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第4回
「日大節」の歴史について
L松井健治
今消え去らんとする日大予科節、素晴らしかった日大応援団の初期に関して、故宮崎(乾朗)学兄(大学の理事をやっていました)と手紙をやり取りした資料をもとに、私、松井健治が進めさせていただきます。
昭和十八年四月、私は日本大学世田谷予科文科に入学いたしました。私たちは世田谷予科こそ本流であるとの誇りを持ち、旧制高等学校に負けない白線とマントで青春を謳歌したものです。そのころ、神田には専門部がありましたが、我々には愛着がなく、繰り出すときはいつも銀座でした。
同級生で親友でもあった山主(後、法学部教授となり亡くなりました)、飯島(後、検事正になりました)の強い勧めで、私も彼らと同じ法学部ヘ進学しました。
当時の私たちの青春のはけ口、唯一の楽しみといえば「日大予科節」で仲間と肩を組み、ストームすることでした。私たちは、昭和十五年頃に発生したと思われるこの歌を先輩から引継ぎ、毎日のように口ずさんでは踊りまくっていました。
予科のいろいろの歌の中で、まず最初の1)をやります。
1)俺等が予科生は、世田谷の桜散る、武蔵の原頭にコンパして
コチャエー、コチャエー、コチャこれでも日大の予科生
桜ケ丘に日が落ちて、流れ星、俺等がストーム意気まかせ
コチャエー、コチャエー、コチャこれでも日大の健児
次に予科の「ノーエ節」をやります。
2)新宿降りればノーエ、若生(若人)の声する
知らぬ人さえ知るものか、やれさのさ
粋な白線にゃ黒マント、ガラガラガラリは下駄の音
やれやれさのさ
(注)「若生」は陸軍将校、
当時の日大世田谷予科名物訓育部長
-以上前歌-
次はいろいろと問題の「日大予科節」をやります。
それでは
(掛け声)興がのったら予科節だ!
いざ舞い踊らんかな、それ!
(ここで一同、七拍子)よっ!
3)ここは銀座か東京の町か、東京の町なら日大予科よ~
粋な白線に黒マント、紋付き袴は我等の誇り
銀座の町でも堂々と、明日は戦地に召される身
今宵ばかりは踊り明かそう、仲間の姿が目に浮かぶ
桜花咲く母校の庭で、再び元気で会う日まで
(繰り返し)再び元気で会う日まで
なにしろ六十年近く前のもので、後半は記憶が少し薄らいでいますので、了承してもらいたいと思います。
「ここは銀座か~」からは、まさに今の日大節と同じ節です。近大節の中に「紋付き袴」の文句がありますが、戦前、近大は影も形もありませんでした。紋付き袴は日大予科生の誇りでした。
ここに「日大予科節」の文句通り、懐かしい写真があります。
昭和十八年、銀座四丁目で、我々が繰り出した時の紋付き袴の写真であります。左から二番目の横を向いているのが私ですが、当時、我々の仲間は海軍予備学生、陸軍予備士官学校へと、次々召集されていきました。その仲間を囲み、銀座通り、また東京駅頭で「日大予科節」を歌ったことが、昨日のように思い出されます。
そのころ、予科祭を見物に来ていた、朝鮮出身の人が多かった日本大学大阪専門学校というのがありました。現在の近畿大学の前身であります。その学生たちは大変驚き、また、うらやましそうに見物していたものです。彼らは「日大分校として、自分たちにもぜひやらせてほしい」と紙にせりふを書き写し、散々、節を間いていきました。
昭和二十年、終戦で陸軍前橋予備士官学校より復学したその年の十一月、私は法学部へ進学しました。素晴らしい日本の旧制高等学校や予科の大学制度がアメリカによって覆され、名門日大予科もなくなる憂き目に遭いました。
私は学部生になっていましたので、角帽をかぶっておりますが、世田谷予科生の後輩が全員集合して、皆泣きながら最後のこの日大予科節のストームをやりました。大応援旗を持ってリードしているのが私です。
私は初代自治委員長になり、戦後初めての応援団を設立するとともに「花の精鋭」という応後歌も作りました。その頃大学に出入りしていた卒業生が「レコードの版権をよこせ」と日照堂の望月さんに言い、経緯を知っていた望月さんにはねつけられたことを後で聞きました。
また日大、早稲田、慶応、明治に関して出版された「キヤンパスシリーズ」(監修:吉田大洋、発行:弘済出版社)という立派な本がありますが、それにはそのいきさつが詳しく書かれております。また、日本大学百周年の日本大学新聞百周年記念号「日本大学-五十万人の桜花青春譜-」そして「生き証人、証言でつづる百周年」ということで、戦後、初代応援団長の松井健治が「花の精鋭」応後歌を作ったということが、百周年の日本大学新聞に詳しく出ております。
いろいろと証拠はたくさんありますが、この「花の精鋭」は皆さんもすでによく知っていることであり、ここで詳しく 「キヤンパスシリーズ」に出来上がった時のことなどが書いてありますので省きます。その他、参考資料および語りたいことはまだまだあります。
そして戦後、学生委員の優秀な者しか団員になれなかった由緒ある応援団が、いつしかおかしな応援団に変貌。暴力事件で解散を余儀なくされるなど、すべてが曲げられ、今、歴史の彼方へと消え去ろうとしていることが残念でなりません。
特に、あの大天予科節は多くの先輩、同級生が共に肩を組み東京駅頭から出征して行った出陣の歌でもあります。今、このことを知る数少ない生き証人の一人として、この記録が残されれば、戦場に散った学友達へのせめてもの鎮魂歌であり、お詫びであると思うのであります。
これは日本大学の初代応援団長をされた元理事、現評議員の松井健治氏が、「日大節」の前身である「日本予科節」や初期の日本大学応援団について、平成十五年五月二十三日、この日開催された評議員会終了後の午後四時過ぎ、日本大学本部六〇一会議室で話された内容の記録です。
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