められる(貴族院では否決)。 4月1日、改正小学校令により、義務教育年限が4年から6年となる。 4月、田山花袋「生」および島崎藤村「春」の新聞連載が始まる。自然主義文学の全盛。 7月、夏目漱石「夢十夜」発表。 7月14日、西園寺公望にかわって桂太郎が第2次内閣を組閣、弾圧政治を強行する。 8月、永井荷風『あめりか物語』刊行。耽美派が産声をあげる。 9月、夏目漱石が前期3部作の第1作「三四郎」を連載(12月まで)。 9月17日、日本初の劇映画「本能寺合戦」(牧野省三監督、尾上松之助主演)が東京の錦輝館で公開。 10月、徳田秋声「新世帯」新聞連載開始。 |
1909 (明治42) 年 3歳 (50歳) | 日本一の萬代橋(2代目)竣工 |
2月27日、憲政本党内部の改革派・非改革派の対立により、非改革派を領する犬養毅の憲政本党除名問題が起こる。犬養に信頼されていた仁一郎は、両派の調停を図り、除名取消が成らなければ党分裂もやむなしと不退転の覚悟で臨む。その直後、日本製糖汚職事件の収賄議員の中に改革派がいたことが発覚、流れは非改革派に傾き、犬養の除名も取消となった。 |
◆エピソード |
少年時代の安吾が新潟の誇りに思っていた萬代橋は、この年に開通した2代目。この年から信濃川分水路の開削工事も始まる(1922年に通水)。分水ができると信濃川下流の水量は相当に減少するため、新潟市域の川幅を約3分の1に改修、それに伴い萬代橋も短い鉄筋コンクリート製のものに架け替える計画が生まれる。その長期計画が発表された時期は定かでないが、安吾は「日本文化私観」で次のように書いている。 「小学生の頃、万代橋といふ信濃川の河口にかかつてゐる木橋がとりこはされて、川幅を半分に埋めたて鉄橋にするといふので、長い期間、悲しい思ひをしたことがあつた。日本一の木橋がなくなり、川幅が狭くなつて、自分の誇りがなくなることが、身を切られる切なさであつたのだ。その不思議な悲しみ方が今では夢のやうな思ひ出だ。このやうな悲しみ方は、成人するにつれ、又、その物との交渉が成人につれて深まりながら、却つて薄れる一方であつた。さうして、今では、木橋が鉄橋に代り、川幅の狭められたことが、悲しくないばかりか、極めて当然だと考へる」 |
◆世相・文化 |
1月、文芸誌『スバル』創刊。森鴎外や与謝野鉄幹・晶子、石川啄木、木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋らを擁し、ロマン主義的でデカダンな傾向をもつ。 2月20日、イタリアの詩人マリネッティがパリ・フィガロ紙に「未来派宣言」を発表。過去の芸術を破壊し、飛行機や自動車などのメタリックな美を讃える過激な主張が世界で話題になる。同年、鴎外がこれを紹介。高村光太郎も評論や翻訳などで何度か未来派の紹介を行った。安吾の「日本文化私観」との類似が指摘されるが、未来派の本分は近代文明と機械、スピードやスリル、エネルギーの礼賛にあり、安吾の説く「美しくするために加工した美しさが、一切ない」機能美とは別ものである。もっとも、新しい芸術思潮への興味はあり、最初の同人誌仲間だった未来派の音楽家と交流をもち、初期のファルス論は未来派とつながるダダの宣言と似通う部分があった。ダダの中心人物ツァラの詩を翻訳もしている。⇒1931年へ 3月、北原白秋が処女詩集『邪宗門』を刊行。 3月、永井荷風『ふらんす物語』が発禁処分に。 6月、高浜虚子編『子規句集』刊行。 7月、森鴎外「ヰタ・セクスアリス」を『スバル』に発表、発禁処分を受ける。 9月、三木露風が弱冠20歳で代表詩集『廃園』を刊行、白秋とともに注目される。 10月、田山花袋『田舎教師』を書き下ろし刊行。 同月26日、伊藤博文が満州のハルビンで、韓国の青年安重根に暗殺される。これが結果的には日本による韓国併合を早めることになる。⇒翌年へ 12月、萬代橋(2代目)竣工。焼け残った橋杭を使用したので初代とほぼ同様の日本最大級の木橋であった。6連アーチで、全長782m。幅はやや広がって7.9m。⇒1929年へ 12月19日、日本初の動力飛行を公式に行う。徳川好敏大尉のアンリ・ファルマン機(フランス製)と日野熊蔵大尉のグラーデ単葉機(ドイツ製)。 |
1910 (明治43) 年 4歳 (51歳) | 文壇にまきおこる新しい風 |
3月14日、憲政本党を中心とした民権派3党が合同して立憲国民党を結成。党首は不在で、常務委員として非改革派の犬養毅と、改革派の河野広中、大石正巳の3人が党を主導。合同してもなお、数では政友会に勝てないことから、両派の対立はその後もくすぶり続けた。 5月、仁一郎は立憲国民党新潟支部長となる。 8月4日、五姉セキが東頸城郡松之山村(現在の十日町市松之山)の村山真雄に嫁す。 12月21日、七姉下枝が6歳で中魚沼郡上野村(現在の十日町市上野)星名佐藤治(定太郎)の養女になる(1922年に協議離縁)。ただし、下枝は生まれて間もない頃から乳母とともに星名家に入っていた。 |
◆世相・文化 |
1月、島村抱月がイプセン「人形の家」の翻訳を発表。 4月、文芸誌『白樺』創刊。武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎を中心として、個性主義・自由主義をうたい、文壇に新風をもたらす。ヨーロッパの新興芸術の紹介にも寄与した。安吾は習作執筆中の1928年頃、宇野浩二や葛西善蔵とともに有島武郎や志賀直哉を愛読したが、戦後には「志賀直哉に文学の問題はない」というエッセイを書くなど文壇の権威批判の標的とした。 5月、大逆事件により、かねてから当局にマークされていた幸徳秋水らの検挙が始まる。⇒翌年へ 6月、柳田国男『遠野物語』刊行。 8月22日、日本が韓国を併合。これにより首相桂太郎は翌年公爵の称号を受ける。 9月14日、千里眼の御船千鶴子が評判となり、東京帝大の博士による透視の公開実験が行われる。 11月、谷崎潤一郎「刺青」発表。荷風の絶讃を受け、以後、次々に発表された谷崎の耽美作品が文壇に衝撃を与える。安吾は中学時代に「最も読んだのは谷崎潤一郎で、読む度ごとに自分の才能に就て絶望を新にするばかり」だったと「処女作前後の思ひ出」に書いている。 12月、石川啄木が歌集『一握の砂』を刊行。安吾は東京の豊山中学に転校してまもない1923年1月14日、三堀謙二宛書簡の中で「啄木式の独特な奴です」と注釈して7首の短歌を詠んでいる。 12月20日、日本自動車倶楽部発会。07年に政界引退後、輸入自動車を愛用していた大隈重信が会長を務めた。 |
1911 (明治44) 年 5歳(52歳) | 無頼派(?)幼稚園児 |
3月、妹千鶴(ちづ)(1911‐67)誕生。 4月、西堀幼稚園に入園。 |
◆エピソード |
幼稚園時代に安吾とよく遊んだという近所の金井写真館の金井五郎は「彼の家の裏からはひと続きの自然公園で、海までグミの林が続いていました。そのなかをかけずりまわり、日暮れまでよく遊びました」と当時を回想している。「いつでも笑顔」で「がき大将でしたけれど、弱い者いじめをしない男でした」とも。安吾自身は自伝的小説「石の思ひ」の中で、「私は六ツの年にもう幼稚園をサボつて遊んでゐて道が分らなくなり道を当てどなくさまよつてゐたことがあつた」としか当時のことを書いていないため、「型通りの生活をきらって通園せず」などと年譜に記されたこともあったが、ふだんは明るく元気いっぱいの子供であった。 |
◆世相・文化 |
1月、大逆事件の被告26人中24人が死刑判決を受け、幸徳秋水ら12人に執行される。社会主義運動への弾圧がいっそう強化される。 同月、西田幾多郎『善の研究』刊行。⇒1921年へ 2月21日、日米通商航海条約改正により、桂内閣の外相小村寿太郎が関税自主権を回復させ、幕末以来の不平等条約に終止符を打つ。 5月5日、所沢飛行場で国産機の初飛行。 6月、北原白秋が詩集『思ひ出』刊行、高い評価を受ける。安吾も少年時代にこれを読んで「異常なノスタルヂイを刺戟された」とエッセイ「気候と郷愁」に書いている。 8月21日、警視庁が特別高等課(特高)を設置。思想統制の実力行使機関として恐れられる。 8月30日、桂太郎にかわって第2次西園寺内閣が発足。 9月、平塚らいてうが『青鞜』創刊(16年2月まで続く)、女性解放運動の旗頭となる。 同月22日、文芸協会が坪内逍遥訳のイプセン「人形の家」を初演。主演の松井須磨子が人気を博す。 10月、清で孫文らが辛亥革命を起こす。翌月、袁世凱内閣が成立。 12月1日、オランダのハーグで日米など12カ国が参加して国際阿片会議が開かれる。 |
