9月12日(木)大停電4日目
午前7時、朝食を取っていると、「このヨーグルト、おいしくない」。母が宣った。
市内のスーパーマーケットは順次再開しはじめたとは言え、店頭に並ぶ乳製品や肉や魚などは、量も種類も限られている。やっとの思いをして買ってきたのに、そう来ますか。ドッと疲れが押し寄せてきた。
午前9時、兄夫婦宅のブルーシート張りに備えて、館山市から支給された土嚢袋に砂を詰める作業開始。兄と二人で館山海岸に向かい、砂を詰めていると、「一緒にいいですか?」と、50代と思われる女性が軽自動車を運転して一人でやって来た。
「もちろんです。どちらにお住まいですか? 電気は復旧しましたか?」
なんて話をしながら、せっせせっせと砂を詰めていく。
「こういう作業を一人でやったら悲しくなりますよね」
「そうですよ。おしゃべりしながらやらないと気が滅入りますよ」
「ウチは高齢の両親との三人暮らしなんで、動けるのは私だけなんで」
屋根のブルーシートを押さえるのにどのくらいの土嚢が必要かもわからないまま、2軒分約40個の土嚢を作り、兄の車と女性の車に積み込んで、ひとまず終了。
午後3時半過ぎ、川崎に住む従兄弟が救援物資を車に積んでやって来た。
川崎から館山までは、アクアラインと館山道を使えば、1時間20分ほどで到着する。
暇を持て余していた両親は、久しぶりにやって来た甥っ子の顔を見て大喜びだ。
「おー、上がってビールでも飲んでいけよ」とまで言い出す始末。
「今は、そういう場合じゃないし、そもそも車だし」———心の中で突っ込んでいると、
「叔父さんと叔母さん、だいぶ老け込んだね」
従兄弟が目配せしながら耳元でつぶやいた。
この時点で、館山市の中心部はほぼ電気が復旧。スーパーマーケットもガソリンスタンドも続々と再開。普通の生活を取り戻しているかのように思われたが、義理姉の実家がある布良地区は未だ復旧の目処すら立っておらず、電話も繋がらない状態が続いていた。
日頃から煮炊きができない父親の元へ、義理姉は作り置きできるおかずを届け、電子レンジでチンして食べてもらっていた。だが、現状その電子レンジも冷蔵庫も使えない。しかも、倒木や崖崩れ、信号機の停電など、悪条件が重なり布良まではいつもより時間がかかる。
「ウチに来てくれれば手間が省けるのに、ホント頑固で、俺はどこへも行かないって言い張るんだから」
午後5時過ぎ、眉間にしわを寄せながら義姉がお弁当を携えて出掛けていった。
9月13日(金)大停電5日目
いくらなんでも、今週中には全ての地区で電気も復旧するだろう。誰もがそう思っていた。しかし、東電からの「復旧は、場所によってあと2週間を要する」との発表に、そんな期待も呆気なく砕け散る。
千葉県内の被災地に住むすべての人がガクンと肩を落とし、張り詰めていた気持ちがプツンと切れたのではないだろうか。
しかも、今週末は雨の予報。業者の手配がつかない人たちは、待ちきれずに自ら屋根に登り、落下する事故が急増していた。地域の拠点病院は、SNSを通じて「これ以上ケガ人を増やさないためにも、素人は屋根に上らないように」と、連日呼びかけている。
「土嚢が足りなくなりそうだから」
兄からのSOSで再び館山海岸へ向かい、せっせせっせと砂を土嚢袋に詰めていると、青森ナンバーの電気工事車両が列を成して海岸通りを南の方角に走り去っていった。
まさか、こんなことになろうとは。まさか、こんなにも停電が長引くとは。
この週末、大雨にならないことを祈りながら自宅に戻ると、「エアコンが壊れたから電気屋に電話しろ」。父が宣った。
またですか……。見ると、なぜだかコンセントが抜かれている。
「これじゃ、動かないでしょ」
「止まったから、抜いたんだろ」
「つけっぱなしにしてると、自動的に節電機能やお掃除モードに切り替わるの。だから、そのままにしておけば、また涼しくなるから」
いくら説明しても、「壊れた。壊れた」と言い張って、聞く耳を持たない。
「だから、何度も言ってるでしょ。リモコンの『冷房』と『切る』のボタン以外は触らないでって」
大停電という緊急事態の下、我が家では、こうした笑い話にもならないようなバトルが、高齢の両親との間で連日絶え間なく続いていたのだった。