遠くを見つめて想ったものは
テーマ:My life
待ち時間がやたらと長くなってしまったから、今のうちに書いておくことにしよう。
クレオパトラの過去世を思い出す時、遠くの景色を静か見つめている自分の姿がよく浮かぶ。
クレオパトラの頃の自分なのだろうけど、思い出し始めの頃は、そんな姿の自分が何を感じていたのかはよく分かっていなかった。
だけど、ここまで過去世が分かってくると、死ぬ覚悟をしてたのかもしれないし、戦う覚悟をしてたのかもしれないし、自分の大切なものを想いながら見ていたのかもしれないし…と感じる。
何にせよ、暗いな、深いなとは思う。
カエサルの死後のクレオパトラの人生は、この世界的視点で見て考えたなら、悲劇としか言いようがない。
自分のことであっても、こういう時はかなり客観的に見ているので、感情は一切挟んでいないからね。
そういった自分を作れるから、過去世のことも様々な視点で観察出来たわけだけど。
アテナの時にゼウスと肉体関係を持って以降、奴奈姫の時は大国主命、クレオパトラの時はカエサルに転生したよーへいと関わりを持ち続けてきたわけだけど…。
ゼウスに生まれた時のよーへいは、人間の心が腐っていることを知って以来、人には本心を見せなくなった。
ヘラのような女達は、ゼウスの力を求めてしつこいほど追ってくるし、力の元にいたなら安心と、ズルい男達はゼウスに寄り付いてきた。
人間のすることは今も大昔も全く変わっていなくて、ゼウスはそんな者達と接する度に、心は何も感じなくなっていった。
それが、アテナだったあたしと出逢ってから変わったね。
アテナはそれまでの人間が持っていない人懐こさと、愛らしさを持っていた(自分で書くと自惚れてると思う馬鹿がいるけど、これは事実なので。自惚れてると思われるのは物凄く腹が立つ。自己分析能力皆無の真由美…まーちゃんは、自惚れてるの?とやたらと言ってたので一度死ねってくらいムカついた)。
そして、冷静に人や物事を観察する目と、納得出来ないことに関して怒りを強く表す性質も持っていた。
アテナはゼウスの心の中にある寂しさを見抜いていたし、本当は温かいものを欲していることも知っていた。
ゼウスだけは、その頃アテナの近くにいた大人とは違っていた。だから父でもあったゼウスの近くに自然といるようになった。
ゼウスはそんなアテナをとても可愛がった。
その後に生まれた弟や妹達と、アテナは交流するようになった。
生まれてきた弟や妹達とアテナは、触れ合う中で、心を育てあっていった。
時には喧嘩して、時には戯れあって、時には一緒に眠って。
何が大切で何がいけないことなのか、触れ合いの中でそれぞれが知っていった。
ゼウスはそんな子供達を見守った。
愚かで馬鹿な人間達の相手を引き受けて、子供達に温かな時間と場所を作り続けた。
アテナが成長し、女性の体を持った頃、ゼウスは性的な行為をゆっくりアテナに教えていった。
それが男と女の間で、想いを伝え受け取り合った初めての性行為。
それまでの人間の性行為は、極めて動物的なものだったからね。
現代人は男女間のセックスに愛があると思っている人間が多いようだけれど、現代も遠い昔の動物的感覚は強く残っている。そもそも人間の性行為は愛から始まったものじゃなかった。
ツインレイのブログでは、セックスを神聖なものとして美化して、遠い昔から愛はあったように書いているけれど、あれは嘘っぱちもいいところ。
彼らの過去世が本当にあったとするなら、あたし達と関わって、愛というものを受け取るような付き合いをしているはず。だけど、あたしはツインレイを語る者達にも酷い目にあった。
そんな者達が愛を知ってるわけがない。
彼らの言う愛は、愛は愛でも自己愛のみ。
何しろ他者への愛を生んだのは、あたし達なのだから。
他者への愛の元祖的なものだからね。うちら親子の愛は。
因みに上杉の精神は、あたし達兄弟姉妹の他者への愛が生んだものだよ。
兄弟だった馬鹿男(現世名は勝博)に強姦されたアテナから、ゼウスは苦しさを取り除こうとした。
なるべく汚いもの、残酷なものをアテナから遠ざけて、弟や妹達のと時間を作るようにしたり、性行為で癒していった。
だけどその頃には既に、アテナの心の奥の奥にはもう一つの人格(神格?)的なものが存在していて、ゼウスがアテナ達を守るために愚かな者達と接し、彼らを操るつもりで実は彼らに利用されているという現実を見抜いていた。
馬鹿な男と女は、ゼウスに関係を求めたれたり、地位を与えられたりする中で、欲求を表せば表すほど、ゼウスが自分の求めるものを差し出してくれることを無意識のうちに知っていった。
そしてその無意識は、意識の上では「ゼウスからの好意ある贈り物」と変換され、それを愛や信頼だと勘違いするようになっていった。
ギリシャ神話の時代、人間達は二つの「愛」を誕生させた。
ゼウスとゼウスの子供達が生んだ他者を想い、認め合い、贈り合う愛と、ゼウスから与えられたものに好意や信頼があると勘違いした結果生まれた愛(愛もどき)と。
だからこの世界には、同じ「愛」という言葉を使い、似たような行為や行動で表しても、全く重ならない正反対な愛が存在する。
どちらの愛を持っているかは自分を深く知っていけば分かってくるし、本質を見抜く心の目を持っている者なら、他者の愛がどちらかをちゃんと見抜くことができる。
あたし達が生んだ愛は、簡単に言えば、思考を入れずに無理することなく表せるもの。
相手を感じて、自然と相手に贈ることができる。
時に自分が犠牲になったとしても、相手の幸せを想い願う。
よーへいはやり方はとても残念なものだったけれど、自分の体や労力を悲しいほど使って、あたし達を守ろうとしてくれたのは事実。
そこには大切な存在を守ろうとする愛があったのも事実。
ただ…愚かな人間達に餌を与えてしまったことで、餌を与えられた人間達は、他者を犠牲にしてまで自分の欲を満たす心地良さを知ってしまったんだよ。
それも、無自覚のままに。
一切の意識もないままに。
そして他者を犠牲にしていたり、利用したりしていることを、「正義」や「正しさ」、「善」と言うようになっていった。真逆なことをしているにも拘らず。