1912 (明治45・大正元) 年 6歳 (53歳) | 大正改元 |
夏頃から仁一郎は『北越詩話』の編集にとりかかる。1892年に『新潟新聞』に連載した「越人詩話」100余回分をもとに、郷土の漢詩人たちの人と作品を紹介・集成したもの。採り上げられた詩人は1000名を超えて大幅に増補され、内容も文章も「越人詩話」とは別個のものになっていった。⇒1918年へ |
◆世相・文化 |
1月、夏目漱石が後期3部作の第1作「彼岸過迄」連載開始。 2月、清朝の首相であった袁世凱が寝返り、中華民国の大総統に就任。 6月2日、アメリカで飛行機に機銃を搭載、世界初の空中射撃が行われる。 7月、明治天皇死去。 9月、乃木大将殉死。 10月、森鴎外が「興津弥五右衛門の遺書」を発表、乃木大将の殉死に触発されて書いたといわれる。鴎外は以後、歴史短篇の名作を数多く発表する。 12月21日、第2次西園寺内閣が軍閥の陰謀で倒れ、第3次桂内閣が発足。桂は内大臣兼侍従長になったばかりで、これに異を唱えて立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅らが護憲運動を展開した。 |
1913 (大正2) 年 7歳 (54歳) | 立川文庫から猿飛佐助見参! |
1月、首相桂太郎は自派の官僚と他派の政党議員をとりこんで新政党(立憲同志会)を組織しようと計画。桂は護憲運動の敵ともいうべき存在だったが、立憲国民党の改革派は政友会に対抗するための唯一の活路と考えた。非改革派の犬養毅は逆に、政友会の尾崎行雄とともに桂内閣退陣を要求しており、ここにおいて大石正巳、河野広中、武富時敏、島田三郎、箕浦勝人(かつんど)の国民党五領袖が脱党、有力党員らがあとに続いた。仁一郎の滞在する旅館樋口屋2階の新潟県代議士集会所などでも議論が紛糾、秋田県の町田忠治ほか各県の国民党代議士らも参会して議論を続けた結果、新政党に参加する意見が大勢を占める。仁一郎も苦渋の決断で犬養に離反することを決め、新潟県の国民党代議士は一致して立憲同志会に加わる旨の決議書を作成。町田忠治、武富時敏らとともに立憲同志会準備委員となる。 4月、新潟尋常高等小学校に入学。正義感の強いガキ大将だったといわれる。この頃から新聞連載の講談や相撲の記事を好んで読む。小学校時代を通して立川文庫を愛読、特に猿飛佐助の忍術と馬庭念流の剣法に惹かれ、忍術ごっこに興じる。夏には四兄上枝と一緒に日に二度ほど浜で泳ぐ。早稲田大学受験をひかえた長兄献吉も「試けんもなにも御かまいなく」毎日庭で子供相手に野球をして遊んだようすが7月10日のセキよりヌイ宛書簡に書かれている。また、仁一郎と五泉キチとの間にできた四女キヌが1916年に仁一郎の養女となるが、この年にはすでに坂口家に同居していたことが書簡資料からわかる。 10月、桂太郎が結党前に病死したのに伴い、仁一郎は立憲同志会相談役となる。 12月23日、立憲同志会結党。加藤高明が総裁となり、仁一郎は新潟支部長となる。 |
◆エピソード |
この当時の安吾の日常を、長兄献吉は「『三人兄弟』」の中で次のように書いている。「全く手のつけられないキカンぼうで、毎日学校から帰ると、書物包は家の中へ放り込んで、すぐ近所の子供、数名または十数名を引率して、いわゆるガキ大将となって、町内を騒ぎまわったものであった。そのころであるから、兵隊ゴッコか何かで、垣根を乗り越えたり、大道を突っ走ったり、とても元気なものであった。時に自分より、はるかに丈の高い子供を部下として、大声で号令をかけている姿を今でも思い浮かべる」 また、癇癪もちの部分もあったようで、杉森久英『小説坂口安吾』の中に、小学生時代の安吾の話が載っている。ある時の父兄会に母が出られなかった時、代わりに出ることを約束していた姉もその日出られなくなった。安吾は恥をかいたと怒って、姉になぐりかかった。どこまでも追いかけてくるので、姉は最後には、父の袂の下へ逃げこんだという。ほかにも、おかずが気にいらないと言っては怒り、大事に組み立てた飛行機の模型を姉が踏みつぶしたと言って怒ったりしたらしい。安吾自身も「石の思ひ」の中で、「出刃庖丁をふりあげて兄(三つ違ひ)を追ひ廻したことがあつた」と書いている。 |
◆世相・文化 |
1911年から刊行の始まった立川文庫から、13年1月25日『真田三勇士忍術名人 猿飛佐助』出版、忍術ブームをまきおこす。忍術名人シリーズは、猿飛佐助に続いて、霧隠才蔵、三好清海入道、由利鎌之助など続々と刊行され、同時に、目玉の松ちゃんこと尾上松之助主演でたてつづけに忍術映画が作られた。特に猿飛、霧隠、自雷也は毎年のように続篇が公開され、立川文庫の人気に拍車をかけた。1916年には、1人の少年が映画の真似をして高い所から飛び降りて大ケガをしたというので社会問題にまで発展したが、その後も4、5年の間、忍術映画のブームが続く。なお、『猿飛佐助』初版の表紙は黄色だったが、翌14年2月15日発行の異本は緑色で、この異本のほうが復刻版などで広く流布しているため、本来の初版年が誤って記述されることが多い。 2月、尾崎行雄が犬養毅とともに内閣不信任案を提出すると桂太郎は議会を停会させ、議事堂は激昂する群衆に囲まれた。これにより桂内閣はたった2カ月で総辞職に追い込まれ、20日、立憲政友会と結んだ海軍巨頭の山本権兵衛が首相になる。尾崎は一連の護憲運動により「護憲の神様」と呼ばれ、まもなく所属していた立憲政友会とも対立して中正会を結成。 9月、中里介山「大菩薩峠」連載開始、1941年まで断続的に書き継がれるが未完。 10月、斎藤茂吉が処女歌集『赤光』を刊行、一作で歌人の地位を確立する。 |
1914 (大正3) 年 8歳 (55歳) | 大隈重信、政界に復帰 |
3月、献吉が県立新潟中学校を卒業、おそらくこの年の4月に早稲田大学大学部政治経済学科に入学。幼なじみの笹川加津恵らと4人で、東京府豊多摩郡戸塚町(現在の新宿区)に一軒の家を借りて合宿生活をし、毎土曜に大声で議論し合う。 4月16日、大隈重信が政界に復帰し、第2次大隈内閣が誕生。大隈を擁したのは仁一郎の所属する立憲同志会と、尾崎行雄の中正会などで、加藤高明が外相、若槻礼次郎が蔵相、尾崎が法相になる。(安吾は中学時代、仁一郎の命をうけて加藤、若槻両邸を訪れる。⇒1923年へ)仁一郎は町田忠治らとともに大隈内閣の参政官に推されたが辞退し、代わりに同郷の鳥居鍗次郎を推し内務副参政官に任命させた。 |
◆世相・文化 |
4月、夏目漱石「こゝろ」を8月まで連載。 同月、阿部次郎が自己省察の記録『三太郎の日記』刊行。大正昭和期の学生必読の書といわれ、ロングセラーとなる。これをはじめとして哲学評論が流行する。 同月、新潟市古町通八番町に映画館(当時は活動写真館)大竹座がオープン。その後、翌年にかけて電気館(古町通六番町)、こんぴら館(西厩島町)、沼垂座(沼垂)など相次いで開館する。 7月、第一次世界大戦が始まる。 9月、米川正夫がドストエフスキー「白痴」の翻訳を発表。 10月、高村光太郎が詩集『道程』刊行。 12月、北原白秋が詩集『白金之独楽』刊行。安吾は仏教研究にのめりこんでいた1927年頃、親鸞の和讃とともに白秋の『白金之独楽』を愛読したと山口修三宛書簡に書いている。これは白秋の最も仏教に傾いた時期の詩集であるが、1919年頃に献吉が白秋から贈呈されたものだったかもしれない。 |
1915 (大正4) 年 9歳 (56歳) | 長兄宛ての安吾の手紙 |
この年初め頃、献吉が結核で東洋内科病院へ入院。その後、東洋一のサナトリウムといわれた神奈川県茅ヶ崎の南湖院で療養生活に入る。安吾の最も古い書簡として、この年5月26日と6月9日に南湖院の献吉に宛てた封筒(本文散逸)が残っている。署名は「炳吾」。「阪口=坂口」「五峰=五峯」などと好きな字を自由に用いた父にならって、早くから「吾」の字を用いていたことがわかる。 |
◆世相・文化 |
3月25日、衆議院議員総選挙。仁一郎の盟友で、十数年政治活動から退いていた市島謙吉(春城)が、大隈重信の後援会長となって選挙活動。全国各地に大隈後援会ができ、その結果、立憲同志会が第一党に躍進する。 5月7日、加藤外相が中国に21カ条条約を強制執行。満州および中国の属国化を目的としたもので、その後の日中紛争の火種となる。⇒1919年へ 11月、芥川龍之介「羅生門」発表。以後、古典に取材した名短篇を数多く著す。 同月、松浦一『文学の本質』刊行。インド哲学の宇宙観や神秘主義的思想をよりどころとして文学の種々相を論じた文学概論書で、老荘やベルグソン、ダンテ、ワーグナーなども引用されている。安吾が中学時代に「『絶対の探究』『文学の本質』いづれも同じ著者、その名を失念、を耽読した」とあるのはこれかと推定される。バルザックの『絶対の探究』は安吾の中学時代にはまだ翻訳されていないので、もう1冊は同じ松浦一の『文学の絶対境』(1923年刊)のことと思われる。⇒1923年へ |
