1946 (昭和21) 年 40歳 | 「堕落論」「白痴」で流行作家に |
1月24日、戦犯糾弾の声が日増しに高まる風潮を憂い、『風報』を「国内の迎合主義者、ニセ文化人」と戦う決意で出したいと尾崎士郎に宛てて書き送る。 同月、長兄献吉が安吾の提言を入れて、新潟日報社から『月刊にひがた』創刊(翌年から『月刊にいがた』に表記変更)。 2月、『中央公論』の海老原光義からの原稿依頼に応じ「外套と青空」を執筆、編集部へ送る。しかし永井荷風の作品と「情痴文学」が2つ並んでは困るという理由で、7月まで発表が延期される。この頃、尾崎士郎が戦犯に挙げられるのを防ぐための一策として、士郎の戦争色のない純文学作品を選んだ短篇集『秋風と母』の編集準備にとりかかり、士郎宛に著作年譜が見たい旨、書き送っている。同じ頃、尾崎士郎の紹介で訪れるようになった高橋旦青年から同人誌『東籬』の会での講演を頼まれ、1時間ほど天皇制反対論を演説。 3月、尾崎士郎は水野成夫とともにユーモアもののシリーズ企画を発案、安吾の「低俗な世相と戦ふ決意」との間に齟齬が生じはじめる。 4月発表の「堕落論」、6月の「白痴」によって、一躍流行作家となる。 4月8日、浮浪者の救護に身を捧げて死んだ医大生の話に感動し、「青年に愬ふ」「特攻隊に捧ぐ」の中でその精神を讃える。「特攻隊に捧ぐ」は7月に『ホープ』へ渡す(⇒翌年2月へ)。 5月頃、尾崎士郎と意見が合わず『風報』の計画から退く。 同月、會津八一が献吉からの懇請を受けて、新創刊の『夕刊にいがた』社長を務める。この話が早くに知れたものか、『光』2月号のゴシップ欄に、會津が社長で安吾が編輯長の新聞ができるらしいと噂されていた。安吾は12月の『月刊にいがた』でこの噂を笑い飛ばしている。 6月8日朝、NHK第一放送で「世相と諷刺」という題で話す。 7月初め、「女体」に始まる長篇「恋を探して」の執筆を始める。日記体のエッセイ「戯作者文学論」に、この期間の執筆裏話を記す。7日、『雑談』の依頼で「インチキ文学ボクメツ雑談」を執筆するが掲載されず。15日、新日本社の入江元彦青年が銀座出版社『サロン』への原稿依頼に訪れる。その人物を気に入って執筆を承諾。以後、銀座出版社との関係が深くなる。27日には春陽堂『新小説』の編集者高木常雄青年が来訪、これも執筆承諾。高橋旦青年とともに、入江、高木もその後安吾の秘書役を兼ねて坂口家へ出入りするようになり、この秋までには高木も『サロン』編集部に移る。 この頃、各社から短篇集やエッセイ集刊行の申し出があり、若園清太郎、葛巻義敏らを煩わせて旧著を収集する。中央公論社から長篇に没頭するならその間の生活費を出すという約束を得るが、とりあえず書けるだけの短篇を書く決意を固める。夏頃から、殺到する注文をこなすためヒロポンを常用するようになり、眠るためにはアルコールを多量に摂る。「桜の森の満開の下」はこの頃書かれたもので、はじめ「白痴」に続く作品として『新潮』に手渡されたが、当時の編集長・斎藤十一は「これは小説ではない」として返却、その後、囲碁仲間だった作家・野上彰らの編集する暁社の『暁鐘』へ回ったものである。同誌11月号に掲載予定で既に組み置きとなっていたが(黄益九氏調査)、この号は発刊されず、同じ暁社発行の改題誌『肉体』創刊号に掲載されるまで7カ月かかる。「桜の森の満開の下」を収めた単行本『いづこへ』のほうが、雑誌初出よりも2週間余り先に刊行されたのはこうした事情による。 10月、「戦争と一人の女」がGHQの検閲により大幅に削られた形で発表される。 11月22日、太宰治、織田作之助、平野謙との座談会「現代小説を語る」が銀座の実業之日本社で行われる。この日付については従来、11月25日の鼎談と同日の開催とされてきたが、『評伝坂口安吾』では様々な傍証より11月21日頃と推定した。近年新たに見つかった安吾の1946年のメモ帳には、その11月の欄に「二十二日 座談会 実業日本」と記されており、より正確な日付がこれで確認できたことになる。これが無頼派3人の初顔合わせであった。座談会終了後、企画担当の倉崎嘉一を交えて5人でバー「ルパン」へ繰り出す。ルパンには青山光二、高木常雄、入江元彦も先に来ており、太宰が帰ったあと、『改造』の編集者で旧『青い馬』仲間の西田義郎が入って来る。安吾はルパンの支払いは全部自分がもつと言って、高木青年を神田の出版社へ集金に行かせる。その間に織田は西田と銀座裏の佐々木旅館に帰り、安吾は金の到着を待って最後にルパンを出、高木とともに泥酔して佐々木旅館へ押しかける。 25日には太宰治、織田作之助との鼎談「歓楽極まりて哀情多し」が『改造』主催で行われるが、翌月4日に織田が喀血、絶対安静状態となったため校正できず、掲載見合わせとなる。1949年1月『読物春秋』に掲載された際、末尾にこの日の日付が明記された。この日も散会後はルパンへなだれこみ、この時、林忠彦が3人の有名な写真を撮影。その後は太宰と連れだって織田の宿泊する佐々木旅館へ立ち寄って飲みつづける。「太宰さんはたて続けにタバコを喫われ、織田はしきりとヒロポンを注射した」と織田昭子の回想にある。 12月、江戸川乱歩主催の土曜会に出席、自身の探偵小説観を披瀝。以後、『宝石』掲載の予定で、戦争中から構想していた推理長篇「不連続殺人事件」の執筆を始める。 |
◆発表作品等 |
1月、「わが血を追ふ人々」(『近代文学』) 3月、「地方文化の確立について」(『月刊にひがた』) 「朴水の婚礼」(『新女苑』) 「処女作前後の思ひ出」(『早稲田文学』) 4月、「堕落論」(『新潮』) 6月、「白痴」(『新潮』) 「天皇小論」(『文学時標』) 「青年に愬ふ」(『東籬』) 7月、「外套と青空」(『中央公論』) 「文芸時評」(『東京新聞』3~5日) 8月、「尾崎士郎氏へ(私信に代へて)」(尾崎士郎『秋風と母』に書き下ろし) 「通俗作家 荷風」(『日本読書新聞』28日) 9月、「女体」(『文藝春秋』) 「欲望について」(『人間』) 「蟹の泡」(『雑談』) 「我鬼〔『二流の人』思索社版第2話の3〕」(『社会』) 10月、「いづこへ」(『新小説』) 「魔の退屈」(『太平』) 「戦争と一人の女」(『新生』) 「デカダン文学論」(『新潮』) 「足のない男と首のない男」(『早稲田文学』) 対談「淪落その他」(『婦人公論』) 対談「文学対談」(『談論』) 「風俗時評」(『時事新報』13日~12月15日) 「ヒンセザレバドンス」(『プロメテ』) 11月、「続戦争と一人の女〔戦争と一人の女〕」(『サロン』) 「石の思ひ」(『光』) 「肉体自体が思考する」(『読売新聞』18日) 12月、「堕落論〔続堕落論〕」(『文学季刊』) 「エゴイズム小論」(『民主文化』) 「読書民論(葉書回答)」(『東京新聞』15日) |
◆書簡 |
01/08夜 尾崎士郎宛 01/18 尾崎士郎より来簡 01/24夜 尾崎士郎宛 01/29 尾崎士郎より来簡 01頃 尾崎一雄宛 02/07早暁 尾崎士郎より来簡 02/16 坂口献吉宛 02頃 尾崎士郎宛 02/27 尾崎士郎より来簡 03/06 尾崎士郎宛 03/07 尾崎士郎より来簡 03/12 尾崎士郎宛 03/22 河盛好蔵宛 04/05 尾崎士郎宛 04/05 尾崎一雄宛 04/22 海老原光義宛 05頃 尾崎士郎宛 05/22 尾崎士郎宛 05/29 尾崎士郎より来簡 05末頃 尾崎士郎宛 06/08 尾崎士郎より来簡 06/17 尾崎一雄宛 07/06 尾崎士郎より来簡 07/08頃 尾崎士郎宛 07上旬 若園清太郎宛 07/12 尾崎一雄より来簡 07/14 尾崎一雄宛 07中旬 若園清太郎宛 07/20 尾崎士郎より来簡 07/23 尾崎士郎宛 07頃 山内直孝より来簡 08/24 尾崎士郎より来簡 08/28 尾崎士郎宛 08/29 尾崎士郎より来簡 10/20 竹村坦宛 10/21 尾崎士郎宛 11/30 尾崎士郎宛 |
◆世相・文化 |
1月1日、天皇が人間宣言を行う。これを利用したのが戦前から宗教活動を行っていた長岡良子(ながこ)で、天皇の身体を去った天照大神が自分に宿ったと宣言、「天璽照妙光良姫皇尊(璽光尊)」と名のって活動を先鋭化させる。双葉山や呉清源らが熱心な信者となり、安吾は新興宗教の1典型としてしばしば言及したほか、数多くの小説の題材にもなっている。 1月4日、ポツダム宣言に基づき、GHQが軍国主義指導者の公職追放を司令。 同月、『現代文学』同人だった荒正人、佐々木基一、平野謙、本多秋五、山室静と、小田切秀雄、埴谷雄高の7人が『近代文学』を創刊。創刊号から埴谷雄高「死霊」の連載や平野謙「島崎藤村」などの評論が文壇の話題となる。小田切、荒、佐々木らは『文学時標』も創刊、両誌において文学者の戦争責任を厳しく追及した。このほか、『人間』『展望』など新雑誌の創刊が相次ぎ、『中央公論』『改造』などが復刊された。志賀直哉が「灰色の月」を、永井荷風が「勲章」「踊子」を発表。 2月、小林秀雄『無常といふ事』刊行。 同月1日、第1次農地改革。19日から天皇の全国巡幸が始まる。 同月25日、新円発行。新たな百円札と十円札が発行され、旧円は3月2日までが交換期限で以後失効となる。 3月1日、労働組合法施行。同月、石川淳が「黄金伝説」を発表。 4月10日、戦後初の衆議院議員総選挙。初めて女性の参政権が認められ、女性議員が39人誕生する。同月、織田作之助が「世相」「競馬」を発表。野間宏が「暗い絵」を発表。 5月3日、A級戦犯28人を裁く東京裁判が開廷(~1948年に結審)。 同月22日、第1次吉田茂内閣発足。 同月30日、禁制品取締のため東京上野の闇市に武装警官が出動する。 6月、谷崎潤一郎『細雪』刊行。 8月1日、闇市の全国一斉取締が行われる。闇市ではヒロポンなども多く出回った。 同月20日、小平事件。女性連続絞殺犯の小平義雄が逮捕される。安吾は多数のエッセイで小平に言及しており、「精神病覚え書」では最も動物的な犯罪者と定義し、「現代の詐術」では「小平も樋口も我々の心に棲んでいる」と述べた。樋口は翌9月の事件の犯人。 9月、梅崎春生が「桜島」を、田村泰次郎が「肉体の悪魔」を発表。 同月17日、住友財閥の12歳の娘邦子が帰宅途中誘拐され、26日に犯人の樋口芳男が逮捕される。何人もの少女を誘拐しては献身的な愛情を注いだ樋口のことを、安吾は「風俗時評」「エゴイズム小論」などで好意的に批評した。 10月、石川淳が「焼跡のイエス」を発表。花田清輝『復興期の精神』刊行。 同月、宮沢賢治の遺稿「眼にて言ふ」が『群像』創刊号に掲載される。この遺稿は安吾の心に響き「教祖の文学」に全文引用されることになるが、ちょうどこの月頃に記された安吾のメモに「(無常といふこと)に就て/宮沢賢治遺稿より出発のこと/小林の態度は文学よりも宗教であること/格言に近づくことは文学に非ざるのこと」とある。 11月3日、日本国憲法公布。同月16日、現代仮名遣いおよび当用漢字が決定。 同月、桑原武夫が俳句を「第二芸術」と呼び、第二芸術論争が始まる。安吾もこれに応じて1948年に「第二芸術論について」を発表した。 12月3日、NHKラジオでクイズ番組「話の泉」が始まる。初めの2回は徳川夢声が司会を務める。安吾はこの番組が好きだったようで、「戦後新人論」の中で「二十の扉」とともに「アプレゲールの新産物」と呼んでいる。特に解答者としての夢声について「彼の天分は堂を圧してしまう。アア夢声は天才ナリ、と思う」と絶讃した。 12月21日、南海道大地震。被害は九州から東海地方まで及び、死者は1300人を超えた。 |
1947 (昭和22) 年 41歳 | 「花妖」の挫折と「不連続殺人事件」連載 |
