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2019-09-26

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

「おじいちゃんの小さかったとき」という本がある。
 「ほぼ日」ともなかよくおつきあいしてくださっている
 塩野米松さんが書いて、松岡達英さんが画を描いている。
 まさにいま「おじいちゃん」になっているぼくには、
 この本にあるのは、なつかしい事実の数々だ。
 「そうそう」という共感と、
 「よくこんなことおぼえているものだなぁ」と
 感心する気持ちがあって、たのしくページをめくった。

 ここに描かれている、ぼくの思い出は、
 この本に描かれてなかったら、
 どこに消えていってしまったのだろう。
 空き地にマンションが建って、
 空き地がなくなってしまうように、
 近所のちっちゃな川が地下に潜って
 水の流れが見えなくなってしまうように、
 あのころの道具や遊びや、いたずらやお説教は、
 もうとっくに消えていたんだなぁと、あらためて思う。
 この本で「あった」ことを思い出したせいで、
 それらが無くなっていたことまで思い出すことになった。

 まとめて言ったらみんな「とるにたらない」ものごとだ。
 当時も、なくてもかまわないと思われていたようなもの、
 そして忘れてもいいやと思われていたようなことが、
 「おいおい、ほんとに無くなってもよかったのかい?」
 と、本のなかから声をかけてくる。
 もちろん、「忘れちゃってもいいさ」
 と言う人がいるなら、その声はそのまま
 いさぎよく消え去るにちがいない。
 でも、「そうだなぁ、近くのこどもに話してやろうかな」
 と思う人がいたら、その声の主はうれしそうに
 「じゃ、もっと見て見て」と笑顔を見せることだろうね。

 作者たちは、「とるにたらない」ものごとの、
 いちばん快適な居場所を心得ている。
 こういうものは無くてはならないとか、
 これこそが人間の文化の営みのとか、言いもしない。
 どういえばいいのだろう、
 人のだれも見てない場所に立っている木が、
 だまって鳥に巣をつくらせていたり、
 日陰をつくっていたり、
 雨をしのぐ屋根になってくれたりするように、
 この「おじいちゃんの記憶」は、
 呼ばれたときにだけ、
 人の思い出と遊びはじめるつもりなのだろうな。

 半年ほど前に、ぼくは現実に
 「おじいちゃん」になったので、目の前の「まご」に
 なにをプレゼントしてやろうか
 ということばかり考えている。
 おもちゃや洋服だけでなく、
 なにかおいしいおやつでもなく、
 なにをあげようと考えるときに、
 「とるにたらない」ものや、「とるにたらない」ことや、
 「とるにたらない」話を、
 たくさんあげたいなぁと思った。
 ほんとうに「とるにたらない」ものごとが、
 「おじいちゃんのほとんどぜんぶなんだよ」と言って
 いっしょに笑いたいと思った。だって、
 おそらく、ぼくはほんとうに
 「とるにたらないもの」でできているんだからね。

 いまは赤ん坊の「まご」も、おそらく、
 じぶんが「おばあちゃん」になったころに、
 そうしようと思うんだろうな。
 この本、そのときまで、なくさないでいられるかな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
わかってたけど、ずいぶん長めの文になってしまいました。


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