1916年 (大正5) 年 10歳 (57歳) | 大隈内閣の残党が結束 |
4月、仁一郎が勲三等瑞宝章を受章。 10月3日、大隈重信は老齢のため後継に加藤高明を推して総辞職、大隈は政界から完全に引退した。しかし、御前会議で元老らが首相に押し立てたのは寺内正毅であった。 10月10日、大隈内閣で組んだ立憲同志会と中正会などの諸政党が合同して憲政会を結成。加藤高明を総裁とし、尾崎行雄、高田早苗、若槻礼次郎、浜口雄幸ら7名が総務。元老政治の打破、普通選挙法制定をめざす。このうち、尾崎行雄は憲政会の普通選挙法案が理想と違ったことから21年に離党、翌22年に革新倶楽部を結成して治安維持法反対などの活動を続けたが次第に孤立していく。憲政会も以後8年間野党に甘んじる。仁一郎も憲政会結成に加わり、党務委員長、新潟支部長に就任。 10月29日、六姉アキが新潟県七谷村上大谷(現在の加茂市上大谷)の難波常三郎に嫁す(19年に離婚)。常三郎は仁一郎の甥(妹の幸と難波岩三郎の子)である。 12月21日、仁一郎の四女である五泉キヌが25歳で仁一郎の養女となる(翌年結婚)。 |
◆世相・文化 |
7月、『新潟新聞』が『新潟新報』と『日刊新潟』に分離するが、翌17年8月から元の『新潟新聞』に復す。 12月、夏目漱石死去。連載中の「明暗」が絶筆となる。安吾は概して漱石に批判的であったが、「明暗」だけは評価している。 11月、倉田百三「出家とその弟子」を連載(翌年3月まで)。 |
1917年 (大正6) 年 11歳 (58歳) | 母のために荒れ海へ |
11月22日、四女キヌが新潟市の歯科医行形行三郎に嫁す。この前月の10月12日に仁一郎は養女キヌを実子として認知している。西大畑の実家に同居する肉親は母アサと四兄上枝、妹千鶴だけになる。安吾は自分を常にひいきしてくれた婆やと、ときどき遊びに来る異母姉ヌイとに最も親しみを感じたという。 この年から翌年にかけての時期、献吉は南湖院を退院し、その近くの松風亭にて静養しながら油絵を描いていた。 |
◆エピソード |
「石の思ひ」の中に、この年前後の話として次のような有名なエピソードがある。「暴風の日私が海へ行つて荒れ海の中で蛤をとつてきた、それは母が食べたいと言つたからで、母は子供の私が荒れ海の中で命がけで蛤をとつてきたことなど気にもとめず、ふりむきもしなかつた。私はその母を睨みつけ、肩をそびやかして自分の部屋へとぢこもつたが、そのときこの姉〔ヌイ〕がそッと部屋へはいつてきて私を抱きしめて泣きだした。だから私は母の違ふこの姉が誰よりも好きだつたので、この姉の死に至るまで、私ははるかな思慕を絶やしたことがなかつた。この姉と婆やのことは今でも忘れられぬ。私はこの二人にだけ愛されてゐた。他の誰にも愛されてゐなかつた」 坂口三千代『クラクラ日記』では、安吾が語ってくれたという話はもう少し単純で、次のとおりである。「オレはおっかさまのために蛤をとってやろうと思って夜の海にいつまでももぐっていたんだ。家に帰ったらこっぴどく叱られたよ」 |
◆世相・文化 |
1月、菊池寛が戯曲「父帰る」発表。 2月、萩原朔太郎の処女詩集『月に吠える』刊行。高村光太郎とともに口語自由詩を確立したとして名声を得るが、内務省により発禁となり、発行人の室生犀星が出頭。 5月、志賀直哉「城の崎にて」発表。 10月、広津和郎「神経病時代」発表。神経症的な青年の苦悩を描いた作者の文壇デビュー作で、翌年刊行の同趣向の長篇は安吾が初めて読んだ純文学である。 同月、志賀直哉「和解」発表。 11月、ロシア十月革命。 |
1918 (大正7) 年 12歳 (59歳) | 健康優良児だった安吾 |
2月、仁一郎が新潟新聞社のあった学校裏町の土地を売却。前年までの会社分裂と関係があるかもしれない。 10月8日、市民相撲大会の小学校尋常科東西戦(各組15人)に出場して勝利。同月13日、新潟中学秋季運動会では200メートル走の小学生の部で2着入賞。 小学校6年間、欠席はほとんどなく体質頑健、操行優良、成績は概ね学年2番か3番で毎年学術優等の賞を受ける。 11月、仁一郎が阪口五峰名義で『北越詩話』上巻を上梓。これに先立って4月1日から25日まで、市島春城が『新潟新聞』に同著の紹介文「苦心卅五年」を25回にわたって連載していた。 この年、仁一郎は浜口雄幸らとともに憲政会総務となる。 |
◆エピソード |
妹の千鶴の友達だった山本ヤスコの回想によると、千鶴と安吾と三人でよく遊んだが、安吾は「めんどうみが非常によくって、私が算数でわからないところがあるとちゃんと教えてくれました」とある。 |
◆世相・文化 |
1月、室生犀星が処女詩集『愛の詩集』刊行。白秋や朔太郎の絶讃を受け、9月には『抒情小曲集』も刊行。 3月、葛西善蔵「子をつれて」発表。破滅型私小説の典型として文壇に特異な地位を占める。安吾が文壇に登場する前の1928年に没するが、その28年当時、安吾は葛西の文学を愛読した。 4月、有島武郎「生れ出づる悩み」発表。 9月、佐藤春夫「田園の憂鬱」発表。谷崎の推挙により耽美派作家としての地位を確立。 9月、原敬内閣成る。 10月、広津和郎『二人の不幸者』刊行。性格破産者を描いた長篇。⇒翌年へ 11月、第一次世界大戦終結。 12月、チューリヒでトリスタン・ツァラが雑誌『ダダ』第3号に「ダダ宣言1918」を発表。欧米各国で翻訳出版され、後のシュールレアリスムの若手芸術家たちに衝撃を与える。翌年5月発行の『ダダ』にはブルトン、スーポー、アラゴンや、コクトー、ジャコメッティらも参加している。安吾は1931年にツァラの詩を翻訳する。 |
1919 (大正8) 年 13歳 (60歳) | 中学入学、文学への目覚め |
3月、仁一郎が『北越詩話』下巻を上梓。この頃、仁一郎は頼山陽ばりに日本の歴史を詠じた五言古詩を作ったりしており、これを詩友の田辺碧堂が国分青厓(こくぶ・せいがい)に見せたところ青厓も感服、これを機に知己となる。後年『五峰遺稿』に収録された詩は、仁一郎の遺志により碧堂と青厓および館森袖海の3人が編集校閲して完璧を期したものである。 4月、新潟県立新潟中学校に入学(受験者216名中20番)。 4月19日、六姉アキが難波常三郎と協議離婚(同年12月に再婚)。 新潟中学では三堀謙二や渡辺寛治ら年上の読書家の友人ができ、初めて小説を読んだのはこの頃からと推測される。友人の薦めで初めて読んだ純文学が、前年刊行の広津和郎『二人の不幸者』である(「世に出るまで」)。 6月に刊行された島田清次郎『地上』第1部も渡辺寛治とともに読んでいたと同級生だった北村博繁の回想にある。征服欲と正義感に燃える天才的少年を描いてセンセーショナルな話題を巻き起こしたベストセラーで、以後年に1冊ずつ全4部で完結した。安吾自身の回想には島田の名は出てこないので、文学として認めていなかったのだろう。これに続いて、芥川龍之介の諸作、谷崎潤一郎の諸作と読み進む。 9月、『中央公論』に載った谷崎の「或る少年の怯れ」に特に感心する。病弱な少年の兄嫁への思慕と兄に毒殺される不安を神経症的な筆致で描いた短篇。 秋頃、異母姉シウが婚家先である曽我家の姑の椀に猫いらずを投じたとの噂が立つ。 この頃、静養中の献吉が小田原の伝肇寺(でんじょうじ)へ移る。その境内に北原白秋が山荘「木菟(みみずく)の家」を新築した折で、献吉はよく白秋を訪ねて歓談した。 12月、六姉アキが越後川口の古田島和太郎に嫁す。 この年、仁一郎が勲三等旭日中綬章を受章。 |
◆世相・文化 |
3月1日、日本統治下の韓国で三・一運動(万歳事件)。初代皇帝高宗の葬儀に合わせて宗教指導者らが起こした独立運動で、「独立万歳」と叫ぶデモは半島全土に広がった。 4月、宇野浩二「蔵の中」発表。9月の「苦の世界」とともに作家としての地位を確立した。安吾も1928年当時に宇野浩二を愛読、安吾のデビュー時には宇野が讃辞をおくった。 5月4日、北京の学生約3000人が天安門前の広場でデモ。1915年に日本が提示した21カ条条約の破棄などを訴えるもので、中華民国全土に波及して五・四運動と呼ばれる。 10月、武者小路実篤「友情」発表。 |
1920 (大正9) 年 14歳 (61歳) | 権威への反抗開始 |