1月10日、織田作之助病死。通夜、葬儀には出席せず、1人で飲みながらその死を悼む。 2月、『ホープ』掲載予定の「特攻隊に捧ぐ」がGHQの検閲により「Militaristic(軍国主義的)」との理由で全文削除される。 同月18日より5月8日まで『東京新聞』連載の「花妖」執筆に集中。挿絵は岡本太郎。書き上がったら新潮社から刊行する旨、編集者野原一夫と約束を交わす。この頃から外来者との面会日を水曜日のみとする。 同月25日、福田恆存から、安吾論を書くため旧著を読ませてほしいとの依頼が来る。これを機に福田との交遊が始まり、12月から月次刊行される銀座出版社版『坂口安吾選集』全9巻の編・解説を福田が1人で引き受けることとなる。 3月初め、梶三千代と新宿の酒場チトセで出逢い惹かれ合う。チトセは古い文学仲間の谷丹三が開いた店。谷は戦前、向島にあった料亭「千歳」の娘房子と結婚し、入り婿となっていた。房子と三千代はその当時からの知り合いで、安吾と引き合わせることになったもの。三千代は秘書の名目で毎週水曜日の出勤を約束するが、秘書としての仕事はほとんどなく、まもなく半同棲状態となる。 4月頃、「抗議三つ」を執筆するが発表されず。同月末頃、「わが施政演説」の執筆を始めるが未完に終わる。その頃、三千代が盲腸炎から腹膜炎となって倒れ、武蔵新田の南雲医院で緊急手術することになる。当時、中央公論社から『堕落論』を刊行する約束だったが、同社では刊行までに相当の時日を要するため、手術・入院費用を即時に捻出することはできない。そのため、『逃げたい心』を刊行したばかりの銀座出版社へ版元を乗り換える旨、両社に了承を得る。以後1カ月余り、南雲医院でつきっきりで看病しながら、三千代をモデルにして「青鬼の褌を洗う女」を執筆する。 5月8日、東京新聞文化部の都合で「花妖」の連載が打ち切りになる。小説の内容も岡本太郎のシュールな挿絵も大衆受けしないものだったためといわれる。友人の記者頼尊清隆らが間に立って苦慮するのを見かねて、事を荒立てずに切り上げる。その後、野原一夫には「俺はかならず『花妖』を完成する。そして『花妖』を俺の最高の傑作にしてみせる」と宣言していたが、続きに着手する意欲はほとんどなくなる。代わりに、各社の原稿依頼を拒まず受けるようになる。 5月24日、『風報』創刊号用の対談のため国府津まで出向き、尾崎士郎を司会として尾崎一雄と対談、その後の酒宴もそこそこに三千代のもとへ戻る。 6月、文學界社から同人形式で復刊された『文學界』に同人加入。他の同人は三好達治、林房雄、井伏鱒二、河上徹太郎、亀井勝一郎、横光利一、堀辰雄、火野葦平、舟橋聖一、太宰治、石川達三、丹羽文雄ら。 同月6日、木村義雄対塚田正夫の将棋名人戦に出かけ「散る日本」を執筆。三千代は6月中に退院、坂口家で養生を続け、そのまま結婚生活に入る。 同月中旬、母校東洋大学の学生に請われて1時間ほど講演、政治と文学の関係についての質問に「文学は制度への反逆であり、逆説です」と答える。 7月30日、『日本読書新聞』の「執筆者通信」欄に「花妖、長篇小説、七月末脱稿、新潮社より出版」と発表したが、やはり書き進められたようすはなかった。 8月、和田芳恵らが創刊した『日本小説』に「不連続殺人事件」を連載開始。『宝石』掲載の予定で2月頃まで書き進めていたもので、連載に当たり犯人当ての懸賞を付けたことが話題になる。担当編集者は渡辺彰。同月10日、日本文芸家協会編『年刊創作傑作集』第1輯(桃蹊書房刊)に「続戦争と1人の女」が収録される。 盛夏の頃、太宰治、石川淳らと『ろまねすく』同人となり、打ち合わせを兼ねた懇親会に出席。懇親会には辰野隆、林房雄、田村泰次郎、清水崑らと東京新聞社の頼尊清隆や書店主らが参加し、席上「新戯作派」という誌名が提案されたが安吾が強く反対した。同誌に「淪落の青春」を連載する予定だったが、翌年1月の創刊号のみで廃刊となったようで、未完に終わっている。 この年、翌年1月創刊の『文芸時代』にも同人加入。同誌は豊田三郎、福田恆存が編集の中心となり、同人には他に、太宰治、伊藤整、花田清輝、舟橋聖一、梅崎春生、椎名麟三、武田泰淳、青山光二、林芙美子ら31人の名がある。安吾は寄稿していないが、同人会には律儀に出席していたと田辺茂一の回想にある。 10月頃、檀一雄が郷里の九州から上京、坂口宅で歓待する。同じ頃疎開先の静岡から上京した田中英光の紹介で武笠シズ子が住み込みの家政婦となる。英光は上京後、浅草の染太郎や銀座のルパンなどでよく飲んだので、それらの店で安吾と出逢い、家政婦を探している話など聞いたものであろう。当時シズ子は新宿花園町の洋裁店におり、窓向かいに英光の愛人山崎敬子宅があった関係で英光と知り合ったという。 10月3日、前年11月に決定した現代仮名遣いおよび当用漢字について、文部省から意見を求められ、「新カナヅカヒの問題」を執筆して回答とする。 同月21日、有楽町の毎日ホール劇場で「物故探偵作家追悼・講演と探偵劇の会」が開かれる。城昌幸脚本の探偵劇「月光殺人事件」に安吾も出演予定として名前が毎日新聞の予告に載っていたが、不参加。 秋頃、「〔同人雑誌の意義について〕」を執筆するが未発表に終わる。 11月、長兄献吉が公職追放に遭い、新潟日報社取締役を辞任。献吉は以後、北日本産業振興協会を創立し理事長として活動を始める。農作物などの成長促進剤の発売、石鹸の製造、印刷業など多岐にわたる事業を手がける。また、新潟総合大学創立に協力する。 12月8日、木村義雄と名古屋へ出発し、9日、木村升田三番勝負第1局を観戦、「観戦記」を執筆。この頃から覚醒剤はヒロポンよりもゼドリンを愛用する。 この年、「〔私小説是非〕」「横暴な新聞販売店」も執筆したと推定されるが生前未発表。 |
◆発表作品等 |
1月、「当世らくがき帖」(『月刊にいがた』) 「恋をしに行く」(『新潮』) 「風と光と二十の私と」(『文芸』) 「私は海をだきしめてゐたい」(『婦人画報』) 「道鏡」(『改造』) 「家康」(『新世代』) 「母の上京」(『人間』) 「戯作者文学論」(『近代文学』) 「通俗と変貌と」(『書評』) 「花田清輝論」(『新小説』) 「模範少年に疑義あり」(『青年文化』) 「ぐうたら戦記〔わがだらしなき戦記〕」(『文化展望』) 「文人囲碁会」(『ユーモア』) 座談会「新文学樹立のために」(『新小説』) 「未来のために」(『読売新聞』20日) 書き下ろし中篇『二流の人』九州書房刊 2月、「わが待望する宗教(葉書回答)」(『二陣』) 「二合五勺に関する愛国的考察」(『女性改造』) 座談会「文学・モラル・人間」(『中央公論』) 「反スタイルの記」(『東京新聞』6~7日) 「日映の思い出」(『キネマ旬報』) 「『花妖』作者の言葉」(『東京新聞』16日) 「花妖」(『東京新聞』18日~5月8日まで連載、未完) 3月、「二十七歳」(『新潮』) 「私は誰?」(『新生』) 「余はベンメイす」(『朝日評論』) 「女性に薦める図書」(『婦人文庫』) 「世評と自分」(『朝日新聞』3日) 「一、わが愛読の書 二、青年に読ませたい本(葉書回答)」(『青年文化』) 4月、「アンケート〔『文芸冊子』アンケート回答〕」(『文芸冊子』3月号) 「恋愛論」(『婦人公論』) 「酒のあとさき」(『光』) 「大阪の反逆」(『改造』) 「貞操について」(『月刊労働文化』) 座談会「新しき文学」(『新潮』) 「わが戦争に対処せる工夫の数々」(『文学季刊』) 「序」(『逃げたい心』に書き下ろし) 座談会「現代小説を語る」(『文学季刊』) 短篇集『逃げたい心』銀座出版社刊 5月、「花火」(『サンデー毎日』臨増) 「てのひら自伝」(『文芸往来』) 「貞操の幅と限界」(『時事新報』1~2日) 「後記」(『白痴』に書き下ろし) 「あとがき」(『いづこへ』に書き下ろし) 「私の小説」(『夕刊新大阪』26~28日) 「高見君の一文に関連して〔俗物性と作家〕」(『東京新聞』27、28日) 短篇集『白痴』中央公論社刊 短篇集『いづこへ』真光社刊 6月、「暗い青春」(『潮流』) 「破門」(『オール讀物』) 「教祖の文学」(『新潮』) 「ちかごろの酒の話」(『旅』) 「金銭無情」(『別冊文藝春秋』) 対談「ロマン創造のために」(『芸苑』) 「桜の森の満開の下」(『肉体』) 座談会「小説に就て」(『文學界』) 「私の探偵小説」(『宝石』) 「後記」(『堕落論』に書き下ろし) 「咢堂小論」(同) エッセイ集『堕落論』銀座出版社刊 7月、「オモチャ箱」(『光』) 「悪妻論」(『婦人文庫』) 「名人戦を観て」(『将棋世界』) 「再版に際して」(『吹雪物語』に書き下ろし) 「大望をいだく河童」(『アサヒグラフ』) 「邪教問答」(『夕刊北海タイムス』20日) 長篇『吹雪物語』〔再版〕新体社刊 短篇集『いのちがけ』春陽堂刊 8月、「観念的その他」(『文學界』) 「失恋難〔金銭無情2〕」(『月刊読売』) 「散る日本」(『群像』) 「不連続殺人事件」(『日本小説』翌年8月まで連載) 対談「或る会話」(『週刊朝日』24日) 「推理小説について」(『東京新聞』25、26日) 9月、「夜の王様〔金銭無情3〕」(『サロン』) 「理想の女」(『民主文化』) 対談「文学と人生」(『風報』) 10月、「パンパンガール」(『オール讀物』) 「私の恋愛」(『女性展望』) 「青鬼の褌を洗う女」(『愛と美』) 「思想なき眼」(『世界文学』) 「後記」(『道鏡』に書き下ろし) 短篇集『道鏡』八雲書店刊 11月、「王様失脚〔金銭無情4〕」(『サロン』) 「決闘」(『社会』) 「新カナヅカヒの問題」(『風刺文学』) 「娯楽奉仕の心構へ」(『文學界』) 「『文芸冊子』について」(『文芸冊子』) 「男女の交際は自然に〔男女の交際について〕」(『婦人雑誌』) エッセイ集『欲望について』白桃書房刊 12月、「阿部定さんの印象」(『座談』) 対談「阿部定・坂口安吾対談」(同) 座談会「小説と批評について」(『新文化』) 座談会「東京千一夜」(『Gメン』) 「長さの問題ではない〔思想と文学〕」(『読売新聞』8日) 「現代の詐術〔詐欺の性格〕」(『個性』) 「坂口流の将棋観」(『神港夕刊新聞』他 発表日未詳) 「観戦記」(『神港夕刊新聞』他 発表日未詳) 短篇集『青鬼の褌を洗ふ女』山根書店刊 短篇集『外套と青空』地平社刊〈手帖文庫〉 『坂口安吾選集』全9巻 銀座出版社刊(翌年8月まで毎月刊行) |
◆書簡 |
初め頃 隠岐冨美子宛 02/25 福田恆存より来簡 02~03頃 大井広介宛 02~03頃 高木常雄宛 03/17 大井広介宛 03/30 笹本寅宛 03/31 伊沢幸平宛 04/05 福田恆存より来簡 05初め頃 文学界社宛 06頃 海老原光義宛 07/29 椎名麟三より来簡 |
◆世相・文化 |
1月21日、璽光尊事件で双葉山が警官に抵抗、璽光尊(長岡良子)と共に石川県警に逮捕される。璽光尊は誇大妄想性痴呆症と診断されて11月に釈放。呉清源はその後も翌年まで璽光尊に付き従って各地を転々とした。 同月、中野重治が「五勺の酒」を発表。 3月、太宰治が「ヴィヨンの妻」を、田村泰次郎が「肉体の門」を、竹山道雄が「ビルマの竪琴」を発表。 同月15日、東京35区が整理統合され22区となる。8月には現在の23区に。 4月、新憲法制定に伴い、20日に第1回参議院議員総選挙、25日に衆議院議員総選挙が行われる。その結果、社会党が第1党に躍進、自由党、民主党がこれに次ぐ。 5月3日、日本国憲法施行。同月24日、社会党の片山哲が首相となる。 6月、原民喜が「夏の花」を、石坂洋次郎が「青い山脈」を発表。 8月9日、全日本選手権大会で、日大の古橋広之進が400m自由形競泳で4分38秒4の世界記録を出して優勝。ただし日本は国際水泳連盟から除名されていたため公式記録とされず。翌年にはさらに4分33秒0の記録を作ったほか、1500m自由形、800m自由形でも世界記録を更新した。世界で「フジヤマのトビウオ」と話題になるのは1949年のこと。「安吾巷談」の1篇「世界新記録病」では、公式記録というもののバカらしさに触れ、「古橋が四分三十三秒の記録をだした時には名実とも大記録であり、この世界新記録には生きた血がながれていた」と古橋のレース魂をのみ讃えている。 9月、石川淳が「処女懐胎」を発表。詩誌『荒地』第2次創刊。 11月1日、NHKラジオでクイズ番組「二十の扉」が始まる。前年に始まった「話の泉」と並んで人気を博し、安吾も「戦後新人論」や「日月様」などで話題にしている。 11月2日、結婚雑誌『希望』主催の「花嫁花婿の見合い大会」が東京多摩川の河原で開かれ、男女386人が参加。安吾も見物に出かけ、エッセイ「集団見合」を執筆。 12月、太宰治『斜陽』が刊行され、ベストセラーになる。 |
