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【考える広場】

なぜ核はなくならない 飯尾歩・論説委員が聞く

 「唯一の戦争被爆国として…」。枕ことばのように首相は繰り返す。だが核兵器禁止条約には不参加の姿勢を崩さない。ヒロシマ、ナガサキのある国は、米国の「核の傘」の下にいるからだ。被爆地の憂いは深い。長崎大核兵器廃絶研究センター副センター長の鈴木達治郎さんに聞いた。核兵器はなぜなくせないのか。核廃絶への希望はあるか。

 <核燃料サイクル> 原発で使用済みの核燃料を再処理し、プルトニウムなどを抽出、高速増殖炉などで再び燃やす核のリサイクル。プルトニウムは原爆の主材料にもできるため、非核国で再処理を商業利用しているのは日本だけ。高速増殖炉計画が頓挫して、サイクルは事実上破綻状態。これまでに蓄えられた行き場のないプルトニウムが、核拡散防止の観点から危険視されている。 

◆「非核」の先の「非戦」を 長崎大核兵器廃絶研究センター副センター長・鈴木達治郎さん

長崎大・核兵器廃絶研究センターの鈴木達治郎さん

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 飯尾 ことし八月九日の長崎「平和への誓い」、八十五歳の被爆者代表が「この問題だけは米国に追従することなく、核兵器に関する全ての分野で『核兵器廃絶』の毅然(きぜん)とした態度を示してください」と、訴えました。しかし、目の前にいた首相の耳に届いたようには思えません。ヒロシマ、ナガサキという被爆地と、日本という国の間の溝が、年々深くなっていくような気がしてなりません。

 鈴木 前回東京五輪の年に中国の初の核実験があった後、日本は核兵器を持つべきかどうかについて、それなりに真摯(しんし)に議論して、持たない方がいいと決めました。でも何らかの対抗策は必要だから、米国の核の傘の下に入ることにした。記録を読むと、その時の意思決定としては、決して間違ってはいなかったと思うんです。問題はそのあとです。一九六〇年代のその意思決定のところから、思考が停止しちゃってる。

 飯尾 思考停止、ですか。

 鈴木 核の“平和利用”、つまり原子力発電所に関しても、まったく同じなんですが、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終結し、あれだけ核軍縮に熱心だったオバマ大統領が出てきても、多分、多くの官僚、政治家、それから専門家も含めて、核の傘は絶対に不可欠と、固く信じ込んでしまっています。原発で言えば「核燃料サイクル」は必要なんだと信じ切っている。その思考停止というやつが、一番の原因ではないのかと。

 飯尾 そもそも核の傘って有効ですか。抑止力になりますか。

 鈴木 核は使わなくてもいい、持っていさえすれば相手も使えないというのが、従来の「核抑止」。ところが最近では、使うこともあるという覚悟を見せないと、使うという前提に立たないと、“抑止力”にはなり得ないという方向に、核兵器国の考え方も変わってきています。

 飯尾 矛盾ですね。それに“傘”を目がけて核ミサイルが飛んでくる、なんてことにもなりかねない-。

 鈴木 それを「核抑止」って言うんかい、という話です。抑止力を信じるという人たちに、伺いたい。ならばなぜ、北朝鮮が核を持つのを恐れたりするのでしょうかと。北朝鮮の核が怖いということは、米国の核の傘が有効ではないという、証しではないのでしょうか。そう言うと、核抑止論者の皆さんは、だからもっと強くて大きな“傘”を差すべきだ。「使える核」を用意して、抑止力を強化しなくてはならないと、ますます迷路に陥っていく。これは危うい。非常に危うい。

 飯尾 「核兵器国」と「非核兵器国」の橋渡し役になんて、悠長なことを言ってる場合じゃない。「核戦争に勝者はなく、核戦争は決して戦われてはならない」-。八五年、当時のレーガン米大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が共同声明に盛り込んだ金言です。この次誰かが核を使えば、世界は終わり。人間は歯止めをかけるのが苦手ですよね。どんなに大きな“傘”があろうと、救われない…。