小学校時からの近視が悪化したこと、横暴な上級生や先生らへの反抗の気持ちが強くなったことなどもあって、欠席が年間139時間と多くなり成績も悪化。これについて安吾は獅子文六との対談「青春対談」で次のように述べている。 「非常に軍隊式なところでね、上級生には必ず敬礼しなければならぬという。僕はお辞儀をしないんだ。そうすると撲られる、僕は必ず撲り返したがね。すると今度はズラリと上級生の並んでいる前に引張り出されるという工合なんだ。そんなことからイヤになってね、当時、喫茶店があるわけじゃなし、金は持たぬし、仲間のやつら六人とパン屋の二階へ上って、馬鹿みたいに百人一首ばかりやっていた」 磯部佐吉、北村博繁らサボり仲間の同級生6人(他は大谷、布田、星野)で「六花会」と称して、パン屋の2階で百人一首をして遊ぶようになる。パン資金のために授業料を流用したり、安吾がこっそり父親の刀を古物商に売り払ったり、学校でこっそり酒を飲んだり、試験問題を盗んできたりしたこともあったという。また、安吾の企画でラシャ紙表紙の回覧雑誌を発行し、先生らを諷刺する漫画などを載せる。その漫画に辛辣な説明を付けたのがばれて問題になったこともあった。ほかにも、わざわざ試験の答案を白紙で出して英雄を気どったり、卑怯な嘘をつく先生を友達と二人で殴りに行ったという噂もある。漢文教師が「自己に暗い奴」の意で「暗吾」の渾名をつけたといわれ、仲間うちでは「アンゴ」が通り名となる。 10月、再びシウの姑毒殺未遂疑惑が発覚し、モルヒネを調達した件で次姉のユキが新津警察署の取り調べを受ける。 この年頃、献吉が早稲田大学に復学(この年から大学部政経学科から政経学部と呼称変更)。1919年に学内で設立された建設者同盟に参加して、佐野学の指導を受ける。佐野は献吉の3つ上で、20年4月から早稲田でマルクス経済学を教えていた。東大新人会とともに学生運動の拠点となり、20、21年のロシア飢饉救済運動では全国の学校を糾合した。 この頃、仁一郎は東京での住居を東京府豊多摩郡戸塚町大字諏訪6番地(現在の新宿区西早稲田2丁目)の借家に移し、献吉もここに同居する。 秋頃、仁一郎は体調の異状に気づき、新潟医科大学で診察を受けたところ胃ガンらしいと診断されるが、周囲には秘して後事を整えはじめる。 |
◆エピソード |
2年先輩の友人だった三堀謙二の回想に、次のようなエピソードがある。「通学の途中、いまの新大理学部のあたりにあった小田の稲荷さまで、私と炳吾君は“イナリサマというものは本当にあるか、ないか”で口論をし、いないという炳吾君は“いるなら石をぶっつければ出てくるだろう”と御神体に石をぶっつけたら、番人の老人に叱られた」 |
◆世相・文化 |
1月10日、国際連盟が発足。42カ国が加盟したがアメリカは加盟せず。フランス、イギリス、イタリア、日本が(のちにドイツとソ連も)常任理事国になる。 5月、上野公園にて日本最初のメーデーが行われる。 5月10日、直接国税10円以上納税の満25歳以上の男性に限られていた選挙権がこの年の第14回総選挙から納税額3円以上に引き下げられる。⇒1925年へ 6月、高畑素之がマルクス『資本論』の翻訳を刊行。 9月、未来派美術協会設立。 同月、豊島与志雄がロマン=ロオラン「ジャン・クリストフ」の翻訳を3年間連載。 12月9日、堺利彦、大杉栄らが日本社会主義同盟結成を宣言するが、翌年5月28日に解散命令が出る。 |
1921 (大正10) 年 15歳 (62歳) | 作家志望の落伍者志願 |
4月、2年次留年。この頃から小説家を志す。欠席は一層多くなり、年間348時間の欠席となる。家では家庭教師をつけられたが逃げまわったという。この家庭教師については「石の思ひ」に「医科大学の秀才で、金野巌といふ人で、盛岡の人であつた」と記されており、安吾逝去時の弔電名簿に「コンノイワオ 盛岡」とあるので、実在の人と思われる。金野巌という名前の人では、のちに岩手医大教授になった人があり、1948年、耳性化膿性脳膜炎の治療に関する研究によって第1回岩手日報文化賞・学芸部門を受賞している。居住地や年齢などから、この人であった可能性が高い。 献吉は建設者同盟とは思想が合わず1年で脱退。 6月3日、『新潟新聞』に坂口五峰の談話筆記「雲泉と越後」が発表される。 9月1日から立憲政友会系の『新潟毎日新聞』にシウの事件が19回にわたって連載される。ライバルである憲政会の新潟支部長仁一郎のイメージダウンを狙ったもの。これによると、19年秋頃の猫いらず事件後、20年5月頃シウはモルヒネを入手、妹ユキに頼んでその使用法等を薬剤師に問い合わせるとすぐ丸薬にして姑に呑ませたという。姑は死にかけたが持ち直したので、シウは再度ユキに薬の分量を問い合わせたが、ユキは恐怖を感じて逆にすべてを家族に打ち明けたため事件が発覚したという。動機は仁一郎の政治資金調達のため、というあたりはいかにも政友会寄りの憶測だが、警察の取り調べが入った話などは事実とみられる。 9月18日、仁一郎が憲政会北陸大会と同時に新潟支部の屋舎新築落成式を開く。めったに地方の式には出ない加藤高明総裁をはじめ、幹事長、党務委員長ほか有志500余名が出席した。 11月15日、シウの夫曽我直太郎が死去。 11月、仁一郎の病患急変して入院するが、奇跡的に回復、号を更生道人、蘇庵などと改めた。この秋、仁一郎は献吉に坂口家先祖のことを語り聞かせている。 |
◆エピソード |
「石の思ひ」では、三人の異母姉のうち「上の二人が共謀して母を毒殺しようとしモルヒネを持つて遊びにくる、私の母が半気違ひになるのは無理がない」と書かれている。 |
◆世相・文化 |
1月、志賀直哉が「暗夜行路」前篇を連載(8月まで)。 2月、『種蒔く人』創刊。青野季吉・平林初之輔らが参加し、プロレタリア文学論が盛んになる。 3月、倉田百三『愛と認識との出発』刊行。真実探求の熱意にあふれたエッセイ集で、阿部次郎の『三太郎の日記』(1914年)や西田幾多郎の『善の研究』(1911年)などとともに青年の必読書といわれた。安吾も翌年ごろから宗教や哲学の本を読みあさったようなので、これら哲学エッセイのベストセラーも読んでいたに違いない。 7月、佐藤春夫『殉情詩集』刊行。 同月、佐野学が月刊『解放』に「特殊部落民解放論」を発表。西光万吉らに強い感化を与え、翌年の全国水平社結成の契機となる。 11月、原敬首相が暗殺され、高橋是清が組閣。 11月、ワシントン軍縮会議。四カ国協定(日・英・米・仏)を結び、日英同盟を破棄する。 |
1922 (大正11) 年 16歳 (63歳) | 東京の豊山中学へ転校 |
1月、大隈重信の死に際して、仁一郎は市島謙吉に頼まれ、市島の作った墓碑銘を鉛板に揮毫する。そのほかにも病後の身で伊藤香草の遺稿編纂などに当たる。 1月13日、仁一郎による大隈追悼の談話が『新潟新聞』に掲載される(14日、18日にも)。 3月27日、シウが曽我家を離縁され、4月1日に坂口家へ復籍するも勘当の身となるが、仁一郎の斡旋により東京で家政婦の職に就いたという。 4月、第3学年に進級はしたがますます欠席日数は多くなり、サボっている生徒を捕まえに来た教師を殴ったことなどが原因で、転校を余儀なくされる。四兄上枝が東京で安吾の転入先を探しているので、おそらくこの年頃、上枝が早稲田大学理工学部機械工学科に入学。 6月19日、早稲田在学中の献吉が五泉の吉田徳(のり)と結婚。徳(1901.12.17‐83.1.30)はアサの姪(妹マサの娘)。この時、徳の姉林(りん)は大野璋五(耻堂の曾孫。1895.5.13‐1985.7.16)と夫婦であり、戦後、安吾とともに蒲田の家に一家で同居することになる。 9月、東京護国寺境内の豊山(ぶざん)中学へ転校。父仁一郎、献吉夫妻、上枝とともに戸塚町の借家に同居。学校では同じ転校生の山口修三、沢部辰雄と親しくなる。2人とも安吾と同じ転校生の文学青年であった。特に沢部は、この当時から狂気の徴候を見せていたという哲学好きの秀才で、安吾と2人で「悟入を志して仏教を学び牛込の禅寺へ坐禅を組みにでかけたりなどしてゐた」と「女占師の前にて」に書かれている。3人で学校をサボって、神楽坂の紅屋や護国寺門前の鈴蘭という喫茶店に入り浸る。そこは社会主義者の溜まり場だったというが、安吾自身は社会主義に深い関心はなく、プロレタリア文学も全く評価していなかった。 10月、新潟市西大畑町の生家の大家から明け渡しの要求があったため、かつて仁一郎が所有していた同市学校裏町31番地の土地を献吉が買い戻す。ここに平屋建ての家を新築、隣接する土地に貸店舗を3軒つくる。 |
◆エピソード |