1948 (昭和23) 年 42歳 | アドルム中毒による鬱病の再発 |
1月5日、尾崎士郎と尾崎一雄の第2次『風報』が3号で廃刊となり、士郎は版元を引き受けてくれた山本礼三郎(「人生劇場」吉良常役の俳優)の窮地を救うため、再び安吾を同人に誘って新雑誌の創刊を企画する。編集は士郎に師事して戦前から尾崎家に出入りしていた青年吉井三郎と高橋旦ら。しかし、士郎の知人で暴力団組長の実弟・榎本が多額の出資をし、名目上の編集長・樋口と共に暴力で社をとりしきろうとしたため、義憤を感じた安吾が1月26日、榎本と樋口と直談判におよぶ。榎本は社長をやめると約束して一件落着となる。 2月10日、出版社数社の主催により織田作之助一周忌追悼会が銀座「鼓」で行われ、太宰治、林芙美子らと列席する。 3月20日、GHQの指令により著述家の公職追放第1次仮指定270名、29日に第2次仮指定61名が発表され、第2次の中に尾崎士郎の名前が見つかる。 4月12日、尾崎士郎の公職追放仮指定に対する異議申立書を執筆、総理大臣芦田均宛の書状とする。尾崎一雄にも同様の申立書を書くよう、士郎と2人で言い送り、2日後に一雄からも書状を受け取る。 5月10日、『王将に迫る―木村、升田決戦譜―』(神港夕刊新聞社刊)に、前年12月8日の「観戦記」が収録される。 同月15日、著述家の公職追放仮指定に対して87人が異議申立をした結果、石川達三、丹羽文雄、岩田豊雄らは異議が認められたが、火野葦平、尾崎士郎らは不認可と決定する。 同月、『月刊読売』誌上で呉清源と五子で対局、完敗する。 6月15日、太宰情死の報を受け、マスコミ各社の襲来を逃れるため熱海の旅館「桃李境」に赴く。16日頃、田中英光が愛人山崎敬子とともに桃李境を訪れ、19日の遺体発見まで泊まって酒を飲み、2人で太宰宛の手紙をしたためたが未投函。この頃から歯痛に悩まされる。「不連続殺人事件」を連載中の『日本小説』の編集者渡辺彰が坂口家でカストリを飲んで肺病を再発、責任を感じた安吾は長野県諏訪郡の富士見高原療養所への入院を手配し、連載の原稿料は渡辺に全部渡るように取り決める。渡辺は6月28日から10月20日まで入院、以後恩義を感じて、晩年まで安吾の秘書役として坂口家に出入りするようになる。 7月、『座談』に坂口三千代「安吾先生の一日」が掲載される。その中に「先生は私に遺言を書いて下さって、自分が死んだら、葬式はだすな、あなた一人で屍体の始末から埋葬もしてどこかの片隅か海中へでも骨をすててくれればいい。遺産はみんなやる、遠りょなく恋をして幸福にくらせ、と仰有るのです」とある。⇒1951年6月へ 7月7日から9日にかけて行われた本因坊・呉清源十番碁を観戦しメモをとる。 夏頃、竹内書房から10月創刊の『歴史小説』同人となり、共立講堂で行われた同誌・歴史文学会主催の講演会で「ヨーロッパ的性格 ニッポン的性格」を講演。同様の「歴史文学講演映画舞踊会」が10月26日に上野の都民文化館でも行われ、舟橋聖一、辰野隆らとともに安吾も講演者として告示されていたが、おそらくこれには参加していない。 8月頃からは洟汁と吐き気がひどくなり、鬱病の症状が再発し意識が分裂しはじめる。思考力の集中持続のため多量のゼドリン、不眠からアドルムを常用しながら、長篇(のちの「火」でタイトルは翌年夏まで未定)を構想。以前は1日10錠だったアドルムが、この頃には20錠になる。 9月、長兄献吉が新潟宝塚劇場の社長に就任。 10月、幻視幻聴が現れるが、他の一切の仕事を断り、『新潮』に約3000枚、単行本5冊予定の長篇連載を約束する。同月上旬、富士見高原の渡辺彰を見舞い、10日から上諏訪で「火」第1稿の執筆を始める。上諏訪から熱海に移って執筆を続け、年末までに第1章および第2章冒頭あわせて800枚近く書き上げる。下書きは何冊ものノートブックに小さな字でびっしり書かれ、これを新潮社の菅原国隆や三千代らが手分けして原稿用紙に清書、それに安吾が手を加えたり削ったりして、もう一度清書させ、安吾が最終添削、という仕上げ方だった。 10月1日、寺田俊雄編『戦後文芸代表作品集』創作篇(黄蜂社刊)に「道鏡」が収録される。 11月30日、福田恆存編『太宰治研究』(津人書房刊)に「不良少年とキリスト」が収録される(本作はその後も多数の太宰研究本に収録される)。 12月、4兄上枝の勤める東京計器製作所が長野計器製作所と東京計器製造所に分離独立、上枝は長野計器製作所の常務取締役になる。同月初め頃、秘書役を兼ねて坂口家に出入りしていた銀座出版社の高木常雄が出入り禁止となる(のちに許されるが、これ以後、高橋旦と渡辺彰が主な秘書役となる)。 12月25日、日本文芸家協会編『現代小説代表作選集』3(大元刊)に「出家物語」が収録される。 大晦日の朝、「火」の取材のため三千代と2人で京都へ向かったが、発熱して河原町の旅館で病臥。 この年から翌年にかけての時期より、作品社の八木岡英治夫妻が坂口家1階の応接間を借りて同居。 |
◆発表作品等 |
1月、「第二芸術論について」(『詩学』) 「淪落の青春」(『ろまねすく』) 「出家物語」(『オール讀物』) 「現代とは?」(『新小説』) 「新人へ」(『文芸首都』) 「阿部定という女」(『Gメン』) 「感想家の生れでるために」(『文學界』) 「天皇陛下にさゝぐる言葉」(『風報』) 「モンアサクサ」(『ナイト』) 「私の探偵小説」(『宝石』) 「後記」(『風博士』に書き下ろし) 中篇『二流の人』〔改訂版〕思索社刊 短篇集『風博士』山河書院刊 2月、「机と布団と女」(『マダム』) 対談「エロチシズムと文学」(『女性改造』) 「探偵小説とは」(『明暗』) 「ヤミ論語」(『世界日報』23日~7月12日まで断続連載) 長篇『吹雪物語』〔再版〕山根書店刊 連作短篇集『金銭無情』文藝春秋新社刊 3月、「わが思想の息吹〔作品の仮構について〕」(『文芸時代』) 「帝銀事件を論ず」(『中央公論』) 「D・D・Tと万年床」(『マダム』) インタヴュー「三十分会見記 坂口安吾氏の巻」(『仮面』) 「白井明先生に捧ぐる言葉」(『読売新聞』22日) 4月、「ジロリの女」(『文藝春秋』『別冊文藝春秋』分載) 「将棋の鬼」(『オール讀物』) 「後記にかへて」(『教祖の文学』に書き下ろし) エッセイ集『教祖の文学』草野書房刊 5月、「遺恨」(『娯楽世界』) 「無毛談」(『オール讀物』) 「三十歳」(『文學界』7月まで連載) 「不思議な機構」(『毎日新聞』3日) 「アンゴウ」(『サロン別冊』) 6月、「私の葬式」(『風雪』) 7月、「ニューフェイス」(『小説と読物』) 「不良少年とキリスト」(『新潮』) 「敬語論」(『文藝春秋』) 「探偵小説を截る」(『黒猫』) 「集団見合」(『サロン』) 「本因坊・呉清源十番碁観戦記」(『読売新聞』8、9日) 8月、「お魚女史」(『八雲』) 「太宰治情死考」(『オール讀物』) 「日本野球はプロに非ず」(『べースボール・マガジン』) 「織田信長」(『季刊作品』) 対談「伝統と反逆」(同) 対談「終戦三年」(『夕刊名古屋タイムズ』他 14~16日) 9月、「死と影」(『文學界』) 「カストリ社事件」(『別冊オール讀物』) 「志賀直哉に文学の問題はない」(『読売新聞』27日) 10月、「切捨御免」(『オール讀物』) 「戦争論」(『人間喜劇』) 「呉清源〔呉清源論〕」(『文學界』) 座談会「情死論」(同) 「ヨーロッパ的性格 ニッポン的性格」(『歴史小説』11月まで連載) 短篇集『風と光と二十の私と』日本書林刊 11月、「真相かくの如し」(『読売新聞』1日) 短篇集『竹藪の家』文藝春秋新社刊 12月、「哀れなトンマ先生」(『漫画』) 「私の碁」(『囲碁春秋』) 鼎談「今年を顧みる」(『月刊読売』) 短篇集『ジロリの女』秋田書店刊 長篇『不連続殺人事件』イヴニングスター社刊 短篇集『白痴』〔中公版とは別編集〕新潮社刊〈新潮文庫〉 |
◆書簡 |
02/16 尾崎士郎宛 05/09 尾崎一雄宛 05/09 長畑一正宛 05中旬 尾崎士郎宛 05頃 尾崎一雄宛 06/18 尾崎士郎宛 06/18頃 太宰治宛 12/08 大井広介宛 |
◆世相・文化 |
1月26日、帝銀事件発生。周到な手口で銀行員らをだまし12人を毒殺。8月21日に画家の平沢貞通が逮捕されたが、起訴後は1987年に獄中死するまで一貫して無実を主張。真犯人については様々な説があり、安吾も「帝銀事件を論ず」「切捨御免」などのエッセイや座談会などで何度も自らの推理を披露している。 同月30日、インドでガンジーが暗殺される。「安吾巷談」の1篇「野坂中尉と中西伍長」の中で、安吾は「ガンジーの無抵抗主義も私は好きだ」と書いている。 同月、尾崎一雄が「虫のいろいろ」を、舟橋聖一が「雪夫人絵図」を発表。 2月10日、社会党内の対立により片山内閣が総辞職。翌月から10月まで、民主党の芦田均が社会党などとの連立内閣を維持して組閣。 同月、大岡昇平が「俘虜記」を発表。 5月2日~9月10日、サマータイム実施。欧米諸国にならって夏期に時刻を1時間すすめる制度で4年間実施されたが、1952年に廃止される。 5月14日、第1次中東戦争勃発。 6月、太宰治が「人間失格」の連載を始めるが、同月13日、玉川上水で愛人の山崎富栄と心中自殺を遂げる。遺体は奇しくも誕生日の19日に発見された。 7月29日~8月14日、ロンドン・オリンピックが開催されるが、敗戦国日本は参加できず。国内の競泳では古橋広之進が各距離で世界新記録を連発した。⇒前年参照 10月15日、芦田内閣退陣を受けて、第2次吉田茂内閣が発足。以後、1954年12月まで吉田内閣が長く続くことになる。 同月、野上弥生子『迷路』刊行。 11月4日、東京裁判結審。東条英機ら7人が死刑、16人が終身禁固刑となり、12月23日、A級戦犯の絞首刑が執行された。 同月、大田洋子が「屍の街」を、林芙美子が「晩菊」を発表。 12月7日、昭和電工疑獄で芦田均前首相ら大勢の国会議員らが逮捕される。 同月、大岡昇平が「野火」を発表。川端康成『雪国』刊行。 |
1949 (昭和24) 年 43歳 | 入院治療、伊東への転居 |