 鈴木 「長崎を最後の被爆地に」というこの街の合言葉が好きなんですが、そう、核兵器を二度と使わせてはいけません。なくす以前に、絶対に使わせない。核兵器が使われるリスクをとにかく低くする-。私たちの大きなミッション(使命)です。そのためにも被爆の実相を、長崎から世界にきちんと伝えていかねばなりません。

 核兵器を持ちたい人たちは、あの醜悪なきのこ雲を上から、あるいは外からしか見ていないので、あの下で起きていたことに想像が及びません。だからトランプさんにもプーチンさんにも、ここへ来てもらいたい。きのこ雲の内側を一度のぞいてみてほしい。そうすればきっと-。

 飯尾 先生ご自身、東京(原子力委員会)からこちらへ来られて、何か見つけたものは、ありますか。

 鈴木 街全体が被爆の記憶をずっと持ち続けている、発信し続けていると感じます。この街自身が「語り部」ではないのかと。広島もそうなんですが、長崎は広島よりも狭い分だけ、記憶が“濃い”といいますか。大学のキャンパスを歩いていても、あちこちで原爆の遺構にばったり出合う。風の中から声が聞こえる。新聞を開いても、核関連のニュースがない日は、ないくらい。すれ違う人たちも、被爆者か、その親類か、知り合いか。被爆と関係のない人はほとんどいない。そういう街で暮らしているからやはり、街中の記憶を世界に届けなければならないと、より強く考えるようになったのでしょう。

 飯尾 おととしの八月、やはりこの長崎の街を歩いていて、暑さしのぎに飛び込んだスターバックスの掲示板に「あなたにとって平和とはなんですか?」というメッセージが書かれているのを見て、驚きました。ナガサキ、そしてヒロシマにこそ、「希望」があるんじゃないのでしょうか。

 鈴木 私はね、ナガサキという土壌というか、街が育てた最近の若い人たちの活動に、大きな希望を持っています。おととしノーベル平和賞を受賞したICAN(アイキャン、核兵器廃絶国際キャンペーン)なんかもそうですが、例えば単に被爆者の記憶を継承しよう、義務として伝えていこうというのではなく、核の問題は自分たちの未来にとって深刻な問題だから、自分自身のこととして考えよう、反対か賛成か、二項対立の迷路に落ちず、前向きに議論を重ねよう-。そういう姿勢で活動している人たちが増えてきているように感じています。

 核兵器の現状をよく調べ「そう簡単には核はなくならないんだなあ」という現実をよく理解して、「だとすれば、どうしよう」と悩みながら発信し続ける。そんな若い人たちこそ、「核なき世界」への希望ではないのかと。

 飯尾 あらためて伺います。そんな若者や世界の人たちに、今一番伝えたいことは。

 鈴木 「二度と戦争をしてはいけない」という「非戦」の思いを伝えたい。八月六日も九日も、式典のメインは「平和宣言」です。「非核宣言」ではありません。「なぜ原爆が落とされたのか」と言えば、戦争があったから。戦争さえなければ原爆は落とされていなかった。そもそも開発されずに済んでいたはずなんです。逆に言えば、戦争がもし起きれば、原爆が落とされる。落とされなくても、また犠牲者が出てしまう。

 そういう意味で、日本の平和憲法はすごく大事だと思います。被爆体験と平和憲法は、つながっていると思うんです。

 <すずき・たつじろう> 1951年、大阪府生まれ。専門は原子力、科学技術政策。東京大客員教授、原子力委員会委員長代理などを経て、2014年長崎大へ。今年4月から現職。核兵器と戦争の廃絶を訴える科学者の国際会議「パグウォッシュ会議」評議員。日本パグウォッシュ会議代表。

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