「いづこへ」の中で、新潟中学を退学する時、「学校の机の蓋の裏側に、余は偉大なる落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであらうと、キザなことを彫つてきた」と書かれている。晩年、新潟放送のインタビューに答えて「机じゃなかったね。そんな長い文言は机の蓋じゃ無理です。柔道場の板戸に彫りつけたんですよ」と語っているが、どちらも虚構もしくはジョークであったかもしれない。 豊山中学は、安吾いわく「全国のヨタ者共の集る中学」で、3年生の半分ぐらいは成人。新聞配達や人力車夫などをしている生徒もいたという。ボクサーの同級生に頼まれて「人心収攬術」というボクシング小説を翻訳し、その男の名前で『新青年』に載せたと「風と光と二十の私と」にあるが、『新青年』総目次にはボクシング小説らしいものは見当たらない。不掲載に終わったか、別の雑誌に載った可能性はある。 |
◆世相・文化 |
1月10日、大隈重信が早稲田で死去。市島謙吉が葬儀委員長となって17日に日比谷公園で国民葬を催し、約30万人の一般市民が参列した。 1月、志賀直哉が「暗夜行路」後篇を連載(翌年4月まで)。 3月3日、西光万吉らが全国水平社結成。 7月15日、徳田球一、山川均、佐野学らが非合法で日本共産党結成。 8月25日、新潟県燕市から分流する大河津(おおこうづ)分水が通水。これにより信濃川下流の水量はかなり減ったため、新潟市域の川幅を約3分の1に改修する工事(770mから270mに縮小)が始まる。 12月30日、ソビエト社会主義共和国連邦が国家樹立。 |
1923 (大正12) 年 17歳 (64歳) | 震災後、父仁一郎が逝く |
1月15日から23日まで、仁一郎が七松山人名義で『新潟新聞』に「小作争議に関する管見」を連載(6回)。同紙には並行して19日から21日まで「地租軽減と政友会」も連載(3回)し、21日には「両税移譲と憲党」も発表するという具合に何重にも論陣を張る。 1月、読書量が増すにつれ創作への意欲が強くなるとともに絶望感も深まり、石川啄木流の短歌を作って新潟中学の三堀謙二に送り、戯曲を書きかけてやめる。豊山中学での2年半の間に、チェーホフ(特に「退屈な話」)、谷崎潤一郎、正宗白鳥、佐藤春夫、芥川龍之介らの作品をよく読み、ポーやボードレール、啄木なども落伍者の文学として愛読する。宗教や自然哲学の本なども読み進め、松浦一『文学の本質』『文学の絶対境』(この年7月刊)などを耽読したと推定される。 7月、献吉が新潟の住居を西大畑町の借家から新潟市学校裏町31番地の自家に移す。しかし、母アサと妹千鶴が入居してまもなく火災に遭い、2階建てに建て直す。25年11月から28年5月まで献吉夫妻もここに同居するが、献吉の東京勤務に伴い、28年10月には店舗部分を売却。アサと千鶴も29年春には東京に出てきたが、帰省時のために住居は残したようである。アサが死去する42年まで新潟の住居はここであった。 9月1日、関東大震災が起こり、2日、戒厳令下、仁一郎の命をうけて加藤高明、若槻礼次郎両邸を震災後の火事見舞いに訪れる。その時、若槻には会えなかったが加藤には会えたといい、中学生の自分と「何の距てもない心の幼さ」が加藤に感じられ、同時に「父のスケールの小さゝを痛切に感じた」と「石の思ひ」に書いている。加藤は翌24年6月11日から首相となったが、26年1月に死去、若槻が後を受けて首相になった。 11月2日、父仁一郎が死去。叙従五位。遺志により解剖の結果、胃癌ではなく後腹膜腫瘍(こうふくまくしゅよう)であったことがわかる。4日に東京で、11日に新潟で、それぞれ告別式が行われる。戒名は生前に自ら記した「攬秀院釈五峰居士」。12日に大安寺の坂口家代々の墓所に納骨された。 年末、家賃負担を軽減するため、献吉夫妻、上枝、婆やとともに池袋の四軒長屋へ転居。 |
◆書簡 |
1/14 三堀謙二宛 |
◆世相・文化 |
1月、稲垣足穂『一千一秒物語』刊行。モダニズム文学および新感覚派文学のはしりといえる。 3~4月、宇野浩二「子を貸し屋」発表。 4月、江戸川乱歩「二銭銅貨」発表。 5月、横光利一「日輪」「蠅」を発表。 6月5日、第一次共産党事件。堺利彦、山川均ら共産党議員が一斉検挙される。佐野学は直前にソ連に逃亡していた。 7月、松浦一『文学の絶対境』刊行。 9月1日、関東大震災。 |
1924 (大正13) 年 18歳 | ハイジャンプで全国優勝! |
3月、献吉が早稲田大学政治経済学部を卒業、4月に長岡銀行東京支店に入行。この春、一家で池袋近辺のさらに家賃の安い家へ転居。「そのときは二階の八畳に上枝さまと炳五さまが入り、下の八畳に主人と私、その隣りの三畳に婆やが住みました」と坂口徳の談話にある。 9月20、21日の両日、駒場トラックにて全国中等学校競技会が行われ、走り高跳びで優勝。雨でグラウンドがぬかるんだため、1.57mという例年より低い記録であった。 10月18日、豊山中学の運動会でも陸上競技(砲丸投げ、ハードルなど)に選手として出場。11月1日には学内の相撲大会、2日には柔道大会にも出場する。ほかにも、野球では投手をやったという。 12月、坂口家の財産整理が行われ、10万円ほどの借金が残っていることが判明。 |
◆世相・文化 |
3月、谷崎潤一郎「痴人の愛」を連載(翌年7月まで)。 4月、宮沢賢治が詩集『春と修羅』刊行。12月には童話集『注文の多い料理店』を刊行。 6月11日、普通選挙法を選挙公約に掲げた憲政会が比較第一党となり、加藤高明が護憲3派内閣の首相となる。 6月、プロレタリア文学雑誌『文芸戦線』創刊。平林初之輔や青野季吉が論陣を張り、葉山嘉樹、黒島伝治らを輩出した。 10月、横光利一、川端康成らが『文芸時代』創刊。新感覚派の登場として話題になる。 この年、アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』刊行。 |
1925 (大正14) 年 19歳 | 小学校の先生となるモラトリアム時代 |
年初までに献吉は横浜鶴見の日英醸造株式会社に転職、通勤の便を図って東京府荏原郡大井町字元芝849(現在の品川区東大井)に一家で転居。 1月半ば頃、母アサが借金の相談のため上京し4、5日滞在。この時、安吾の身のふり方についても話し合われたもようで、大学入学をあきらめて代用教員として働くことに決める。その頃の山口修三宛書簡に「実を云えば山へでも入って暮したかったのです。瞑想と自然がどれだけ私をそそのかしたか知れません」と書き送っている。また、1927年10月頃の山口修三宛書簡には「僕は中学を卒業する年の一月二十八日の夜十二時頃、初めて、創作と内心とのピッタリと合一した、境地を味つた」と書かれている。 3月15日、豊山中学卒業。31日に荏原尋常高等小学校下北沢分教場(現在の世田谷区立代沢小学校)の代用教員に採用され、5年生を担当。就職に伴い分教場近くの下宿屋に住んだが、20日ほどして荏原郡松沢村松原1783(現在の世田谷区松原)の分教場主任・石野則虎方の2階に移る。分教場には教室が3つしかなく、安吾が受け持った5年生は分教場の最上級で、42、3人のクラスだった。月給は45円。 7月、献吉の親友でしばしば『改造』に文章を発表していた伴純という論客が、青梅の日影和田の山中で原始生活をしていたところ、山を引き上げて遊びに来ていた。そこで、一夏を伴の山小屋で過ごそうと日影和田に赴くが、マムシの侵入に悩まされ数日で帰る。 秋には生徒たちを連れて渋谷から電車に乗り、神奈川県の逗子海岸へ遠足に行く。 10月、献吉によって仁一郎の漢詩を集めた『五峰遺稿』全3冊が刊行される。 11月1日、献吉は新潟新聞社の久須美社長から、会社の経営困難を救うべく入社懇請されていたのを受け、伴純を誘って入社。献吉が営業主事、伴が編集主事として同時入社した日付は、これまでの献吉側資料では1926年11月1日とされていたが、伴の履歴書等はすべて1925年11月1日であったと後年になってわかる。伴の死後、献吉自身も気になって未亡人に尋ねたところ、長男出生の年だったので間違いないと言い、その言のほうに重みがある。献吉のほうで「大正末年」と覚えたのが実は昭和元年の前の年だったという勘違いであろう。安吾の自伝的小説「二十一」によれば、少なくとも1926年3月以降、安吾と上枝が住む池袋の家に献吉夫妻は同居していない謎も、この説を裏づけるに十分である。 11月2日、献吉が仁一郎の三回忌法要を新潟で執り行う。 |
◆エピソード |