1月上旬、京都ではほとんど執筆できずに帰京。その後は完全に蓄膿症の症状を呈し、全身に発疹が出たため、1日50錠ものアドルムをのんでひたすら眠ることに努める。25日頃から夢うつつの中で何度も狂気の発作を起こす。一糸纏わぬ全裸で往来へ飛び出したり、ストップウォッチを持って3分で酒を買って来いと命じたり、階段の上から家財道具を投げ落としたりするようになる。 2月4日には2階の窓から飛び降りる。家政婦のシズ子と三千代が面倒をみていたが、どうにもならない時には高橋旦や郡山千冬、檀一雄、新潮社の菅原国隆、講談社の原田裕らに来てもらう。三千代を殺すと喚いて樫の杖をふるって追い回した時には、止めに入った同居人の裁判官大野璋五をも打ちすえようとした。ある日は、心中をするのだと言って三千代を引き連れて人力車で出かけたこともあった。 2月13日、『不連続殺人事件』が探偵作家クラブ賞に決定。15日、『小林秀雄対話録』(創芸刊)に対談「伝統と反逆」が収録される。20日、日本ペンクラブ編『現代日本文学選集』4(細川書店刊)に「白痴」が収録される。25日、小林秀雄ほか監修『文芸評論年鑑』昭和23年度(全国書房刊)に「堕落論」が収録される。 2月半ば頃から、渡辺彰や前記の看護役の友人らが集まって相談、アドルムを飲むのを忘れさせようと交替で安吾と酒を飲みながら語りつづける作戦を決める。しかし、1日ぐらいアドルムを飲まないでいると禁断症状が出はじめ、母アサの命日である16日には「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」と、布団の衿をかみしめるようにして泣いていたと『クラクラ日記』に書かれている。 同月23日、東大病院神経科へ入院。担当は千谷七郎外来長。病院までの介添えには石川淳と菅原国隆が来る。この時、書き終えるまで載せない約束だった「火」第1章その1が、『新潮』3月号から「にっぽん物語」のタイトルで無断掲載されることがわかるが、安吾には知らせず。翌24日に、新潮社の菅原らと中央公論社の嶋中鵬二らが三千代と会い、「長編小説のひきわたしの件」について善後策を話し合ったが難しそうだと三千代の日記にある。すでに新潮社との絶縁が予想されていたものだろう。 同月26日、探偵作家クラブ賞の授賞式が行われたが、入院中で出席できず。同日、「火」の一件を初めて聞き激怒、すぐに伝えなかった三千代を叱る。翌日、見舞いに訪れた銀座出版社の出版局長升金種史に「火」の件につき万事をまかせる。 3月、戦争により4年半中断していた芥川賞の復活が決まり、選考委員に推される。 同月2日から16日まで持続睡眠療法を受ける。病状は次第に回復し、28日、新潮社宛に糾問の手紙を書いて銀座出版社の升金種史、高橋旦に持参させ、返事をもらうため31日未明に一旦病院を脱け出す。 4月5日、税金滞納のため蒲田税務署が坂口家に差押えに出向くが、入院中で差押えは保留扱いとなる。この5日頃から退院までの2週間ほど、連日のように見舞い客と共に後楽園へ野球見物に行く。大井広介、獅子文六、文藝春秋新社の池島信平、同社中戸川宗一、読売新聞社の平山信義らがそのようすを回想に記している。 同月6日、新潮社に絶縁状を届ける。同日、『世界経済新聞』に「坂口安吾氏自殺未遂」という誤報が載る。5日の夜に服毒の上、病院の3階の窓から飛び降りようとした、と書き立てられ、各紙の記者や警察の麻薬係などが大挙して病院に押し寄せる。実際は、2カ月前にアドルム中毒で自宅の2階から飛び降りた話を、この月のことと記者が勘違いしたための記事であった。安吾はデマを一掃するため、7日に「僕はもう治っている」を書き『読売新聞』に渡す。 同月18日、蒲田税務署の差押えを受けた件につき、同税務署に異議申立書を提出する。その内容は1947年度から48年度までの実収入がゼロであったと主張するもの。47年度は知人の生活難や病気入院手術等の費用を自分が一手に引き受けねばならなかったため。48年度以降は自身の病気で執筆もできなかったことなどの理由を列挙した。⇒1951年5月へ 翌19日、外出先から電話をかけて希望退院する。 5月1日、日本文芸家協会編『文芸評論代表選集』(丹頂書房刊)に「堕落論」が収録される。 5月24日から25日朝にかけて、皇居内「済寧館」にて木村義雄対塚田正夫の名人戦五番勝負の第5局を観戦、「勝負師」執筆の材料となる。観戦時、3カ月ぶりにゼドリンを服用。同月29日、NHK第二放送で「将棋名人戦第5局『観戦記』」と題して大山康晴との対談が放送される。 6月6日、NHK第一放送の番組「朝の訪問」でインタヴューに答える。同月23日、河上徹太郎、井上友一郎、獅子文六、今日出海、永井龍男、石川達三らと文壇野球チームを結成、東鉄グラウンドで文藝春秋チームと対戦し、12対12の引き分けに終わる。この時、安吾はピッチャーで四番バッターだったといわれるが、順に守備位置を変更したのか、くわえ煙草で外野を守っている写真も文藝春秋に残っており、半藤一利氏の記憶ではサードも守っていたらしい。同月25日、第21回芥川賞選考会に出席。 6、7月頃、『LOCK』の懸賞探偵小説選者として候補作の選考に当たる。 7月15日、北条誠ほか編『日本小説傑作全集』1・昭和23年前期分(宝文館刊)に「アンゴウ」が収録される。 8月20日、日本文芸家協会編『現代小説代表選集』4(光文社刊)に「遺恨」が収録される。 同月初め頃からアドルム中毒の発作が再発し、7日夕方から池上警察署に留置される。この事件がもとで同居人の大野璋五との関係が悪くなり、引っ越しを考えはじめる。その頃、檀一雄が石神井の自宅そばに安吾家を建てる計画を語らい、一緒に下見に行く。同月16日、予定されていた観戦記集の「後記」を執筆するが、翌年1月刊の『勝負師』は観戦記集ではなくなったため生前未発表に終わる。 8月20日頃、南雲医師のすすめで伊東へ転地療養に赴く。初め古屋旅館に滞在し、近所の尾崎士郎や来訪した檀一雄らと交遊。「火」第1章その2の推敲を進める。この頃から心機一転して新仮名遣いに切り換える。尾崎士郎の紹介で天城診療所の「肝臓先生」こと佐藤清一が毎日のように診療に訪れるようになる。また、何日か青山二郎がポンポン蒸気船を走らせて船遊びに連れ出してくれる。 9月4、5日頃、伊東市玖須美149秦秀雄方の2階に間借り。秦秀雄は元星ケ岡茶寮の支配人で小林秀雄や青山二郎と骨董仲間だったので、この間借りも青山の斡旋によったかと推測される。 10月初め頃、同市久治町石原別荘に転居。同月29日、講談社主催の講演会で「私は職人です」と題して講演するが、わずか数分で終える。 11月10日からNHK第一放送で始まった連続ラジオ小説「天明太郎」の第1部第8回の脚本を担当、12月29日に放送される(『坂口安吾全集』第9巻収録原稿はその下書きの一部にすぎず、放送されたものではない)。 11月25日、平野謙・荒正人ほか編『新日本代表作選集』1・小説篇1(実業之日本社刊)に「白痴」が収録される。 12月1日、同市岡区広野1ノ601に落ち着く。この頃から秋田犬の雑種ローランを飼う。毎朝散歩する習慣がつき、徐々に健康を快復する。蒲田の家には引き続き大野璋五一家と八木岡英治が住んでいたが、長兄献吉の手配により竹花政茂・千鶴(妹)夫妻が住むことになる。 |
◆発表作品等 |
1月、「『刺青殺人事件』を評す」(『宝石』) 鼎談「歓楽極まりて哀情多し」(『読物春秋』) エッセイ集『不良少年とキリスト』新潮社刊 2月、対談「エロ裁き」(『VAN』) 3月、「インテリの感傷」(『文藝春秋』) 「西荻随筆」(『文學界』) 「にっぽん物語〔火〕」第1章その1(『新潮』7月まで連載) 4月、「僕はもう治っている」(『読売新聞』11日) 5月、「書についての話題〔アンケート回答〕」(『書道文化』) 「碁にも名人戦つくれ」(『毎日新聞』大阪版 29日) 6月、「精神病覚え書」(『文藝春秋』) 「神経衰弱的野球美学論」(『文學界』) 「女優」(『佐世保文化』) 7月、「日月様」(『オール讀物』) 「深夜は睡るに限ること」(『文學界』) 座談会「囲碁・人生・神様」(『文藝春秋』) 「単独犯行に非ず」(『東京日日新聞』8日) 鼎談「下山事件推理漫歩」(『新大阪』16、17日) 「退歩主義者」(『月刊読売』臨増) 8月、「釣り師の心境」(『文學界』) 「選評〔懸賞探偵小説〕」(『LOCK別冊』) 鼎談「人間・社会・文学」(『群像』) 「復員殺人事件」(『座談』翌年3月まで断続連載、未完) 「現代忍術伝」(『講談倶楽部』翌年3月まで断続連載) 「勝負師」(『別冊文藝春秋』) 9月、「雑誌型でない作品を〔第21回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』) 「行雲流水」(『オール讀物』) 鼎談「貧乏・青春・処世物語」(『座談』) 長篇『不連続殺人事件』〔再版〕岩谷書店 10月、「わが精神の周囲」(『群像』) 鼎談「文学・ロマン・人生」(『中央公論・文芸特集』) 「小さな山羊の記録」(『作品』) 11月、「作者附記〔「火」『群像』連載第1回〕」(『群像』) 「戦後新人論」(『文藝春秋』) 「スポーツ・文学・政治」(『近代文学』) 「火」第1章その2(『群像』翌年2月まで連載) 12月、「『復員殺人事件』について」(『座談』) エッセイ集『堕落論』〔47年版とは別編集〕銀座出版社刊 |
◆書簡 |
01頃 檀一雄宛 03/31 千谷七郎宛 04/06頃 大井広介宛 08/18夜 由起しげ子より来簡 08末頃 尾崎士郎より来簡 09/12夜 尾崎士郎より来簡 09/21 尾崎一雄宛 09/22 福田恆存より来簡 09/23 尾崎一雄より来簡 09/26 大井広介より来簡 10初め頃 平山信義宛 10/04 尾崎一雄宛 10/04 中河与一より来簡 10/05 福田恆存より来簡 10/18 福田恆存より来簡 10/25 福田恆存より来簡 11/04 原田裕より来簡 11/14 渡辺彰より来簡 11/24 檀一雄より来簡 11頃 大井広介より来簡 11頃 中河与一より来簡 12/21 福田恆存より来簡 49/10下旬or50/07下旬 尾崎士郎より来簡 49~51頃 尾崎士郎より来簡 49~51頃 尾崎士郎より来簡 |
◆世相・文化 |
1月、木下順二が戯曲「夕鶴」を発表。 同月23日、衆議院議員選挙で社会党が惨敗し、民主自由党が圧勝。保守安定政権となる。翌月、吉田茂が第3次内閣を組閣。 2月、伊藤整が「火の鳥」を発表。 3月28日、文筆家や学生の間に覚醒剤が濫用され弊害が多いという理由で、ヒロポン、ゼドリンなど六種の錠剤が劇薬に指定され簡単には入手できなくなる。ちょうど安吾がアドルム中毒の治療で入院している時のこと。 5月、平野謙が「芸術と実生活」を、田中英光が「野狐」を発表。 6月25日、戦争で途絶えていた芥川賞が復活し、由起しげ子「本の話」と小谷剛「確証」が受賞。選考委員をつとめた安吾は、由起について「若干ながら「天才」が感じられたのは、この作家一人で」今後精進すれば「一葉につぐ天才的な女流となる人のように思った」と選評している。 7月5日、下山事件。国鉄総裁の下山定則が常磐線で轢死し、他殺・自殺の両説がとびかったが未解決に終わる。進駐軍の関与も指摘されている。 同月15日、三鷹事件。国鉄中央線三鷹駅で無人の電車が暴走、通行人6人が死亡、20人が負傷した。共産党員9名と非共産党員の運転士竹内景助が起訴されたが、共産党員9名は無罪となる。竹内のみ死刑が確定したが陰謀説を訴えながら獄死。2010年現在も再審請求が行われている。 同月、三島由紀夫『仮面の告白』刊行。 8月17日、松川事件。福島県の国鉄東北本線で旅客列車が脱線転覆し、機関士1人、助手2人が死亡した。国鉄労組や共産党員ら20人が逮捕されたが、1963年に全員無罪が確定。真犯人はいまだ不明である。下山事件、三鷹事件とあわせて国鉄三大ミステリー事件といわれる。 同月、井伏鱒二が「本日休診」を翌年5月まで連載。 9月、川端康成が「山の音」の断続連載を始める。 10月、田宮虎彦が「足摺岬」を発表。戦没学生の遺文集『きけ わだつみのこえ』刊行。 同月1日、中華人民共和国成立。毛沢東が主席。 同月12日、大リーグのサンフランシスコ・シールズが来日。全日本、巨人など日本チームに対しては7戦全勝で、11月6日に帰国。「安吾巷談」の第1回「麻薬・自殺・宗教」に、文藝春秋新社の池島信平と試合観戦した話が書かれている。 11月、谷崎潤一郎が「少将滋幹の母」を、林芙美子が「浮雲」を発表。 同月3日、田中英光が太宰治の墓前で自殺。 同月24日、東大生で金融業「光クラブ」社長の山崎晃嗣が服毒自殺。アプレゲール犯罪の走りとして注目され、数多くの小説やドラマに脚色されている。 12月10日、労働者農民党の松谷天光光と、妻子ある民主党の園田直との恋愛が発覚。白亜の恋と騒がれ、松谷がすでに妊娠していることを「厳粛なる事実」と言ったのが流行語になる。松谷は「一家心中」を公然と口にする父のもとから家出し、妻子を捨てた園田と駆け落ち同然に結婚した。「安吾巷談」の第2回「天光光女史の場合」で、安吾はこの騒動を「因果モノ」「バカらしい茶番」と呼び、「日本中の新聞が発狂しているのではないか」とマスコミの報道姿勢を批判した。 |
1950 (昭和25) 年 44歳 | 「安吾巷談」で野次馬精神を発揮 |
