【196】WGIPは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける宣伝計画」ではない(その6)
「GHQが次に行なったのが『公職追放』(公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令)である。GHQにとって好ましからざる人たちを様々な職場から追放したのだ。」(P428)
と説明されていますが、「公職追放令」を曲解されています。
「GHQにとって好ましからざる人々」ではなく軍国主義者と戦争協力者の追放です。公職追放は、対象人物の「内面」ではなく「外面」によって(主義・主張そのそのものではなく、戦前どのような立場にあったか)で選定されています。
GHQが恣意的に選んだわけではありません。
「対象者は『戦犯』や『職業軍人』など7項目に該当する人物だったが、GHQが気に入らない人物は、それだけで追放処分となった。」という説明は不適切です。7項目に該当せず、GHQが気に入らない人物で追放された人物を具体的にあげる必要があります。
「鳩山は昭和二〇年(一九四五)、アメリカの原爆投下に批判的ともとれるインタビュー記事が朝日新聞に載ったことで、GHQから睨まれたのだ。」(P429)
と説明されていますが誤りです。朝日新聞がGHQの出したプレスコードにひっかかって発行停止になったのは確かですが、鳩山一郎の公職追放の理由は別です。
「統帥権干犯問題」を議会で追及したことが理由でした。
そもそも百田氏もP352~P354「統帥権干犯問題」において、
「これ(ロンドン軍縮条約)を受け入れた一部の軍人や野党政治家は激しく非難した。」
「ところが、ロンドン海軍軍縮条約に反対する野党政治家(犬養毅、鳩山一郎など)が、それまでの大日本帝国憲法の解釈と運用を無視して、『陸海軍の兵力を決めるのは天皇であり、それを差し置いて兵力を決めたのは、天皇の統帥権と編制大権を侵すものであり、憲法違反である』と言い出して、政府を批判したのだ。」
「この一連の事件以降、内閣が軍部に干渉できない空気が生まれ、軍部の一部が統帥権を利用して、暴走していくことになる。野党の政府攻撃が日本を変えていくことになったのだ。」
と、鳩山一郎ら「野党政治家」を非難し、その責任を明らかにされています。
GHQの指定する「軍部の台頭に協力した軍国主義者」に該当する「公職追放」にあたることをすでに百田氏が説明されています。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12444761232.html
ちなみに、「滝川事件」で滝川教授の罷免を要求し、文官分限令で休職処分にした文部大臣も鳩山一郎でしたし、「上智大学事件」の時の文部大臣も鳩山一郎でした。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12450622622.html
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12450167900.html
GHQは「ポツダム宣言」に定められたことを「降伏文書」を受け入れた政府に実行させる責務をもっています。軍国主義者の除去は、かなり力を入れて調査していました。戦後、GHQを批判した者を公職追放したのではなく、戦前の軍国主義台頭に協力した人物を追放した、ということをご存知無いのではないでしょうか。
ですから「大学や新聞社で追放を免れた人たちの中にも、追放を恐れてGHQの政策に対して批判的なことを口にする者はいなくなった。」(P430)という説明は誤解で、「公職追放」は「戦前の活動・立場」が対象でした。
「戦後初の総選挙で第一党となった政党の総裁でさえ簡単に追放してしまうGHQの恐ろしさに、以降、GHQの政策に異議を唱える政治家はほとんどいなくなってしまった。」(P429)
という説明も誤りです。GHQは異議申し立てを受理する機関として「公職資格訴願審査委員会」を設置していて、実際、148名の取り消し、4名の解除をおこなっています。「GHQの恐ろしさ」におびえていたのは軍国主義者と戦争協力者、旧戦争指導者たちです。
「また名称こそ『公職追放』となっていたが、実際は公職だけでなく民間企業からも追放された。」(P429)
という説明も意味不明です。「公職追放令」をあまりご存知無いようです。
この法令は実行にあたって、「公職」の定義をしています。
「国会の議員、官庁の職員、地方公共団体の職員及び議会の議員並びに特定の会社、協会、報道機関その他団体の特定の職員の職等」と明記されていて、対象者が公職に
ある場合、退職させるとしたものです。
当然、民間企業でもそれが軍国主義や戦争協力に携わるものであったならば対象となります。
「GHQは新聞社や出版社からも多くの人物を追放した。それは言論人や文化人にも及んだ。」(P429)