当時の教え子の談話によると、絶対に怒らない優しい先生で、できない子の面倒をよく見てくれたし家庭訪問もよくやったそうだ。運動の授業は非常に熱心で、そのほか一週間に2回くらい、音楽や算術の時間などをつぶして裏の公園やお寺に連れて行って写生を教えたりした。放課後はいつも教員室に居残って勉強しており、生徒が来ると「坊っちゃん」とか百人一首などを読んで聞かせた。生徒たちの評判も相当よかったらしい。「安吾なんて読みにくいから、『あんこ先生』ってあだ名で呼んでいました」と回想されているので、先生としても「安吾」の名を使っていたことがわかる。 戦争中、安吾は『新潟日報』で伴純の論文を読み、「先ずこれぐらいベラボーな論理を失した神がかりは天下になかったようである」とのちに書いている。 |
◆書簡 |
25年頃 山口修三宛 |
◆世相・文化 |
3月、ラジオ放送が始まる。 4月、加藤高明内閣で治安維持法公布。おもに共産主義の弾圧を目的とし、3年後の1928年には緊急勅令で死刑法に厳罰改定された。 5月、普通選挙法公布。納税額による制限は撤廃され、選挙権は満25歳以上の男子すべてに与えられたが、女子には太平洋戦争後まで与えられなかった。 8月、江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」発表。 9月、堀口大學の訳詩集『月下の一群』刊行。 |
1926 (大正15・昭和元) 年 20歳 | インド哲学探究、没我の修行 |
3月31日、代用教員を依願退職し、東洋大学印度哲学倫理学科へ入学。献吉はこの年11月に新潟新聞社に入社するが、早い時期に夫婦で新潟へ戻っていたらしい。早稲田大学機械科に在学中の上枝、婆やと3人で池袋近辺を転々と移り住み、最後には板橋中丸へ転居。悟りの境地を得ようとして、仏教書・哲学書などを読みふけり、睡眠は1日4時間、夜10時に寝て午前2時に起きる修行生活を続ける。上枝はボートとラグビーとバスケットボールの練習にあけくれていたという。 6月4日に新津で徴兵検査を受け、第二乙種歩兵補充兵に決まる。夏休みにも帰省。 |
◆世相・文化 |
1~2月、川端康成「伊豆の踊子」発表。 4月、中勘助「銀の匙」発表。 8月、横光利一「春は馬車に乗つて」発表。 10月、江戸川乱歩「パノラマ島奇談」発表。 12月、改造社から1冊1円の『現代日本文学全集』刊行。円本ブームが生まれる。 12月25日、大正天皇死去。昭和と改元するが、元年はわずか1週間しかなかった。 |
1927 (昭和2) 年 21歳 | 鬱病発症 |
1月28日、七姉下枝が熊本県下益城郡海東村(現在の小川町)出身の和田成章に嫁す。 3月、印度哲学倫理学科の学生たちによる同人誌『涅槃』第2号に研究論文を発表。学年末試験の最中、自動車にはねられて左頭部をコンクリートへ叩きつけ、頭蓋骨にヒビが入る。以後2年ほど水薬を飲みつづけるが、この後遺症もあってか鬱病の症状が現れだす。 夏頃、本気で創作を始めるが、何も書けず。自分には「命かぎりの芸術が、まだないからだ」と山口修三宛書簡に書かれている。「僕の頭は、とぎすました刀の様に、何物も透通しながら、書けない懊悩と懊悩の中で、いよいよ来るべき発狂をさぐり当ててしまつた」とも。鬱病の悪化に伴い幻聴や耳鳴り、歩行困難などの症状が出てきたので、修行生活を中断、療養のため新潟へ帰省。新潟中学時代の友人三堀謙二を訪ね、まもなく帰京。印度哲学には幻滅を感じはじめ、創作欲が旺盛になるが、一行も読書できなくなってしまう。 9月18日、東京府北豊島郡西巣鴨町大字池袋1060(現在の豊島区西池袋)に上枝、婆やと共に転居。以後2年8カ月ここに落ち着く。 秋頃から、岸田国士・岩田豊雄・関口次郎主宰の新劇研究所の研究生になっていた山口修三と、精神病で巣鴨保養院に入院中の沢部辰雄の2人を毎日のように訪問。山口は弟とともに遊び歩いていたらしく不在がちだったが、山口家のお喋りの婆やと深夜まで話し込む習慣がつく。婆やは山口の叔父をパトロンとしていたが、月々の生活費を山口兄弟が使い込んでいるらしいと安吾に愚痴をこぼしていた。 この頃、東洋大学では大学制度が変わろうとする時期で、印度哲学倫理学科の学生たちは同盟ストライキを打つ。安吾も一度、内藤という学生と共にストライキの首謀者的役割を果たしたことがあったという。 |
◆発表作品等 |
3月、「意識と時間との関係」(『涅槃』) 「今後の寺院生活に対する私考」(『同』) |
◆書簡 |
27年頃 山口修三宛 9/17 三堀謙二宛 10月頃 山口修三宛 |
◆世相・文化 |
2月、谷崎潤一郎が『改造』にエッセイ「饒舌録」を連載(12月まで)。 3月、芥川龍之介「河童」発表。 4月20日、田中義一内閣発足。金融恐慌の中、モラトリアム(支払い猶予令)を発動するが、不況は深刻化、労働争議が相次ぐ。 4月、谷崎と同じ『改造』誌上で、芥川龍之介が「文芸的な、余りに文芸的な」を連載(8月まで)。筋の面白さ自体には芸術性はないとして、谷崎と「小説の筋」論争を繰り広げる。そのさなかの7月24日、芥川が自殺し文壇に衝撃を与える。 5月21日、アメリカのリンドバーグが単葉プロペラ機「スピリット・オブ・セントルイス」号により単独無着陸でニューヨークからパリへの大西洋横断に成功。 9月、瀧井孝作『無限抱擁』刊行。 |
1928 (昭和3) 年 22歳 | アテネ入学、文学への回帰 |
この年の初め頃、沢部は退院して千葉の方へ行く。この頃、イカサマ商売で儲けている系図屋と名のる男と知り合い、アルバイトで春本を3つほど書いたことがあったらしい。 3月、上枝が早稲田大学理工学部機械工学科を卒業、小石川の東京計器製作所にエンジニアとして入社。⇒1948年へ この頃から、語学に集中することで鬱病を根治しようと考え、梵語、パーリ語、チベット語を習うほか、4月には神田のアテネ・フランセヘ入学し、フランス語、ラテン語も一どきに勉強する。東洋大学へも通いつづけ、前年のストライキ時の活躍が買われて、学生自治会の副委員長に選ばれるが、委員長の吉田通俊に頼んで辞退する。 5月、献吉が新潟新聞社の理事兼東京支局長に就任、献吉夫妻も池袋の借家に同居する。徐々に鬱病も治り、ポー、ヴォルテール、ボーマルシェなどのファルスを愛読。ほかにもメリメ、スタンダール、フローベール、モーパッサン、バルザック、ジイド、プルースト、ヴァレリー、ラクロ、コンスタン、ラディゲ、ランボー、ネルヴァル、ブルトンに至るまで、フランス文学の代表作を熱心に読みあさる。アテネ・フランセで知り合った長島萃、江口清と読書会を始める。 9月4日、山口修三宛書簡の中で「今愛読している人、宇野浩二、葛西善蔵、有島武郎等。みな正しい人々だった。腹の立つ人、夏目、芥川、岸田、片岡などいふ人々、下らない人達だと思っている。/俺は俺の真実を見たいと同様に、何者からも亦真実を見せてもらひたい。宇野、志賀といった人々から見せてもらへる真実を、ほかの誰からも見せて貰ひたいと願ってゐる。俺もまた、俺の真実を皆にみて貰ひたいと願っている」と書く。 その後まもなく、山口は婆やを残して弟と夜逃げする。これがもとで山口とは絶交するが、5年後、山口から今は真面目に働いているので、また友達になってほしいという手紙が届き、とまどう心境を矢田津世子に宛てて書いている(⇒1933年へ)。もっとも、その間の30、31年には居場所が知れていたようで、『言葉』『青い馬』の同人に加えて創作発表の場を与えてやるだけの温情は保った。 本格的に小説を書きはじめ、11月末締切の第2回『改造』懸賞創作に応募したと推定される。規定の原稿枚数は150枚以内で、1000篇以上の応募があった。「小さな山羊の記録」によると、その処女作は「チエホフの短篇に感動したあまり、自分も書いてみたくなって」書いたもので、「老人が主人公」、「スラスラと、一夜に一冊のノート一ぱいの文章がよどみなく書きあげられた」という。この頃、安吾が何度も読んだというチェーホフの「退屈な話」は、神経症的な老人を主人公に、現代人の不安をリアルに描いた作品である。 |
◆世相・文化 |
28年頃 山口修三宛 4月頃 山口修三宛 09/04夜 山口修三宛 |
◆世相・文化 |