1月、文藝春秋新社の編集者池島信平の企画で「安吾巷談」の連載が始まる。各回の見出しも池島が付けたものである。同月31日、第22回芥川賞選考会に出席。 2月19日から21日まで小田原競輪で遊び、「安吾巷談」執筆のため選手たちに取材。 3月頃、妻三千代の妊娠が判明するが、自分の子とは信じられず、この頃から再びアドルムを飲みはじめ暴れるようになる。尾崎士郎や三千代の妹嘉寿子らの仲介で気持ちを鎮めるが、三千代は出産する気がなくなり堕胎。この頃から家政婦は武笠シズ子が辞めたため、地元の中学出たての娘を雇う。 4月13日、熱海の大火を見に出かけ、15日には新宿および上野の交番に一日詰めて「安吾巷談」の取材。同月下旬から、熱海水口園にこもって新聞連載長篇「街はふるさと」を執筆。 5月、「安吾巷談」と併行して『新潮』に「我が人生観」の連載開始。各回見出しはおもに担当編集者の菅原国隆が付けたもの。 同月1日、川端康成・井伏鱒二ほか編『日本小説代表作全集』21(小山書店刊)に「釣り師の心境」が収録される。15日、日本近代文学研究会編『現代日本小説大系』別冊1「坂口安吾・太宰治・織田作之助・石川淳集」が河出書房から刊行され、「白痴」「道鏡」「暗い青春」「風と光と二十の私と」が収録される。 6月22日に上京、「安吾巷談」の取材で初めてストリップを見学。体調を崩し、26日から7月5日まで南雲医院に入院。退院後も水口園で執筆を続ける。7月24日にも上京して東京パレスの取材。 6月25日、「安吾巷談」のパロディとして、34年後を空想して書かれた「下山事件最終報告書~安吾巷談の四百十三~」が『文藝春秋』増刊に掲載される。署名は坂田安吾で、わざと1字違えてある。 8月31日、第23回芥川賞選考会に出席。 9月頃、ローランに加えてコリーのラモーも飼いはじめるが、まもなくジステンパーと脳膜炎を起こしたので、2カ月ほどブドウ糖とペニシリンを打ち続けたが死亡。 9月10日、『文藝春秋』10月号の広告頁で、9月25日発売予定の増刊『秋燈読本』に「スポーツと私」の題で執筆する10名の中に記されていたが掲載されず。 10月1日、伊東市から伊東特別市法審議会委員を委嘱されるが、多忙のゆえをもって辞退する。 11月、長兄献吉の公職追放が解け、新潟日報社取締役に再任、会長となる。 同月27日、読売新聞小説賞の選考会に出席。 12月、『街はふるさと』の帯に「映画化決定」の情報が載るが、映画にはならずに終わる。 |
◆発表作品等 |
1月、「肝臓先生」(『文學界』) 「安吾巷談」(『文藝春秋』12月まで連載) 鼎談「新春初笑い伊東放談」(『新大阪』1日) 対談「こんにゃく問答」(『オール讀物』) 短篇&エッセイ集『勝負師』作品社刊 2月、「便乗型の暴力」(『読売新聞』20日) 「百万人の文学」(『朝日新聞』26日) 3月、「由起しげ子よエゴイストになれ」(『文學界』) 「水鳥亭由来〔水鳥亭〕」(『別冊文藝春秋』) 「福田恆存の芸術」(文学座3月公演「キティ颱風」プログラム) 対談「男と女の面白さ」(『文藝春秋』増刊) 4月、「温浴」(『群像』) 「推理小説論」(『新潮』) 「『闘牛』の方向〔第22回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』) 「投手殺人事件」(『講談倶楽部』) 5月、「我が人生観」(『新潮』翌年1月まで連載) 鼎談「オールサロン」(『オール讀物』) 「『街はふるさと』作者の言葉」(『読売新聞』8日) 「街はふるさと」(『読売新聞』19日~10月18日まで連載) 「作者の言葉」(『火 第1部』に書き下ろし) 長篇『火 第1部』大日本雄弁会講談社刊 7月、「投手殺人事件『解決篇』」(『講談倶楽部』) 8月、「“歌笑”文化」(『中央公論』) 「巷談師」(『別冊文藝春秋』) 「『異邦人』に就て」(『毎日新聞』20日) 9月、短篇集『現代忍術伝』大日本雄弁会講談社刊 10月、「新人に〔第23回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』) 合作長篇『天明太郎』(第1部第8回を担当、書き下ろし)宝文館刊 「明治開化 安吾捕物」(『小説新潮』52年8月まで連載) 「神伝魚心流開祖〔落語・教祖列伝1〕」(『別冊文藝春秋』) 11月、「兆青流開祖〔落語・教祖列伝2〕」(『オール読物』) 12月、「読物としての確かさ〔読売新聞小説賞選評〕」(『読売新聞』1日) 「花天狗流開祖〔落語・教祖列伝3〕」(『別冊文藝春秋』) エッセイ集『安吾巷談』文藝春秋新社刊 長篇『街はふるさと』新潮社刊 |
◆書簡 |
01/01 大井広介より来簡 01/23 山内文三より来簡 01頃 尾崎士郎宛 01頃 大井広介より来簡 02/05 八木岡英治より来簡 02/21 尾崎士郎より来簡 02/21 尾崎士郎宛 02頃 池島信平より来簡 03/23 菅原国隆より来簡 04/07 中戸川宗一より来簡 04/11 田川博一より来簡 04/15 赤沢正二より来簡 04/18 菅原国隆より来簡 04/27 福田恆存より来簡 04頃 池島信平より来簡 05/06 伊藤克己より来簡 05/19 福田恆存より来簡 05/22 子母沢寛より来簡 05/26 原田裕より来簡 05/27 大井広介より来簡 06/14 赤沢正二より来簡 06/14 三好達治より来簡 06/15 黒田秀俊より来簡 06/20 大井広介より来簡 06/28 大井広介より来簡 07/09 伊藤克己より来簡 07/24 渡辺彰より来簡 07/25 原田裕より来簡 07頃 池島信平より来簡 08/03 大井広介より来簡 08/03 大井広介より来簡 08/05 大井広介より来簡 08/07 黒田秀俊より来簡 08/24 古沢岩美より来簡 08/24 小林博より来簡 08/31 菅原国隆より来簡 09初め頃 古沢岩美宛 09/04 原田裕より来簡 09/10夜 古沢岩美より来簡 09/12 三枝佐枝子より来簡 10/03 菅原国隆より来簡 10/07 大井広介より来簡 10中旬 小林博より来簡 10/18 倉島竹二郎より来簡 10頃 福田恆存より来簡 11/08 尾崎一雄より来簡 11/11 八木岡英治より来簡 11/15 尾崎一雄宛 11/17夜 渡辺彰より来簡 11/19 尾崎一雄より来簡 11/23 大井広介より来簡 11/24 福田恆存より来簡 11~12頃 福田恆存より来簡 12/11 菅原国隆より来簡 12/20 菅原国隆より来簡 12/27 金川太郎より来簡 12/28 坂西志保より来簡 50頃 池島信平宛 |
◆世相・文化 |
1月、大岡昇平が「武蔵野夫人」を、福田恆存が戯曲「キティ颱風」を発表。同月31日、井上靖「闘牛」が芥川賞受賞。 2月、中村光夫が「風俗小説論」を発表。3月、伊藤整『鳴海仙吉』刊行。 4月、檀一雄『リツ子・その愛』『リツ子・その死』刊行。 5月30日、落語家の三遊亭歌笑が交通事故で死亡。安吾は「“歌笑”文化」でその死を悼み、「醜男の悲哀」を生々しい笑いに転化しえた歌笑の独自性を指摘している。 6月、レッドパージが始まる。徳田球一ら日本共産党中央委員24人らが公職追放となり、「アカハタ」は無期限発刊停止処分を受ける。その後もマスコミ各社から産業界に至るまで、共産党シンパの解雇者が続出した。 同月5日、元陸軍参謀の辻政信の自伝『潜行三千里』が刊行され、ベストセラーとなる。「安吾史譚」の1篇「直江山城守」では、辻のことを「ハラン万丈の戦争狂、冒険狂」と呼び、「潜行」「三千里」の書名も作中でもじっている。 同月25日、朝鮮戦争勃発。28日には北朝鮮軍が韓国の首都ソウルを占領。翌月、米軍を中心とする国連軍が韓国側を支援して参戦。1953年7月の休戦協定まで続く。 同月26日、伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』が猥褻文書として摘発される。9月に訳者と出版社が起訴された。安吾は翌年5月の第1回公判と翌々年1月の判決公判を傍聴し、裁判の不当を再三告発している。 7月2日、金閣寺が同寺徒弟僧の放火により焼失。 同月8日、自衛隊の前身である警察予備隊が発足。 8月31日、辻亮一「異邦人」が芥川賞受賞。 9月22日、日大ギャング事件。日本大学職員の青年山際浩之による強盗事件で、24日後に逮捕された山際が「オー、ミステイク」と叫んだのが流行語になる。安吾は『夕刊読売』に載った山際の獄中手記を読んで、「我が人生観」第6回に感想を記している。 10月23日、公職追放指定者のうち1万余人が追放解除となる。 |
1951 (昭和26) 年 45歳 | 国税局・伊東競輪との闘い |
1月1日、読売新聞社の企画で旅客機の戦後初飛行に搭乗。同月中旬、「安吾の新日本地理」の取材で伊勢神宮に赴く。同月、税金滞納のため『現代忍術伝』および『安吾巷談』の初版印税が差押えられる。この頃、身の回りの世話をしてくれていた高橋旦が銀座出版社に就職したため、家政婦をもう1人雇うが、まもなく盗癖が発覚して解雇。 2月、「安吾巷談」が文藝春秋読者賞を受賞。同月13日、第24回芥川賞選考会に出席。翌14日から大阪へ取材旅行。追って檀一雄が来阪、織田作之助ゆかりのバーなどを回る。 3月、伊東に競輪場ができ、三千代とともに通うようになる。同月15日から18日まで仙台へ取材旅行。この頃から古代史関係の調査研究を進め、綿密にメモをとっていく。 4月8日、第2回伊東競輪最終日で9420円の大穴に当たる。同月中旬、吉野、熊野へ取材旅行。同月27日、松竹製作の映画「天明太郎」(池田忠雄監督、佐野周二、月丘夢路主演)が公開される。 5月8日、東京地方裁判所で開かれたチャタレイ裁判第1回公判を傍聴。同月中旬、噴火のあった大島を取材。26日、留守の間に、税金滞納のため家財と蔵書一切が差押えられる。商売道具の蔵書を差押えられたことと、自分の留守に慌ただしく実行されたことに対する怒りから対策を講じはじめる。28日、川端康成の紹介でコリーの仔犬を買い、ラモー二世と命名。売り手が約束外の代金を請求してきたため、翌日、内容証明郵便を出す。熱海税務署員との対応を考え「税務署対策ノート」を作成するが、6月1日、訪れた税務署員とは穏やかなやりとりに終わって拍子抜けする。 6月5日、東京国税局へ赴き、徴収部長の廉隅伝次(かどすみ・でんじ)と面会、蔵書の差押え処分取消だけはあっさり認められる。 6月7日、瓶山事件が起こり、翌日、尾崎士郎とともに現場を取材に出向き、「安吾捕物推理」「孤立殺人事件」などで事件を検証する。12日、死後の三千代の権利を守るため「遺言状」をしたため、尾崎士郎に証人になってもらう。18日、蔵書の差押え処分取消はすでに認められていたが、公式手続きとして「滞納処分に対する再調査願」を提出。20日に長崎へ旅立つ。25日の「負ケラレマセン勝ツマデハ」発表に伴い、印税と原稿料の差押え攻勢が強化される。廉隅伝次が『ファイナンス・ダイジェスト』8月号に「坂口安吾氏に与う」と題して反論を掲載する。26日、星啓二なる被告人の某猥褻文書裁判への出頭を求める「証人召喚状」が届く。チャタレイ裁判の不当告発の文章などから関連づけて名指しされたものと思われるが、赤の他人の証人として出頭命令を受け、断れば勾引するとの脅しが入っていたことに怒り、翌日、出頭拒否の書状を送る。 7月中旬、飛騨へ取材旅行。同月30日、第25回芥川賞選考会があったが欠席。 8月29日、熱海税務署へ税額見直しを求める「陳情書」を郵送、この文書はその後、東京国税局へ転送される。なお「陳情書」冒頭に、昭和22年度の所得税56万円、23年度70万円、24年113万円、と記載されているが、坂口家に遺されていた資料によると、これらの金額は「税額」ではなく「所得額」の写し間違いのようである。資料は「陳情書」の書き方見本として安吾がもらったメモと思われ、上部に「日本政府」、右下欄外に「名古屋国税局」と印字された縦書き用便箋3枚。そこには次のように書かれていた。 「二二年度所得税 所得額 五六〇、〇〇〇円 税額 二八二、〇〇〇円」 「二三年度所得税 〃 七〇〇、〇〇〇円 〃 三六六、〇〇〇円」 「二四年度所得税 〃 一、一三〇、〇〇〇円 〃 五九四、〇〇〇円」 9月10日頃から中頃まで秋田へ取材旅行。この間、大井広介が東京国税局へ赴き、安吾になりかわって仲裁をすべく廉隅らと会うが、特に進展はなし。 