と説明されていますが、先ほども申しましたように、対象となった人物の「内面」ではなく、「外面」(どのような立場にあったか)が問題とされました。
百田氏はその例として、菊池寛・正力松太郎・円谷英二・山岡荘八の四人をあげておられます。
菊池寛の場合は、戦前、衆議院議員に立候補したり(落選)、市会議員に当選したりして政治家の経験もあります。日本文芸家協会の会長として、内閣情報部からの指示をうけて作家の従軍を募集、戦争中は国家からの依頼はすべて受け入れるとして「文芸銃後運動」を始めています。日本文学報国会が設立されるとその議長にもなりました。映画会社「大映」の社長に就任、国策映画制作もおこなっています。
正力松太郎は、大政翼賛会の総務であり、A級戦犯の第三次指名を受けています。読売新聞社の社長であったことが公職追放の理由になったのではありません。
もともと内務官僚で、警視庁官房主事時代は、日本共産党の一斉取り締まり、関東大震災時は、社会主義者の扇動による暴動に備える警戒を指揮しています。警務部長を歴任しますが「虎ノ門事件」の責任で懲戒免官となった、という経歴があります。
円谷英二の場合は、個人的には同情を禁じ得ません。「内面」ではなく「外面」が対象となった典型例だと思うからです。映画と特撮に取り組み、それに専念した結果であっと思うと気の毒であったと思います。
1939年に陸軍航空本部からの依頼で、戦闘機操縦の「教材映画」を演出兼任で撮影しました。なんと自ら航空機を操り、撮影したんです。1940年の『海軍爆撃隊』はミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影しました。
1941年、太平洋戦争が始まると「東映」は本格的に「戦意高揚映画」を制作していくようになります。特撮が重要な役割を果たすため、円谷は戦争映画すべてを担当しました。『ハワイ・マレー沖海戦』が大ヒット、さらに『雷撃隊出撃』『加藤隼戦闘機隊』などはすべて円谷が手がけました。
こうして軍の教材映画、戦意高揚映画に加担したということで公職追放となったのです。
山岡荘八の場合は、従軍記者として活躍したことが対象となってしまいました。
国家総動員体制の下、多くの作家も体制に協力させられていきました。従軍体験の作品では火野葦平の『麦と兵隊』は人気を博しましたが、石川達三の『生きてゐる兵隊』は発禁処分となります。山岡荘八は『からゆき軍歌』『海底戦記』を著しています。
「代わりにGHQの指名によって入ってきたのは、彼ら(GHQ)の覚えめでたき人物たちだった。これにより、多くの大学、新聞社に『自虐史観』が浸透し、GHQの占領が終わった後も、『WGIP』を積極的に一般国民に植え付けていくことになる。」(P429~P430)
という説明はどうでしょう。すでに申しましたように「公職追放」はCCDも「戦争責任を伝える計画」(WGIP)とは無関係です。
公職追放で、政財界の中枢から軍国主義者や戦争協力者が多く抜け、それまでの中間層が繰り上がりで一気に若返りました。彼らは「三等重役」と揶揄もされましたが逆に言えば「老害」が除かれて若手に活躍の機会が回ってきた、と、喜ぶ風潮もありました。「多くの大学、新聞社に『自虐史観』が浸透し…」という説明も一面的で、法学部などの憲法界では、独立後、日本独自の憲法をもとめる思想も大きく展開されます。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12450622622.html
「公職追放」に反発し、戦争を反省しつつも新しい日本の建設を進める保守層も成長していきました。何より、独立後の議会で、革新層は過半数をとることなく保守層が常に過半数を占めてきています。
国民の支持の過半数は常に保守にあったことは明白です。
それに官僚に対しては「公職追放」はあまりみられません。裁判官などもそうです。
戦前の衆議院議員の8割ほどは「公職追放」の対象となっていますが、追放規定の3親等外の親族や秘書などを「世襲候補」として立候補させて大部分は議席確保に成功しています。
GHQのおぼえめでたき者が代わりに挿入され、1946年で終了している「戦争責任を伝える計画」(WGIP)を一般国民に植え付けていく、というようなことは行われていません。
「また政治家の間でも、GHQを使って政敵を追い落としたケースもあった」(P430)
と説明されていますが、具体例と具体名をあげられてもよかったのではないでしょうか。当時、石橋湛山が公職追放の対象となったのは吉田茂の追い落とし工作だったという「噂」があったことは有名ですが、これも政界ゴシップにありがちな話で、他にこのような例があったとは思えません。
多くの事実を誤解されたり誤認されたりしているので、「こうした事実を見ると『教職追放』や『公職追放』は、単に思想的な問題だけでなく、日本人の誇りとモラルを破壊したということがわかる。」(P430)ということは断言できないと思います。