1月、嘉村礒多「業苦」発表。7月発表の「崖の下」とともに注目を浴び、私小説の極北と称される。 2月、佐多稲子「キャラメル工場から」、黒島伝治「渦巻ける烏の群」発表。 2月、第1回普通選挙実施。 3月15日、三・一五事件。労働農民党や非合法の日本共産党などの関係者約1600人が治安維持法違反容疑により検挙される。これに伴い、プロレタリア文学の2派が合同して全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成、5月に『戦旗』を創刊。小林多喜二や徳永直らが同人で、『文芸戦線』の黒島伝治も『戦旗』に移る。 3月、谷崎潤一郎「卍」を連載(30年4月まで)。 4月、『改造』第1回懸賞創作の受賞作として龍胆寺雄「放浪時代」が掲載される。安吾はこれに刺激を受けて処女作を書きはじめる。 6月、中村武羅夫「誰だ?花園を荒す者は!」発表。プロレタリア文学批判の急先鋒となる。 同月、牧野信一「村のストア派」発表。幻想と現実の交錯する作風に転じ、「ギリシャ牧野」と呼ばれる。牧野は初期の安吾作品に自分と同質のものを感じたようだが、安吾はデビュー後まで牧野作品を読んだことがなかった。 6月4日、満州王として君臨した張作霖が列車移動中、関東軍のテロにより爆殺される。安吾の「いづこへ」の中で、1934年頃よく飲みに行った十銭スタンドのマダムの亭主が「張作霖の爆死事件に鉄路に爆弾を仕掛けたといふ工兵隊の一人」だと話していたと書かれている。 7月28日、アムステルダム・オリンピック開催。織田幹雄が三段跳び、鶴田義行が200m平泳ぎで優勝、人見絹枝は800mで2位となる。 7月、山本有三「波」を連載(11月まで) 8月、野上弥生子「真知子」を連載(30年12月まで)。 同月、林芙美子「放浪記」を連載(30年6月まで)。 12月、谷崎潤一郎「蓼喰ふ虫」を連載(翌年6月まで)。 |
1929 (昭和4) 年 23歳 | わかり合う母と子 |
春、母アサと妹千鶴が上京、池袋の借家に7人で同居。フランスで本場の芸術を見たいという気持ちが強くなり、アサは自分の生家から資金援助してもらって安吾を留学させてやろうと真剣に考えていたらしい。しかし自信はゆらぎがちで、「途中で自殺しそうな気配の方を強く感じて」フランス行には踏み切れなかったと「世に出るまで」に書かれている。 11月、献吉が父仁一郎の追悼録『五峰余影』を刊行。 この年再度、『改造』懸賞創作に応募したようである。 |
◆世相・文化 |
3月5日、旧労農党の山本宣治が右翼の暴徒に刺殺される。 4月、島崎藤村「夜明け前」連載開始。 同月、安西冬衛『軍艦茉莉』刊行。 同月、中原中也、河上徹太郎、大岡昇平、富永次郎、安原喜弘らが同人誌『白痴群』創刊(翌年4月まで刊行)。 4月16日、四・一六事件。共産党員が再び一斉検挙にあう。 4月20日、萬代橋上流両岸の埋め立て工事が始まる。 5月、井伏鱒二「山椒魚」発表。 5~6月、小林多喜二「蟹工船」発表、のちに発禁となる。 6月、徳永直「太陽のない街」を連載(11月まで)。 7月2日、田中義一内閣が総辞職し、立憲民政党の浜口雄幸が組閣。 8月23日、萬代橋(3代目)竣工。6連アーチの構造は初代から変わらないが、木橋から鉄筋コンクリート製に変わった。全長は782mから306.9mに縮小、幅は6.7mから21.9mに広がった。この橋は2004年7月に重要文化財に指定された。国道に架かる橋では東京の日本橋に続いて全国で2例めである。 9月、『改造』の懸賞評論で、小林秀雄「様々なる意匠」が第2席となり文壇デビュー。第1席は宮本顕治「『敗北』の文学」。 9月、モダニズム詩誌『詩と詩論』創刊。 10月24日、ニューヨーク株式市場の大暴落を機に、4年に及ぶ世界恐慌が始まる。 同月、川端康成、横光利一らが『文学』創刊。同誌に小林秀雄がランボー「地獄の季節」の翻訳を連載。 11月、西脇順三郎『超現実主義詩論』刊行。付録に瀧口修造「ダダよりシュルレアリスムへ」収載。 11月、井伏鱒二「屋根の上のサワン」発表。 |
1930 (昭和5) 年 24歳 | はじめての同人誌発刊 |
3月、東洋大学卒業。4年間の在学中に、倫理、教育、国文学、支那哲学、印度哲学、西洋哲学、歴史、英語及英文学などを学び、どの学科も高得点であった。 5月、荏原郡矢口町字安方127(1932年10月以降は東京市蒲田区安方町127。現在の大田区東矢口2丁目)に家が建ち、アサ、献吉夫妻、上枝、千鶴と共に池袋から転居。女子美術専門学校へ通う姪の綾子も交えて、家族で麻雀や花札をして遊ぶ。 夏頃、アテネ・フランセに通う葛巻義敏、本多信、江口清、山沢種樹、長島萃、若園清太郎、関義、高橋幸一らと同人誌『言葉』の創刊準備に入る。豊山中学時代の友人山口修三も同人に加わっているが、同人会などには出席しなかったもようである。翻訳中心の雑誌とするため、葛巻の家で徹夜で翻訳する日がしばしばあり、『言葉』に発表したほかにも、ジイドの「オスカー・ワイルドの思い出」などを翻訳する。 11月、『言葉』創刊。葛巻と交代で編輯兼発行人を務める。発行所は献吉が理事兼東京支局長を務める新潟新聞社東京支局(京橋区中橋和泉町六)の2階となっているが、編集会議は葛巻の部屋か蒲田の坂口家で行われることが多かった。処女作「木枯の酒倉から」は葛巻が強く推して『言葉』第2号に掲載されることになるが、その掲載採否が同人会議で決まる前後の同月14日、好きだった異母姉ヌイが黒色肉腫のため40歳で死去。鎮魂の思いをこめた次作の構想を練る。また、葛巻宛に未定稿「愛染録」を書いて送るとともに、「僕は今、ドビュッシイのやうな小説を書こうと思つてゐます」「この小説は、短い期間では出来さうもありません。この中で、僕は、少年と少女と同性愛と犯罪と、親と子と、惨酷と、□(イン)惨と、それらの中から、夢のやうな何かある純情さを浮彫りすることを意企するつもりです」と書き送った。 年末、サティの歌曲を日本で初演した三瀦牧子宅を『言葉』同人たちと訪問し、サティの「Je te veux(おまえが欲しい)」を歌ってもらう。 |
◆エピソード |
この春から女子美術専門学校へ入学した姪の湯浅綾子さん(ヌイの娘)は、毎週土日は坂口家へ遊びに行っていたという。その頃麻雀のセットが手に入って、アサ、献吉、徳、上枝、安吾、千鶴、綾子さんの7人のうち手の空いた人から卓を囲んで夜通し麻雀をやった。夏には、アサは腰巻き一枚で上半身は裸、上枝もいつも褌一枚でいたが、安吾は絶対に裸にならなかったという。その頃の安吾は痩せていて、あばら骨が人に見えるから嫌だと言って、いつも妹の千鶴が作ってくれたパジャマを着てナイトキャップをかぶっていた。麻雀で金を賭けたこともあって、安吾のトレードマークのステッキは、麻雀で勝った金で買ったのが初めらしい。当時はステッキがはやっていて、アテネ・フランセの仲間たちの間でも安吾のほかに長島萃、若園清太郎、本多信、片岡十一などが愛用者だった。麻雀のブームが終わった頃からは花札をやったという。 この年の5月5日、神田のカフェの支配人募集広告を見て就職面接に出かけた話が「暗い青春」に書かれている。「誰の目にも一番くだらなさうな職業だから」という理由であり、結局履歴書をその場で返却してもらって帰ったという。同じ頃、長島萃と九段の祭りでサーカスを見たあと、衝動的に一座に入れてくれと頼んだとも書かれている。この時は「長島に見せるための芝居気」もあったらしい。落伍者志願を現実の上で実験(あるいは取材)する気持ちがあったかもしれない。 |
◆発表作品等 |
11月、翻訳 マリイ・シェイケビッチ「プルウストに就てのクロッキ」(『言葉』) 「編輯後記」(同) |
◆書簡 |
11月末頃 葛巻義敏宛 |
◆世相・文化 |
1月11日、浜口内閣で、井上準之介蔵相により長年の懸案だった金解禁が断行される。産業の構造改革をめざしたものであったが、世界恐慌の影響もあって、大不況に陥る。 1月21日からは英米日仏伊5カ国によるロンドン軍縮会議が行われ、首席全権として若槻礼次郎が出席、4月22日に条約調印。これにより軍部との対立が激しくなる。 3月、牧野信一「西部劇通信」「吊籠と月光と」を発表。 5月、堀辰雄、井伏鱒二、小林秀雄、神西清、深田久弥、永井龍男、今日出海らが『作品』創刊。執筆者はほかに川端康成、横光利一、武田麟太郎、牧野信一、萩原朔太郎、三好達治、北川冬彦、岸田国士ら。翌年、牧野が創刊する『文科』同人と重なる執筆者が多い。 6月、直木三十五「南国太平記」を連載(10月まで)。 9月、横光利一「機械」発表。 11月、堀辰雄「聖家族」発表。 11月14日、浜口雄幸首相が東京駅で銃撃されるが、この時は一命をとりとめる。⇒翌年へ 12月、三好達治が処女詩集『測量船』刊行。 エロ・グロ・ナンセンス文学が隆盛をきわめる。 |
1931 (昭和6) 年 25歳 | 衝撃のデビュー |