同月16日、福田蘭童と三千代と3人で伊東競輪へ遊びに行った折、第4レースの写真判定に不正があったと3人とも気づく。写真を加工して1着と2着とがすり替えられたと確信し、20日、静岡地方検察庁沼津支部に告発状を提出、各紙で大々的に報道される。しかし、判定写真はどれも不鮮明で汚れやキズも多いため、証拠にはならない。マスコミは錯覚説をとる論調が多くなり、しだいに被害妄想をいだきはじめる。 10月半ば頃、競輪のボスに命を狙われていると言って怯えたようすを見せるようになり、三千代とコリー犬のラモー、檀一雄、新潮社の小林博、文藝春秋新社の中野修を連れて、2台の車で大井広介宅へ向かう。その夜来訪した石川淳と大井には諭されるばかりで、望むとおりの協力を得られず、翌日から約1カ月、檀一雄宅に身を潜めることになる。檀宅へ移って間もない19日に大井広介から事を茶化したようなハガキが届く。差出人名は「金田一探偵事務所」で、宛名は「明智小五郎」。これがもとで大井とはついに絶交することになる。 10月18日、檀と文春の中野修と3人で埼玉の高麗神社を取材。競輪事件の顛末を記し、証拠写真のグラビア付きで出版する計画を立てる。 11月4日、多量のアドルムを服用したため半狂乱に陥り、檀宅へライスカレーを百人前注文させる。同月16日、極秘裡に向島の三千代の実家へ移る。以後3カ月半を三千代の娘の正子、母の松、妹の嘉寿子、弟の達介たちと過ごすことになる。 12月5日、競輪事件について弁護士2人を代理人に立てる旨の審議委任状を静岡地検沼津支部に提出。翌6日、地検支部長の田上上席検事が「伊東競輪に不正はない」と発表、不起訴処分が決定する。それでもなお、秘書役の渡辺彰を各写真専門機関に派して鑑定以来を頼み、同月下旬には南川潤を頼って群馬県桐生市まで渡辺と弁護士2人を赴かせる。南川は、在野の考古学者で群馬大学に勤めている周東隆一に相談、群大工学部で写真を精密に調査してもらうが証拠はつかめず、渡辺らを帰す。やるべきことはすべてやったと安吾の気持ちにも整理がつき、競輪事件に自らけりをつける。 12月25日、日本近代文学研究会編『現代日本小説大系』54「昭和10年代9」(河出書房刊)に「風博士」「黒谷村」が収録される。 この年ごろ、「〔鑑定〕」「〔呉清源について〕」を執筆するが生前未発表。 |
◆発表作品等 |
1月、「月日の話」(『読売新聞』1日) 対談「青春対談」(『キング』) 鼎談「戦前・戦後派を語る」(『新潟日報』他 1~3日) 「新春・日本の空を飛ぶ」(『読売新聞』3日) 2月、「わが工夫せるオジヤ」(『美しい暮しの手帖』) 「戦後合格者」(『新潮』) 「武者ぶるい論」(『月刊読売』号外版) 「日本の危機に備えて〔アンケート〕」(同) 3月、「人生三つの愉しみ」(『新潮』) 「“能筆ジム”」(『財政』) 「受賞のことば〔文藝春秋読者賞〕」(『文藝春秋』) 座談会「世相放談」(『モダンロマンス』) 「安吾の新日本地理」(『文藝春秋』12月まで連載) 「九段」(『別冊文藝春秋』) 「悲しい新風」(『読売新聞』5日) 「日本の水を濁らすな」(『読売新聞』12日) 「小林さんと私のツキアイ」(『小林秀雄全集』第8巻月報) 「飛燕流開祖〔落語・教祖列伝4〕」(『オール読物』) インタヴュー「美人のいない街」(『河北新報』19日) インタヴュー「月の浦を書きたい」(『夕刊とうほく』21日) 4月、「安吾人生案内」(『オール讀物』12月まで連載) 「『最後の人』だけ〔第24回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』) 「フシギな女」(『新潮』5月まで連載) 「誠実な実験者・マ元帥」(『読売新聞』16日) 5月、「熊沢天皇を争うべからず」(『読売新聞』7日) 「裁かれるチャタレイ夫人」(『読売新聞』9日) 「新魔法使い」(『別冊文藝春秋』) 「被告席の感情」(『読売新聞』21日) 「真説 石川五右衛門『後編』に期待す」(『新大阪』31日) 6月、「或る選挙風景」(『新潮』) 翻訳 ロイ・ヴィカース「組立殺人事件」(『小説朝日』) 「安吾捕物推理」(『夕刊読売』静岡版 9日) 「負ケラレマセン勝ツマデハ」(『中央公論・文芸特集』) 7月、「チッポケな斧」(『新潮』) 鼎談「日本の生活を叱る」(『オール讀物』) 「膝が走る」(『別冊文藝春秋』) 鼎談「呉・藤澤十番碁を語る」(『読売新聞』4日) 「『大国主命』」(『読売新聞』9日) 8月、「女忍術使い」(『文學界』) 「孤立殺人事件」(『新潮』) 9月、「飛騨の顔」(『別冊文藝春秋』) 「戦後文章論」(『新潮』) 「これぞ天下の一大事」(『読売新聞』1日) インタヴュー「秋田犬を見に」(『秋田魁新報』12日) 10月、「『ガラスの靴』〔第25回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』) 「歴史探偵方法論」(『新潮』未完) 「大好物(10)」(『新大阪』27日) 11月、「光を覆うものなし」(『新潮』) 座談会「サムライ日本!!」(『オール讀物』) 「私は地下へもぐらない」(『東京新聞』25日) 12月、「風流」(『新潮』) |
◆書簡 |
01/01 倉島竹二郎より来簡 01初め頃 尾崎一雄宛 01/07 金川太郎より来簡 01/07 南川潤より来簡 01/08 岩田豊雄より来簡 01/25 岩田豊雄より来簡 01/31 岩田豊雄より来簡 01頃 尾崎士郎より来簡 02/03 倉島竹二郎より来簡 02/06 尾崎一雄より来簡 02/06 火野葦平より来簡 02/15 南川潤より来簡 02頃 野上彰より来簡 03/06 三好達治より来簡 03/07 八木岡英治より来簡 04/06 井上良より来簡 04/07 小林博より来簡 05/03 大井広介より来簡 05/07 赤沢正二より来簡 06/04 井上良より来簡 06/12 尾崎士郎宛 06/12 池島信平より来簡 06/27 岩田豊雄より来簡 06/28 大井広介より来簡 06/28 谷丹三より来簡 06下旬 大井広介より来簡 07/06 笹原金次郎より来簡 07/07 大井広介より来簡 07/23 吉井三郎より来簡 07/25 黒田秀俊より来簡 08/03 大井広介より来簡 08/03 伊藤克己より来簡 08/12 金沢慎二郎より来簡 08/25 荒正人より来簡 08/27 大井広介より来簡 08/31 大井広介より来簡 09/02 大井広介より来簡 09/17 大井広介より来簡 09頃 尾崎士郎より来簡 10/07 伊藤克己より来簡 10/19 大井広介より来簡 10/20 井上一彦より来簡 10下旬 サトウ・ハチロー宛 225 10~11頃 眞鍋呉夫宛 10~11頃 大井広介より来簡 11/06 滝川政次郎より来簡 12/02 檀よそ子より来簡 12/14 滝川政次郎より来簡 |
◆世相・文化 |
1月、大岡昇平が「野火」を、三島由紀夫が「禁色」を発表。 2月、本多秋五が「『白樺』派の文学」を発表。 4月11日、マッカーサーが突然解任され、16日にアメリカへ帰国。 同月21日、民放16社にラジオ放送の予備免許が与えられる。 7月6日、マリアナ諸島の孤島アナタハン島で、敗戦も知らずに7年間暮らしていた男性19人が帰国。当初32人の男性がいたが、たった1人の女性比嘉和子(前年に救助されていた)をめぐって殺し合いが起こったと徐々にわかり、「アナタハンの女王事件」と呼ばれた。安吾は1953年発表の「都会の中の孤島」冒頭で、この事件を象徴的に語っている。 7月30日、安部公房「壁――S・カルマ氏の犯罪」と石川利光「春の草」その他が芥川賞受賞。安吾は候補作の安岡章太郎「ガラスの靴」を強く推した。 9月1日、中部日本放送と新日本放送(現在の毎日放送)が日本初の民間ラジオ放送を開始。安吾の長兄献吉は同月、上京して共同通信社や各代理店を歴訪。電通の友人吉田秀雄社長に会い、ラジオ東京ほか各機関をまわって調査した結果、確信を得て帰社早々に新潟日報社役員会にラジオ新潟開局を提案、反対意見を圧して決議する。 同月8日、サンフランシスコ講和条約調印。同日、場所を移して日米安保条約を結ぶ。 12月、吉行淳之介が「原色の街」を発表。 |
1952 (昭和27) 年 46歳 | 桐生へ転居、「信長」連載開始 |
1月18日、チャタレイ裁判の判決公判を傍聴。21日、第26回芥川賞選考会があったが欠席する。同月末頃、競輪写真の鑑定で力を尽くしてくれた桐生のv宅へお礼に出向く。この時、周東隆一や織物組合理事長の境野武夫らと知り合い、洋食屋「芭蕉」で宴会のあと、南川宅に1泊。境野や周東が地元の古墳など考古学に詳しいのに興味をひかれたことなどもあって、桐生へ引っ越したいので家を探してほしいと南川に頼む。 2月29日、南川潤らの尽力で群馬県桐生市本町2丁目266番地の織物買継王とよばれた書上文左衛門邸の母屋に転居。南川潤の紹介で戸泉祐治を秘書に雇う。また、家政婦として18歳ぐらいの娘を雇う。やがて周東隆一や境野武夫らと周辺の古墳めぐりを始め、毎週水曜日には彼らや南川を招んで酒宴を開く。 3月6日、「〔升田幸三の陣屋事件について〕」を執筆し『週刊朝日』に送るが、新聞社批判の内容を含むため敬遠され掲載不可となる。編集長扇谷正造の謝罪文を持参した記者宇野智子を歓待し1泊させる。 4月26日から5月15日まで「朝鮮会談に関する日記」を原稿用紙に執筆するが生前未発表。 4月、長兄献吉がラジオ新潟発起人総会を開くが出資者は集まらず、新潟県知事、県下の各市役所、各党の県議宅、議員控室、議会まで赴いて公共的事業であるからと説得して回り、8月には血圧が上がって一歩も歩けなくなってしまう。 7月25日、第27回芥川賞選考会に出席。 8月頃、「信長」の新聞連載を引き受け、以後これに集中する。 9月30日、日本文芸家協会編『創作代表選集』10・昭和27年前期(大日本雄弁会講談社刊)に「夜長姫と耳男」が収録される。 10月、献吉がラジオ新潟(のちの新潟放送)創立、取締役社長に就任。新潟市古町七番町954番地の大和百貨店7階を演奏所(番組編成・制作・送出を行う事実上の本部)とし、12月25日から本放送開始。24日の前夜祭放送を病床のラジオで聞く。 11月、三千代と書上文左衛門と3人でゴルフを始め、毎週木曜にコーチを招き、ときどき群馬県太田市のゴルフ場へ赴く。同月下旬、東洋大学新聞学会から大学時代の思い出を書いてほしいと依頼があり、編集部員の学生山本尊子が来訪、ゴルフ練習などで歓待し、夜はえびす講の祭りを皆で見物して1泊させる。 この年以降、小説「〔織姫の誘惑〕」を書きかけたが中断。また、桐生時代にはコリー種の雑種犬マユをラモー二世の嫁にあてがって、この2匹を座敷で放し飼いにし、やはりコリー種のポニーとシェパードのアシルとを外で飼う。三千代の妊娠がわかって以降は、男子高校生をアルバイトに雇って、朝晩ラモーらの散歩をさせる。 |
◆発表作品等 |
1月、「安吾行状日記」(『新潮』4月まで連載) 「安吾史譚」(『オール讀物』7月まで連載) 「茶の間はガラあき」(『読売新聞』17日) 「チャタレイ傍聴記」(『読売新聞』19日) 2月、「見事な整理」(『週刊朝日』3日) 「松江市邦楽界に寄す」(『島根新聞』20日) 3月、「選後感〔第26回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』) 「親が捨てられる世相」(『週刊朝日』25日) 6月、「夜長姫と耳男」(『新潮』) 「タコをあげる六月の空」(『読売新聞』9日) 「時評的書評」(『読売新聞』夕刊 23日~10月11日まで断続連載) 7月、座談会「文学者の見た十年間」(『新潮』) 8月、「世紀の死闘」(『オール讀物』) 「幽霊」(『別冊文藝春秋』) 9月、「漂流記」(『オール讀物』) 「輸血」(『新潮』) 「選後感〔第27回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』) 10月、「もう軍備はいらない」(『文學界』) 「『信長』作者のことば」(『新大阪』1日) 「信長」(『新大阪』7日~翌年3月8日まで連載) 11月、対談「幸福について」(『新日本文学』) 12月、「腕相撲と原子爆弾」(『朝日新聞』13日) |
