『日本国紀』読書ノート(176) | こはにわ歴史堂のブログ

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176】「コミンテルンの陰謀」は無い。

 

前回、総力戦体制の話をしました。

 

①強い権限を持つ政府あるいは軍部

②軍需工業優先の産業に編制

③女性や青少年を軍需工業の生産に動員

④食料の配給制などを実施

⑤国民の消費生活を統制

 

日本の場合は、これに「言論・出版・報道統制」が入ります。

表現の一言一句にまで検閲が入りました。

「敗退」は「転身」、「全滅」は「玉砕」…

現在でも、普通の表現のように「玉砕」という言葉は使用されています。

 

思想面での「統制」は、満州事変以降、深化します。

1933年、獄中にあった共産党の指導者たちは次々に「転向」を表明しました。

佐野学、鍋山貞親らは、「コミンテルンが共産党に指示した天皇制打倒、侵略戦争反対の方針を批判し、天皇制と民族主義のもとでの一国社会主義の実現を提唱した。この声明をきっかけに獄中の大半の党員は転向した」(『詳説日本史B』・山川出版・P349)のです。

「コミンテルンの陰謀」を声高に説明される人がいますが、このように教科書レベルで日本史でも世界史でもコミンテルンの役割・機能は十分に説明されています。

そして1943年5月に解散されていますが、それより以前に、スターリン体制が確立された時点で、「世界革命」を放棄し、「一国社会主義」にソ連は転じていて、コミンテルンは「ソ連の共産主義の防衛」に役割が転じています。

ご年配の方は、コミンテルンの20年代の「世界革命」の普遍の活動をイメージしがちですが、スターリン体制後は、それぞれの国で共産党勢力を伸張させながらも、合法的に政権に関与させてファシズムに対抗する路線(人民戦線方式)に移行しています。

  

「一般企業でも労働組合が強くなり、全国各地で暴力を伴う労働争議が頻発した。これらはソ連のコミンテルンの指示があったとわれている。」(P435)

「そこでスターリンには日本のコミンテルンに『講和条約を阻止せよ』という指令を下したといわれる。」(P450)

 

存在しないものに指示を出すこともありませんし、1920年代とは大きく社会主義体制の方針が転換されている(「時代遅れの世界革命論」をソ連の側も認識している)のに、いつまでも20年代の方針が残存していると考えるのは無理があります。

1947年にスターリンはコミンフォルム(共産党情報局)というのを設置しています。

各国の共産党の情報交換、ソ連指導下の共産党活動の調整が主目的の組織で、なぜ、43年に解体され、日本の共産党や世界の共産党に「世界革命」を志操したブハーリンもサファロフもスターリンに粛清され、30年代後半は活動家がみなスターリンの粛清をおそれて実質的活動ができない状態にあったコミンテルンをクローズアップされているのかさっぱりわかりません。ちなみにコミンテルンの後継とも言えないことはないコミンフォルムですら、1956年に解体されています。

 

さて、「日本の場合は、これに『言論・出版・報道統制』が入ります。」と先ほど説明しました。教科書は「弾圧」ではなく「統制」と表現しています。

これには実は理由があります。

1930年代に、佐野学らの転向声明をきっかけに、治安維持法で検挙されていた人々の9割が転向しました。反体制活動を改正治安維持法で徹底的に取り締まりましたが、実は最高刑罰の「死刑」は適用していないのです。

1910年代、20年代の過酷な「弾圧」とは、政府のほうも方針を変えています。

1930年代後半から、日本は独自の政策をとりはじめます。それは、治安維持法で検挙された経歴を持つ旧左翼関係者を、内閣調査局(後の企画院)に「官僚」として採用しているんです。

同時代のファシズム国家(ナチス・ソ連)のように、反体制派を粛清、処刑などいっさいしていない、それどころか体制内に取り込む、という点が世界に類をみないところでした。こういう部分をもっとクローズアップしてほしかったところです。

「反対派を体制内に取り込む」という手法は、べつに「和をもって貴しとなす」日本文化の証、とは申しませんが、転向した者を批判せずに活用する、ということは日本では普通にみられることでした。

 

「東京裁判」にあたって、日本の戦争へのプロセスは、検察側もGHQも徹底的に調査しています。後ほど詳しく説明しますが、表面的には「戦争指導者糾弾ありき」に見えますが、その調査過程で、天皇は統帥権者であったが、戦争の節目で反対の意を示しているにもかかわらず軍部が事後報告に終始していて怒りをお示しになられていたこと、ナチスのような「全体主義」とは異なり、軍部内も分裂し、閣僚も対立し、処刑・粛清とは言えない手法で思想統制をしていて、「反対派も生かして活用する」という実態は「欧米のファシズム」とはほど遠いことが次第に明らかになりました。

「戦犯」もその判断から指定・指定解除がされていて、GHQの民主化政策は、むしろ「勝者の驕りの一方的な指令」で進められたというよりも、「GHQと日本の共同作業」で進められている側面が次第に明らかになっています。