1月、葛巻宛に習作「僕の一人の友に就て」を書き送る。『言葉』第2号刊行前から、葛巻らと岩波書店より刊行してもらうべく交渉を始める。芥川龍之介の甥である葛巻は、芥川の遺稿の整理や全集出版などの責任者を負っていた関係で、全集の版元である岩波書店の力を借りようとしたが、交渉は難航、2月に出すはずの後継誌は5月まで延びる。『言葉』第2号では、アテネの先生をしていた山田吉彦(きだみのる)と阪丈緒とを同人に加えて、岩波への口添えを頼んだようだが、結局は葛巻の立場上の力が大きかったものと思われる。 5月、誌名を『青い馬』と変えて岩波書店より新創刊。菱山修三、西田義郎、鵜殿新一、片山勝吉、大久保海洋らが新規加入。安吾は創刊号に小説、エッセイと翻訳2本を載せている。 6月、『青い馬』第2号に発表した「風博士」が文壇に新風を巻き起こす。岩波の名前もあって文壇の注目度は格段に増しており、当時『文藝春秋』の編集者だった永井龍男などが真っ先に注目して井伏鱒二に推奨。永井が牧野信一にも教えたのかもしれない。 7月、アテネ高等科1年度期末試験で「賞」を得る。『青い馬』第3号には「黒谷村」を発表。この号から江口清が本多信とともに編集主幹となり、編集所も田畑の葛巻方から神田岩本町の江口方に移る。同月、牧野信一が『文藝春秋』付録冊子で「風博士」を激賞、8月23日付『時事新報』では「黒谷村」を絶讃、同時に大森山王の牧野家への招待状が届く。牧野は宇野浩二にも安吾の諸作を奨め、宇野は『時事新報』12月14日号で「本年度下半期の傑作」に「竹藪の家」を挙げた。島崎藤村も「黒谷村」などを褒めていたといわれるが、藤村に関しては確証がない。 8月末頃、牧野家初訪問の日、牧野を編集主幹として創刊される『文科』に長篇小説の連載を奨められ、以後、河上徹太郎、中島健蔵、佐藤正彰、三好達治、小林秀雄ら牧野を中心とする文学グループに加わって痛飲する日々が多くなる。 10月1日、春陽堂から『文科』創刊。執筆作家はほかに、井伏鱒二、堀辰雄、稲垣足穂、嘉村礒多、丸山薫、安西冬衛、坪田譲治、瀧井孝作、上林暁らで、青山二郎が装幀。芸術派の新鋭・中堅として有名な作家ばかりの中で、全くの新人の安吾と主幹の牧野だけが全4集で長篇小説を連載した。長篇のタイトルは初め「長旅の果」で、その第1話を「竹藪の家」としてあったが、発表時に総題は省かれる。 |
◆発表作品等 |
1月、「木枯の酒倉から」(『言葉』) 5月、「ふるさとに寄する讃歌」(『青い馬』) 「ピエロ伝道者」(同) 翻訳 ヴァレリイ「ステファヌ・マラルメ」(同) 「エリック・サティ(コクトオの訳及び補註)」(同) 6月、「風博士」(『青い馬』) 翻訳 ロヂェエル・ビトラック「いんそむにや」(同) 7月、「黒谷村」(『青い馬』) 翻訳 トリスタン・ツァラ「我等の鳥類」(『L'ESPRIT NOUVEAU』) 8月、「帆影」(『今日の詩』) 「現代仏蘭西音楽の話」(『L'ESPRIT NOUVEAU』) 9月、「海の霧」(『文藝春秋』) 10月、「霓博士の廃頽」(『作品』) 「竹藪の家」(『文科』翌年3月まで連載) |
◆書簡 |
1月頃 葛巻義敏宛 9/03 山口修三宛 |
◆世相・文化 |
1月20日、菱山修三が21歳で処女詩集『懸崖』(第一書房)を刊行。アテネにいた菱山はこのあと『青い馬』同人に加わる。 4月13日、前年銃撃を受けた浜口雄幸が首相を辞任、第2次若槻内閣が発足。 4月、横光利一「時間」発表。 同月、野村胡堂「銭形平次捕物控」連載開始。 5月、梶井基次郎の短篇集『檸檬』刊行。小林秀雄らの絶讃を浴びるが、梶井は翌年病死。 8月26日、浜口雄幸死去。 9月、谷崎潤一郎「盲目物語」発表。 10月、牧野信一「ゼーロン」発表。『文科』に長篇「心象風景」を連載。 9月18日、満州事変勃発。日本の関東軍は5カ月後には満州(現中国東北部)全土を占領するに至る。若槻内閣の不拡大方針は軍部に破られる。 同月、谷崎潤一郎「武州公秘話」を連載(翌年11月まで)。 11月11日、新潟放送局が開局。 12月、伊藤整らがジョイス『ユリシイズ』上巻の翻訳を刊行。 12月13日、若槻内閣に代わって犬養毅内閣が発足。 12月21日、イギリスなどに追随して日本も金輸出再禁止、管理通貨制に戻す。これを予測していた各財閥はドルの思惑買いによって巨利を得る。 |
1932 (昭和7) 年 26歳 | 矢田津世子との出逢い |
この頃、牧野家が泉岳寺附近へ引っ越したため、小学2年生だった牧野の一子英雄を九段の暁星小学校に編入させる手続きを代行。 1月18日、1931年の代表作をあつめた春山行夫編『年刊小説』(『詩と詩論』別冊、厚生閣書店刊)に「風博士」が収録される。 2月1日、「帆影」が『今日の詩』に再掲される。 3月初め頃、「竹藪の家」続篇の取材のためか京都へ旅行。河上徹太郎の紹介で京大仏文科を卒業して上京する間際の大岡昇平を訪ね、大岡の世話で独文科の加藤英倫が住む左京区八瀬黒谷門前のアパートに部屋を借りる。左京区百万遍の京都アパートメントにいた京大哲学科美術史専攻の安原喜弘や加藤、画家の黒田孝子らと毎晩のように酒を酌み交わし、加藤とは連れ立って1週間ほど神戸へも旅行する。河上、大岡、安原は、中原中也らと1929~30年に同人誌『白痴群』の仲間であった。この時からの縁で、加藤、安原と中也、黒田孝子らはのちに安吾と牧野の肝煎りで創刊される『紀元』の同人になる。 4月初め頃、上京後まもなく『文科』の廃刊が決まり、創作の方向性に迷いはじめる。「詩人」でなく「小説家」としての道を模索し、牧野とは意見が食い違うようになってあまり会わなくなる。 5月10日、「ふるさとに寄する讃歌」が『小説(roman)』第2輯・特別号に再掲される。 7月19日、「木枯の酒倉から」が『サロン』に再掲される。 秋頃、京橋のバー「ウヰンザア」で中原中也と知り合い、中也や河上らとは飲んだ後によく待合や娼家などへ繰り出したようである。ウヰンザアの女給だった坂本睦子とホテルや旅館などを泊まりあるくようになったのもこの頃である。睦子は中也や小林秀雄、河上らとも浮き名を流し、戦後は大岡と暮らして「花影」のモデルになった女性で、1958年に自殺する。やや神経衰弱の気味があり、肉体の交渉を強烈に拒むくせに、ただずっと抱き合っているのを好んだという。その激しくも寂しげな風貌をもつ女性像は、その後「恋をしに行く」など安吾作品のそこここに立ち現れる。 11月3日から8日まで新潟に帰省。 12月、鎌倉で病気療養中の姪村山喜久を見舞い、義兄の村山真雄、その弟の政司とともに戯れの詩画集「小菊荘画譜」3冊を作る。ウヰンザアで加藤英倫と飲んでいる時に矢田津世子と出逢い、加藤に紹介されたというのは、この年末から翌年1月半ばにかけての時期であると考えられる。加藤と連れだって矢田が初めて安吾の家を訪れた時、ヴァレリイ・ラルボオの翻訳本(おそらく10月15日刊行の『仇ごころ』)を忘れていき、まもなく矢田からの自宅招待状が届いたという。 12月28日、四兄上枝が山形県東置賜郡赤湯町(現在の南陽市)の須藤雪子と結婚。 |
◆発表作品等 |
2月、「蝉」(『文藝春秋』) 3月、「FARCE に就て」(『青い馬』) 4月、「群集の人」(『若草』) 6月、「母」(『東洋・文科』) 9月、「Pierre Philosophale」(『文学』) 10月、「村のひと騒ぎ」(『三田文学』) |
◆書簡 |
4/30 黒田英三郎・孝子宛 4月頃 山本経宛 8/22 「陽気な女房」より来信 10/27 谷丹三宛 |
◆世相・文化 |
2月、嘉村礒多「途上」発表。 2~3月、血盟団事件。日蓮宗の僧侶井上日召の指令により、前蔵相の井上準之助、三井財閥の団琢磨が射殺される。日召は他に20余名の暗殺を企てていたが逮捕。 3月1日、満州国建国宣言。清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を執政に担ぎ上げた日本の傀儡国家で、長春を新京と改名して首都とする。 4月、島崎藤村が「夜明け前」第2部を連載(10月まで)。 3月、伊藤整が評論「新心理主義文学」を発表。 5月15日、五・一五事件。青年将校らが犬養毅首相を射殺、政党政治が終わる。同時刻に、牧野伸顕内大臣邸、立憲政友会本部も襲撃される。 5月26日、朝鮮総督であった斎藤実を首相とする挙国一致内閣が発足、国内政治の安定をめざし、軍部や政財界との妥協点を探る。 s 6月、武田麟太郎「日本三文オペラ」発表。 7月、小林秀雄がヴァレリイ「テスト氏との一夜」の翻訳を発表。 7月30日、ロサンゼルス・オリンピック開催。南部忠平が三段跳びで世界新を出したほか、馬術、水泳などで日本が7つの金メダルをとる。 7月31日、ドイツ総選挙でヒットラー率いるナチスが第1党となる。 9月、小林秀雄「Xへの手紙」発表。 10月15日、堀口大學・青柳瑞穂共訳でヴァレリイ・ラルボオの長篇『仇ごころ』刊行。ラルボオの翻訳本はこれが初めてである。 11~12月、谷崎潤一郎「蘆刈」発表。 12月、丸山薫が処女詩集『帆・ランプ・鴎』刊行。 |