◆書簡 |
01/01 井上一彦より来簡 02/16 眞鍋呉夫より来簡 03上旬 扇谷正造より来簡 03/10 菅原国隆より来簡 03/14 桔梗利一より来簡 03/15 岩田豊雄より来簡 03/15 宇野智子より来簡 03/17 扇谷正造より来簡 03/24 菅原国隆より来簡 04/21 中河与一より来簡 05/22 平山信義より来簡 06/15 坂口献吉より来簡 06/19 三好達治より来簡 06頃 平山信義より来簡 08頃 平山信義より来簡 09/12 平山信義より来簡 10/07 安西啓明より来簡 10/09 花田清輝より来簡 10/27 平山信義より来簡 11/18 伊奈良信より来簡 11/25 山本尊子より来簡 12/22 坂口献吉より来簡 52~53/04/18 南川潤より来簡 52~54/04/27 滝川政次郎より来簡 |
◆世相・文化 |
1月、武田泰淳が「風媒花」を発表。伊藤整が「日本文壇史」の長期連載を開始。同月21日、堀田善衛「広場の孤独」「漢奸」その他が芥川賞受賞。 2月、野間宏『真空地帯』、川端康成『千羽鶴』刊行。壺井栄が「二十四の瞳」を発表。 4月28日、サンフランシスコ講和条約発効に伴い、アメリカの占領が終わる。 5月1日、血のメーデー事件。デモ隊に警官隊が発砲し、2人死亡、負傷者2000人を超える大惨事となった。 6月、奥野健男が「太宰治論」を発表。谷川俊太郎が処女詩集『二十億光年の孤独』を刊行。7月、阿川弘之『春の城』刊行。8月、吉田満『戦艦大和ノ最期』刊行。 11月1日、アメリカがエニウェトク環礁で人類初の水爆実験に成功。 12月、小島信夫が「小銃」を発表。 |
1953 (昭和28) 年 47歳 | 留置場で聞く長男誕生 |
1月17日、地元の作家浅田晃彦の案内で馬庭念流道場の鏡開きを見学。同月22日、第28回芥川賞選考会に出席。 3月5日、『西日本新聞』に連載中の「明日は天気になれ」を『新大阪』が無断で転載する予定だという話を聞き、新大阪新聞社社長宛に「いかなる形式の転載も許可しません」と明記して内容証明郵便で送りつける。『新大阪』に連載中だった「信長」は3月8日に桶狭間の戦いの勝利を一区切りとして中断したが、続きが書き継がれなかった理由の一端には同新聞社への不信もあったかもしれない。 4月10日、伊藤整・臼井吉見ほか編『年刊日本文学』昭和27年度(筑摩書房刊)に「夜長姫と耳男」が収録される。20日、日本文芸家協会編『戯曲代表選集』1(白水社刊)に「輸血」が収録される。 5月、『明治開化 安吾捕物帖』第2集の印税すべてが当初の約束に違反して東京国税局へ納められてしまったため、第3集の検印を拒否、年末に田辺茂一が仲介役となって訪れるまでもつれる。 同月20日、亀井勝1郎編『平和の探求』(河出書房刊)に「もう軍備はいらない」が収録される。 同月、檀一雄の友人で作品社社長の山内文三と、その友人の歌人松葉直助とともに栃木県足利市の古墳めぐりをし、足利に自邸建築の計画を立てる。6月中旬、山内から好適地の連絡を受け、来訪した檀一雄と三千代とともに見に行く。建築寸前になるまで現実的に計画されたが、当時失費続きで見合わせる。 6月、献吉が老朽化した蒲田の家を取り壊すことを決める。妹の竹花夫妻のために小さめの家を新築するか、別の所に買い求めるかを安吾に相談する。(この土地はその後、新潟日報東京支社の社員寮として利用され、1978年からは駐車場に変わった。そこに唯一残されたゆかりの門柱は、安吾が1年間代用教員をつとめた代沢小学校に2007年に移築された。) 6月末か7月初め頃、東京でアドルムを服用、帰宅後暴れだす。三千代が南川潤宅へ避難したことに怒り、ゴルフクラブを持って南川宅へ殴り込みに行く。この事件を機に2人は絶交。後に境野武夫の仲介で南川との絶交状態だけは表面上解けるが、めったに会うことはなくなる。 7月20日、第29回芥川賞選考会に出席。同月下旬に中部日本新聞社の招待により尾崎士郎、檀一雄とともに名古屋・岐阜を旅行する予定だったが、大雨で長良川増水のため延期となる。代わりに25日から8月5日頃まで、「決戦川中島」の企画で檀一雄と新潟から松本へ取材旅行。松本の平島温泉ホテルに逗留中、檀の留守中に荒れだし、ついには留置場に入れられる。 8月6日、長男綱男誕生。そのしらせを留置場から出てすぐに聞かされる。同月10日すぎに帰宅。20日、カフェ・パリスで乱暴行為に及び桐生署の留置場へ入れられる。この事件は地元紙だけでなく全国紙各紙でも報じられた。24日、桐生市長宛の詫び状、三千代との婚姻届、長男出生届を市役所に提出。 12月25日、日本文芸家協会編『創作代表選集』12・昭和28年前期(大日本雄弁会講談社刊)に「牛」が収録される。 |
◆発表作品等 |
1月、「犯人」(『群像』) 「明日は天気になれ」(『西日本新聞』2日~4月13日まで連載) 「屋根裏の犯人」(『キング』) 3月、「都会の中の孤島」(『小説新潮』) 「感想〔第28回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』) 「上野図書館に寄せる回顧と希望」(『上野図書館八十年略史・別冊』) 4月、「南京虫殺人事件」(『キング』) 「牛」(『文藝春秋』) 「馬庭念流のこと」(『上毛警友』) 「文芸時評」(『新潮』8月まで連載) 連作短篇集『明治開化 安吾捕物帖』第1集 日本出版協同刊 5月、長篇『信長』筑摩書房刊 連作短篇集『明治開化 安吾捕物帖』第2集 日本出版協同刊 6月、「梟雄」(『文藝春秋』) 「選挙殺人事件」(『小説新潮』) 「中庸」(『群像』) 7月、「作家の言葉」(『小説新潮』) 「〔石川淳「鷹」推薦文〕」(石川淳『鷹』オビ) 8月、「山の神殺人」(『講談倶楽部』) 「正午の殺人」(『小説新潮』) 「決戦川中島 上杉謙信の巻」(『別冊文藝春秋』) 9月、「人生オペラ 第2回 吝嗇神の宿」(『小説新潮』) 「神サマを生んだ人々」(『キング』) 「淋しい可憐な〔第29回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』) 「影のない犯人」(『別冊小説新潮』) 11月、「幽霊それから〔乞食幽霊〕」(『群像』) 「砂丘の幻」(『小説新潮』) 「発掘した美女」(『講談倶楽部』) 12月、「町内の二天才」(『キング』) 短篇集『夜長姫と耳男』大日本雄弁会講談社刊 |
◆書簡 |
53/01/20 永井利彦より来簡 02/07 早川徳治宛 02/11 森川信より来簡 02/14 菅原国隆より来簡 02/23 菅原国隆より来簡 02頃 松本清張より来簡 03/03 永井利彦より来簡 03/08 永井利彦より来簡 03/10 安西啓明より来簡 03/24 田川博一より来簡 05/10 眞鍋呉夫より来簡 05/20 尾崎一雄より来簡 05/21 滝川政次郎より来簡 05/22 尾崎士郎宛 05/23 小林博より来簡 05/27 荒正人より来簡 05/28 花田清輝より来簡 05/29 尾崎士郎より来簡 06/04 石井立より来簡 06/07 山内文三より来簡 06/11 石井立より来簡 06/13 山内文三より来簡 06/19 竹之内静雄より来簡 06/29 土井一正より来簡 07/11 尾崎士郎より来簡 07/23 尾崎士郎より来簡 08/18夜 渡辺彰より来簡 08/19 原田裕より来簡 08/21 野上彰より来簡 08/24 桐生市長宛 08/24 田川博一より来簡 08/27 原田裕より来簡 09/29 尾崎士郎より来簡 10/05 境野武夫より来簡 11/08 松本清張より来簡 12/18 小林博より来簡 |
◆世相・文化 |
1月22日、五味康祐「喪神」と松本清張「或る『小倉日記』伝」が芥川賞受賞。両作品を強く推したのは安吾で、五味については「日本古来の伝承的話術」にのっとりながら「極めて独創的な造型力によって構成された作品」と賞讃、松本については「殺人犯人をも追跡しうる自在な力」があると評した。 2月1日、日本初のテレビ本放送がNHK東京より放映される。受像機は非常に高価で、街頭テレビに人が集まった。 7月、石川淳『鷹』刊行。安吾は本のオビに推薦文を寄稿している。 同月20日、安岡章太郎「悪い仲間」「陰気な愉しみ」が芥川賞受賞。安吾は前回までの安岡の候補作ほどは評価しなかったが、「実に淋しい小説だ。せつない小説である。しかし、可憐な、愛すべき小説である」と讃辞を惜しまなかった。安岡は遠藤周作や小島信夫、庄野潤三、阿川弘之、吉行淳之介らとともに第三の新人と呼ばれる。 同月27日、北朝鮮と韓国との間で休戦協定が調印される。 8月12日、前年のアメリカに続き、ソ連が水爆実験に成功。 |
1954 (昭和29) 年 48歳 | 10月から3回新潟を訪れる |
1月17日、『講談倶楽部』の河角剛とカメラマンを連れて馬庭念流道場の鏡開きを再取材。同月22日、第30回芥川賞選考会に出席。 3月31日、家政婦として中学卒業したばかりの近藤絹子を雇う。翌日にはもう1人来て家政婦が3人になるが、その娘は秋頃に辞め、以前からいた娘も夏に辞めて絹子1人になる。絹子は安吾没後も含めて12年間、坂口家の世話をすることになる。 4月5日、井伏鱒二編『若き日の旅』(河出書房刊)に「長崎チャンポン」が収録される。 5月、『読売新聞』掲載予定だった「工員ゴルフ」が未発表に終わる。 同月、献吉が日本民間放送連盟監事、早稲田大学評議員を兼任。 7月21日、第31回芥川賞選考会があったが欠席し、8月初め、選考のあり方に疑義を感じて選考委員を辞任。 8月3日から6日頃まで伊香保温泉金太夫旅館に滞在。気に入ってその後伊香保で執筆することが多くなる。 9月5日、『現代日本文学全集』49「石川淳・坂口安吾・太宰治集」が筑摩書房から刊行され、「風博士」「白痴」「桜の森の満開の下」「青鬼の褌を洗ふ女」「夜長姫と耳男」「日本文化私観」「堕落論」を収録、扉ウラに「花の下には風吹くばかり」と揮毫した色紙を収載。 10月1日、亡父母の法要のため三千代、綱男を連れて新潟に帰省。2日、法要の日の朝、献吉が社長を務める新潟放送のインタビュー番組「朝の応接室」に出演。 同月15日、日本文芸家協会編『創作代表選集』14・昭和29年前期(大日本雄弁会講談社刊)に「保久呂天皇」が収録される。 11月上旬、伊豆川奈で行われた読売新聞社主催の文壇ゴルフ会に参加。同月30日、『小説新潮』のグラビア企画「作家故郷へ行く」のため、編集者小林博、カメラマン濱谷浩とともに新潟市内を回り、その夜、新潟日報社新社屋落成記念の講演会で尾崎士郎とともに講演。 12月頃、新潮社主催のゴルフ会に参加。同月中旬、宮崎へ取材旅行。 |
◆発表作品等 |
1月、「餅のタタリ」(『講談倶楽部』) 「ヒノエウマの話」(『新潟日報』3日) 連作短篇集『明治開化 安吾捕物帖』第3集 日本出版協同刊 2月、「目立たない人」(『小説新潮』) 『不連続殺人事件』〔再版〕春陽堂書店刊〈春陽文庫〉 3月、「感想〔第30回芥川賞選後評〕」(『文藝春秋』) 「桐生通信」(『読売新聞』11日~12月6日) 4月、「人の子の親となりて」(『キング』) 「安吾武者修業馬庭念流訪問記」(『講談倶楽部』) 「握った手」(『小説新潮』) 5月、「曾我の暴れん坊」(『キング』) 「女剣士」(『小説新潮』) 「安吾下田外史」(「歌劇・黒船」パンフレット) 6月、「文化祭」(『小説新潮』) 「保久呂天皇」(『群像』) 7月、「左近の怒り」(『講談倶楽部』9月まで連載) 「近況報告」(『別冊小説新潮』) 「お奈良さま」(『別冊小説新潮』) 8月、「ゴルフと「悪い仲間」」(『文學界』) 「真書太閤記」(『知性』翌年4月まで断続連載) 「花咲ける石」(『週刊朝日別冊』10日) インタヴュー「伊香保で聞く安吾の自負」(『上毛新聞』16日) 9月、「裏切り」(『新潮』) 「人生案内」(『キング』) 10月、「往復書簡〔石川淳との往復書簡〕」(『新潮』) 「心霊殺人事件」(『別冊小説新潮』) 12月、「桂馬の幻想」(『小説新潮』) |
◆書簡 |
01/13 河角剛より来簡 01/20 頼尊清隆より来簡 01/26 境野武夫より来簡 02/13夜 渡辺彰より来簡 02/16 頼尊清隆より来簡 03/01 頼尊清隆より来簡 03頃 小林博宛 04/14 頼尊清隆より来簡 04/22 野原一夫より来簡 04/24 坂口献吉宛 04/30 坂口献吉より来簡 05/04 池島信平より来簡 05/07 赤沢正二より来簡 05/09 渡辺彰より来簡 07/21 野原一夫より来簡 夏頃 細川忠雄より来簡 09/10 伊藤克己より来簡 09/11 坂口献吉より来簡 09/15 山内直孝より来簡 09/25 坂口献吉より来簡 10/02 岩田豊雄より来簡 10/05朝 坂口献吉より来簡 10/08 坂口献吉宛 10/08 坂口献吉より来簡 10/09 坂口献吉宛 10/21 渡辺彰より来簡 11/07 堀内悦夫より来簡 11/13 細川忠雄より来簡 11/16 淀橋太郎宛 11/16 笹原金次郎より来簡 11/16 坂口献吉より来簡 11/20 坂口献吉宛 11/22 伊藤克己より来簡 11/27 谷丹三より来簡 12/04 尾崎一雄宛 12/23 笹原金次郎より来簡 12末頃 尾崎士郎より来簡 |
◆世相・文化 |
3月1日、アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行い、日本のマグロ漁船第五福竜丸が被曝。同月、武田泰淳が「ひかりごけ」を発表。 4月、福永武彦『草の花』刊行。6月、三島由紀夫『潮騒』刊行。 7月1日、自衛隊発足。同月21日、吉行淳之介「驟雨」その他が芥川賞受賞。 12月9日、吉田茂第5次内閣が総辞職し、鳩山一郎が組閣。 |
1955 (昭和30) 年 | 愛妻へ最後の贈り物 |
1月中旬、新潟、富山を取材旅行。 2月、「心霊殺人事件」が第8回日本探偵作家クラブ賞候補作26篇のうちの1篇に選定される(16日の詮衡委員会で永瀬三吾「売国奴」が受賞作と決定)。 2月3日、境野武夫が参議院議員選挙に社会党左派から立候補。その選挙事務所開きの日にお祝いに行き、祝辞を述べる。 2月11日から高知へ取材旅行。15日に飛行機で東京に着く。桐生行きの電車が出るまで浅草の染太郎にいて、三千代とまだ1歳半の綱男と電話で話し、最終電車で帰宅。高知産のサンゴのネックレスとペンダントを三千代の誕生祝いにプレゼントする。その箱の裏に「土佐ニ日本産サンゴあり 土佐の地に行きてもとめ 三千代の誕生日におくる 一九五五 安吾」と揮毫したのが事実上の絶筆となる。発表作品としての絶筆には没後発表となったものが当てはまり、「安吾新日本風土記」「砂をかむ」「豊島さんのこと」「育児」「世に出るまで」「真書太閤記」がそれぞれ「絶筆」と称される。 2月15日、『昭和文学全集』53「昭和短篇集」(角川書店刊)に「白痴」が収録される。 2月17日早朝7時55分、桐生の自宅で脳出血により急逝。享年48(数え年では50歳)。 2月18日に桐生で通夜が行われ、21日、尾崎士郎を葬儀委員長として、青山斎場にて無宗教の葬儀が営まれた。 3月には屋久島へ、4月には飛行機で北海道へ取材旅行をする予定であった。また両地の取材をもとに、札幌から鹿児島までの通信網がカギになる探偵小説『いつもマントを着ていた』を書き下ろし刊行する予定もあったが、手つかずで終わる。 5月23日、長兄献吉の妻の徳(のり)、安吾の妻三千代と長男綱男、三千代の母の松と妹嘉寿子の5人で大安寺の墓所へ行き納骨式を執り行う。5年後の1960年5月29日にも新潟の縁者のみで納骨式を行っている。 同月27日、東銀座の東京温泉にて百ケ日法要が執り行われる。世話人は文春の池島信平。文壇関係者ら150人ぐらい集まる。池島と田辺茂一、檀一雄が、これを第1回安吾忌とする旨、宣言。これにより三回忌が第3回安吾忌というように、数字が一致することになる。 安吾文学碑の建立については、献吉が翌1956年から寄付金を募り、1957年6月30日、新潟市寄居浜にある護国神社内に建立された。碑文は発起人の尾崎士郎、檀一雄らと相談の上、「ふるさとは語ることなし 安吾」と揮毫された色紙がもとになった。 |
◆発表作品等 |
1月、「狂人遺書」(『中央公論』) 「『安吾・新日本風土記』(仮題)について」(『中央公論』) 対談「やァこんにちわ」(『週刊読売』30日) 2月、「能面の秘密」(『小説新潮』) 「安吾新日本風土記」(『中央公論』3月まで連載) 「諦めている子供たち」(『暮しの手帖』) 3月、「砂をかむ」(『風報』) 「豊島さんのこと」(筑摩『現代日本文学全集』40 月報) 長篇『信長』〔再版〕筑摩書房刊 短篇&エッセイ集『狂人遺書』中央公論社刊 短篇集『保久呂天皇』大日本雄弁会講談社刊 4月、「育児」(『婦人公論』) 「世に出るまで」(『小説新潮』) 「青い絨毯」(『中央公論』) エッセイ集『明日は天気になれ』池田書店刊 エッセイ集『堕落論』〔49年版の再版〕現代社刊 長篇『真書太閤記』河出書房刊 |
◆書簡 |
01/01 坂口三千代宛 01/01 坂口綱男宛 01/09 尾崎一雄より来簡 01/10 尾崎一雄宛 02/08 尾崎一雄より来簡 02/08 野原一夫より来簡 02/09 小柳胖宛 ?/03/05 火野葦平より来簡 |
◆世相・文化 |
1月22日、小島信夫「アメリカン・スクール」と庄野潤三「プールサイド小景」が芥川賞受賞。 |
| (主要参考文献) 『坂口安吾選集』全九巻 一九四七~四八年 銀座出版社 『坂口安吾選集』全八巻 一九五六~五七年 東京創元社 『定本坂口安吾全集』全十三巻 一九六七~七一年 冬樹社 『坂口安吾選集』全十二巻 一九八二~八三年 講談社 『坂口安吾全集』全十八巻 一九八九~九一年 ちくま文庫 阪口五峰『北越詩話』上下 一九一九年 目黒甚七・目黒十郎 同著復刻版「解題・索引」一九九〇年 国書刊行会 朝日新聞社編『運動年鑑大正十四年度』一九二五年 朝日新聞社 阪口献吉編『五峰余影』一九二九年 新潟新聞社 同著増補版附録「坂口家の系図について」 田村泰次郎『肉体の文学』一九四八年 朝明書院 清水崑『筆をかついで』一九五一年 東京創元社 織田昭子『マダム』一九五六年 三笠書房 小山清編『太宰治研究』一九五六年 筑摩書房 中村地平『卓上の虹』一九五六年 日向日日新聞社 大井広介『バカの一つおぼえ』一九五七年 近代生活社 野上彰『囲碁太平記』一九六三年 河出書房新社 田村泰次郎『わが文壇青春記』一九六三年 新潮社 坂口守二『治右衛門とその末裔』一九六六年 新潟日報事業社 『坂口献吉追悼録』一九六六年 BSN新潟放送&新潟日報社 中山義秀『私の文壇風月』一九六六年 講談社 岡本功司『人生劇場主人尾崎士郎』一九六六年 永田書房 『尾崎士郎全集』全十二巻 一九六五~六六年 講談社 三枝佐枝子『女性編集者』一九六七年 筑摩書房 大井広介「坂口安吾伝」(現代日本文学館27『梶井基次郎・中島敦・坂口安吾』)一九六八年 文藝春秋 檀一雄『小説坂口安吾』一九六九年 東洋出版 浅田晃彦『坂口安吾桐生日記』一九六九年 上毛新聞社 檀一雄『太宰と安吾』一九六九年 虎見書房 『尾崎士郎書簡筆滴』一九六九年 インパルス 「織田作之助・田中英光・坂口安吾三人展」図録 一九六九年 毎日新聞社 『中原中也全集』全六巻 一九六七~七一年 角川書店 織田昭子『わたしの織田作之助』一九七一年 サンケイ新聞社 関井光男「伝記的年譜」(『定本坂口安吾全集』第十三巻)一九七一年 冬樹社 関井光男編『坂口安吾研究』全二冊 一九七二~七三年 冬樹社 若園清太郎『わが坂口安吾』一九七六年 昭和出版 新潟県郷土作家叢書『坂口安吾』一九七六年 野島出版 『定本織田作之助全集』第八巻 一九七六年 文泉堂書店 井上友一郎『泥絵の自画像』一九七七年 エポナ出版 中島健蔵『疾風怒濤の巻―回想の文学1 昭和初年―八年』一九七七年 平凡社 島田昭男『昭和作家論―異端・無頼の系譜』一九七七年 審美社 池島信平『雑誌記者』一九七七年 中公文庫 日本近代文学館編『日本近代文学大事典』全六巻 一九七七~七八年 講談社 近藤富枝『花蔭の人―矢田津世子の生涯』一九七八年 講談社 青山光二『青春の賭け』一九七八年 中公文庫 河上徹太郎『厳島閑談』一九八〇年 新潮社 久保田芳太郎・島田昭男・伴悦・矢島道弘編『無頼文学辞典』一九八〇年 東京堂出版 坂口三千代『安吾追想』一九八一年 冬樹社 頼尊清隆『ある文芸記者の回想』一九八一年 冬樹社 大岡昇平『生と歌―中原中也その後』一九八二年 角川書店 森敦『わが青春わが放浪』一九八二年 福武書店 明治文学全集62『明治漢詩文集』一九八三年 筑摩書房 佐々木基一『昭和文学交友記』一九八三年 新潮社 淀橋太郎ほか『染太郎の世界』一九八三年 かのう書房 佐々木基一『同時代の作家たち その風貌』一九八四年 花曜社 杉森久英『小説坂口安吾』一九八四年 河出文庫 浅子逸男『坂口安吾私論―虚空に舞う花』一九八五年 有精堂 『尾崎一雄全集』全十五巻 一九八二~八六年 筑摩書房 『新潮日本文学アルバム・坂口安吾』一九八六年 新潮社 村上護『安吾風来記』一九八六年 新書館 野原一夫『人間檀一雄』一九八六年 新潮社 小川弘幸編『甦る坂口安吾』一九八六年 神田印刷企画室 浅田晃彦『安吾・潤・魚心』一九八六年 奈良書店 「生誕八十年坂口安吾・文学フェスティバル」図録 一九八六年 新潟日報社 久保田芳太郎・矢島道弘編『坂口安吾研究講座』全三冊 一九八四~八七年 三弥井書店 若月忠信『資料坂口安吾』一九八八年 武蔵野書房 林忠彦『文士の時代』一九八八年 朝日文庫 坂口三千代『クラクラ日記』一九八九年 ちくま文庫 牛山剛『詩に生き碁に生き―野上彰小伝』一九九〇年 踏青社 柳沢孝子『牧野信一―イデアの猟人』一九九〇年 小沢書店 『文藝春秋七十年史』一九九一年 文藝春秋 相馬正一『若き日の坂口安吾』一九九二年 洋々社 庄司肇『坂口安吾論集成』一九九二年 沖積舎 『新津市史 通史編』上下巻 一九九三、九四年 新津市 若月忠信『坂口安吾の旅』一九九四年 春秋社 野々上慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』一九九四年 新潮社 坂口三千代『追憶坂口安吾』一九九五年 筑摩書房 横手一彦『被占領下の文学に関する基礎的研究』全二冊 一九九五~九六年 武蔵野書房 奥野健男『坂口安吾』一九九六年 文春文庫 堀多惠子『堀辰雄の周辺』一九九六年 角川書店 鈴木徹造『出版人物事典』一九九六年 出版ニュース社 野原一夫『人間坂口安吾』一九九六年 学陽書房・人物文庫 「坂口安吾展」図録 一九九六年 世田谷文学館 『安吾探索ノート 第6号』一九九七年 安吾の会 「桐生ルネッサンス―坂口安吾・南川潤・浅田晃彦」図録 一九九八年 群馬県立土屋文明記念文学館 坂口三千代『ひとりという幸福』一九九九年 メタローグ 安原喜弘『中原中也の手紙』二〇〇〇年 青土社 大村彦次郎『文壇挽歌物語』二〇〇一年 筑摩書房 荻久保泰幸・島田昭男・矢島道弘編『坂口安吾事典』全二冊 二〇〇一年 至文堂 青木正美『近代作家自筆原稿集』二〇〇一年 東京堂出版 『近代文学研究叢書』第七十六巻 二〇〇一年 昭和女子大学近代文化研究所 青山光二『純血無頼派の生きた時代―織田作之助・太宰治を中心に』二〇〇一年 双葉社 七北数人『評伝坂口安吾 魂の事件簿』二〇〇二年 集英社 丸山一『安吾よふるさとの雪はいかに』二〇〇五年 考古堂書店 『新潟日報源流130年 時代拓いて』二〇〇七年 新潟日報社 その他、各紙誌掲載の回想・追悼・論文等、膨大な資料を参照したほか、各種辞書、事典、年表等も事実確認を行いつつ適宜利用した。 |